運転免許証も自動車教習所も不要になる日…「ACES」は社会システムを変える
Business Journal2019年1月18日 21時0分

 このようなことを書くと、「あなたは欧米かぶれだ」といわれそうだが、決してそうではない。米国や英国に行って、自動車やIT業界の人たちと会話中に「エイシス」という言葉が聞こえたとしても、その意味がわからなければ聞き返すか、わからないまま帰国してしまうことになる。しかも最新のトレンドを表す言葉だからこそ、辞書にはおそらく載っていない。日本で使われているアルファベットの略語が海外でも通用すると思いがちだが、通用しないということを、私の失敗談を踏まえて指摘しているのだ。

●ACESとは何か

 さて、クルマのトレンドを表すACESは、これまでの内燃エンジンのクルマとはまったく違う概念であり、これからのクルマのあり方を示している。Aの自動運転車(Autonomous Vehicle)は、ドライバーがハンドルを握らなくても自動的に運転できる未来のクルマを指す。自動運転車は2020年にも実用化が始まるとの報道もあるが、クルマの操作法を知らなくても乗れるなら、運転免許はいらないだろう。そうなると自動車教習所もなくなり、免許を発行する公安委員会も不要になる。技術だけではなく、法律を含め社会のシステムまで大きな影響を及ぼすことになる。だからこそ、普及するまでには相当な時間がかかる。業界では2030年か40年頃とみている。

「つながる」を意味するConnectivityは、クルマとクルマをつなげることで横から飛び出してきそうなクルマを検知することができ、渋滞情報をリアルタイムで知ることで最適なルートを示してくれる。加えて、欧州で始まったeCall(イーコール)サービスも提供してくれる。このサービスは、自分の車が大きな事故を起こし、たとえドライバーの意識がなくても、事故が起きたことをサービスセンターへ自動的に知らせ、即座にロードサービスが駆け付けてくれるサービスだ。助からない命が助かる場合がある。自動運転と組み合わせて、一人のドライバーで数台のトラックを連れて走行することもできる。まさにドライバー不足を解決する手段になりうる。

 Electric Vehicle(EV)は電気自動車。リチウムイオン電池の進歩がITや半導体の進歩ほど早くないため、いまだに電気自動車の欠点は走行距離が短いことになっているが、電池の進歩が進むと1回の充電で500km走行することは、もはや夢ではない。昨年12月24日付日本経済新聞によれば、2020年代前半に実現可能になるという。EVは走行時に二酸化炭素を排出しないため環境にやさしい。加えて、燃費(電費)も安い。水素自動車も一時話題になったが、水素ステーションの設置にコストがかかり、さらに水素の燃費はガソリン車より少し良い程度にとどまっている。

 Sharing(シェアリング)は、自家用車の稼働率が4.8%しかないという試算があるなかで、この稼働率をもっと上げようというトレンドだ。代表的なサービスとして、ウーバーなどがある。たとえば、暇を持て余しているクルマの所有者に対して、他人を乗せて運ぶという仕事を与えることで、稼働率を上げる。このビジネスモデルは、ドライバーも乗車する人も予め登録しておき、配車アプリを使ってマッチングさせるというもの。

 ACESのなかでテクノロジーと密接に関係する言葉は、ACEである。Sはビジネスモデルやサービスに関係し、自動車関係以外のテクノロジー業界ではあまり問題にされていない。
(文=津田建二/国際技術ジャーナリスト)
(記事部分引用)
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※そういえば「日産」はいち早くこれを立ち上げ、ルノーはそれが欲しかったのでは???







文章が読めない「新聞読まない人」の末路
PRESIDENT Online2019年01月06日 11:15 
Siri、コンピュータ将棋ソフト、お掃除ロボットにスマートスピーカーなど、AI(人工知能)技術は身近なものとなっている。だが、人間がAIの判断に依存することで、考える力を失ってしまう世代が生まれてくるという。いま、どのような教育が必要なのか。
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■新聞を読まない人の、おそるべき傾向
【新井】これからAI時代が本格的に到来する中、生まれたときからAIの判断と推薦によって生きることになる世代を、私は「デジタルネーティブ」ではなく「AIネーティブ」と名付けています。
例えば、YouTubeで電車の動画を見ていると、次はこれを見たらいいとどんどん推薦してきますね。子どもは自分から何かを探すわけではなく、AIに推薦されたことに無意識に従って生きていく。そんな子どもたちがこれから育ってくるのです。

【佐藤】タブレット型学習法によく似ていますね。

【新井】ええ。AIネーティブの子どもたちが育つとき、自分が本当に何をしたいのか。自分で切実に欲求する前に、与えられたものだけを消費してしまうことになる。そうやって育った子どもたちが将来的にクリエーティビティを発揮し、生産者として必要な真実の判断ができるのか。私は難しいように思うのです。

【佐藤】わかります。AIは統治者にとっては非常に有利なツールでもあります。ですから、統治者側の子どもたちには、そういったものには一切触れさせない一方で、統治される側のほうにはAI時代というかたちで浸透させていく。実際、新聞を読まない人たち、つまり、SNSに依存する度合いが強い人たちほど現政権を支持する傾向が高くなっています。

【新井】本当にそうですね。AIはお金を持っている人たちが制御しやすいツールなのです。どのように正解データをつくるかで、AIの動き方は決まってくる。それを客観的で公平なものだと思っていると本当に不利になります。

【佐藤】おっしゃること、よくわかります。AIに慣らされてしまえば、成立しえない非論理を、論理的だと思ってしまうことがある。

最近、私が教えている神学部の学生たちに見せたちょっと面白い映画があります。それが1944年の11月につくられた日本の国策映画『雷撃隊出動』です。

【新井】レイテ沖海戦の後、硫黄島の戦いよりは前の時期ですね。

【佐藤】映画の登場人物が、アメリカ人捕虜の話を聞いて、「あいつらは飛行機も軍艦も兵器も兵もいい、大なるものが小なるものに劣るということは成り立たないというんだ。そしてまた質も優れている、新兵器もいろいろある。そんなアメリカが絶対に負ける道理はないというんだ」と嘆く。

すると、仲間が「こっちが1人死んで、あいつらを10人殺せばいいんだ。それ以外にこの戦争に勝つ道はない」という。確かにそうだと納得して、最後は雷撃機を駆って敵機動部隊に次々と体当たりしていくところで終わりになるのです。つまり、負け戦を前提とした映画です。これがなぜ戦意高揚映画になるのか。そこを考えろと学生に課題を出したのです。そうすると、ある優秀な学生が「先生、これは死の美学ですね」と指摘した。つまり、いかにきれいに負けるか。玉砕の論理になっているというのです。

合理的に考えたら、絶対に勝てないけれど、気合とか精神力といった主観的な願望によって客観情勢は変わる。精神の力を極大にすれば絶対に勝つという論理です。

(写真左)1944年公開の開戦3周年記念映画『雷撃隊出動』(東宝)。魚雷を積んで敵空母へ突入する雷撃隊を描いた。
(写真右)佐藤氏が新井氏にスマホで動画を見せている様子。

■私が戦時中の映画を、学生に見せるわけ
【新井】この映画を見た当時の人たちが、1人で10人を殺さないとこの戦争は勝てないのか、というふうに思ってくれればよかったんですけど。

【佐藤】しかし、そうはならなかった。完全に非論理的なものを、論理的だと思ってしまう。これと同じことが、今あちらこちらに忍び込んでいる感じがするのです。

【新井】そういえば、2018年夏に考えさせられるニュースがありましたね。2020年の東京オリンピックのとき、猛暑になったらどうするのかという話です。その対策として、打ち水とかよしずといった、日本のコンテンツによっておもてなしをするという。

しかし、その前に考えるべきことは、40℃近い猛暑の中、マラソンランナーを走らせることが適切なのかどうか。国際基準に照らし合わせれば、不適切となってしまうはずです。猛暑の場合、オリンピックのマラソンを中止するというのは、死者を出さないためにも、正しい判断だと思うのです。

【佐藤】しかし、オリンピックをやることが生命よりも重要な価値となれば、話は違ってくる。

国立情報学研究所教授 新井紀子氏

【新井】そう。だからこそ、何事においてもグローバルに展開をするときに、精神論というものは、もう成立しないんです。

【佐藤】こういった非論理なことを、おかしなことだと自分で気付かなければならない。そのために、我々はきちんと読解力を身につけないといけないのです。ですから、私はわざと戦時中の映画を学生たちに見せています。戦前の軍のイデオロギーに基づいた教育を繰り返し受けて育った人と、さきほどのAIネーティブの話は似ているように見えます。

【新井】ある意味、1つの価値観の中で、純粋培養で育ってしまう。それがAIネーティブの問題点の1つでもあります。GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)は、明らかに自分たちのサービスを消費してくれるAIネーティブになってほしいと思っていますから。

【佐藤】資本の論理からすると、当然の話ですね。

【新井】それがまさにリバタリアン(完全自由主義者)による資本主義が、これ以上長続きしなくなる理由でもあるのです。資本主義というものは細く長く搾取することに意味があり、今のように一気に搾取してしまうと人材が駄目になって、資本主義が終わってしまう。最近、そんなことをヘッジファンドの有力者たちが言い始めています。

それは、ある意味、リバタリアンやGAFAがリスクになっているという認識だと思うのです。今は誰もGAFAが滅びるなんて言いませんが、私はGAFAが滅ぶ日は遠からずくると考えています。世界の有力者は資本主義を延命させるためにも、GAFAを滅ぼさなければいけないと思っている。

GAFAが提供するものは、普通の資本主義、つまり、生産物を売り買いするという正常系の経済学的な資本主義から考えると、ありえない話なのです。そもそも全然モノを売っていないのに、我々をずっとスマホ漬けにして、搾取してくる。

【佐藤】その結果、消費も非常にバーチャルな仕方になっています。

【新井】自己承認欲求や自己愛を心理学的にうまく操作されながら、消費者はずっとタダ働きをさせられて、わけのわからない消費をさせられてしまう。

それはどう考えても資本主義にとってメリットがあるとは思えない。どこかでこれをやめなければならない。そのことを一番よく理解しているのは、フランスのマクロン大統領とカナダのトルドー首相です。とくにマクロンは、本当に微に入り細に入りよくわかっている。それこそ、哲学や数学といった文理の教養を重視するグランゼコール(フランスのエリート教育機関)の偉さだと思うのです。ある意味、国民国家を守るために、どうやってこうしたテクノロジーを制御するのか。そんな難しい課題にまじめに向かい合っているのは、マクロンだけでしょう。
■このままでは、資本主義が終わる
【佐藤】少し別の切り口のところから見ると、私はマルクス経済学をもう1回見直さなければならないと思っています。マルクスの『資本論』研究の第一人者である宇野弘蔵は、資本主義社会は、労働力を商品化させることで、あたかも永続的に繰り返すがごときシステムとなると言います。そのためにも、3つの要素が賃金の中に含まれている必要がある。

作家・元外務省主任分析官 佐藤 優氏

まず1番目は、食費、被服代、家賃、ちょっとしたレジャーといった、労働するためのエネルギーを蓄えるためのお金。2番目は、次の世代の労働者をつくり出すためにパートナーを見つけたり、家族を養うのに必要なお金。3番目は、技術革新に対応するための自己学習のためのお金。

資本主義を持続的に発展させていくための秘訣はそこにあるわけで、賃金が極端に下がり、この3つの要素を満たせなくなれば、プロレタリアートが成り立たなくなり、資本主義も成り立たなくなります。

【新井】マルクスのその考え方は、非常に普遍性が高くて、まさに資本主義をどうすれば持続できるかがわかります。

具体的なことを申し上げると、私の周りでも、多くの大学生が修士を出るまでに600万円くらいの借金をしています。もし大学院生の男女が結婚したら、その瞬間に両方で1000万円以上の借金ができることになる。20代で1000万円以上の借金があったとしたら、子どもなんて怖くてつくれません。

【佐藤】しかも、本来はそんなお金は貸してはいけませんよね。バブル時の不良債権のようです。

【新井】その状況で、3人子どもを産むなんて絶対に無理なのです。しかも、仕事が非常に不安定な状況で、稼げる見込みもない。では、そうしたお金が稼げないような人たちが今、何を言い始めているのか。結婚することと子どもを持つこと、家や車を持つこと。このコストだけで1億円くらいかかる。これを全部あきらめれば、このコストからフリーになれると言っているのです。それをプロレタリアートに言われたら、もう資本主義は終わるのです。

【佐藤】それはもうプロレタリアートではなくなるということですよね。

【新井】そう。そうすると、もう本当に国民国家は終わるのです。結婚はしません、家は持ちません、車などのレジャー消費はしません。それで、勉強はしません、自由になりますと言われたら、それはもう終わるのですよ(笑)。

【佐藤】そう言えば、プライドを満たすことができるのでしょう。車を持てない、家族を持てないということではなく、持たない。それが主体的な選択だということです。そうすれば、プライドを満足させることができる。

■AIに負けない子育て法
【新井】それがある意味、妙な革命なんだなと思ったのです。

【佐藤】ああ、それは思いますね。文学のほうで見ると、その辺の革命を一番よく表しているのは、作家の柚木麻子さんですね。例えば、『伊藤くん AtoE』とか。

【新井】『ポトスライムの舟』で芥川賞を受賞した津村記久子さんもそうですね。あの辺の人たちの小説を読んでいると、まさにそうだと思います。今のプロレタリアート文学は『蟹工船』ではなくて、『ポトスライムの舟』なのです。

【佐藤】村田沙耶香さんの『コンビニ人間』、窪美澄さんの『アカガミ』など、女性作家たちが描くものは非常にリアルだと思いますね。

【新井】それは、彼女たちの世代が一番ひどい目に遭っているからでしょう。

だから、今そういう文学が出てきているのでしょう。そのくらい、GAFAによって、今とてつもない搾取が行われている。おそらく、今一番大きな危機に直面しているのが、国民国家です。将来的に人口減少は進み、再配分も成り立たなくなるでしょう。しかし、それを国民国家は阻むことができない。

【佐藤】そのとおりです。

【新井】今の状況を考えると、将来、日本でAIネーティブたちが子育てしたとき、本物の社会や本物の人間とコミュニケーションできるかどうか、大きな懸念を持っています。危機に直面する経験がなければ、問題解決することはできません。お腹が減る前に、おいしいものが次々と出てくる世の中では、渇望もなくなってしまうのです。

【佐藤】食欲も性欲も、そういったものすべてが飼い慣らされてしまうわけですね。

【新井】そうです。もし人間がAIらしくなれば、AIには必ず負けます。AIにできることは基本的には四則演算で、AIには意味を理解できないという弱点があります。オックスフォード大学の研究チームが発表した10~20年後に残る仕事、なくなる仕事のリストを見ると、仕事がマニュアル化されやすいものがAIによって代替されやすく、コミュニケーション能力や理解力を求められる仕事が残りそうです。つまり、読解力こそがAIに代替されない能力なのです。

その読解力をどうやって身につけていくかといったら、言語という人工物が発明される前の、ホモ・サピエンスになる前の段階に戻って、感受性豊かな敏感期に、さまざまな経験をさせる。暑い日にお母さんと一緒に歩いてくたびれて、でも歩きたくて、それで10歩歩くと、しゃがんで虫を見つけたり、石とかを拾う。あの石じゃなくて、この石が好きだとか、あそこに光っているのはタマムシだ、とか。それに付き合うのは親として本当に大変なのですが、そうした人を見ると、私は必ず褒めます。そして、絶対にスマートフォンを渡さない。

重要なのは、人間として育てる前に類人猿としてきちんと育てることです。それは人間が個体発生ではなく系統発生だから。子どもにAI人材になろうとか、プログラミングをやろうとか言う前に、まず類人猿にすることです。それから人間になっていくことが大事だと考えています。

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新井紀子(あらい・のりこ)国立情報学研究所教授

同社会共有知研究センター長。一般社団法人「教育のための科学研究所」代表理事・所長。一橋大学法学部およびイリノイ大学数学科卒業、イリノイ大学大学院数学研究科単位取得退学。東京工業大学より博士を取得。専門は数理論理学。著書に『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』がある。

佐藤 優(さとう・まさる)作家・元外務省主任分析官

1960年生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本大使館勤務などを経て、作家に。『国家の罠』でデビュー、『自壊する帝国』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『国家論』『私のマルクス』『世界史の極意』『神学の思考』など著書多数。

(記事引用)







「パプリカ」5人のフーリン(Foorin)
米津玄師プロデュース楽曲「パプリカ」5人の小学生が歌うNHKの2020応援ソング
NHKは、米津玄師が作詞・作曲、プロデュースによる楽曲「パプリカ」が2018年8月15日(水)より発売される。
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「パプリカ」は、オーディションで選ばれた5人の小学生による新しいユニット「フーリン(Foorin)」が歌う、2020年のオリンピック開催年に向けた応援ソング。NHKでは、「フーリン(Foorin)」が歌う「パプリカ」を8月~9月のNHK「みんなのうた」で放送するなど、プロジェクトとして多くの人に参加してもらうよう展開するという。なお、同プロジェクトは「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」に「東京2020公認プログラム」として認証されている。

2018年8月15日(水)にCDリリースされる「パプリカ」は初回生産限定盤、通常盤の2種類。初回生産限定盤には、7インチの紙ジャケットにポスター型歌詞カードと「みんなのうた」の楽譜、DVDが付属する。DVDには、フーリン(Foorin)が自然の中で「パプリカ」を元気に踊るミュージックビデオをはじめ、振り付けを担当した辻本知彦と菅原小春によるティーチャー ビデオ、「パプリカ」の世界観を表したミュージックビデオ2と、計3タイプのDVDが収録される。



なお米津は、2018年3月に「Lemon」を発表。ミュージックビデオが1億回再生を突破しているだけでなく、日本レコード協会より史上最速での100万ダウンロード認定を受けた。2018年上半期の音楽チャートを席捲している彼が、次に行う大プロジェクトとなる今回。同楽曲発表にあたり、以下のようなコメントを寄せた。

「子どものころを思い返すことがここ最近の音楽活動に於おいて、重要なテーマになっていたところに、ダイレクトに子どもへ向けた音楽を作ることになりました。子どもたちが素直に楽しめるものを作るためには、子どもの目線で生活を省みつつ、まず子どもを舐なめないところから始めるべきだと思いました。この曲を聴いた子どもたちが、小さな世界を元気に生きていく為ための糧になりますように。」

【詳細】
米津玄師プロデュース楽曲「パプリカ」
発売日:2018年8月15日(水)
・初回限定:7インチ紙ジャケ+CD+DVD+みんなのうた楽譜+ポスター型歌詞カード 1,500(税込)
・通常盤(初回仕様):CD+みんなのうた楽譜 700円(税込)
<収録内容>
-CD-
1.パプリカ
2.パプリカ(Instrumental)
-DVD-※初回限定のみ収録
1. パプリカ Music Video
2. パプリカ Teacher Video
3. パプリカ Music Video 2
(記事引用)






即位の礼「大嘗祭」
即位の礼で天皇が着座する玉座「高御座」
即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、日本の天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを国の内外に示す(即位)一連の国事行為たる儀式で、最高の皇室儀礼。中心儀式の即位礼正殿の儀は、諸外国における戴冠式、即位式にあたる。

即位の礼後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われ、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。

皇嗣が新たに皇位に就くことを「即位」というが、古代では神へ寿詞(よごと)を奏上し、神璽を献納する事を中心とした、簡素なものであったが、平安時代に「皇位の継承」である「践祚」と「即位」が別の儀式として行われるようになり、唐風の儀式が江戸時代まで続いた。即位にかかる儀式全般を即位儀礼というが、これは皇嗣が即位する「践祚の儀」と即位したことを内外に宣下する「即位の礼」に分かれる。

明治時代の1889年(明治12年)に制定された旧「皇室典範」に属する登極令によって儀式の内容が細かく規定されたが、1947年(昭和22年)に、同令は旧皇室典範と共に廃止となった為、現行の新「皇室典範」でも即位の礼を行う定めがあるにも拘らず、内容についての具体的規定は無い。そのため、大嘗祭をどの様に行うのか、昭和天皇の崩御前後から、様々な(政治・思想的)立場から論議が起きた。

明治維新による近代化以降の現代に至る、明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と、他の重要な「皇室慶弔行事」と同様に、即位の礼の挙行日は、その年限りの祝日となることが慣例となっている。大日本帝国憲法下で即位の礼を行った大正天皇と昭和天皇の時には勅令により、日本国憲法下で即位の礼を行った今上天皇の即位の礼の時は法律によって、祝日として定められた。

明治以前の即位の礼
上代は践祚と即位との区別がなかったが、桓武天皇からは、践祚後に日を隔てて即位式を行う例ができ、貞観儀式の制定に至り区別することになった。儀式内容も元日の朝賀に準じて唐風様式で行われるようになった。装束は律令制度上最高の礼装である礼服を用いた。

孝明天皇の冕冠。即位礼にのみ戴冠した。

孝明天皇の袞衣。天皇の礼服である。
 
中国皇帝を真似て天皇が南面して座し、親王以下無位に至るまで、諸臣が朝庭に北面して君臣関係を確認した。ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ、殿上の擬侍従(平安初期には親王がつとめたので上首を親王代とよび、次席と少納言の3人の構成で左右計6人)に内弁(上卿に相当)・外弁(一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列はなくなった。なお外弁の内の一人が宣命使となる。中世から近世にかけて外弁は大納言・中納言・参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿・官人しか即位式に参加せず、その役目を持たない公卿は大臣であっても、高御座の左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった。

1016年(長和5年)2月7日に行われた後一条天皇の即位式の様子は、当時の朝廷の重鎮であった大納言・藤原実資の日記『小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式の参加者ではなく、見物者として観察出来たことによるものであった。なお、摂政は平安時代後期(堀河天皇以後)以後には高御座の中層または下層、関白は高御座の後方東側(南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった(後一条天皇の摂政であった藤原道長もこの位置にいるため、初期の摂政も同様であった可能性が高い)。

儀典の会場は、平安時代を通じ、原則的に、朝堂院(八省院)の大極殿が用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇は豐楽殿を使用した。病気のため冷泉天皇は内裏の紫宸殿で即位し、大極殿焼失のため後三条天皇は太政官庁、安徳天皇は内裏の紫宸殿を用いた。大極殿は1176年(安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期の後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇は例外)は、太政官庁を使用した。応仁の乱後の後柏原天皇は即位礼の経費調達が困難なため、20年にわたり延引を重ねたが、この天皇の即位礼以後は、里内裏の紫宸殿を使用することとなり、近代に及んだ。太政官庁は後柏原天皇の即位の準備が始まった文亀元年の段階ですでに存在せず、再建の予定もなかった。

中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀式も執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。

皇室行事の中でも最も重要な儀式の一つであるが、戦国時代の後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫しており、1500年(明応9年)に即位したにも拘らず、儀式を行えず、1521年(大永元年)、室町幕府などからの援助を元に、即位22年目にして即位礼を行った。直接のきっかけは幕府が二万疋を献じたことであるが、実際には文亀年間以来それまでに何度か幕府から献じられていた費用および、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具が蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇は後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位が延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用の拠出は叶わず、毛利元就の援助を得て挙行した。しかし、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさずこの儀式は挙行されている。

なお、宮廷儀礼は平安時代より雑人(庶民)の見物の対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人が乱入し、これ以後も公家日記に、見物人のため儀式に支障をきたしていたことがうかがわれる記事が散見される。 後柏原天皇即位に際しても「雲霞の如く」見物人が集まったという。こうした伝統を受けて江戸時代には、切手札(観覧券のようなもの)を買うことで、一般庶民も京都御所での即位の儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している[3]。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇のお見送りだけに参内した野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般の公家の多くが儀式を見物できなかったこと、にもかかわらず幕府の使者は非公式ながら紫宸殿に上げてもらって見物できたことに憤慨している。

明治維新により東京奠都し、天皇が国家の最高指導者に位置付けられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨規定されていた為、大正天皇・昭和天皇の御大礼は平安様式に則り京都御所にて執り行われた。

1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われた。この為、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。

儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮へ勅使が遣わせられる。時期は登極令により春から秋とされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。

即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯、皇后は十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰・鏡等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。

明治天皇の即位の礼・大嘗祭

明治天皇の伊勢神宮親謁
第122代・明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、第121代・孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承し、第122代天皇となった。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、徳川慶喜による(徳川家第15代かつ最後の征夷大将軍)大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。

明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使用された高御座は安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われていたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服[4]は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。

慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。

明治の大礼…総費用4万3800両
伊勢神宮へ勅使発遣の儀 慶応4年8月21日(1868年10月6日)
神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 同年8月22日(同年10月7日)
紫宸殿・清涼殿御殿洗 同年8月23日(同年10月8日)
即位礼 同年8月27日(同年10月12日)
大嘗祭 明治4年11月17日(1871年12月28日)東京で行われた。
大正天皇の即位の礼・大嘗祭

大正天皇の即位の礼
旧皇室典範・登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は懐妊中であった(後に第四皇男子の澄宮崇仁親王を出産)ために欠席した。

この時に貴族院書記官長を務めていた柳田國男も大正天皇の御大礼に出仕しており、後に大嘗祭についての提言を残している[5]。礼服は復活せず、束帯が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている。明治よりも神事性が後退したかわりに、賢所大前の儀が新たに制定され、即位の前提に神道があることを強調する儀式構成になった。男性の束帯は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女性の十二単は近世以前の資料によりつつも、松本真弦らが中心となって、新たに定められた。

大正の大礼…総予算853万8357円(当時の金額)
即位の礼 1915年(大正4年)11月10日
大嘗祭 同年11月14日・15日
即位礼ノ勅語

昭和天皇の即位の礼・大嘗祭

1928年11月、即位の礼の昭和天皇
1928年(昭和3年)11月6日、第124代・昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車(鳳輦)・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。

11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱した。

天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。

悠紀田は滋賀県野洲郡三上村、主基田は福岡県早良郡脇山村から選ばれ、3月に発表された。昭和の大礼の総予算は当時の金額で1968万3637円50銭5厘という。

即位礼ノ勅語 ※漢字は常用漢字に改めた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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来年5月1日の天皇の代替わりまであと半年。宮内庁では皇位継承に伴う皇室の儀式「大嘗祭だいじょうさい」の準備が進んでいる。代替わり直後にカメの甲羅を使う占いの儀式を控えており、東京・小笠原で希少なアオウミガメの甲羅を確保した。年度内に加工を終えるため、近く委託業者を選定する。

 占いの儀式は来年5月にも行われる「斎田点定さいでんてんていの儀」。カメの甲羅を焼き、ひび割れの具合をみる古来の占い「亀卜きぼく」で、同11月に皇居で行われる大嘗祭の中心儀式「大嘗宮だいじょうきゅうの儀」に使う新穀を収穫する都道府県を東西から一つずつ選ぶ。(読売新聞)







偽薬メーカー代表「信じれば同等の効能」 
PRESIDENT Online2018年12月23日 11:15
■薬品メーカーでは、強い反発
見た目は薬そっくりの直径8ミリメートルの丸い錠剤だが、中身はなんの薬理作用もない還元麦芽糖(甘味料)。偽物の薬、いわゆるプラセボと言われる偽薬だ。

課題は周知が進んでいないこと。

このプラセボを作り、販売しているのが滋賀県に会社を構えるプラセボ製薬の水口直樹代表(32歳)だ。

「偽薬よりも“プラセボ効果”という名前のほうが有名ですね。実際には効果のない偽薬でも、本物だと信じ込んで飲むことで本物の薬と同じ効能が出るというものです」

例えば「これは眠くなる薬です」と渡されて偽薬を飲めば、実際には眠くなる成分が入っていなくても眠気を感じる人が出てくるのだという。

臨床の現場では、プラセボ効果を狙うというよりも、通常の薬剤を飲むグループとプラセボを飲むグループに分け、薬剤自体の効果がどの程度あるのか測るために使われるのが一般的だ。しかし水口代表は、薬を飲んで安心した気分にさせる商品としてプラセボを製造・販売しているという。

「介護の現場では、認知症の高齢者が薬を飲んだことを忘れ、一日に何度も薬を飲もうとするといった問題が起こっています。職員が投薬を断るとそこで軋轢が生まれ、双方が疲弊してしまう。そこで何かできないかと思いついたのが、プラセボだったのです。プラセボならリスクなくそういった関係を解決できると思いました」

メトグリーン社の“サティスフェイク”など、臨床の現場向けに業務用のプラセボが製造・販売されることはあるが、誰でも手に取れる形でプラセボを販売するという試みはプラセボ製薬が国内初だという。しかしプラセボも万能ではない。外傷などには効果が薄く、効果的にプラセボが利用できるのは眠気や痛みという脳内の現象がメインだ。

プラセボ効果は長年、患者側が「薬を本物だと思い込んでいること」が条件だと思われてきたが、近年の研究では偽薬だと明示してからプラセボを飲んでも一定の効果があることがわかってきたという。
「がんに伴う倦怠感に悩む人が、プラセボであることを明示されながらプラセボを服用したところ、倦怠感が軽減したという報告があります。副作用の心配が少なく、安価なプラセボは医療の選択肢となりうる」

水口代表は「売り上げは年々上がっている」と語るが、まだまだ周知が足りず厳しい戦いを強いられている。

プラセボ製薬の主な顧客は老人ホームやデイサービス、自宅で介護を行う一般家庭など。しかし介護の現場では「患者をだましていいのだろうか」という倫理的な懸念があり導入に至らないケースや、店頭での販売もプラセボの特性上、扱いが難しく、思うようには進んでいないという。

しかし水口代表の元には心因性のあがり症や頻尿などの問題を抱えた子供の親からも注文があり、少しずつ活動の成果は見えてきている。

「現在、高齢者が多数の薬剤を同時に摂取するポリファーマシーを厚生労働省が問題視しており、多剤服用を抑えるアナウンスが出ています。そういった問題にも、一部を置換するような形でプラセボの活用が考えられます」

また、プラセボ効果によって起こるのはメリットだけではない。ノセボ効果という、本物の薬と同様に副作用も起こりうることも研究により判明している。扱い方によって、ただの錠剤が毒にもなりうる。

もともとは大手薬品メーカーに勤務していた水口代表。会社の製品会議でプラセボを提案したが、反応は芳しくなかった。「同年代の社員からは支持を得ていたのですが、上層部の支持が得られず社内では製品化ができず、独立に至りました」。偽物であるプラセボを、薬品メーカーが販売することに強い反発があったのだという。

「プラセボが医療の一環になりうる、ということはまだまだ周知が進んでおらず、厳しい状況です。業界全体のことを考えれば、医療メーカーが薬品名を印刷した、本物の薬のレプリカのようなプラセボを売り出すことも必要になるのでは、と思っています」

(橘 厚樹 撮影=橘 厚樹)



プラセボ製薬株式会社
薬局等における店頭販売チャネルの開拓を目指しています
更新日:2018/06/27
https://eiicon.net/companies/199  eiicon company (エイコンカンパニー)
代表取締役 水口 直樹
京都大学薬学部 卒業 
京都大学大学院薬学研究科 修了(修士)
自社特徴
プラセボ(偽薬)として用いる食品を販売しています。 

医療と介護。日本の根幹を揺るがす社会保障問題の核心は、畢竟、これらに多大なお金がかかる点にあります。 

安価なプラセボは持続可能な医療・介護システムの構築に必要不可欠であると当社では考えています。

次ページ プラセボは医療の選択肢となりうる
①プラセボを活用した介護ケアの一般化 
介護者の負担を軽減しつつ被介護者の気持ちに寄り添うケア手法を紹介し、それを実践するための商品としてプラセボ(偽薬)の利用を一般化させたいと思っています。 

②薬剤師による地域進出のきっかけづくり 
これからの薬局のあり方として示された「健康サポート薬局」は、その要件として薬剤師による「地域への積極的な進出」や「他業種連携」が謳われています。薬剤師が地域や他職種との接点を持つきっかけとしてプラセボ(偽薬)を有効活用していただきたいと考えています。 

③プラセボの医療応用 
「だまし」に伴うネガティブなイメージを払拭し、高齢者医療における必要不可欠な選択肢としてプラセボの地位向上を図りたいと考えています。 

④持続可能な医療システムの構築 
次世代へ負担を先送りする社会システムは持続可能ではありません。広くプラセボを活用した医療のあり方は、皆に受け容れられるか否かはともかく、少なくとも現状の医療より持続可能な医療システムに近いものであろうと思われます。



日本人アーティストはなぜ世界で通用しないのか?
<芸術起業論> - 村上 隆
幻冬舎plus2018年12月07日 06:00
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海外で高く評価され、作品が高く取引される村上隆。彼は、他のアーティストと何が大きく違ったのか? 稀代の芸術家が熱い情熱と冷静な分析を持って語った名著『芸術起業論』『芸術闘争論』の待望の文庫化を記念して、まず『芸術起業論』の冒頭をお届けします。

芸術には、世界基準の戦略が必要である

 なぜ、これまで、日本人アーティストは、片手で数えるほどしか世界で通用しなかったのでしょうか。

 単純です。

「欧米の芸術の世界のルールをふまえていなかったから」なのです。

 欧米の芸術の世界は、確固たる不文律が存在しており、ガチガチに整備されております。

 そのルールに沿わない作品は「評価の対象外」となり、芸術とは受けとめられません。

 ぼくは欧米のアーティストと互角に勝負するために、欧米のアートの構造をしつこく分析しました。

 仮説と検証の連続から芸術制作マネジメントの技術も磨いてきました。

 アートピースとは、作り方や売り方や伝え方を知らなければ生みだせないものなのです。

 欧米の芸術の世界に挑戦する人のやるべきことは、運動や娯楽で世界に挑戦する人のやるべきことと変わりません。

 勉強や訓練や分析や実行や検証を重ねてゆき、ルールをふまえた他人との競争の中で最高の芸を見せてゆくのが、アーティストという存在なのです。

 日本の美術の授業は、ただ「自由に作りなさい」と教えますが、この方針にしても、欧米の現代美術の世界で勝ち抜くためには害になりかねません。

 自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません。

 欧米の美術の文脈の下地を把握しなければ、美術の本場に「ルールの違う戦い」を挑むことになり、戦う以前に相手にされないのです。

 欧米を中心にした芸術の世界で取引されているのは、人の心です。

 芸術の世界に踏みこめば踏みこむほど、アーティストの目的は人の心の救済にあるのではないかと感じるようになりましたが、それなら、自分の欲望をはっきりさせなければなりません。

 芸術家は、欲望とどうつきあうのかを強く打ちださなければならないのです。

 ものが欲しい。カネが欲しい。権力が欲しい。女にモテたい。出世をしたい。

 欲望の強さは芸術制作の邪魔にはなりません。むしろ問題は日本の芸術家に強烈な欲望がないことです。

 芸術家になる根拠の濃度を高めれば、やりたいことがはっきりします。

 携帯電話やガングロや下着売りや少女売春などという近年の日本固有の事象や風俗を追いかけるだけでは、外国人への衝撃も与えられません。もちろん既存のアートフォームのおさらいだけでは歯し牙がにもかけてもらえません。

 ニュースは、個人の「業」から出るものです。

 自分自身のドロドロした部分を見つめなければ、世界に認められる作品なんてできません。

 欲望の方向が見つかる。

 走りだしはじめる。

 あとはもう長期戦を覚悟すべきです。

 時間をかけてやるしかありませんが、それに加えて芸術制作を続けるにはそのための資金がそれなりに必要だということは最低限でも理解しておいた方がいいでしょう。

 日本人の芸術家は、商売意識が薄く、芸術を純粋無む垢くに信じる姿勢をとりがちですが、だったら趣味人で終わっていればいいんです。

 芸術の力を生かしたいなら、金銭が要るという事実から、どうして目を逸らしてしまうのでしょう。

 ぼくは、三十六歳になる頃までコンビニの裏から賞味期限の切れた弁当をもらってくるような、お金のない時期を経験しました。

 酒屋やスーパーマーケットの裏から梱こん包ぽう用の段ボールをもらわなければ、作品ができても梱包発送ができなかったのです。

 お金のない時の動きというのはそういうものです。何をするにも異様に時間がかかる。そういう時間を縮めるために金銭の力が必要になるのです。

 金銭があれば、制作する時間の短縮を買えます。

 理想のシナリオを手元にひきよせられます。でもどうしても手に入らない時もある。その時は時間で稼ぐしかないのも事実です。

 芸術には金銭と時間が必要という当たり前のことを貧乏の中で実感したからこそ、ぼくはお金にはこだわるようになりました。たまに「芸術家のクセにお金にうるさい」と批判されますがわからない奴にはわからないのだ! と思ってきました。

 現代社会の競争原理の中で生計を立てるなら、芸術の世界であれ戦略は欠かせません。

 作品を作るための場所や資金の確保も必要です。

 何があっても作品を作り続けたいなら、お金を儲もうけて生き残らなければならないのです。芸術家も一般社会を知るべきです。

 若いアーティスト志望者がまず認識するべきは、アーティストも一人の社会人であり、実社会でタフに生き抜くべきだということです。タフネスこそが芸術家の勝つ秘訣です。

 社会の中で天才として生き続けるのは、ほとんど無理、不可能性が高いことです。

 スポーツ選手が綿密な計画と鍛練を基礎におくように、芸術家は美術史の分析から精神力の訓練に至るまで独創的な作品のための研究修業を毎日続けるべきです。

 突飛な発想を社会に着地させるバランスをあやまれば自分の身を吹き飛ばしかねません。

 率直な話、アーティストには充分な時間も金銭も用意されていません。

 正当な時間や報酬を得て作品を作るには、周囲と自分の関係を醒めた目で把握してゆかねばならないのです。

 芸術を生なり業わいにすると苦しく悔しい局面に立たされます。

 私の美しいものを作りたいという願望にしても、様々な障害が立ちはだかって、十数年間もの間、実現しにくいものだったのです。

 日本の美術大学は生計を立てる方法は教えてくれません。美術雑誌にも生き残る方法は掲載されていません。なぜか?

 ここにも理由はちゃんとあるのです。
(『芸術起業論』「第一章 芸術で起業するということ」より)

村上隆(むらかみ・たかし)
アーティスト。有限会社カイカイキキ代表。一九六二年東京に生まれる。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。アニメから日本画までを貫く日本独自の美意識を「スーパーフラット」としてコンセプト化し、現代美術の巨匠として世界で活躍している。
(記事引用)











発光現象「スティーブ」
gigazine2018年03月27日 13時00分 サイエンス
オーロラのような新種の発光現象「スティーブ」がアマチュア天文家によって発見される。

画像 太陽プロミネンス
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日本ではなかなか見ることはできませんが、極圏を中心とした高緯度地域でさまざまな条件がそろった時に光の帯が夜空に広がる「オーロラ」と呼ばれる現象は、幻想的さゆえに天体写真の対象として人気があります。このオーロラと同じく夜空に瞬く謎の発光現象「スティーブ」が、2015~2016年頃からアマチュア天文家の間で観測されていたことが、NASA(アメリカ航空宇宙局)によって発表されました。

Mystery of Purple Lights in Sky Solved With Citizen Scientists' Help | NASA
https://www.nasa.gov/feature/goddard/2018/mystery-of-purple-lights-in-sky-solved-with-help-from-citizen-scientists

カナダのレジーナに住むITエンジニアのノタニー・ブラッサさんは、2016年7月25日に夜空を見上げるとオーロラが出ていることに気づきました。ブラッサさんはあわててカメラを取りに行き、オーロラを撮影しましたが、薄紫色の光のリボンという普段と違う姿に気づきました。10代の頃から30年以上もカメラでオーロラを撮影してきたブラッサさんでしたが、自分が見ている薄紫色の光は今まで見たオーロラとは何かが違うと気づいたとのこと。

この謎の光を目撃したという報告は、ブラッサさん以外にも30人ほど行っていました。NASAと国立科学財団が後援を務めるアマチュア科学者によるオーロラ観測&追跡プロジェクト「オーロラサウルス」でも、オーロラに混じる不思議な紫色の光が話題となっていて、参加者の間では、2006年に公開されたCGアニメにちなんで「スティーブ」(Steve)と呼ばれていました。

アマチュア科学者たちは、オーロラサウルスを通じてNASAに連絡を取り、宇宙物理学者のエリザベス・マクドナルドさんに「スティーブ」の写真を送りました。マクドナルドさんは30以上の報告を見て、「スティーブ」が普通のオーロラとは違うものだということに気がつきました。しかし、他の科学者と相談しても、この現象の正体が一体何なのかは分からなかったとのこと。

太陽からは「太陽風」と呼ばれる荷電粒子のガスが地球に吹き付けています。地球の磁気の関係で高緯度にたまった荷電粒子が、大気中の分子と衝突し、発光することによって発生する現象がオーロラです。カーテンのように幅広い光の帯が特徴的で、色は緑や白、赤などさまざまです。

一方、「スティーブ」は非常に細い紫色の光のリボンが特徴です。さらに、紫色の光に重なるように、緑色の光の筋が数本流れる様子も確認されています。夜空を彩る発光現象という点では「スティーブ」とオーロラは同じように見えますが、姿や動きは全く違うものとなっています。

そこで、マクドナルドさんは「スティーブ」を調査するために、ESA(欧州宇宙機関)が打ち上げた地磁気観測衛星「SWARM」を利用して、宇宙からの観測を行いました。

その結果、「スティーブ」を形成する荷電粒子はオーロラのものと違う地磁気層に沿ったもので、極圏よりも比較的緯度の低い場所で発生しているということがわかりったとのこと。

さらに、「スティーブ」が「サブオーロラ帯イオンドリフト」(SAID)と呼ばれる現象と関連があるということが分かりました。SAIDは、地球の磁場や電場のとの関係で荷電粒子が東から西に高速で流れていく過程で粒子が高温になる現象ですが、SAIDが具体的にスティーブの発光現象にどのようにつながるかははっきりと分かっておらず、未知のプロセスがそこに眠っているとNASAはにらんでいます。

NASAは、この新しく発見された発光現象を「Strong Thermal Emission Velocity Enhancement」(強力な熱電子放出速度の増大)と名付けました。この名前の頭文字を並べると「STEVE」という略称になり、これは「スティーブ」を発見したアマチュア天文家たちに敬意を表したものとのことです。
(記事引用)










敗戦国である日本はなぜ「世界の強国」になれたのだろう?
=中国メディア2018年11月30日 22時12分 サーチナ
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 日本は太平洋戦争で敗戦し、国土の多くは焼け野原となった。しかし、敗戦からわずか20年ほどで東京五輪を開催し、さらに世界第2位の経済大国となったことは奇跡的な復興と認識されている。中国メディアの今日頭条は21日、敗戦国である日本は今や「世界の強国」であると主張し、日本が世界の強国になれた原因を分析する記事を掲載し、決定的な役割を果たした要因について分析した。

 日本と中国の間には暗い過去があるため、日本について快く思っていない中国人は少なからず存在する。しかし記事は、日本の食文化や科学技術、文化などは世界に認められているのも事実であると指摘し、歴史問題を別にして中国が日本から学べる点はたくさんあると論じた。

 続けて、日本が世界の強国になることができた理由は複数存在すると指摘しつつ、まず、「教育熱心」であることや「知的好奇心の高さ」を挙げた。日本では子供が幼いときから礼儀やマナーなどの教育がなされていて、高い民度を広く共有できていると指摘したほか、高齢者になっても生涯学習に取り組む人が多いのは「日本の知的好奇心が高いから」であると主張した。

 また、日本人を語るうえで欠かせないのが勤勉さであるとし、日本人の仕事ぶりは非常に細かく、そして、抜け目ないと指摘。「万が一」に備え、万が一の可能性すら排除しようと徹底的に取り組む姿勢があるからこそ、日本製品の品質は非常に高いのだと論じた。

 中国には「馬馬虎虎」、「差不多」という言葉があり、この言葉を口癖のように使う人が多い。「馬馬虎虎」も「差不多」も日本語で言えば「まあまあ」、「だいたい」という意味で使われるが、この表現を好む人が多いという点に中国人の国民性や考え方が現れていると言えるだろう。記事は、日本人は何事も「適当に済ませることはしない」とし、優れているものに更に磨きをかけるのが日本人の気質であり、こうした気質も「日本が世界の強国になることができた理由」である伝えている。
(編集担当:村山健二)
(記事引用)






【昭和天皇の87年】英国首相も脱帽 呼び覚まされた天性の君徳
産経ニュース2018年10月28日 7時6分
欧州へ(4)
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 1921(大正10)年5月12日、ロンドン市のシンボル的建物ギルド・ホールで、日出づる国の皇太子が朗々と演説した翌日、英紙「デーリー・テレグラフ」は書いた。

 「(裕仁皇太子)殿下は実に大なる魅力と謙譲な御態度とを備へられ、その御人格は此(こ)の古建造物、古雅な歓迎の式、及び歓迎設備の華麗と相俟(あいま)つて、実に美しい対照であつた」-

 英国への到着前、随行の供奉(ぐぶ)員らが最も心配したのは、裕仁皇太子の社交性だったことはすでに触れた。しかしそれは杞憂(きゆう)だったと、供奉員の沢田節蔵(のちの国際連盟日本代表)が記録に残している。

 端的な例は、到着5日目の5月13日に駐英日本大使館で行われた、日本側主催の晩餐(ばんさん)会だ。エドワード皇太子をはじめ英政府首脳や各界の名士らを招いた宴の席で、裕仁皇太子は「社交界の勇者たる態度」を示したという。

 裕仁皇太子はロイド・ジョージ首相に、当時英国で起きていた炭坑ストライキ問題を自ら話題にし、英国政府の難しい対応をねぎらった。裕仁皇太子が「多忙な首相の健康を心配しています。世界全体のために十分自重されることを希望します」と述べると、感激したジョージ首相は何度も頭を下げ、裕仁皇太子の手を固く握りしめる一幕もあった。

 このとき、周囲で見守る沢田らを驚かせたのは、裕仁皇太子の抜群の記憶力だ。日本側担当者は事前に、出席者の情報を集めて伝えていた。裕仁皇太子はその情報をもとに、各界の名士らと代わる代わるあいさつしながら「職業趣味の異なるに従ひ、適当な話題で、御会談」したという。

 続いて行われた夜会では600人の参加者の中に進んで分け入り、握手しながら数十人と言葉を交わした。そこで沢田らが見たのは、かつて元老の山県有朋が批判したような、寡黙で「石地蔵の如き」皇太子ではなかった。堂々たる「社交界の勇者」だった。

 日本を出港以来、供奉員らの諫言(かんげん)にも素直に耳を傾け、国際交流の現場で自らの立場を再認識したことが、裕仁皇太子に備わる天性の君徳を呼び覚ましたのだろう。

 沢田が記録に書く。

 「(裕仁皇太子の社交性は)欧州社交界の事情に深く通暁してゐる人々の態度と、何等変りなきのみか、少しも尊大ぶられる所がなく、極めて真摯で、且つ自然な御態度であらせられた…」

× × ×

 英国滞在中、見事な社交性をみせた裕仁皇太子だが、もう一つ、その後の思考や言動に大きな影響を与える出来事があった。

 5月21日~23日、スコットランド北部の山地ハイランドを、非公式に訪ねたときのことだ。

 裕仁皇太子はここで、英国貴族の名門、アソール公爵家のブレア城に滞在、アソール公とともに2億7000万坪に及ぶ緑豊かな敷地内を散策したり、渓流でサケ釣りをして1メートル近い大物を釣り上げたりと、久々に自然を楽しんだ。

 アソール家の接待は、飾り気のないアットホームなものだった。昭和天皇実録には、夕食後に公爵夫人がピアノで邦楽を演奏し、そのピアノ伴奏で夫人の妹が民謡を独唱する様子などが記されている。

 23日夜、惜別の晩餐会が開かれた。

 アソール公とその家臣、裕仁皇太子と供奉員らは、互いに打ち解けて歓談し、アソール公らがスコットランド古来の慣習で椅子に立ち、片足をテーブルに乗せて両国皇室のために乾杯すると、今度は裕仁皇太子らが立ち上がってテーブルに片足を乗せ、日本式に万歳三唱した。

 珍事が起きたのは、その後である。

 食事が終わり、舞踏会が始まると、粗末な平服の男女が数十人、次々と広間に入ってきた。裕仁皇太子らは最初、アムール公の招きで近在の住民があいさつに来たものと思ったが、彼らはアムール公らに近づき、バグパイプの奏楽に合わせて、スコットランド風の舞踏を一緒に踊り始めたのだ。

 昭和天皇実録によれば《正装の公爵が平常服の老婆の手を取り、盛装の公爵夫人が粗衣の老爺と組むなど、いかにも平民的で、なんら主従の差、貴賤の別、上下の隔意なく、屈託のない様子で(舞踊を)繰り広げられる》(7巻164頁)

 実は、踊っている男女はアムール家の使用人らが普段着姿で登場したもので、アムール公の演出だった。あえて日常の生活をみせてこそ、裕仁皇太子の外遊の目的に資すると、アムール公は考えたのである。

 日本では考えられない光景に、裕仁皇太子は強い衝撃を受けたことだろう。同時に、近代国家における君主と国民のあるべき関係について、再認識するところがあったのではないか(※1)。

 2日後、マンチェスター市で行われた歓迎会。裕仁皇太子の演説に、明らかな変化が見られた。これまで「予は~せり」などと文語調が多かったのが、この日は「~であります」と、一般市民にわかりやすい口語調だったのだ(※2)。

 英国滞在も残りわずか。裕仁皇太子の中で、何かが芽生えようとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)


(※1) 外遊中、裕仁皇太子はこの夜のことを何度も供奉員らと話し、アムール公に「滞在中に見たことは、スコットランドの美しい自然とともに、帰国後も長く記憶に残るでしょう」などとする手紙を送った

(※2) 時事新報の特派員記者として外遊を取材した後藤武男によれば、このときの演説は原稿を持たずに行われ、裕仁皇太子は自身の率直な気持ちをよどみなくスピーチしたという


【参考・引用文献】

○二荒芳徳、沢田節蔵著「皇太子殿下御外遊記」(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社)所収の「デーリー・テレグラフ」

○宮内庁編「昭和天皇実録」7巻

○後藤武男著「天皇外遊と三人男」(文芸春秋編「昭和天皇の時代」所収)

○後藤武男著「われらの摂政宮」(時友社)
シリーズ
.3 https://www.sankei.com/premium/news/181027/prm1810270013-n1.html
.2 https://www.sankei.com/premium/news/181021/prm1810210013-n1.html
.1 https://www.sankei.com/premium/news/181020/prm1810200015-n1.html

(記事引用)











五木寛之 雑文録
連載10513回 「心の相続」とはなにか <1>
公開日:2018/10/15 17:00 nikkan-gendai
 
 最近、ふしぎなところから、しきりと講演の依頼がくるようになった。
 これまでほとんど縁のなかった分野の業界である。経済団体とか、新聞社・雑誌社の経営セミナーとか、ときには信託銀行などの企業だ。
 私はふだんは文化ホールや学校、また地方の公民館やお寺さんなどで話をすることが多い。経済やビジネスの世界などには全く関係がないので、けげんな気がした。
 それでも頼まれれば出かけていく。私は講演というか、人に話をすることを大事な仕事だと思ってきたからだ。

 しかし、行ってみて改めてとまどうことが多い。いわゆる文化講演会ではなく、何時間もプログラムされたセミナーの一部だからである。一部と三部には、著名な評論家や経済学者などの名前が並んでいる。ときには竹中平蔵などというビッグなゲストもいた。

 そんな場ちがいな場所で、小説家にどういう話をさせようというのか。
 演題を見ると『心の相続』となっている。私はいつも即興でしゃべるので、タイトルはなんでもいいのだ。それにしても『心の相続』とは何か。
 どうやら集ってきている聴衆は、相続問題について勉強をしようという人びとであるらしい。
「どうしてぼくがこういう会に呼ばれたんでしょうね」
 と担当者にきくと、相手はうなずいて、
「五木さんが先ごろ経済雑誌のインターヴューでお話しになっていたことに、各方面から非常に関心が集っておりまして」
「ぼくがどんな話を――」
「魚の骨ですよ。あれは私もなるほどと、すこぶる共感いたしました」
「え? 魚の骨?」
「ほら、若い女性編集者が、秋刀魚の焼いたのを見事に綺麗に食べる話」
「ふーん」

 そう言われてみれば、そんな話をしたような気がする。
 先日、打合わせの後で、近くの食堂で編集者数人と食事をした。そのなかに20代と思われる新人の女性編集者がいて、控え目に皆の話を聞いていたのだ。なよなよした感じの全然ない、ボーイッシュな娘さんだったが、食事のあと彼女の前のお皿を見て、ひどく感心したのである。

 ―

 私は昔から魚の食べ方が下手だった。魚料理は好きなのだが、食べ終えた皿の上を見て気恥かしい思いをするのが常だった。
 魚の残骸というか、骨や皮や頭や尻っぽがグチャグチャになって、見るに耐えない惨状を呈している。

 ところが、そのとき焼魚定食を食べ終えたあとの、若い女性編集者の皿の上を見てびっくりしたのである。
 魚の骨がまるで標本みたいに、じつに綺麗に皿の上に横たわっていたのだ。最近、そんなふうに見事に魚を食べる若者を見たことがない。
 私がまじまじと皿を眺めているのを見て、同席した男性編集者が、けげんな顔で、
「どうかしましたか」
 と聞く。
「いや、彼女、すごいね。最近こんなに綺麗に焼き魚を食べる人は見たことがない」
「たしかに」
「きみの皿なんかひどいもんだ。遺跡を掘り返したみたいじゃないか」
「イツキさんだって爆弾が落ちたジャングルみたいな――」
 自分の皿が話題になって、照れくさそうにしている女性編集者が、笑いながら言った。
「家は母が魚の食べ方にうるさくって。母も祖母からいつも叱られていたそうです」
「なるほど」
 祖母、母親、娘と、3代続いた魚の食べ方とあれば見事なのも当然だろう。
 ふとかたわらの若い男の編集者を見れば、箸を棒のようにワシ掴みににぎって、飯をかきこんでいる。

 そのときふと思ったのは、親や家から相続するのは、財産ばかりじゃないな、ということだった。土地や、株や、貯金などを身内で相続するのは当り前だ。しかし、人が相続するのはモノだけではない。目に見えない沢山のものを私たちは相続するのである。
 魚の食べ方などはその一つにすぎないだろう。実際には驚くほど沢山のものを、私たちは相続しているのではあるまいか。

 自分は両親から何を相続したのだろうか、と、そのときふと考えた。
 引揚者で生活に苦労していたので、財産どころか借金を相続しかねない暮しだった。しかし、よく考えてみると、目に見えない沢山のものを私は相続している。あらためてそのことをふり返ってみた。私は両親から何を相続したのだろうか。
ーー
 コンビニで週刊誌を見ると、やたら相続の記事が目につく。
 どうやら「孤独」の後は「相続」がジャーナリズムの次の焦点であるらしい。
 ところで、私の両親は共に学校教師だった。母は福岡女子師範、父は同じ福岡県の小倉師範学校の出身である。当時、貧しい農村の青年子女が、官費で勉強できる場所は限られていたのだ。
 卒業後、2人とも地方の小学校の教師となり、どこかの職場で知り合って結婚したのだろう。残念なことに2人とも早世したので、くわしいことはわからない。

 私がいまになって残念に思うことの一つは、彼と彼女の若い頃の話をほとんど聞いていないことだ。どういう青年だったのか、当時はどんな本を愛読していたのか。何を望み、どんな夢を描いていたのか。

 その意味で、私は両親から何の記憶も相続していないにひとしい。父は剣道の有段者だったが、いつ稽古をし、どんな大会に出たのか。母はどんな歌をうたい、どんな服を着ていたのか。当時の世相はどうだったのか。

 今にして思えば、もっと親の話を聞いておくべきだった、とつくづく後悔する。両親の思い出を知ることも相続の一つなのだから。

 父親は勉強家で、本棚には本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤などのあいだに、西田幾多郎やヘーゲルの本などが石原莞爾と一緒に並んでいた。丸山真男のいう当時の下層インテリの典型である。毎晩、夜中におきて何か書いているので、こっそり留守中にのぞいてみたら、『禊の弁証法』という題名がついた原稿だった。どこかの専門誌にでも、送るつもりだったのだろうか。

 私が父からしつけられたものの一つは、やたらと本を大切にする、というマナーだった。文庫本でも、それをまたいで歩いたりすると物差しでピシャリと足を叩かれたものだ。私はいまでも本をまたぐのは避ける習性がある。
 また、読みさしのページを折ったりすることも、ひどく嫌った。母がこぼしていたことがある。「父さんは、ページの隅を折ったりすると、すごく怒るんだから。それはドッグ・イヤーといっていけないことなんだって」

 父は武道会の役員で、詩吟の愛好家でもあった。毎朝、私を叩きおこして『古事記』の素読をやらせたあと、庭で一緒に詩吟をうたう。おかげで今でも私はいくつかの漢詩を暗記している。これも見えない相続の一つだろうか。
 ーー
 私が両親から相続したものをふり返ってみると、まだまだいくらでもある。
 たとえば、私の喋り方は形の上では共通語であるが、アクセントやイントネーションはまったくの九州弁だ。正確にいうと福岡の筑後弁である。柿と牡蠣の区別がつかない。橋も箸も一緒である。若いころは三バカ方言作家としてからかわれたものだ。

 寺山修司、立松和平、そして私の三人である。
 この喋り方は、まぎれもなく私が父母から受けついだものである。両親ともに福岡人だから、家庭内の会話は百パーセント九州弁だった。この年になってもまだ両親から相続した喋り方が消えていない。
 食べ物に関する嗜好もそうだ。味つけの好みもそうである。

 私の家では正月の雑煮に入れる餅は、丸餅だった。餅とはすべて円いものだと思い込んでいた。東京へ来てから四角い餅の存在を知ったのだ。 
 また正月の雑煮に鶏肉を入れ、味噌仕立てにするのも、私の家の流儀だった。
 ほかにも数えあげてみれば、いくらでもある。
 私は中年期に達するまで、私の家の宗旨に無関心だった。だが、ときたま子供の頃に両親が仏壇の前で、なにかとなえているのを思い出すことがあった。記憶の底をたどってみると、

<キーミョームーリョージューニョーラーイ>

 という呪文のような文句が浮かびあがってくる。これが『正信偈』という真宗門徒のとなえるお勤めの経文であることを知ったのも、かなり後になってからのことだった。蓮如が定めた真宗の作法である。
 人との挨拶の仕方、お礼の言い方、そのほか数えきれないほどのものを私は両親から相続しているのだ。残念ながら綺麗な魚の食べ方は相続してはいない。
 昔、韓国の地方の駅のキオスクで、買物をしたとき、売り子の娘さんが釣りを差し出すときに、右手の肘の下にそっと左手をそえて渡してくれたのが、すごく優雅に感じられたことがあった。昔、長袖の服を着ていた頃の名残りだろうか。家というより、社会から相続した身振りだったのかもしれない。
 家や親や先輩からだけではない。私たちは土地や資産だけでなく、見えないさまざまなものを相続しているのである。それを仮りに「心の相続」と呼んでおくことにする。 
(この項つづく)
 ――協力・文芸企画
(記事引用)














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