北 一輝と石原莞爾のスタンス比較
北 一輝(本名:北 輝次郎)、1883年(明治16年)4月3日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した。

1883年(明治16年)4月3日、新潟県佐渡郡両津湊町(現:佐渡市両津湊)の酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。

1897年(明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に1回生として入学、翌1898年(明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級する。1899年(明治32年)に眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在した。1900年(明治33年)に眼病による学業不振のため5年生への進級に失敗し、さらに父の家業が傾いたことも重なり退学した。

1901年(明治34年)には新潟の眼科院に7ヶ月間入院した。上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。1903年(明治36年)に父が死去。10月「輝次郎」と改名した。森知幾が創刊した『佐渡新聞』紙上に次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、国家や帝国主義に否定的だった幸徳たちと一線を画し、国家を前提とした社会主義を構想するようになる。北は国家における国民と天皇の関係に注目し、『国民対皇室の歴史的観察』で「天皇は国民に近い家族のような存在だ」と反論。たった2日で連載中止となった。弟れい吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、同大学の政治経済学部生となる。有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。

1906年(明治39年)に処女作『国体論及び純正社会主義』(『國體論及び純正社會主義』)刊行。大日本帝国憲法における天皇制を批判したこの本は発売から5日で発禁処分となり、北自身は要注意人物とされ、警察の監視対象となった。内容は法学・哲学・政治学・経済学・生物学など多岐に渡るが、それらを個別に論ずるのではなく、統一的に論ずることによって学問の体系化を試みた所に特徴があった。すなわち、北一輝の「純正社会主義」なる理念は、人間と社会についての一般理論を目指したものであった。その書において最も力を入れたのが、通俗的「国体論」の破壊であった。著書が発禁となる失意の中で、北は宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。

1911年(明治44年)に間淵ヤス(すず子)と知り合う。同年10月、宋教仁からの電報により黒龍会『時事月函』特派員記者として上海に行き、宋教仁のもとに身を寄せた。1913年(大正2年、中華民国2年)3月22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺され、その犯人が孫文であると新聞などにも発表したため、4月上海日本総領事館の総領事有吉明に3年間の退清命令を受け帰国した。この経験は『支那革命外史』としてまとめられ出版される。この中で第一次世界大戦で日本が対華21カ条要求を中国に認めさせたことを批判している。

1916年(大正5年)に間淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。この頃から一輝と名乗る。1919年(大正8年、中華民国8年)そこに出入りしていた清水行之助、岩田富美夫らが日華相愛会の顧問を約40日の断食後に『国家改造案原理大綱』(ガリ版47部、『日本改造法案大綱』と1923年に改題)を書き上げていた北に依頼した。1920年(大正9年、中華民国9年)8月、上海を訪問した大川周明や満川亀太郎らによって帰国を要請され、12月31日に清水行之助とともに帰国。

1921年(大正10年)1月4日から猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。1923年(大正12年)猶存社が解散。「日本改造法案大綱」が改造社から、出版法違反なるも一部伏字で発刊された。これは、議会を通した改造に限界を感じ、「軍事革命=クーデター」による改造を諭し、二・二六事件の首謀者である青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えた。また、私有財産や土地に一定の制限を設け、資本の集中を防ぎ、さらに華族制度にも触れ、“特権階級”が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと指摘。その撤去を主張した。

この頃東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。1926年(大正15年)安田共済生命事件。北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇した。同年、北は十五銀行が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた。北の影響下にある軍人、右翼からのテロを恐れた財閥は、北に対して情報料名目の賄賂を送った。北は「堂々たる邸宅、豪華な生活」を送り、「妻子三人外に女中三人、自動車運転手一人等」を賄った。

同年、宮内省怪文書事件で逮捕。翌1927年(昭和2年)に保釈された。

1936年(昭和11年)二・二六事件で逮捕。1937年(昭和12年)8月14日、民間人にも関わらず、特設軍法会議で、二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、死刑判決を受ける。5日後の8月19日、事件の首謀者の一人とされた陸軍軍人の西田税とともに銃殺刑に処された。満54歳没。

辞世の句は「若殿に兜とられて負け戦」。

人物
幼名は輝次、20歳の時、輝次郎と改名。1911年(明治44年)中国の辛亥革命に参加し宋教仁など中国人革命家との交わりを深め、中国風の「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼であった。早稲田大学文科聴講生の時に、階級制度の廃止や労働組合の組織等、社会主義に傾倒する。

北は、国家社会主義者として、1906年(明治39年)23歳の時、千ページにおよぶ処女作『国体論及び純正社会主義』を刊行し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。

内務省はこれを「危険思想」と見なし、直ちに発売禁止処分とし、北は「要注意人物」として警察の監視対象となった。

日本国内での発言と行動の場を奪われた北は、宮崎滔天に誘われ、孫文らの中国同盟会に入り、1911年(明治44年)中国の辛亥革命に宋教仁らとともに身を投じることとなった。

1920年(大正9年)12月31日、北は、中国から帰国したが、このころから第一次世界大戦の戦後恐慌による経済悪化など社会が不安定化し、そうした中で1923年(大正12年)に『日本改造法案大綱』を刊行し「国家改造」を主張した。


二・二六事件慰霊碑 (東京都渋谷区宇田川町)
その後、1936年に二・二六事件が発生すると、政府は事件を起こした青年将校が『日本改造法案大綱』そして「国家改造」に感化されて決起したという認識から、事件に直接関与しなかった北を逮捕した。当時の軍部や政府は、北を「事件の理論的指導者の一人」であるとして、民間人にもかかわらず特設軍法会議にかけ、非公開・弁護人なし・一審制の上告不可のもと、事件の翌1937年(昭和12年)8月14日に、叛乱罪の首魁(しゅかい)として死刑判決を出した(二・二六事件 背後関係処断)。

死刑判決の5日後、事件の首謀者の一人とされた陸軍予備役の西田税らとともに、東京陸軍刑務所で、北は銃殺刑に処された。この事件に指揮・先導といった関与をしていない“北の死刑判決”は、極めて重い処分となった。

なお、北は、辛亥革命の直接体験をもとに、1915年(大正4年)から1916年にかけて「支那革命外史」を執筆・送稿し、日本の対中外交の転換を促したことでも知られる。大隈重信総理大臣や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。また、日蓮宗の熱狂的信者としても有名である。 中国革命家譚人鳳の遺児を養子として引き取る。名を北大輝とし、死後彼に遺書を残す。

思想
「明治維新の本義は民主主義にある」と主張し、大日本帝国憲法における天皇制を激しく批判した。

すなわち、「天皇の国民」ではなく、「国民の天皇」であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け「維新革命」「国家改造」が必要であると主張した。

評価
1906年(明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。

ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている。花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。

また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した。

また、北は安岡正篤や岸信介にも強い影響を与えたとされている。

宗教
法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、日頃から大きな声で読経していた事がよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。

『北一輝 霊告日記』松本健一 編 第三文明社 1987年 ISBN 4-476-03127-7
1929年(昭和4年)4月 - 1936年(昭和11年)2月28日に妻のすず子が法華経読誦中神がかった託宣を自ら記録したもの。
北の日蓮理解や法華経帰依の契機などは、彼の天皇観とともに依然として定説がない。

著作史料

石原 莞爾は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は正四位・勲一等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。 関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。 ウィキペディア

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石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年1月18日 (戸籍の上では17日)- 1949年8月15日)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将。栄典は正四位・勲一等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。 関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。

幼少年時代
幼少期の莞爾と次郎
明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。但し戸籍上は1月17日となっている。

父親は警察官であり転勤が多かったため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であった。利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、一年生で一番の成績であった。石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。

また、病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると、小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている。

石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた。

軍学校時代
青年期の莞爾と次郎
明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。石原は、ここで総員51名の中で1番の成績を維持し学業は優秀だったが、器械体操や剣術などの運動は苦手だった。

明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を受けた。田中智学の『妙法蓮華経』(法華経)に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。また、東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。

明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学した。区隊長への反抗や侮辱をするなど、生活態度が悪く、卒業成績は6位であった。

士官学校卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち))よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。

陸大30期卒業生(石原は前列中央)
連隊長命令で、不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。試験に合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは、戦術学、戦略、軍事史などの教育を受けた。

大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。

在外武官時代
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読んだ。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。

関東軍参謀時代
石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。

また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた。

昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。

昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。

二・二六事件の鎮圧
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。 この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。

この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。

安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。

また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。

宇垣内閣の組閣を断念させる
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。

しかし、石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して大命を受けた。

しかし、石原は諦めず、今度は軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。こうして宇垣は陸軍大臣を得られず、やむなく組閣を断念し、石原の策は見事に成功した。だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣断念の後の政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるものである。

左遷
1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。

1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時には参謀本部作戦部長であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。

ふたたび関東軍へ・東條英機との確執

1940年に満洲国から贈られた勲一位柱国章(日本の勲一等瑞宝章に相当)の勲記
昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。これには、東條は恩賜の軍刀を授かっていない(石原は授かっている)のも理由として挙げられる。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられるが、これは東條の根回しによるものと考えられる。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。

立命館大学国防学研究所長
現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館総長・中川小十郎が新設した国防学講座の講師として招待された。

日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。講師には第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。

しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。

大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。

評論・政治活動
太平洋戦争に対しては、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は、奇しくも最後通牒といわれるハル・ノートとほぼ同様の内容であった。戦中、ガダルカナル島の戦いにおいて海軍大佐であった高松宮宣仁親王の求めに応じ、石原は、ガダルカナル島からの撤退、ソロモン、ビスマーク、ニューギニヤの放棄、サイパン、テニアン、グアムの要塞化と攻勢終末点(西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とする)及び東南アジアとの海上輸送路の確立をすることにより、不敗の態勢が可能である旨も語っている。また、周りには中国人への全面的な謝罪と中華民国からの即時撤兵による東亜諸国との連携をも説き、中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探った。しかし、重光葵や米内光政の反対にあい、失敗した。

独ソ戦に対しては、石原は、1941年10月当時から、ドイツは地形の異なるバルカン半島においても西部戦線と同一の戦法を採っており、また東部戦線においてもその戦法に何ら変化の跡が見られないことから、ドイツはソ連に勝てないと断言していた。

『世界最終戦論』(後に『最終戦争論』と改題)を唱え、東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。一方で、熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない。

最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。

東條英機の暗殺計画
東條英機を暗殺しようとした柔道家の牛島辰熊
昭和19年(1944年)6月、柔道家の牛島辰熊と津野田知重少佐は、東條英機首相暗殺を企てた。共に東亜連盟で石原莞爾に師事していた。

津野田は、大本営参謀部三課の秘密文書を読み、予想以上の日本軍の惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊に相談した。「このままでは国民は全滅だ」と悟った2人は、東條を退陣させて戦争を止めるために、皇族への「大東亜戦争現局に対する観察」という献策書を書き上げ、三笠宮、高松宮らを通じて直接天皇へ渡してもらうことにした。

2人は、献策書を持って石原が蟄居する山形県を訪ねた。石原は献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。その献策書の欄外には、はっきりと「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」と書かれていたからである。次の日の朝6時、津野田と牛島を座敷に通した石原は、「今の状態では万事が手遅れだ」と言って赤鉛筆を取り、献策書末尾に「斬るに賛成」と書いた。

石原の賛意を得た津野田と牛島は、勇んで東京に戻り、暗殺方法について話し合った。結果、習志野のガス学校で極秘開発されていた青酸ガス爆弾「茶瓶」を使い、牛島辰熊が実行することになったが、直前になって東條内閣が総退陣となった。しかし、東條退陣後、どこで計画が漏れたのか、2人は9月に逮捕される。

後年、作家の増田俊也は、著書『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、この時牛島は弟子の木村政彦を鉄砲玉(実行犯)として使おうとしていたと記した。

戦後・東京裁判1945年頃の石原莞爾
極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。東条英機との対立が有利に働いたとの見方もあるが、実際には開廷前の検事団によるA級被告選定の席で、戦犯指定された石原広一郎を石原莞爾と勘違いしたことが原因だった。事態に気づいた検事が慌てて入院中の石原莞爾に面接するが、「重態」のため調書が作れず、最終的に被告リストから外された。

東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した[15]。酒田出張法廷に出廷するため、リヤカーに乗って酒田へ出かけたが、この時のリヤカーを引いていたのが曺寧柱と大山倍達だといわれている。

この出張法廷では、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と持論を披露した。また、東條との確執についての質問には、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、ここでも東條の無能さをこきおろしたという。

実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。

石原は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。

終戦間もない頃、満洲事変で朝鮮軍-関東軍間の連絡将校を務めた、元陸軍少将で大亜細亜協会幹部の金子定一が石原を訪問した際、石原が自身を訪問したマッカーサーの側近に話したこととして「予は東条個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ。又、日本の軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけない軍備原子力武器が支配する」と語ったという。

病で動けなくなっていた石原は、1946年東京飯田橋の東京逓信病院に入院していた。この際、東京裁判の検事から尋問を受けているが、終始毅然とした態度を崩さず検事の高圧的な態度に怒りをもって抗議し、相手を睨みつけたという。同席した米記者マーク・ゲインは「きびしく、めったに瞬きもせず、私たちを射抜くような眼」と評している。

人物・逸話
人柄
石原は酒やタバコをたしなまなかった。菓子を食べながら議論や勉強をすることを好んでいた。ドイツ滞在中は、どこに行くのも羽織袴で押し通したとされているが、あくまでパーティーなどのときであり、普段は背広を着用し、また当時流行のコートをも着こなしていた。また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評された(評価が高まりブランド化するのは後年)ライカのカメラを購入し、愛用していた。

東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した。しかしその反面、潜在的なカリスマがあったことも事実であり、多くの信奉者が存在した。辻政信や服部卓四郎、花谷正などは初対面のときから石原の存在感に圧倒され、生涯を通じての崇拝者になった。

白人憎悪と米国への敵意
田中智学の三男であり、ベルリン時代を共にすごした里見岸雄の回顧では、研究会である大尉が「帰途、米国に立ち寄られるか」と質問すると「俺が米国に行く時は日本の対米軍司令官として上陸する時だけだ」と息巻いたという。国柱会入会直後、石原は「大正9年7月18日の夫人への手紙」で、白人を「悪鬼」と述べ、また「この地球上から撲滅しなければなりません」と憎悪を著わしている。

さらに「大正12年8月28日の夫人への手紙」では、ドイツで活動写真を見て「亜米利加物にて、排日宣伝のフィルム大いに癪に障り、大声にて亜米利加の悪口を話せば近所に居りし若干の独人大いに同意を表す」「何時かは一度たたいてやらざれば彼を救う能はざるなり」と述べている[26][27]。伊勢弘志は「日記には他にも悪化した感情が頻繁に確認される」として、国柱会入信前からの対米感情の悪化を指摘し、国柱会入信の動機の一つに「対米感情と排他的教義への共鳴があった」としている。

日蓮主義
石原が田中智学の国柱会に入会したのは1920年の会津時代であり「兵にいかにして国体を叩きこむか」に悩んで、この時期、天皇主権を唱える筧克彦の『古神道大義』を読んだり、神道、キリスト教、仏教などを研究したが「ついに日蓮に到達」し、国体と日蓮主義の同一性を説く国柱会に入会した。田中智学は日露戦争の際に「日蓮主義は日本主義なり」と戦勝祈願し、以来国柱会は「日本は特別な価値ある国」として『日本書紀』と『妙法蓮華経』(法華経)が同一であるとしており、入信の動機もその国体論にあるが、伊勢弘志は、入会動機は教えより予言であり、対米悪感情と排他的教義への共鳴だとも考察している。

幼少期・幼年学校・士官学校
幼少の頃からその秀才ぶりと奇抜な行動がエピソードとして残っている。明治28年(1895年)、子守のため姉二人が石原を学校に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。

仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、代数学・植物学・ドイツ語が特に高得点であり、3年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。当時、将校には写生の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。

石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。

陸軍士官学校でも軍事学よりも歴史学や哲学の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。

陸軍大学に関してQuestion book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年9月)
第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして、陸士成績が最優秀だったために石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。

陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。

陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになるが、最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。

陸大学生時代は成績は本来は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったという説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためという説、朝敵であった庄内藩出身であったためという説があり、明らかではない。

連隊長・師団長として
歩兵第4連隊(第2師団所属。本拠地は仙台)長に就任すると、貧しい東北出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵に土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、酒保を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したといわれる。

連隊長時代、二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。ある年、羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしていると突然、にわか雨が降り出したが、中隊長は訓示を止めない。その時、石原は「中隊長の馬鹿野郎、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴り、訓示を中止させた。

石原が京都第16師団長の頃には、形式的な儀礼や行事を省略していった。特に陸軍記念日の際には、通常は閲兵式・分列行進で3時間かかる式典であったが、石原は指揮官一人とともに馬を駆け足で各部隊の前面を走って閲兵を済ませ、「解散」と述べて引き揚げてしまった。通常は3時間の式典が5分程で終わり、将校や見物人はあっけにとられたが、末端の兵士達は早く帰営し外出できるため大喜びだったという。

上官に対して
自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたという。

石原は東條英機を嫌っていたが、東條が属する統制派と対立関係にあった真崎甚三郎も毛嫌いしていた。石原が満州から参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」と褒めちぎった。真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。

二・二六事件のとき、石原は東京警備司令部の一員でいた。そこに荒木貞夫がやって来たとき、石原は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」とさらに言い返した。そこに居合わせた安井藤治東京警備参謀長がまぁまぁと間に入り、その場をなんとかおさめたという。

上層部や上官の多くに対して嫌悪感と敵対心を顕わにした石原だが、阿南惟幾は数少ない別格で「阿南さんが言うなら……」とその指示に素直に従ったという。

技術に対しての軽視
昭和11年(1936年)8月、閑院宮春仁王が陸軍大学の研究部主事となり、昭和10年に開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。しかし参謀たちはおろか、石原も大局的な国防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。現場の技術者および新しい技術を軽視する立場は他の参謀たちと変わらなかった。

戦犯自称の真相
よく東京裁判の法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」「満州事変の責任は自分にある。私を裁け」と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのを避けるとともに、板垣・土肥原の弁護に繋がる発言をしていた。

なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和30年(1955年)に手記を公表してからである。

ちなみに、石原は法廷に先立って重慶通信社の特派記者から取材を受けている。満州国の運営が理想通りに進まなかったことについて言及した後、「わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底からふみにじられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味において、わしは立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対してまことにすまなかった、と思っている」と述べ、中国当局に独立へ協力した人々へ理解を願う発言を行っている
※資料ウイキペディア



挑戦者植村直己スピリット 
 冒険家・植村直己の業績を伝える、東京都板橋区の植村冒険館。その収蔵庫に1本の腕時計が眠っている。1974~76年、植村が北極圏1万2000キロを犬ぞりで単独走破したときに携行した、セイコーのダイバーズウオッチだ。ケースやバンドの表面についた無数のキズが、冒険の厳しさを物語っている。
 
画像1978年、北極点犬ぞり単独行の時の様子。北極点到達を果たし、野営地で喜びのポーズ。
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氷河を見たい。そんな思いを胸に、片道切符を握りしめてアメリカ行きの移民船に乗り込んだのが23歳。それから冬のマッキンリーで消息を絶つ43歳までの20年間を、植村は冒険に費やした。未踏峰ゴジュンバ・カンの初登頂、日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂。北極圏1万2000キロの旅を成功させた翌々年には、世界で初めて、犬ぞり単独行者として北極点に立つ。同年、やはり世界初となるグリーンランド3000キロ縦断をも成功させた。

 植村を突き動かしたのは、新しいことをしてみたいという、純粋なチャレンジ精神だ。“自分の冒険は未知なものへの挑戦、人間の可能性への挑戦ではなかろうか” “1つの夢が終わると、すぐに次の夢が呼び起こされる。自分の気持ちは常に新鮮だ” “私にとって終わりは始まりだ”。そんな文章を残している。※

 時に凍傷にかかり、時に飢えに苦しみ、時に涙を流しながら、未知なる世界を求めて進み続けた。その真っ直ぐな歩みは、消息を絶って35年を経た今も、多くの人をとらえて離さない。

 植村は、記録魔だったという。時刻に関しても、何時に出発し何時に休憩を取ったのか、著書の随所に見ることができる。それは登山家の習い性だったかもしれない。しかし、たった1人で極限の道を進む植村にとって、一刻一刻を記録することは、生命を記録することに等しい。そうしてみると、過酷な環境下でも正確に時を告げるダイバーズウオッチは、冒険の証人であり、頼もしいパートナーであったといえそうだ。

自分の中の植村スピリットを解き放つ
 植村のどんなところに魅かれるのか、植村冒険館の来場者に尋ねると、さまざまな答えが返ってくるという。登山家としての偉業、常人を超えた発想や行動力への憧れ、垣間見える温かい人柄への親しみ…。小柄な体型に勇気づけられると話す人もいるそうだ。

 それぞれ違う魅力が語られるのは、一人ひとりが自分の人生や冒険心を植村に投影していることの表れだろう。人はみな、自分にとっての冒険があるのだ。

  山へ、海へ、荒野へ。タフな時計を相棒に、自分なりのゴールを目指して踏み出してみてはどうだろう。かつて植村がそうであったように、世界の新鮮な表情を発見することができるはずだ。

※ 自著「青春を山に賭けて」「北極圏一万二千キロ」
(文春文庫)より引用、編集


https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/19/061700052/
ドローンで撮影した世界最高峰エベレスト。26枚の写真をつないだ360度パノラマ写真は下をご覧ください。(PHOTOGRAPH BY RENAN OZTURK)
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(記事引用)







鈴木紀夫と小野田寛郎
小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~.
2018年3月25日(日) 午後10時00分(90分). 第44回放送文化基金賞 テレビエンターテインメント番組 奨励賞/第34回ATP賞テレビグランプリ 情報・バラエティ部門 奨励賞 受賞.

戦後29年もの間、フィリピンのジャングルに身を潜めた小野田元少尉。彼を日本に連れ戻したのは、たった一人の若者だった!その若者の名は鈴木紀夫。冒険家を目指した紀夫はその後、ヒマラヤで雪男発見に没頭し、雪崩に遭い、37歳で生涯を閉じる。70~80年代、経済成長する日本社会に背を向け、なぜこのような生き方を選んだのか。小野田や雪男捜索の初公開資料を交え、男たちの生きざまをドラマとドキュメントで描く。

鈴木 紀夫(すずき のりお、1949年(昭和24年)4月 - 1986年(昭和61年)11月)は、日本の冒険家。千葉県市原市八幡出身。習志野市立習志野高等学校卒業。法政大学経済学部二部中退。
(記事引用)





















肥大化した権力「GAFA」の脅威――警鐘鳴らす米教授 
Yahoo!ニュース 特集」1/29(火) 8:04 配信
グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン――いずれも米国生まれの大企業で、いまや私たちの生活から切り離せない4大プラットフォーマーへと成長した。それぞれの頭文字をとって「GAFA(ガーファ)」とも称される。GAFAの分析を長年続けてきた、ニューヨーク大学スターン経営大学院のスコット・ギャロウェイ教授は、その強さに感服しつつも、あまりの影響力の大きさに警鐘を鳴らす。(インタビュー:津山恵子、写真:クオ=ヘン・ホアン/構成:Yahoo!ニュース 特集編集部)
20190129-00


「いいね!」に病みつきになり、コメントに傷つく
ギャロウェイ教授は、日本を含む22 カ国で刊行されている著書『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』のなかで、4強をヨハネの黙示録の四騎士に例えた。剣や飢饉などで「地上の人間を殺す権威」を与えられているという存在だ。恐ろしい騎士の挿絵まで入っている。便利な検索(グーグル)と無数の商品が選べるオンラインショッピング(アマゾン)、世界の友人をつなげるプラットフォーム(フェイスブック)に、未来性を常に追求するコンピューター(アップル)のどこが、「地上の人間を殺す」のだろう。2018年末、ギャロウェイ教授にニューヨークで話を聞いた。

――4社をまとめて四騎士に例えて警告を発する書は、珍しい存在です。そもそも、なぜこの本を書こうと思ったのですか。

「もともと私は、4強のことを気に入っていました。パフォーマンスが抜群な、彼らの株式も所有していました。私の学生の最大の就職先がアマゾンで、これまでに170人が入社しています。就職先の2位、3位はフェイスブック、グーグルです。だから、私はこの本を『ラブレター』として書き始めたのです。でも2年間を分析とリサーチにかけた結果、ラブレターは『警告の書』となりました」

――引き金になった個人的な体験があったのですか。

「11歳の息子とビーチにいて、逆立ちするところをビデオで撮り、YouTubeに公開したことがありました。すぐに『いいね!』がついたので、『誰かがいいね!って言ってるよ』と言ったら、『いいね!って何?』と息子。その後7日間、彼は15分ごとに私にYouTubeへログインしてと頼むようになりました。『いいね!』がいくつついたか知りたくてたまらなくなったのです」

「まさに一瞬で、息子はYouTubeに病みつきになり、さらに誰かが残した意地悪なコメントに打ちのめされました。そのとき思ったのです。こんな短いビデオが、誰かのドーパミンを刺激し虜(とりこ)にすると同時に、匿名やボットかもしれない心ないコメントで息子が傷ついた。これが世界10億人以上に起きている。これがソーシャルメディアの世界だ、と」

4強のサービス・製品は、私たちを虜にしているばかりでなく、空前の富を稼ぎ出している。つまり、ギャロウェイ教授自身を含むたくさんの株主を潤してきた。また、世界トップクラスの人材を雇い、新たな雇用も創出している。しかし、ギャロウェイ教授は、4大企業に「別の顔」もあることを発見した。

「私は、権力の腐敗を目の当たりにしました。政府の規制が有効に機能しないなか、4強は中小企業を滅ぼし、(米国の)売上税を払うのを回避しています。(2016年米大統領選挙ではロシアに悪用されたフェイスブックが)選挙のあり方さえ危うくしました。民主主義をむしばむほどの影響力を持つ、そんな肥大化した4企業に私たちは囲まれています」

「それだけではありません。欧米社会で、4強はもっと危険な傾向を助長しています。つまり、人となりや寛容さよりも、テクノロジーと億万長者を評価し崇拝するようになりました。つまり、私たちこそが4強の肥大化を許してしまったのです」

「フェイスブックに絡むケンブリッジ・アナリティカのスキャンダル(注:2016年にフェイスブックの8700万の顧客データが漏洩し、共和党のトランプ大統領候補=当時=の選挙陣営がそのデータを使ったとされる)が浮上したのは、フェイスブックが何のセーフガードも講じようとしなかった表れです。もしシェリル・サンドバーグ最高執行責任者(COO)が魅力的な女性リーダーでなかったら、もしマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)が現代の稀有なイノベーターの一人でなかったら、連邦地検は彼らの訴追を本気で検討したでしょう」

女性ビジネスリーダーを象徴する人物の一人として取り上げられることも少なくない、フェイスブックのシェリル・サンドバーグCOO(写真:ロイター/アフロ)

「ダース・ベイダー」が率いるGAFA
――なぜ4強に対して、人々がそんなに寛大になってしまったのでしょう。

「彼らは、進歩的でリベラルな思想を支持しています。サンドバーグは、男女平等について、そして夫の死について非常に雄弁に語り、皆が耳を傾けます。アップルのティム・クックCEOは、フォーチュン500社の現役トップとして初めて、同性愛者であることを公表しました。グーグル創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンの2人は、移民です。大衆のリベラルに対する見方は、無害で親切で優しい人たちというものです。彼らは世界をもつなげています。でも現実は、羊の衣を着た狼、『ダース・ベイダー』なのです」

アップルのティム・クックCEO(写真:ロイター/アフロ)

――2016年の米大統領選の後、フェイク広告などをめぐって、フェイスブックのザッカーバーグCEOが、連邦議会に召喚されました。でも公聴会では、ザッカーバーグには余裕があり、議員側はまったく追い詰めることができませんでした。

「フェイスブックに限らず4強は、ワシントンでのロビー活動を怠ったマイクロソフト(注:独占禁止法違反を巡り欧州連合=EUに課徴金を支払った)からの教訓で、その分野にすごく投資をしています。アマゾンは、フルタイムのロビイストがワシントンに88人もいます。イノベーターに対する世間の崇拝が強いので、広報部隊もそれをうまく利用しています。フェイスブックでは、2万4000人の社員のうち600人がパブリック・リレーションズの人員です」

米下院の公聴会で質問に答えるフェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEO(写真:ロイター/アフロ)

「これに対し、選挙で選ばれる政治家のうちほんのわずかしか、テクノロジーやエンジニアリングのバックグラウンドがないのです」

――お話からすると、『GAFA』を書かれた当時よりも4強に対してより厳しい意見をお持ちですね。テクノロジーに詳しい政治家の選出が大事と思われたのは、2016年の米大統領選がきっかけですか。

「そうですね。選挙期間中にプラットフォームが悪用されないよう、基本的なセーフガードを設定することをフェイスブックが拒否していたと分かったときです。フェイスブックは、私たちの社会の絆を引き裂く(フェイク)広告を受け入れ、その広告費はルーブルで支払われたのです」

「4強の行動が、民主国家の利益と相反することもあります。アマゾンが、米国で第2本社の候補地を探す案を打ち出したのもその例です。結局ニューヨークとワシントンという大都市に決定しましたが、地元の雇用を拡大したい地方自治体が、住民の税金と人員を使って、誘致コンテストに殺到し、最終的にそのお金はアマゾンと株主の懐に入っていくわけです」

アマゾン第2本社の建設が決まったニューヨークでは、大規模なデモが起きた(写真:ロイター/アフロ)

インスタ買収を許したのは政府の失態だ
――米国は、AT&T分割など規制の歴史があります。4強も分割すべきですか。

「4強は、雇用を生み出し、他のビジネスとのエコシステムを創造し、株主に利益をもたらす、感嘆すべき企業です。でも彼らの影響力をそぐべきです。それができるのは、独占禁止法違反訴訟だと、私は思います。過去10年における米政府の最大の失態の一つは、フェイスブックにインスタグラムとWhatsAppの買収を許したことです」

ニールセンの調査によれば、米国でフェイスブック、フェイスブック・メッセンジャー、インスタグラムは、人気スマホアプリの上位を占め、それぞれ第1位、2位、8位だという。ユーザー1人あたり、1日50分を、このソーシャルネットワークに費やしている。また、何かの商品を探している人の55%が、まずアマゾンで調べているというのだ。

「私たちの生活で、ある考えを行動に移す場合、多くは検索が元になっていますが、グーグルが、その検索の大部分を占めています。『政府を変えるにはどうしたらいいか?』『銃を製造するにはどうしたらいいか?』などというキーワードをタイプすることが膨大な回数で起き、人々の行動を左右している一方で、その答えをはじき出す検索アルゴリズムが極秘事項のままというのは不健全でしょう」

(写真:ロイター/アフロ)

「アマゾンも電子商取引の50%以上を独占するべきではありません。独占が不健全なのは、たとえば音楽配信サービスを見てもわかります。Spotifyのほうがアップル・ミュージックよりも優れていると思いますが、後者は10億ものiOS端末にあらかじめ組み込まれているがゆえに急成長しています」

――4強を分割したら、どんなことが可能になるのでしょう。

「独禁法違反を争えば、私たちはもっと幅広い税収を得ることができて、売上税を免れる者もいなくなり、さらなる競争、雇用、合従連衡が生じてくるでしょう。フェイスブックも例えば4つに分割して、その中の1社が広告収入を上げようとしたら、他のところよりもセキュリティーに多く投資し、外国政府にプラットフォームを武器として使われないようにするでしょう」

「グーグルが分割されれば、YouTubeは動画ベースの検索エンジンになるでしょうし、数年で検索市場の大きなシェアを得る、つまり検索に2つのプラットフォームが生まれるわけで、それはいいことでしょう」

「資本主義は、競争です。競争的なマーケットを創造する鍵は、誰も肥大化した権力を持たないということです」

ソーシャルメディアは「10代のたばこ」
――息子さんの例を話されましたが、ユーザー側として次の世代は何に注意したらいいのでしょう。

「昔と異なり、友人のパーティーに呼ばれなかった場合、部屋に1人でいてリアルタイムで他の子がパーティーに行っているのがわかってしまう時代です。米疾病対策センター(CDC)の調査で、ソーシャルメディアが特に10代女子の自殺率の増加に影響しているというデータもあります。フェイスブックやインスタグラムは、年齢確認を行うべきです」

「私自身はフェイスブックはあまりやりませんが、ツイッターはよく利用しています。『ドーパミン袋』というのが、私のポケットに入っていて、他人に認められることが好きなのです。ツイートやビデオをアップしたら、毎時間チェックして『いいね!』がどのくらいついたか見てしまう。つまり私は中毒なのです。でも大人なので、それが良くないことはわかっているし、抑制もできます。でも、私が12歳だったらどうでしょう」

「ソーシャルメディアは、10代のころのたばこです。吸いすぎると、がんになります。ソーシャルメディアのがん細胞、あるいはニコチンは、『広告モデル』です。再考もしない、人格もない、礼節もない、単にクリックを増やすことにしか関心がない広告モデルです。そして、最も素早く広告のエンゲージメントを高めるのが、怒りを使うことです。それがさらなる怒りと分断を引き起こします。私たちは、ビジネスモデルが怒りへと導かれる中毒性の薬物に日々接しているのです」

(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

――ユーザーが使っているときに気をつけることはありますか。

「発信と発言に責任を持つということです。YouTubeでも、誰もが自分の顔と名前を示してコメントしていたら、私に対する反ユダヤ主義的な反応は激減するでしょう(注:ギャロウェイ教授は、米国生まれのユダヤ系)。しかし、それ(実名化)をやったらツイッターの株価は、1桁ドルになりますが」

リスク、そして移民を受容する文化が必要だ
――4騎士の肥大化は、ドラマチックな成長あってこそです。こうした成長を生む背景には何があるのでしょうか。

「テクノロジー企業が急成長した要因には、リスク・テイキング・カルチャーと起業家精神があります。私は9つのビジネスを起業して、失敗も成功もありました。米国では、失敗はキャリアを終わらせる傷にはならず、セカンドチャンスがある、将来があると受け止められます」

「もう一つは、世界最先端のエンジニアリングの大学があるということです。グーグルはスタンフォード大学から、フェイスブックはハーバード大学から自転車で行ける距離の所で誕生しました。移民を受け入れ、世界からの才能を集めて、誰も作ったことがないものを生み出すという文化が必要です」

スコット・ギャロウェイ
1964年生まれ。ニューヨーク大学スターン経営大学院教授。MBAコースでブランド戦略とデジタルマーケティングを教える。連続起業家(シリアル・アントレプレナー)としてL2、Red Envelope、Prophetなど9つの会社を起業。ニューヨーク・タイムズ、ゲートウェイ・コンピュータなどの役員も歴任。YouTubeで毎週公開している動画「Winners & Losers」は数百万回再生を誇るほか、TED「How Amazon, Apple, Facebook and Google manipulate our emotions(アマゾン、アップル、フェイスブック、グーグルはいかに人間の感情を操るのか)」は200万回以上閲覧されている。GAFAの成長と脅威を分析した著書『the four GAFA 四騎士が創り変えた世界』が、22カ国で刊行されている。

この記事へのご感想やご意見、または「Yahoo!ニュース 特集」で今後取り上げてほしいテーマをお寄せください。
(記事引用)












Gloture、微弱電流でいびきを解消するスノアサークルを販売
2019年4月4日 19時57分 MdN Design Interactive

株式会社Glotureは4月4日、いびき解消ガジェット「スノアサークル EMSパッド いびきストッパー」の販売を発表した。微弱電流で気道を確保し、睡眠中のいびきを予防。ECサイト「GLOTURE.JP」にて、15,000円で発売している。
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「スノアサークル EMSパッド いびきストッパー」は、微弱な電流刺激でいびき解消をサポートするガジェット。喉周辺に貼り付けて睡眠に入ることで、スノアサークルがいびきを感知し、人体に無害な微弱な電流を流す。電流刺激を受けた舌根の筋肉が動き、気道が確保され、いびきを解消する仕組み。臨床実験を経た製品設計なので、安全に使用できるという。また、専用スマホアプリ「Sleeplus/スリープラス」で、いびきの回数・時間を管理することが可能。

「スノアサークル EMSパッド いびきストッパー」のサイズは、25.5×40.5×13mmで、重量は10gとなっている。バッテリーは充電式で、1度の充電で20時間の使用が可能。Bluetooth4.0対応で、対応スマートフォンはiOS8以降/Android4.3以降となっている。

製品ページ:https://gloture.jp/products/snore-circle-ems-pad

株式会社Gloture
URL:http://gloture.jp/
価格:15,000円
2019/4/4









NHKが画策する「ネット同時配信」の狙い 民放大反発で“見切り”発車の声
2019年3月14日 6時31分 デイリー新潮
 “放送法に基づく特殊法人”としてNHKが設立されてから、来年70年。これにあわせたわけでもなかろうが、目下、NHKは“放送”のあり方を大きく変えるプロジェクトを2020年に向け進めている。テレビ放送とインターネットの「常時同時配信」だ。

 金曜20時にテレビをつければ「チコちゃんに叱られる!」が放送されている。同じタイミングでサイトにアクセスすれば、テレビと同じ「チコちゃん」を鑑賞できる――。NHKの同時配信はこんなイメージだ。

 3月5日には、これを可能にする放送法の改正案が閣議決定され、政府は今国会での成立を目指すという。石田真敏総務相は「スマホなどを用いて様々な場所で放送番組を視聴したいという国民視聴者の期待に応える」と語り、一見、いいことづくめのように見えるが……。3月6日付の朝日新聞はこの決定を次のように報じた。

「チコちゃんに叱られる!」(NHK総合・金曜・午後7時57分~)
〈2010年にNHKが同時配信に乗り出す方針を表明して以来、ようやく政府がゴーサインを出した形だが、約6900億円の巨額の受信料収入を持つNHKが肥大化するとの懸念はずっとついて回ってきた。このためNHKは総務省の求めに応じ昨秋、受信料の値下げを発表。ガバナンスの徹底や会計の透明化に取り組むことも表明した〉

 その〈懸念〉を抱く急先鋒が民放各社だ。さるキー局関係者が胸中を語る。

「そりゃ、われわれ民放からすれば“NHKが受信料で好き勝手やってる”という話になりますよ。スタートにも維持にもカネがかかるネット同時接続なんて、NHKだからこそできること。NHKが民放より採算性が問われないなんてことは、改めて説明するまでもないですよね。低視聴率の『いだてん』を打ち切らずに続けられるくらいなんだから……。それはともかく、日本民間放送連盟の会長の大久保(好男・日本テレビ社長)さんは、“民業を圧迫しないでほしい”と常々釘を刺してきました」(キー局関係者)

 今のところ、NHKがネット関連業務に費やせる金の上限は“受信料収入の2・5%”としている。先の朝日新聞報道の受信料収入に照らせば、およそ172億円だ。

「日本におけるネットTVの先駆けである『AbemaTV』が、設立以来“年200億円”の赤字だというのが、比較の参考値でしょうか。Abemaの場合は、配信だけでなく番組の制作予算込みでこの赤字なわけですが、NHKはテレビ用のコンテンツを作る予算が別途あり、基本的にネットでそれを流すだけ。制作費は無視して172億円をネット配信に費やせるわけですから、かなり有利といえる。人件費などの点でも、どこからどこまでがネット関連の仕事なのか、現状では線引きが曖昧です」

 しかも、引き続き“2・5%”ルールをNHKが守るかどうかは不明――。読売新聞の取材に答えた上田良一NHK会長は〈20年度以降は「(著作権に関する)権利処理が大きな課題。どの程度費用がかかるか予測困難」とし、「適正な上限を設け、抑制的な管理に務め、民放や視聴者の皆さんのご理解を得られるよう説明責任を果たしていく」と含みをもたせた〉(2月4日付夕刊)。

見切り発車の同時視聴
 その上、NHKの同時放送には“見切り発車”との指摘もある。ニュースサイト「BLOGOS」に「リスク高く茨の道を歩みそうなNHKの常時同時配信」(3月6日配信)を寄せた芸能ジャーナリストの渡邉裕二氏はいう。

「サービス開始にあたっての整備をどうするのか、という点が見えてきません。今のところNHKは、受信契約者にID(視聴者番号)とパスワードを与え、それでネット視聴もできるようにするとしています。では、受信料を払っているひと家庭に、いくつIDを与えるのか。世帯あたりで何人がネット視聴を利用できるようにするのか、そのあたりをまったく決めていないようなのです。当然、IDをどう管理するのかも未定。たとえばIDがメルカリで売られたらどうするのか、そういった対策も講じる必要が出てくるでしょう」

 渡邉氏は、そもそもネットでNHKが観られることの需要にも疑問を呈する。

「いまや、自宅のレコーダーで録画して、出先でもスマホで番組を観ることができる時代です。果たして、テレビを生で観たいという人がどれだけいるのか。せいぜい、スポーツと緊急時のニュースくらいでは。前者を考えれば、たしかに、東京五輪に合わせて同時接続を始めるというNHK戦略は理にかなっています。が、後者に関しては、緊急時にはIDやパスワードなしでもネット視聴ができるようになるといいます。受信料の縛りに、ますます意味がなくなります」

 NHKは、民放5局が始めたネット無料配信サービス「Tver」にも参加することを明らかにしている。基本的に同じネット配信なのに、こちらはタダで、あちらは受信料契約があると観られる……。棲み分けもややこしくなりそうだ。

 民放から大反発を受け、コストだってかかる。どれだけ需要があるかも怪しい。それなのになぜ、NHKは「同時配信」したいのか。

「家庭の固定電話が辿る道と同じで、将来的にテレビでの受信料徴収が見込めなくなる。将来的に、スマホやPC視聴からも徴収できるようにするための布石でしょう。放送法上、今のところはスマホを持っているだけで受信料、とはなりませんが、今後はどうなるか。これまでは『テレビ持っていません』、あるいは『(ワンセグ機能のない)iPhoneです』もありえましたが、いまの時代、『ネット使ってません』はまずない。スマホを買う時に、強制的にNHKの受信契約を結ばせられる……なんて未来もあるかもしれませんよ」(先の局関係者)

 テレビとネット、そして“その先”をNHKは同時に視ている――?

週刊新潮WEB取材班

2019年3月14日 掲載

今さら聞けない!デフォルトの意味と使い方 例文つきで解説
【スグ使えるビジネス用語集】
 2016/11/27 マイナビストア
ビジネスシーンだけでなく、ネット上やニュースなどでも耳にする「デフォルト」。よく聞く言葉ですが、意味が複数あるため、正しく知らないと「あれ?」と思ってしまうこともしばしば。意味をはき違えると、コミュニケーションにも支障をきたす可能性があります。そこで、今回はデフォルトの意味や使い方についてご紹介します。

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■デフォルトの意味とは?

デフォルトには大きく分けて3つの意味があります。
1つ目は「債務不履行」という意味。たとえば、新聞の見出しに「ギリシャ、デフォルトの危機」とあれば、金融危機に陥って債務不履行になりそうだ、という意味になります。
2つ目は「初期設定値」で、ソフトなどの初期設定値のこと指します。これから転じて、「定番」「普通」という意味が3つ目の意味です。
ビジネス用語で使う場合は、金融とそれ以外では意味合いが異なりますので注意しましょう。また、デフォルトを略して「デフォ」ということもあります。

■デフォルトはどんなときに使う言葉?

デフォルトは、金融なら「債務不履行」、パソコンなどのソフトなら「初期設定値」、それ以外で使うときは「普通」「仕様」という意味になります。金融関連でデフォルトとあれば、文字通り債務不履行という意味です。
パソコンのソフトや計算書など、あらかじめ数値が設定してあるものもデフォルトといい、必要に応じて数値を変えることをカスタマイズといいます。一般的に、入手したばかりのソフトや見積もりなどのフォーマットは、初期設定の数値なので、デフォルト状態です。
それで以外では、「彼はいつも遅刻する」なら「彼の遅刻はデフォルト」のように、普通、または仕様という意味で使われることもあります。
■バッファの意味とは?

バッファはもともとコンピューターに関する用語で、パソコンに一時的に情報を保存する領域をバッファと呼んでいました。このことから、IT用語としては今も「保存領域」という意味で使われます。これが転じて、ビジネス用語としては「余裕」「緩衝」という意味で使われるようになりました。

物理的なスペースだけでなく、コストや在庫管理、時間的なゆとりの意味でも使われるケースが多い言葉です。また、緩衝剤の意味から、仕事の交渉や人間関係などでサポートなど、クッションの役割を果たす人のこともバッファと言うこともあります。

■バッファはどんなときに使う言葉?

ビジネス用語としてのバッファは「ゆとりがある」「余力がある」という意味で使うので、可能かどうか問われるシチュエーションで使われることが多くなります。

在庫管理でゆとりを持たせるときや、タイムライン・進捗の予定を立てるときに日程を持たせるときなどに使います。

また、予備という意味でバッファを使うことがあります。消耗品や交換部品の予備などのことを、バッファと呼ぶことも。

他にも、人に当てはめて使うこともできます。「バッファがあるから大丈夫」といえば、余力があるのでまだ仕事を引き受けることができる、という意味になります。仕事や特定の人物に対してバッファとしての役割を求められたら、それは仕事や人物に対するサポート役を求められているということです。

イノベーションとは英語の「innovation」のことで、「革新」「一新」などの意味を持つ言葉です。この言葉は動詞 「innovate」 の名詞形で、ラテン語の「リニューアルする」という意味を持つ言葉に由来しています。

日本で使われる「イノベーション」には、「革新」「一新」という意味のほかに、「技術革新」「大きな変化」「新しい活用法」などの意味を持つこともあります。つまり、ただ単に新しくするのではなく、これまでの常識が変わるほど社会を大きく動かす技術革新や、新たな概念を指す言葉ということです。

そんな今さら聞けない「イノベーション」がビジネスでどんな使われ方をするのか、例文とともに解説していきます!

「イノベーション」の意味と使い方とは
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「イノベーション」の使い方
実は、私たちのまわりには「イノベーション」の成果であふれています。例えば、インターネットやテレビ、スマートフォンなど。新たなアイディアが生まれ、私たちの生活を根本から変えてしまいましたよね。そのほかには、車や飛行機などの移動手段もイノベーションの成果です。もっと身近なところでは、自動販売機や回転寿司もイノベーションの成果と言えるでしょう。


上記の例からもわかるように、イノベーションはこれまでにない発想や従来のやり方の中でアイディアが生まれ、そこにニーズと技術が加わり成り立つものなのです。ビジネス用語としての「イノベーション」は、「次のイノベーションとなりうる製品が必要だ」というように、技術革新という意味で最もよく使われます。

しかし、最近ではその枠を超え、サービスやマーケティングなどの分野にも広がり、「新機軸のサービス」や「新たな価値観の提案」という意味でも使われるようになりました。また、ITを活用したイノベーションも注目され、仕組みや情報を活用した変革が進んでいます。

ビジネスシーンでは、「イノベーション戦略」「コンセプトイノベーション」「マーケティングイノベーション」など、他の語とともに使われることもあります。どちらにしても、これまでの価値観や常識がリニューアルされ、企業がその変化から利益を得ようとするときに使うのが適しているでしょう。

▼コンセンサス以外にも! ビジネスで使われるカタカナ語の意味をチェック!
https://gakumado.mynavi.jp/freshers/articles/12549

イノベーションの例文
実際のビジネスシーンで、「イノベーション」という言葉がどのように使われているのか、例文をご紹介していきます。

<単体での例文>
・「新しいことを否定してばかりでは、イノベーションは生まれない」
・「イノベーションの原動力となりうるのは何だろう?」

<他の語と組み合わせた例文>
・「持続的イノベーションで成り立っている企業は、破壊的イノベーションを重視しない傾向にある」
・「最近では、ユーザーが目的達成のためにイノベーションを起こすユーザーイノベーションが多発してる」

ビジネスシーンでは、社内・外を問わず「イノベーションの必要性」に関する使い方が多く、革新のキーワードといってもいいかもしれません。ただし、「革新的イノベーション」と同じ意味の語を重複して使わないように注意しましょう。

「革新」を意味する「イノベーション」。「○○のイノベーション」といえば聞こえはいいのですが、「新たな○○の導入」で意味をなすものはそのままの方が無難かもしれません。ビジネス用語は日々新しいものが出てくるので、しっかり意味を理解して使うようにしましょう!

文・学生の窓口編集部

(記事引用)

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運転免許証も自動車教習所も不要になる日…「ACES」は社会システムを変える
Business Journal2019年1月18日 21時0分

 このようなことを書くと、「あなたは欧米かぶれだ」といわれそうだが、決してそうではない。米国や英国に行って、自動車やIT業界の人たちと会話中に「エイシス」という言葉が聞こえたとしても、その意味がわからなければ聞き返すか、わからないまま帰国してしまうことになる。しかも最新のトレンドを表す言葉だからこそ、辞書にはおそらく載っていない。日本で使われているアルファベットの略語が海外でも通用すると思いがちだが、通用しないということを、私の失敗談を踏まえて指摘しているのだ。

●ACESとは何か

 さて、クルマのトレンドを表すACESは、これまでの内燃エンジンのクルマとはまったく違う概念であり、これからのクルマのあり方を示している。Aの自動運転車(Autonomous Vehicle)は、ドライバーがハンドルを握らなくても自動的に運転できる未来のクルマを指す。自動運転車は2020年にも実用化が始まるとの報道もあるが、クルマの操作法を知らなくても乗れるなら、運転免許はいらないだろう。そうなると自動車教習所もなくなり、免許を発行する公安委員会も不要になる。技術だけではなく、法律を含め社会のシステムまで大きな影響を及ぼすことになる。だからこそ、普及するまでには相当な時間がかかる。業界では2030年か40年頃とみている。

「つながる」を意味するConnectivityは、クルマとクルマをつなげることで横から飛び出してきそうなクルマを検知することができ、渋滞情報をリアルタイムで知ることで最適なルートを示してくれる。加えて、欧州で始まったeCall(イーコール)サービスも提供してくれる。このサービスは、自分の車が大きな事故を起こし、たとえドライバーの意識がなくても、事故が起きたことをサービスセンターへ自動的に知らせ、即座にロードサービスが駆け付けてくれるサービスだ。助からない命が助かる場合がある。自動運転と組み合わせて、一人のドライバーで数台のトラックを連れて走行することもできる。まさにドライバー不足を解決する手段になりうる。

 Electric Vehicle(EV)は電気自動車。リチウムイオン電池の進歩がITや半導体の進歩ほど早くないため、いまだに電気自動車の欠点は走行距離が短いことになっているが、電池の進歩が進むと1回の充電で500km走行することは、もはや夢ではない。昨年12月24日付日本経済新聞によれば、2020年代前半に実現可能になるという。EVは走行時に二酸化炭素を排出しないため環境にやさしい。加えて、燃費(電費)も安い。水素自動車も一時話題になったが、水素ステーションの設置にコストがかかり、さらに水素の燃費はガソリン車より少し良い程度にとどまっている。

 Sharing(シェアリング)は、自家用車の稼働率が4.8%しかないという試算があるなかで、この稼働率をもっと上げようというトレンドだ。代表的なサービスとして、ウーバーなどがある。たとえば、暇を持て余しているクルマの所有者に対して、他人を乗せて運ぶという仕事を与えることで、稼働率を上げる。このビジネスモデルは、ドライバーも乗車する人も予め登録しておき、配車アプリを使ってマッチングさせるというもの。

 ACESのなかでテクノロジーと密接に関係する言葉は、ACEである。Sはビジネスモデルやサービスに関係し、自動車関係以外のテクノロジー業界ではあまり問題にされていない。
(文=津田建二/国際技術ジャーナリスト)
(記事部分引用)
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※そういえば「日産」はいち早くこれを立ち上げ、ルノーはそれが欲しかったのでは???







文章が読めない「新聞読まない人」の末路
PRESIDENT Online2019年01月06日 11:15 
Siri、コンピュータ将棋ソフト、お掃除ロボットにスマートスピーカーなど、AI(人工知能)技術は身近なものとなっている。だが、人間がAIの判断に依存することで、考える力を失ってしまう世代が生まれてくるという。いま、どのような教育が必要なのか。
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■新聞を読まない人の、おそるべき傾向
【新井】これからAI時代が本格的に到来する中、生まれたときからAIの判断と推薦によって生きることになる世代を、私は「デジタルネーティブ」ではなく「AIネーティブ」と名付けています。
例えば、YouTubeで電車の動画を見ていると、次はこれを見たらいいとどんどん推薦してきますね。子どもは自分から何かを探すわけではなく、AIに推薦されたことに無意識に従って生きていく。そんな子どもたちがこれから育ってくるのです。

【佐藤】タブレット型学習法によく似ていますね。

【新井】ええ。AIネーティブの子どもたちが育つとき、自分が本当に何をしたいのか。自分で切実に欲求する前に、与えられたものだけを消費してしまうことになる。そうやって育った子どもたちが将来的にクリエーティビティを発揮し、生産者として必要な真実の判断ができるのか。私は難しいように思うのです。

【佐藤】わかります。AIは統治者にとっては非常に有利なツールでもあります。ですから、統治者側の子どもたちには、そういったものには一切触れさせない一方で、統治される側のほうにはAI時代というかたちで浸透させていく。実際、新聞を読まない人たち、つまり、SNSに依存する度合いが強い人たちほど現政権を支持する傾向が高くなっています。

【新井】本当にそうですね。AIはお金を持っている人たちが制御しやすいツールなのです。どのように正解データをつくるかで、AIの動き方は決まってくる。それを客観的で公平なものだと思っていると本当に不利になります。

【佐藤】おっしゃること、よくわかります。AIに慣らされてしまえば、成立しえない非論理を、論理的だと思ってしまうことがある。

最近、私が教えている神学部の学生たちに見せたちょっと面白い映画があります。それが1944年の11月につくられた日本の国策映画『雷撃隊出動』です。

【新井】レイテ沖海戦の後、硫黄島の戦いよりは前の時期ですね。

【佐藤】映画の登場人物が、アメリカ人捕虜の話を聞いて、「あいつらは飛行機も軍艦も兵器も兵もいい、大なるものが小なるものに劣るということは成り立たないというんだ。そしてまた質も優れている、新兵器もいろいろある。そんなアメリカが絶対に負ける道理はないというんだ」と嘆く。

すると、仲間が「こっちが1人死んで、あいつらを10人殺せばいいんだ。それ以外にこの戦争に勝つ道はない」という。確かにそうだと納得して、最後は雷撃機を駆って敵機動部隊に次々と体当たりしていくところで終わりになるのです。つまり、負け戦を前提とした映画です。これがなぜ戦意高揚映画になるのか。そこを考えろと学生に課題を出したのです。そうすると、ある優秀な学生が「先生、これは死の美学ですね」と指摘した。つまり、いかにきれいに負けるか。玉砕の論理になっているというのです。

合理的に考えたら、絶対に勝てないけれど、気合とか精神力といった主観的な願望によって客観情勢は変わる。精神の力を極大にすれば絶対に勝つという論理です。

(写真左)1944年公開の開戦3周年記念映画『雷撃隊出動』(東宝)。魚雷を積んで敵空母へ突入する雷撃隊を描いた。
(写真右)佐藤氏が新井氏にスマホで動画を見せている様子。

■私が戦時中の映画を、学生に見せるわけ
【新井】この映画を見た当時の人たちが、1人で10人を殺さないとこの戦争は勝てないのか、というふうに思ってくれればよかったんですけど。

【佐藤】しかし、そうはならなかった。完全に非論理的なものを、論理的だと思ってしまう。これと同じことが、今あちらこちらに忍び込んでいる感じがするのです。

【新井】そういえば、2018年夏に考えさせられるニュースがありましたね。2020年の東京オリンピックのとき、猛暑になったらどうするのかという話です。その対策として、打ち水とかよしずといった、日本のコンテンツによっておもてなしをするという。

しかし、その前に考えるべきことは、40℃近い猛暑の中、マラソンランナーを走らせることが適切なのかどうか。国際基準に照らし合わせれば、不適切となってしまうはずです。猛暑の場合、オリンピックのマラソンを中止するというのは、死者を出さないためにも、正しい判断だと思うのです。

【佐藤】しかし、オリンピックをやることが生命よりも重要な価値となれば、話は違ってくる。

国立情報学研究所教授 新井紀子氏

【新井】そう。だからこそ、何事においてもグローバルに展開をするときに、精神論というものは、もう成立しないんです。

【佐藤】こういった非論理なことを、おかしなことだと自分で気付かなければならない。そのために、我々はきちんと読解力を身につけないといけないのです。ですから、私はわざと戦時中の映画を学生たちに見せています。戦前の軍のイデオロギーに基づいた教育を繰り返し受けて育った人と、さきほどのAIネーティブの話は似ているように見えます。

【新井】ある意味、1つの価値観の中で、純粋培養で育ってしまう。それがAIネーティブの問題点の1つでもあります。GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)は、明らかに自分たちのサービスを消費してくれるAIネーティブになってほしいと思っていますから。

【佐藤】資本の論理からすると、当然の話ですね。

【新井】それがまさにリバタリアン(完全自由主義者)による資本主義が、これ以上長続きしなくなる理由でもあるのです。資本主義というものは細く長く搾取することに意味があり、今のように一気に搾取してしまうと人材が駄目になって、資本主義が終わってしまう。最近、そんなことをヘッジファンドの有力者たちが言い始めています。

それは、ある意味、リバタリアンやGAFAがリスクになっているという認識だと思うのです。今は誰もGAFAが滅びるなんて言いませんが、私はGAFAが滅ぶ日は遠からずくると考えています。世界の有力者は資本主義を延命させるためにも、GAFAを滅ぼさなければいけないと思っている。

GAFAが提供するものは、普通の資本主義、つまり、生産物を売り買いするという正常系の経済学的な資本主義から考えると、ありえない話なのです。そもそも全然モノを売っていないのに、我々をずっとスマホ漬けにして、搾取してくる。

【佐藤】その結果、消費も非常にバーチャルな仕方になっています。

【新井】自己承認欲求や自己愛を心理学的にうまく操作されながら、消費者はずっとタダ働きをさせられて、わけのわからない消費をさせられてしまう。

それはどう考えても資本主義にとってメリットがあるとは思えない。どこかでこれをやめなければならない。そのことを一番よく理解しているのは、フランスのマクロン大統領とカナダのトルドー首相です。とくにマクロンは、本当に微に入り細に入りよくわかっている。それこそ、哲学や数学といった文理の教養を重視するグランゼコール(フランスのエリート教育機関)の偉さだと思うのです。ある意味、国民国家を守るために、どうやってこうしたテクノロジーを制御するのか。そんな難しい課題にまじめに向かい合っているのは、マクロンだけでしょう。
■このままでは、資本主義が終わる
【佐藤】少し別の切り口のところから見ると、私はマルクス経済学をもう1回見直さなければならないと思っています。マルクスの『資本論』研究の第一人者である宇野弘蔵は、資本主義社会は、労働力を商品化させることで、あたかも永続的に繰り返すがごときシステムとなると言います。そのためにも、3つの要素が賃金の中に含まれている必要がある。

作家・元外務省主任分析官 佐藤 優氏

まず1番目は、食費、被服代、家賃、ちょっとしたレジャーといった、労働するためのエネルギーを蓄えるためのお金。2番目は、次の世代の労働者をつくり出すためにパートナーを見つけたり、家族を養うのに必要なお金。3番目は、技術革新に対応するための自己学習のためのお金。

資本主義を持続的に発展させていくための秘訣はそこにあるわけで、賃金が極端に下がり、この3つの要素を満たせなくなれば、プロレタリアートが成り立たなくなり、資本主義も成り立たなくなります。

【新井】マルクスのその考え方は、非常に普遍性が高くて、まさに資本主義をどうすれば持続できるかがわかります。

具体的なことを申し上げると、私の周りでも、多くの大学生が修士を出るまでに600万円くらいの借金をしています。もし大学院生の男女が結婚したら、その瞬間に両方で1000万円以上の借金ができることになる。20代で1000万円以上の借金があったとしたら、子どもなんて怖くてつくれません。

【佐藤】しかも、本来はそんなお金は貸してはいけませんよね。バブル時の不良債権のようです。

【新井】その状況で、3人子どもを産むなんて絶対に無理なのです。しかも、仕事が非常に不安定な状況で、稼げる見込みもない。では、そうしたお金が稼げないような人たちが今、何を言い始めているのか。結婚することと子どもを持つこと、家や車を持つこと。このコストだけで1億円くらいかかる。これを全部あきらめれば、このコストからフリーになれると言っているのです。それをプロレタリアートに言われたら、もう資本主義は終わるのです。

【佐藤】それはもうプロレタリアートではなくなるということですよね。

【新井】そう。そうすると、もう本当に国民国家は終わるのです。結婚はしません、家は持ちません、車などのレジャー消費はしません。それで、勉強はしません、自由になりますと言われたら、それはもう終わるのですよ(笑)。

【佐藤】そう言えば、プライドを満たすことができるのでしょう。車を持てない、家族を持てないということではなく、持たない。それが主体的な選択だということです。そうすれば、プライドを満足させることができる。

■AIに負けない子育て法
【新井】それがある意味、妙な革命なんだなと思ったのです。

【佐藤】ああ、それは思いますね。文学のほうで見ると、その辺の革命を一番よく表しているのは、作家の柚木麻子さんですね。例えば、『伊藤くん AtoE』とか。

【新井】『ポトスライムの舟』で芥川賞を受賞した津村記久子さんもそうですね。あの辺の人たちの小説を読んでいると、まさにそうだと思います。今のプロレタリアート文学は『蟹工船』ではなくて、『ポトスライムの舟』なのです。

【佐藤】村田沙耶香さんの『コンビニ人間』、窪美澄さんの『アカガミ』など、女性作家たちが描くものは非常にリアルだと思いますね。

【新井】それは、彼女たちの世代が一番ひどい目に遭っているからでしょう。

だから、今そういう文学が出てきているのでしょう。そのくらい、GAFAによって、今とてつもない搾取が行われている。おそらく、今一番大きな危機に直面しているのが、国民国家です。将来的に人口減少は進み、再配分も成り立たなくなるでしょう。しかし、それを国民国家は阻むことができない。

【佐藤】そのとおりです。

【新井】今の状況を考えると、将来、日本でAIネーティブたちが子育てしたとき、本物の社会や本物の人間とコミュニケーションできるかどうか、大きな懸念を持っています。危機に直面する経験がなければ、問題解決することはできません。お腹が減る前に、おいしいものが次々と出てくる世の中では、渇望もなくなってしまうのです。

【佐藤】食欲も性欲も、そういったものすべてが飼い慣らされてしまうわけですね。

【新井】そうです。もし人間がAIらしくなれば、AIには必ず負けます。AIにできることは基本的には四則演算で、AIには意味を理解できないという弱点があります。オックスフォード大学の研究チームが発表した10~20年後に残る仕事、なくなる仕事のリストを見ると、仕事がマニュアル化されやすいものがAIによって代替されやすく、コミュニケーション能力や理解力を求められる仕事が残りそうです。つまり、読解力こそがAIに代替されない能力なのです。

その読解力をどうやって身につけていくかといったら、言語という人工物が発明される前の、ホモ・サピエンスになる前の段階に戻って、感受性豊かな敏感期に、さまざまな経験をさせる。暑い日にお母さんと一緒に歩いてくたびれて、でも歩きたくて、それで10歩歩くと、しゃがんで虫を見つけたり、石とかを拾う。あの石じゃなくて、この石が好きだとか、あそこに光っているのはタマムシだ、とか。それに付き合うのは親として本当に大変なのですが、そうした人を見ると、私は必ず褒めます。そして、絶対にスマートフォンを渡さない。

重要なのは、人間として育てる前に類人猿としてきちんと育てることです。それは人間が個体発生ではなく系統発生だから。子どもにAI人材になろうとか、プログラミングをやろうとか言う前に、まず類人猿にすることです。それから人間になっていくことが大事だと考えています。

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新井紀子(あらい・のりこ)国立情報学研究所教授

同社会共有知研究センター長。一般社団法人「教育のための科学研究所」代表理事・所長。一橋大学法学部およびイリノイ大学数学科卒業、イリノイ大学大学院数学研究科単位取得退学。東京工業大学より博士を取得。専門は数理論理学。著書に『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』がある。

佐藤 優(さとう・まさる)作家・元外務省主任分析官

1960年生まれ。85年同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本大使館勤務などを経て、作家に。『国家の罠』でデビュー、『自壊する帝国』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『国家論』『私のマルクス』『世界史の極意』『神学の思考』など著書多数。

(記事引用)







「パプリカ」5人のフーリン(Foorin)
米津玄師プロデュース楽曲「パプリカ」5人の小学生が歌うNHKの2020応援ソング
NHKは、米津玄師が作詞・作曲、プロデュースによる楽曲「パプリカ」が2018年8月15日(水)より発売される。
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「パプリカ」は、オーディションで選ばれた5人の小学生による新しいユニット「フーリン(Foorin)」が歌う、2020年のオリンピック開催年に向けた応援ソング。NHKでは、「フーリン(Foorin)」が歌う「パプリカ」を8月~9月のNHK「みんなのうた」で放送するなど、プロジェクトとして多くの人に参加してもらうよう展開するという。なお、同プロジェクトは「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」に「東京2020公認プログラム」として認証されている。

2018年8月15日(水)にCDリリースされる「パプリカ」は初回生産限定盤、通常盤の2種類。初回生産限定盤には、7インチの紙ジャケットにポスター型歌詞カードと「みんなのうた」の楽譜、DVDが付属する。DVDには、フーリン(Foorin)が自然の中で「パプリカ」を元気に踊るミュージックビデオをはじめ、振り付けを担当した辻本知彦と菅原小春によるティーチャー ビデオ、「パプリカ」の世界観を表したミュージックビデオ2と、計3タイプのDVDが収録される。



なお米津は、2018年3月に「Lemon」を発表。ミュージックビデオが1億回再生を突破しているだけでなく、日本レコード協会より史上最速での100万ダウンロード認定を受けた。2018年上半期の音楽チャートを席捲している彼が、次に行う大プロジェクトとなる今回。同楽曲発表にあたり、以下のようなコメントを寄せた。

「子どものころを思い返すことがここ最近の音楽活動に於おいて、重要なテーマになっていたところに、ダイレクトに子どもへ向けた音楽を作ることになりました。子どもたちが素直に楽しめるものを作るためには、子どもの目線で生活を省みつつ、まず子どもを舐なめないところから始めるべきだと思いました。この曲を聴いた子どもたちが、小さな世界を元気に生きていく為ための糧になりますように。」

【詳細】
米津玄師プロデュース楽曲「パプリカ」
発売日:2018年8月15日(水)
・初回限定:7インチ紙ジャケ+CD+DVD+みんなのうた楽譜+ポスター型歌詞カード 1,500(税込)
・通常盤(初回仕様):CD+みんなのうた楽譜 700円(税込)
<収録内容>
-CD-
1.パプリカ
2.パプリカ(Instrumental)
-DVD-※初回限定のみ収録
1. パプリカ Music Video
2. パプリカ Teacher Video
3. パプリカ Music Video 2
(記事引用)






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