シリコンバレーの秘密の歴史・(1)(2)――祝・シリコンバレー生誕100周年
伝説が現実になったら、その伝説を出版しましょう――リバティ・バランスを射った男
日経コンピュータ) 2012/07/30
今回から、ブランク氏が著した「シリコンバレーの秘密の歴史」シリーズを隔週の予定で掲載します。第1回は、ブランク氏がひも解くシリコンバレーの原点です。
シリコンバレーの起源は、一般に言われる半導体やパソコン関連の企業ではありませんでした。(ITpro)
siliconvalley
 私は、自分が実際に住み、働く場所となったシリコンバレーのことを、常々知りたいと思っていました。アントレプレナーとして自分のキャリアを積む過程で、投資家のベンチャー・キャピタリスト(VC)や友人に 、「アントレプレナーシップはどこから出現したのか」「シリコンバレーはどのように始まったのか」「なぜこの場所だったのか」「なぜこの時期なのか」「“これを実現してやろう”という文化はどのようにして出現したのか」などを尋ねました。答えとして返ってきたリアクションは、私の過去の職務の中で返ってきたものと同様で「そんなことは誰も気にしていない、自分の仕事に戻りなさい」というものでした。

 私が引退した後、カルフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネス・スクールのレスターセンター・アントレプレナーシップ課程でディレクターを務めるジェリー・エングル氏が、勇敢にも「顧客開発」手法を私が教える機会を提供してくれました。クラス用の教材を考案しているとき、シリコンバレーの歴史の一端を予習するのは難しくないと思い、私の長年の疑問だったアントレプレナーシップの起源の答えを得ることになりました。

伝説:ヒューレット・パッカード、アップル、インテル

 私は、シリコンバレー関連書籍で人気があるものをすべて読みました。それらの本は、物語としては同じであり複数のバリエーションと言えました。すなわち、半導体企業やパソコン関連企業を創業したアントレプレナーを英雄と見なしているもので、ビル・ヒューレット氏とデイビット・パッカード氏が創業したヒューレット・パッカード(HP)、ボブ・テイラー氏と彼のチームが始めたゼロックスPARC、スティーブ・ジョブズ氏とスティーブ・ウォズニアック氏が創業した米アップル、ゴードン・ムーア氏とボブ・ノイス氏が創業したインテルなどについて書かれていました。

 それらの本は、読者を奮い立たせるものの驚くような内容はなく、人気のある出版社が出した、一般大衆にアピールするためのものだと思いました。それらはすべて、無一文で大胆なアントレプレナーが、万難を乗り越えて創業し、会社を成功させた、面白い読み物です。

 しかし、アントレプレナー文化がどこからやってきたのかについては、誰も書いていませんでした。「半導体やパソコン企業がなぜここで始まったのか」「米国の他の地域や他の国で、“シリコンバレー”がどうして興らなかったのか」について書いた本は、どこにあるのでしょうか。「Regional Advantage: Culture and Competition in Silicon Valley and Route 128」(邦題、現代の二都物語―なぜシリコンバレーは復活し、ボストン・ルート128は沈んだか)以外は、シリコンバレーの地域的利点を説明していません。その理由は、アントレプレナーは常に前進していて、過去をほとんど振り返らなかったからでしょうか。私は、さらに深く知る必要がありました。

事実:真空管バレー――誕生100周年

 私は驚いたのですが、シリコンバレーはパロ・アルト市のガレージで始まりましたが、それはヒューレット氏とパッカード氏のガレージではありませんでした。シリコンバレーの最初のエレクトロニクス企業は真空管のフェデラル・テレグラフであり、もともとはポールソン・ワイヤレスという名前で1909年に創業されました。

 同社のことは、誰も気にも止めなかったし、誰も指摘しませんでしたが、1912年までに同社のリー・ディフォレスト氏はトライアード(真空管増幅器)を発明しました。その当時のスティーブ・ジョブズ氏であり、未来が見える人、すなわち「ビジョナリー」であり、カリスマで、論争の的になる人でした。

 パロアルトにあったフェデラル・テレグラフとリー・ディフォレスト氏が、シリコンバレーの最初の重要なイベント(出来事)です。シリコンバレーの始まりは、ここに設定する必要があります。

 ビル・ヒューレット氏とディビッド・パッカード氏がスタンフォード大学を辞めてHPを始める1937年までに、スタンフォード大学近辺の農園地帯は既に「真空管バレー」になっていました。HPは、エレクトロニクス・テスト機器(電子検査機器)を開発製造しており、リットン、エイテルやマックローなど、業績を上げている少数の企業の一社に加わりました。

 HPが始まった1930年代の終わりころには、真空管を開発していた、数百人程度の小規模なエンジニアグループが、電子機器製造、プロダクト・エンジニアリング、技術マネジメントなどの、シリコンバレーのエコシステムの中核になりました。

誰に予想できたのでしょうか?―
―マイクロウェーブ・バレー、1950年代と60年代

 第二次世界大戦中とその後のシリコンバレーに関して書かれた資料はあまりありません。戦後と1950年代のシリコンバレーの話のほとんどは、真空管企業の成長とHPの発展に関するものです。よく読まれている文献によると、1960年代のシリコンバレーは、ショックレー、フェアチャイルド、シグネティックス、ナショナル・セミコンダクター、インテルなどによる半導体革命で活気づき、1970年代中ごろには、パーソナル・コンピュータ(PC)が出現します。

 しかしながら、私はより多くの文献を読めば読むほど、1950年代と1960年代に関して一般的に知られているシリコンバレーの歴史は不完全であり、間違っていることに気づきました。現実には、メディアに注目されることもなく、シリコンバレーの歴史文献に載ることもない多くの企業に対して、巨額の資金が支払われたのです。電磁スペクトラム関連で、マイクロウェーブに関する部品やシステムに特化している企業が、シリコンバレーの果樹園の果物(訳者注:アプリコットやプルーン)よりも早く芽を出しました。1950年代の初めから1960年代の初めの10年間で、マイクロウエーブ関連企業の雇用が、700人から7000人に急増しました。

 1950年代と60年代のスタートアップ企業(ワトキンス・ジョンソン、ヴァリアン、ハギンス・ラボ、MEC、スチュアート・エンジニアリングなど)は、マイクロウエーブ用の目覚ましい種類の新しい部品(パワーグリッド・チューブ、クライストロン、マグネトロン、バックワードウエーブ・オシレーター、トラベリングウエーブ・チューブ、クロスフィールド・アンプリファイヤー、ジャイロトロンなど)を製造していました。シリコンバレー全域にわたって、これらマイクロウエーブ用の部品は、米国の軍事目的用システムを製造している新規企業(シルベニア・エレクトロニクス、国防省の研究所、グレンジャー・アソシエイト、フィルコ、ダルモビクター、ESL、アーゴシステムなど)の製品に組み込まれました。1950年代と60年代は、興りつつある半導体やコンピューターの企業よりも、これらの企業によって多額の資金がつぎ込まれたのです。

 1950年代にシリコンバレーのエンジニア数が10倍に増加したのは、半導体ブームが起こる前に、軍関連とマイクロウエーブの需要があったからでした。これらのマイクロウエーブ関連のエンジニアは、大企業ではなくスタートアップ企業で働いていました。しかも彼らの仕事は軍事秘密だったので、誰も知りませんでした。

 バックワードウエーブ・オシレーター、TWT、マグネトロンなどのマイクロウエーブ部品の変わった名前を見たとき、忘れていたかつての記憶が蘇ってきました。これらの部品は、私が働いていたエレクトロニクス戦闘機器の心臓部に入っている主要部品であり、タイでの戦闘機やB-52重爆撃機に入っていました。20年後になって、このストーリーが私の元に帰ってきたのです。

革新はテレビで放映されませんでした

 シリコンバレーで、どうしてこのように爆発的な革新が創造されたのでしょうか。1950年代に、何がこのマイクロウエーブのスタートアップ文化を創造したのでしょうか。1950年代と1960年代にはVCが無かったので、資金はどこから出てきたのでしょうか。このスタートアップ・ブームは、突然どこからともなく現われたようにみえました。それが、ここシリコンバレーでなぜ起こったのでしょうか。どうして軍は、突然マイクロウエーブに関心を持ったのでしょうか。

 その答えの一部は、これらの会社と軍が何らかの関係を結んだからでした。加えて、スタンフォード大学の工学部が、これらのすべての出来ごとに絡んでいたようです。冷戦時に、軍/産業界/大学の関係、特にスタンフォード大学と情報機関との関係が秘密裏に形成されており、それは一般の目には触れることはありませんでした。

 私が読んだ文献には、開発された具体的な製品が何であったのか、スタンフォード大学の貢献が何であったかなどについては書かれていませんでしたが、真の顧客が誰であったか(ヒントは、軍だけでは無いということです)、どうしてこの作業がスタンフォード大学で行われたのか、興味をかき立てる示唆がありました。

 それが、すべての中心にいた、ある一人の人物を指していたとは、誰も知りませんでした。その人とは、スタンフォード大学のフレッド・ターマン教授でした。スタンフォード大学と米軍、そして情報機関が、今ではシリコンバレーで当たり前と考えている、アントレプレナー文化を始めたのです。

 この「シリコンバレーの秘密の歴史」シリーズの次回は、「フレッド・ターマン教授の秘密の人生」と「スタンフォード大学は冷戦を戦う」をお伝えします。

(2009年4月20日オリジナル版投稿、翻訳:山本雄洋、木村寛子)

「スティーブ・ブランク」著者紹介
 スティーブ・ブランク  シリコンバレーで8社のハイテク関連のスタートアップ企業に従事し、現在はカリフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学などの大学および大学院でアントレプレナーシップを教える。ここ数年は、顧客開発モデルに基づいたブログをほぼ毎週1回のペースで更新、多くの起業家やベンチャーキャピタリストの拠り所になっている。著書に、スタートアップ企業を構築するための「The Four Steps to the Epiphany」(邦題「アントレプレナーの教科書新規事業を成功させる4つのステップ」、2009年5月、翔泳社発行)がある。

シリコンバレーの秘密の歴史(2)――第二次世界大戦の映画は、すべて間違っている
2012/08/20
 ブランク氏が著した「シリコンバレーの秘密の歴史」シリーズの第1回では、シリコンバレーの起源が、一般に言われる半導体やパソコン関連が開発された1960年代ではなく、第2次世界大戦やそれ以前までさかのぼることを紹介しました。今回は、その中心となっている人物の登場背景を記しています。(ITpro)

 このブログは、私が書き始めた「シリコンバレーの秘められた歴史」の第2章です。このシリーズの第1章と、このタイトルのビデオとスライドを見ていただけると、内容がより理解しやすくなると思います。

 シリコンバレーの秘密の歴史という“パズル”の次の一片は、私がトム・バイヤーズ氏やティナ・セリッグ氏、マーク・レーズリー氏たちに、スタンフォード大学の工学部のスタンフォード・テクノロジーベンチャー・プログラムでアントレプレナーシップを教えないかと誘われたことに起因します。そして、私のオフィスはターマン工学部ビル内にあります。

フレッド・ターマン――その経歴

 私はターマン教授のことを聞いてはいましたが、実際に何をした人なのかまでは知りませんでした。彼の自伝によると、彼は1930年代の非常に著名なラジオ・エンジニアであり、その分野の教科書を書いた、まさにその人だということでした。彼は、生徒であるビル・ヒューレット氏とデヴィッド・パッカード氏が1939年に会社を創業するのを支援しました。第二次世界大戦中は、ハーバード・ラジオ研究所の所長でした。彼の自伝には、第二次世界大戦後の活動が書かれています。1937年には電子工学部長、1946年には工学部長、1955年には学術担当責任教授(プロボースト)に就任します。1954年に、彼はスタンフォード・オナーズ・コープを開始し、シリコンバレーにある会社のエンジニアたちが、スタンフォード大学院工学部で授業を受けられるようにしました。

 私は、シリコンバレーの歴史とアントレプレナーシップ、そしてターマン教授に興味を持っていたので、1950年代と60年代にシリコンバレーに設立された多数のマイクロウエーブ企業に、ターマン教授が深く関与していたことを知り始めました。しかし、どうやって関与しだしたのでしょうか。そして、その理由は何だったでしょうか。

 そこで私は、マイクロウエーブ開発に関係のある文献を手当たり次第に読み始めました。その結果、第二次世界大戦中のレーダーの歴史に、私を引き戻しました。この話を、あなたは知らないかもしれません。

第二次世界大戦はシリコンバレーと、どういう関係があるのですか?

 簡単に歴史を振り返ってみましょう。1941年12月に日本は真珠湾を攻撃し、ドイツは米国に宣戦布告しました。ソ連が東ヨーロッパで大掛かりな地上戦をドイツに対して展開しているとき、1944年6月に連合軍が西ヨーロッパを侵略するまでに米国と英国がドイツの戦力に対抗できる方法は、英国本土から戦略的な爆撃キャンペーンをすることだけでした。連合軍の狙いは、ドイツが戦争を遂行するのに必要な主要なインフラ施設を空爆で破壊し、ドイツの戦争遂行能力を破壊することでした。

 連合国の空爆のターゲットは、ドイツの石油施設、航空機製造施設、化学製品製造施設、交通施設などでした。米国と英国は役割分担し、英国は夜間、米国は昼間に空爆したのです。
(記事引用)

戻る~
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52067938.html
関連記事
 http://cinnacinnablog.blog.jp/archives/1702177.html

やはり西洋的価値観と中東的価値観に帰結?
今回のパリテロ事件について、事件真相の解明の話しについては、あまり深く詮索して云々というのは憚られる。

ここに引用した記事は、一般的なテロ事件分析に対して異論がある、ということで発言しているようだ。
その内容は、西洋的ものの価値観の歴史的推移をたどって、その歪んだ部分に入り込む余地があったのだ。という回答だ。

この状態を戦争としてフランスは捉え、応戦する姿勢を明確にした。戦争だから相手国があるはずで、ではその国家とはどこなのか。そこには国家はなく組織である。
これまでの歴史で、そうした戦争はなかった。また仮にその該当組織が勝ったとしたなら、どこの土地を占有し、世界に対してどう認知してもらうのか、という仮説は、まったく浮上しない。だからこれは、はじめからその相手が国家樹立する要件を持っていないというスタンスで戦っている。となると、これまでの歴史上で培ってきた「戦争行為」に関する諸々の約束事は、まったく通用しないことになる。
これも仮説の域だが、紛争ごとに、つきものの戦争商人、また政治的パワーバランスと、そのバックに控える既得権者のサジ加減で、金銭のプラスマイナス加減を操作しているものが、いるのかいないのか、その回答は歴史の時間を待たなければならない。

「なぜテロを肯定してはいけないのか?という話について」
宇佐美典也2015年11月17日 19:06 http://usami-noriya.blog.jp/archives/1488020.html
パリでのテロ事件に関連して、一部の人が「パリの死を悼んで、アラブで日常的に起きている死を悼まないのは先進国の偽善だ。今回のテロはその問題を提起したことに一定の意義がある」、などという趣旨の意見を表明しているので、憤りを覚えている。
なのでこれを機につたないながら「なぜテロを肯定してはいけないのか」、という根本的なことについて考えたことを少しまとめておくことにしたい。

まず結論から言うと、テロを肯定してはいけないのは、テロが民主主義の普遍的なルールに則っていないからである。

以下にざくっと民主主義成立の過程についてまとめる。(単純に汎用化しすぎているので一部誤謬もあるかもしれないが、そこはご容赦いただきたい。)

【自然状態】

人間が社会集団を形成するようになってから、社会集団内での序列を巡る闘争を解決する手段として個人の暴力が、また社会集団同士のいざこざの解決する手段として集団による暴力が日常化した。いわゆる「万人の万人に対する闘争」である。

【王権成立~暴力の独占】

こうした自然状態の無分別な暴力から解放されるため、人間は”政府”による暴力の独占・管理を求め、王国や宗教国家が誕生した。通常こうして誕生した国家は有力豪族の連携帯としての性格が強く、後に豪族や宗教的権威が貴族化した。そして貴族間の協議により法治国家が形成され、それを執行するための機関として官僚機構が誕生した。こうして、民衆は王権に暴力を奪われることで、暴力から解放された。

【王権の打倒~民主主義の成立】

王権の誕生で民衆はその時々の権威に運命を任せる生活を送るようになったわけだが、当然にして権力は腐敗するものなので、王権はしばしば悪政を布いた。その結果市民が奪われたはずの暴力を行使して、王権から権力の奪還を目指す運動が活発化した。いわゆる市民革命である。こうして権力を手にした市民は王権下で成長した官僚機構を再び特定の主体に委ねることを拒否し、その官僚機構を国民共同で統治することとした。すなわち選挙で選ばれた政治家に官僚機構の管理を委ね、自らの権利の保全を図ることとした。こうして国民主権と人権に基盤をおく民主主義が誕生した。

こうして欧州の一部で誕生した民主主義は数々の闘争を経て、普遍的価値を認められ世界へ普及しつつある。その結果人間は理不尽な暴力から解放されつつあるわけだが、この過程ではフランス革命、二度の世界大戦、植民地戦争、共産主義下の粛清などでおびただしい血が流されてきた。その意味で民主主義は血塗られている。

私たちが今暴力におびえず日々平和に暮らせるのは、自らの命を懸けて暴力と権力に挑戦し続けて「人権」という概念を作り上げ、社会に実装し、世界に広めてくれた、またそのきっかけを作った幾億の英霊のおかげである。今ISILのテロリストたちが試みているのは、こうして成立した「暴力の人民による国家管理」なり「国民主権」なり「人権」なりといった現代民主主義の前提となる英知をぶち壊すことである。

国家の権力の源泉は暴力の独占にある。ただし「暴力は、人権を守るために、国家という枠組みの管理の下で、民主的プロセスを経て使われるなければならない」というのが現代の民主主義国家の大前提である。

一方でテロとは無分別な暴力である。こうした無分別の暴力により主張を広めることは、民主主義の普遍的価値を否定することに直結する。だから民主主義社会に生き続けたいならテロリストの主張に部分的なりとも共感することがあっても、それを認めてテロリストを評価したり、彼らと妥協したりするようなことはしてはならない。

イギリスの中東での三枚舌外交、フランスのアルジェリア弾圧、アメリカのイラク戦争、といった先進国が過去に中東でしてきたことに問題や欺瞞があるのは間違いない。その意味でISILなどの主張には一理あるかもしれないが、彼らの主張は「テロリズム」という手段を用いたという点において否定されるはずだ。

繰り返しになるが無差別・無分別に人を殺しながら権利を主張することは現代民主主義に基づく国際社会では許されない。暴力での闘争を望むなら、国家として戦時国際法に則って非戦闘員の基本的人権に配慮して「戦争」をするべきだが、ISILは国家樹立宣言をしながらもそれさえもしない。

つまるところ「議論による解決」や「戦争」には民主主義に基づく国家の作法があるが、テロリストはその作法から逸脱している。だから戦うしかない。

ということなのではないだろうか。
 
ではでは今回はこの辺で。
(記事引用)
ギリシャ神話から、多くの西洋文化が生まれた - ワールドメイト ...
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オワコン橋下?
西の大阪ではどうだかしらないが、東の都市近郊では橋下関連記事が、ぴたーッととまった。何故だかしらない。どうして一斉に載らなくなったのか。新聞を読んでないので知らないが、おそらくそこにもないだろう。

問題の本人は、ツィッターのボタンを押しまくっているだろうと思うが、メディア系がそれをネットで取り上げない限り、ケンカネタであっても蚊の外である。

維新のゴタゴタは犬も猫もタヌキもキツネも食わないので、夫婦円満だろーうという、安易におもったら大間違いか。そなんことで、元グラドル”佐々木りえ市議に「選挙違反」ニュースでも載せておこう。どうせツマ程度のニュースだろうから~。

大阪維新の会“元グラドル”佐々木りえ市議に「選挙違反」疑惑
 日刊ゲンダイ 2015年11月12日
 大阪ダブル選挙の真っただ中、市長選をめぐって大阪維新の会の市議に「選挙違反」の疑いが浮上していることが日刊ゲンダイの取材で分かった。

 問題の市議は、グラドル出身の佐々木りえ氏(33)。国政や都議選での落選を経て、今年4月の大阪市議選で初当選した。この佐々木市議、自らの選挙区である住之江区で、8日の市長選告示の前に特定の候補に投票を呼び掛ける「事前運動」をした疑いがあるのだ。公職選挙法129条で、選挙運動は告示日から投票日前日までに限定されており、事前運動は禁止されている。

「今月1日から2日にかけて複数の知人の郵便受けに佐々木市議の名前の入った封筒が封の空いた状態で投函されていました。中には、ダブル選の『公認候補者決定』というビラとともに、佐々木市議の署名入りの手書き文書のコピーが入っていた。文書は時候の挨拶から始まり私信の形をとっていますが、『橋下市長の後任を選ぶ大阪市長についてご挨拶』『市長選において、維新からは吉村洋文が立候補』とハッキリ書いてあります。

知人は佐々木市議の後援会に入っているわけでもなく、佐々木市議とは縁もゆかりもない。自身の選挙区の不特定多数に封筒をバラまいているのでしょうか。市長選の告示前なので事前運動にあたると思い、警察に届け出ました。警察は調査するということでした」(地元関係者)

 実際の文書には、確かに市長選と候補者のことが書かれており、末尾に〈平成二十七年十月吉日 大阪市議会議員 佐々木りえ〉とある。選挙のプロにこの文書を見せると、「事前運動の3要件は『特定の選挙』『特定の候補者』『投票依頼』です。文面に直接的な投票依頼の表現はありませんが、一緒に候補者のビラが入っているし、受け取った側が投票依頼と受け止めるかどうかでしょう」と言った。

 選挙違反の疑いについて、佐々木市議を直撃するとこう言った。

「各種団体の名簿で地元の町会の方々にお渡しし、不在の場合はポストに投函しました。出したのは十数件です。なぜ告示直前? 日頃の御礼で個人の政治活動です。選挙のことは書いてありますが、よろしくとは書いていない。投票は一切お願いしていません」
 こんな言い訳が通じるのか。

橋下市長引退表明と離党で泥沼化。どうなる維新の党
失政が続き、近隣諸国にさえ舐められる日本の政治の打開を一身に背負う維新の会ですが、世論調査では支持率低迷。国民からの期待の声も意外に少なかったものの、金がらみで泥沼化。
http://matome.naver.jp/odai/2134831434189949801
更新日: 2015年11月12日

維新の党 交付金問題で「大阪系」提訴 通帳と印鑑の返還求める
維新の党は11日、除籍(除名)した馬場伸幸衆院議員ら大阪系議員に対し、政党交付金が振り込まれる銀行口座の通帳と印鑑の返還を求めて大阪地裁に提訴した。

 今井雅人幹事長は会見で「正統性は我々にある。資金を動かせず、党運営に支障が出ている」と大阪系を批判。通帳と印鑑は党分裂前から大阪系が管理し、松野頼久代表らの返還要求を拒んでいる。執行部は既に威力業務妨害容疑で東京地検に告訴状を提出。大阪側に応じる動きがないため、民事提訴にも踏み切った。

出典
維新の党 交付金問題で「大阪系」提訴 通帳と印鑑の返還求める
— スポニチ Sponichi Annex 社会
■おおさか維新“国会デビュー”できず 質疑時間を旧維新枠で松野氏らが独占
維新の党から分裂して今月設立届を提出した新党「おおさか維新の会」の“国会デビュー”が10日の衆院予算委員会で実現できなかった。党存続を目指す松野頼久代表側が新党組らの会派離脱を認めていないため。自ら新党組の一部を除籍した松野氏側だが、質問時間は分裂前の「40人」の枠で確保し、約1時間40分にわたり質疑を行った。

出典
おおさか維新“国会デビュー”できず 質疑時間を旧維新枠で松野氏らが独占 - 産経ニュース
松野氏側は離党届を提出して無所属での活動を表明した議員らの会派変更も届けていない。除籍や離党届提出の聴取が終わっていないことなどが理由。ただ、これらの議員は予算委のメンバーから排除され、松野氏や今井雅人幹事長ら存続派のみが質問に立った。

 衆院会派上は40人の維新は、実態として存続派21人、新党組13人、無所属6人に3分裂。存続派は本来、共産党(21人)と同じ質疑時間となるはずだったが、共産党の枠は維新の半分の約50分にとどまった。
(記事引用)

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宇宙のナゾ“重力波”に挑む 巨大観測装置
「重力波」世界初観測へ 望遠鏡が完成
2015年11月6日 13時59分nhk.or.jp/news
アインシュタインが存在を予言した「重力波」と呼ばれる現象を観測しようと、東京大学などが岐阜県の山の地下深くに建設した巨大な観測装置が完成し、報道関係者に公開されました。
かつて重力波が直接捉えられたことはなく、世界が100年越しで挑んできた物理学の難題の行方に注目が集まっています。

1915年から1916年にかけてアインシュタインが発表した「一般相対性理論」では、質量がある物質はすべて空間をゆがめているとされ、物質が動くと空間のゆがみが「重力波」という波として伝わると予言されています。

しかし、極めて重い星が爆発しても、伝わってくる空間のゆがみは、太陽と地球の間の距離が水素の原子1個分伸び縮みする程度と考えられ、世界でも直接観測できた例はありません。
このため東京大学宇宙線研究所などでは、世界に先駆けて重力波を捉えようと、岐阜県飛騨市の山の地下深くで巨大な観測装置の建設を進めてきました。
完成した装置は「重力波望遠鏡」と呼ばれ、長さ3キロある2本のパイプがL字型につなげられていて、この中でレーザーを使って精密に距離を測ることで、重力波による空間のゆがみを捉えます。

重力波を捉えることで、世界が100年越しで挑んできた「一般相対性理論」の難題が確かめられるほか、将来は宇宙誕生の謎にも迫ることができると期待されています。
重力波望遠鏡は、試験運転を経て、2年後には本格的な観測を始める計画ですが、アメリカやヨーロッパも初観測を目指していて、研究競争の行方にも注目が集まっています。

ノーベル賞選出の梶田さん「正念場」
重力波望遠鏡の計画を中心的に進めてきた東京大学宇宙線研究所の所長で、ことしのノーベル物理学賞に選ばれた梶田隆章さんは、「多くの国民の理解がないと、このような施設は認められない。基礎科学の研究を進めることを許すような国民の理解が非常にありがたい」と話していました。

そのうえで、「観測に向けては、これからが正念場です。今後数年間が非常に重要な期間となります」と本格的な観測開始に向けて気を引き締めていました。
物理学の難題 重力波とは
アインシュタインが発表した「一般相対性理論」は、宇宙の数多くの現象を言い当て、現在の物理学の土台となっていますが、予言された現象の中で唯一確かめられていないのが「重力波」です。

「重力波」は、質量がある物質が動いた際に空間のゆがみが波となって光の速さで周囲に伝わるというもので、何にも遮られることはないとされています。しかも、空間のゆがみは極めて小さいため、理論の発表から100年になる現在も重力波を直接観測した例はなく、成功すればノーベル賞級の成果と言われています。
今回完成した重力波望遠鏡は「KAGRA(かぐら)」と呼ばれ、極めて小さな空間のゆがみを捉えるため、振動や温度変化の少ない地下200メートル以上のトンネルの中に設けられました。さらに、装置の中は真空に保たれ、レーザー光線を反射する鏡は分子の振動を抑えるためにマイナス253度まで冷やされます。
重力波を直接捉えることができれば、「一般相対性理論」の最後の難題が確かめられるだけでなく、強力な重力で光さえも飲み込んでしまうブラックホールの誕生の瞬間を直接観測できるようになるなど、天文学に新たな観測手段をもたらすことにもつながると期待されています。

一方、欧米でも重力波の初観測に向けて大規模な観測装置が建設されていて、国際間の研究競争は激しさを増しています。
天文学の飛躍的発展に期待
「重力波」を直接捉えられるようになると、天文学の分野でも飛躍的な発展につながると期待されています。

古代、天文学の起源は、星が放つ目に見える光の観測でした。現在も光の分析は、星の温度や物質の構成のほか、ブラックホールの研究にも利用されています。
一方、「ビックバン」の名残などとして宇宙には電波が飛び交っていて、20世紀に入ると、こうした電波をはじめとした電磁波を捉える研究が進み、光では見ることができない、さまざまな天体現象の発見につながりました。

その次の観測手段として注目されているのが、「素粒子」、とりわけ宇宙の初期に大量に作られた「ニュートリノ」です。ニュートリノはさまざまな物質の影響を受けにくく、宇宙が誕生したときの状態を今もとどめていると考えられているため、これを観測することで、宇宙の誕生と進化の過程の解明につながると期待されています。
そして、光、電磁波、素粒子に続く第4の観測手段が「重力波」です。重力波は何にも遮られることなく宇宙を伝わるので、この観測に成功すれば、強力な重力で光さえも飲み込んでしまうブラックホールの誕生の瞬間など、従来の手段では見ることができなかった新たな宇宙の姿を捉えられると期待されているのです。
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http://www.jiji.com/jc/p_archives?id=20151106151313-0020241571
 
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人類の新しい目 ̶̶ アインシュタインの重力波
神岡池ノ山地下に建設中の大型低温重力波望遠鏡KAGRA(かぐら)( 東京大学宇宙線研究所)
現在、スーパーカミオカンデがある池の山の地下では、「KAGRA(かぐら)」という大型重力波望遠鏡の建設が進められています。1本3 キロメートルのアームを2 本持った巨大レーザー干渉計で、地球と太陽間の距離が水素原子1個分の大きさ程度変化するという微細な変動をも捉える、超高精密度のものさしです。
その目的は、宇宙から到来する重力波の史上初の観測で、2017 年度内の本格稼働を目指しています。
重力波とは、空間の距離の伸び縮みが波として伝搬する現象で、中性子星などの非常に重たい天体が互いを周回する連星や、超新星爆発、ブラックホールの誕生など、重力場の変化により発生します。
アインシュタインの一般相対性理論が予言する現象のうち、唯一まだ直接検証の実現していない現象で、この「アインシュタインの最後の宿題」を果たすことで、一般相対性理論の検証のみならず、電磁波や素粒子など他のメッセンジャーでは観測不可能な、まったく新たな天体や宇宙の情報をも得られることでしょう。
KAGRA では、年間10 事象程度の中性子連星合体が捉えられると期待されており、まさに、「重力波天文学」の幕が開けようとしています。
ここでは、多様なメッセンジャーの観測を通して宇宙にアプローチするという観点から、宇宙線研究所で行われている代表的な研究の一部をご紹介しました。
この他にも、暗黒物質の直接探査実験や、高エネルギー宇宙現象の解明、初期宇宙や進化の解明、素粒子理論・宇宙論構築などの理論研究といった、新たな宇宙の姿をあらわにしていく研究が多角的に行われています。今後の宇宙線研究へご期待ください。
(記事引用) 

重力波探査
■重力波によるビッグバン宇宙の探索
http://www.resceu.s.u-tokyo.ac.jp/proj5.php
スペース重力波アンテナDECIGOでビッグバン宇宙に挑む
東京大学宇宙線研究所 | 国立大学附置研究所・センター長会議
DECIGOは1000km離れた3機のドラッグフリー衛星を用いて宇宙にレーザー干渉計を作り重力波を検出しようとする日本の計画です。DECIGO(DECi-hertz Interferometer Gravitational wave Observatory)は0.1~10 Hzの周波数帯にある重力波の検出を狙っています。
DECIGOの最大の目的は、ビッグバン直後の宇宙を重力波をとおして見ることです。これは重力波でしか見ることのできない世界であり、重力波観測によって宇宙誕生の謎が解き明かされることが期待されています。この他のターゲットとしては、宇宙の加速膨張を詳しく調べることによるダークエネルギーの性質の解明や、巨大質量ブラックホール同士の合体に伴う重力波観測などがあります。

DECIGOの打ち上げは2025年頃と予想されています。計画自体が非常にチャレンジングでありこれから克服すべき技術的問題も多いため、私たちは長期的視点にたってDECIGOの開発を進めています。
基礎技術開発の一環としてまず、2009年1月に小型衛星SWIMμνを打ち上げました。この衛星は現在も運用中であり今後の開発にとって貴重なデータを取得しつつあります。現在は次のターゲットである前哨衛星DPF(DECIGO pathfinder)の開発研究を集中的に進めているところです。
DPFはDECIGOの実証機として位置づけられていますが、JAXA/ISASの推進する小型科学衛星の重点候補の一つとなっています。
担当研究者 安東 正樹
(記事引用) 



「上総介広常」に関する諸説
親王任国の中の一つで、その当時の巨大勢力を誇っていた「上総介」氏族に関する逸話は、『吾妻鏡』を拠り所にして話しが展開しているが、古文書の解き方にも、それぞれの解釈が入り交ざってしまう場合がある。

下記の記事は歴史検証をまとめてサイト投稿してあった内容のものを引用させて頂いた。
歴史モノは、特定記事にすると偏ってしまうので、なるべく多方面、視野から俯瞰したほうが、より本物に忠実になるので、ここでは同じ対象者を二つの視点で考察した。


太刀洗の水 頼朝はなぜ上総介広常を殺害したのか
平家物語 義経伝説
 2013-05-02 14:05:01
寿永二年(1183)の暮、木曽義仲が後白河法皇の法住寺殿を襲撃したころ、鎌倉では上総広常が謀反の疑いをかけられて梶原景時に暗殺されました。

広常は保元・平治の乱では義朝(頼朝の父)軍として戦い、平治の乱後、近江で義朝一行と別れた広常は自領に戻ります。治承四年(1180)八月、挙兵した頼朝は石橋山合戦で敗れて房総半島に逃れ、そこで再起を図るとことになりますが、広常は遅れて二万騎といわれる大軍を率いて参陣します。この時、広常は頼朝に大将としての器量がなければ討取って平家へ差出そうという二心を抱いていました。

しかし頼朝は毅然とした態度で遅参を叱ったため広常はすっかり心服したというエピソードが吾妻鏡に記されています。
この結果、大軍を従える頼朝のもとに各地の有力な武士団が続々と馳せ参じ挙兵は成功します。

富士川合戦直後、頼朝は勝利の勢いにのって京に攻め上ろうとしますが上総介広常・千葉介常胤・三浦義澄の諸将らは、まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らを討ちとり東国を固めることが先決だと主張したため、頼朝はこれに従わざるをえませんでした。

房総半島に巨大な勢力を持つ上総介広常の参向は頼朝挙兵を決定づけましたが、やがて頼朝にとって広常は邪魔な存在となります。

頼朝が鎌倉に本拠を定めて間もなく、三浦一族が頼朝を本拠地三浦半島に招きます。
広常は郎党五十余人とともに出迎えますが、郎党たちが馬から降りて平伏する中、広常だけは馬から降りずに会釈しただけでした。
これを咎めた佐原十郎義連(よしつら)に対し、広常は「上総介の家ではこれまでの三代は、公私ともに下馬の礼などとったことはない。」と豪語します。

三浦館でも広常の不遜な態度は続きます。酒宴の席で岡崎義実(三浦義明の弟)が頼朝の水干をねだりました。
義実は石橋山合戦で子息を失っているので、頼朝はせめてもの慰みにと思ったのでしょう、その場で与えます。
すると広常は「このようなお召物は、自分こそが頂くべきであり、義実ごとき老将にもらう資格などあるものか。」といって口論となり、あわや大喧嘩になるところを佐原十郎義連(三浦義明の末子)が仲に入って丸くおさめます。

当時、主が身に着けていたものを拝領するということは家臣にとって大変名誉なことと考えられていました。
この間、頼朝は終始無言でしたが、後に義連に褒め言葉を与え寵臣の一人に取り立てます。

ちなみに義連は源平合戦の際、鵯越の急峻な坂を見て義経隊の荒武者がたじろぐ中、「この程度の坂は三浦では馬場よ。」と真っ先に馳せ下りた若武者です。

頼朝の意を受けた梶原景時が広常の屋敷を訪ね、双六のもつれと見せかけて広常を殺します。
ところが間もなく、広常が上総国一宮に奉納した鎧とともに頼朝の武運長久を祈る願文が現れ冤罪が判明します。

建久元年(1190)、頼朝が後白河法皇に謁見した際に「広常なくして政権の樹立はありえなかった。」と述べ、次いで広常を誅殺した理由について朝廷との関係を切り捨て東国で自立すればよいという広常の発言にあったとしています。

寿永二年十月宣旨を受け、頼朝は実力で征服していた東国の支配権を朝廷から認められましたが、次の目的、頼朝のめざす幕府実現のためには、基本的に考えの違う広常を処分しなければならなくなったということでしょう。
思想の違いの他に傲慢な態度や広常のもつ強大な武力が頼朝に警戒され、謀反を疑われる要素は多分に持ち合わせたといえます。

その後、鎌倉では東国独立論を主張する者はいなくなり、頼朝は官軍として義仲追討軍を都に送り、朝廷と妥協の道を歩み始めます。

上総介を斬った梶原平三景時は石橋山合戦では平家方について頼朝と戦っていましたが、逃走中の頼朝を見逃します。

その後、頼朝の下で御家人を統率する役目にあたる侍所の所司(準長官)として重用されますが、源平合戦では義経と対立し合戦後、頼朝に讒言し兄弟不和の原因を作ります。
 
太刀洗の水

鎌倉駅から十二所神社バス停で下り、道標に従って朝比(夷)奈切通しへ通じる旧道に入ります。太刀洗川に沿って行くとこの切通し入口付近の左手に岩間から清水が流れ落ちています。梶原景時が上総広常を討った太刀を洗ったという言い伝えが残る水、鎌倉五名水の一つです。



上総 広常(かずさ ひろつね)・上総権介(かずさごんのすけ)
上総 広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介上総常澄の八男(嫡男)。上総介広常(かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。

房総平氏惣領家頭首であり、東国最大の勢力であった広常の加担が源頼朝挙兵の成功を決定付けたとも言われる。

上総氏は上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。

平治の乱・家督争い

広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。保元元年(1156年)の保元の乱では義朝に属し、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍。義平十七騎の一騎に数えられた。平治の乱の敗戦後、平家の探索をくぐって戦線離脱し、領国に戻る。

義朝が敗れた後は平家に従ったが、父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常茂の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり、この兄弟間の抗争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。
治承3年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任ぜられると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。また平家姻戚の藤原親政が下総国に勢力を伸ばそうとするなど、こうした政治的状況が広常に平家打倒を決意させたと考えられる。

源頼朝挙兵
 
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。
『吾妻鏡』では、『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」とある。尚、『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である。
 
同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。
兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。

『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。

誅殺 (ちゅうさつ【誅殺】とは罪をとがめて殺すこと)。
 
寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時・天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収された。

この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の同族である千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。
しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。

慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べた事を記している。

広常の館跡

上総広常の館跡の正確な位置は今もって不明だが、近年、千葉県夷隅郡大原町(現いすみ市)や御宿町一帯で中世城館址の調査が行なわれ、検討が進められた。
(資料ウィキぺデア)


yoritomo
画像サイト
伝藤原隆信《伝源頼朝像》鎌倉時代, 絹本著色, 143.0 x 112.8cm, 国宝, 神護寺蔵

画像は「源頼朝」伝、である。

「広常」は、それほどの人物ではなかったのか絵がのこされていない。

この図は、とくに有名である。







わからないから、おもしろい
 いい絵は動いている感じがする。しかし絵の中に動きがなく、形式的な冷たさを感じるのが肖像画である。頭部以外は個性がない。あえて鑑賞するほどのものではないだろうと、感性のずっと奥の方で静かに鎮座していた絵だったはずなのだが、最近どうもこの絵が黙ってこちらを見ている感じがして落ち着かない。古い絵だが保存状態がいいのだろうか、それとも見慣れているためなのか、《伝源頼朝像》の色白の顔に生気が宿ってきているようで気になる。何やら難しそうな歴史画と思ったが、このすべてを見通したような目に引き寄せられ、エイッと《伝源頼朝像》を選び、絵の見方を探求してみることにした。
 《伝源頼朝像》は、神護寺三像と呼ばれる国宝三幅のうちの一幅であり、この頼朝像に加え、《伝平重盛像》《伝藤原光能(みつよし)像》が、楓(かえで)の美しい京都の山寺・神護寺(じんごじ)に残されてきた。肖像画の世界は、立ち入ろうとすると、来るなと言われているようでもあり、またわからないから、おもしろいという領域でもありそうだ。鎌倉時代(1180年代〜1333)の貴族・藤原隆信(1142〜1205)による制作と伝えられているそれらの肖像画。なかでも《伝源頼朝像》は、鎌倉幕府の初代将軍として歴史の教科書などで誰でもよく知っている絵画である。
《足利直義像》の存在
 しかし、《伝源頼朝像》について調べてみると、(1)描かれている像主の目、耳、口が南北朝時代(1336〜1392)に確立したという様式であり、(2)足利直義(ただよし)が神護寺に足利尊氏像と足利直義像を奉納したという文書「京都御所東山御文庫記録」の存在、(3)足利尊氏像が《伝平重盛像》に類似しているなど、この《伝源頼朝像》は頼朝ではなく、南北朝時代の武将足利尊氏の弟である足利直義(1306〜1352)とする説や、制作年が120年降るという1345年説など、通説とは異なる新説が投げかけられ、すでに15年ほど論争が続いているというものだった。

 この“伝”と付けられながらも絵画史を生き続けている絵の史実はどうあれ、日本の肖像画を代表する作品には変わりないのだろう。この作者も制作年も断定されることを拒んでいるような《伝源頼朝像》を、日本美術史の専門家はどのように見ているのだろうか。現代美術好きな筆者としては新説に関心を示すところだが、そうではなく『肖像画』や『肖像画の視線──源頼朝像から浮世絵まで──』の著書があり、日本絵画を広く見、伝承されてきた肖像画を長年研究している宮島新一氏(以下、宮島氏)にこの絵の魅力を伺ってみたいと思った。雪舟の時代より古くからある肖像画の未知の世界へ分け入るために、宮島氏が勤めている山形大学へ車を走らせた。
画像 http://artscape.jp/study/art-achive/1222844_1982.html
(記事引用)





山本耀司 高橋幸宏 スペシャル対談

WORLD HAPPINESS 2015のメイン・ビジュアルを手がけたのは、デザイナーの山本耀司さん。その愛犬をモチーフにした素敵なビジュアルが生まれました。本フェスのキュレーションをつとめる高橋幸宏とともに、どのようにしてこのビジュアルの実現に至ったか、うかがいました。 もちろん、今回の主役、凛ちゃんも一緒です。
sample33
──WORLD HAPPINESSは、年ごとに毎回さまざまなアーティストの方がメイン・ビジュアルを担当されてきましたが、今回は幸宏さんにとっての長年の畏友でもある山本耀司さんが担当されることとなりました。

山本耀司(以下、山本)
いよいよ頼む相手がいなくなったんだなと(笑)。

高橋幸宏(以下、高橋)

耀司さんにお願いしちゃったら、この次は誰に頼めばいいのかっていうモンダイはありますね(笑)。

高橋 去年が横尾さん(横尾忠則/WH2014メイン・ビジュアル)で。

山本 そうしたら耀司さんしかいないなって。横尾さんの次に若手を持ってくるのもかわいそうだろうっていう(笑)。

──
そういった思いもあったんですね(笑)。これまでのメイン・ビジュアルはすべてイラストでしたが、初の写真ということで、最初に見た時のインパクトはいつも以上に強烈でしたね。
高橋 嬉しい裏切られ方っていうかね。毎回、アーティストの皆さんには、どんなフェスかっていう説明をするだけで、あとはおまかせ。

「こういうものを作ってほしい」といった具体的なリクエストは一切しないんですけど、耀司さんにも今までと同じような感じでお願いしたんです。
で、出てきたのが凛ちゃん(耀司さんの愛犬)が正面に座ったこの写真のビジュアル。おお、なるほど!って感じで。可愛いんだけど、これまでにないお洒落感でね。たしかに、これまでの一連のビジュアルの中では浮くくらいに際立つものがある。
凛の背後のパネルに映っているのは、結構有名なトップモデルたちですよね?

山本 あのモデルたちの写真は、レスリー・キー(この取材時の撮影も担当)で、このビジュアルを撮ったのが、レスリーの友達のライアン・チャンだから。高橋基本はカラーだけど、モノクロに変換しても耀司さんぽくってカッコいい。小さくリサイズしても充分にインパクトありますしね。
──加えて、耀司さん手書きのロゴも登場しました。

高橋 どうしても耀司さんの手書きのものもほしかったんで、一緒に食事に行ったときに「一筆書いてほしい」とお願いしたんですよ。こっそり紙とペンや鉛筆を用意しておいて(笑)。「とっ払いで三千円くらいくれる?」と訊かれたので、「ワイン一杯つけましょう」と答えて(笑)。
昔、耀司さんと一緒に仕事をした時に、打合せの席で「今度はどういう感じですか」なんて訊くと、ササッとスケッチを書いて「こういう感じでやろうか」って見せてくれる。その走り書きのようなスケッチがいちいち良くって。「もらって帰りたいなあ」と思っていたんですが、やっと夢が叶いました。とにかく、写真もロゴも例年にも増してお洒落になりましたね。ロゴ

──
今回のWORLD HAPPINESSのビジュアルに耀司さんが込めた思いやコンセプトみたいなものはあるんですか?

山本 いや、なにもないです(笑)。パリコレに出たモデルたちが写ったパネルの前にたまたま凛が立ったところを撮ったっていう偶然の産物なんです。こういうのは狙ってできるもんじゃないんで。でも、ものづくりって、偶然できたものがいつもカッコいいんです。

──
てっきり、WORLD HAPPINESSという言葉をイメージして撮影されたビジュアルだと思ってました。

山本 でも、ハッピーでしょ?高橋最初から凛ちゃんを今回のWORLD HAPPINESSのビジュアルに使おうというわけではなかったんだ。

山本 それは全然なくて、僕の右腕の久保っていうスタッフが、「こんな写真ありますよ」って見せてくれたのがこの写真で、「え、いいじゃないか!」と。そういう感じです。ちょうど幸宏からWORLD HAPPINESSのビジュアルを頼まれた直後にそういう偶然があったんで。ちょっと無責任ですけど、考え込んで作るよりもいいんじゃないかっていう。

──
奇跡的にハッピーな瞬間が写真として切り取られた感じがしますね。幸宏さんがおっしゃるように、おしゃれな空気の中に凛ちゃんがいることで、WORLD HAPPINESSのテーマのひとつでもあるファミリー感も見事に出てますよね。

高橋 そうそう。ファミリー感や、WORLD HAPPINESSが持つ、ちょっとほんわかとした雰囲気がちゃんと残ってます。耀司さんは何も考えてないって言ってますけど、……うん、たぶん考えてなかったんだと思いますけど(笑)、出てきたものはバッチリ。ライブやフェスって、本当に偶然の連続、そういうカタマリみたいなものだから、その意味でもぴったりなのかなと思いますね。今回のビジュアルで、WORLD HAPPINESSに、また違う方向性というものをつけ加えてもらったかなっていう気がしてます。凛

──
耀司さんと幸宏さんは、知り合ってもう40年近くになるそうですが。

高橋 知り合ってからはそのくらいになりますね。僕が洋服をやってた頃、まだ耀司さんは男物はやってなくて、たまに僕の店に買いに来てくれたりってこともあったんですけど、急速に親しくなったのは80年代の後半からですかね。仕事を終えた後、夜な夜な飲み歩いてた頃、耀司さんも飲み歩いてて、偶然西麻布店で会ったんです。そこで「あ、久しぶり! 今度パリコレの音楽やってくれない」って言われて「いいっすよ」って言ったら、次の日すぐに耀司さんの会社から正式な依頼の電話がかかってきて(笑)。選曲じゃなくて、オリジナルで作ってくれないかってことで、そこから三年ぐらいの間、一緒にやらせてもらいました。
それで僕は洋服を辞める決心をしたんです。こういう服を作る人がいるんだったら、僕がやる必要はないなって。で、コレクションをお手伝いするようになって、曲を作って「どうだ!」っていう思いで持っていくでしょ。完璧だろ、なんて思いながらね。でも、「すごいイイねえ」と言ってもらえたと思ったら、「これ、音のチャンネルを全部バラバラにしてくれる?」って言われて。
「僕がイメージするものと違ってきちゃうんだけどなあ」なんて思うけど、コレクションは耀司さんの世界だから。

山本 (笑)。

高橋 実際、耀司さんのアイディアが反映されたショーはおもしろかったりするんですよね。当たり前だけどショーの世界観は耀司さんの頭の中にしかないわけで。それを実感してからは、こちらはもう、まな板の上の鯉というか。曲を渡したら耀司さんの調理にまかせるというか。耀司さんのショーの中で生かされる高橋幸宏の曲という、そういう点では本当の意味でのコラボレーションだったかなあと思いますね。とはいえ、たとえば逆の立場でね、耀司さんに提供してもらった服を「ボク、耀司さんの服バラバラにして、こういうふうに切っちゃったんですけど、いいですか?」とは言えませんよね(笑)。

山本 (笑)。

高橋 今なら洗濯機に入れるぐらいはやるかもしれないけど(笑)。

山本 (笑)。WORLD HAPPINESSは今回で何回目なの?

高橋 8回目です。

山本 そんなにやってるんだ。そうやって若手を育ってるってすごいよね。

高橋 育てるってつもりはなくって、単にボクが興味ある人たちに集まってもらってるんですが、WORLD HAPPINESSに出てくれた1、2年後ぐらいには大メジャーになっちゃってるアーティストは何組もいますね。……でも、そうやって大きくなると出てくれないんですよ、もう(笑)。

山本 何それ! そりゃないだろ。

高橋 自分たち単独でドーム・クラスの会場でできるようになるとね……。

山本 ファッション界ではね、そういうことができないんですよ。僕が若いデザイナーを何人か集めて合同でショーをやろうみたいなことを考えても、日本では人が集まらないんです。

高橋 イタリアとかだと、若手育成のためのショーみたいなのがありますよね。

山本 いくつかはありますね。ただそれは、だいたいコンクールで、そのコンクールで賞をもらって三位ぐらいまでに入ると、パリに展示会を持っていける資金を提供してもらえるとか、そういうことで。そこからすぐに大ブレイクっていうのはファッション界ではないですね。

高橋 WORLD HAPPINESSという場が登竜門みたいになっているわけじゃなくて、「この人、いいな」っていう人にボクが目を付けてるだけです。おもしろいなと思わせる人は、それだけで可能性があるってことなんじゃないですかね。
売れ線というだけではなくってね、相当変わっていておもしろいなっていう人もあって。このひねくれ方がイイみたいな感じとかね。それはそれで、数ではなく、ある層に強く訴えかけるアーティストとして長くやってくれたらいいなとも思うし。

山本 幸宏自身が3回転ぐらいひねくれてるから(笑)。

高橋 そうなんですよ。いまは6回転ぐらいで(笑)。

山本 倍になってる(笑)。オレはねえ、幸宏が毎年こういうのをやってるのってよく知らなかったのね。これまで出ている出演メンバーを聞いて「あ、幸宏って偉いんだな」って、つくづく思った(笑)。

高橋 いえいえ、単に業界が長いだけですよ。

山本 偉いですよ。……幸宏とは、いろんな事情ですごい関係は深いんですよ。関係が深いから、平気で一緒に飯食ったりするんですけど、こと音楽となるとね、この人は世界的な人じゃないですか。

高橋 耀司さんこそ世界的な人じゃないですか!(笑)。

山本 そこに音楽ではド素人なオレが「ねえ幸宏」なんていうのは、恐れ多くて言えないですよ。

高橋 けっこう言われてますけどねえ(笑)。

山本 このイベントは、WORLD HAPPINESSっていうタイトルがとっても明るいのと、特定の政治色がないのがいいですね。純粋に音楽の力で励ます、楽しむ。すごいピュアだと思いますね。

山本耀司×高橋幸宏 対談

──
確かにWORLD HAPPINESSという名前は無色な印象が強いですよね。なによりも名前の間口が大きいというか。高橋間口は大きすぎますよね(笑)。山本デカくかまえたもんですよねえ(笑)。
──というわけで、今回のWORLD HAPPINESSですが。

高橋 いつも通りやれればいいなって思いますね。今年は日付が8月23日で、これまでより二週間遅れでの開催です。去年は台風が直撃しちゃいましたけど、さらに台風の危険が増すかも?という日程なんですが。でも、きっと大丈夫です。<モーゼ・幸宏>と言われてますから。数年前に盲腸の手術をしてから効力が弱まってしまった感じもありますが(笑)。

──
晴れ男・高橋幸宏伝説復活といきたいですね(笑)。周辺は雨が降ってるのに、WORLD HAPPINESSの会場だけ奇跡的に雨が降らなかったみたいなことも何度もありましたよね。

高橋 耀司さんのパワーも入れてもらって、なんとかいい環境で楽しくやりたいですね。耀司さんにはなんなら楽屋も用意しておきますから(笑)。

山本 だいたい、このイベントになんでオレは客としてしか呼ばれないんだっていう(笑)。

高橋 なんでオレはアーティストじゃないんだ、と。

山本 そういう不満はあるんですけど(笑)。

高橋 鈴木慶一、耀司さん、僕で、THE BEATNIKSとして一回ライブやったことがありましたね。ドラムがスティーヴ・ジャンセンだったり、ものすごい豪華でしたけど、とても楽しいコンサートだった覚えがあります。いつか、ああいうかたちで出ていただくのもいいかなと思いますね。

山本 いや、オレは苦しかった(笑)。二人(慶一、幸宏)はプロじゃない?

高橋 いや、楽しそうでしたけどね。貫禄充分でした(笑)。

山本 二人についていくのがやっとだった。

高橋 いつかいいタイミングでやりましょうよ。満を持してっていうタイミングで。そうだ、お客さんの退出時にやるっていうのはどうですか?(笑)。「おっと待て、誰だ?」ってお客さんが足を止めるっていう(笑)。

山本 うん、いいかも(笑)。

(対談記事引用)

 

NHKの朝のテレビ小説「あさが来た」。
その主人公のモデルは廣岡浅子という実在の人物で、豪商三井家に生まれ、大同生命や日本女子大の設立に関わった人物。その嫁ぎ先が大阪の豪商加島屋。加島屋は諸藩の蔵元・掛屋(米方両替)、大名貸で鴻池家と並ぶ政商だった。

廣岡浅子の経歴
加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ
歴史の実像に迫る 歴史くらぶ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。
 加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。
 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。
 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。
(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」
(記事引用)


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江戸の新田開発
現在の日本の風景、田畑は全国規模の区画整理事業によって、ほぼ四角四面の形に整備され、見た目もすっきりして、それに沿った道路整備も整って車も快適に走れるようになっている。一昔(50年)前の未舗装道路とは格段の差がある。

出来上がった既成の景色、またそれに付随している概念は、それを見ただけで直感的に判断するので、昨日まであった建物が、一夜にして撤去されると、さて、ここに何があったのか、と思い出すこともまま為らないことも沢山ある。

自分が生まれた街、故郷を思い出してみても、育ったころの景色は、物理的なものでなく心象的な記憶の概念として記録されている。ことこまかな詳細は記録してなくても全体像は、はっきり覚えている。

では、自分が生まれる以前の昭和、大正、明治、江戸の風景はどうなっていたのだろうか。昭和初期の1932年、昭和7年ころの写真が、ある所の倉庫に大量に保管してあり、それを見て、驚嘆したことを覚えている。

そこに映っている50年前の特定した場所は、大雑把には変化していないが、人間の姿や街角の建物、かんばん類を見ると、まるで浦島太郎の気分にさせてくれる。その感じを100年とか300年前に戻ると、どうなるのか。
写真もない時代、その景色を想像したこともないし、まして「浮世絵世界」を図版でみても、それが人々の生活を反映している図かといえば、それはまったく異なる。

それと同じ意識感覚で、田舎の風景(べつに田舎でなくてもいいが・)棚田とか里山とか、今では超都会以外のへんぴな場所に価値がある、という意識があって、なんでもかんでも、そこに集中するというのは世の倣いである。

文字も読めない書けない文盲の「水のみ百姓」が、戦争になれば兵隊に、平穏時には畑で芋を作っている。という牧歌的風景の、「花咲かじいさん」、や「桃太郎」立身出世物語は、創作であり、それは現存しない架空のフィクションである。

そう定義するには、いささかの無理がある。無理、というのは、それを切り捨ててしまっては日本人のアイデンティティー欠如にほかならない、という意見が出そうであるからだ。

それでは実際、その「花咲かじいさん」の家に遊びに行ってみようか~。


江戸期の人口増加と食糧増産
新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。

日本では戦国時代、各大名が国力を高めるため競うように米の増産、農地開拓に取り組んだ。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、食糧が増産されたことなどで人口は増加したが、かえって食糧が不足し、主食とする米が必要とされた。

そのため江戸時代初期の17世紀以降、江戸幕府や各藩の奨励のもと、役人や農民たちの主導で湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われ、陸地が増やされ耕地となった。あるいは丘陵地帯や台地、谷地(やち・やつ、台地と台地の間の谷間の湿地帯)など内陸部の荒れ地でも新田の開拓が行われた。

こうした新田開発を通じ、江戸時代初期に全国で1800万石だった石高は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石と倍増に近い勢いで拡大し、特にそれまで畿内などに比べ開発が遅れていた東北、関東、中国、九州などでは湖沼や干潟が新田開発され農地が大きく増えた。

その背景には、測量技術の向上がある。大量の水を必要とする水田の場合は、自然の降雨のみによる供給は不可能であり、灌漑用水の整備が欠かせない。

しかしながら平坦地、あるいはごく緩やかな傾斜地では用水路の掘削は不可能であり、戦国時代以前は一定以上の傾斜地でないと水田の開拓は不可能であった。
それが大名や幕府の主導による大規模な測量によって、平地に開拓された水田への水供給が可能になったのである。また逆に、湖沼や泥湿地のような場所に大規模な排水路を整備しての水田化も行われた。あるいは干潟において干拓工事による水田化も行われた。

江戸幕府は、17世紀後半の無謀な新田開発の乱発を一旦は抑制したが、8代征夷大将軍・徳川吉宗の時代に行われた享保の改革では、「見立新田十分一の法」などを施行し開発者に利益を保証することで商人など民間による新田開発を奨励した。また10代征夷大将軍・徳川家治など、多くの将軍や老中が新田開発を政策的に行った。

これら江戸期の大規模な開発により、それ以前に湖沼や干潟、三角州が広がっていた地域から水辺が失われ、自然形態に影響を及ぼしたともいわれる。
(資料ウィキぺデア)

TANAKA1942bが江戸時代を経済学
2008年8月18日更新
 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/edo.html
 
大江戸経済学 江戸時代の歴史観が変わりつつある
鎖国・貧農・犬公方・貨幣改鋳・3大改革・田沼政治・金貨流出・・・ 
は じ め に
 江戸時代の歴史観が変わりつつある。今まで常識と思われていたことが、実は違っていた、ということが最近多く見られる。代表的なことは「鎖国」という表現だ。最近では「江戸時代は鎖国をしていた」とは言わなくなっている。

 現代の自由貿易、グローバル社会からみれば非常に閉鎖的であったにしても「鎖国」という表現は適切でない、となっている。
 そのほか「田沼意次=賄賂政治家」という説が通説であったが、近年では大石慎三郎らの研究により、当時としてはかなり進んだ経済政策を行ったと再評価されている。 
 日本の業界では珍しく、江戸時代の歴史に関しては歴史学の部外者が多く発言し、いままでの常識が少しづつ塗り替えられている。

 この江戸時代の歴史学の業界は開かれた業界で、ここへの参入が自由であるために、専門家以外も発言し、そのことによって誤った常識が訂正され始めている。 

 そうしたことを意識して、「江戸の歴史観が変わりつつある」と題してホームページを立ち上げることにした。
 ここでは、アマチュアでもあるし、特別新しい事実は提供できないだろうが、大きな歴史観の変化は捉えてみようと思う。例によってダッチロールの繰り返しになるかも知れないけれども、最後までのお付き合いのほど宜しくお願い致します。

(1)新田開発は武将・領主の主導によってか? 
 大きい百姓間の所得格差・資産格差・権力格差
<江戸時代初期の人口増は新田開拓による>  江戸時代初期の人口は約1,200万人、これが享保期(1716年から1735年)には武士・町人・農民あわせて約3,000万人になっている。
 この人口増には食糧(コメ)の増産が影響していることに疑問の余地はない。その食糧増産は、新田開拓によるところが大きい。戦国期末から江戸時代初期にかけて新田開発が行われ、これによりコメが増産され、食糧増産により人口が増えたと考えるのが妥当だ。では、その新田開発はどのように行われたのだろうか?今週のテーマはこうした疑問から始まる、「新田開発は武将・領主の主導によってか?」だ。 
 
 新田開発に関しては「大坂堂島米会所」▲に書いたので、そこから引用してみよう 
大開墾・人口増 江戸時代のコメ問題を扱うとすれば、戦国時代から江戸時代初期の「大開墾・人口増」から扱うのが妥当なようだ。多くの文献はこの時代の用水土木工事の多いことから話を始めている。

 へそ曲がりのTANAKA1942bもこれに関しては定番の話の進め方をしよう。そこで先ず、大石慎三郎著「江戸時代」(中公新書 1977.8)から── 

つくりかえられた沖積層平野 大土木工事の時代  
”天下分け目”といわれた関ヶ原の戦い(1600=慶長5年)を中心とし、その前後約60-70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から4代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を大きく変えた時代であった。ここで土木技術というのは広義のもので、それは大別して、 
 (イ)鉱山開発技術──その結果日本は世界有数の金銀産出国となった。 
 (ロ)築城技術──それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。 
 (ハ)用水土木技術
の三分野に分けることができる。ここではこのなかで日本社会を変えるのにもっとも大きな役割をはたした用水土木技術について考えてみたい。 
 いま土木学会で編集した「明治以前日本土木史」のなかから、古代から徳川時代の終りにあたる1867(慶応3)年までにわが国で行われた主要土木工事のなかで、用水土木関係工事を抜き出して年代別に表を作ってみると表1のようになる。 

 全118件のうちで56件(47.46%)が戦国期から江戸時代初頭の約200年ほどのあいだに集中しており、なかんずく1596(慶長元)年から1672(寛文12)年まで徳川初頭77年間に42件(35.59%)とその集中度がとくに高い。つまりわが国における明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。 

 しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられているのである。それはもしこれらのことがなければ、江戸時代ひいては明治移行のわが国の国土状況はないと言えるほどのものであった。 

 「明治以前日本土木史」 同じ「明治以前日本土木史」から集計したもので、別の表を引用してみよう。表2を見ると、河川工事は1601-1650に多く、溜池・用水路・新田開発はそれより50年後の、1651-1700に多いことが読みとれる。 

「経済社会の成立―17~18世紀」速水融、宮本又郎編著 岩波書店 
 1988年11月(45頁から引用)(土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成) 出典
<軍事力の自由競争時代、そこでの経済的基盤> 室町幕府が崩壊し、戦国時代になると各地の武将が力を競い合う「自由競争時代」になる。
 武器、装備、戦略、陰謀、策略、人望などで競い合い、その基盤に経済力があった。その経済力とは、コメの生産力、金・銀鉱山、特産品、商業などであり、コメの増産には特に力が注がれた。戦国時代に新田開発が多くなったのは、軍事力の自由競争時代に勝ち抜くには、経済力増強そのためのコメ増産、そのための新田開発という強いインセンティブが働いていたためであり、大きな川を治め、沖積層平野を新田に作り替え、そこでのコメ増産という経済力を武器にする、それが戦国武将のサバイバル・ストラテジー(生き残り戦略)であった。 

 戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。

 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。

<治水が先か?利水が先か?> この時代大きな力を持った武将が、自由競争で勝ち抜くために大河川の治水工事を行い、新田を開発した。実際歴史に残るような用水工事をした武将がその後も生き残っている。この順序は、用水工事→治水工事→移住→利水工事→作付け、となる。これに対して、「そうではない、治水より利水の方が先だ」との説もある。 

 わが国水田の開発過程をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発が出来ない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。
 農民(あるいは士豪、小領主)による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果たすというのが普通であって、これが沖積低地開発の常道であった。

 この意味で利水は常に治水に先行する。それゆえ、大名による大規模な治水工事によって初めて沖積平野の開発が行われたということは、実状に合わないのである。 

速水融、宮本又郎編著『経済社会の成立―17~18世紀』岩波書店 
1988年11月 182頁から引用 

<赤米=インディカ米の導入>
 今日私たち日本人が食べているのはジャポニカ米。インディカ米はチャーハンやカレーには適していると言われるが、市場で広く流通しているわけではない。ところが14世紀から19世紀にかけて、「とうぼし」(唐法師、唐干)あるいは「大唐米」「占城稲」という名の赤米種が広く作られていて、新田開発の過程で重要な役割を果たしていた。 
 赤米が日本のどこで作付けされていたか?18世紀の状況では、 
(1)九州・四国・紀伊半島の南部、つまり太平洋側が多かった。ここでは洪積層大地周辺の強湿田地帯で赤米が直播きされていた。農耕としてはかなり粗放的であり、しかも相当に後の時代まで(鹿児島の一部では昭和に入っても)存続する。 
(2)八代、筑後、佐賀平野など干拓クリーク地帯、沖積平野の湿田や用水不足田。これらの地方では直播ではなく移植法による植え付けがなされていた。佐賀藩では1725年で、21%が赤米であった。それ以前17世紀ではこの比率はもっと高かったと思われる。
 日本で書かれた最初の農業技術書「清良記」(17世紀中頃の寛永から延宝の間に書かれたと推定される)によると、栽培される稲の品種は96あり、そのうち「太米」として次の8種が書かれている。
早太唐(はやたいとう) 白早太唐 唐法師 大唐餅 小唐餅 晩唐餅 唐稲青 野大唐 
 当時「太米」は「太唐米(だいとうまい)」ともよばれ、総称として「唐法師」と言われたこともあった。これは米のなかでも、より野生に近く、したがって野生稲の色彩を保っていて、濃いあめ色の実がみのる。いわゆる「赤米」であった。 

 この赤米は、米粒の細長いインディカ種で、炊きあげたのちの粘りけが少なく、食味としては日本では美味とされなかった。そのため値段は白米より安かった。ただし「清良記」は、赤米のまずさではなく、むしろ長所をあげている。「大唐餅」をのぞけば、痩せ地でもよく育つし、日照りにも強い。虫もつかない。風こぼれには弱いが、脱穀の手間がかからない。このように利点の多い稲で、おまけに飯に炊くと炊き増えする。 

 農人の食して上々の稲なり。 

というのが「清良記」の考えであった。 
<赤米が新田開拓の先兵> さてこの赤米が戦国から江戸初期にかけて大きな意味をもつ。それは水田の面積拡大という方向に水稲生産の著しい伸長がみられた段階で、その主役を赤米が担っていたと考えられるからだ。新田は3年から5年くらいの鍬下年季の期間を決め、検地の猶予や無年貢・減免の処置にした。鍬下とは開墾途中との意味。水田は開墾してもすぐ収穫を期待できるわけではない。熟田と比べると劣悪な生産力しかなかった。そこで野生の強靱さを失っていない赤米は、この劣悪な水田で作られる主役であった。 

 当時の開田は、平野部ではすでに熟田化していた丘陵寄りの部分から低湿地の河川近くの方向へ、また沿岸部干拓地では海岸近くの方へ順次工事が進められて来たと思われるので、それらの新田には多くの場合まず赤米種が作られ、その後になってその水田が漸次整備され熟田化するにつれて、従来の赤米が真米に代わり、さらにその先の低湿地の方に進んだ新開田地に赤米が作付けされるといった順序で、赤米→真米への転換が開田の順序に伴って繰り返されて来たのではないかと考えられる。
 すなわち、インディカ系の赤米は、沖積平野における新田開発の第1段階において「稲作のパイオニヤとしての役割」を果たしていた。 

 戦国から江戸初期の新田開発は河川や河川の合流地に広く堆積した沖積地を水田化するようになる。これは大規模な工事で、しかもすぐに収穫が期待できるわけではなく、大変リスクの大きい事業であった。そう考えると、開発の順序<用水工事→注水工事→移住→利水工事→作付け>というのはリスクが大きく、すべての武将、大名がこの順序だったとは考えられない。そこで、<治水より利水の方が先だ>との説もそれなりの正当性があるようにも思えてくる。 

 開発の順序、このように初めに百姓が動き、その後大名が大規模治水工事を開始した、という説。歴史というのは見方によっていろんな説が考えられる。武将・大名主導の開発というのが定説のようだが、赤米がこの時代多く生産されていた、ということに注目すると、百姓主導の新田開発説もそれらしく思えてくる。赤米のことを長々と取り上げたのは、歴史にはいろんな見方がある、ということを言いたかったからのこと。

<百姓主導の新田開発も盛んだった>
 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。 そして、戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。 
 上に書かれたことに特別大きな誤りはないと思われる。しかし、これを読むと「武将・領主が権力を用いて百姓を動員して、河川の安定工事や新田開発を行った」と思いこむことになる。
 しかしこの時代、武将・領主の主導ではなく、百姓が自主的に新田開発を行うのも活発だったようだ。 治水が先か?利水が先か? で取り上げたのは、「武将・領主が主導で新田開発を行ったのではない」との主張につながる。
 しかし、この本ではそれ以上に詳しく説明はしていない。そこで、「新田開発は武将・領主が主導で行われた。しかし、それに対する疑問も投げかけられている」というのが定説になってしまう。武将同士の争いが激しくなれば、武将主導の新田開発も行われた、と考えるべきであろう。しかし、それとは別に、百姓主導での新田開発の活発に行われた。どれほど活発であったかと言うと、インターネットで「新田開発」をキーワードに検索すると、実に多くのサイトがヒットする。ヒットしたサイトから、そこに登場する百姓の名前を抜き出して見よう。 

<百姓・町人が大開発を行った>  江戸時代と中世が決定的に違う社会だと思わせる理由のひとつは、世の中に貨幣が行き渡って、あらゆる生産物が基本的に商品として生産されるようになったという点である。そして江戸時代の新しい社会の諸場面を担当したのが百姓・町人である。 
 江戸時代、第1に見るべきは時代の初め全国に展開した田地の大開発である。しかもその開発は、百姓が隣地に鍬を入れたというようなものではない。開発に第3者の資金が投入されたのである。 
 大開発の説明として、戦国大名が勧農策を講じたなどとした書き物に出会う。しかし大名が開発を勧めただけでは田地の開発は一歩も進まない。「経済外的」な強制力で百姓が耕地開発に従事するはずなど元々ないのである。 

 さて、開発のためにはまず測量の技術者がいる。彼らが土地の高低を計り設計図を作ってくれなければ用水路も排水路もできようがない。次に、農具、鍬や鎌などを作る鍛冶屋がいる。そうした技術者や、よそから来た百姓たちを居住させるための建物がいる。その資金、賃金に充てるための資金、開発資材を整えるための資金、そうした手だて講じたとき、初めて耕地の開発が可能になる。そうした資金が整うことが、戦国末期から江戸時代初期の大土地開発の前提だということになる。 

 それゆえ、背景に金銀が世の中に流通し、その金銀が開発資金に用いられることが必要であった。金銀山を開発所有した者が戦国大名となった。戦国大名が新しい世の中を作った、という意味がそこにある。 
 江戸時代初頭の大名は、戦国大名の延長上にある。寛永14年(1637)2月、宮嶋作右衛門という越後高田藩の御用商人(廻船商人)が高田藩に対して1通の願書を提出した。 
 一、頸城(くびき)郡下美守(しもひだもり)郷(現・頸城村)のうち、おおぶけ(大瀁)野谷地を新田に仕立て申すべき旨、毎度申し上げ候、いよい以て、拙者共に仰せつけさせられ候わば、相違なく新田に開発つかまる候 
 
一、新田用水の儀は、「保倉川」をとりいれ申し候、すなわち、用水普請人足など、日雇いの金銀入用は何ほどにても拙者共、自分につかまつるべく候こと 
 「ふけ」というのは越後では湿地のことを言う。保倉川と海岸砂丘との間は当時浅く広い池になっていて、ところどころにある高みに数件の家があった。そうした家は集落の淵にある湿地を水田に耕してきたのであったが、いま、その大瀁野谷地のたまり水を抜いて池全体を干拓し、水田に変えようというのである。これまでも幾度となく開発の申請が藩に提出されたが、資金を藩に頼ったため、話は一歩も進まなかった。
 
 この開発の申請に際して宮嶋は、干拓をすれば田地にかける水が必要で、その用水として保倉川の水を引き上げる必要があるが、その用水路建設の普請人足などの費用は全部開発申請者が負担すること、それゆえ新田のために引く用水路については村々との間で異議が出ないように藩の方で調整してもらいたいこと、新田ができあがったら開発された田地の十分の一を慣例によって開発者に与えてもらいたいこと、もし新田が寛政しないようなことがあったら普請のために潰れた田地(用水路用に使用した田畑)の年貢は必ず開発申請者が納めること、などの条件をつけて開発を願い出たのである。その願い人の内訳は次の通りであった。 

   高田上小町       宮嶋作右衛門 
   上野(こうずけ)国一ノ宮 松本作兵衛 
     同         茂田七右衛門 
     同         茂田喜右衛門 
     同         神戸三郎左衛門 
                   (「宮嶋家文書」) 
 宮嶋を除いてみんな上州一ノ宮(現・富岡市)の牢人者であった(頸城土地改良区『大瀁郷新田開発史』昭和50年)。(中略) 
 大開発時代と言われる江戸時代の初めの50年間は、貨幣資金が初めて「資本」となって田地開発を進めた時代と言ってよい。自給自足の農民が貧困から逃れるために開墾に精を出したとか、権力からの「経済外的」な強制で農民が開発に従事させられたというのは後世につけた理屈である。 (『村からみた日本史』から)

<百姓間の大きな所得格差・資産格差・権力格差>  「江戸時代」を取り扱うとき、「封建時代、百姓には自由が少なかった」とか「社会の動きは基本的に武士階級によって動かされた」「百姓は白米を食べる機会も少なく、アワやヒエが主食だった」などという見方が一般的になりがちだ。それは、「百姓は……」との表現で、百姓間の「格差」を無視して話しを進めるところに問題がある。
 江戸時代、「食うや食わずの水飲み百姓もいたし、新田開発を主導する豪農もいた」。このことを忘れはいけない、と思い、江戸時代を扱う初めに「百姓の間の所得格差・資産格差・権力格差はとれも大きかった」ということをハッキリさせたかったのと、「社会の変革に百姓が部外者であったかのような見方をしないように」と考え、ここ「新田開発」という項目で扱うことにした。

<主な参考文献・引用文献> 
『江戸時代』                 大石慎三郎 中公文庫     1977. 8.25 
『田沼意次の時代』              大石慎三郎 岩波書店     2001. 6.15 
『将軍と側用人の政治』            大石慎三郎 講談社      1995. 6.20 
『江戸時代の先覚者たち』            山本七平 PHP研究所   1990.10.19 
『歴史の見方考え方』              板倉聖宣 仮説社      1986. 4. 7 
『日本史再発見』                板倉聖宣 朝日新聞社    1993. 6.25 
『日本歴史入門』                板倉聖宣 仮説社      1981. 6.15 
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20 
『近世日本の市場経済』大坂米市場分析』     宮本又郎 有斐閣      1988. 6.30 
『日本経済史』経済社会の成立     速水融、宮本又郎編 岩波書店     1988.11.30 
『株仲間の研究』                宮本又次 有斐閣      1938. 5  
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20 
『堂島米会所文献集』              島本得一 所書店      1970. 9.25 
『商品先物取引の世界』            河村幹夫他 東洋経済新報社  1983.10.27 
『江戸庶民の信仰と行楽』           池上真由美 同成社      2002. 4. 1 
『百姓一揆とその作法』              保坂智 吉川弘文館    2002. 3. 1 
『太閤検地と石高制』NHKブックス93    安良城盛昭 日本放送出版協会 1969. 7.25 
『近世稲作技術史』                嵐嘉一 農山漁村文化協会 1975.11.20 
『弾左衛門ー大江戸もう一つの社会』       中尾健次 解放出版社    1994.10.15 
『長崎貿易』                  太田勝也 同成社      2000.12.10 
『享保改革の商業政策』            大石慎三郎 吉川弘文館    1998. 2.20 
『赤米のねがい』 古代からのメッセージ     安本義正 近代文芸社    1994. 3.10 
『赤米・紫黒米・香り米』            猪谷富雄 農産漁村文化協会 2000. 3.31 
『徳川吉宗とその時代』            大石慎三郎 中公文庫     1989. 3.10 
『稲』 ものと人間の文化史86           菅洋 法政大学出版局  1998. 5. 1 
『稲の日本史』                佐藤洋一郎 角川選書     2002. 6.30 
『村から見た日本史』              田中圭一 ちくま新書    2002. 1.20   
『明治以前日本土木史』             土木学会 土木学会     1936. 6

(記事引用)
※引用にあたり
 実によく調べ、また整理してあり賞賛にあたいする。大学講義でもここまでやらないだろう。ましてテレビ番組など、聴取率にうつつをぬかしていると、このような実態調査的学術は敬遠される。本当はむしろ逆なのだが。 

先史ギリシア、ペルシア、イラク、オスマントルコなど、文明開化した国家は、一様に農業国であり、豊かな穀物生産を誇っていた。それはすなわち田畑の開墾技術であり、その延長が兵力増強という対の要素であることは、いまさら改めて認識するまでもない。現代社会では、この農業が疎かになり、やたら先端ITと、もてはやされているが、それだって時代の一過性流行であって、時がくれば違ったものにシフトしている。たぶん、将来的にそれが食物生産の農業だということは、人間だったら皆、感じていることだろう。

「TANAKA1942bが江戸時代を経済学」サイト主、さんにはこの場でお礼申し上げる。
2015年10月21日

ペルシャ3





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