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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

NHKの朝のテレビ小説「あさが来た」。
その主人公のモデルは廣岡浅子という実在の人物で、豪商三井家に生まれ、大同生命や日本女子大の設立に関わった人物。その嫁ぎ先が大阪の豪商加島屋。加島屋は諸藩の蔵元・掛屋(米方両替)、大名貸で鴻池家と並ぶ政商だった。

廣岡浅子の経歴
加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ
歴史の実像に迫る 歴史くらぶ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。
 加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。
 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。
 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。
(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」
(記事引用)


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江戸の新田開発
現在の日本の風景、田畑は全国規模の区画整理事業によって、ほぼ四角四面の形に整備され、見た目もすっきりして、それに沿った道路整備も整って車も快適に走れるようになっている。一昔(50年)前の未舗装道路とは格段の差がある。

出来上がった既成の景色、またそれに付随している概念は、それを見ただけで直感的に判断するので、昨日まであった建物が、一夜にして撤去されると、さて、ここに何があったのか、と思い出すこともまま為らないことも沢山ある。

自分が生まれた街、故郷を思い出してみても、育ったころの景色は、物理的なものでなく心象的な記憶の概念として記録されている。ことこまかな詳細は記録してなくても全体像は、はっきり覚えている。

では、自分が生まれる以前の昭和、大正、明治、江戸の風景はどうなっていたのだろうか。昭和初期の1932年、昭和7年ころの写真が、ある所の倉庫に大量に保管してあり、それを見て、驚嘆したことを覚えている。

そこに映っている50年前の特定した場所は、大雑把には変化していないが、人間の姿や街角の建物、かんばん類を見ると、まるで浦島太郎の気分にさせてくれる。その感じを100年とか300年前に戻ると、どうなるのか。
写真もない時代、その景色を想像したこともないし、まして「浮世絵世界」を図版でみても、それが人々の生活を反映している図かといえば、それはまったく異なる。

それと同じ意識感覚で、田舎の風景(べつに田舎でなくてもいいが・)棚田とか里山とか、今では超都会以外のへんぴな場所に価値がある、という意識があって、なんでもかんでも、そこに集中するというのは世の倣いである。

文字も読めない書けない文盲の「水のみ百姓」が、戦争になれば兵隊に、平穏時には畑で芋を作っている。という牧歌的風景の、「花咲かじいさん」、や「桃太郎」立身出世物語は、創作であり、それは現存しない架空のフィクションである。

そう定義するには、いささかの無理がある。無理、というのは、それを切り捨ててしまっては日本人のアイデンティティー欠如にほかならない、という意見が出そうであるからだ。

それでは実際、その「花咲かじいさん」の家に遊びに行ってみようか~。


江戸期の人口増加と食糧増産
新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。

日本では戦国時代、各大名が国力を高めるため競うように米の増産、農地開拓に取り組んだ。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、食糧が増産されたことなどで人口は増加したが、かえって食糧が不足し、主食とする米が必要とされた。

そのため江戸時代初期の17世紀以降、江戸幕府や各藩の奨励のもと、役人や農民たちの主導で湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われ、陸地が増やされ耕地となった。あるいは丘陵地帯や台地、谷地(やち・やつ、台地と台地の間の谷間の湿地帯)など内陸部の荒れ地でも新田の開拓が行われた。

こうした新田開発を通じ、江戸時代初期に全国で1800万石だった石高は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石と倍増に近い勢いで拡大し、特にそれまで畿内などに比べ開発が遅れていた東北、関東、中国、九州などでは湖沼や干潟が新田開発され農地が大きく増えた。

その背景には、測量技術の向上がある。大量の水を必要とする水田の場合は、自然の降雨のみによる供給は不可能であり、灌漑用水の整備が欠かせない。

しかしながら平坦地、あるいはごく緩やかな傾斜地では用水路の掘削は不可能であり、戦国時代以前は一定以上の傾斜地でないと水田の開拓は不可能であった。
それが大名や幕府の主導による大規模な測量によって、平地に開拓された水田への水供給が可能になったのである。また逆に、湖沼や泥湿地のような場所に大規模な排水路を整備しての水田化も行われた。あるいは干潟において干拓工事による水田化も行われた。

江戸幕府は、17世紀後半の無謀な新田開発の乱発を一旦は抑制したが、8代征夷大将軍・徳川吉宗の時代に行われた享保の改革では、「見立新田十分一の法」などを施行し開発者に利益を保証することで商人など民間による新田開発を奨励した。また10代征夷大将軍・徳川家治など、多くの将軍や老中が新田開発を政策的に行った。

これら江戸期の大規模な開発により、それ以前に湖沼や干潟、三角州が広がっていた地域から水辺が失われ、自然形態に影響を及ぼしたともいわれる。
(資料ウィキぺデア)

TANAKA1942bが江戸時代を経済学
2008年8月18日更新
 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/edo.html
 
大江戸経済学 江戸時代の歴史観が変わりつつある
鎖国・貧農・犬公方・貨幣改鋳・3大改革・田沼政治・金貨流出・・・ 
は じ め に
 江戸時代の歴史観が変わりつつある。今まで常識と思われていたことが、実は違っていた、ということが最近多く見られる。代表的なことは「鎖国」という表現だ。最近では「江戸時代は鎖国をしていた」とは言わなくなっている。

 現代の自由貿易、グローバル社会からみれば非常に閉鎖的であったにしても「鎖国」という表現は適切でない、となっている。
 そのほか「田沼意次=賄賂政治家」という説が通説であったが、近年では大石慎三郎らの研究により、当時としてはかなり進んだ経済政策を行ったと再評価されている。 
 日本の業界では珍しく、江戸時代の歴史に関しては歴史学の部外者が多く発言し、いままでの常識が少しづつ塗り替えられている。

 この江戸時代の歴史学の業界は開かれた業界で、ここへの参入が自由であるために、専門家以外も発言し、そのことによって誤った常識が訂正され始めている。 

 そうしたことを意識して、「江戸の歴史観が変わりつつある」と題してホームページを立ち上げることにした。
 ここでは、アマチュアでもあるし、特別新しい事実は提供できないだろうが、大きな歴史観の変化は捉えてみようと思う。例によってダッチロールの繰り返しになるかも知れないけれども、最後までのお付き合いのほど宜しくお願い致します。

(1)新田開発は武将・領主の主導によってか? 
 大きい百姓間の所得格差・資産格差・権力格差
<江戸時代初期の人口増は新田開拓による>  江戸時代初期の人口は約1,200万人、これが享保期(1716年から1735年)には武士・町人・農民あわせて約3,000万人になっている。
 この人口増には食糧(コメ)の増産が影響していることに疑問の余地はない。その食糧増産は、新田開拓によるところが大きい。戦国期末から江戸時代初期にかけて新田開発が行われ、これによりコメが増産され、食糧増産により人口が増えたと考えるのが妥当だ。では、その新田開発はどのように行われたのだろうか?今週のテーマはこうした疑問から始まる、「新田開発は武将・領主の主導によってか?」だ。 
 
 新田開発に関しては「大坂堂島米会所」▲に書いたので、そこから引用してみよう 
大開墾・人口増 江戸時代のコメ問題を扱うとすれば、戦国時代から江戸時代初期の「大開墾・人口増」から扱うのが妥当なようだ。多くの文献はこの時代の用水土木工事の多いことから話を始めている。

 へそ曲がりのTANAKA1942bもこれに関しては定番の話の進め方をしよう。そこで先ず、大石慎三郎著「江戸時代」(中公新書 1977.8)から── 

つくりかえられた沖積層平野 大土木工事の時代  
”天下分け目”といわれた関ヶ原の戦い(1600=慶長5年)を中心とし、その前後約60-70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から4代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を大きく変えた時代であった。ここで土木技術というのは広義のもので、それは大別して、 
 (イ)鉱山開発技術──その結果日本は世界有数の金銀産出国となった。 
 (ロ)築城技術──それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。 
 (ハ)用水土木技術
の三分野に分けることができる。ここではこのなかで日本社会を変えるのにもっとも大きな役割をはたした用水土木技術について考えてみたい。 
 いま土木学会で編集した「明治以前日本土木史」のなかから、古代から徳川時代の終りにあたる1867(慶応3)年までにわが国で行われた主要土木工事のなかで、用水土木関係工事を抜き出して年代別に表を作ってみると表1のようになる。 

 全118件のうちで56件(47.46%)が戦国期から江戸時代初頭の約200年ほどのあいだに集中しており、なかんずく1596(慶長元)年から1672(寛文12)年まで徳川初頭77年間に42件(35.59%)とその集中度がとくに高い。つまりわが国における明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。 

 しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられているのである。それはもしこれらのことがなければ、江戸時代ひいては明治移行のわが国の国土状況はないと言えるほどのものであった。 

 「明治以前日本土木史」 同じ「明治以前日本土木史」から集計したもので、別の表を引用してみよう。表2を見ると、河川工事は1601-1650に多く、溜池・用水路・新田開発はそれより50年後の、1651-1700に多いことが読みとれる。 

「経済社会の成立―17~18世紀」速水融、宮本又郎編著 岩波書店 
 1988年11月(45頁から引用)(土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成) 出典
<軍事力の自由競争時代、そこでの経済的基盤> 室町幕府が崩壊し、戦国時代になると各地の武将が力を競い合う「自由競争時代」になる。
 武器、装備、戦略、陰謀、策略、人望などで競い合い、その基盤に経済力があった。その経済力とは、コメの生産力、金・銀鉱山、特産品、商業などであり、コメの増産には特に力が注がれた。戦国時代に新田開発が多くなったのは、軍事力の自由競争時代に勝ち抜くには、経済力増強そのためのコメ増産、そのための新田開発という強いインセンティブが働いていたためであり、大きな川を治め、沖積層平野を新田に作り替え、そこでのコメ増産という経済力を武器にする、それが戦国武将のサバイバル・ストラテジー(生き残り戦略)であった。 

 戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。

 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。

<治水が先か?利水が先か?> この時代大きな力を持った武将が、自由競争で勝ち抜くために大河川の治水工事を行い、新田を開発した。実際歴史に残るような用水工事をした武将がその後も生き残っている。この順序は、用水工事→治水工事→移住→利水工事→作付け、となる。これに対して、「そうではない、治水より利水の方が先だ」との説もある。 

 わが国水田の開発過程をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発が出来ない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。
 農民(あるいは士豪、小領主)による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果たすというのが普通であって、これが沖積低地開発の常道であった。

 この意味で利水は常に治水に先行する。それゆえ、大名による大規模な治水工事によって初めて沖積平野の開発が行われたということは、実状に合わないのである。 

速水融、宮本又郎編著『経済社会の成立―17~18世紀』岩波書店 
1988年11月 182頁から引用 

<赤米=インディカ米の導入>
 今日私たち日本人が食べているのはジャポニカ米。インディカ米はチャーハンやカレーには適していると言われるが、市場で広く流通しているわけではない。ところが14世紀から19世紀にかけて、「とうぼし」(唐法師、唐干)あるいは「大唐米」「占城稲」という名の赤米種が広く作られていて、新田開発の過程で重要な役割を果たしていた。 
 赤米が日本のどこで作付けされていたか?18世紀の状況では、 
(1)九州・四国・紀伊半島の南部、つまり太平洋側が多かった。ここでは洪積層大地周辺の強湿田地帯で赤米が直播きされていた。農耕としてはかなり粗放的であり、しかも相当に後の時代まで(鹿児島の一部では昭和に入っても)存続する。 
(2)八代、筑後、佐賀平野など干拓クリーク地帯、沖積平野の湿田や用水不足田。これらの地方では直播ではなく移植法による植え付けがなされていた。佐賀藩では1725年で、21%が赤米であった。それ以前17世紀ではこの比率はもっと高かったと思われる。
 日本で書かれた最初の農業技術書「清良記」(17世紀中頃の寛永から延宝の間に書かれたと推定される)によると、栽培される稲の品種は96あり、そのうち「太米」として次の8種が書かれている。
早太唐(はやたいとう) 白早太唐 唐法師 大唐餅 小唐餅 晩唐餅 唐稲青 野大唐 
 当時「太米」は「太唐米(だいとうまい)」ともよばれ、総称として「唐法師」と言われたこともあった。これは米のなかでも、より野生に近く、したがって野生稲の色彩を保っていて、濃いあめ色の実がみのる。いわゆる「赤米」であった。 

 この赤米は、米粒の細長いインディカ種で、炊きあげたのちの粘りけが少なく、食味としては日本では美味とされなかった。そのため値段は白米より安かった。ただし「清良記」は、赤米のまずさではなく、むしろ長所をあげている。「大唐餅」をのぞけば、痩せ地でもよく育つし、日照りにも強い。虫もつかない。風こぼれには弱いが、脱穀の手間がかからない。このように利点の多い稲で、おまけに飯に炊くと炊き増えする。 

 農人の食して上々の稲なり。 

というのが「清良記」の考えであった。 
<赤米が新田開拓の先兵> さてこの赤米が戦国から江戸初期にかけて大きな意味をもつ。それは水田の面積拡大という方向に水稲生産の著しい伸長がみられた段階で、その主役を赤米が担っていたと考えられるからだ。新田は3年から5年くらいの鍬下年季の期間を決め、検地の猶予や無年貢・減免の処置にした。鍬下とは開墾途中との意味。水田は開墾してもすぐ収穫を期待できるわけではない。熟田と比べると劣悪な生産力しかなかった。そこで野生の強靱さを失っていない赤米は、この劣悪な水田で作られる主役であった。 

 当時の開田は、平野部ではすでに熟田化していた丘陵寄りの部分から低湿地の河川近くの方向へ、また沿岸部干拓地では海岸近くの方へ順次工事が進められて来たと思われるので、それらの新田には多くの場合まず赤米種が作られ、その後になってその水田が漸次整備され熟田化するにつれて、従来の赤米が真米に代わり、さらにその先の低湿地の方に進んだ新開田地に赤米が作付けされるといった順序で、赤米→真米への転換が開田の順序に伴って繰り返されて来たのではないかと考えられる。
 すなわち、インディカ系の赤米は、沖積平野における新田開発の第1段階において「稲作のパイオニヤとしての役割」を果たしていた。 

 戦国から江戸初期の新田開発は河川や河川の合流地に広く堆積した沖積地を水田化するようになる。これは大規模な工事で、しかもすぐに収穫が期待できるわけではなく、大変リスクの大きい事業であった。そう考えると、開発の順序<用水工事→注水工事→移住→利水工事→作付け>というのはリスクが大きく、すべての武将、大名がこの順序だったとは考えられない。そこで、<治水より利水の方が先だ>との説もそれなりの正当性があるようにも思えてくる。 

 開発の順序、このように初めに百姓が動き、その後大名が大規模治水工事を開始した、という説。歴史というのは見方によっていろんな説が考えられる。武将・大名主導の開発というのが定説のようだが、赤米がこの時代多く生産されていた、ということに注目すると、百姓主導の新田開発説もそれらしく思えてくる。赤米のことを長々と取り上げたのは、歴史にはいろんな見方がある、ということを言いたかったからのこと。

<百姓主導の新田開発も盛んだった>
 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。 そして、戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。 
 上に書かれたことに特別大きな誤りはないと思われる。しかし、これを読むと「武将・領主が権力を用いて百姓を動員して、河川の安定工事や新田開発を行った」と思いこむことになる。
 しかしこの時代、武将・領主の主導ではなく、百姓が自主的に新田開発を行うのも活発だったようだ。 治水が先か?利水が先か? で取り上げたのは、「武将・領主が主導で新田開発を行ったのではない」との主張につながる。
 しかし、この本ではそれ以上に詳しく説明はしていない。そこで、「新田開発は武将・領主が主導で行われた。しかし、それに対する疑問も投げかけられている」というのが定説になってしまう。武将同士の争いが激しくなれば、武将主導の新田開発も行われた、と考えるべきであろう。しかし、それとは別に、百姓主導での新田開発の活発に行われた。どれほど活発であったかと言うと、インターネットで「新田開発」をキーワードに検索すると、実に多くのサイトがヒットする。ヒットしたサイトから、そこに登場する百姓の名前を抜き出して見よう。 

<百姓・町人が大開発を行った>  江戸時代と中世が決定的に違う社会だと思わせる理由のひとつは、世の中に貨幣が行き渡って、あらゆる生産物が基本的に商品として生産されるようになったという点である。そして江戸時代の新しい社会の諸場面を担当したのが百姓・町人である。 
 江戸時代、第1に見るべきは時代の初め全国に展開した田地の大開発である。しかもその開発は、百姓が隣地に鍬を入れたというようなものではない。開発に第3者の資金が投入されたのである。 
 大開発の説明として、戦国大名が勧農策を講じたなどとした書き物に出会う。しかし大名が開発を勧めただけでは田地の開発は一歩も進まない。「経済外的」な強制力で百姓が耕地開発に従事するはずなど元々ないのである。 

 さて、開発のためにはまず測量の技術者がいる。彼らが土地の高低を計り設計図を作ってくれなければ用水路も排水路もできようがない。次に、農具、鍬や鎌などを作る鍛冶屋がいる。そうした技術者や、よそから来た百姓たちを居住させるための建物がいる。その資金、賃金に充てるための資金、開発資材を整えるための資金、そうした手だて講じたとき、初めて耕地の開発が可能になる。そうした資金が整うことが、戦国末期から江戸時代初期の大土地開発の前提だということになる。 

 それゆえ、背景に金銀が世の中に流通し、その金銀が開発資金に用いられることが必要であった。金銀山を開発所有した者が戦国大名となった。戦国大名が新しい世の中を作った、という意味がそこにある。 
 江戸時代初頭の大名は、戦国大名の延長上にある。寛永14年(1637)2月、宮嶋作右衛門という越後高田藩の御用商人(廻船商人)が高田藩に対して1通の願書を提出した。 
 一、頸城(くびき)郡下美守(しもひだもり)郷(現・頸城村)のうち、おおぶけ(大瀁)野谷地を新田に仕立て申すべき旨、毎度申し上げ候、いよい以て、拙者共に仰せつけさせられ候わば、相違なく新田に開発つかまる候 
 
一、新田用水の儀は、「保倉川」をとりいれ申し候、すなわち、用水普請人足など、日雇いの金銀入用は何ほどにても拙者共、自分につかまつるべく候こと 
 「ふけ」というのは越後では湿地のことを言う。保倉川と海岸砂丘との間は当時浅く広い池になっていて、ところどころにある高みに数件の家があった。そうした家は集落の淵にある湿地を水田に耕してきたのであったが、いま、その大瀁野谷地のたまり水を抜いて池全体を干拓し、水田に変えようというのである。これまでも幾度となく開発の申請が藩に提出されたが、資金を藩に頼ったため、話は一歩も進まなかった。
 
 この開発の申請に際して宮嶋は、干拓をすれば田地にかける水が必要で、その用水として保倉川の水を引き上げる必要があるが、その用水路建設の普請人足などの費用は全部開発申請者が負担すること、それゆえ新田のために引く用水路については村々との間で異議が出ないように藩の方で調整してもらいたいこと、新田ができあがったら開発された田地の十分の一を慣例によって開発者に与えてもらいたいこと、もし新田が寛政しないようなことがあったら普請のために潰れた田地(用水路用に使用した田畑)の年貢は必ず開発申請者が納めること、などの条件をつけて開発を願い出たのである。その願い人の内訳は次の通りであった。 

   高田上小町       宮嶋作右衛門 
   上野(こうずけ)国一ノ宮 松本作兵衛 
     同         茂田七右衛門 
     同         茂田喜右衛門 
     同         神戸三郎左衛門 
                   (「宮嶋家文書」) 
 宮嶋を除いてみんな上州一ノ宮(現・富岡市)の牢人者であった(頸城土地改良区『大瀁郷新田開発史』昭和50年)。(中略) 
 大開発時代と言われる江戸時代の初めの50年間は、貨幣資金が初めて「資本」となって田地開発を進めた時代と言ってよい。自給自足の農民が貧困から逃れるために開墾に精を出したとか、権力からの「経済外的」な強制で農民が開発に従事させられたというのは後世につけた理屈である。 (『村からみた日本史』から)

<百姓間の大きな所得格差・資産格差・権力格差>  「江戸時代」を取り扱うとき、「封建時代、百姓には自由が少なかった」とか「社会の動きは基本的に武士階級によって動かされた」「百姓は白米を食べる機会も少なく、アワやヒエが主食だった」などという見方が一般的になりがちだ。それは、「百姓は……」との表現で、百姓間の「格差」を無視して話しを進めるところに問題がある。
 江戸時代、「食うや食わずの水飲み百姓もいたし、新田開発を主導する豪農もいた」。このことを忘れはいけない、と思い、江戸時代を扱う初めに「百姓の間の所得格差・資産格差・権力格差はとれも大きかった」ということをハッキリさせたかったのと、「社会の変革に百姓が部外者であったかのような見方をしないように」と考え、ここ「新田開発」という項目で扱うことにした。

<主な参考文献・引用文献> 
『江戸時代』                 大石慎三郎 中公文庫     1977. 8.25 
『田沼意次の時代』              大石慎三郎 岩波書店     2001. 6.15 
『将軍と側用人の政治』            大石慎三郎 講談社      1995. 6.20 
『江戸時代の先覚者たち』            山本七平 PHP研究所   1990.10.19 
『歴史の見方考え方』              板倉聖宣 仮説社      1986. 4. 7 
『日本史再発見』                板倉聖宣 朝日新聞社    1993. 6.25 
『日本歴史入門』                板倉聖宣 仮説社      1981. 6.15 
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20 
『近世日本の市場経済』大坂米市場分析』     宮本又郎 有斐閣      1988. 6.30 
『日本経済史』経済社会の成立     速水融、宮本又郎編 岩波書店     1988.11.30 
『株仲間の研究』                宮本又次 有斐閣      1938. 5  
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20 
『堂島米会所文献集』              島本得一 所書店      1970. 9.25 
『商品先物取引の世界』            河村幹夫他 東洋経済新報社  1983.10.27 
『江戸庶民の信仰と行楽』           池上真由美 同成社      2002. 4. 1 
『百姓一揆とその作法』              保坂智 吉川弘文館    2002. 3. 1 
『太閤検地と石高制』NHKブックス93    安良城盛昭 日本放送出版協会 1969. 7.25 
『近世稲作技術史』                嵐嘉一 農山漁村文化協会 1975.11.20 
『弾左衛門ー大江戸もう一つの社会』       中尾健次 解放出版社    1994.10.15 
『長崎貿易』                  太田勝也 同成社      2000.12.10 
『享保改革の商業政策』            大石慎三郎 吉川弘文館    1998. 2.20 
『赤米のねがい』 古代からのメッセージ     安本義正 近代文芸社    1994. 3.10 
『赤米・紫黒米・香り米』            猪谷富雄 農産漁村文化協会 2000. 3.31 
『徳川吉宗とその時代』            大石慎三郎 中公文庫     1989. 3.10 
『稲』 ものと人間の文化史86           菅洋 法政大学出版局  1998. 5. 1 
『稲の日本史』                佐藤洋一郎 角川選書     2002. 6.30 
『村から見た日本史』              田中圭一 ちくま新書    2002. 1.20   
『明治以前日本土木史』             土木学会 土木学会     1936. 6

(記事引用)
※引用にあたり
 実によく調べ、また整理してあり賞賛にあたいする。大学講義でもここまでやらないだろう。ましてテレビ番組など、聴取率にうつつをぬかしていると、このような実態調査的学術は敬遠される。本当はむしろ逆なのだが。 

先史ギリシア、ペルシア、イラク、オスマントルコなど、文明開化した国家は、一様に農業国であり、豊かな穀物生産を誇っていた。それはすなわち田畑の開墾技術であり、その延長が兵力増強という対の要素であることは、いまさら改めて認識するまでもない。現代社会では、この農業が疎かになり、やたら先端ITと、もてはやされているが、それだって時代の一過性流行であって、時がくれば違ったものにシフトしている。たぶん、将来的にそれが食物生産の農業だということは、人間だったら皆、感じていることだろう。

「TANAKA1942bが江戸時代を経済学」サイト主、さんにはこの場でお礼申し上げる。
2015年10月21日

ペルシャ3





「祝」 特許庁意匠登録 全申請完了(インターネット登録申請) 
2015年9月3日、にこの記事を書いてから1月と半分たって、ようやくネット申請が完了した。今日はその報告記事である。
 
9月3日の記事を参照  http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52061194.html
今回私がしたのは「意匠登録」で特許権と比較したら、ずっと易しいが、特許庁に出す提出書類は、まったく同じである。
また、その手続きは専門煩雑なおかつ、発足当初の文書形式の文体が旧くて、文語体のような言い回しに戸惑った。
そんなことで敷居が高いと思われ、殆どは弁理士に高額手数料を払い委託してしまう。もちろん基本は自己申請であるから、個人でできるないようだ。

その難解な手続きを敢えて一人でやってみようと、いま進行中である。つい最近、この世界も「ネット申請」が出来るようになり、特許庁に足を運ぶことなく、また面倒な紙書類郵送することなく、デジタル印字の申請書で、権利取得できるようになった。

というわけで、ネット申請することになったが、そう簡単にはことは進まない。最初の超難関、「電子証明書」所得が、約2週間かかった。2年間の保障で約15000円の契約。これがないとネット申請は受け付けない。
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意匠登録出願・意匠登録申請から意匠権の取得までの手続、その流れの説明。
 
(1)意匠登録出願・意匠登録申請
 
 意匠権を取得するためには、意匠登録出願・意匠登録申請を行わなくてはなりません。
  
 意匠登録出願・意匠登録申請を行うためには、願書と、意匠登録を受けようとする意匠を記載した図面(写真、ひな形又は見本でもOK)を特許庁に提出するとともに、出願費用(1万6000円)を納付しなければなりません。なお、特許事務所や弁理士にこれらの書類の作成などを依頼すると、別途手数料が必要になります。
 
 簡単に言うと、「願書」は出願人の情報、登録を受けようとする意匠の物品名などを記載した書面、「図面」は登録を受けようとする意匠を記載した書面です。
 
 各書類の具体的な記載方法や記載例は、特許庁のホームページ(出願の手続き)で説明されています。
 
 これらの書類は上記のような特許庁のホームページや関連書籍などを参考にすれば自分で作成することもできますが、単に製品のデザインそのままに図面に記載するなどすると不必要に権利範囲を狭くする可能性があるなど、図面等の記載の仕方によってその後の審査結果や権利範囲にも大きな影響を及ぼしますので、少なくとも重要な出願については、専門家である弁理士に依頼することをお勧めします。
 
 なお、意匠登録出願・意匠登録申請の場合、出願をすれば自動的に審査が行われるので、特許出願のように出願審査請求を別途行う必要はありません。
 
(3)登録査定
 
 意匠登録出願・意匠登録申請に拒絶理由がない(意匠登録要件をすべて満たす)と判断されると、登録査定がなされます。登録査定がなされた場合、30日以内に第1年分の登録料(8500円)を納付すれば、設定登録がなされて意匠権が発生します。なお、登録料の納付を特許事務所や弁理士に依頼した場合、納付手数料が別途必要になります。
 
質問サイトより参考記事
 ワンポイントアドバイスになりますけど、現時点では、ADSLとかのブロードバンドでは出願手続きはできません。電話回線(ISDN可)で直接特許庁に接続するものだけしかオンライン出願はできませんのでお気をつけ下さい。

 特許庁からパソコン出願ソフトというものを配布してもらい、他方で、手数料を予納しておき、予納台帳番号というものを付与してもらい、願書に納付金額を書くような仕組みになっています。
 (特許庁 パソコン出願ソフト  http://www.pcinfo.jpo.go.jp/site/4_news/3_appl/03_09.html 
 パソコン出願ソフトの最新バージョンは[02.41]で、Web上からダウンロードできますが、[02.40]が入っていないとインストールできません。その[02.40]は、CD-ROMで配布されているだけで、Web上からのダウンロードはできません。

 パソコン出願ソフトは、HTMLファイルを特許庁仕様の特殊なファイル形式に変換するためのものです。また、意匠図面などについてもかなり細かい制約がありますし、画像ファイルの形式も決められています。書式や画像形式がちゃんとしていないと、その段階で弾かれてしまいます。その辺の仕組みをおわかりでない方には、出願手続は極めて難しいですよ。

 また、審査の段階で拒絶理由通知などが来た場合には、専門家と素人さんとの力量差は歴然とします。専門家が扱えばなんとかなったのに専門家に任せなかったばかりにせっかくの出願がフイになってしまったなんて事例は、山ほどあるはずですよ。

 特許庁の審査官に聞けば親切に教えてくれるなんてことを仰る方もいますが、審査官も人間ですから間違えることはあります。すでに考え違いしちゃっている場合には、出願人に聞かれても正しいことを教えることはできませんよね。私は仕事上そういう事例を何度も見かけてきました。それと、審査官はお役人だということをお忘れなく。
※教えてgoo 回答 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/338556.html

参考サイト エディPCサポートセンター
知的財産権のうち、特許 ・ 実用新案 ・ 意匠 ・ 商標 などの権利申請は、特許庁に行うわけですが、平成17年10月頃よりインターネット網を利用したオンライン手続が可能となってまいりました。
2. 先行調査
3. 出願等申請書類の仮作成
4. 電子証明の取得
5. インターネット出願ソフトのダウンロード と 申請人利用登録
6. インターネット版 出願等申請書類の作成
7. いよいよ後半、出願ソフト利用によるインターネット出願

また、郵送による出願の場合にかかる費用のうち、「磁気ディスクへの記録手数料 (電子化料金)」 (基本料 1,400円 + 700円 × 申請書類枚数)がありますが、インターネット出願の場合は料金はかかりません。
今回の申請書類枚数は、ワード 9ページ分でしたので、合計 7,700円 もお得でした 。
(記事引用)
これは「紙書類」例提出の費用であり、ネット申請では、これは0円である。↑

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いろいろと意匠登録申請に対するマニュアルを記述してあるが、これを寸分狂いもなく、というやり方をしていたら、後1か月の時間をムダに必要としたかもしれない。マニュアルが不親切ということではなく、逆にバカ丁寧で、飛ばしていいものをはじめに戻って、やり直し、といった具合に、堂々巡りする危険があった。

それはパソコン作動の初期段階の手ほどきと同じで、全部がわからないので、とにかくクリックしてみると、途端に闇夜に迷い込んでしまうのと同じだ。だから、その連続失敗の経験は、このネット申請で、とても役にたった。 

たしかに「簡単」ではない。難しいとされる難易度をはるかに超えている。というのは、この操作は一般的に、提供サイトとかプロバイダー経由なので、その業者が専門のスタッフを用意して対応に当たっている。
特許庁の場合、そのサービスが受けられない。まったくないことはないが、外郭団体であるので役所の延長的なやり方と書けば察しがつくだろう。

とにかく、プロの手を借りずして全部一人でやったことに意義がある。本来、役所申請の書類提出は、個人が一人で出来るのが前提である。それは現行でもそうなっていて、今回のこの仕事だって、それで対応している。裁判所の提訴もしかり、不動産の一部登記変更抹消など、それに類している。
ただ、それは煩雑で一字一句、点、空白、訂正など、細かい規定があり違っていると受け付けないという狭き門である。したがって、それを専門また職業としている人に代理申請するのが一般的になっている。

今回の意匠申請代理人申請(弁理士)すると8万から9万円の手数料が普通である。個人が、自分のアイディアをもって、その権利を法律的に確保したいと願ったら、自分でやるか、さもなければ8.9万円(弁理士費用)が必要だが殆どの場合、その高額金によって辞退している。

この「ネット申請」が解禁になったのは2年前で、選挙のネット解禁と同じ年代となっている。このネットによる申請システムがなかったら私だって、申請したかどうか判らない。

費用は「電子証明書」取得経費(私はセコムと契約、特許庁でも可)、16000円、ネット申請手数料(印紙代?)16000円。合計32000円を費やした。個人申請であっても最低費用金額は、これだけかかる。

これが高いか安いのか、その判定は価値感の問題範囲だろう。取得した独占権利といえども、最初に、その商品が市場の需給に適合しているか、ニーズがあったとしても正統的な世間的評価が得られるか。かりに市場投入まで漕ぎ付けたとして、ロッド数をどの程度に決めるか。その工場は小規模自宅でしのぐことができるか、という戦略が必要となる。

そんな諸々を考えると、一口に申請権利が下ったといっても、すぐさま「宝の山」とは限らないし、その反対巨額負債だってあり得る。だからいまのところ「道楽」程度にしておこう。
(この記事をみて、相談してみようという方は、いつでも相談にのります。でも、最終的に書類<デジタル入力書式>を書くのは自分であり間違いや、迷いながら進行するのが現実である。難解であっても、「しょせん」人が作った様式であるので、「火星語」で書かれているわけではない。だから自分でできる。

代理弁理士プロだって時間と費用を投入して資格を取った。それと同じ時間をかければ、できないことはない、簡単なのさ~。

(※2015/11/6 重大なミステイクを犯していた。完全申請完了と、すっかり思い込んでいたが、最後の詰め段階での手数料(印紙代)が未納だった。これまで自分でも何か足りない、おかしいと感じていたが、とどのつまり掛かる経費を送金しなければ相手が官公特許庁であっても、それでは仕事を始めない。また、「送金はまだですか」という催促などあるはずもなく、すべてが「自己責任」手続きであり、完備、不備などすべてが自分でチェックするという、基本的商取引であったことを改めて認識した。
その日、16日に手数料16000円をネット送金して完了した次第である。)
 

米国ZOLL Medical Corporationの買収について 旭化成
2012年3月12日旭化成株式会社
 旭化成株式会社(本社:東京都千代田区、社長:藤原 健嗣)は、本日、米国の救命救急医療機器大手であるZOLL Medical Corporation(本社:米国マサチューセッツ州、CEO:Richard A. Packer、米国NASDAQ上場:ZOLL、以下「ゾール・メディカル社」)と、当社の米国子会社による株式公開買付け(以下「本公開買付け」)およびそれに続く現金を対価とする合併(以下「本合併」)によりゾール・メディカル社を買収(以下「本買収」)することについて合意しましたので、お知らせいたします。

 当社は、上記合意内容に基づき、米国で新たに設立した子会社を通じた本公開買付けおよび本合併により、ゾール・メディカル社の発行済普通株式の総数を総額約22.1億米ドル(1株あたり93米ドル)で取得します。本買収は友好的なものであり、当社およびゾール・メディカル社の両取締役会は本買収を既に承認しております。なお、本買収完了のためには、独占禁止法に基づく条件の充足その他一般的な前提条件を満たすことが必要となります。


1.ゾール・メディカル社買収の目的
(1)本買収の背景
 当社は創業以来、時代の変化に応じ、その時々の社会的なニーズに応えることで持続的に成長を遂げてきた企業です。昨年スタートさせた中期経営計画「For Tomorrow 2015」の中で、当社は21世紀の社会が求める新しい価値を「健康で快適な生活」「環境との共生」と考え、この価値の提供に貢献することをグループの方針として掲げています。この方針に適合した新しい事業を創出することを目的として、昨年4月にグループ総合力の結集と融合を目指す「これからプロジェクト」(環境・エネルギー、住・くらし、医療の3領域)を立ち上げ、これからの社会的ニーズに合致する成長型ポートフォリオの構築を進めています。
 その一環として医療関連分野については、「For Tomorrow 2015」の中で、当社グループ経営を支える次世代の中核事業領域と位置付け、グローバルな成長戦略を推進しています。

(2)本買収に至った経緯
 当社のヘルスケア事業は泌尿器・骨領域・血液疾患等の医薬事業および透析等の血液浄化関連、バイオプロセス関連の医療機器事業の2つの領域により構成されています。当社はこれらの事業に加え、新たに成長を牽引する事業基盤の構築を検討してきました。その検討の中で、「人びとのいのち」を救うために必要不可欠な医療であり、今後もグローバルに成長が期待できる領域としてクリティカルケア(救命救急医療)分野に絞り、参入の機会を模索してきました。
 また、ゾール・メディカル社は生命蘇生技術をコアテクノロジーとした会社で、米国の体外除細動器市場では強固な事業基盤を保有しています。着用式除細動器「LifeVest」や体温マネージメント機器「Thermogard」等の革新的医療機器で事業拡大を図るとともに、その基盤を欧州、アジアに拡げることを重要な方針として掲げています。当社は、日本での事業強化を模索していたゾール・メディカル社との協業を開始し、第一弾として昨年8月より、AED(自動体外式除細動器)「ZOLL AED Plus」を当社グループが販売を始めるとともに、ゾール・メディカル社の日本における薬事コンサルタントおよびマーケティングを当社グループ企業が引き受ける等、幅広い協力関係を構築してきました。今般、今後の両社のさらなる協力関係の強化について協議してきました結果、今回当社とゾール・メディカル社との間で本買収の合意に至りました。

(3)本買収の意義
 本買収により、当社は以下のことが実現できると考えています。
当社は、これまで既存の医薬、医療機器事業を通じて、医療現場へのマーケティング力、製品開発力および薬事法等の規制や医療保険制度への対応力を培ってきました。これらの知見・リソース等を活かすことによってゾール・メディカル社の日本およびアジア事業拡大を加速することが可能であり、また同社の製品の競争力を強化することにも貢献できます。
当社はゾール・メディカル社の救命救急医療のグローバルに強固な基盤を確保することによって、さらなる成長のための投資の機会を得ることが可能になります。
当社の既存の医療機器事業との顧客情報の共有、共同マーケティング等により、グローバルな事業拡大や新たな疾患領域への対応の機会を得ることができます。
なお、当社は本買収以降、ゾール・メディカル社の成長戦略の実現および加速のために必要な資源投入を図ります。また、上記の付帯効果を着実に実現し、当社の将来の中核事業とするために、M&Aを含め積極的な戦略的投資を行います。当社は、救命救急医療分野での革新的医療技術の開発、普及に取り組み、国内外で医療施設のニーズ解決と患者様のQOL向上に貢献していきます。

2.本買収の概要
(1) 本公開買付け実施者
当社米国子会社の下に設立された買収目的子会社(以下「SPC」)
本買収のため、当社は、SPCを米国マサチューセッツ州に設立しました。本公開買付け終了後、SPCはゾール・メディカル社に吸収合併され、ゾール・メディカル社は当社の連結子会社となります。
(2) 本公開買付けの対象会社
ZOLL Medical Corporation
(3) 買付けを行う株券等の種類
普通株式
(4) 買付け価格
1株当たり93米ドル
(5) 買付けに要する資金
約22.1億米ドル(予定)
ゾール・メディカル社の発行済株式総数を買付け、オプション等その他証券に関する支払いを行うために要する金額を記載しています。
(6) 買付け期間
買付け期間はゾール・メディカル社との合意の日(米国東部時間2012年3月12日)から10営業日以内に開始され、開始後最短20営業日(土曜日、日曜日および米国における祝祭日は含まれない)で終了します。なお、合意内容に基づき、買付け条件が充足されない場合は、買付け期間の延長を実施する可能性があります。
(7) 下限応募株式数
SPCは、ゾール・メディカル社の発行済株式総数の3分の2以上(完全希薄化ベース)の応募があった場合に買付けを行います。
(8) 本公開買付けによるゾール・メディカル社株式の保有割合の異動
本公開買付け前の保有割合 0%
本公開買付けおよび本合併後の保有割合 100%
3.ゾール・メディカル社の概要
(1) 会社名 ZOLL Medical Corporation
(2)設立 1980年
(3)所在地 米国 マサチューセッツ州
(4)Chief Executive Officer Richard A. Packer
(5)売上高 523.7百万米ドル(2011年度)
(6)営業利益 48.2百万米ドル(2011年度)
(7)従業員数 1,908名(2011年10月2日時点)
(8)主な拠点 米国、ドイツ
4.当社の業績への影響
 本買収が成立した場合、ゾール・メディカル社は当社の連結子会社となります。これに伴う当社の業績に与える影響については、本公開買付け終了後、必要に応じ、速やかに開示いたします。
 なお、本公開買付けの終了は本年4月以降となりますので、2012年3月期の当社連結業績に与える影響はありません。

5.将来見通しに関する注意事項
 本プレスリリースは、当社およびゾール・メディカル社の見通し、目標、計画、戦略等の将来に関する記述が含まれております。これらの将来に関する記述は、将来の業績に関する保証ではなくおよび将来における当社およびゾール・メディカル社の実際の業績、展開または財務状況と大きく異なることとなるような知れたるまたは不知のリスク、不確実性その他の要素があります。
これらの将来に関する記述は、「考えます」、「期待します」、「見込みます」、「計画します」、「意図します」、「はずです」、「するつもりです」、「予測します」、「将来」、その他、これらと同様の表現、または特に「戦略」、「目標」、「計画」、「意図」等に関する説明という形で示されています。
多くの要因によって、本文書に述べられている「将来に関する記述」と大きく異なる実際の結果が、将来発生する可能性があります。かかる要因としては、
(i)公開買付けで買付け条件を満たすのに十分な株式が取得できない、
(ii)本買収の完了に必要とされる規制上の条件または他の条件が充足されないリスク、(iii)当事者に関連する法制度、会計基準等またはその他の経営環境の変化が及ぼす影響、
(iv)事業戦略を実行する上での課題 、
(v)金融の不安定性および他の一般的経済状況または業界状況の変化が及ぼす影響、および
(vi)本買収の完了に関するその他のリスクが含まれますが、これらに限定されるものではありません。当社もゾール・メディカル社も、法律によって明示的に必要とされる場合を除いて、新情報、将来の情勢またはその他の結果として将来の見通しに関する記述を更新する義務は負いません。本発表における将来に関する記述は、この注意事項に従うこととなります。

6.追加情報
 本プレスリリースに記載されている本公開買付けはまだ開始されていません。本プレスリリースは情報を提供するためだけのものであり、ゾール・メディカル社の普通株式の買付けの応募、または売付けの募集を勧誘するものではありません。公開買付けは、当社およびSPCが米国証券取引委員会(以下「SEC」)に届け出るSchedule TOによる公開買付説明書(買収提案、送達状、その他の関連公開買付け文書を含む。)に基づいて実施されます。随時修正される可能性のあるこれらの資料には、提示の条件等の重要な情報が含まれることから、入手可能となった際には、公開買付けに関する決定をされる前に熟読されるようお願いします。投資家および株主は、当社およびSPCが届け出るこれらの資料(入手可能となった以降)およびその他の文書を、SECのウェブサイトhttp://www.sec.gov新しいウィンドウが開きますまたは当社のウェブサイトhttp://www.asahi-kasei.co.jp/asahi/en/ir/index.html新しいウィンドウが開きますから無料で入手することができます。

以上

(記事引用) https://www.asahi-kasei.co.jp/asahi/jp/news/2011/ze120312.html



 

丸暗記は記憶カテゴリーの一部???
社会的に大学卒であれば、一流企業に入れた(昔の話ていど)が、そもそも大学入試の難関をパスしなければ、そこに到達しない。そのカギが記憶力というとになる。
昨今、丸暗記テストばかりではなく、応用力テストも問われているようで、内容も変わってきている。
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成績優秀と評価されるには、問われた問題の正確さが点数となって、その人の順位が決められ良し悪しは別として、そのランク付けは、ほぼ死ぬまで付きまとう。
ま、例外もあって世界的な物理学者「アインシュタイン」、など学校の成績はそれほど評価されていなかったようだ。

では、そうした記憶力の差というのは社会で、どのような影響を与えているのだろうかと、
考えてみた。というのは、ある事象の話しを数人でしていると、それぞれが違った見方をしているので驚くことがある。

内容と世代別にもよるが、例えば「役場はとちらですか」という質問は、ほとんど間違いのない答えが返ってくるが、「役場の町長はだれですか」という質問になると、名前を記憶してない人や、違う町の住民だったりすると「知らない」という返事もある。
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その程度の記憶力で、世代性別が不揃いの数人が責任のない世間話しをしていると、曖昧な記憶、中途半端な知識で、会話が進行する場合が多い。
もともと知識とか、試験的内容ではないので、不正確であっても誰も点数はつけない。だからその会話の内容は「信頼に足る」事実とは違う、と認識しなくてはならないが、その発言している相手の顔が、「信頼に足る」人物であった場合、会話内容が不確かであっても、信用してしまう場合がある。後になってそれは話しと違う、と気付くことが多い。

極端な例で戦争の勝敗は相手の詳細で正確な情報を知ることで決まる。その反対で、敵の誤った情報で戦っても勝算は低い。その場合の原因として、記憶すべき正確な情報の量が決定的に少ないし、言い換えると多くの人間は、その程度の記憶力しかもっていない、と考えられないだろうか。
それを埋め合わせるためにパソコンやスマホや、デジタル端末があり、そこに能力を超えてしまった記憶素子を、インプットしておく。よくあることだが、それをどこに記録したのか、それを忘れてしまうのが人間である。

その観点で、一般的な社会問題(大げさでなく、あそこの誰々夫婦が別れた、という程度)を論戦しても、本当の実際をしらない者同士が語っているなら永遠にラチがあかない。
狭いコミュニティー(村)内で、そうした情緒的会話をしていると、いずれどこかに歪みが生じる。
その範囲をグローバル地球規模社会システムにシフトして換算し、それを当てはめてみると、何故戦争をしているのか、という理由が案外わかることがある。


人間の脳はいったいどれほど多くのことを憶えることができるのか?
2015年04月08日 01時05分20秒 gigazine.net/news
多くの人は「もっと記憶力が欲しい」という願いを持つことが多いのですが、世の中には通常では考えられないほど高い記憶力を持つ人々がいます。なぜ彼らは極めて高い記憶力を持つに至ったのか、また、そうでない人にも同じように高い記憶力は備わっているものなのか、イギリス・BBCがその現状を伝えています。

BBC - Future - What’s the most we can remember?

デジタルカメラに入れたメモリーカードは容量がフルになるとそれ以上は何も記録できなくなってしまいますが、人間の脳は少し様子が異なるようです。人間の脳はトレーニングにより記憶力を高めることが可能で、2005年に当時24歳だった中国の大学院生のLuさんは、6万7980桁にもおよぶ円周率の数字を暗記し、24時間かけて最初から暗唱して世界記録をうち立てることに成功しました。
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このような記録をはるかに上回る能力を持つのがサヴァン症候群の人たちです。サヴァン症候群は知的障がいや発達障がいが認められる人のうち、ごく特定の分野にのみ極めて優れた能力を発揮する人が持つ症状のことで、名前と日付から複雑な情景の詳細を思い出したり、1度見ただけの風景を後から極めて正確に書き写すことができるなど、超人的な能力を見せる人が存在しています。

そのメカニズムは謎のままの部分が多く残されており、多くは先天性の原因によるものとみられるサヴァン症候群ですが、まれにそれまでは普通だった人があることをきっかけにサヴァン症候群の症状を見せるようになるケースが存在しています。Orlando Serrellさんは10歳の時、左頭部に野球のボールが当たったことをきっかけにサヴァン症候群の症状を見せ始め、自動車のナンバープレートをいくらでも覚えたり、複雑なカレンダーの計算ができるようになりました。

人間の脳は1000億個もの神経細胞(ニューロン)で構成されているのですが、そのうち長期記憶に関する錐体細胞と呼ばれるニューロンはわずか10億個程度であると考えられています。アメリカ・ノースウェスタン大学のPaul Reber教授によると、仮にこの錐体細胞が1個あたり1つの情報しか記憶できないとすれば、我々の脳はすぐに容量が一杯になり、やがてニューロンを使い切るという状況に陥ることになるだろうと語っています。
現在の脳科学では、ニューロンからは樹状突起と呼ばれる木の枝のような突起物が伸びており、ニューロン同士はこの樹状突起を介して他のニューロンと情報を受け渡ししていると考えられています。そして、このニューロン同士が結びつく場所に、記憶の情報が保管されていると考えられているのです。それぞれのニューロンは複数のニューロンとのつながりを持ち、約1000個のニューロンが1つのニューロンネットワークを形成しています。

まるでクモの巣のような構造を持つこのニューロンネットワークの仕組みにより、人間の脳は大量の情報を記憶できるようになっています。Reber教授はその保管能力について「合理的な計算方法に基づくと、そのデータ容量は数ペタバイトにも及ぶでしょう」と語ります。1ペタバイトはMP3の楽曲を2000年間続けて再生できるだけの容量となるのですが、実際には人間の脳とコンピューターのメモリーチップを同列に比較するのはやや難があるといえます。Reber教授もその点はもちろん理解しており、そのうえで人間の脳には「とてつもなく広い記憶用のスペースがある」と語っています。
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それでは、人並み外れた記憶力を持つ人たちは、特別な脳を持っているのでしょうか。答えは「いいえ」です。約7万桁におよぶ円周率の世界記録を持つLuさんをはじめとする記憶の達人たちは多くの情報を記憶し、思い出すことをトレーニングし続けたことによって高い能力を身に付けた一般の人たちです。アメリカの記憶選手権「USA Memory Championship」で優勝したDellisさんは、「知能のアスリートになる前の記憶力は非常にひどかったが、練習がすべてを変えました。もしトレーニングを行えば、数週間もしないうちに普通の人では不可能なことができるでしょう。また、その能力を私たちは持っているのです」と語っています。数年前にDellisさんが最初に脳のトレーニングを始めた頃は、トランプ一組を覚えるのに20分かかりましたが、今では30秒以内に52枚を記憶することができるそうです。

他の記憶力チャンピオンと同じように、Dellisさんが用いている記憶法は長きにわたってその有効性が実証されてきた記憶術、「Memory Palace(記憶の宮殿)」です。これは自分がよく知っている家をイメージして、その空間の中に覚えようとするものを配置することで記憶を定着させるという方法です。円周率チャンピオンのLuさんも、同じような記憶術を使うことで、単なる数の羅列を意味のある物語に変換していきます。

意志の力さえあれば誰でも記憶力を高めることができるわけですが、それでは逆に、それほど厳しいトレーニングを積まずに超人的な能力を発揮することは可能なのでしょうか。オーストラリア・シドニー大学のAllen Snyder教授は、私たちの中には「内なるサヴァン」とも呼ぶべきものが備わっており、適切な技術があればこれを活性化させることが可能であることを示唆しています。Sydney教授によると、一般的に人間の知性は低いレベルの無数の「個」よりも高いレベルの「概念的思考」を行うようになっているとのこと。これは、例えば草原でライオンを見かけた時に、「たてがみ」や「鼻」といった部分に気を取られるのではなく、全体としての「ライオン」を認識することで危険を回避する能力といえるのですが、一方でサヴァン症候群の人たちは、細部の情報への「アクセス特権」を持ってはいるものの、ハンドル・ワイパー・ヘッドライトといった言葉から「自動車」という概念をつかむことができないとしています。

左頭部に野球ボールを受け、サヴァン症候群になったSerrellさんの事例を基に、Snyder教授は実験を行っています。実験には自閉症とサヴァン症候群による機能不全を持つ人が参加し、磁界を生成するキャップをつけてもらうことで、左前頭葉の神経活動を抑制させたところ、絵を描く能力やカードの枚数を数える能力が上がることがわかりました。ただし、記憶の検証のテストは比較的簡単なもので、今後はさらに改善が必要としています。科学者の中にはSnyder教授の実験結果に懐疑的な声も挙がっているのは事実ですが、今後における脳の仕組みの解明にはSnyder教授の基礎的な研究は欠かせないものと言えそうです。

現時点で判明している脳の限界を決める要因の一つは、脳に備わっている内因的なリミット機構にあるといえます。脳にはある種の「ボトルネック」があり、情報の流れを規制する機能が備わっていると考えられるのですが、その理由についてSnyder教授は「よくわからない」としながらも「おそらくそこには、情報処理の節約と何らかの関係があるのではないか」と語っています。

また、Reber教授は、人生における記憶のリミット機構は、ハードディスクのような「ストレージ容量」ではなく、「ダウンロード速度」にあると語っています。Reber教授はその様子を「これは、脳が記憶でいっぱいになる状態になるのではなく、外部から入ってくる情報のスピードが、脳から送り出されるスピードを上回っている状態なのです」と語っています。
(記事引用)
※画像は本記事とリンクしない










 

百花繚乱  秋桜コスモス 2015/1015撮影
秋に桃色・白・赤などの花を咲かせる。花は本来一重咲きだが、舌状花が丸まったものや、八重咲きなどの品種が作り出されている。本来は短日植物だが、6月から咲く早生品種もある。
熱帯アメリカ原産。メキシコからスペインに渡りマドリードの植物園に送られ、コスモスと名づけられた。日本には明治20年頃に渡来したと言われる。秋の季語としても用いられる。
日当たりと水はけが良ければ、やせた土地でもよく生育する。景観植物としての利用例が多く、河原や休耕田、スキー場などに植えられたコスモスの花畑が観光資源として活用されている。(ウィキぺデア)
 

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コスモスとは  
コスモスの仲間はメキシコを中心に約20の野生種が知られています。その中でもコスモス・ビピンナツス〔Cosmos bipinnatus〕とその園芸品種を指して「コスモス」と呼ぶのが一般的です(以下、本種をコスモスと呼びます)。
コスモスは春~初夏にタネをまいて夏~秋に花を楽しむ春まき一年草として扱います。野生種はメキシコの高原が故郷、夜が長くなると花芽を作る「短日植物」で秋以降に花を咲かせます。和名のアキザクラが示すとおりです。
園芸品種には一定の気温があれば日長に関係なく開花する早咲き系があります。早咲き系は春早めにまくと初夏には開花します。また、早咲き系に対して従来通り秋に咲く系統を遅咲き系と呼ぶこともあります。ちなみに、主力で広く普及しているのは早咲き系の品種です。
野生種は草丈2~3mになりますが、園芸品種は矮性種で40cm、高性種で1.5mほどです。葉は細かく枝分かれして羽状になります。花径は大輪種で10cmを超します。色は白、ピンク、赤、黄色などがあります。白地に紅色の縁取りが入るピコティ咲きなど可愛らしいものもあります。一重のほか、花びらの付け根に小さな花びらが付くコラレット咲きや花びらが筒状になるユニークな品種もあります。
由来・来歴
コスモスは英語で「宇宙」の意味ですが、植物でいうコスモスはギリシア語の「kosmos」に由来し「美しい」という意味です。美しい花の姿に由来します。種小名のビピンナツスは「2回羽状の」の意で羽状の細かい葉姿にちなみます。
ヨーロッパへは17世紀末~18世紀初頭にスペイン人神父によりもたらされました。日本へは江戸時代末、文久年間に伝わりました。広く普及したきっかけは明治前期、イタリアから東京の美術学校に赴任してきたラグーザによって持ち込まれたタネによると言われています。
(記事引用)


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品種 センセーション 
1930年代にアメリカで育成された早咲き系統の品種です。コスモスの代名詞的な品種で、広く栽培されており、景観作り(コスモス畑)にもよく使われます。
センセーション・ベルサイユ 
花径が10cmを超す大輪種。単にベルサイユとも呼ばれます。
サイケ 
花びらの付け根に小さな花びらが付くコラレット咲き。
イエローガーデン 
コスモスでは珍しい黄花の品種。
シーシェル 
花びらが筒状になるユニークな品種。

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 ペルシャ3














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コスモス畑 所在 千葉県長生郡南待山8664(一宮町南消防署) 裏の畑












山縣農場 とは、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた開拓農場(周辺地図)。那須野が原及びその周辺に10以上も開かれた華族農場のひとつである。
なお、ジェイアールバス関東西那須野支店の廃止された山県農場線(矢板北線)の停留所名は「山県農場」であった。

有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、明治19年、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。
山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。
山縣は、開墾にあたる人員の募集の際に、土地をもたない農家の次男三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。
住まいを用意し、入植者の師弟のための学校を開くなど、こまやかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾もすすみ、1910年(明治43年)には有朋は以下のような歌を詠んでいる。
篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、昭和9年(1934年)、三代目当主山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。
当時開かれた華族農場の多くは平地にあって耕作を小作人に任せていたため、第二次大戦後の農地改革などの影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。

略年表
1880年(明治13年)、印南丈作、矢板武が那須開墾社を設立して那須野が原開拓事業にとりかかる。
1880年(明治13年)、渋沢栄一らが伊佐野の拝借願を出すものの、地元の反対で払い下げを断念。
1883年(明治16年)、かわって山縣有朋が拝借願を出す。
1884年(明治17年)、拝借願が認可され、「山縣開墾社」として開墾にあたる人員の募集を開始。
1885年(明治18年)、那須疏水が完成。(山縣農場は那須野が原の外側にあり疏水の恩恵は受けない。また、農場は平地の少ない山間地が主。)
1886年(明治19年)、払い下げがかない「伊佐野農場」として開設。
明治24年、第一回目の小作地払い下げ。
1892年(明治25年)、当時の農場管理者森勝蔵[8]が絵巻物「伊佐野農場圖稿」を描く
1922年(大正11年)、有朋死去。有朋の養嗣子、山縣伊三郎が後を継ぐ。
1924年(大正13年)、前年の関東大震災で被害を受けた小田原の古希庵を山縣農場に移築
1927年(昭和2年)、伊三郎死去。息子の山縣有道があとを継ぐ。
1934年(昭和9年)、農場開設50周年を記念し、希望する小作人36名に土地を分譲して自作農とする。
昭和12年、冊子「山縣農場要覧」編纂。
昭和21年、山縣農場が「第一農場」と「第二農場」に分離。
1947年(昭和22年)、復員した山縣有信(1918年-1974年)が山縣農場の経営に直接あたる。

山縣有朋記念館は、山縣有朋の遺品や山縣文書など関係資料を収蔵展示する資料館。1999年開館。

栃木県矢板市の山縣農場敷地内にある。記念館の建物は小田原の古稀庵にあった伊東忠太設計になる木造洋館が関東大震災で被災した時、これを移築したもので、現在は栃木県指定有形文化財に指定されている。
収蔵品には、明治天皇からの下賜品や陸軍関連の備品、『伊佐野農場圖稿』や山縣がやりとりした書簡も含まれている。

所在地:〒329-2501栃木県矢板市上伊佐野1022番地
山縣有朋記念館  美術館・博物館
住所: 〒329-2501 栃木県矢板市上伊佐野1022
電話:0287-44-2320
(資料ウィキぺデア) 




山縣有朋記念館、山縣農場 とは、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた開拓農場(周辺地図)。那須野が原及びその周辺に10以上も開かれた華族農場のひとつである。
なお、ジェイアールバス関東西那須野支店の廃止された山県農場線(矢板北線)の停留所名は「山県農場」であった。

山縣有朋は、1869-1870年(明治2-3年)に欧米事情視察のため渡欧し、ドイツで貴族が田園に農場をかまえ、農業・林業経営に当たるという貴族農場を見て感銘を受ける。
政府が那須野が原の広大な第三種官有地を払い下げることになったとき、当時、ここを開拓すべく大農場を開いたのは、栃木県令三島通庸をはじめ、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大など錚々たる面々であった。有朋も那須ヶ原への入植を希望したが、平地の殆どはすでに他の高官や旧藩主らによりおさえられていた。
有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、明治19年、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。
山縣は、開墾にあたる人員の募集の際に、土地をもたない農家の次男三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。住まいを用意し、入植者の師弟のための学校を開くなど、こまやかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾もすすみ、1910年(明治43年)には有朋は以下のような歌を詠んでいる。
篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に
自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、昭和9年(1934年)、三代目当主山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。
当時開かれた華族農場の多くは平地にあって耕作を小作人に任せていたため、第二次大戦後の農地改革などの影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。

略年表[編集]
1880年(明治13年)、印南丈作・矢板武が那須開墾社を設立して那須野が原開拓事業にとりかかる。
1880年(明治13年)、渋沢栄一らが伊佐野の拝借願を出すものの、地元の反対で払い下げを断念。
1883年(明治16年)、かわって山縣有朋が拝借願を出す。
1884年(明治17年)、拝借願が認可され、「山縣開墾社」として開墾にあたる人員の募集を開始。
1885年(明治18年)、那須疏水が完成。(山縣農場は那須野が原の外側にあり疏水の恩恵は受けない。また、農場は平地の少ない山間地が主。)
1886年(明治19年)、払い下げがかない「伊佐野農場」として開設。
明治24年、第一回目の小作地払い下げ。
1892年(明治25年)、当時の農場管理者森勝蔵が絵巻物「伊佐野農場圖稿」を描く
1922年(大正11年)、有朋死去。有朋の養嗣子、山縣伊三郎が後を継ぐ。
1924年(大正13年)、前年の関東大震災で被害を受けた小田原の古希庵を山縣農場に移築
1927年(昭和2年)、伊三郎死去。息子の山縣有道があとを継ぐ。
1934年(昭和9年)、農場開設50周年を記念し、希望する小作人36名に土地を分譲して自作農とする。
昭和12年、冊子「山縣農場要覧」編纂。
昭和21年、山縣農場が「第一農場」と「第二農場」に分離。
1947年(昭和22年)、復員した山縣有信(1918年-1974年)が山縣農場の経営に直接あたる。

山縣有朋記念館は、山縣有朋の遺品や山縣文書など関係資料を収蔵展示する資料館。1999年開館。栃木県矢板市の山縣農場敷地内にある。記念館の建物は小田原の古稀庵にあった伊東忠太設計になる木造洋館が関東大震災で被災した時、これを移築したもので、現在は栃木県指定有形文化財に指定されている。
収蔵品には、明治天皇からの下賜品や陸軍関連の備品、『伊佐野農場圖稿』や山縣がやりとりした書簡も含まれている。

所在地:〒329-2501栃木県矢板市上伊佐野1022番地

山縣有朋記念館  山縣農場(やまがたのうじょう) とは、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた開拓農場(周辺地図)。那須野が原及びその周辺に10以上も開かれた華族農場のひとつである。
なお、ジェイアールバス関東西那須野支店の廃止された山県農場線(矢板北線)の停留所名は「山県農場」であった。

山縣有朋は、1869-1870年(明治2-3年)に欧米事情視察のため渡欧し、ドイツで貴族が田園に農場をかまえ、農業・林業経営に当たるという貴族農場を見て感銘を受ける。
政府が那須野が原の広大な第三種官有地を払い下げることになったとき、当時、ここを開拓すべく大農場を開いたのは、栃木県令三島通庸をはじめ、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大など錚々たる面々であった。有朋も那須ヶ原への入植を希望したが、平地の殆どはすでに他の高官や旧藩主らによりおさえられていた。
有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、明治19年、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。
山縣は、開墾にあたる人員の募集の際に、土地をもたない農家の次男三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。住まいを用意し、入植者の師弟のための学校を開くなど、こまやかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾もすすみ、1910年(明治43年)には有朋は以下のような歌を詠んでいる。
篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に
自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、昭和9年(1934年)、三代目当主山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。
当時開かれた華族農場の多くは平地にあって耕作を小作人に任せていたため、第二次大戦後の農地改革などの影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。

略年表[編集]
1880年(明治13年)、印南丈作・矢板武が那須開墾社を設立して那須野が原開拓事業にとりかかる。
1880年(明治13年)、渋沢栄一らが伊佐野の拝借願を出すものの、地元の反対で払い下げを断念。
1883年(明治16年)、かわって山縣有朋が拝借願を出す。
1884年(明治17年)、拝借願が認可され、「山縣開墾社」として開墾にあたる人員の募集を開始。
1885年(明治18年)、那須疏水が完成。(山縣農場は那須野が原の外側にあり疏水の恩恵は受けない。また、農場は平地の少ない山間地が主。)
1886年(明治19年)、払い下げがかない「伊佐野農場」として開設。
明治24年、第一回目の小作地払い下げ。
1892年(明治25年)、当時の農場管理者森勝蔵が絵巻物「伊佐野農場圖稿」を描く
1922年(大正11年)、有朋死去。有朋の養嗣子、山縣伊三郎が後を継ぐ。
1924年(大正13年)、前年の関東大震災で被害を受けた小田原の古希庵を山縣農場に移築
1927年(昭和2年)、伊三郎死去。息子の山縣有道があとを継ぐ。
1934年(昭和9年)、農場開設50周年を記念し、希望する小作人36名に土地を分譲して自作農とする。
昭和12年、冊子「山縣農場要覧」編纂。
昭和21年、山縣農場が「第一農場」と「第二農場」に分離。
1947年(昭和22年)、復員した山縣有信(1918年-1974年)が山縣農場の経営に直接あたる。

山縣有朋記念館は、山縣有朋の遺品や山縣文書など関係資料を収蔵展示する資料館。1999年開館。栃木県矢板市の山縣農場敷地内にある。記念館の建物は小田原の古稀庵にあった伊東忠太設計になる木造洋館が関東大震災で被災した時、これを移築したもので、現在は栃木県指定有形文化財に指定されている。
収蔵品には、明治天皇からの下賜品や陸軍関連の備品、『伊佐野農場圖稿』や山縣がやりとりした書簡も含まれている。

所在地:〒329-2501栃木県矢板市上伊佐野1022番地

山縣有朋記念館  
美術館・博物館
住所: 〒329-2501 栃木県矢板市上伊佐野1022
電話:0287-44-2320

【平忠常の乱】
1028‐31年(長元1‐4)房総半島で起こった地方反乱。

平忠常は武蔵野開発者といわれる良文の孫で,上総介,武蔵国押領使,下総権介などを歴任,房総半島の各地に私宅をもつ巨大な私営田領主であった。

乱の原因は知られていないが,1028年に安房守惟忠の焼死事件が起こり,忠常追討の官符が出された。

これは在地に大きな反感を招いて上総介為政は国人にとりこめられたが,忠常は内大臣藤原教通らに使者を送って弁明に努める。(検索 世界大百科事典 第2版の解説)

平忠常の乱
平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で1028年に起きた反乱。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。
平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。

経緯
平良文は下総国相馬郡を本拠に村岡五郎と称し、子の忠頼、孫の忠常の三代に亘り関東で勢力を伸ばした。忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。
長元元年(1028年)6月、忠常は安房守平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが、受領と在地領主である忠常との対立が高じたものらしい。
続いて忠常は上総国の国衙を占領してしまう。上総介縣犬養為政の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。
当時、在地豪族(地方軍事貴族)はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。

事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがった。右大臣・藤原実資は陣定において、頼信を推薦した。頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。
他の公卿も同調するが、後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉・平直方と検非違使左衛門少志・中原成道が追討使に任じられた。直方を追討使に抜擢したのは、関白・藤原頼通だった。直方は貞盛流の嫡流ともいえる立場であり、同じ貞盛流の常陸平氏と連携していた。

常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。
8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられている。郎党は内大臣藤原教通(忠常の「私君」にあたる人物)宛ての書状を持っており、追討令の不当を訴える内容だった。
平直方と中原成道は吉日を選び任命から40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵200を率いて京を出立した。夜中にもかかわらず、見物人が集まり見送ったという。
翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。
追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが消極派の成道と積極派の直方は仲たがいしたため討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。長元2年(1029年)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。同年12月には都への報告を怠ったという理由で成道は解任されてしまう。
長元3年(1030年)3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかった。
忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭って抵抗を続けた。乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。
同年9月、業を煮やした朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元4年(1031年)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。
頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。長元5年(1032年)功により頼信は美濃守に任じられた。

平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。

この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。
だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している(『左経記』長元7年10月24日条)。
この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。
(検索ウィキぺデア)








 

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