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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

ジョン・F・ケネディ大統領 アメリカン大学演説 
日付:1963年6月10日 場所:Washington, D.C. Washington, D.C. 

アンダーソン学長、大学教職員と評議員会のみなさん、ご来賓のみなさま、わたしの古くからの同僚であり、わたしが次の30分で取ってしまう学位を夜間のロースクールに何年も通ってようやく取得したバード上院議員、ご列席のみなさま、こんにちは。

アメリカン大学の卒業式に列席できることを大変光栄に思います。本校は、メソジスト教会の支援を受けてジョン・フレッチャー・ハースト主教により創設され、1914年にウッドロー・ウィルソン大統領の手によって正式に開校しました。若く、これからさらに成長する学校ですが、歴史が作られ、公的な仕事が行われてきたこの地において、ハースト主教が掲げた歴史と政治の勉学に対する優れた志をすでに実現しています。
人種や信条にかかわりなく勉学の志を持つ人々に開かれた高等教育機関である本校を支援してきた、この地域と全国のメソジスト教会は、アメリカ国民からの感謝を受けるに値します。今日、本校を卒業するみなさんに心からの祝福の言葉を贈ります。

大学の教壇に立った経験のあるウッドロー・ウィルソン大統領は、「大学から巣立つすべての人々が、その時代を代表し、自分の国を代表する人物にならなければならない」と言いました。わたしは、本校を卒業する栄誉を得たみなさんが、自分の人生と能力をかけて、公共への奉仕と支援を積極的に行い続けることを確信しています。

「この地上にあるもので大学よりも美しいものは、ごくわずかしかない」とジョン・メイスフィールドはイギリスの大学を賞賛した文章に書いています。メイスフィールド氏の言葉は、この大学にも当てはまります。彼は、とがった屋根を持つ建物や塔、緑あふれるキャンパス、ツタの生い茂る壁を讃えたのではありません。彼が大学の美しさを賞賛したのは、大学が「無知を憎む人々が知識を得ようと努力し、真理を知る人々が他者の目を開かせようと努力する場所」だからです。
このような理由からわたしは、今日、この場所でお話しするにあたって、無知がはびこることがあまりに多く、真理が理解されることがあまりに少ない、それでいて地上でもっとも重要なテーマを選びました。つまり世界平和です。

わたしの言う平和とはどのようなことでしょう。わたしたちの求める平和とはどのようなものでしょう。それは、アメリカの軍事力によって世界に強制的にもたらされるパクス・アメリカーナではありません。
それは、墓場の平安でも、奴隷の安全でもありません。わたしは、真の平和、すなわち、この地球上での生活を生きる価値のあるものにする平和、人と国が成長し、希望を持ち、子孫のためにより良い生活を作り上げることのできる平和、アメリカ人のためだけではなく、世界中の人々のための平和、今の時代だけではなく、あらゆる時代での平和について話したいと思います。

わたしが平和について語りたいのは、戦争が新しい様相を見せているからです。複数の大国が、強力な核兵器を持ち、そうした戦力に訴えずに降伏することのない時代には、全面戦争に意味はありません。
たった1つの核兵器に、第二次世界大戦で連合軍の全空軍が投下した爆弾の10倍もの威力がある時代には、全面戦争は無意味です。核兵器を含む戦いで生み出された毒物が、風、水、土、種によって地上の隅々に達し、まだ生まれぬ世代にも影響をもたらすような時代には、全面戦争は無意味なのです。

使う必要が絶対にないことを確かめるために、毎年数十億ドルを費やして兵器が集められています。そうした兵器に対する支出は、今の平和を維持するために必要な支出です。しかし、そうした無駄な備蓄、それも破壊しかもたらさず、決して何も生み出さない備蓄を行うことが、平和を得るための唯一の方法だとは、ましてやもっとも有効な方法だとは、私には思えません。
したがって、わたしは、合理的な人々にとっての、必然的、合理的な目標である平和についてお話しします。平和の追求は戦争の追求ほど劇的なものではなく、平和の追求者の言葉はしばしば人々に無視されます。しかし、これほど緊急を要する仕事はほかにないのです。

なかには、世界平和、世界法、世界の軍備撤廃について語るのは無駄で、ソ連の指導者たちが今よりも賢明な態度をとるようにならない限り無意味だと言う人がいます。わたしもそうなることを願っています。
また、われわれがそれを助けることができるとも思っています。しかし同時に、われわれも個人として、そして国家として、自らの態度を見直す必要があります。われわれ自身の態度は、彼らの態度と同じくらい重要だからです。
今日、本校を卒業するみなさん、戦争に絶望し、平和の到来を願う思慮深き市民のみなさん、みなさんひとりひとりが自己の内面に目を向け、平和の可能性、ソ連、冷戦の道のり、この国での自由と平和に対する自分の態度を見つめ直すことから、スタートしましょう。
第一に、平和に対するわれわれの態度を再検討しましょう。あまりに多くの人が、平和の実現は不可能であり、非現実的であると考えています。これは、危険な敗北主義的な考え方です。結局、こうした考えは、戦争は不可避で、人は抗えない力に支配され、滅びる運命にあるという考えに至ります。

そうした考えを受け入れる必要はありません。われわれの問題は、人間が作り出したものです。ならば、人間の手で解決できるはずです。人は自分が望むだけ大きくなることができます。
人間の運命の問題で、人間の力の及ばない場所にあるものなどありません。人間は、その理性と精神によって、解決不可能に思われた問題をも解決してきました。今、同じことをできるはずだとわれわれは信じます。
今、わたしがお話ししているのは、一部の夢想家や狂信者が考えるような、平和や善意に関する絶対的で広大無辺な概念ではありません。希望を持ち、夢見ることの価値を否定しませんが、そうした夢想を現在の唯一の目標にすることは、失望や懐疑をいたずらに招くことになります。
それよりも、もっと実際的で実現可能な平和に目を向けましょう。人間性の急激な改革ではなく、人間社会の段階的な進歩に基づく平和、関係者全員の利益にかなう、具体的な行動と有効な合意の積み重ねによる平和です。
このような平和を簡単に実現する鍵など、どこにもありません。1つや2つの国が採用するだけで効果を発揮するような、壮大な魔法の方程式もありません。
真の平和は、多くの国と人々の行動が積み重なって作り出されるものでなければなりません。そして静的なものではなく、新しい世代の課題が浮かび上がるたびに変化して対応する、動的なものでなければなりません。
なぜなら、平和とは過程であり、問題を解決するための手段だからです。
このような平和が実現しても、いさかいや利害の対立は、ちょうど家庭や国の内部でもそうであるように、依然として残るでしょう。
世界平和は、地域社会の平和と同じく、隣人愛を全員に要求するものではありません。ただ互いに寛容の心を持ち、争いを公正かつ平和的に解決しながら、共に生きることだけを求めるものです。そして歴史は、人と人との対立と同じように、国同士の対立も永遠には続かないことを教えてくれます。われわれの持つ好悪の感情がどんなに不変のものに見えようとも、時の流れや出来事の大きなうねりは、しばしば国家間や隣人同士の関係に驚くような変化をもたらすものです。
ですから、たゆまずに努力を続けましょう。平和は実現できないものではなく、戦争は避けられないものではありません。目標を今よりも明確に定め、もっとわかりやすく身近なものにすることで、われわれは、すべての人々が目標を見つけ、そこに希望を見出し、自然とそこに向かって進みだすようにすることができます。

第二に、ソ連に対するわれわれの態度を再検討しましょう。たしかに、ソ連の指導者たちが彼らのプロパガンダの内容を本当に信じているかもしれないと思うと、落胆を禁じ得ません。最近のソ連の軍事戦略に関する公式文書には、無根拠で信用できない主張がどのページにも並んでいます。
たとえば、「アメリカの帝国主義者たちは、複数の方法で戦争を始める準備をしている」、「アメリカ帝国主義者がソ連に対して先制攻撃をしかける現実的な脅威がある」、「アメリカ帝国主義者の政治目的は、ヨーロッパやその他の資本主義国を経済的および政治的に隷属させ、侵略戦争によって世界を支配することだ」といった主張です。そういった文書を読むと、非常に落胆します。

聖書に「悪しき者は追う人もないのに逃げる」と書かれていますが、まさしくそのとおりです。それでも、そのようなソ連の文書を読んで、わが国とソ連との間にある溝の深さを知ると、暗澹たる気持ちになります。
そしてこれは、アメリカの人々に対する警告でもあります。アメリカはソ連と同じ過ちを犯してはならない、歪曲され、望みを失った、一方的な見解に注目してはならない、紛争は不可避、協調は不可能、対話とは互いに威嚇しあうことだ、と考えてはならない、と警告しているのです。
どのような政府や社会制度であっても、そこで暮らす人々を徳のない人々だと見なさなければならないほど、有害ではありません。
アメリカ国民であるわれわれは、個人の自由と尊厳を否定するものとして、共産主義を深く嫌悪しています。それでも、科学や宇宙の進歩、経済や工業の発展、文化、いくつかの勇敢な行動でソ連の人々が見せた多くの偉業を讃えることはできます。

アメリカとソ連の国民には多くの類似点がありますが、なかでももっとも目立つ共通の特徴は、ともに戦争を嫌い、避けたいと強く思っていることです。
大国同士では珍しく、アメリカとソ連は、一度も互いに戦争をしたことがありません。歴史をふりかえると、第二次世界大戦中にもっとも大きな苦難を味わったのはソ連でした。少なくとも2000万人が命を落とし、多くの住居や農園が焼失し、略奪の被害を受けました。国土の3分の1、工業地帯の3分の2が荒廃に帰し、これはわが国でシカゴより東の地域が全滅することに匹敵します。

もし今日、全面戦争が再び起きたら、その経緯がどのようなものであれ、主たる攻撃目標になるのは、アメリカとソ連でしょう。強大な力を持つ両国が真っ先に全滅の危機にさらされるというのは、皮肉な、そして、間違いのない事実です。
われわれが努力して築き上げてきたものは、たった1日で跡形もなく破壊されてしまうでしょう。冷戦は、アメリカの親密な同盟国を含む多くの国々に負担と危険をもたらしていますが、その冷戦においても、アメリカとソ連は、もっとも重い荷物を背負っています。
なぜなら両国は、本来ならば無知や貧困や病気との戦いに投じるべき巨額の金を、兵器に投じているからです。一方の疑念が他方の疑念を生み、新しい兵器がそれに対抗する兵器を生むという危険な悪循環に、アメリカとソ連の両国が陥っています。
言い換えれば、米国とその同盟国およびソ連とその同盟国は、真の公正な平和を確立して、軍拡競争を停止することに、少なからぬ利益を相互に持つ、ということです。この目標のために合意することは、アメリカだけでなくソ連の利益にもかないます。どんなに敵対する国同士でも、自国の利益になるこうした条約義務を受け入れ、遵守することを期待できます。
ですからみなさん、両国の違いに目を向け、両国の違いを理解しましょう。同時に、両国には共通する利益があり、両国の違いを解消する可能性のある方策があることにも注目しましょう。2つの国の違いをすぐに解消することはできないかもしれません。
しかし、相違があっても世界が平穏であり続けるように力を注ぐことはできます。究極のところ、われわれを結びつけるもっとも根本的な絆は、小さな地球の上でともに生きている、という事実です。われわれはみな同じ空気を吸い、子どもたちの将来を同じように大切に思います。われわれはみな命に限りのある人間です。

第三に、冷戦に対するわれわれの態度を再検討しましょう。同時に、いたずらに論点を増やすために論争するのではない、ということを思い出しましょう。われわれは、誰かを責めたり批判するために、ここにいるのではありません。われわれは、今、目の前にある世界を相手にしなければなりません。
過去18年間の歴史が違っていたら、こうなったはずだと思い描く世界を相手にしてはなりません。
したがって、われわれは、共産圏の内部に建設的な変化が起きて、今は手の届かないように見える解決策が手に入る日が来ることを期待しながら、平和の探求へのたゆまぬ努力を続けなければなりません。
われわれは、真の平和について合意することが共産主義国の利益にもなるように行動しなければなりません。さらに、自国の重要な利益を守りながらも、核保有国は、相手国に屈辱的な退却か核戦争かの二者択一を強いるような対決が起きることを避けなければなりません。核の時代に、そのような対決への道筋を採れば、政策の破綻を招き、全世界の死を望むことにほかならないからです。
これらの目的を確実に果たすため、アメリカが持つ兵器は、挑発的ではなく、慎重に制御され、抑止を目的とし、選択的に使用できる兵器です。
アメリカ軍は、平和に真剣に取り組み、自制を発揮するよう訓練されています。アメリカの外交官は、不必要な刺激や言葉上の敵対を避けるように指示を受けています。
なぜなら、わが国は、防衛体制を緩めることなく、緊張の緩和を追究することができるからです。
わが国の側は、脅迫的な行為をとらなくても、断固たる決意を証明できます。信念が脅かされることを恐れて、海外放送を妨害する必要もありません。
われわれの制度を欲しない人々に、われわれの制度を押し付けたいと思いません。それでも、地球上のあらゆる人々と平和的に競争することを望み、そうした競争に参加する能力を持っています。
一方で、われわれは、国連を強化し、その財政問題の解決を助けて、国連が、平和の追究に今まで以上に有効な働きをできるように支援します。
国連が真の世界安全保障機構、つまり、法に基づいて紛争を解決し、大国だけでなく小国の安全も保障し、最後には兵器を全廃する環境を作る機構になることを望みます。
同時にわれわれは、非共産世界の内側での平和の維持に努めます。
非共産世界では、多くの国がアメリカの友人ですが、西側の結束を弱める問題が原因となって国々が分裂しています。
これが共産主義国による介入を招き、戦争勃発の危機に瀕しています。西ニューギニア、コンゴ、中東、インドにおいて、双方からの批判にさらされつつも、わが国は根気強く努力を続けました。さらにわが国は、隣人であるメキシコとカナダとの間でも、わずかではあっても非常に重要な相違を調整する努力を続け、他国に範を示そうと努めています。

他国について述べるにあたって、わたしは次の1点を明らかにしたいと思います。アメリカは同盟によって多くの国と結ばれています。
この同盟関係は、アメリカと相手国の利害が広範に重なっているからこそ存在します。たとえば、西ヨーロッパと西ベルリンの防衛に対するアメリカの関与が縮小されることなく現在まで続いているのは、それがわれわれの重大な利益と一致するからです。
アメリカが、他の国々やその国民を犠牲にして、ソ連と取引をすることは決してありません。それは、そうした国々がアメリカのパートナーであるからだけでなく、彼らの利益とアメリカの利益が一致するからです。

しかし、われわれの関心は、自由の最前線を防衛することだけでなく、平和への道を追求することでも一致しています。
アメリカが望み、同盟各国が政策目標としているのは、ソ連を説得し、他国の選択を侵害しない限りは、各国が自分の将来を選択できる状況を実現することです。
自分たちの政治経済体制を他国に押し付けようとする共産主義国の動きが、現在の世界緊張の主たる原因です。他国の自主的決定を妨げる国がなくなれば、平和は今よりも確実に保障されます。これに疑いの余地はありません。

そのためには、世界レベルの討論を行うための新しい環境である世界法を実現する努力が新たに必要です。
これは、ソ連とわれわれとの間に今よりも深い理解を必要とします。理解を深めるには、相互間の連絡とコミュニケーションを増やす必要があります。
この方向への第一歩が、モスクワとワシントン間を直通電話で結ぶことを両国で合意しようではないか、という提案です。危機の際には、危険な対応の遅れや、相手の行動に対する誤った理解や解釈が発生する恐れがあります。これを双方で防ぐことが、この提案の目的です。
このほかにも、われわれはジュネーブで、「軍縮」という、過熱する軍拡競争に歯止めをかけ、戦争の偶発的勃発の危険性を縮小することを目的とした、もうひとつの第一歩についても話し合っています。
しかし、ジュネーブでの話し合いで、われわれが主要な長期的利益としてとらえているのは、全面的かつ完全な武装解除です。
その武装解除は、軍備に代わる新たな平和機構の設立を目指す政治活動と並行しながら、段階的に実行するように計画されます。
1920年代から、アメリカ政府は軍縮に向けた努力を重ね、直近の3代の政権は、緊急に軍縮を追求しました。今はまだ、おぼろげな見通ししかないとしても、われわれはこの努力を続けます。わが国を含むすべての国が、軍縮の問題と可能性を今よりも深く理解できるようにするために、この努力を続けます。

このような交渉の中で、ゴールが見えながらも、再スタートを切ることが強く求められている1つの主要な分野があります。それは、核実験を禁止する条約です。身近でありながら、はるか遠くに存在する、このような条約を締結できれば、もっとも危険な領域での軍拡競争の激化を抑制できます。
核兵器のさらなる拡散という、1963年を生きる人間が直面する大きな危機に、核保有国が、今よりも効果的に対応できるようになります。この条約は、われわれの安全保障を拡大し、戦争の可能性を縮小します。
われわれは、あらゆる努力を諦めなさい、あるいは、生死を左右する信頼できる防護策を要求するのをやめなさい、と呼びかける声に惑わされることなく、着実に歩み続けなければなりません。それほど明らかに、このゴールはきわめて重要なのです。

そこで、これに関連した2つの重要な決定を、今ここで発表します。
第一に、ソ連のフルシチョフ首相、イギリスのマクミラン首相、およびわたしの3者は、包括的な核実験停止条約の早期締結を目指した首脳会談を、近くモスクワで開くことに合意しました。歴史は、過度の期待を控えるべきだとわれわれに警告します。しかし、われわれの期待は、全人類の期待でもあります。

第二に、この件に関するわれわれの善良なる意志と崇高な信念を明白に示すため、わたしは、他国が同様の行動をとることを条件に、アメリカ合衆国が大気圏内での核実験を一切行わないことを宣言します。
われわれは、核実験を再開する最初の国に決してなりません。このような宣言は、拘束力のある公式条約の代わりにはなりませんが、わたしは、この宣言が条約締結の助けになることを期待します。
また、このような宣言は、軍縮の代わりにもなりませんが、わたしは、この宣言が軍縮の実現を助けることを期待します。
最後に、みなさん、アメリカ国内における平和と自由に対するわれわれの態度を再検討しましょう。アメリカ社会の質と精神は、海外でのわれわれの努力を正当化し、支えるものでなければなりません。
われわれは、自分の生活を捧げることを通じて、これを証明しなければなりません。今日、本校を卒業するみなさんの多くは、海外平和部隊や現在提案されている国民奉仕隊にボランティアとして参加することで、アメリカ社会の質と精神を証明する特別な機会を持たれることと思います。
しかし、どこにおいても、われわれの全員が、日常の生活の中で、「自由と平和はともに付き従う」という古くからの信条に従って行動しなければなりません。
現在、わが国のあまりにも多くの都市で、自由が不完全であり、それゆえに、平和が得られていません。
地方、州、連邦を問わず、あらゆる政府の行政機関には、その権限内のあらゆる手段を用いて、すべての市民に自由を与え、これを守る責任があります。
また、あらゆる政府の立法機関には、行政機関がそれを実行する権限が十分でない場所があれば、そこでその権限を十分なものにする責任があります。
そして、この国のすべての市民には、他のすべての人の権利を尊重し、国法を尊重する義務があります。
これらのすべては、世界平和に無関係ではありません。聖書に「人の道が主を喜ばせるとき、主はその人の敵をもその人と親しくさせる」と書かれています。
つまり平和とは、根本的には、荒廃の恐怖を感じることなく生活できる権利、自然の空気をそのまま呼吸する権利、将来の世代まで健全に存続する権利といった、人間の権利に関する問題ではないでしょうか。
われわれは、わが国の利益を進んで擁護します。その一方で、人間の利益をも擁護しようではありませんか。
戦争と軍備を排除することは、明らかにこの2つの利益に合致します。万人にとってどれほど有益で、どれほど厳格な文言で規定された条約であっても、欺瞞や言い逃れが出現する可能性を完全に排除することはできません。
しかし、十分な強制力を持ち、締結国の利益に十分にかなう条約であれば、治まる兆候もなく無統制に続く、予測のつかない軍拡競争よりも、はるかに大きな安全を与え、はるかに小さなリスクしか与えません。

世界中が知るように、わが国は決して戦争を始めません。わが国は戦争を欲せず、今、戦争の発生を期待しません。
現世代のアメリカ国民は、戦争、憎しみ、圧制に倦み疲れています。もし他の国が戦争を欲するなら、われわれはその準備をします。
われわれは戦争を止める努力をすぐに始めます。しかしわれわれは、弱者が安全に暮らし、強者が正しく行動する平和な世界を作る目的のために、自分の役割を果たします。
われわれは、そのような任務を前にして無力ではなく、成功への希望を失うことはありません。われわれは、自信にあふれ恐怖することなく、全滅への戦略ではなく、平和への戦略に向かって進み続けます。


ジョン・F・ケネディ
大統領就任演説(1961 年)解説

役場の公務 午前8.30分の前の一仕事
今朝、早く起きて、このパソコンから記事を拾って適当なニュースを見繕って、記事を書こうかと散々、探し回った挙句、取り上げるに相当する新情報はなにもなかった。
芸能ゴシップオンパレードに辟易し、このマヌケたサイトを黙らせろ、と逸る気持ちを説き伏せるのに精一杯だった。これもいつものパターンで儀礼的になっている。

それで、こうしたときは世に倣って下ネタが手っ取り早いと、いつもの場所に行くことにした。すぐ近くの、歩いて9分程度の道のりだった。普段、まったく人気はないが、その店がオープンして3年は経っいると思われるが、閉店してないので営業はしているのだろう。

もっとも夜早く朝早い、私の生活習慣と、夜遅く朝も遅い営業時間では、クロスする時間帯域はゼロなので、お互いはまったく違う世界で生きている、ということになる。

そんな記事を書いていたら、時間になってしまった。
なんの時間かって、今日は町の検診で役所時間午前8時30分に役場に行く必要があった。
8時に到着すると、職員がゾロゾロ歩いてホールに向かっていた。後で訊いてみたらば、町長の訓示挨拶があって、月に1回程度しているという若い職員の返事だった。
その内容を訊きもしなかったが、老若男女職員約46名を前に、何を訓示しようというのだろうか。

ちょっと前に、中小企業会社の社長が本を出すと、その会社は潰れるとかなんとか、そんな記事を読んだことがあった。
それと町長を同じ土俵に載せることはないが、選挙の価値と営利資本金技術者は本質的に変わらないので、まんざら比較対象にしてもまずくはない。

それで、その検診は30分で終わったので、家に着いてから、再度「続編」ということになった。
ネタは、いつもの藤島佑雪さんの人生相談、ベストアンサー模範回答答案である。
ま、殆どが男と女の「憎愛欲得物語」なので、特別トリッキーな筋には移行しない、なので、テーマは異なるが、相談者様の恨みつらみなどのバージョンなので、2.3の文脈をコラージュして、エコ文にした。

早い話、人間の歴史300万年、変わることもなかったので、内容も大それた変革もなくただ好きだ、嫌いだ、だけの話しである。

■不倫している女性たちへ、「男は踏み台」ですよ   

「お悩み」 こんにちは。私も相談させてください。
彼の会社の人事部に告白したり、その結果、彼が地方にとばされることが決まったり(現在は都内一等地にある本社)、彼が私の写真をネット公開したり、私も奥さんのママ友やご近所にばらしたり、醜い修羅場が数カ月続きました。

彼女のいる男性や既婚の男性にどうしても惹かれてしまいます。精神的に強くて、経済的にも独立していけるのであれば、このままずっと浮気相手でいくのもいいかと思います。今は渦中にいて、何がなんだかわかりませんよね。でも、若さってそんなもん。みんな内容は違えどですがね。
子供は好きで絶対にいつか生むと決めていたのに、一体何をやっているのだろうかと、後悔で仕事も投げやりになってしまい、立ち上がれずにいます。子供がいなくなって、ひとりになって、さらに彼まで失うのは耐えられず、まだ一緒にいます。

いろんな辛さを乗り越えて大人になっているんです。辛いときはひとまず寝ましょう。そして一度、彼女も奥さんもいない、自分だけの専属彼氏と付き合ってみましょう。

不倫自体には嫌悪感はなく、楽しむもので、自分の性格にも合っているから仕方ないと割り切っているのですが、先日、今の彼(既婚)の子供ができて、話し合いの結果堕ろすことになりました。「もう私、30なんです」。

知るか!そんなもん!だからどうした!
もう30なんでしょ~。
はい30なんです~。

彼には1歳の子供がいますが、今回のことは本当にごめんと言っています。私の子供のことも、絶対に忘れないと言ってくれています。
正式な彼氏彼女の関係は2番手と違って、お互い対等。ガチンコの付き合いになります。その分、2番手のときとは違う疲れや悩みも出てくるでしょう。でも、今、20代のうちに、別れてもいいから、そういう付き合いを経験しておいてください。そうでなければ、30、40過ぎていざ、結婚したいと思ったとき、独身の男と付き合う実力が不足しているせいで、いいひとと出会ってもチャンスを逃すことになりがち。付き合う力も、若いときの練習がモノを言いますから。

現在も五月雨式にメールや写真や電話を彼にしてしまい、今は彼も「人間関係として友人としてなら続けても構わない。人事にちくったことは怒ってない」と言っています。しかしそう言われるとまた好きだという気持ちが燃えてきてしまいます。完全に関係を断ち切るのがとても難しいです。なにか考え方の部分で変わることができるようなヒントはありますか。
敢えて2番手狙いの方って、本当のところ男嫌いなんじゃないかなあと思うんですよね。どこか信じきれない。どこか怖い。小さいときにお父さんに厳しく叱られていたりすると、そうなる傾向があると聞いたような。あと元彼に裏切られたとか。で、いっそ裏切られる辛さを味わうくらいなら、むしろ浮気相手の一番でいた方が安心、みたいな。男のひとと付き合いたい気持ちはあるけれど、真剣に責任をとる立場になるのは怖い、みたいな。
2番手でいる限りは結婚も考えなくていい。イコールお相手のご両親の介護、その他もろもろ関係ないですからね。

去年1年間、遠恋で婚約までしていた男とその浮気相手が許せません。年末年始休暇に会いに行って入籍の書類を整える予定でしたが、11月くらいに相手から「ほかに彼女できちゃった。君との婚約は間違いだった」みたいなメールが来て別れました。会わずに別れた未練とか、結婚に期待していたので悔しさとか、相手の女が誰なのかわかっちゃったんで恨みとか、いろいろ。抑えきれないです。遠恋ならよくあることかもしれないんですけど、もう半年も引きずっちゃって。
「男は踏み台」ですからね。ましてや不倫相手でしょ?ここで踏み台踏まなくて、どうする!向こうは踏み台になるべく、自らお金も差し出してくれた。ならば、踏め!踏んでジャンプするのだ!

相手の奥さんの大反対があったようですが、「もう好きじゃないし会いたくない」と言われ、結局、彼から大金が振り込まれ終わったのが去年の冬です。しかし、私は半年以上たっても彼のことが忘れられません。どうしたら大好きだったひとを断ち切ることができますか。

回答

不倫女は臆病者 そろそろ自分の中の恐怖心に気がついてみましょうか。
ご相談者さまが一生独身でいられるくらい。2番手で子供を育てるの、今の日本ではかなり大変なことですが、覚悟ができているのであればよいと思います。本人の自由ですからね。
ただ、わたくしがいろいろ見てきた限りのことを申し上げますと、20代には愛人志向の女性も30過ぎると、やっぱり結婚したいとか言い出します。世の中の仕組み、浮気をする男の考え方などがわかってくると、2番より1番になりたい、その方が得!という風に変わってきますから。

最初のご相談者さまへの回答を一部変更して、リピート。こちらのご相談者さまにも同じことを申し上げます。そして最後に、リピート・アフター・ミー。男は踏み台!彼からいただいた踏み台資金を元手に、楽しい人生を送ってください。

外資系(内視鏡)勤務の31歳です。最近6年間付き合った不倫相手と別れました。5度も妊娠中絶を繰り返しても叶わない恋でした。彼の奥さんに訴えられたり、彼の会社の人事部に告白したり、その結果彼が地方にとばされることが決まったり(現在は都内一等地にある本社)、彼が私の写真をネット公開したり、私も奥さんのママ友やご近所にばらしたり、醜い修羅場が数カ月続きました。
(※外資系『内視鏡』はゴロあわせで作ってみました筆者。)
まだ叶えていない夢がたくさんあり、前を向かなくてはなのですが、一生この泥沼から抜け出せない気がします。望んでここにいるはずなのに。こんな弱すぎる私に、喝を入れていただけないでしょうか。
(けーひ 20代 女性)
「もう私、30なんです」。
知るか!そんなもん!だからどうした!
もう30なんでしょ~。
はい30なんです~。
わたくし、的中率100%の予言をいたします。ご相談者さまは、今後、その彼のことを憎みます。あんなひどい男、と許せなくなります。ご自身が結婚をして子をもつ親になれば、過去を振り返って最低な男だったと嫌悪するようになります。辛いですね、悲しいですね。でも、それでいいのです。そう思えるようになったとき、ご相談者さまは強くなっているのです。知恵という武器を備えた大人の女性として、人生を生き抜く力を身につけていることでしょう。
外資系にお勤めなんでしょ?そしたら、それこそがんばって本社勤務にしてもらうとか、現地に転職するとかして海外に移住しちゃえば?仕事じゃなくても彼からもらった大金で留学してもいいわけですし。物理的に彼と離れるのが手っ取り早いような気がしますけどね。向こうに行って、新しい男を見つける。最高じゃないですか。
ほかの男との出会いもあり、結婚前提のひともいれば既婚子持ちのひともいます。二人とも、性的な関係を求めてるのはよくわかるし、私もそれに応じて前進したいんですが、結婚前提の男はあんまり稼ぎはよくないし学歴もあんまり。人柄はよさそうだけど、豹変しそうな感じもある。既婚子持ちの方は、エリートで高学歴高収入。奪えるもんなら奪いたい。けれど、不倫で終わる可能性とかリスクを考えると、やめといた方が無難かと思ったり。もう私、30なんです。高望みして失敗するより、手頃なひとで満足すべきでしょうか。(ホセ女性 30代)

もう30なんでしょ~。

結婚できない、残念なアラサー女性の典型マインド?
だから結婚できない!アラサーの典型マインドにご注意を

銀座では男女関係の裏と表のズブズブを目の当たりにし、この連載でひとさまのお悩みにお答えすること4年半。退役ホステスのわたくしが100%の自信をもって、予言いたします。今のままのマインドでは低スペック未婚男ともハイスペ既婚者とも、両方あなたの思うようには進展しません。未婚は間違いなく豹変するでしょうし、既婚者は言うまでもなくやりたいだけ。泣くことになります!

嫌な思いをされていることと存じます。でも、家まで送ってもらって、そのことも隠していないなら、大丈夫です。男女として、セーフな関係です。で、ご相談者さまが夫として奥様にしてあげられるのは「君が楽しそうだから、僕もうれしいよ」と言ってあげることだけです。ええ、そう言うことで奥様の行為や気持ちを認めてあげるのです。広い胸で受け止めてあげるのです。問題はそのセリフを繰り出した後なんですよ。ご相談者さまの気持ちがほぐれる言葉が返ってくるか、否か。そのときに夫婦のあり方が見えてくると思うんです。そのとき、ちゃんと考えればいいことではないでしょうか?夫婦として、よい時間がもてるようになること、お祈り申し上げます。

不倫している女性たちへ、「男は踏み台」ですよ
(記事引用)
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東国(坂東)
東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。尚、東北地方は蝦夷(えみし)や陸奥(みちのく)と呼ばれていた。
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幻の)鎌倉世界遺産 観光スポット紹介鎌倉観光マップス
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鎌倉幕府第7代執権である北条政村のものとされる館跡。鎌倉時代の武家文化の一端を残す貴重な遺跡とされる国指定史跡。




「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。
つまり、「あづま」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「あづま」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「あづま」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。
「あづま」・「東国」と言う言葉が元々漠然としたもので、きちんとした定義を持って用いられた言葉ではないために、時代が進むにつれて「あづま」・「東国」を指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。

鈴鹿関・不破関東側
これは古代(恐らくは律令制成立以前)に畿内を防御するために設置されたとされている東海道鈴鹿関、東山道不破関、北陸道愛発関の三関のうち、古来より大和朝廷と関係が深かった北陸道を除いた鈴鹿・不破両関よりも東側の国々を指すものである。
事実上、畿内の東部に位置する地域である。
壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)が、「東国」に赴いて尾張国・伊勢国・美濃国を中心とした兵に更に東側の国々の援軍を受けて勝利した。

大山(日本アルプス)東側
これは律令制に導入された防人を出すべき「東国」として定められたのが遠江国・信濃国以東(陸奥国・出羽国除く)13ヶ国に限定されており(『万葉集』の「防人歌」にもこれ以外の国々の兵士の歌は存在していない)、これは現在の日本アルプスと呼ばれる山々の東側の地域と規定する事が可能である。
倭の五王の1人とされる「武」が中国南朝の宋に出した上表文には「東の毛人(蝦夷)55ヶ国を征す」と記され、また『旧唐書』日本伝によれば、日本の東界・北界には大山横切りその外側に毛人が住む」とある。この大山こそが現在の日本アルプスでその外側の毛人(即ち毛野国の領域)が住む地を日本でいう東国であると考えられる。
更に鎌倉幕府が成立した際に幕府が直接統治した国々が「東国」13ヶ国と陸奥・出羽両国であり陸奥・出羽が後世に朝廷に掌握された土地であると考えると、大山(日本アルプス)より東側=東国という図式がこの点でも成立する。

足柄峠・碓氷峠以東(坂東)「関東地方」も参照
今日では関東地方と称せられるこの地域を坂東・東国と呼ぶ例が多い。
日本神話の英雄日本武尊(倭建命)が東国遠征の帰りに途中で失った妻(弟橘媛)のことを思い出して、東の方を向いて嘆き悲しみ、碓日坂において東側の土地を「吾嬬(あづま)」と呼んだと伝えられている。
ところが、その土地については『古事記』は足柄坂(足柄峠)、『日本書紀』は碓氷山(碓氷峠)であったとされている。
この逸話を直ちに実話とすることは不可能ではあるが、奈良時代の律令制において足柄坂より東の東海道を「坂東(ばんとう)」・碓氷山より東の東山道(未平定地の陸奥・出羽を除く)を「山東(さんとう)」と呼んだ。
後に蝦夷遠征のための補給・徴兵のための命令を坂東・山東に対して命じる事が増加し、やがて両者を一括して「坂東」という呼称が登場した。
その初出は『続日本紀』神亀元年(724年)の記事を最古とする。以後、従来の五畿七道とは別にこれらの国々を「坂東」の国々あるいは「坂東」諸国として把握されるようになり、蝦夷遠征への後方基地としての役目を果たすようになった。
その後も地理的に一定の区域を形成したこの地区を1つの地区として捉える考え方が定着し、その呼称も短縮されて「東国」とも呼ばれるようになったと考えられている。

主に現代において、東日本のことを指すこともある。ただし、東日本と西日本の境界については諸説ある。また、古代〜近世において、畿内の東側にある国を総称して指すこともあった(北陸除く)。具体的には五畿七道の東海道・東山道(近江国除く)である。東北においては前述の通り古くは国内という概念がなかったとされるが、時代が進むと東北もその範疇に加わった。また、北海道も後の時代には東国の概念に加わることもあった。

開発
飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。

推古天皇9年(601年)、対馬に到った新羅の間諜迦摩多を捕えて貢上し、上野に流す。
斉明天皇6年(660年)、百済が唐俘100余人を献上する。今の美濃国不破郡・片縣郡の唐人等である。
天智天皇5年(666年)、百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。凡そ緇素(出家者と非出家者)を択ばず。癸亥年より3年間、同様に官食を給賜する。
天武天皇13年(684年)、百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。
朱鳥元年(686年)、新羅沙門行心が謀反し、飛騨国の伽藍に徙す。
持統天皇元年(687年)、投化した高麗56人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
持統天皇2年(688年)、百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
持統天皇3年(689年)、投化した新羅人を、下毛野に居住させる。
持統天皇4年(690年)、帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
霊亀2年(716年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。
天平5年(733年)、武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。
天平宝字2年(758年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。
天平宝字二年(758年)、美濃国席田郡の子人・吾志等、賀羅造を賜姓される。
天平宝字4年(760年)、帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。
天平宝字五年(761年)、新羅征討に備え、美濃・武蔵各国の少年20人ずつに、新羅語を習わせる。
天平神護2年(766年)、上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。
宝亀十一年(780年)、武蔵国新羅郡人の沙良・眞熊等2人が広岡造を賜姓される。
延暦七年(788年)、美濃國厚見郡人の羿鹵濱倉が美見造を賜姓される。
延暦8年(789年)、信濃国筑摩郡人の後部牛養が田河造を賜姓される。
延暦16年(797年)、信濃国人の前部綱麻呂が安坂姓を下賜される。
延暦18年(799年)、百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。
弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。
弘仁11年(820年)、遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)
天長元年(824年)、新羅人辛良金貴、賀良水白等54人を陸奥国に安置する。法により復を給し、乗田を口分田に充てる。
貞観12年(870年)、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。



◆木造  菩薩面(1面) 平安時代末期~鎌倉時代初期
重蔵神社  輪島市河井町字宮前4-69 (東京国立博物館保管  東京都台東区上野公園13-9)
縦  21.4センチ  横  19.1センチ 重要文化財  昭和25年8月29日指定
寺院の法会の行事の一つに「行道」がある。一般には、阿弥陀仏などを中心に、菩薩や八部衆などが従い、仏の来迎をかたどって行列をつくり練り歩く行事で、この際に用いる面を「行道面」という。
本面は、その希少な作例の一つであり、静止的で品格のある表情は、行道面としての特徴を十分に示している。ややふくれた伏目がちな眼、優雅な唇、美しく結いあげられた頭髪などの表現や彫法などにより、本面は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての年代に造られたと推定される。 
昭和60年「石川県の文化財」より
木造菩薩面・久麻加夫都阿良加志比古神座像
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関東平野に分布した武装集団(坂東)
武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。

平安時代武蔵国は台地が広がり牧畜に好都合で、関東に多かった帰化人が馬飼部として牧畜に携わったことから、多くの牧が設けられていた。
その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍し、生産条件の良好な典型的な条里地域を根拠地としている。各党は婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。
各領地も離れており、具体的にどの程度の結束力であったかまでは不明である。鎌倉時代武蔵武士は御家人として鎌倉幕府を支えた。武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だった。

『吾妻鏡』に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。『六条八幡宮造営注文』でも、469人中84人と圧倒的に多い。また日本全国に拡大移住していった。承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来(元寇)の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なった。
南北朝時代以降南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。

武蔵七党とされる諸党

横山党
武蔵国多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。武蔵七党系図筆頭である。(一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁。その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。 本間氏などは佐渡の地頭として繁栄した。

猪俣党
武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館を中心に勢力のあった武士団で、横山党の一族(横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となる)。猪俣氏、人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏など。保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。

野与党
武蔵国南埼玉郡・北埼玉郡、現在の加須市付近の野与庄を中心に勢力のあった武士団で、足立郡、比企郡などに同族がいた。先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。

村山党
武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族である。村山氏、金子氏、大井氏、仙波氏など。 先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。武蔵平一揆により衰退する。

児玉党
武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父、大里、入間郡および上野国南部あたりに勢力があった一族。元々の氏(本姓)は有道氏。児玉氏、庄氏、本庄氏、塩谷氏、小代氏、四方田氏などなど。武蔵七党中、最大勢力の集団を形成し、その本拠地は現在の本庄市である。

西党
多摩川およびその支流である浅川や秋川流域を地盤とした。「武蔵七党系図」によれば、土着した武蔵国司・日奉宗頼(ひまつり・の・むねより)の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。一族には、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、駄所氏、柚木氏、長沼氏などがいる。

丹党
秩父から飯能にかけて活動。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する。丹氏、加治氏、勅使河原氏、阿保氏、大関氏、中山氏など。入間市や飯能市には加治氏に深い関わりを持つ加治神社、加治屋敷(加治丘陵)などの史跡があり、円照寺には鎌倉幕府滅亡をともにしたことを示す板碑が残っている。

資料ウィキぺデア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E4%B8%83%E5%85%9A




「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう)は、1947年(昭和22年)5月3日に施行された、日本の現行憲法である。
1945年(昭和20年)8月15日にポツダム宣言を受諾した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。
そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後に施行された。

国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を採り、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。
日本国憲法は施行されてから現在まで一度も改正されていない。そのため、日本国憲法の原本は歴史的仮名遣であり、漢字表記は当用漢字以前の旧字体を使っている。

マッカーサー草案

総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし、総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、日本の憲法に関する動きを活発化させた。もっとも、同年1月中は、憲法改正に関する準備作業を続け、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。
マッカーサーの憲法改正権限(ホイットニー・メモ)
この時点で総司令部内で問題となっていたのは、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点であった。この点につき、総司令部の民政局長であったコートニー・ホイットニーは1946年2月1日に「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出した。
ただしこのレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。

毎日新聞によるスクープ報道の波紋
 
同2月1日、毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載したが、この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった。
この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。
しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。

総司令部による意思決定
 
そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、総司令部が草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。
2月3日、マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。三原則の内容は以下の通り。
天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。

日本政府案の作成と議会審議

2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。
提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。
「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。

2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。
3人の極秘作業により、草案は3月2日に完成した(「3月2日案」)。3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。
英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。

午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。
成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表した。
日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。

3月26日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。

4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。

幣原 喜重郎 紹介
幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日) - 1951年(昭和26年)3月10日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。
外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、第一復員大臣(初代)、第二復員大臣(初代)、復員庁総裁(初代)、副総理、衆議院議員、衆議院議長(第40代)などを歴任。

1945年10月9日、幣原内閣の閣僚らと
第二次世界大戦が終結し、吉田茂の後押しもあったといわれるが、戦後に内閣総理大臣に就任。当時引退済みで、本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。
幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残るほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている。

GHQのマッカーサーと1946年1月24日に会談。この日のマッカーサーとの会談で平和主義を提案する。天皇制の護持と戦争放棄の考えを幣原の側からマッカーサーに述べたとされる。
その前の12月、幣原は風邪で倒れ、病床で「つくづく考えた」のであった。幣原の憲法草案が保守的でGHQから拒否されたというのは、誤解であり、GHQから拒否されたのは、幣原・マッカーサー会談の後に出来た国務大臣松本蒸治を長とする憲法問題調査会(松本委員会)がまとめた「松本案」である。

順番からいえば、憲法制定過程は、幣原・マッカーサー会談(これで大筋合意。
しかも、幣原から平和主義を提案。幣原は自分で「病床でつくづく考えた」のであり、マッカーサーからの圧力はなかったと思われる)→松本案が完成(松本案自体は45年10月から作り始めていた)→松本案がマッカーサーによって拒否される(46年2月1日頃。『毎日新聞』のスクープでGHQは内容を知る)→マッカーサー3原則(46年2月3日)→GHQの民生局が草案を作成(8日間で草案を作成)→マッカーサー草案ができて(2月13日、松本国務相と吉田外相は「松本案」の返事を聞きに行ったが、逆にマッカーサーから草案を渡される)閣議が大荒れ(2月19日)→幣原はマッカーサー案を原案として採用し修正することを決める(同日)→幣原・マッカーサー会談2回目(21日)→修正を求めることを幣原が閣議でいう(22日)→閣議も了解(2月22日)→昭和天皇も幣原総理を激励という順である。

幣原の
生まれ血族
 
幣原喜重郎は幣原九市郎の養子である幣原新治郎の次男として生まれた。
新治郎の長男、つまり喜重郎の兄にあたる幣原坦(幼名・徳治郎)は東洋史学者で教育行政官。
坦の次女・澄江は農芸化学者・古在由直の長男・由正に嫁いだ。
由正・澄江夫妻の長男が「コザイの式」で知られている天文学者・古在由秀であり、由正の弟、すなわち由直の次男がマルクス主義哲学者の古在由重である。
古在由秀は最後の東京天文台(国立天文台の前身)台長及び国立天文台の初代台長を務め「星の手帖」(既に廃刊)の編集委員としても知られており、2009年(平成21年)には文化功労者に選ばれている。
また坦の孫にあたる幣原廣は弁護士で、古在由秀の従弟にあたる。第二東京弁護士会所属であり、副会長経験あり。多数の委員会活動に関与しているため、弁護士会では「多重会務者」などと呼ばれている。

幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。したがって喜重郎は加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)や岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟にあたる。
ただし春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。したがって雅子は春路・久弥・磯路の異母妹にあたる。喜重郎・雅子夫妻は3人の男子をもうけた。
長男・道太郎は元獨協大学教授、次男・重雄は元三菱製紙勤務、三男・平三は夭折。なお幣原内閣で大蔵大臣を務めた渋沢敬三も磯路の婿にあたる姻戚である。
渋沢敬三は渋沢栄一の孫にあたり、日銀総裁や大蔵大臣を務める傍ら、日本における民俗学の発展に多大な貢献をした学者でもある。
また、1947年、岩崎家との縁から、財団法人東洋文庫の理事長に就任し、三菱財閥解体をうけて運営危機に陥った同文庫を翌年に国立国会図書館支部として維持させることに成功した。
戦前より続く日本の東洋学研究の中心であった同文庫を解散の危機から救ったその功績は今日少なからず評価されている。
(資料ウィキぺデア)


カウンターインテリジェンス 防諜機関
多くの国の政府は情報機関と防諜機関を分けて組織しており、防諜機関はアメリカの連邦捜査局(FBI)や日本の公安警察のように、警察の一部門として組織されている場合が多い。
また、イギリスの防諜機関である内務省公安部(MI5)は直接的な捜査権を持っていないが、捜査権のあるロンドン警視庁公安部(Special Branch)と呼ばれる公安警察と緊密に協力している。
ロシアの主な防諜機関は、ソビエト連邦期の国家保安委員会(KGB)の第2本部および第3本部が前身である連邦公安庁(FSB)である。

カナダは王立カナダ騎馬警察の公安警察が諜報活動と防諜活動を一手に担当していたが、1984年にカナダ公安情報部(CSIS)が発足して諜報活動を担うようになり、諜報と防諜が分離した。
フランスでは、国内におけるテロ対策を警察機関の枠組みのなかに作りあげている。
テロ対策担当の予審判事は、アメリカとイギリスにおける捜査官、検察官、裁判官の機能を併せ持つ複数の機能を担っている。テロ対策担当予審判事は、防諜機関の国土監視局(DST)や情報機関の対外治安総局(DGSE)から協力を要請され、ともに活動することもある。

スペインでは、内務省が軍の支援を受けながら国内におけるテロ対策を担当している。外国からの防諜活動は、国家情報本部(CNI)が責任を負っている。2004年3月11日のマドリード列車爆破テロ事件の発生後、内務省と国家情報本部との連携で問題があったことが発覚し、国家テロ対策本部が創設された。スペインのテロ事件調査委員会は、この本部を作戦の調整のためだけでなく、情報収集のためにも活用することを提言している。

防諜活動の内容も攻撃的なものと防御的なものに分類される場合もある。アメリカの中央情報局(CIA)の国家秘密本部(NCS)は攻撃的カウンターインテリジェンスを担当するのに対し、国務省の外交保全局(DSS)は、アメリカの在外公館(大使館・総領事館)において、人と情報の保護に携わる防御的カウンターインテリジェンスを担当する。
防諜活動という用語は、現実的には諜報活動に対抗するものを指すとされるが、攻撃的カウンターインテリジェンスには諜報活動が含まれるため、ここでは広義の意味で捉えられることを避けるために使われている。

主な防諜機関
日本
警察庁警備局(公安警察) 警視庁公安部 道府県警察本部警備部 警察署警備課
自衛隊 情報保全隊

米国 連邦捜査局(FBI)国家公安部
英国 内務省公安部(MI5、正式にはSS)
ロシア ロシア連邦公安庁(FSB)
イスラエル イスラエル公安庁 シャバック(שב"כ)
フランス フランス国土監視局(DST)
ドイツ 連邦憲法擁護庁(Bfv)

防御的カウンターインテリジェンス
防御的カウンターインテリジェンスは、その組織自体の脆弱性を探すための実践的な訓練であり、そして、リスクと利益に注意を払いながら、弱点の発見に近づいていく。
防御的CIは、外国の諜報活動(FIS)によって発見されやすい、組織の中で脆弱な場所を探すことから始まる。FISはカウンターインテリジェンス・コミュニティによる造語であり、そして、今日の世界では、「外国」とはすなわち「対立するもの」と置き換えられる。対立するものは実際に国家であるかもしれないが、国境を超える集団または国内の反乱者の集団であることもある。FISに対抗する作戦は、自国や友好国の安全を脅かす集団に対抗するためのものである可能性もある。友好国の政府を支援するためになされる活動の範囲は、幅広い機能を含むこともあり、軍事支援や防諜活動だけでなく、人道支援や開発援助(例えば国家の建設)もその範囲に含まれる。

ここで使われている用語は、まだ定義が定まっていないものもあるが、「国境を超える集団」にはテロリスト集団だけでなく、国境を超える犯罪組織も含まれる。国境を越える犯罪組織には麻薬取引、資金洗浄、サイバーテロ、密輸を行う集団などが含まれる。
「反乱者」とは、その国の政府によって犯罪組織または軍事組織と認識されている政府に対立する集団である場合や、自国や友好国の政府に対する秘密の諜報活動や秘密作戦を行っている疑いのある集団であることもある。

カウンターインテリジェンスとカウンターテロリズムは、外国の諜報機関やテロリスト集団に対する戦略的な評価や、現在進行中の作戦や捜査への戦術的なオプションの準備を提供すると分析されている。カウンターエスピオナージには、二重スパイ、欺騙、または外国の諜報機関の職員をリクルートすることなどの外国の諜報活動に対する積極的な行動も含まれる。秘密のヒューミントの人的資源は、敵の思考に対して最大の洞察を与えるが、それらはまた、敵の攻撃においてその組織の最も脆弱なものとなりうる。敵のエージェントを信用する前に、そのような人物が自国で信用されているかどうかを疑ってから始めることを忘れてはならない。彼らはその国に未だに忠誠を誓っているかもしれないからである。

攻撃的カウンターインテリジェンス
攻撃的カウンターインテリジェンスは、発見した外国の諜報活動を行う人物を無力化し、逮捕するか、あるいはその人物が外交官である場合には、ペルソナ・ノン・グラータを宣言することによって国外退去を命じる、最小限の、一連の技法である。
ワイズナーは彼自身によって、そしてダレスもまた、外国からの攻撃、勢力の浸透、または諜報活動に対する最善の防御の方法は、それらの敵意のある活動に対して積極的な方法をとることであると強調した。
これはしばしばカウンターエスピオナージと呼ばれる方法であり、敵による諜報活動または友好国に対する諜報活動への物理的な攻撃を検知し、損害を与えることや情報の損失を防ぎ、可能であるならば反撃を行うことである。カウンターエスピオナージは敵に対抗するために行われるものだけでなく、外国の諜報機関のエージェントをリクルートすることや、実際に自身の活動に忠誠を誓っている人物を疑うこと、敵の諜報活動にとって有益なリソースを取り除くことにより、敵の諜報活動を撃退しようと積極的に試みるものである。これらのすべての行為は、国家による組織だけでなく非国家的な脅威にも適用される。
もし自国で、あるいは友好国で敵意のある行為が行われた場合には、警察による協力を通じて、敵のエージェントは逮捕されるか、あるいはその人物が外交官である場合には、ペルソナ・ノン・グラータが宣言される。諜報活動の観点からは、逮捕または脅威を取り除くための行為のために、ある側にとって有利となる状況を利用することは、通常好ましいことである。諜報活動の優先権は、特に外国の脅威と自国民とともに活動する外国人が重なる場合、時として法執行機関の本来の役割と抵触することがある。
囚人に協力する選択する手段が与えられている場合、または深刻な状況に直面している場合、そしてスパイ活動によって死刑が言い渡されている場合を含むいくつかの状況では、最初の手順として逮捕という措置が取られる。
Cooperation may consist of telling all one knows about the other service, but, preferably, actively assisting in deceptive actions against the hostile service.

防諜による諜報活動の安全の確保
防御的カウンターインテリジェンスでは、特に諜報活動を行う際の、文化、源泉、手段と資源におけるリスクの分析が行われる。効果的な諜報活動はしばしばリスクを負って行われるものであるため、リスク管理はそれらの分析に常に反映されなければならない。リスクを計算に入れている場合でさえ、適切な対応策を取り入れることによって活動のリスクを軽減する必要がある。

FISは特に開かれた社会、また、その環境において開拓していくことができ、インテリジェンス・コミュニティーを崩壊させるために内部の人物と接触してきた。攻撃的カウンターエスピオナージは侵入者を見つけ、無力化するための最も強力な手法であるが、それが唯一の手段ではない。何が個人を所属している側から転向させるのかについて理解することが囚人プロジェクトの目的である。個人のプライバシーを侵害することなく、特に情報システムの利用における、異常な振る舞いを見つけるためのシステムを開発することは可能である。

「意思決定者は敵の諜報機関による管理または操作から自由であることが求められる。なぜならすべての諜報機関のディシプリンは我々と対峙する勢力を操作することを目的としているからであり、すべての情報の収集の目的と原則から諜報活動の信頼性を有効なものにすることは必要不可欠である。従って、各々の諜報機関は、防諜の任務に関連する源泉と方法の信頼性を普遍的な標準に従って有効化しなければならない。他の任務の分野では、我々は情報を収集、分析して実践と他の諜報活動に普及させ、改善、最善の方法、普遍的な標準を推進する」。
 
諜報活動は国外だけでなく国内の脅威からも攻撃を受けやすい。それは転覆、背信、脆弱性、政府と企業の秘密、そして諜報活動の情報源と方法のリークなどによってである。この内部の脅威は、オルドリッチ・エイムズ、ロバート・ハンセン、エドワード・リー・ハワードなどの主な秘密活動にアクセスすることができた人物により、アメリカの国家の安全保障に甚大な被害を与えてきた。防諜に関するファイルを閲覧する際の異常な行動を検知する電子システムを導入していれば、ロバート・ハンセンのソビエト(後のロシア)から報酬を受け取っていたことへの容疑による捜査はもっと早く表面化していたかもしれなかった。異常は、単純に特に独創的な分析官が訓練された直観によって関係があると感じ、それらについて調査しようとすることによって現れる。

これらの新たなツールと技術が「国家の造兵廠」に加わったことにより、カウンターインテリジェンス・コミュニティは外国のスパイの操作、積極的な捜査の指揮、逮捕または、外交官が関わる場合には、彼らが実際の外交上の地位と矛盾したことを行ったように関連付けて国外に追放するか、または欺くために彼らを無意識のうちに経路として利用するか、または彼らを二重スパイに仕立てようとする。
「気づいている(Witting)」とは諜報活動の神髄を示した用語であり、事実または情報の断片への気づきだけでなく、その諜報活動に対する関連性への気づきをも示している。
ヴィクトル・スヴォーロフは、かつてのソビエト軍の諜報機関(つまりソビエト連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の偽名の工作員であるが、彼はヒューミントの工作員が亡命することは、亡命のために離反を始めようとする工作員または志願して国を後にしようとする者にとって特別な脅威となると主張した。「温かく迎えられた」志願者は、彼らが敵の諜報員から軽蔑されているという事実を考慮していない。
「共産主義の醜い側面を非常に多く見てきたソビエトの諜報員は、同胞を喜んで売り渡す者に対して最大限の反感を持つことが非常に多い。そしてGRUまたはKGBの職員が、彼が所属している犯罪的な組織との関係を断とうと決断したとき、何かの幸運がよく起こり、彼が真っ先に行うのは、その嫌悪すべき志願者について暴露しようとすることである」。

防諜部隊防護活動
軍事、外交およびその関連施設に対する攻撃は、1983年にベイルートで行われたフランスとアメリカの平和維持軍に対する攻撃や、1996年のサウジアラビアのアル・コバール・タワーに対する攻撃、1998年のコロンビアとケニアで行われた基地や大使館に対する攻撃、2000年にケニアで行われたアメリカ海軍のミサイル駆逐艦コールに対する攻撃など、実際に起こりうる本当の脅威である。アメリカ軍を保護する方法は、軍人やその家族、資源、施設と機密情報に対して行われる一連の活動に向けられるものであり、そしてほとんどの国はそれらの施設を保護するために同じようなドクトリンを持っており、また起こりうる攻撃に対して注意深く備えている。部隊防護は偶然または自然災害によらない、故意の攻撃からの防護と定義される。

防諜部隊防護活動(CFSO)は海外において人的資源を活用して行われる作戦であり、通常は秘密裏に行われ、国内とのセキュリティのレベルのギャップを埋めるとともに、諜報活動を行う際に指揮官からの諜報員への要求を満たすことが目的である。
地元の人々と交流している軍警察やパトロール隊は、防諜のためのヒューミントの資源としては本当に価値があるかもしれないが、彼ら自身が防諜部隊防護活動を行うことはない。グレッグホーンは国家の諜報機関の諜報員の保護と、敵を撃退するための軍隊を提供したり、部隊防護のための情報の提供が諜報機関に必要とされることを区別している。ヒューミントの資源は、本当にヒューミントとして利用するかもしれないが、特に防諜と関連があるわけではい外国人との混同を防ぐ軍の偵察パトロール隊など他にもある。
部隊防護、諜報機関の活動、または国家の安全保障にとって重要な施設の保護に用いられるアクティブ・カウンターメジャーは、ヒューミントのディシプリンと関わりがあるが、外国のエージェントを発見するための非正規、臨時のあるいは付随した資源と呼ばれる人的資源からの情報、例えば、

政治亡命のために離反を始めようとする情報機関に志願して採用された者

気づいていない人的資源(防諜にとって有益な情報を提供し、漏洩の過程にあるそのような情報が、審査で彼らに有利に働いているとは知らないかもしれない、すべての個人)
発見され捕虜となった者

難民と国外追放者

審査中に接触を受け、面接を受けた者

公式の連絡係から受け取った情報の選別と報告を行う。

 
『物理的セキュリティは重要である、しかしそれが部隊防護活動の役割に優先することはない...すべての諜報機関のディシプリンは部隊防護活動のための情報を収集するために利用され、諜報活動と諜報機関によって収集されたヒューミントの情報は、テロリストや部隊防護の他の脅威の示唆と警告を与える際に重要な役割を果たす』。
 
現地国に展開する軍への部隊防護は、任務の遂行中や、宿泊先においてさえ、国家レベルのテロ防護組織による十分な支援を受けていないかもしれない。ある国において、すべての活動の、軍事支援や顧問団とともに、部隊防護防諜活動の人員とともに活動することにより、現地国の法執行機関と諜報機関との関係を築き、地域の環境について理解し、言語能力を改善することが可能になる。部隊防護防諜活動による国内のテロリズムの脅威への取り組みのためには、その国における法的な能力の問題を解決することが必要となる。

コバール・タワーへのテロ攻撃におけるテロリストの計画が教訓となり、長期間にわたる部隊防護防諜活動の必要性が明らかとなった。『ヒズボラのスパイたちは、この攻撃のための情報の収集と計画の活動が1993年に開始したと考えられていた。彼らは1994年の秋にアメリカ軍の軍人がコバール・タワーに宿泊していたことを認識し、施設の下見を開始し、テロの計画を立てるため1995年の6月まで継続した。
1996年3月、サウジアラビアの国境警備隊がプラスチック爆弾を持ち込もうとしたヒズボラのメンバーを逮捕し、2人のヒズボラのメンバーのさらなる逮捕につながった。ヒズボラの指導者はそれらの逮捕により、代わりの人材をリクルートし、テロの計画を継続した』。
 
防御的カウンターインテリジェンスの任務
アメリカのドクトリンでは、他の国のそれでは必ずしも必要不可欠なものではないが、CIは外国の諜報活動によるヒューミントに対抗するための基本的な手段である。1995年のアメリカ陸軍のカウンターインテリジェンスのマニュアルでは、CIは様々な情報収集のディシプリンに幅広く焦点を当てている。CIのタスクの全体の一部を紹介すると、CIの関心事となる組織、場所、そして個人について発展、維持、そして複数のディシプリンに基づいた脅威となるデータとインテリジェンスに関する情報の収集を進めること。これには、反乱者やテロリストの下部組織やCIの任務を支援することができる個人が含まれる。

すべての分野のセキュリティに携わる人員に対して教育を施すこと。この内容は脅威に関する複数のディシプリンについてのブリーフィングである。
ブリーフィングの焦点と機密種別のレベルは調整することができるし、されなければならない、Briefings could then be used to familiarize supported commands with the nature of the multidiscipline threat posed against the command or activity.
より最近のアメリカ軍が使用しているインテリジェンスのドクトリンは、その基本的な対象を、通常カウンターテロリズムを含む、カウンター・ヒューミントにだけ向けるよう厳しく制限されている。
軍事または他のリソースに対する脅威に関するすべての情報収集活動について、誰が責任を負うのか、このドクトリンのもとでは必ずしも明確ではない。アメリカ軍のカウンターインテリジェンスのドクトリンの総覧については、統合作戦を支援するためのカウンターインテリジェンスとヒューマンインテリジェンス(Joint Publication (JP) 2-01.2, Counterintelligence and Human Intelligence Support to Joint Operations)として資料が公開されている。
情報収集活動のディシプリンに対するより特定の対抗手段は以下の通りである。
情報収集のディシプリンに対するCIの役割(1995年のドクトリン)
ディシプリン
攻撃的CI
防御的CI
ヒューミント 対偵察、攻撃的カウンターエスピオナージ
作戦の安全を確保するための欺騙
シギント
運動エネルギーおよび電子攻撃の推奨 安全な電話、暗号、欺騙を用いた無線の運用セキュリティ
イミント
運動エネルギーおよび電子攻撃の推奨 欺騙、運用セキュリティの対抗手段、欺騙(おとり、カモフラージュ)、可能であるならば、隠れたり活動を中止して上空の衛星からのレポートを利用する。

記事ウィキぺデア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%AB%9C



25億ドル×120円はいくらに化けるか
イビザ島で友だちや有名人とパーティーをしてる。やりたいと思うことは何でもできる。これほどの孤独感を味わったことはないよ。

と「マルクス・ペルソン」氏が語ったという。

イビザ島がどこの島か知らないし25億ドルという現金を触ったこともない。それでも幸せの幸福感がないし孤独だという。

「そりゃ我がままというもんだ」、と困窮貧困者はいう。しかし、さらに下の最困窮者は、家に住んで車に乗ってテレビを2台みながらパソコンしている人間は困窮者といわない、と定義するに違いない。だから人間は永遠に「隣の芝生」を見続けて、自分だけが特別不幸だと思い続けている。
 
億万長者になった『Minecraft』作者の孤独。お金で買えるのは何?
「マルクス・ペルソン」氏 lifehacker / 2015年9月18日 22時0分
多くの人がお金をたくさん稼ぎたいと思っていますが、すでに十分なお金がある人にとってはどうでもいいことであったりします。こんなことを考えていると、オンラインゲーム『Minecraft』のクリエイターであるマルクス・ペルソン氏を思い出します。彼は先日、次のようにツイートしていました。

イビザ島で友だちや有名人とパーティーをしてる。やりたいと思うことは何でもできる。これほどの孤独感を味わったことはないよ。

ご存知の人も多いと思いますが、ペルソン氏は会社をMicrosoftに25億ドルで売却し、億万長者になっています。それでも、幸せとはかぎらないのです。

2010年のプリンストン大学の研究によって、年収75000ドル(約900万円)を超えると、人間の幸福感はもう上がらないことがわかっています。地球幸福度指数によると、コスタリカ、ベトナム、ジャマイカの人は年老いたアメリカ人よりもはるかに幸せです。残念ながら、アメリカ人の幸福度は151カ国中104位でした。

一方で、決済代行会社のCEOであるダン・プライス氏は、プリンストン大学のこの研究を知り、社員の年収を75000ドルまでに抑えることに決めました。その結果、社員は去り、訴訟が起こり、一部のクライアントも離れていきました。幸せは、単純にお金で買えないというわけでもないのです。

ところが、幸せと同じくらい大事なものでありながら、お金で買えるものもあります。それは自由です。

自由も多くの人が渇望しているものです。お金があれば、お金に縛られることもなくなり、夢を追いかけることができます。自由は大切ですが、億万長者だけのものではありません。

安定した仕事を辞めてビジネスを始めようと考えている人は、お金を貯めておきましょう。自由があれば、ためらうことなく自分の夢や目標を追いかけることができます。お金持ちになったら、簡単に幸せになれるだろうと思うかもしれませんが、それほど幸せになることはないということを覚えておくべきです。

ペルソン氏のツイートからわかるように、お金はその人が何者かということを浮き彫りにしてくれるだけなのです。内向的な人にとって、セレブたちに囲まれてイビザ島でパーティーをするのがどれほど苦痛か、容易に想像できます。おそらくペルソン氏は、ゲームをさらに改良したり、ゲームで遊んでいるのがベストだったのではないかと思います。
Minecraft Billionaire on What Money Can and Can't Buy You|Inc.

Betty Liu(訳:的野裕子)
Photo by Levent Konuk/Shutterstock.

関連記事当ブログ引用
金のいらない生活実験者「ハイデマリー・シュヴァルマー」 2014.11.15記事
「金の重さを量る」で貨幣の取り扱い方、それが日本ではどのような歴史で育まれたのか、書いてみたのだが、では、その「貨幣と価値」は人間にとって本質的に必要不可欠なものなのであるのか、という大それたテーマを掲げてみた。
 
 この元の記事は2011年11月21日に書いたもので、その動機はテレビ番組で、その人物を紹介していたからだった。また、この記事閲覧も多くはないが、コンスタントに足跡があり、やはり人によっては隅に置けない話題なのだろう。そんなことで、この題材をリニューアルし、世間に対してもアンチテーゼしてみたいと思った。

 金を持たない生活、それはセンセーショナル、という訳ではなかったが、それでも一種異様というかこの資本主義にあってノーマルではない、と感じたからだ。とにかく、現金がないことには明日よりも今の生活もままならない。それがタイトな現実だ、と誰もが思っている。

 記事を書いてすでに3年が経過しようとしている。私自身も指摘したことだが、田舎での自給自足、イギリス人のベニシアさん風でもなく、徹底した文明批判者でもなく、文明落ちこぼれのホームレスでもない。ごく普通に暮らす、どこにでもいる「オバタリアン」である。しかしそのことが重要で、現金を所有することなく、この文明社会で暮らせる、ということが如何に特殊であるか、という生活スタイルをアピールしていることが特筆なのだ。

 いま社会インフラという生活スタイルは、消費経済によって成り立っている、と括ってもいいだろう。その基本形は「衣食住」にあるのは当然だが、そのほとんどはシステム化され、とくに意識しなくても普通に生活していれば、のたれ死にすることはない。
 それは法治国家として国民が義務と権利を適正に速やかに遂行しているからであり、争いごとを極力排除して平和を維持している結果である。そのことは現在の中東混乱を参考にすればよく判る。
 
 それは極端な例だが、もっと身近な例では最近旅行に行った経験から、その体験談を話してみればよくわかる。私の住んでいる千葉から九州高千穂に数名で団体旅行した。
 朝6時、スケジュール表に従い家の前で迎えの車を待つ。仲間の車に分乗し約1時間で羽田に着く。発着時間を待って、定刻時刻に飛行機に乗る。ほぼ1時間強で熊本に到着。そこからレンタカー基地に向かい、手続きを済ませて、全員でマイクロに乗る。観光ルートは業者指定で、無駄のないルートをカーナビー案内で間違うことなく目的地に着く。この間、プロによるサービスはまったく受けることなく、自分たちだけで宿に到着した。岐路もまったく同じシステムで2泊3日の旅行は、滞りなく無事家に着く。
 おまけは、私が持っているデジカメで記念写真を撮ったものを自分のプリンターで人数分を印刷して、後日皆に配った。すべての費用は業者払込設定で、特に安くも高くもなかった。
 この一連の流れは「日本システム」だからできることとは思うが、それにしても理路整然というか、まったく無駄のない動きに驚いた。普段、頻繁に出かけている仲間が、それを組んでくれたが、ほとんど外にでたことのない私は、しばし呆然という状態だった。


 


激戦の山形市長選を制したのは、佐藤孝弘氏の「覚悟」と「4年間」だった
注目の山形市長選挙の結果が出た。
選挙ドットコム 2015年09月14日 00:42
佐藤孝弘:56,369 当選
梅津庸成:54,596 落選
五十嵐右二:3,737 落選
 その差 僅か1773票差
(開票終了 投票率56.94%)

開票率が94%でも同数という壮絶な激戦を制したのは、自民、公明、次世代、改革推薦の佐藤孝弘候補だった。
選挙ドットコムでは4回にわたってこの選挙のレポートをお送りしてきた。現地にも入り、前後編と記事をアップしてきたが、「佐藤孝弘候補が前回落選してからの4年間で、地元にどれだけ受け入れられるか」を結論とするしか無いほど結果が見えない選挙だった。私は彼の知人でもあったので、あえて厳しい目で見ようと務めたが、その目で見ても彼は山形に来てから逞しく成長していた。しかし、それがどれだけ山形市民に伝わるのか。

両陣営を取材したが、あまりの激戦を目の当たりにして簡単には予想できなかったので、両候補が負けたと仮定した敗因を予想して、それがどの程度リアルに感じられるか、という変則的な方法で結果を予想してみた(ルポ後編)。

佐藤候補がもし負けるとしたら「4年間の活動が地元に受け入れられない」ことではないかと推測した。つまり、この4年間の地元での活動が、短い選挙期間を制するかどうか最後のポイントになると考えた。

山形市は特殊な地域で、今まで約半世紀の間、非自民系の首長が市政を司っている。そして今回、吉村美栄子山形県知事が応援することとなり、安保法案への反対運動の盛り上がりもあって、一時は知名度で佐藤候補に差を付けられていた梅津候補は、8月ごろ逆転したと見られていた。

しかし、「市政を変えるためには今回が最後で最大のチャンスだ」と考える佐藤陣営は、相手陣営の安保法制批判キャンペーンには乗らず、徹底的に地元のビジョンを示す作戦をとった。

私は、佐藤候補の立会演説会を見たときに、彼が当選するイメージを持ったが、どうしても方言の少なさが気になった。はたして山形市民は彼を自分たちのリーダーとして認めるのか心配だった。

佐藤孝弘候補の力のこもった演説

実際に地元をまわってみて、梅津候補が敗れた理由は以下だと考えている。
立候補表明が遅く、活動が不十分だった
山形市長選と安保法制はそれほど関係無かった
知事の支援や小林節先生の支援に甘えてしまい、陣営に油断が出た
陣営の油断に関しては、梅津陣営の担当者に激しく反論されたが、本当に油断は無かったのだろうか。やはり心のどこかに「知事や今話題の小林節慶應義塾大学名誉教授も全面に立って応援してくれるし、山形市はずっと非自民で来た。安保法制への批判も盛り上がって来ているので、何とか行けるのではないか」と考えるのは無理もない。しかし、言い方は悪いが「材料は揃っていたが、その素材を使う戦略が一方的だったのではないか」と感じるのだ。

梅津候補は地元出身だ。佐藤候補は山形出身ではなくほとんど繋がりはない。したがって、梅津陣営は梅津候補の「地元色」を全面に出した。それは間違っていない。しかし後半は、安保法制の批判をもとにした「平和」を強く推すようになった。バランスの問題だが、選挙が盛り上がってくると今まであまり関心無かった地元有権者も意識するようになる。その時に一番必要なのが「地元色」だったのだろう。

佐藤候補が当選したのは、彼のこの4年間の地を這うような活動が、地元に浸透したということに尽きる。それは自民党的などぶ板だったのかもしれないが、4年前に山形市に移ってきて、落選後すぐに次回選挙への立候補を表明し、第一子の誕生を経て、「もう引き下がれない」状況を作って覚悟を示してきたことが、最後には山形市民に受け入れられたのだ。さらに佐藤氏の妻は山形出身ではない。夫に寄り添い、誰も知らない土地にきて、出産して浪人中の夫を必死で支えてきた。夫婦の「覚悟」が決め手だった。

梅津陣営が「安保法制」を争点にしたこともあり、非自民系市政だった山形市という特殊な事情も相まって国政並みの盛り上がりを見せたので、安保法案に反対している多くの人たちが、梅津候補の落選を知って落胆していると思う。しかし、心配するにはあたらない。今回、佐藤陣営は全く安保を取り上げなかったのだ。

山形市は半世紀ぶりの変革が始まることになる。佐藤孝弘新市長の手腕と山形市民の選択が問われるのは4年後だ。
高橋茂

 捕捉 9月13日投票の選挙結果
◇山形市長選開票結果(選管最終)
当日有権者は20万2997人。
投票率は56.94%で前回を9.34ポイント上回った。

当  56,369佐藤 孝弘 無新
    54,596梅津 庸成 無新
       1773票差
        3,737五十嵐右二 無新

 

あと1日の死闘
市政継承か刷新か 攻防し烈 
2015/9/10 河北新報
候補者の訴えに耳を傾ける有権者。投票日が近づくにつれ戦いは激しさを増している
 山形市長選(13日投開票)は最終盤戦に突入した。立候補している無所属新人3人のうち、安全保障関連法案に反対し争点化を図る元防衛省職員梅津庸成氏(48)=民主・共産・社民・生活推薦=と、「流れを変える」と市政刷新を訴える元経済産業省職員佐藤孝弘氏(39)=自民・公明・次世代・改革推薦=の攻防は、し烈を極めている。

<風頼みに危うさ>
  梅津氏がまず切り出したのは安保法案だった。9日夜の個人演説会。「違憲」と戦争に巻き込まれる危険性を強調して力を込めた。
 「この法案は葬り去るしかない」
 入れ違いに会場に入った吉村美栄子知事も、山形市の宣言と佐藤氏のキャッチフレーズを絡めて呼び掛けた。「平和都市の流れを変えられては困るんです」
 梅津氏は市川昭男市長の市政運営の継承を掲げる。民主、共産、社民3党が支える態勢を引き継ぎ、支持者の多くが重なる吉村知事の支援も受ける。
 市川氏は故吉村和夫市長の助役を務めた後継。陣営は和夫氏の長男で会社社長の和文氏が選対幹事長、次男で民主党県連幹事長の県議和武氏が指揮を執る。ともに吉村知事の従兄弟だ。
 陣営幹部は「梅津氏の市政継承は、地盤維持のため、知事らにとっても譲れない」と指摘し、吉村知事の動きに目を見張る。連日、市川市長らと演説会場を回り、自らの選挙でも張らなかったポスターで、自宅の壁一面を埋めた。
 ただ安保法案に反対する世論の高まりと、吉村知事らの支援に期待する陣営内の雰囲気に、危うさを指摘する声もある。
 告示日6日の出陣式で元民主党衆院議員鹿野道彦氏の声が響いた。「何やってるんだ。早く壇上に上がれ」。促されたのは5月末、梅津氏に出馬要請した17人の市議ら。鹿野氏側近は「市議団が動かなければ負けるぞ。風に頼るなという意味だ」と代弁した。

<逆風の強さ誤算>
  佐藤氏陣営は、市長選で問われるべきは安保法案ではなく、これまでの山形市政、未来だと論陣を張る。
 「この10年間、一体何をやっていたんだ。このスピード感のなさ。トップが動かなければ市は動かない」
 佐藤氏は9日夜の個人演説会で、近隣市と山形市の現状を比較して市川市政を痛烈に批判した。
 昨年度のふるさと納税は天童市7億8000万円、山形市1212万円。県内で唯一人口が伸びる東根市が大型の遊び場、子育て施設を整備したのは10年前で、山形市は昨年12月だ。
 佐藤氏は前回市長選の落選直後に再挑戦を表明した。遠藤利明五輪相(衆院山形1区)の全面支援を受け、33の地域後援会を組織。企業、職域団体の会合にも小まめに顔を出してきた。自民党に加え、今回は公明党などの推薦も得た。
 「市職員組合中心の体制が続けば、このまま市役所職員のための市政になる」
 佐藤氏の前にマイクを持った遠藤氏も、市川市政を繰り返しこき下ろす。象徴として119番山形大生死亡訴訟での対応や、唐突に明らかにした保育料値上げ計画などを挙げて「答えは簡単だ。変えるしかない」と強く訴えた。
 佐藤氏にとって、土壇場で目算が狂ったのが安保法案への逆風の強さだ。
 自民党県連の金沢忠一幹事長が9日夜、別の演説会で声を張り上げた。「4年間地道に活動してきた佐藤氏が、告示3カ月前に出てきた相手に負けるわけにはいかない」
 市長選には飲食店経営五十嵐右二氏(64)も立候補している。

<山形市長選> 非自民の市政続き半世紀
 任期満了に伴う山形市長選は、13日の投開票に向け、無所属新人の3候補が激闘を繰り広げている。市川昭男市長の市政運営の継承か刷新かが最大の争点。自民党が現職に相乗りした一時期を除き、非自民中心の市政が約半世紀続いており、3候補とも今回が継続か転換かの「剣が峰」と位置付ける。政党対決の構図にも深く関わる自民、非自民の県都争奪史を振り返る。
(記事引用一部追記)







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市町村大合併のコンセプト

最近よく耳にする「市町村合併」。
しかし、なぜ今「合併」なのか、よくわからない人がほとんどだろう。先ごろ、大宮・浦和・与野の3市が合併し、さいたま市になったが、大規模自治体の合併は稀であり、都市部に住む人にとっては、市町村合併は関心が低いに違いない。さらに、当事者である市町村の住民もこの合併の意味がよくわかっていないのが実情ではないだろうか。

 中には「合併すればその自治体の借金が帳消しになる」というデタラメなウワサも流されているという。いったい、自治体(市町村)の合併にどんな意味があるのか。かく言う私も調べてみるまでは五里霧中。なぜ合併なのか、どんな意味があるのか、そしてどんな問題があるのか、正直言って皆目見当がつかなかった。

 このコーナーでは、誰でもわかるように、自治体合併の意味と影響をまとめてみた。「市町村合併」は決して「地域」だけの問題ではなく、日本のこれからの進路を決定する重要な問題であるということが見えてくるはず。(2003・06・13) [地方自治体]一定の地域およびそこに住む住民を存立の基礎とし、その地域における行政事務を住民の自治によって行う団体。都道府県・市町村などの普通地方公共団体と、特別区、地方公共団体の財産区などの特別地方公共団体とがある。
市町村合併って何?
 いくつかの市町村が一緒になって、より大きな自治体になること。「新設合併」(いわゆる対等合併)と「編入合併」(吸収合併)の2つに分けられる。
合併の沿革 明治・昭和の大合併とどう違うのか
 明治になり、江戸時代から日本に存在した自然村、いわゆる基礎自治体が統廃合されて、中央集権的な行政区域に再編統合された。その数1888年(明治21年)で7万1314。それが、1889年の市町村制の施行で約5分の1の1万5859に減少した。これがいわゆる明治の大合併。

 1945年には1万520に減ったものが、「町村合併促進法」(1953年)、「新市町村建設促進法」(1956年)を経て、1961年には約3分の1の3472になった。これがいわゆる昭和の大合併。
 その後、1965年に「合併特例法」が施行されるが、その効果はほとんどなく、市町村の数は現在までほとんど変わらないまま推移してきた。

 それぞれ、合併の目的は異なり、「明治の大合併」は行政上の目的に合った規模と、自治体としての町村の単位の隔たりをなくすために、300~500戸を村の標準単位にして行われた合併。つまり、明治以前の自然村・集落を行政単位に再編したということ。基本的に地方自治意識を国民に知らしめる意図があった。

 「昭和の大合併」の場合は敗戦後に行われた新制中学の設置管理、消防、自治体警察の創設に関連して、事務などを効率的に処理するために行われた、いわば合理化合併。500人の集落が5つ同じ地域にあったとしたら、それぞれに警察を5つ作るより、まとめて1つにしたほうが、警察・消防活動も合理的にできるということだ。

 これらは、名目上、自治の大義に則ったもので、今展開している「平成の大合併」とは理念が大きく異なる。

 明治、昭和の合併にも国家の要請による「中央集権化」の意図があったが、これに関しては後述。
なぜ今合併なのか
 2001年4月の小泉内閣成立による、いわゆる構造改革論がその背景にある。
「医療費の本人負担率3割にアップ」など、国民の弱い部分に「痛み」を押し付けるのが「構造改革」の実体。国は国民だけでなく、地方自治体ーー中でも弱小自治体に、その「痛み」を押し付けようとする。結論から言えば、それが「市町村合併」だ。

 つまり、国と地方合わせて700兆円近い財政破綻を打開するために、国からの地方交付税を減らそうというのが狙い。

 市町村の数が減れば交付税の「出費」も少なくなる。いってみれば、親に家計をやりくりする才覚が無く、バクチに手を出したりしたあげく、借金を背負い、その責任を、子供たちに押し付け、「おまえら、明日から食事は一日ニ食だけにしろ」と言ってるようなもの。

 もちろん、子供(市町村)は親の手伝いをして、家にお金を入れているのに、親がそのカネを野放図に使っている、という構図が背景にある。いわゆる「3割自治」だ。

 これは、行政サービスの7割を提供しているのに、国民の納める税金の3割しか自治体の直接収入にならないことを指す。当然、国からの交付金、補助金がなければ、自治体の運営はできない。自治体の借金は200兆円以上の巨額にのぼっている。その原因は公共投資に伴う国からの補助金のツケがほとんど。

 悪どい高利貸しに、「カネならいくらでも貸すから、高級な家具を買え、インテリアを新しくしろ」と無駄な出費を強いられ、借金漬けになっているようなもの。立派な庁舎、競技場など、いわゆる「ハコもの」行政のツケが回ってきているといえる。

 しかし、親が子供を養育する義務があるように、国は地方自治体への交付金を勝手にストップしたり、削減することはできない。それは憲法に謳われた「地方自治の本旨」から逸脱するからだ。

 それなら、合併させて市町村の数を減らし、交付金の総額を減らそうというのが、この合併問題の「正体」であり、国がシャカリキになる一番の理由。しかし、「合併してくれ」と上から押し付けるわけにはいかない。合併は下から自発的に行われることが国にとって望ましい。
 で、アメとムチが登場することになる。 
(記事部分引用)


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