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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

戦争のスタイルを変えた男フリッツ・ハーバー(ドイツユ、ダヤ人)
毒ガス開発 超臨界流体状態直接反応

フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年12月9日 - 1934年1月29日)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。
妻「クララ・イマーヴァール」はともに科学者だったがハーバーと対立しピストル自殺。
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ハーバー・ボッシュ法(ハーバー・ボッシュほう、Haber–Bosch process)または単にハーバー法 (Haber process) とは、鉄を主体とした触媒上で水素と窒素を400 - 600 °C、200 - 1000 atmの超臨界流体状態で直接反応させ、N2 + 3H2 → 2NH3の反応によってアンモニアを生産する方法である。


 

右図のハーバーとボッシュが1906年に開発した合成法である。
窒素を含む化合物を生産する際の最も基本となる過程であり、化学工業にとって極めて重要な手法である。

反応過程
現代の工業化学では、メタンから不均一系触媒を使って単離された水素と大気中の窒素とを反応させてアンモニアを合成している。

水素の合成
まず、メタンを精製して触媒を失活させる硫黄分を除去する。約800 °C、3 MPaで精製したメタンを酸化ニッケル(II)を触媒として水蒸気と反応させる。これは水蒸気改質と呼ばれる。
CH4 + H2O → CO + 3H2
水素量に対応する化学量論量の窒素を含有するだけの空気を加えて、水蒸気改質で残存したメタンを酸化させる。水素の一部も燃焼する。いずれも大きな発熱反応であり、発生した熱(およそ1000 °Cに達する)を利用して水蒸気改質に用いる高温高圧の水蒸気を得る。
2CH4 + O2 → 2CO + 4H2
CH4 + 2O2 → CO2 + 2H2O
2H2 + O2 → 2H2O
高転化率と高い反応速度を両立するため、Fe-Cr系触媒とCu-Zn系触媒を用いた二段階の水性ガスシフト反応によって、一酸化炭素と水蒸気から二酸化炭素と水素を得る。本反応は平衡反応であるため、濃度0.5%程度の一酸化炭素が残存する。
CO + H2O → CO2 + H2
炭酸カリウム水溶液により、二酸化炭素を除去する。生成した炭酸水素カリウムは再生塔で炭酸カリウムに再生される。
CO2 + K2CO3 + H2O → 2KHCO3
混合気体はメタン化炉へ送られ、ニッケル系の触媒を用いて、アンモニア合成反応で触媒毒になる一酸化炭素を10 ppm以下までメタン化により除去する。
CO + 3H2 → CH4 + H2O

アンモニア合成 - ハーバー法
最後に二重促進鉄を触媒としてアンモニアを合成する。
\mathrm{N}_2 \, \mathrm{(g)} + 3 \mathrm{H}_2 \, \mathrm{(g)} \rightleftharpoons 2 \mathrm{NH}_3 \, \mathrm{(g)}, \quad \Delta H^o = -92.4 \,\mathrm{kJ \cdot mol} ^{-1}

この反応は約20 MPa、約500 °Cで行う。触媒を通した後アンモニアは-33 °C程度まで冷却され、液体の状態で排出し適当な平衡定数を維持する。未反応の水素と窒素は循環し再び触媒床に通される。
なお、尾崎、秋鹿らによりハーバー法よりも温和な条件でアンモニアを合成できるルテニウム触媒を用いた合成法が確立されている。
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画像 2015/8/22の朝日


ハーバー法を成功させた鍵の1つは、化学平衡を有利にし、かつ高い反応速度を得るために必要な高温高圧反応装置を開発できたことであり、もう1つは反応を促進する触媒を開発できたことである。
窒素分子は非常に強い窒素原子間結合を有しているため、極めて反応性に乏しい。実際、多くの場合、不活性ガスとして取り扱われる。従って、窒素分子を活性化できる触媒の開発が極めて重要であった。

フリッツ・ハーバーらは鉄鉱石(酸化鉄を主体とし、酸化アルミニウム、酸化カリウムを含む)を触媒に用いた。
このとき注意すべきことは、酸化鉄を触媒として装填するが、実際に反応しているのは水素によって還元されて生じた単体の金属鉄であることである。酸化アルミニウムは還元されず担体として鉄の単体がシンタリングするのを防ぎ、酸化カリウムは塩基として鉄に電子を供与して触媒能力を高めている。これらの作用から二重促進鉄触媒と呼ばれる。これらの機構は後にゲルハルト・エルトルにより解明された。

二重促進鉄触媒は、触媒開発を担当したアルヴィン・ミタッシュ(英語版)により見出された。ミタッシュは、様々な鉄鉱石を触媒として用いたところ、スウェーデン産の磁鉄鉱が非常に高い活性を示すことを発見した。そしてさらに検討を重ね、微量のアルミナとカリウムが必要であると結論付けた。この結論に至るまで、ミタッシュは約2万種類の触媒を試したと言われている。

ドイツのフリッツ・ハーバー、カール・ボッシュによるこの方法は、水と石炭と空気とからパンを作る方法とも言われた。
小麦の育成には窒素分を含む肥料の十分な供給が不可欠だが、痩せた氷河地形で土壌が未発達な土地が多いドイツでは、小麦の栽培は困難で、主要な穀物生産は硝石などの海外産窒素肥料の輸入によるか、痩せた土壌に強いライ麦に頼る、あるいは穀物の代替品として新大陸産のジャガイモに頼らざるを得なかった。

本法によるアンモニア合成法の開発以降、生物体としてのヒトのバイオマスを従来よりもはるかに多い量で保障するだけの窒素化合物が世界中の農地生態系に供給され、世界の人口は急速に増加した。現在では地球の生態系において最大の窒素固定源となっている。

しかしこの方法は同時に平時には肥料を、戦時には火薬を空気から作るとも形容され、爆薬の原料となる硝酸の大量生産を可能にしたことからその後の戦争が長引く要因を作った。例として、この方法でドイツは、第一次世界大戦で使用した火薬の原料の窒素化合物の全てを国内で調達できた。
さらに、農地生態系から直接間接双方の様々な形で、他の生態系に窒素化合物が大量に流出しており、地球全体の生態系への窒素化合物の過剰供給をも引き起こしている。この現象は、地球規模の環境破壊の一端を成しているのではないかとする懸念も生じている。
ハーバーは本法の業績により1918年にノーベル化学賞を受賞したが、第一次世界大戦中にドイツの毒ガス開発を主導していたために物議を醸した。またボッシュは本法を応用した高圧化学反応の研究により1931年に同賞を受賞している。

井上馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。

幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(もんた、ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。

政界から引いた後、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆と共に副使として渡海、朝鮮の交渉に当たり2月に日朝修好条規を締結した。
6月に欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らと共にアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊、中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち7月に帰国した。

明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するに至った。

組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢を初めとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥とも繋がりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している。

大命拝辞した後は後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。

明治40年(1907年)侯爵に陞爵した。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した時に尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復、明治42年(1909年)の伊藤の暗殺後は西園寺公望や松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な影響力を持った。

明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された。
明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車椅子の移動となる。

大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。

生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日に財政面を主に書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。
昭和2年(1926年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。
また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している。
(資料ウィキぺデア)

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経済あれこれ
久原房之助  2010-07-28 03:00:20 | Weblog
久原房之助が創始した久原鉱業所と言っても現在知る人はほとんどない。
しかし日産自動車、日立製作所、ジャパンエナ-ジ-は現在の日本を代表する企業である。房之助はこれらの会社を創立したというより、その基礎を作った。
同時に彼は明治末から大正時代にかけて出現した、富豪・成金の代表でもある。
鉱山開発で巨万の富を作り、それを公私両面にわたって蕩尽したことは事実。一時期彼の資産は2億5000万円とも言われた。

久原家は長州(山口県北部)の須崎で庄屋を務め、益田藩の財政にも関与し、苗字帯刀を許された御用商人だった。益田氏は長州毛利藩の家老で12000石を給され、その支配地は自治を許されていた。ここでは便宜上益田藩と呼びますが、幕府法制上正式な呼称ではない。

1956年(文久2年)久原家当主半平は暗殺されます。益田家の仕業です。さらに米買占の悪評を立てられ、藩民から白眼視される。
半平の養子である庄三郎はすぐ、須崎を捨てて萩に移り、そこで商売を始めた。房之助は萩で1969年(明治2年)に生まる。
庄三郎の商売はなかなかうまく行かなかった。庄三郎の実家である藤田家の三男伝三郎はすでに大阪に出て事業を始めていた。

藤田伝三郎についてはすでに述べてある。1874年(明治7年)久原庄三郎は弟の伝三郎を頼り大阪に出る。
同年藤田三兄弟、藤田鹿太郎、久原庄三郎、藤田伝三郎が、藤田組を立ち上げた。
一応兄弟会社になっているが、実権者は末弟の伝三郎だった。伝三郎達は長州閥の人脈をたどり、大阪鎮台の司令官山田顕義から軍靴製造を委託される。
これが藤田組成功の第一歩である。
西南戦争では軍靴製造に加えて、人夫の手配と輸送を請負、組発展の基礎を築いた。
西南戦争では、運輸は岩崎弥太郎、人夫手配は西の藤田に、東の大倉が引き受ける。岩崎、藤田、大倉とも以後富豪・財閥として栄えたが、発展の基礎は、西郷隆盛が画策した西南戦争がきっかけだった。

西南戦争では莫大な戦費が投入され、政府は紙幣を乱発する。
借金して事業をし、儲けたら、下がった価値の紙幣で払う、二重三重の儲けになという算段である。1881年(明治14年)藤田組は資本金6万円、内藤田伝三郎3万円、藤田鹿太郎と久原庄三郎各15000円の持分で同族会社を正式に作った。
 
1879年(明治12年)萩に残されていた房之助母子達は大阪に移住する。
同年藤田組最大の事件(災禍)が起った。当主の伝三郎に紙幣贋造の疑いがかかり、多くの幹部が逮捕され、厳しい取調べを受ける。結果は無実たが、これは西南戦争で長州閥に遅れをとった薩摩閥の陰謀のとみられていた。藤田伝三郎が懇意にしていた井上馨追い落としが意図されていた。

この井上馨という人は、明治経済界のどこにでも顔を出す人で、裏工作の専門家であり、経済界の重鎮として通っていた。

 房之助は1880年、12歳で東京商法講義所に入学。この商法講義所は後に、東京商業学校、東京高等商業学校、そして現在の一橋大学になる。3年後卒業、実務に早く就く事を希望する父親庄三郎に嘆願し、福沢諭吉に憧れて慶応義塾に入る。3年後卒業、房之助は森村市左衛門の作った森村組に押しかけ就職をした。始め森村は房之助のような金持の子弟は使い物にならないと就職依頼を拒絶した。

房之助は強引に嘆願して、神戸支店倉庫係に採用される。彼の勤務振り、特にその仕事処理の独創性を支店長から聴いた森村は、房之助を抜擢して、ニュウヨ-ク支店勤務を命じた。

房之助は欣喜雀躍するが、ここで強力な反対に出会た。藤田組の後援者である、井上馨の反対です。藤田組の御曹司がなぜ藤田組に入らないのだ、と井上は言う。井上の言葉には伝三郎ですら逆らえなかった。なくなく房之助は森村組を辞した。房之助が遣られたところは、秋田県小坂にある小坂銀山だった。しかしニュウヨ-ク行き挫折に対する無念は終生彼の人生について回っていた。

1891年(明治24年)22歳、房之助は小坂鉱山に赴任した。彼の月給は10円、鉱夫でも8円。小坂鉱山は戦国時代から銀山として有名たが、当時掘りつくされ、藤田組としては廃坑か売却を考えていた。
房之助はニュウヨ-ク行きを断念した結果が、廃坑の後始末ではかなわないと思い、なんとか鉱山の再生を考える。
銀鉱は掘りつくしたが、黒物(黒鉱)は充分にあった。黒鉱とは、銅、鉄、鉛、亜鉛、硫黄に少量の金銀を含む複合物。これをなんとかできないかと房之助は考えた。

特にそこから銅を抽出する事を考える。東大工学科卒の新進気鋭の武内雅彦を迎え、彼の卒業論文のテーマは自溶製錬法である。最新式の精錬法です、自溶精錬法とは、燃料を加えることなく、鉱石内部の成分の燃焼で製錬する方法。この方法なら燃費もかからず、幾多の実験の末に、精錬は成功した。
藤田組本社では房之助は廃坑に努力していると思っていた。房之助はこの本社の方針を、覆そうとする。ついに井上馨に応援を求めね明治31年の銅生産額は360トン、翌年は833トン、産額はどんどん増加し明治39年には7000トンを超る。産出額総体は現在の金額に直すと1000億円と想像された。小坂鉱山は銀山から銅山に生まれ変わったのである。 
 
この間藤田組本社は経営危機を迎えていた。
鉱山開発や工事請負、投機に手を広げすぎて、失敗が多く多額の借金を抱えていた。井上馨の斡旋で毛利家から金を借りまる。
数度に分けて総計200万円以上の借財を毛利家から負う。
当主伝三郎以下の幹部の俸給も制限され、経営権は毛利家に移った。
房之助の小坂鉱山での成功により藤田組の借財はなくなった。

併行して藤田三兄弟の間で財産分与をめぐっての争いが起る。当主の伝三郎家に財産管理を集中する企てが進行していた。すでに久原家の当主になっていた房之助は反対し、結局房之助は470万円を分与され、藤田組から分かる。小坂鉱山を成功させ、藤田組の危機を救った彼としては不本意であった。

鉱山経営、財産争い、本社の危機など多事の中、明治33年31歳、房之助は鮎川弥八の次女清子と結婚する。彼女の兄が後に日産コンツエルンを作った鮎川義介。
鮎川についてはすでに彼の列伝で述べてある。
また鮎川兄妹の母方の叔父が、今まで再々出てきた井上馨である。なお房之介は正式に結婚する以前から、彼はある女性との間に一女を設けていた。
この娘「久子」が後石井光次郎と結婚し、その間にできた娘が、シャンソン歌手で有名な石井好子である。
このようにして久原家は二重三重に長州閥で囲まれていた。また房之助は別に球子という女性との間にも多くの子を作っている。昭和17年、後年清子は房之助と協議離婚した。3人の女性に産ませた子供や孫達は房之助の屋敷に集まり、みな仲良くしていたと言う。久原家は解放的なそしてかなり猥雑な家風であったと想像された。
 
1905年藤田組を退社した房之助は、茨城県の赤沢銅山の売買契約を締結し、久原鉱業日立鉱山の名に変更して、鉱山経営に乗り出す。
この時三井銀行から50万円の融資を受け、仲介者は例の井上馨である。
房之助は鉱山経営にすべて斬新な方針で臨みた。まず発電所を造り手掘りをやめて、削岩機を使い機械掘りにし電気鉄道を鉱山全体に走らせる。さらに鉱山と常陸海岸の間に、中央買鉱製錬所を作った。
これは将来鉱山の産出額が低下した場合、他の鉱山から鉱石を買って、製錬するためである。またダイアモンド式試錘機を使い、試錘探鉱を行う。断層にぶち当たるが、なんとか鉱脈を探し、鉱山開発に成功する。

房之助を慕って、多くの人材が日立に来た。彼らの内重要な人物は小平浪平と竹内雅彦だった。
小平は発電機の修理を担当していた。そのうち自分で発電機を作るようになり、機械を組み立てた。
房之助はあまりこの方向には関心がなく賛成ではなかつたが、小平の試みを黙認していた。
小平の試みは発展し、1912年久原鉱業日立製作所の開設に至る。
現在の日立製作所である。竹内雅彦は後に経営危機に陥った久原鉱業を受けつぎ、この会社は現在のジャパンエナ-ジ-になる。

日立鉱山は開業3年目くらいから経営は軌道に乗り、銅の産出額は増加し続け、1916年(大正5年)には37000トンを産出している。
第一次大戦で銅の需要は急増し銅価は上昇し房之助は大富豪になる。盛時における彼の資産は約2億5千万円になると推測されていた。
当時の国家予算がだいたい10億円ですから、彼の資産は国家予算の25%になる。現在の規模に換算すれば25兆円に昇ります。まさに大富豪だ。
また大戦景気に乗っているので成金でもあり久原家の故地須崎に行き、公園や埠頭に波止場などの大規模な寄付を行っている。

房之助の祖父半平の非業の死と、言われ無き悪評の払拭、町民の冷眼視への反発、そして成功顕示などいろいろな気持が混ざっていた。
しかし須崎町民の反発は一部には残っていたようで、房之助の寄付行為の記録は一切ない。
政界への寄金もし、亡命していた孫文にも300万円政治資金を融通している。東京、大阪、京都そして神戸に豪邸を作った。
すべて10000坪以上の規模である。成金がするように不必要なほどに贅をこらした。大阪中ノ島に豪壮な本社を造る。突起すべきは山口県下松(くだまつ)に造船所を造る構想を持ったこと。土地はどんどん買い占め市民も大喜びした。

造船所から発展して、機械製作に進み、日本のクルップになるつもりだった。しかし大戦勃発のために、アメリカが鉄鋼の輸出を禁止したために、この計画は無しになる。
房之助は京浜海岸に臨海工業地帯を作る計画も経ていた。これらの計画は房之助自身の手にはならなかった。小平浪平の日立製作所が代表だが、京浜臨海工業地帯も事実上出現しています。

第一次大戦を機に房之助は、海外開発、商事部門の設立、そして重工業機械工業への進出を試みる。銅の価格は変動する。それに対処するために、彼は以下のような処置をとつた。
価格が低迷している時は、設備の改善に尽くす、価格が上がったら増産する。このやり方は為替についても応用でる。円高になったら設備改善に努め、研究に投資し、円安になったら増産して輸出する。

第一次大戦の2ヶ月前までが、房之助の絶頂期だった。彼は欧州戦線の動向に常に注視していた。戦争が終わりそうな時に経営を縮小する予定だった。欧州各国に派遣した駐在員は「戦争終結近し」と判断したら、「プラチナ高い」という暗号電報を送るべく、指示されていた。終戦の2ヶ月前にこの電文は届きます。
しかしなんの事か解らない新米社員はこの電文を無視する。そのために久原鉱業は終戦に備える事が出来ず、大損をした。しかしこの話はおかしい。

本当にそうなら久原鉱業の幹部は房之助も含めてぼんやりしていた事になる。この前後房之助は腸チブスを患い生死の境にあった。気力体力共に低下し、生死の問題であるから、会社どころではなかった。
当時この病気は死に至る病である。抗生物質もない。病原菌と本人の体力との勝負だけだ。しかし腸チブス原因だけでは説明できないものが残る。
要は房之助の性格と思われた。
彼には財産防衛という考えはない。儲けたら儲けただけ蕩尽するタイプ。三井三菱住友また藤田組のように家訓を作り、当主の恣意を掣肘し、同時に当主中心に資産が集まるような、処置を房之助はしていなかつた。金融業にも熱心ではなかった。

経済人としての久原房之助はここまでだつた。彼は急速に事業経営に関心を失い彼のロマンをかなえそうなものは政治である。
久原鉱業は義兄の鮎川義介に委ねる。鮎川は北九州ですでに若干の工場を経営していたが、危機に陥った久原鉱業を引き受け、そこから後に日産コンツエルンといわれる一大重化学工業の結合体を作り上げた。この中で一番有名なのは日産自動車です。
 
1928年(昭和3年)立憲政友会に入党する。同郷の宰相田中義一の勧めだった。山口一区から出馬して当選し、そのまま逓信大臣になる。1931年政友会幹事長に就任。この出世の速さはやはり彼が抱える資金によるものだった。少なくとも彼には日産と日立が背後にあった。

1936年(昭和11年)2・26事件に巻き込まれ、謀議の疑いで逮捕される。約8ヶ月収監され、証拠不十分で無罪になる。有罪なら死刑は免れない。普通ならこの辺で政治生命は絶たれるのだが、1939年(昭和14年)政友会総裁に推される。
もっとも彼がしたことは、政友会の解散だった。大政翼賛会のさきがけを務めたようなものだった。

2・26事件での入獄から帰った時、房之介の債務は約1億円だった。鮎川他が解決に努力する。房之助は20年の年賦で返却する事を約束する。この時点で彼は69歳だった。本当に返却を信じた者はいたのだろうか。しかし20年後の昭和32年房之助は債務のすべてを返した。そして彼自身には井戸と塀のみが残った。
 
戦後A級戦犯に指定されかける。房之助が孫文に贈った300万円のおかげで指定を免れた。普通なら昭和24年に解除だが、勝手に私有地を売却し、公職違反の規定に反し、さらに2年解除を延長される。戦後も代議士になった。しかし房之助の影響力を恐れた吉田茂の反対で入党はつぶされた。一時期久原内閣という噂もあったくらいだ。

昭和40年、97歳で死去。堂々たる大往生。彼が基礎を作った会社は主なもので4つある。日産自動車、総合電機メ-カ-の日立製作所、石油開発精製・石油化学のジャパンエナ-ジ-、非鉄金属開発加工・電子部品製造の日鉱金属。すべて久原鉱業の分家だ。そしてこれらの永続する堅実な企業は房之助の親族や部下により受けつがれて発展した。
「参考文献 惑星が行く、久原房之助伝」


牧 相信の面影 -Biglobe
同じ頃、藤田組は小坂鉱山や大森銀山(石見銀山)の払い下げも受けており、その資金は長州毛利藩から20万円の借金をした。 明治23年1月の藤田組から共同鉱山への譲渡の復命書に「・・翌廿七日 藤田伝三郎代理人 木村復次 牧相信 及関係人 河端熊助」
(記事引用)

常陸の鉱山開発.1
日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。
久原の経営開始以後大きく発展し、1905年(明治38年)から閉山となった1981年(昭和56年)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなった。

日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成され、また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生しており、日立鉱山は日本の近代産業史に大きな足跡を残している。
日立鉱山の南隣には硫化鉄鉱を主に産出した諏訪鉱山があり、1917年(大正6年)に久原鉱業によって買収された後は日立鉱山の支山となり、1965年(昭和40年)の閉山まで稼動が続けられた。ここでは日立鉱山とともに諏訪鉱山についても説明を行う。

日立鉱山は宮城県南部から福島県東部、そして茨城県の太平洋側に沿って広がる阿武隈山地の南端部に位置している。日立鉱山がある付近の阿武隈山地は、高いところでも標高600メートル程度のなだらかな山地である。鉱山は宮田川の上流部に当たる赤沢谷に沿って開発が開始され、1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた。

宮田川は源流から太平洋に注ぐ河口まで約8キロという短い河川で、日本の多くの鉱山が交通の不便な山地深くに位置しているのに比べて、日立鉱山は恵まれた場所に存在していた。事実、日立鉱山の開発が本格化する以前の1897年(明治30年)には、日本鉄道によって常磐線が水戸駅から平駅まで延伸されており、また日立港も1967年(昭和42年)に重要港湾に指定されるなど鉱山に比較的近接した場所に整備され、交通の便の良さは日立鉱山の歴史に大きな影響を与えることになる。しかし鉱山の中心部は小河川である宮田川上流部の標高約300メートルの谷間にあり、精錬などの鉱山経営や鉱山で働く人々が使用する水の確保には苦労し、宮田川の支流などから貯水池に導水したり、鉱山内から湧出する水を浄化して用いるなどの対策を行った。

明治以前の歴史 佐竹氏と鉱山開発
 
常陸の戦国大名であった佐竹氏は、16世紀末には常陸の統一をほぼ成し遂げ、領内の鉱山開発を進めた。1592年(文禄元年)の文書には、現日立市内の大久保で金を採掘した記録が残っている。大久保の金山は佐竹領内でも主要金山であったと考えられており、日立鉱山の前身に当たる赤沢鉱山でも16世紀末から金の採掘を開始したとの説がある。
これは日立鉱山の赤沢鉱床に佐竹坑と呼ばれる坑道が残っていることや、大久保という地名は16世紀の末頃、かなりの広さを持った地域を指していたと推定されることなどから唱えられている説である。しかし資料の上からは16世紀末に日立鉱山の操業が開始されたことは確認されていない。
佐竹氏は領内の鉱山開発に積極的であったが、関ヶ原の戦いの結果、1602年(慶長7年)に秋田へ転封となった。その結果、常陸から鉱山の経営主体であった佐竹氏がいなくなったのみならず、鉱山開発と経営を担っていた技術者たちも移動してしまった。後述のように水戸藩が領内の鉱山経営に積極的に乗り出すのは1620年代の寛永年間以降であり、佐竹氏の転封から寛永年間までの間に鉱山は衰えていたと考えられる。

水戸徳川家時代の赤沢銅山

画像 赤沢銅山で産出された銅で鋳造されたとの説がある、1626年(寛永3年)水戸で鋳造が開始された二水永タイプの寛永通宝

1609年(慶長14年)からは水戸徳川家(水戸藩)の統治が始まった。現在の日立市内では水戸藩時代も金山の採掘は断続的に続けられたが、18世紀末にはほぼ休止状態となった。

1620年代の寛永年間に入り、水戸藩は領内の鉱山開発に積極性を見せるようになる。これは寛永年間には水戸藩の領国支配も安定し、1625年(寛永2年)には水戸城の修築と拡張を始めるなど、領国経営に本格的に乗り出せる状況が整ったことによる。そのような中、1625年(寛永2年)頃から赤沢銅山で銅の採掘が行われるようになった。
1626年(寛永3年)には水戸で寛永通宝の鋳造が開始されるが、赤沢銅山で採掘された銅が寛永通宝の鋳造に用いられたとの説もある。1639年(寛永16年)には赤沢銅山に銅山奉行が設置されるが、その後まもなく銅の採掘は中止に追い込まれる。
また寛永年間からの赤沢銅山の稼動によって、近隣の農村は鉱毒水による大きな被害を受けたものと考えられる。このことは江戸時代の赤沢銅山の稼動が困難となる要因となった。

1640年(寛永17年)、戦国時代に甲斐の黒川金山(甲州市塩山)の採掘に従事した金山衆の子孫である永田氏の当主である永田茂衛門が水戸藩に来て、治水や鉱山の開発に従事するようになった。永田茂衛門とその息子である永田勘衛門は17世紀後半、水戸藩内で鉱山開発を盛んに行うことになる。
17世紀後半に入ると水戸藩は財政的に苦しくなってきており、鉱山開発を行うことにより藩の財政を好転させるもくろみがあった。
1692年(元禄5年)に永田勘衛門が水戸藩内の鉱山の調査結果と開発策をまとめた「御領内御金山一巻」という文書によれば、永田茂衛門と永田勘衛門は3度に渡って赤沢銅山の開発に乗り出したことがわかる。
しかし赤沢銅山には銅の鉱脈が豊富に存在するものの、採掘によって発生した鉱毒によって再び周辺の水田に被害が発生したことに加えて、銅の価格の低下と精錬用の炭の価格が高騰して採算が取れないため、最終的に開発は断念された。

18世紀に入り、宝永年間に赤沢銅山の再開発を行い、赤沢銅山で産出された銅で貨幣の鋳造を行う計画が立てられた。この計画は江戸幕府の認可を受けることに成功し、江戸の商人から資金の提供を受けて事業が開始された。豪商であった紀伊国屋文左衛門もこの事業に参画したと考えられるが、やはり鉱害が発生して周辺の水田に害をもたらしたことと、利益を挙げることが出来なかったために短期間のうちに事業中止に追い込まれた。
また当時農村地帯であった赤沢銅山周辺に生活習慣の異なる鉱山労働者たちが集まったことによって、住民と鉱山労働者との間に摩擦も発生した。
その後18世紀後半に2回、赤沢銅山の採掘が計画されたが、いずれも鉱害問題から許可を受けられなかった。またやや確実性に欠ける資料であるが、1773年(安永2年)に幕府の許可を受けて赤沢銅山の採掘を再開したが、鉱石の質が悪くて採算が取れず、4年で中止となったとの記録も残っている。いずれにしても赤沢銅山が江戸時代には採算が取れなかったことと、鉱山操業時に発生した鉱毒被害のために開発が規制される傾向にあったことが、赤沢銅山が江戸時代に大きく発展することがなかった理由と考えられる。

幕末の1861年(文久元年)、多賀郡の大塚源吾衛門が水戸藩に赤沢銅山の開発許可を申請した。1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結され、銅は日本からの主要輸出品の一つとなっていた当時の状況から、水戸藩は大塚の申請を許可した。
この時も鉱害被害の発生を懸念した近隣住民から鉱山再開発に反対する声が上がったが、水戸藩は以前よりも技術が進歩していることを説明し、更に鉱害が発生した場合には大塚源吾衛門に補償させるとして住民を説得した。
大塚の赤沢銅山の経営は比較的順調で、「銅山会所」「大塚会所」などと呼ばれるようになった。
これは赤沢銅山で産出される銅を水戸藩の専売品とするばかりではなく、銅の生産そのものを藩の統制下に置くために会所という組織を取らせることになったものと考えられる。
しかし1864年(元治元年)に発生した水戸藩内の内紛である天狗党の乱の際、天狗党の田中愿蔵が逃亡途中に赤沢銅山会所に食料の援助を要請したところ大塚源吾衛門が拒否したため、田中愿蔵は鉱山の生産設備を破壊した上に火を放ったため、赤沢銅山の経営は中断された。

日立鉱山の誕生

久原房之助の登場

久原房之助は1869年(明治2年)山口県萩市に久原庄三郎の三男として生まれた。久原庄三郎は藤田組の創始者である藤田伝三郎の実兄で、藤田伝三郎と久原庄三郎、そして二人の実兄である藤田鹿太郎の兄弟3人が出費して1881年(明治14年)に設立された藤田組は、軍用物資の調達や土木建築業から1884年(明治17年)には小坂鉱山の払い下げを受け、その後鉱山業を中心として多角的な事業展開を行う財閥へと成長した。

久原房之助は1891年(明治24年)に小坂鉱山に赴任し、精鉱課長や坑業課長など主に採鉱や精錬の現場で実績を積み、1900年(明治33年)に小坂鉱山の所長に就任した。当時、小坂鉱山は日本有数の銀の産出量を挙げていた鉱山であったが、銀の価格の低落と生産コストの増大で次第に経営が困難になっていき、その上、1897年(明治30年)の金本位制の復帰によって銀の価格は更に低落し、小坂鉱山は閉山の危機を迎えていた。

久原は当時、組成が複雑であるために精錬が困難で利用されずに放置されていた黒鉱に着目した。後に日立鉱山でも久原を助けることになる竹内維彦を招聘し、黒鉱の精錬法の研究を重ねた結果、1900年(明治33年)黒鉱から銅を精錬することに成功し、小坂鉱山は銀山から日本有数の銅山として蘇った。なお久原房之助のもと、小坂鉱山で働いた人物としては、竹内以外にも後に日立製作所を創立する小平浪平などがおり、多くの有能な人材が日立鉱山の創成期に活躍することになる。

小坂鉱山の再建に成功した久原房之助は、1904年(明治37年)に小坂鉱山から大阪の藤田組本社に戻り、翌1905年(明治38年)3月には父、庄三郎が隠居をしたため久原家の家督を引き継ぎ、藤田組の取締に就任する。しかし叔父である藤田伝三郎と藤田組の後継問題を巡り対立し、もともと独立して事業を興す機会を窺っていた久原は分与金の配分を受けて藤田組を退社することになり、1905年(明治38年)12月10日、正式に退社した。

藤田組で働いている最中から久原房之助は独自の事業展開をもくろみ、国内の鉱物資源について広く調査を行わせていた。そんな久原が目をつけたのが赤沢銅山であった。当時赤沢銅山を経営していた大橋真六と松村清吉、常二の親子は経営難と鉱害問題での周辺住民とのトラブルなどで経営の意欲を失いつつあった。

久原は赤沢銅山の売却希望を聞きつけると、ただちに竹内維彦らを調査のために派遣した。調査の結果、既知の鉱脈以外にも多くの鉱脈の露頭を発見し、推定埋蔵量約100万トンの有望な鉱山であることを予想した。
調査に当たった竹内らは久原房之助に購入を進言し、その結果藤田組を退社した翌日である1905年(明治38年)12月11日、久原は赤沢鉱山を購入した。12月26日には赤沢銅山の名は鉱山の所在地である日立村にちなんで日立鉱山と改められた。竹内維彦らがその将来性を評価して久原房之助に購入を勧めた結果、日立鉱山は久原房之助が所有することになったが、実際の日立鉱山は閉山までに約3000万トンの鉱石を採掘しており、竹内らの予想を遥かに上回る規模の鉱山であった。

創業時の苦心

日立鉱山創業当初、久原房之助が起居した久原本部。現在、日鉱記念館敷地内に移築保存されている。
藤田組から独立して日立鉱山を購入した久原房之助は、まず1906年(明治39年)1月1日に鉱山事務所の規則や勤務心得を作成するなど鉱山の組織を整備し、続いて2月には第一立坑の開鑿を開始し、鉱山附属の診療所を開設した。
続いて9月には里川の水利権を茨城電気会社より取得して、中里発電所の建設を開始するなど矢継ぎ早に鉱山の整備を進めた。
また赤沢鉱山時代に地域住民との間でトラブルになった鉱山近隣の森林伐採問題についても、鉱山事業拡張のための用地確保と建築資材を入手するために森林伐採を行うことを計画した。
久原は住民たちと交渉を積極的に進め、その結果森林の伐採を行う補償として毎年200円を支払うことと、15本の井戸を掘る代金として300円を支出することを条件に保安林の指定解除で合意し、保安林指定を申請した地元住民の名で指定解除の申請が茨城県知事に出され、1906年(明治39年)9月に県より保安林解除の告示がなされた。
このように日立鉱山の創業直後から精力的な鉱山開発が行われていったが、当初、生産は上がらず、その上5月には赤沢銅山以来の従業員が久原の鉱山経営に反発し、同盟罷業を行う事態が発生した。

また藤田組から離れるにあたって久原が受け取ることになった分与金は470万円余りであったが、これは10年分割で支払われることになっていた。久原は赤沢銅山の購入に総計42万円余りを費やしており、創業直後の日立鉱山の経営や積極的な鉱山開発を進めていくためにはどうしても資金の調達が必要になった。

しかし当時の財界は久原のことを重く見ていなかったため、資金調達にも悩まされることになった。小坂鉱山での実績があるといっても、久原はまだ独立して事業を開始したばかりの30代の青年であったわけで、これはやむを得ないところであった。そこで父、庄三郎以来の交流があり、久原房之助のことを高く評価していた長州閥の大物、井上馨の援助を仰ぐことになった。
しかし井上も当初ものになるかどうかわからなかった日立鉱山に対して無条件で援助をするはずがなく、鉱山開発の具体的プランと将来性を証明する具体的な資料を求めてきた。
久原の手によって開発が開始されたばかりの日立鉱山に、井上を納得させることが出来る開発の具体的プランや何といっても将来性を証明する具体的な資料があるわけはなく、久原は自ら採掘現場に出向き、坑夫らとともに採掘に従事して現場から井上が求める具体的な資料を入手しようとも試みたという。

そこで久原はやはり父の代から取引があった鴻池財閥の援助を求めることになった。鴻池は融資について承諾はしたが日立鉱山の経営の参画を強く求め、その結果1906年(明治39年)5月、毛利家の鉱山経営の実績があった神田礼治を日立鉱山の所長として送り込んできた。

しかし積極的に日立鉱山を開発しようとする久原と堅実な開発を志向する神田は激しく対立するようになり、断層によって鉱脈が途切れ、日立鉱山には見込みがないと判断した神田は鉱山開発中止を久原に進言するに至り、結局1907年(明治40年)3月、一年足らずで神田は所長を辞任することになる。また神田とともに日立鉱山にやってきた中堅の技術者たちも全員辞職した。

窮地に陥った久原を救ったのが小坂鉱山で久原のもとで働いた人々であった。第二代所長として久原は小坂時代からの右腕である竹内維彦を任命するなど、多くの人材を小坂鉱山から引き抜いた。
小坂鉱山では職員だけでも40名以上が日立鉱山に移り、「小坂勢」と呼ばれるようになった。社員のみならず多くの優秀な鉱夫も小坂鉱山から日立にやってきたと考えられている。
そして1908年(明治41年)2月、井上馨が日立鉱山の視察に訪れることになった。井上の視察の直前に当時日立鉱山で最も期待をかけていた鉱脈が断層にぶつかり、途切れてしまうというハプニングが起こったが、優秀な鉱夫を2時間交代で24時間体制で採掘に当たらせ、断層の先に鉱脈を再び捉えることに成功した。視察を行った井上は日立鉱山を評価し、井上からの援助は実現することになった。
(資料検索 ウィキぺデア )






日本の黎明 平泉への道
22.蝦夷の強制移住 朝廷側移民と表裏一体
 延暦24(805)年、播磨国の蝦夷(えみし)で蝦夷爵第二等の去(さる)返(がえし)公(のきみ)嶋(しま)子(こ)が浦(うら)上(かみの)臣(おみ)という姓を賜(たまわ)っている。
 また、弘仁5(814)年の条には遠(とおつ)胆沢公(いさわのきみ)母志(もし)が出雲の叛俘(はんふ)、すなわち乱を起こした俘囚(ふしゅう)を討った功績により外(げの)従五位下(じゅごいげ)、元慶4(880)年の条には、近江国の俘囚の遠胆沢公秋雄(あきお)が外従五位下を授けられている。

まとめ担う

 去返公とは、朝廷が猿ケ石川流域の蝦夷の族長に与えたものである。嶋子が公のカバネと蝦夷爵を有していることからすれば、彼は東北では政府側からそれなりに評価されていたのだろうが、やがて反政府的な行動がめだつようになったからなのであろうか、仲間とともに播磨国に移住させられたのである。

 『倭(わ)名(みょう)類(るい)聚(じゅう)抄(しょう)』には播磨国賀茂郡・美嚢(みなき)郡に夷俘(いふ)郷があったことが記されており、彼らが集団居住させられることがあったことがわかる。そして俘囚長が選任され、人々を統括したらしい。嶋子の場合も、播磨国に送られた俘囚集団のまとめ役の役割をになわされていたのであろう。

 遠胆沢公の称号も、胆沢地方、または胆沢よりもなお奥地の蝦夷の族長に与えられたものである。したがって、母志や秋雄も、もともとは岩手県地方の蝦夷の族長の家柄に属する人物なのだが、本人の代なのか、父や祖父の時代のことなのかは明確ではないものの、いつの頃(ころ)かに西日本に強制移住させられているのである。

 蝦夷を各地に強制移住させる政策は、早くから実行されていた。正倉院文書としてたまたま残されている天平10(738)年の駿河国正税(しょうぜい)帳と筑後国正税帳には、陸奥から摂津(せっつ)職(しき)(摂津の国を管掌する役所)まで、および筑後に送られた俘囚115人と62人に関する記録が残されている。
 駿河国正税帳には、陸奥国から摂津(難波の港)まで送られる俘囚115人が駿河国を通過したことが記録されている。この時の俘囚は摂津からは船で瀬戸内海を渡って九州まで行ったのであろう。また、別の例では中央官庁に配属されたり、また高官に与えられて、雑役に従事させられた場合もある。

 朝廷は、城柵を設置して多くの移民を東北に導入する一方で、蝦夷を全国各地に強制移住させる政策も実行したのである。東北地方以外の国々に蝦夷を移住させることは奈良時代以来の政策であった。東北地方への移民と蝦夷の他国への強制移住は表裏一体のものだったのである。

反乱の例も

 『延喜式』には、伊勢・遠江・駿河・甲斐・相摸・武蔵・上総・下総・常陸・近江・美濃・信濃・上野・下野・越前・加賀・越中・越後・佐渡・因幡・伯耆・出雲・播磨・美作・備前・備中・讃岐・伊予・土佐・筑前・筑後・肥前・肥後・豊後・日向という、ほとんど全国の国々で、東北から移住させられた蝦夷に衣服や食料を与えるための予算処置が講じられていることを示す記載がある。

 歴史書には、移住先で朝廷の意にかなう行動をして位を与えられた者がある一方で、農業を嫌って狩猟を好むなど、移住先の生活になじむことができずに逃亡した例も記されている。また、集団で反乱を企て、それ故に再度別の地に移住させられた者もあった。

 反乱の例では、遠胆沢公母志が授位された理由が、出雲での叛俘を討った功績によるものだと明記されており、その乱は出雲国の意宇(おう)郡・出雲郡・神門(かんど)郡の3郡にまたがる大規模なものであった。嘉祥元(848)年には、上総国で俘囚の乱が発生し、貞観17(875)年にも上総国と下野国で、元慶7(883)年にも上総国で大規模な俘囚の乱があったことが記録されている。

 一方で、都の役人と同道して伊賀国名張郡の山中にいた贋金(にせがね)作りや山賊の逮捕にあたった例もある。武力をかわれて、西国の海賊の追捕にあたったり、防人(さきもり)に起用された者さえもあったのである。

 ただし、各地に強制移住させられた蝦夷の子孫がたどった道は、ほとんどわかっていない。

【注】「正税帳」とは諸国で毎年作成した、収入と支出を記入した帳簿。「延喜式」は平安時代前半の状況を示す法令集。
【写真=遠野市郊外を流れる猿ケ石川。「去返公」は、当地方の蝦夷の族長だったとみられる】(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)
(記事検索 岩手日報)


吉美侯部・吉弥侯部


吉美侯部(きみこべ)または吉弥侯部(きみこべ)は服属した蝦夷(俘囚)からなる部民で、出羽国・陸奥国の両国および上野国・下野国などに多く分布する氏の名である。

正倉院所蔵の「陸奥国戸口損益帳」に「君子部阿佐麻呂」「君子部久波自」の名がみられるように本来は「君子部」であったとものとみられるが、757年(天平勝宝9年)3月に「吉美侯部」に改称された。

以後、文献には「吉弥候部」の表記も多く、8世紀後半の陸奥国の人物として吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)、吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)らの名が史料に現れる。

毛野氏がその伴造だったと考えられており、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。
一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある。

吉弥侯部のうち、一部の者は中央に貢進され、朝廷や貴族などに仕えて雑役に従事した。吉美侯部(吉弥侯部)が東北地方以外にも各地に広く分布するのは、律令国家が俘囚を全国に配して内民化をはかったためだと考えられる。

奈良時代後半の吉弥侯横刀(きみこのたち)は近衛府の判官(近衛将監)から上野介へと昇進し、「下毛野朝臣」を賜姓されている。

『新撰姓氏録』では上毛野朝臣と吉美侯部とを同祖としているが、それは疑わしい。しかし、両者がきわめて密接な関係にあったことは疑いなく、それゆえ、そのような伝承がつくられたものと推定される。なお、毛野氏のほかに東北地方に勢力を伸ばした古代氏族には大伴氏や阿部氏、中臣氏があった。丈部(はせつかべ)の人びとが賜姓される場合は阿部氏、大伴部の人びとは大伴氏が多かった。
 
『陸奥話記』には、前九年合戦の際の陣立てにおいて、七陣より成る安倍氏征討軍のうち、第三陣を率いた荒川太郎吉彦秀武(清原武則の甥で娘婿)、第六陣を率いた斑目四郎吉美侯武忠(吉彦秀武の弟)の名がみえ、「吉美侯(吉彦)」の名で大軍を率い、出羽清原氏の姻族として出羽国山北三郡のなかで一定の勢威をほこり、劣勢であった源頼義・義家父子による征服戦争をようやく勝利に導く要因となったなど「地方軍事貴族」と呼んでよい事績が注目される。
(検索ウィキぺデア)



 

呪術と科学(2人のフレイザー)
広島仏教学院 あさのしゅうじ
 右の図をご覧ください。白黒交差した線が渦巻き状に続いているように見えます。しかし、この線を手でなぞってみると、本当はいくつかの正円の組み合わせであることがわかります。(太い白円は私が補助に入れたもの)この図は「フレイザー錯視」と呼ばれるもので心理学者ジェームス・フレイザーによって1908年に提案されたものです。特に錯視の原理を巧みに表した図形のため「錯視の王様」とも評されています。「錯視」とは「視覚による錯覚」で、だまし絵のような見間違いとは原理が全く異なります。フレイザー錯視は、「直角に近い鋭角は、直角として視覚化される」ことによります。視覚の作用で、実際の絵と、脳に写った絵との間にずれが生じているのです。ですから、凝視すればするほど渦巻き状に映るのです。
 
さて、この錯視図が提案されたのと同時期に、活躍した著名な人類学者にジェイムズ・フレイザー(1954–-1941)がいます。先ほどの錯視の提案者フレイザーと同姓同名ですので同一人物のように思えますが、また別の人物です。人類学のフレイザーは、呪術研究の先駆者です。世界各地でみられる信仰、魔術、呪術、慣習などの事例を収集し、十一巻にもわたる著書『金枝篇』を四十年かけて執筆します。
 
彼は呪術を大別して二種類の原理によるとし、それぞれ「模倣呪術」と「感染呪術」と名づけます。模倣呪術とは、似たものは似た結果を呼ぶというものです。例えば、雨乞いの際は、雲に似た煙を用いることで雨という結果を期待します。一方の感染呪術とは、一度接触したものは離れても影響し合うというものです。まじないやのろいでは、対象とする人物の髪や衣服などを用いる場合が多いのが、これにあたります。
 
フレイザーは、このような呪術は、科学と同じ、理性的認識方法に由来する「観念連合」の作用と考え、「疑似科学」と呼びました。因果関係を正確に捉えたものが科学であり、誤って認識したものが呪術であると考えたのです。雲が現れれば、雨が降るという正しい因果関係の認識が科学であり、雲に似た煙を用いることによって雨を期待するという誤った理解が呪術と考えました。このことは、後に研究者の間で議論を呼び、大いに批判されていきますが、呪術を類型化して研究した彼の功績は高く評価されています。
 
さて、フレイザーは、呪術と科学は正誤の違いはあるにせよ、同じ認識方法、観念連合の作用と考えました。一方宗教については、全く異なる理解をしています。彼は宗教を「自然および人間生活を左右し支配すると信じられている、人間以上の力に対する宥和(ゆうわ)・慰撫(いぶ)である」と定義します。科学や呪術が、自然や事物の因果関係の人間の理解という範疇に収まるのに対し、宗教は、それを超えた力に対する人間の態度と位置付けたのです。
 
さらに宗教と呪術を次のように区別します。宗教は超自然的力に対し人格的に捉える傾向があり、人間の願いや請求に応ずることを期待するものであるが、呪術はその対象を非人格的、非意識的力として、力を取り込もうとする立場であるとしました。さらに、宗教は対象としての力を人間以上のものと認め崇め、その前にへりくだるという態度をとるが、呪術は、非人格的な力を、道具や動物のように自分が操作しようとする姿勢をとると区分しました。
 
また、その歴史的起源にも言及し、太古の人類は呪術のみによって生活を営んでいたが、やがて呪術儀礼の無効性に気づき、雨乞いをしたからといって雨を降らすことができない自己の無力を自覚します。そして自己の無力、無知を知った人間は、自分以上の力の前に頭を垂れて随順するに至る。呪術の時代から宗教の時代へと移行したと考えました。
 
さて、フレイザーがこのような学説をとなえていた頃、冒頭でふれた「錯視」は人間の視覚能力の欠陥と捉えられていました。実際の絵と、まぶたに投影される映像との差は「誤作動」だと考えられたのです。時を経た現代、最新の医学をもってしても錯視のメカニズムのすべては、まだ解明されていません。そうした中、人間科学の視点から、錯視は欠陥ではなく、むしろ人に備わった「特性」として受け止められています。必要な事柄に焦点を当て把握するためのもの、とした理解です。
 
このように近代科学の発展の中、合理的でないものは、ひとたび「誤り」と受け止められました。これはフレイザーが指摘した「呪術」的な事柄にとどまらず、宗教的な営みとしての「信仰」「神話」「儀礼」さえもその対象とされました。
 
それが今、社会や人間を対象とした分野で、見直されています。人は機械的、ただ合理的にのみ生きるのではありません。不条理とも思える世界や社会の中で、様々な感情を抱えて生きています。理性の上に成り立つ科学ですが、また理性があるからこそ、人間は宗教的な営みを持つのです。
 
人間の姿、社会の姿を、凝視すればするほどに、宗教的な営みがみえてきます。それは、まるで「錯視」のようです。「何のために生きるのか」「死んだらどうなるのか」こうした問いを理性的な人間は持たざるをえません。その問いを求めれば求めるほどに、人間、社会、自然を超えるものの姿が、自ずとあらわれてくるのでしょう。
 
人間の営みには、必ず宗教的な営みが付随しています。信仰、儀礼、神話などの宗教の諸要素、それはそのまま、もっとも人間的な要素であり、芸術や音楽などあらゆる文化の底に共通してある。人間科学の立場からそのように考えることができるのです。
 
(あさのしゅうじ 広島仏教学院講師・万福寺副住職)

坂東千年王国論 より
はじめ大和朝廷は各地に軍団を組織した。21歳から60歳までの男子の内三分の一を徴集し、交代で軍団に集めて二ヶ月ほど兵士として訓練の後、色々な勤労奉仕や各地の警備にあてた。
北九州に派遣された過酷な防人は、東国から徴発された軍団であった。国の軍団にもかかわらず個人の武装や食糧は自弁で、人を雇って身代わりを出したり、位や身分のあるものは兵役免除にするといった不公平や負担が多く、兵士の質が落ちて評判が悪く、律令制度の中で一番早く崩れたといわれる。

 延暦11年(792)に政府は軍団制の兵士を全廃して、多少は質の良いと思われる名家の郡司から、その子弟を集めて健児の制度に切り替えた。しかし結果は軍団制と似たり寄ったりで、有名無実と化した。 

 そこで現れるのが軍事貴族と歴史学で呼ばれる、軍事に精通した貴族が組織する雇兵集団である。この集団が後に「武士」へ成長するが、それには紆余曲折がある。

国造から国司へ
 
 大和朝廷が出来る以前、各地方は国毎の国造によって支配・統治されていた。大和の律令政府は各地の国造を廃止して、中央から派遣する国司による支配に切り替えた。その結果、それまで国造だった者はその国を幾つかに分割した一つの郡司になるか、それが不満なら、それまで国造の氏神だった神社の神主になる他なかった。
 武蔵国の場合でいえば、秩父国をいれて二十一郡に分割されたから、単純計算すると二十分の一にその支配領域を縮小されたことになる。武蔵国造から足立郡司におとされたものがそれであった。 

 中央から赴任してくる国司は国造のように恒久的・世襲的なものではなく、数年の任期で次々に替わる。国造の詰める国衙には、各郡司たちが判官代と呼ばれる在庁官人として務めており、任地に下向しない国司もいるから、郡司たちは支配領域を縮小されたとはいえ、実質的な力を持っていた。 
 国司は数年間の任期にもかかわらず、その土地の実力者である郡司の子女を現地妻とし、郡司はその縁で中央官人との繋がりを得ようとした。郡司にしてみれば、中央と繋がることによって現地支配が容易になるからである。

 先にあげた武蔵国造からおとされた足立郡司の場合は、武蔵介として赴任した菅原正好を娘の婿として迎え入れたらしく、生まれた子供は菅原朝臣を名乗ったまま氷川神社の社務司を継ぎ、さらにその子が足立郡司となった。菅原氏の元は土師で出雲族の支流だから、氷川神社に出雲神を祭ってきた足立郡司家としては受入やすかったのかもしれない。
 
 武蔵国造家系図

在地豪族たちの実力
 中央から辺境の遠国坂東とはいえ、名家の郡司たちばかりでなく、巷にも実力者たちが偏在していた。 

 奈良東大寺の大仏建立に際し、相模国(神奈川県)の漆部伊波は商布二万端を寄進して、天平20年 (748)に外従五位下の位を授かり、その20年後に相模宿禰の賜姓と相模国造に任じられた。坂東は古代布の最大の生産地であったが、漆部が寄進した商布2万端は相模一国が交易雑物として納める商布の3年分に匹敵した。

 それから百年ほど後の承和8年(842)武蔵国男衾郡榎津郷の郡司を務めたことのある壬生吉志福正は、2人の息子の終身にわたる税を前納したいと願い出て許可されている。そればかりでなく、この数年前に不審火で焼けたままになっていた武蔵国分寺の七重塔を、私費で再建したいと申し出て許可された。男衾郡は埼玉県の寄居町・川本町・江南町のあたりとされ、榎津郷のあった江南町の寺内廃寺跡から武蔵国分寺に使われたのと同じ窯の瓦が出土しており、壬生氏の氏寺と推定されている。

 ところが、こういう奇特な者たちばかりではなかった。武蔵国入間郡では武蔵国造に系譜する物部氏と大伴氏が勢力を争っていたらしい。
物部直広成は都の藤原仲麻呂追討の戦功で神護景雲2年(768)に入間宿禰を賜姓した。おそらく入間郡司になったのであったろう。翌年、入間郡の正倉四倉が焼けた。各地で正倉が焼かれ、多くは神火として始末されている。
中には空の正倉に放火して、中身が焼けたように見せかけ、隠匿して私腹を肥す郡司もいた。同じ年、入間郡の大伴赤男は奈良の西大寺に対し、商布千五百段はじめ稲や田・林など莫大な献上をして話題となり、叙位は当然と思われたが、生前にはなく、九年後の死に際して外従五位下が追贈されたに過ぎなかった。正倉が焼けたのは大伴赤男が郡司を追い落とすための放火ではないかと疑われたらしい。
 
群盗山に満る
 
 在地の実力者である郡司などの子女を現地妻とした国司の多くは、数年間の任期がおわると次の役目や他国の国司として転出して行くが、中にはその土地に居着いてしまう者もいる。国司を何期か務めると、一生の貯えが出来るといわれたほどでの役得があった。その財と実力をもって土地に居着く者、また郡司などの家に入り婿した者も少なくないであろう。そんな中には盗賊になる者までいた。

 延喜19年(919)前の武蔵権介源仕は任期が満ちても帰京しようとせず、任地に根拠地を築いて土着しようとしたらしい。源仕の子の源充は箕田源次を名乗り、数10騎を率いて秩父平氏流の村岡五郎と一騎打ちを戦ったと 今昔物語 にある。箕田の地は港区三田説と箕田郷のあった埼玉県鴻巣市箕田の箕田八幡説がある。村岡五郎平良文の地は埼玉県熊谷市南部の村岡説があり、箕田郷と隣接しているから、後の説が有力と思われる。父の源仕は後任の武蔵守高向利春が赴任してくると、官物を運び取り、官舎を燃やし、国府を襲って高向利春を攻めたという。

 源仕は嵯峨天皇の御子50人の中から、一挙に35人を臣籍降下させた内の融の孫にあたり、嵯峨源氏の一人である。融は従一位左大臣、子の昇は正三位大納言、その嫡男適は従五位下内蔵頭と、皇胤の余光に浴したが、次男の仕は中央での任官を断念して、地方に新天地を求めたらしい。藤原氏が官職を独占しはじめたころである。それも国司の次官で定員外の権介であった。任期が満了したとき不満が爆発して、後任の国司を襲ったのかもしれない。

 9世紀後半、坂東は騒然としていた。相次いで蜂起する上総に配置された俘囚たちの叛乱に加えて、各地で群盗が横行する。寛平から昌泰期(889~901)の10年間、東国強盗の首領といわれた物部氏永が蜂起が伝えられている。さらに、雇い馬を使って活動する坂東の運送業者の集団は、群党をなして村々を襲い、東海道の馬を奪っては東山道に使い、東山道で奪った馬を東海道に回すという凶賊集団でもあった。

 既に貞観三年(861)武蔵国に21郡ある各郡ごとに検非違使を一人づつ置いた。「凶猾党を成し、群盗山に満る」というのがその理由であった。昌泰2年(889)には坂東の境、足柄と碓井の峠に関門が設けられた。
 群盗は一見、浮浪の山賊のごときだが、この群盗は「坂東諸国の富豪の輩」というから、土着した国司、富豪の郡司や私営田領主となった豪族たちに他ならなかった。そしてこの群盗を鎮圧し、治安維持のために動員されたのも、健児制を補うために投入された俘囚と同様、雇われた富豪の輩であった。
  
将門の叛乱

 寛平元年(888)垣武天皇の曾孫にあたり、坂東平氏の元祖になる高望王が上総国へ赴任した。上総・常陸・上野の三国は天長3年(826)以来、国守に親王任国制が敷かれていた。東北蝦夷に対する最前線基地の国として、また群盗や俘囚の反乱蜂起に対して、王胤を配して王威による支配を狙ったのであろう。高望王の子等は次々に常陸大掾(国司の守・介に次ぐ三席)・下総介・鎮守府将軍に就任している。先に触れた嵯峨源氏の入植にも、そうした期待があったのかもしれない。

 ところが、高望王の孫で無位無官の平将門が常陸国衙を襲撃して、国家に対して歴然たる反逆を起こした。天慶2年(939)11月21日、平将門は常陸国府で常陸守藤原維幾の国軍と衝突して合戦となり、1000人の将門軍が3000人の国軍を破り、国府に放火して国家に対する歴然たる反乱に踏み切った。

 将門の乱はこれに先立つこと、8年前の延長九年(931)の坂東平氏の内紛による私闘に始まるといわれる。

 将門の父良持の兄弟で叔父にあたる者に、常陸大掾平国香、下総介平良兼、平良正それに平良文がいた。将門と娘の結婚に反対した良兼とのトラブルが内紛の遠因とされる。後に叔父たちと戦闘した際、娘は連れ戻されているくらいだから、よほど反対されていた。

 それから数年後、私闘は本格的になる。
 常陸国筑波山の西麓に前の常陸大掾源護が土着して、広大な私営田を有する勢力を持っていた。その一字名の護から、武蔵国府を襲った前武蔵権介源仕と同様の嵯峨源氏とみなされている。この源護の領地と接する平真樹は、境界争いらしき紛争が生じ、調停を下総の将門に依頼してきた。将門は調停のために常陸の源護の館に向かおうとして、国境を越えたあたりで護の子の扶らに待ち伏せの不意打ちをくらって応戦、扶・隆・繁の三兄弟を討死にさせ、護の館など焼き払ってしまった。しかも、そのとき護の石田館にいた将門の叔父の常陸大掾平国香まで、巻き添えで死亡させた。 

 叔父の国香が源護の館にいたのは、護の娘と結婚していたことによる。良兼・良正も同様に護の娘を妻としていた。彼ら平氏の三兄弟は源護の娘と結婚して、婿入りしたか、通っていたのである。そこは嵯峨源氏護の領地であり、館の所在地であった。
 
 安易な通説
 通説では平氏の三兄弟はむろんのこと、良持・将門父子の領地も含めて、高望王からの伝領地とする。だから、将門謀反の前哨戦は平氏の内紛として解釈されている。

 高望王が上総国へ国司として赴任したことは確実としても、土着した証拠は何もない。仮に高望王が土着したとしても、上総介の高望王が支配権のおよばない常陸国や下総国へ居着くのは無理というものである。安易な通説はこれに気づいていない。

 常陸国筑波山西麓は前の常陸大掾源護の私営田領であった。平国香は源護の娘と結婚して石田(茨城県明野町東石田)の館に入り婿して、舅の護の常陸大掾職を継いだのであろう。国香の子で将門の宿敵になる平貞盛は石田館で生まれている。
 下総介平良兼は現職だから下総国府の近くに館があったはずだが、常陸の服織(茨城県真壁町羽鳥)館の妻のもとに通っていて、襲ってきた将門に館を焼き払われた。良正の営所も筑波郡水守にあったが、これも源護の館であったろう。

 つまり彼ら平氏の三兄弟は嵯峨源氏護の一族として、将門を敵にまして戦ったのであり、一概に平氏の内紛とはいえないのである。因みに三兄弟の末に村岡五郎良文がいたが、既に触れたように埼玉県熊谷市南部におり、将門の乱には無関係であった。源護の娘と婚姻関係を結んだ平氏三兄弟だけが将門と敵対したのである。
 
 坂東平氏系図

将門の母胎
将門の父の平良持(将)は従五位下陸奥鎮守府将軍であった。陸奥国を支配・開拓する軍政府長官である。良持は常陸国に勝楽寺を建立しているが、将門のいた下総国に関わった形跡はない。そこにあるのは県犬養春枝の女子を妻として、将門らが生まれたということだけである。現在は茨城県の取手市寺田、かつては下総国であり寺原村寺田で、ここを地盤とした犬養氏の女を母として将門は生まれた。
『将門記』によると将門は下総の猿島郡石井(茨城県岩井市岩井)と豊田郡鎌輪(茨城県千代川町鎌庭) に館を持って根を張っているが、母方から継承したものであろう。

 つまり、将門反乱の前哨戦は、平氏の内紛というものではなく、常陸の嵯峨源氏と下総の犬養氏の戦いだった。将門と平氏の三兄弟は共に父系を平氏にもっていたが、その根拠とする母族は異なっていたのである。

 源氏も平氏も皇胤であったが、将門が母胎とする犬養氏は、古代にあっては数ある部族の一つに過ぎなかった。飼い犬を使う狩猟や鉱山の発見を生業とし、また番犬を連れて屯倉や宮城門の守衛でしかない。こうした各地の犬養氏を中央で束ねた伴造の県犬養宿禰氏から橘三千代を出した。藤原不比等の妻として安宿媛を聖武天皇の妃にいれて隆盛を極めたが、前夫の子の橘奈良麻呂の変などで失脚した。少なからず藤原氏と縁のあった一族である。

下総の県犬養氏が中央の県犬養宿禰氏に直接の関わりがあろうはずもないが、将門が若いときから中央で仕えた相手は、時の太政大臣摂政の藤原忠平であった。謀反を告訴されると、その経緯を書状で伝えた相手も忠平である。将門がどういう伝手で忠平に仕えるようになったのか、興味深い。故事付けて憶測してみれば、県犬養宿禰氏と藤原氏の関係ではなかったのか。

いずれにしても将門は平氏の一門である前に、県犬養氏の一党を率いる豪族であった。

因みに将門が叛乱に蜂起した猿島郡は、かつての下毛野国であり、紀伊国の豊城入日子命の孫彦狭島命の名による利根川の東側に位置し、坂東の境界の利根川を越えて武蔵国のトラブルに関わったことが、叛乱の切っ掛けになった。
 
  そこで当面の問題として、将門の叛乱以後、その「遺産」の行方である。
 
武蔵野開発の父
 将門の乱から90年後、房総半島三国に平忠常の乱が起きた。将門が根拠としたのは下野国内の猿島・豊田郡といった郡単位のものであったが、忠常は上総・下総国にまたがる国単位の広大な地域の領主であった。しかし、将門は叛乱によって坂東八ケ国を支配したが、忠常にはそうした意志や兆候はみられない。それにもかかわらず、忠常の乱は3年間におよび、坂東を亡国と化した。

 平忠常は将門の叔父の良文の孫にあたる。良文は同じ坂東平氏でありながら、将門の乱に無関係であったとするのは乱の全容を伝える『将門記』である。ところが、平忠常の子孫の千葉氏関係の系図や伝承では、良文は将門の養子であったり、その逆であったりする。また、良文の子の忠頼は将門の娘を母として生まれたとする系図もある。
 つまり反逆者将門をして自族の先祖に位置づけているのである。そればかりでなく、良文は将門と共に平国香と戦ったり、逆に良文と将門が対陣したりと、文献によって良文の立場は異なるが、将門の乱に参戦したとしている。
 千葉氏関係の手によって編まれたのではないかとされる『源平闘諍録』冒頭の系譜には、良文の三男忠光は将門の乱によって常陸国信太の嶋へ配流されたという。

 ところで『将門記』によると、将門は上野国府で親皇を称し、坂東諸国の国司を任命したが、その中で武蔵国が欠落している。
上総介に任命された興世王は乱以前の武蔵権守のまま将門の元へ転がり込んでいるから、これが兼任したという苦しい解釈もあるが、実は良文が武蔵守に任命されたのではないか。
 こういう憶測は次のような理由から生まれる。その情報の詳細さから『将門記』は将門の地元に関わり深い寺僧の手になるとされており、乱後の間もない時期に編まれたとすれば、将門の遺領を継いだ良文を将門の乱の共謀者とは書けなかったのではないか。
 
さらに想像を逞しくすれば、次のような事も考えられる。将門の乱は嵯峨源氏一党との私闘に始まった。良文も嵯峨源氏と見なせる蓑田源次の源充と一騎打ちをしたという『今昔物語集』の説話を先にあげたが、晩年の充は武蔵国を引き払って摂津国へ移り、淀川河口に海賊渡辺党を組織した。将門と良文は縁組みを結んで共に嵯峨源氏と戦い、蓑田源次充を武蔵国から追い出したのではないか。そして乱後、良文は将門の遺領を相続した。

 またの名を村岡五郎と呼ばれる良文の居住地の候補は、先に挙げた熊谷市と港区三田の他に、相模国(神奈川県藤沢市)と茨城県結城郡千代川村村岡説がある。藤沢の村岡説は良文の子の忠道が村岡平太夫と呼ばれて、鎌倉権五郎や大庭・梶原氏など鎌倉党の祖とされたことによろう。一方の千代川町村岡の地は将門遺領で館のあった豊田郡鎌輪の側にある。良文の子孫はここを基点として房総半島へ領地を拡大していったのであろう。

 いずれにしても平良文はおそらく始めは武蔵国の熊谷市村岡にいた。在地の豪族の家に生まれたか、入り婿して、その後、下野国の将門遺領を継いだのは子の忠頼であろう。武蔵国は忠頼の子の将常の子孫が荒川に沿って進出し、同じ忠頼の子の胤宗の子孫は武蔵七党の野与・村山党となった。また、良文の子の忠光・忠道の子孫は鎌倉から三浦半島へひろがった。この村岡五郎平良文をもって後世「武蔵野開発の父」と呼ばれている。
 
 坂東千年王国論 第三章   将門叛乱前後(終)
 
 ~坂東千年王国論~


 

国衙軍制
国衙軍制(こくが ぐんせい)とは、日本の古代末期から中世初頭にかけて(10世紀 - 12世紀)成立した国家軍事制度を指す歴史概念。律令国家が王朝国家へと変質し、朝廷から地方行政(国衙・受領)へ行政権を委任する過程で成立したとされる。また国衙軍制は、軍事貴族および武士の発生と密接に関係していると考えられている。

古代日本の律令国家は、軍事制度として軍団兵士制を採用していた。軍団兵士制は、戸籍に登録された正丁(成年男子)3人に1人を徴発し、1国単位で約1000人規模の軍団を編成する制度であるが、これは7世紀後葉から8世紀前葉にかけての日本が、外国(唐・新羅)の脅威に対抗するため構築したものだった。
しかし8世紀後葉、対新羅外交政策を転換したことに伴い、対外防衛・侵攻のための軍団兵士制も大幅に縮小されることとなった。そのため、軍団兵士制を支えてきた戸籍制度を維持する必要性も低下していき、9世紀初頭以降、律令制の基盤となっていた戸籍を通じた個別人身支配が急速に形骸化していった。

律令制の個別人身支配が弛緩していくと、在地社会の階層分化が進み、百姓の中から私出挙・私営田活動を通じて富を蓄積した富豪層が成長し始めた。
地方行政にあたる国司は、郡司・富豪層に着目し、従来の個別人身支配の代わりに郡司・富豪層の在地経営を通じた支配へと転換していった。国司は調庸・封物を中央の朝廷へ運搬進納する義務を負っていたが、国司はその運搬進納を担う綱領に郡司・富豪層を任じるようになった。調庸・封物の損失や未進が発生した場合は、郡司・富豪が私的に補償する義務を負わされた。

9世紀中葉ごろから、郡司・富豪層が運搬する進納物資を略奪する群盗海賊の横行が目立ち始めた。群盗海賊の実態は、実は郡司・富豪層であった。国司は実績をあげるため、郡司・富豪層へ過度な要求を課することが多くあり、これに対する郡司・富豪層らの抵抗が群盗海賊という形態で現出したのである。略奪した物資は、補償すべき損失や未進に充てられたり、自らの富として蓄積されたりした。群盗海賊の頻発に対し、朝廷と国司は、ほとんど形骸化した軍団兵士制では満足のいく対応ができなかったため、別の鎮圧方策をとる必要に迫られていた。

9世紀中葉における朝廷・国司は、群盗海賊の制圧のために養老律令の捕亡令(ほもうりょう)追捕罪人条にある臨時発兵規定により対応し始めた。臨時発兵とは、群盗海賊の発生に際し、国司からの奏上に応じて「発兵勅符」を国司へ交付し、国司は勅符に基づき国内の兵を発して群盗海賊を制圧する方式を指し、長らく適用されることはなかったが、群盗海賊の横行に直面してこの方式が採用されることとなった。

俘囚
臨時発兵規定で想定されていた兵とは、軍団兵士や健児ではなく、百姓のうち弓馬に通じた者であった。弓馬に通じた百姓とはすなわち、郡司・富豪層であり、帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる 俘囚であった。

臨時発兵規定の適用により、郡司・富豪層と俘囚が国内の軍事力として新たに編成されることとなったのである。特に俘囚が有していた高い戦闘技術は、新たに形成されようとしている軍制に強い影響を与えた。
俘囚は騎馬戦術に優れており、騎乗で使用する白刃である蕨手刀は後の日本刀へとつながる毛抜形太刀の原型となっている。
883年(元慶7)に上総国で勃発した俘囚の武装蜂起(上総俘囚の乱)に際し、朝廷は発兵勅符ではなく、「追捕官符」を「上総国司」へ交付した。
追捕官符とは、同じく捕亡令に基づくもので、逃亡した者を追捕することを命ずる太政官符である。この事件を契機として、以後、追捕官符を根拠として、国司は追捕のため国内の人夫を動員する権限を獲得することとなり、積極的に群盗海賊の鎮圧に乗り出すようになった。そして、国司の中から、専任で群盗海賊の追捕にあたる者が登場した。これは、後の追捕使・押領使・警固使の祖形であるとされている。

以上のようにして、国衙軍制の原型が形成されていった。

9世紀末から10世紀初頭にかけての寛平・延喜期になると、抜本的な国政改革が展開した。調庸・封物を富豪層が京進することにより、院宮王臣家(皇族・有力貴族)は富豪層と結びつき、自らの収入たる封物の確保を図った。富豪層も自らの私営田を院宮王臣家へ寄進して荘園とし、国衙への納税回避を図っていった。

かかる危機に直面した国衙行政と中央財政を再建させるために、院宮王臣家と富豪層の関係を断ち切るとともに、国司へ大幅な支配権限を委譲する改革が行われたのである。
これにより成立した支配体制を王朝国家体制という。
王朝国家体制への移行により、富豪層による調庸・封物の京進は廃され、国司(受領)による租税進納が行われるようになった。
その結果、調庸・封物京進を狙っていた群盗海賊は沈静化することとなった。また、受領への権限集中が行われ、国衙機構内部は受領直属部署(「所」という)を中心とするよう再編成された。郡司・富豪層は、土地耕作を経営し納税を請け負う田堵負名として国衙支配に組み込まれ、また、各「所」に配属されて在庁官人として国衙行政の一翼を担うようになった。
上記の国政改革と並行して、東国では寛平・延喜東国の乱が発生していた。これに対し、朝廷は追捕官符を国衙へ発給し、さらに各国へ国押領使を配置する対策をとった。
追捕官符は発兵などの裁量権を受領に与えるものであり、受領は国内の田堵負名層を兵として動員するとともに、国押領使へ指揮権を与えて実際の追捕にあたらせた。
このように、寛平・延喜東国の乱の鎮圧過程を通じて新たな国家軍制である国衙軍制が、まず東国において成立した。この軍制は、追捕官符を兵力動員の法的根拠とし、兵力動員権を得た受領から国押領使へ指揮権が委任され、国押領使が国内兵力を軍事編成して追捕活動にあたる、というシステムである。
そして、同乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」こそが最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。

一方、西国では承平年間(930年代)に瀬戸内海で海賊行為が頻発し(「承平南海賊」)、936年(承平6)、追捕南海道使に任命された紀淑人とその配下の藤原純友らによる説得が功を奏し、海賊が投降した。

海賊らの実態は富豪層であり、彼らは従前から衛府舎人の地位を得ていた。衛府舎人は大粮米徴収権の既得権を有していたが、朝廷は延喜年間(900年代)に相次いで衛府舎人の既得権を剥奪する政策を打ち出した。
この延喜期の既得権剥奪によって経済基盤を失おうとしている瀬戸内沿岸の衛府舎人らは、自らの権益を主張し続けていたが、承平期に至ってついに海賊行為を展開することとなった。
そして彼らを説得し、田堵負名として国衙支配に組み込んだ功労者が実は藤原純友であった。海賊鎮圧の過程で、純友を含め、瀬戸内海諸国には海賊対応のための警固使が設置された。
この西国の警固使は東国の押領使・追捕使に該当する。追捕官符によって兵力動員権を得た受領のもと、警固使に任じられた者は国内の郡司・富豪層を軍事的に編成し、有事に際しては指揮権を行使した。ここに、西国においても東国と同様の国衙軍制が成立したのである。

9世紀末から10世紀初頭にかけての寛平・延喜期になると、抜本的な国政改革が展開した。調庸・封物を富豪層が京進することにより、院宮王臣家(皇族・有力貴族)は富豪層と結びつき、自らの収入たる封物の確保を図った。
富豪層も自らの私営田を院宮王臣家へ寄進して荘園とし、国衙への納税回避を図っていった。かかる危機に直面した国衙行政と中央財政を再建させるために、院宮王臣家と富豪層の関係を断ち切るとともに、国司へ大幅な支配権限を委譲する改革が行われたのである。これにより成立した支配体制を王朝国家体制という。

王朝国家体制への移行により、富豪層による調庸・封物の京進は廃され、国司(受領)による租税進納が行われるようになった。その結果、調庸・封物京進を狙っていた群盗海賊は沈静化することとなった。
また、受領への権限集中が行われ、国衙機構内部は受領直属部署(「所」という)を中心とするよう再編成された。郡司・富豪層は、土地耕作を経営し納税を請け負う田堵負名として国衙支配に組み込まれ、また、各「所」に配属されて在庁官人として国衙行政の一翼を担うようになった。

上記の国政改革と並行して、東国では寛平・延喜東国の乱が発生していた。これに対し、朝廷は追捕官符を国衙へ発給し、さらに各国へ国押領使を配置する対策をとった。
追捕官符は発兵などの裁量権を受領に与えるものであり、受領は国内の田堵負名層を兵として動員するとともに、国押領使へ指揮権を与えて実際の追捕にあたらせた。

このように、寛平・延喜東国の乱の鎮圧過程を通じて新たな国家軍制である国衙軍制が、まず東国において成立した。この軍制は、追捕官符を兵力動員の法的根拠とし、兵力動員権を得た受領から国押領使へ指揮権が委任され、国押領使が国内兵力を軍事編成して追捕活動にあたる、というシステムである。

そして、同乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」こそが最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。

一方、西国では承平年間(930年代)に瀬戸内海で海賊行為が頻発し(「承平南海賊」)、936年(承平6)、追捕南海道使に任命された紀淑人とその配下の藤原純友らによる説得が功を奏し、海賊が投降した。
海賊らの実態は富豪層であり、彼らは従前から衛府舎人の地位を得ていた。衛府舎人は大粮米徴収権の既得権を有していたが、朝廷は延喜年間(900年代)に相次いで衛府舎人の既得権を剥奪する政策を打ち出した。
この延喜期の既得権剥奪によって経済基盤を失おうとしている瀬戸内沿岸の衛府舎人らは、自らの権益を主張し続けていたが、承平期に至ってついに海賊行為を展開することとなった。
そして彼らを説得し、田堵負名として国衙支配に組み込んだ功労者が実は藤原純友であった。
海賊鎮圧の過程で、純友を含め、瀬戸内海諸国には海賊対応のための警固使が設置された。この西国の警固使は東国の押領使・追捕使に該当する。追捕官符によって兵力動員権を得た受領のもと、警固使に任じられた者は国内の郡司・富豪層を軍事的に編成し、有事に際しては指揮権を行使した。ここに、西国においても東国と同様の国衙軍制が成立したのである。

11世紀中葉に、王朝国家体制の変革が行われた。1040年代を画期として、それ以前を前期王朝国家、以降を後期王朝国家と区分する考えがある。
この考えによると、後期王朝国家は全国的な租税賦課(一国平均役など)を契機として成立した。それまでは、受領の権限のもとで地方行政が展開しており、郡司・富豪層らが開発してきた荘園も国衙の承認によって存立していた(国免荘)。
しかし、内裏の焼亡などを契機とした臨時措置として全国的な租税賦課が実施されると、荘園側は、国衙でなく中央の太政官へ免税の申請を行うようになった。
免税特権を獲得した荘園は領域が統合される一円化の措置などを通じて拡大する傾向を示し、国衙が支配する公領を蚕食し始めた。ここに至り、田堵負名層らによる対受領闘争(「凶党」行為)はほとんど見られなくなり、代わって荘園と公領間の相論・武力紛争が頻発し始めた。

国衙軍制は凶党の追捕を対象としていたが、荘園・公領間の紛争において、荘園側は凶党には当たらないこととされたため、国衙軍制をもって荘園・公領間紛争を制圧することはできなかった。
そこで受領は荘園への対抗手段として、主に軍事的に対応能力を有する武士身分の田堵負名に公領の経営と治安維持を委任することで、公領の維持を図ったのである。
その際、国内の武士身分の田堵負名のうち、同一の郡に基盤を持つ者同士が互いに競合しあったため、従来郡の下にあった郷などの領域を郡と同等の国衙統治下の単位に引き上げる措置がとられ、競合する武士が対等な地位を得られるように、それぞれの経営責任者に任ぜられたと考えられている。

こうして公領は郡・郷・保などの単位に再編成され、武士たちは、郡司・郷司・保司として郡・郷・保、の経営と治安維持を受け持つこととなった。
彼ら武士は、受領から委任された徴税権・検断権・勧農権などを根拠として、在地領主へと成長していった。さらに言えば、武士身分の田堵負名は、自らの私営田を権門勢家(皇室・有力貴族・有力寺社)へ寄進して荘園とするとともに、荘官に任じられてもいた。

つまり、彼らは一方では国衙側の郡司・郷司として国衙領の維持にあたり、一方では荘園側の荘官として荘園拡大を図っていたのである。

こうして武士の在地領主化が進行していった。在地領主化した武士は、在庁官人となって国衙行政に参画する一方で、婚姻関係を通じて党を組み、武士団と呼ばれる結合関係を構築していった。
一国に1人置かれる国追捕使または国押領使は、次第に特定の家系が世襲するようになり、こうした累代の国追捕使は国内武士の指導者、つまり「一国棟梁」として国内武士を組織化した。

11世紀中葉の後期王朝国家の成立以来、国衙軍制は機能停止してしまった。国内武士は受領の動員命令ではなく、追捕使の地位を持つ「一国棟梁」の指揮に従うようになっていた。
1030年(長元3)の平忠常の乱に際して追討使に任じられた源頼信がすぐに忠常を帰服させると、朝廷は国衙軍制に代わる軍事制度として追討使方式を多用し始めた。軍事貴族である源頼信は、追討の成功により多くの板東武士と主従関係を結び、最初の「武家の棟梁」と呼びうる存在となった。
有事の際にはこうした「武家の棟梁」が追討使に補任され、主従関係を結んでいる「一国棟梁」以下の武士を動員し、軍事活動を展開したのである。

12世紀末の治承・寿永の乱(源平合戦)を経て、初期鎌倉幕府政権は、国追捕使の権限を継承した惣追捕使を各国に設置することについて、朝廷から承認を得た。惣追捕使は、国内武士を統率する役割を担っており、これは国衙軍制の枠組みを導入したものと評価できる。惣追捕使はその後、守護制度へと発展していった。

かつて、古代的な貴族統治体制を打破したのは武装農民層に由来する武士であるとする説が有力とされていたが、1960年代に戸田芳実や石井進らによる国衙機構に関する研究が進展すると、武士の起源=武装農民説はもはや成立し得なくなった。
国衙軍制の可能性を指摘し、それが武士の起源に関係することを論じたものには、石井進『中世成立期軍制研究の一視点』(「史学雑誌」78編12号所載、1969年)や戸田芳実『国衙軍制の形成過程』(「中世の権力と民衆」所載、創元社、1970年)などがある。

その後、武士の起源に関する研究は、職能論などが議論の中心となり、国衙軍制論は半ば忘れられた状態となったが、1970年代末から1980年代にかけて下向井龍彦らによる研究・問題提起が積極的に進められた。下向井らの議論は、武士の成立を王朝国家論・荘園公領制論などと整合的・有機的に結びつけるものであり、21世紀初頭において、武士成立に関する最も有力な説の一つに位置づけられている。
(資料検索ウィキぺデア 2015/8/16)




参考資料 http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/






ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー
歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。 
生まれ: ドイツ ライプツィヒ
1813年5月22日-1883年2月13日, イタリア ヴェネツィア
ウィキペディア

ヒトラーの予言 第2章
■第2章:「ニーベルンゲン復讐騎士団」
http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/hitler/hitler02.html

「ニーベルンゲン」とは、古代ゲルマンの恐ろしい伝説の名だ。それを生んだ南ドイツのシュバルツバルト(黒い森)、そこを支配していた神話的な一族の名前でもあった。彼らは族長ニーベルング、不死身の若い英雄ジークフリートを中心に、人類の未来を救う力を持つという正体不明の「宝」を守って、深い森の中で暮らしていた。

ところが、あるとき、人類から未来を奪うため、ブルゴンドという魔族が森に侵入してきた。彼らは裏切者をそそのかし、魔族の毒矢でジークフリートの背中の1点を射させた。そこだけが、不死身の英雄ジークフリートの、たった1つのウィークポイントだった。不死の泉で産湯をつかったとき、そこにだけ、小さな木の葉が落ちてくっついたからだ(一説では、退治した竜の不死の返り血を全身に浴びたとき、背中の1点だけ残った)。そこを射ぬかれた彼は、苦しんで死ぬ。魔族は森の奥の館を襲って「宝」を奪い、ニーベルンゲン一族の大半も魔族の猛毒で悶死する。

だが、かろうじて生き残った彼の17歳の若妻クリームヒルトは、やはり少数だけ残った「ニーベルンゲン騎士団」の若者たちと、たがいの胸を剣で傷つけ、血をすすり合って復讐を誓う。そのため彼女は、「日の昇る東方のアジア王」の前に美しい裸身を投げ出し、ひきかえに協力の密約をとりつけ、アジア軍と騎士団の戦力をあわせて魔族に挑む。

そして何度かの死闘のあと、存亡を賭けた最後の決戦。「騎士団」は猛毒に苦しみながらも、火の剣で魔族を1人ずつ殺す。クリームヒルトも、敵の首領の「魔王」と深く刺し違え、血と炎に悶えつつ息たえる。かくて双方、全員が滅び、森も炎と毒で枯れ果てる。同時に空から燃える星が落ち、大地震と大落雷、赤ん坊の頭ほどの電も降る。あとは焼け崩れ凍りついた死の静寂。何かわからない未来の人類の「宝」だけが、ニーベルンゲンの廃嘘のどこかに、誰にも知られずに埋もれて残るのである。

アドルフ・ヒトラー

何か人類の運命そのもののような、残酷で予言的なこの伝説。これをヒトラーはことのほか気に入っていた。

「おお、これがゲルマンだ。未来の真実だ。私が見ている未来と同じだ。古代ゲルマンの伝説の中に、来たるべき天変地異と復讐の大戦が暗示されているのだ……」

総統本営や山荘のパーティで、たまたまこの伝説(ニーベルンゲン伝説)の話が出ると、ヒトラーはこううめいて拳を震わせ、側近たちが恐れるほど興奮することがあった。オペラではもっと興奮した。彼が好きだったワーグナーのオペラに、この伝説から取った『ニーベルングの指環』という3部作があるが、彼はこれを当時のドイツ楽壇のスターたちに命じて何度も上演させ、全てが滅びる幕切れが来ると必ず叫んだ。

「そうだ、ブラボー、みんな死ね! そして復讐に甦れ! ナチは不死鳥、私も不死鳥だ! 民族の血の怨みに選ばれた者だけが不死鳥になれるのだ……」

ニーベルングの指環
リヒャルト・ワーグナーによるオペラ
序夜と3日間のための舞台祝典劇『ニーベルングの指環』は、リヒャルト・ワーグナーの書いた楽劇。ワーグナー35歳の1848年から61歳の1874年にかけて作曲された。ラストから発表され、4部作完結まで26年。 ウィキペディア

ヒトラーが愛したワーグナー作「ニーベルングの指環」

「ニーベルンゲン復讐騎士団」が生まれたのもこれがきっかけである。彼はその日、とりわけ興奮して、このオペラの「ジークフリート」の幕を見ていたが、美しいクリームヒルトが血をすすって復讐を誓うシーンになったとたん、そばのSS(ナチス親衛隊)の幹部たちに狂おしく言った。

「わかるか、あれがきみらだ。きみらの使命と未来があの中にある。だから、あの名をきみらの中の選ばれた者たちに授けよう。そうだ……。ニーベルンゲン復讐騎士団だ! これからのナチスと新しい人類を築く聖なる土台の将校団だ。それにふさわしい者だけを選んですぐ報告せよ。最終人選は私がじきじきに決める。」

こうして、その特殊グループが生まれたのだった。ほかにも「ニルベの騎士団」や「ラインの騎士団」……いろんな名前の将校グループがナチスにはあったが、そういう同期会と「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、はっきり違う性質のものだった。人数はたった120人。家柄も財産も年功序列もいっさい無関係。たとえ20歳の少尉でも、予知力や霊感や指導力──ヒトラーが認める何か特別な能力──があれば選ばれた。

並外れた体力、天才的な戦闘力、そして何よりも人に抜きんでた高知能、米ソやユダヤや既成の世界への激しい怨念を持っていること、これらも選抜の基準になった。それを表わすプラチナの小さなドクロのバッジ。それを胸につけた純黒の制服と黒い鹿皮のブーツ。ベルトには特製の45口径13連の凶銃ユーベル・ルガー。腕にはもちろん、血の色の中に染め抜かれた黒のカギ十字マーク。

「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、ダンディだが不気味な集団だった。だがその1人1人をヒトラーは、「マイン・ゾーン(私の息子)」と呼んで異常にかわいがった。公式の政策会議には参加させない。しかし内輪の集まりには、よく招いて意見を聞いた。狙った国にクーデターやパニックを起こさせるといった重大な影の任務もよく命じた。

「きみらならわかる」と言って、側近のゲッベルスにさえ話さない秘密の見通しや未来の世界を、熱っぽく話すこともあった。2039年の人類についての「ヒトラー究極予言」も、そうした奇怪な積み重ねの上で、この騎士団だけに話されたものだった。

いつ話されたかは、ヨアヒム・フェスト(ドイツのヒトラー研究の第一人者)によって記録されている。それは1939年1月25日の夜だった。話された場所は、ミュンヘンのナチス本部という説もあるが、ヒトラーは「オーベルザルツベルグ山荘」を霊感の場としていたので、雪に閉ざされた山荘で話された、という説を私(五島)は採りたい。

ところで、ヒトラーの「究極予言」を聞いたとき、冷酷と高知能を誇るニーベルンゲン復讐騎士団の将校たちも、さすがにショックでざわめいたという。騎士団の1人ヨハンネス・シュミット少佐=のちに西ドイツの実業家=が、あとでそう打ち明けたのを、米国籍の予言研究家スタッカート氏が研究者仲間の会合で知り、私に教えてくれた。この件だけでなく、氏からはヒトラー予言について多くの情報をもらった。

『1999年以後──ヒトラーだけに見えた恐怖の未来図』 から抜粋


クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
曖昧さ回避「シュタウフェンベルク」
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52059099.html









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