即位の礼「大嘗祭」
即位の礼で天皇が着座する玉座「高御座」
即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、日本の天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを国の内外に示す(即位)一連の国事行為たる儀式で、最高の皇室儀礼。中心儀式の即位礼正殿の儀は、諸外国における戴冠式、即位式にあたる。

即位の礼後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われ、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。

皇嗣が新たに皇位に就くことを「即位」というが、古代では神へ寿詞(よごと)を奏上し、神璽を献納する事を中心とした、簡素なものであったが、平安時代に「皇位の継承」である「践祚」と「即位」が別の儀式として行われるようになり、唐風の儀式が江戸時代まで続いた。即位にかかる儀式全般を即位儀礼というが、これは皇嗣が即位する「践祚の儀」と即位したことを内外に宣下する「即位の礼」に分かれる。

明治時代の1889年(明治12年)に制定された旧「皇室典範」に属する登極令によって儀式の内容が細かく規定されたが、1947年(昭和22年)に、同令は旧皇室典範と共に廃止となった為、現行の新「皇室典範」でも即位の礼を行う定めがあるにも拘らず、内容についての具体的規定は無い。そのため、大嘗祭をどの様に行うのか、昭和天皇の崩御前後から、様々な(政治・思想的)立場から論議が起きた。

明治維新による近代化以降の現代に至る、明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と、他の重要な「皇室慶弔行事」と同様に、即位の礼の挙行日は、その年限りの祝日となることが慣例となっている。大日本帝国憲法下で即位の礼を行った大正天皇と昭和天皇の時には勅令により、日本国憲法下で即位の礼を行った今上天皇の即位の礼の時は法律によって、祝日として定められた。

明治以前の即位の礼
上代は践祚と即位との区別がなかったが、桓武天皇からは、践祚後に日を隔てて即位式を行う例ができ、貞観儀式の制定に至り区別することになった。儀式内容も元日の朝賀に準じて唐風様式で行われるようになった。装束は律令制度上最高の礼装である礼服を用いた。

孝明天皇の冕冠。即位礼にのみ戴冠した。

孝明天皇の袞衣。天皇の礼服である。
 
中国皇帝を真似て天皇が南面して座し、親王以下無位に至るまで、諸臣が朝庭に北面して君臣関係を確認した。ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ、殿上の擬侍従(平安初期には親王がつとめたので上首を親王代とよび、次席と少納言の3人の構成で左右計6人)に内弁(上卿に相当)・外弁(一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列はなくなった。なお外弁の内の一人が宣命使となる。中世から近世にかけて外弁は大納言・中納言・参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿・官人しか即位式に参加せず、その役目を持たない公卿は大臣であっても、高御座の左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった。

1016年(長和5年)2月7日に行われた後一条天皇の即位式の様子は、当時の朝廷の重鎮であった大納言・藤原実資の日記『小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式の参加者ではなく、見物者として観察出来たことによるものであった。なお、摂政は平安時代後期(堀河天皇以後)以後には高御座の中層または下層、関白は高御座の後方東側(南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった(後一条天皇の摂政であった藤原道長もこの位置にいるため、初期の摂政も同様であった可能性が高い)。

儀典の会場は、平安時代を通じ、原則的に、朝堂院(八省院)の大極殿が用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇は豐楽殿を使用した。病気のため冷泉天皇は内裏の紫宸殿で即位し、大極殿焼失のため後三条天皇は太政官庁、安徳天皇は内裏の紫宸殿を用いた。大極殿は1176年(安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期の後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇は例外)は、太政官庁を使用した。応仁の乱後の後柏原天皇は即位礼の経費調達が困難なため、20年にわたり延引を重ねたが、この天皇の即位礼以後は、里内裏の紫宸殿を使用することとなり、近代に及んだ。太政官庁は後柏原天皇の即位の準備が始まった文亀元年の段階ですでに存在せず、再建の予定もなかった。

中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀式も執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。

皇室行事の中でも最も重要な儀式の一つであるが、戦国時代の後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫しており、1500年(明応9年)に即位したにも拘らず、儀式を行えず、1521年(大永元年)、室町幕府などからの援助を元に、即位22年目にして即位礼を行った。直接のきっかけは幕府が二万疋を献じたことであるが、実際には文亀年間以来それまでに何度か幕府から献じられていた費用および、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具が蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇は後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位が延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用の拠出は叶わず、毛利元就の援助を得て挙行した。しかし、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさずこの儀式は挙行されている。

なお、宮廷儀礼は平安時代より雑人(庶民)の見物の対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人が乱入し、これ以後も公家日記に、見物人のため儀式に支障をきたしていたことがうかがわれる記事が散見される。 後柏原天皇即位に際しても「雲霞の如く」見物人が集まったという。こうした伝統を受けて江戸時代には、切手札(観覧券のようなもの)を買うことで、一般庶民も京都御所での即位の儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している[3]。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇のお見送りだけに参内した野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般の公家の多くが儀式を見物できなかったこと、にもかかわらず幕府の使者は非公式ながら紫宸殿に上げてもらって見物できたことに憤慨している。

明治維新により東京奠都し、天皇が国家の最高指導者に位置付けられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨規定されていた為、大正天皇・昭和天皇の御大礼は平安様式に則り京都御所にて執り行われた。

1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われた。この為、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。

儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮へ勅使が遣わせられる。時期は登極令により春から秋とされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。

即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯、皇后は十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰・鏡等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。

明治天皇の即位の礼・大嘗祭

明治天皇の伊勢神宮親謁
第122代・明治天皇の即位の礼が行われた当時は、天保暦が用いられており、現在のグレゴリオ暦とは日付が異なるため、天保暦(グレゴリオ暦)の順番で記載する。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、第121代・孝明天皇の崩御を受け、儲君睦仁親王が翌慶応3年1月9日(1867年2月13日)に践祚して皇位を継承し、第122代天皇となった。当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、徳川慶喜による(徳川家第15代かつ最後の征夷大将軍)大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。

明治新政府は、翌年の慶応4年(明治元年/1868年)5月に新時代の到来を宣布するため、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監をして「御即位新式取調御用掛」に任命した。岩倉具視は亀井に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じた。新時代の象徴として、式典において地球儀を用い、皇威を世界に知らしめることを目的とした。孝明天皇即位に使用された高御座は安政元年(1854年)の内裏焼失によって失われていたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称した。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため、礼服[4]は廃止され、平安時代以来礼服に次ぐ正装であった束帯が使用された。庭に立てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられた。

慶応4年8月17日(1868年10月2日)に、10日後の8月27日(1868年10月12日)に即位の礼を行うことを発表し、同月21日から関連儀式を執り行った。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし命日である同月26日に霊前で宣命を読み上げた翌日27日、即位の礼当日は、宣命使が宣命を読み上げ、参列者中、筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌われた。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了した。

明治の大礼…総費用4万3800両
伊勢神宮へ勅使発遣の儀 慶応4年8月21日(1868年10月6日)
神武天皇陵・天智天皇陵・前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 同年8月22日(同年10月7日)
紫宸殿・清涼殿御殿洗 同年8月23日(同年10月8日)
即位礼 同年8月27日(同年10月12日)
大嘗祭 明治4年11月17日(1871年12月28日)東京で行われた。
大正天皇の即位の礼・大嘗祭

大正天皇の即位の礼
旧皇室典範・登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。また、この時から高御座の隣に皇后の御座である御帳台(これは江戸時代以前の帳台と異なり、高御座に準拠して考案された新儀である)が設けられたが、貞明皇后は懐妊中であった(後に第四皇男子の澄宮崇仁親王を出産)ために欠席した。

この時に貴族院書記官長を務めていた柳田國男も大正天皇の御大礼に出仕しており、後に大嘗祭についての提言を残している[5]。礼服は復活せず、束帯が使用されたものの、高御座は江戸期の様式が復活し、その他、旗の類も神話にちなむ刺繍を入れたものの、榊はやめて綾や錦を使うなど、総じて江戸時代以前の様式と明治の即位を折衷したような形式になっている。明治よりも神事性が後退したかわりに、賢所大前の儀が新たに制定され、即位の前提に神道があることを強調する儀式構成になった。男性の束帯は近世の故実を参照してあまり変更を加えず、女性の十二単は近世以前の資料によりつつも、松本真弦らが中心となって、新たに定められた。

大正の大礼…総予算853万8357円(当時の金額)
即位の礼 1915年(大正4年)11月10日
大嘗祭 同年11月14日・15日
即位礼ノ勅語

昭和天皇の即位の礼・大嘗祭

1928年11月、即位の礼の昭和天皇
1928年(昭和3年)11月6日、第124代・昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城を出発し、京都御所へ向かった。京都へ向かう天皇の行列は2名の陸軍大尉を先頭に賢所の神鏡を奉安した御羽車、昭和天皇の乗る6頭立て馬車(鳳輦)・皇后の乗る4頭立て馬車・皇族代表・内大臣(牧野伸顕)・内閣総理大臣(田中義一)の馬車と続いた。全長600メートルにも及ぶこの行列は、1分間に進む速度が86メートルと決められていた。

11月10日、即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱した。

天皇は紫宸殿の儀を終えた後、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、奉告し、帰京した。帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。

悠紀田は滋賀県野洲郡三上村、主基田は福岡県早良郡脇山村から選ばれ、3月に発表された。昭和の大礼の総予算は当時の金額で1968万3637円50銭5厘という。

即位礼ノ勅語 ※漢字は常用漢字に改めた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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来年5月1日の天皇の代替わりまであと半年。宮内庁では皇位継承に伴う皇室の儀式「大嘗祭だいじょうさい」の準備が進んでいる。代替わり直後にカメの甲羅を使う占いの儀式を控えており、東京・小笠原で希少なアオウミガメの甲羅を確保した。年度内に加工を終えるため、近く委託業者を選定する。

 占いの儀式は来年5月にも行われる「斎田点定さいでんてんていの儀」。カメの甲羅を焼き、ひび割れの具合をみる古来の占い「亀卜きぼく」で、同11月に皇居で行われる大嘗祭の中心儀式「大嘗宮だいじょうきゅうの儀」に使う新穀を収穫する都道府県を東西から一つずつ選ぶ。(読売新聞)







偽薬メーカー代表「信じれば同等の効能」 
PRESIDENT Online2018年12月23日 11:15
■薬品メーカーでは、強い反発
見た目は薬そっくりの直径8ミリメートルの丸い錠剤だが、中身はなんの薬理作用もない還元麦芽糖(甘味料)。偽物の薬、いわゆるプラセボと言われる偽薬だ。

課題は周知が進んでいないこと。

このプラセボを作り、販売しているのが滋賀県に会社を構えるプラセボ製薬の水口直樹代表(32歳)だ。

「偽薬よりも“プラセボ効果”という名前のほうが有名ですね。実際には効果のない偽薬でも、本物だと信じ込んで飲むことで本物の薬と同じ効能が出るというものです」

例えば「これは眠くなる薬です」と渡されて偽薬を飲めば、実際には眠くなる成分が入っていなくても眠気を感じる人が出てくるのだという。

臨床の現場では、プラセボ効果を狙うというよりも、通常の薬剤を飲むグループとプラセボを飲むグループに分け、薬剤自体の効果がどの程度あるのか測るために使われるのが一般的だ。しかし水口代表は、薬を飲んで安心した気分にさせる商品としてプラセボを製造・販売しているという。

「介護の現場では、認知症の高齢者が薬を飲んだことを忘れ、一日に何度も薬を飲もうとするといった問題が起こっています。職員が投薬を断るとそこで軋轢が生まれ、双方が疲弊してしまう。そこで何かできないかと思いついたのが、プラセボだったのです。プラセボならリスクなくそういった関係を解決できると思いました」

メトグリーン社の“サティスフェイク”など、臨床の現場向けに業務用のプラセボが製造・販売されることはあるが、誰でも手に取れる形でプラセボを販売するという試みはプラセボ製薬が国内初だという。しかしプラセボも万能ではない。外傷などには効果が薄く、効果的にプラセボが利用できるのは眠気や痛みという脳内の現象がメインだ。

プラセボ効果は長年、患者側が「薬を本物だと思い込んでいること」が条件だと思われてきたが、近年の研究では偽薬だと明示してからプラセボを飲んでも一定の効果があることがわかってきたという。
「がんに伴う倦怠感に悩む人が、プラセボであることを明示されながらプラセボを服用したところ、倦怠感が軽減したという報告があります。副作用の心配が少なく、安価なプラセボは医療の選択肢となりうる」

水口代表は「売り上げは年々上がっている」と語るが、まだまだ周知が足りず厳しい戦いを強いられている。

プラセボ製薬の主な顧客は老人ホームやデイサービス、自宅で介護を行う一般家庭など。しかし介護の現場では「患者をだましていいのだろうか」という倫理的な懸念があり導入に至らないケースや、店頭での販売もプラセボの特性上、扱いが難しく、思うようには進んでいないという。

しかし水口代表の元には心因性のあがり症や頻尿などの問題を抱えた子供の親からも注文があり、少しずつ活動の成果は見えてきている。

「現在、高齢者が多数の薬剤を同時に摂取するポリファーマシーを厚生労働省が問題視しており、多剤服用を抑えるアナウンスが出ています。そういった問題にも、一部を置換するような形でプラセボの活用が考えられます」

また、プラセボ効果によって起こるのはメリットだけではない。ノセボ効果という、本物の薬と同様に副作用も起こりうることも研究により判明している。扱い方によって、ただの錠剤が毒にもなりうる。

もともとは大手薬品メーカーに勤務していた水口代表。会社の製品会議でプラセボを提案したが、反応は芳しくなかった。「同年代の社員からは支持を得ていたのですが、上層部の支持が得られず社内では製品化ができず、独立に至りました」。偽物であるプラセボを、薬品メーカーが販売することに強い反発があったのだという。

「プラセボが医療の一環になりうる、ということはまだまだ周知が進んでおらず、厳しい状況です。業界全体のことを考えれば、医療メーカーが薬品名を印刷した、本物の薬のレプリカのようなプラセボを売り出すことも必要になるのでは、と思っています」

(橘 厚樹 撮影=橘 厚樹)



プラセボ製薬株式会社
薬局等における店頭販売チャネルの開拓を目指しています
更新日:2018/06/27
https://eiicon.net/companies/199  eiicon company (エイコンカンパニー)
代表取締役 水口 直樹
京都大学薬学部 卒業 
京都大学大学院薬学研究科 修了(修士)
自社特徴
プラセボ(偽薬)として用いる食品を販売しています。 

医療と介護。日本の根幹を揺るがす社会保障問題の核心は、畢竟、これらに多大なお金がかかる点にあります。 

安価なプラセボは持続可能な医療・介護システムの構築に必要不可欠であると当社では考えています。

次ページ プラセボは医療の選択肢となりうる
①プラセボを活用した介護ケアの一般化 
介護者の負担を軽減しつつ被介護者の気持ちに寄り添うケア手法を紹介し、それを実践するための商品としてプラセボ(偽薬)の利用を一般化させたいと思っています。 

②薬剤師による地域進出のきっかけづくり 
これからの薬局のあり方として示された「健康サポート薬局」は、その要件として薬剤師による「地域への積極的な進出」や「他業種連携」が謳われています。薬剤師が地域や他職種との接点を持つきっかけとしてプラセボ(偽薬)を有効活用していただきたいと考えています。 

③プラセボの医療応用 
「だまし」に伴うネガティブなイメージを払拭し、高齢者医療における必要不可欠な選択肢としてプラセボの地位向上を図りたいと考えています。 

④持続可能な医療システムの構築 
次世代へ負担を先送りする社会システムは持続可能ではありません。広くプラセボを活用した医療のあり方は、皆に受け容れられるか否かはともかく、少なくとも現状の医療より持続可能な医療システムに近いものであろうと思われます。



日本人アーティストはなぜ世界で通用しないのか?
<芸術起業論> - 村上 隆
幻冬舎plus2018年12月07日 06:00
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海外で高く評価され、作品が高く取引される村上隆。彼は、他のアーティストと何が大きく違ったのか? 稀代の芸術家が熱い情熱と冷静な分析を持って語った名著『芸術起業論』『芸術闘争論』の待望の文庫化を記念して、まず『芸術起業論』の冒頭をお届けします。

芸術には、世界基準の戦略が必要である

 なぜ、これまで、日本人アーティストは、片手で数えるほどしか世界で通用しなかったのでしょうか。

 単純です。

「欧米の芸術の世界のルールをふまえていなかったから」なのです。

 欧米の芸術の世界は、確固たる不文律が存在しており、ガチガチに整備されております。

 そのルールに沿わない作品は「評価の対象外」となり、芸術とは受けとめられません。

 ぼくは欧米のアーティストと互角に勝負するために、欧米のアートの構造をしつこく分析しました。

 仮説と検証の連続から芸術制作マネジメントの技術も磨いてきました。

 アートピースとは、作り方や売り方や伝え方を知らなければ生みだせないものなのです。

 欧米の芸術の世界に挑戦する人のやるべきことは、運動や娯楽で世界に挑戦する人のやるべきことと変わりません。

 勉強や訓練や分析や実行や検証を重ねてゆき、ルールをふまえた他人との競争の中で最高の芸を見せてゆくのが、アーティストという存在なのです。

 日本の美術の授業は、ただ「自由に作りなさい」と教えますが、この方針にしても、欧米の現代美術の世界で勝ち抜くためには害になりかねません。

 自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません。

 欧米の美術の文脈の下地を把握しなければ、美術の本場に「ルールの違う戦い」を挑むことになり、戦う以前に相手にされないのです。

 欧米を中心にした芸術の世界で取引されているのは、人の心です。

 芸術の世界に踏みこめば踏みこむほど、アーティストの目的は人の心の救済にあるのではないかと感じるようになりましたが、それなら、自分の欲望をはっきりさせなければなりません。

 芸術家は、欲望とどうつきあうのかを強く打ちださなければならないのです。

 ものが欲しい。カネが欲しい。権力が欲しい。女にモテたい。出世をしたい。

 欲望の強さは芸術制作の邪魔にはなりません。むしろ問題は日本の芸術家に強烈な欲望がないことです。

 芸術家になる根拠の濃度を高めれば、やりたいことがはっきりします。

 携帯電話やガングロや下着売りや少女売春などという近年の日本固有の事象や風俗を追いかけるだけでは、外国人への衝撃も与えられません。もちろん既存のアートフォームのおさらいだけでは歯し牙がにもかけてもらえません。

 ニュースは、個人の「業」から出るものです。

 自分自身のドロドロした部分を見つめなければ、世界に認められる作品なんてできません。

 欲望の方向が見つかる。

 走りだしはじめる。

 あとはもう長期戦を覚悟すべきです。

 時間をかけてやるしかありませんが、それに加えて芸術制作を続けるにはそのための資金がそれなりに必要だということは最低限でも理解しておいた方がいいでしょう。

 日本人の芸術家は、商売意識が薄く、芸術を純粋無む垢くに信じる姿勢をとりがちですが、だったら趣味人で終わっていればいいんです。

 芸術の力を生かしたいなら、金銭が要るという事実から、どうして目を逸らしてしまうのでしょう。

 ぼくは、三十六歳になる頃までコンビニの裏から賞味期限の切れた弁当をもらってくるような、お金のない時期を経験しました。

 酒屋やスーパーマーケットの裏から梱こん包ぽう用の段ボールをもらわなければ、作品ができても梱包発送ができなかったのです。

 お金のない時の動きというのはそういうものです。何をするにも異様に時間がかかる。そういう時間を縮めるために金銭の力が必要になるのです。

 金銭があれば、制作する時間の短縮を買えます。

 理想のシナリオを手元にひきよせられます。でもどうしても手に入らない時もある。その時は時間で稼ぐしかないのも事実です。

 芸術には金銭と時間が必要という当たり前のことを貧乏の中で実感したからこそ、ぼくはお金にはこだわるようになりました。たまに「芸術家のクセにお金にうるさい」と批判されますがわからない奴にはわからないのだ! と思ってきました。

 現代社会の競争原理の中で生計を立てるなら、芸術の世界であれ戦略は欠かせません。

 作品を作るための場所や資金の確保も必要です。

 何があっても作品を作り続けたいなら、お金を儲もうけて生き残らなければならないのです。芸術家も一般社会を知るべきです。

 若いアーティスト志望者がまず認識するべきは、アーティストも一人の社会人であり、実社会でタフに生き抜くべきだということです。タフネスこそが芸術家の勝つ秘訣です。

 社会の中で天才として生き続けるのは、ほとんど無理、不可能性が高いことです。

 スポーツ選手が綿密な計画と鍛練を基礎におくように、芸術家は美術史の分析から精神力の訓練に至るまで独創的な作品のための研究修業を毎日続けるべきです。

 突飛な発想を社会に着地させるバランスをあやまれば自分の身を吹き飛ばしかねません。

 率直な話、アーティストには充分な時間も金銭も用意されていません。

 正当な時間や報酬を得て作品を作るには、周囲と自分の関係を醒めた目で把握してゆかねばならないのです。

 芸術を生なり業わいにすると苦しく悔しい局面に立たされます。

 私の美しいものを作りたいという願望にしても、様々な障害が立ちはだかって、十数年間もの間、実現しにくいものだったのです。

 日本の美術大学は生計を立てる方法は教えてくれません。美術雑誌にも生き残る方法は掲載されていません。なぜか?

 ここにも理由はちゃんとあるのです。
(『芸術起業論』「第一章 芸術で起業するということ」より)

村上隆(むらかみ・たかし)
アーティスト。有限会社カイカイキキ代表。一九六二年東京に生まれる。東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。アニメから日本画までを貫く日本独自の美意識を「スーパーフラット」としてコンセプト化し、現代美術の巨匠として世界で活躍している。
(記事引用)











発光現象「スティーブ」
gigazine2018年03月27日 13時00分 サイエンス
オーロラのような新種の発光現象「スティーブ」がアマチュア天文家によって発見される。

画像 太陽プロミネンス
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日本ではなかなか見ることはできませんが、極圏を中心とした高緯度地域でさまざまな条件がそろった時に光の帯が夜空に広がる「オーロラ」と呼ばれる現象は、幻想的さゆえに天体写真の対象として人気があります。このオーロラと同じく夜空に瞬く謎の発光現象「スティーブ」が、2015~2016年頃からアマチュア天文家の間で観測されていたことが、NASA(アメリカ航空宇宙局)によって発表されました。

Mystery of Purple Lights in Sky Solved With Citizen Scientists' Help | NASA
https://www.nasa.gov/feature/goddard/2018/mystery-of-purple-lights-in-sky-solved-with-help-from-citizen-scientists

カナダのレジーナに住むITエンジニアのノタニー・ブラッサさんは、2016年7月25日に夜空を見上げるとオーロラが出ていることに気づきました。ブラッサさんはあわててカメラを取りに行き、オーロラを撮影しましたが、薄紫色の光のリボンという普段と違う姿に気づきました。10代の頃から30年以上もカメラでオーロラを撮影してきたブラッサさんでしたが、自分が見ている薄紫色の光は今まで見たオーロラとは何かが違うと気づいたとのこと。

この謎の光を目撃したという報告は、ブラッサさん以外にも30人ほど行っていました。NASAと国立科学財団が後援を務めるアマチュア科学者によるオーロラ観測&追跡プロジェクト「オーロラサウルス」でも、オーロラに混じる不思議な紫色の光が話題となっていて、参加者の間では、2006年に公開されたCGアニメにちなんで「スティーブ」(Steve)と呼ばれていました。

アマチュア科学者たちは、オーロラサウルスを通じてNASAに連絡を取り、宇宙物理学者のエリザベス・マクドナルドさんに「スティーブ」の写真を送りました。マクドナルドさんは30以上の報告を見て、「スティーブ」が普通のオーロラとは違うものだということに気がつきました。しかし、他の科学者と相談しても、この現象の正体が一体何なのかは分からなかったとのこと。

太陽からは「太陽風」と呼ばれる荷電粒子のガスが地球に吹き付けています。地球の磁気の関係で高緯度にたまった荷電粒子が、大気中の分子と衝突し、発光することによって発生する現象がオーロラです。カーテンのように幅広い光の帯が特徴的で、色は緑や白、赤などさまざまです。

一方、「スティーブ」は非常に細い紫色の光のリボンが特徴です。さらに、紫色の光に重なるように、緑色の光の筋が数本流れる様子も確認されています。夜空を彩る発光現象という点では「スティーブ」とオーロラは同じように見えますが、姿や動きは全く違うものとなっています。

そこで、マクドナルドさんは「スティーブ」を調査するために、ESA(欧州宇宙機関)が打ち上げた地磁気観測衛星「SWARM」を利用して、宇宙からの観測を行いました。

その結果、「スティーブ」を形成する荷電粒子はオーロラのものと違う地磁気層に沿ったもので、極圏よりも比較的緯度の低い場所で発生しているということがわかりったとのこと。

さらに、「スティーブ」が「サブオーロラ帯イオンドリフト」(SAID)と呼ばれる現象と関連があるということが分かりました。SAIDは、地球の磁場や電場のとの関係で荷電粒子が東から西に高速で流れていく過程で粒子が高温になる現象ですが、SAIDが具体的にスティーブの発光現象にどのようにつながるかははっきりと分かっておらず、未知のプロセスがそこに眠っているとNASAはにらんでいます。

NASAは、この新しく発見された発光現象を「Strong Thermal Emission Velocity Enhancement」(強力な熱電子放出速度の増大)と名付けました。この名前の頭文字を並べると「STEVE」という略称になり、これは「スティーブ」を発見したアマチュア天文家たちに敬意を表したものとのことです。
(記事引用)










敗戦国である日本はなぜ「世界の強国」になれたのだろう?
=中国メディア2018年11月30日 22時12分 サーチナ
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 日本は太平洋戦争で敗戦し、国土の多くは焼け野原となった。しかし、敗戦からわずか20年ほどで東京五輪を開催し、さらに世界第2位の経済大国となったことは奇跡的な復興と認識されている。中国メディアの今日頭条は21日、敗戦国である日本は今や「世界の強国」であると主張し、日本が世界の強国になれた原因を分析する記事を掲載し、決定的な役割を果たした要因について分析した。

 日本と中国の間には暗い過去があるため、日本について快く思っていない中国人は少なからず存在する。しかし記事は、日本の食文化や科学技術、文化などは世界に認められているのも事実であると指摘し、歴史問題を別にして中国が日本から学べる点はたくさんあると論じた。

 続けて、日本が世界の強国になることができた理由は複数存在すると指摘しつつ、まず、「教育熱心」であることや「知的好奇心の高さ」を挙げた。日本では子供が幼いときから礼儀やマナーなどの教育がなされていて、高い民度を広く共有できていると指摘したほか、高齢者になっても生涯学習に取り組む人が多いのは「日本の知的好奇心が高いから」であると主張した。

 また、日本人を語るうえで欠かせないのが勤勉さであるとし、日本人の仕事ぶりは非常に細かく、そして、抜け目ないと指摘。「万が一」に備え、万が一の可能性すら排除しようと徹底的に取り組む姿勢があるからこそ、日本製品の品質は非常に高いのだと論じた。

 中国には「馬馬虎虎」、「差不多」という言葉があり、この言葉を口癖のように使う人が多い。「馬馬虎虎」も「差不多」も日本語で言えば「まあまあ」、「だいたい」という意味で使われるが、この表現を好む人が多いという点に中国人の国民性や考え方が現れていると言えるだろう。記事は、日本人は何事も「適当に済ませることはしない」とし、優れているものに更に磨きをかけるのが日本人の気質であり、こうした気質も「日本が世界の強国になることができた理由」である伝えている。
(編集担当:村山健二)
(記事引用)






【昭和天皇の87年】英国首相も脱帽 呼び覚まされた天性の君徳
産経ニュース2018年10月28日 7時6分
欧州へ(4)
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 1921(大正10)年5月12日、ロンドン市のシンボル的建物ギルド・ホールで、日出づる国の皇太子が朗々と演説した翌日、英紙「デーリー・テレグラフ」は書いた。

 「(裕仁皇太子)殿下は実に大なる魅力と謙譲な御態度とを備へられ、その御人格は此(こ)の古建造物、古雅な歓迎の式、及び歓迎設備の華麗と相俟(あいま)つて、実に美しい対照であつた」-

 英国への到着前、随行の供奉(ぐぶ)員らが最も心配したのは、裕仁皇太子の社交性だったことはすでに触れた。しかしそれは杞憂(きゆう)だったと、供奉員の沢田節蔵(のちの国際連盟日本代表)が記録に残している。

 端的な例は、到着5日目の5月13日に駐英日本大使館で行われた、日本側主催の晩餐(ばんさん)会だ。エドワード皇太子をはじめ英政府首脳や各界の名士らを招いた宴の席で、裕仁皇太子は「社交界の勇者たる態度」を示したという。

 裕仁皇太子はロイド・ジョージ首相に、当時英国で起きていた炭坑ストライキ問題を自ら話題にし、英国政府の難しい対応をねぎらった。裕仁皇太子が「多忙な首相の健康を心配しています。世界全体のために十分自重されることを希望します」と述べると、感激したジョージ首相は何度も頭を下げ、裕仁皇太子の手を固く握りしめる一幕もあった。

 このとき、周囲で見守る沢田らを驚かせたのは、裕仁皇太子の抜群の記憶力だ。日本側担当者は事前に、出席者の情報を集めて伝えていた。裕仁皇太子はその情報をもとに、各界の名士らと代わる代わるあいさつしながら「職業趣味の異なるに従ひ、適当な話題で、御会談」したという。

 続いて行われた夜会では600人の参加者の中に進んで分け入り、握手しながら数十人と言葉を交わした。そこで沢田らが見たのは、かつて元老の山県有朋が批判したような、寡黙で「石地蔵の如き」皇太子ではなかった。堂々たる「社交界の勇者」だった。

 日本を出港以来、供奉員らの諫言(かんげん)にも素直に耳を傾け、国際交流の現場で自らの立場を再認識したことが、裕仁皇太子に備わる天性の君徳を呼び覚ましたのだろう。

 沢田が記録に書く。

 「(裕仁皇太子の社交性は)欧州社交界の事情に深く通暁してゐる人々の態度と、何等変りなきのみか、少しも尊大ぶられる所がなく、極めて真摯で、且つ自然な御態度であらせられた…」

× × ×

 英国滞在中、見事な社交性をみせた裕仁皇太子だが、もう一つ、その後の思考や言動に大きな影響を与える出来事があった。

 5月21日~23日、スコットランド北部の山地ハイランドを、非公式に訪ねたときのことだ。

 裕仁皇太子はここで、英国貴族の名門、アソール公爵家のブレア城に滞在、アソール公とともに2億7000万坪に及ぶ緑豊かな敷地内を散策したり、渓流でサケ釣りをして1メートル近い大物を釣り上げたりと、久々に自然を楽しんだ。

 アソール家の接待は、飾り気のないアットホームなものだった。昭和天皇実録には、夕食後に公爵夫人がピアノで邦楽を演奏し、そのピアノ伴奏で夫人の妹が民謡を独唱する様子などが記されている。

 23日夜、惜別の晩餐会が開かれた。

 アソール公とその家臣、裕仁皇太子と供奉員らは、互いに打ち解けて歓談し、アソール公らがスコットランド古来の慣習で椅子に立ち、片足をテーブルに乗せて両国皇室のために乾杯すると、今度は裕仁皇太子らが立ち上がってテーブルに片足を乗せ、日本式に万歳三唱した。

 珍事が起きたのは、その後である。

 食事が終わり、舞踏会が始まると、粗末な平服の男女が数十人、次々と広間に入ってきた。裕仁皇太子らは最初、アムール公の招きで近在の住民があいさつに来たものと思ったが、彼らはアムール公らに近づき、バグパイプの奏楽に合わせて、スコットランド風の舞踏を一緒に踊り始めたのだ。

 昭和天皇実録によれば《正装の公爵が平常服の老婆の手を取り、盛装の公爵夫人が粗衣の老爺と組むなど、いかにも平民的で、なんら主従の差、貴賤の別、上下の隔意なく、屈託のない様子で(舞踊を)繰り広げられる》(7巻164頁)

 実は、踊っている男女はアムール家の使用人らが普段着姿で登場したもので、アムール公の演出だった。あえて日常の生活をみせてこそ、裕仁皇太子の外遊の目的に資すると、アムール公は考えたのである。

 日本では考えられない光景に、裕仁皇太子は強い衝撃を受けたことだろう。同時に、近代国家における君主と国民のあるべき関係について、再認識するところがあったのではないか(※1)。

 2日後、マンチェスター市で行われた歓迎会。裕仁皇太子の演説に、明らかな変化が見られた。これまで「予は~せり」などと文語調が多かったのが、この日は「~であります」と、一般市民にわかりやすい口語調だったのだ(※2)。

 英国滞在も残りわずか。裕仁皇太子の中で、何かが芽生えようとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)


(※1) 外遊中、裕仁皇太子はこの夜のことを何度も供奉員らと話し、アムール公に「滞在中に見たことは、スコットランドの美しい自然とともに、帰国後も長く記憶に残るでしょう」などとする手紙を送った

(※2) 時事新報の特派員記者として外遊を取材した後藤武男によれば、このときの演説は原稿を持たずに行われ、裕仁皇太子は自身の率直な気持ちをよどみなくスピーチしたという


【参考・引用文献】

○二荒芳徳、沢田節蔵著「皇太子殿下御外遊記」(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社)所収の「デーリー・テレグラフ」

○宮内庁編「昭和天皇実録」7巻

○後藤武男著「天皇外遊と三人男」(文芸春秋編「昭和天皇の時代」所収)

○後藤武男著「われらの摂政宮」(時友社)
シリーズ
.3 https://www.sankei.com/premium/news/181027/prm1810270013-n1.html
.2 https://www.sankei.com/premium/news/181021/prm1810210013-n1.html
.1 https://www.sankei.com/premium/news/181020/prm1810200015-n1.html

(記事引用)











五木寛之 雑文録
連載10513回 「心の相続」とはなにか <1>
公開日:2018/10/15 17:00 nikkan-gendai
 
 最近、ふしぎなところから、しきりと講演の依頼がくるようになった。
 これまでほとんど縁のなかった分野の業界である。経済団体とか、新聞社・雑誌社の経営セミナーとか、ときには信託銀行などの企業だ。
 私はふだんは文化ホールや学校、また地方の公民館やお寺さんなどで話をすることが多い。経済やビジネスの世界などには全く関係がないので、けげんな気がした。
 それでも頼まれれば出かけていく。私は講演というか、人に話をすることを大事な仕事だと思ってきたからだ。

 しかし、行ってみて改めてとまどうことが多い。いわゆる文化講演会ではなく、何時間もプログラムされたセミナーの一部だからである。一部と三部には、著名な評論家や経済学者などの名前が並んでいる。ときには竹中平蔵などというビッグなゲストもいた。

 そんな場ちがいな場所で、小説家にどういう話をさせようというのか。
 演題を見ると『心の相続』となっている。私はいつも即興でしゃべるので、タイトルはなんでもいいのだ。それにしても『心の相続』とは何か。
 どうやら集ってきている聴衆は、相続問題について勉強をしようという人びとであるらしい。
「どうしてぼくがこういう会に呼ばれたんでしょうね」
 と担当者にきくと、相手はうなずいて、
「五木さんが先ごろ経済雑誌のインターヴューでお話しになっていたことに、各方面から非常に関心が集っておりまして」
「ぼくがどんな話を――」
「魚の骨ですよ。あれは私もなるほどと、すこぶる共感いたしました」
「え? 魚の骨?」
「ほら、若い女性編集者が、秋刀魚の焼いたのを見事に綺麗に食べる話」
「ふーん」

 そう言われてみれば、そんな話をしたような気がする。
 先日、打合わせの後で、近くの食堂で編集者数人と食事をした。そのなかに20代と思われる新人の女性編集者がいて、控え目に皆の話を聞いていたのだ。なよなよした感じの全然ない、ボーイッシュな娘さんだったが、食事のあと彼女の前のお皿を見て、ひどく感心したのである。

 ―

 私は昔から魚の食べ方が下手だった。魚料理は好きなのだが、食べ終えた皿の上を見て気恥かしい思いをするのが常だった。
 魚の残骸というか、骨や皮や頭や尻っぽがグチャグチャになって、見るに耐えない惨状を呈している。

 ところが、そのとき焼魚定食を食べ終えたあとの、若い女性編集者の皿の上を見てびっくりしたのである。
 魚の骨がまるで標本みたいに、じつに綺麗に皿の上に横たわっていたのだ。最近、そんなふうに見事に魚を食べる若者を見たことがない。
 私がまじまじと皿を眺めているのを見て、同席した男性編集者が、けげんな顔で、
「どうかしましたか」
 と聞く。
「いや、彼女、すごいね。最近こんなに綺麗に焼き魚を食べる人は見たことがない」
「たしかに」
「きみの皿なんかひどいもんだ。遺跡を掘り返したみたいじゃないか」
「イツキさんだって爆弾が落ちたジャングルみたいな――」
 自分の皿が話題になって、照れくさそうにしている女性編集者が、笑いながら言った。
「家は母が魚の食べ方にうるさくって。母も祖母からいつも叱られていたそうです」
「なるほど」
 祖母、母親、娘と、3代続いた魚の食べ方とあれば見事なのも当然だろう。
 ふとかたわらの若い男の編集者を見れば、箸を棒のようにワシ掴みににぎって、飯をかきこんでいる。

 そのときふと思ったのは、親や家から相続するのは、財産ばかりじゃないな、ということだった。土地や、株や、貯金などを身内で相続するのは当り前だ。しかし、人が相続するのはモノだけではない。目に見えない沢山のものを私たちは相続するのである。
 魚の食べ方などはその一つにすぎないだろう。実際には驚くほど沢山のものを、私たちは相続しているのではあるまいか。

 自分は両親から何を相続したのだろうか、と、そのときふと考えた。
 引揚者で生活に苦労していたので、財産どころか借金を相続しかねない暮しだった。しかし、よく考えてみると、目に見えない沢山のものを私は相続している。あらためてそのことをふり返ってみた。私は両親から何を相続したのだろうか。
ーー
 コンビニで週刊誌を見ると、やたら相続の記事が目につく。
 どうやら「孤独」の後は「相続」がジャーナリズムの次の焦点であるらしい。
 ところで、私の両親は共に学校教師だった。母は福岡女子師範、父は同じ福岡県の小倉師範学校の出身である。当時、貧しい農村の青年子女が、官費で勉強できる場所は限られていたのだ。
 卒業後、2人とも地方の小学校の教師となり、どこかの職場で知り合って結婚したのだろう。残念なことに2人とも早世したので、くわしいことはわからない。

 私がいまになって残念に思うことの一つは、彼と彼女の若い頃の話をほとんど聞いていないことだ。どういう青年だったのか、当時はどんな本を愛読していたのか。何を望み、どんな夢を描いていたのか。

 その意味で、私は両親から何の記憶も相続していないにひとしい。父は剣道の有段者だったが、いつ稽古をし、どんな大会に出たのか。母はどんな歌をうたい、どんな服を着ていたのか。当時の世相はどうだったのか。

 今にして思えば、もっと親の話を聞いておくべきだった、とつくづく後悔する。両親の思い出を知ることも相続の一つなのだから。

 父親は勉強家で、本棚には本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤などのあいだに、西田幾多郎やヘーゲルの本などが石原莞爾と一緒に並んでいた。丸山真男のいう当時の下層インテリの典型である。毎晩、夜中におきて何か書いているので、こっそり留守中にのぞいてみたら、『禊の弁証法』という題名がついた原稿だった。どこかの専門誌にでも、送るつもりだったのだろうか。

 私が父からしつけられたものの一つは、やたらと本を大切にする、というマナーだった。文庫本でも、それをまたいで歩いたりすると物差しでピシャリと足を叩かれたものだ。私はいまでも本をまたぐのは避ける習性がある。
 また、読みさしのページを折ったりすることも、ひどく嫌った。母がこぼしていたことがある。「父さんは、ページの隅を折ったりすると、すごく怒るんだから。それはドッグ・イヤーといっていけないことなんだって」

 父は武道会の役員で、詩吟の愛好家でもあった。毎朝、私を叩きおこして『古事記』の素読をやらせたあと、庭で一緒に詩吟をうたう。おかげで今でも私はいくつかの漢詩を暗記している。これも見えない相続の一つだろうか。
 ーー
 私が両親から相続したものをふり返ってみると、まだまだいくらでもある。
 たとえば、私の喋り方は形の上では共通語であるが、アクセントやイントネーションはまったくの九州弁だ。正確にいうと福岡の筑後弁である。柿と牡蠣の区別がつかない。橋も箸も一緒である。若いころは三バカ方言作家としてからかわれたものだ。

 寺山修司、立松和平、そして私の三人である。
 この喋り方は、まぎれもなく私が父母から受けついだものである。両親ともに福岡人だから、家庭内の会話は百パーセント九州弁だった。この年になってもまだ両親から相続した喋り方が消えていない。
 食べ物に関する嗜好もそうだ。味つけの好みもそうである。

 私の家では正月の雑煮に入れる餅は、丸餅だった。餅とはすべて円いものだと思い込んでいた。東京へ来てから四角い餅の存在を知ったのだ。 
 また正月の雑煮に鶏肉を入れ、味噌仕立てにするのも、私の家の流儀だった。
 ほかにも数えあげてみれば、いくらでもある。
 私は中年期に達するまで、私の家の宗旨に無関心だった。だが、ときたま子供の頃に両親が仏壇の前で、なにかとなえているのを思い出すことがあった。記憶の底をたどってみると、

<キーミョームーリョージューニョーラーイ>

 という呪文のような文句が浮かびあがってくる。これが『正信偈』という真宗門徒のとなえるお勤めの経文であることを知ったのも、かなり後になってからのことだった。蓮如が定めた真宗の作法である。
 人との挨拶の仕方、お礼の言い方、そのほか数えきれないほどのものを私は両親から相続しているのだ。残念ながら綺麗な魚の食べ方は相続してはいない。
 昔、韓国の地方の駅のキオスクで、買物をしたとき、売り子の娘さんが釣りを差し出すときに、右手の肘の下にそっと左手をそえて渡してくれたのが、すごく優雅に感じられたことがあった。昔、長袖の服を着ていた頃の名残りだろうか。家というより、社会から相続した身振りだったのかもしれない。
 家や親や先輩からだけではない。私たちは土地や資産だけでなく、見えないさまざまなものを相続しているのである。それを仮りに「心の相続」と呼んでおくことにする。 
(この項つづく)
 ――協力・文芸企画
(記事引用)














「夢の技術」量子コンピューター、実用化まであと一歩!
大手企業が開発を急ぐ背景には多分野での応用を見据えた戦略が
松ヶ枝 優佳/2018.9.26 jbpress.ismedia
 9月19日、理化学研究所がNTTやNEC、東芝などと共同で次世代の高速計算機である「量子コンピューター」の開発に乗り出すと報じられた。研究は文部科学省の事業として実施され、年間約8億円規模のプロジェクトとなる予定だ。
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 IBMやGoogleが積極的に投資を行ない、開発を進めていることでも知られる量子コンピューター。スーパーコンピューターにも答えが出せないような問題も一瞬で解いてしまうとされ、かつては実現性に乏しい「夢の技術」とされていたが、今や実用化直前と言われるまでに研究が進み、開発競争も激化する一方だ。

 様々な企業や研究機関が一丸となって実用化を急ぐ量子コンピューターとは一体どんな技術なのだろうか。

量子コンピューターとは
 量子コンピューターとは、簡単に言えば「スーパーコンピューターを大幅に上回る処理速度を持つ、次世代のコンピューター」のことだ。量子力学という、従来のコンピューターとは全く違う原理を採用することで、圧倒的な情報処理能力を持つ。

 私たちが知る通常のコンピューターは「ビット」という単位を用いて演算を行なうが、量子コンピューターは「量子ビット」という量子力学上の単位を使う。情報を扱う際、ビットでは「0と1のどちらの状態にあるのか」を基礎とするが、量子ビットでは量子力学特有の「重ね合わせ」という概念を用いる。これにより、複数の計算を同時に進めることができるのだ。

 「0であり、1でもある」という量子の性質を活用することで、従来のスーパーコンピューターでは何年もかかる計算を一瞬で終わらせることができる。

 スーパーコンピューターをはじめとする従来型コンピューターは、技術革新の限界が近付いている。1年半でコンピューターの性能が2倍になっていく「ムーアの法則」も近く通用しなくなると言われる今、根本から異なる原理、異なるハードウェアで動く量子コンピューターに期待が集まっているのだ。

 さらに、量子コンピューターは従来型コンピューターに比べて圧倒的に低コストで運用できると言われており、エネルギー問題の観点からも注目されている。事実、後述の「D-Wave Systems」が開発した量子コンピューターは、現在のスーパーコンピューターの100分の1の電力で稼働させられるという。並べると良いことづくめのようにも思えるが、現状は従来型のように何でもこなせるわけではない。

 量子コンピューターは、大別すると「量子ゲート」モデルと呼ばれる汎用タイプと「量子イジング」モデルと呼ばれるタイプの2種類がある。現在のスーパーコンピューターの上位互換と言える「万能選手」は量子ゲート型であり、古くから量子コンピューターとして研究されてきたのもこちらだ。実用化が切望されているが、技術的な問題をクリアして実用化されるにはもう少しかかるだろう。

 ちなみに量子コンピューターと言えば、クレジットカード等の情報保護等に使われている「暗号化技術の解除」を簡単にできるもの、というイメージを持っている読者もいるかもしれないが、それができるとされるのも量子ゲート型だ。

 一方、量子イジングモデルの中でも数種類あるうち「量子アニーリング型」と呼ばれる量子コンピューターは、用途は絞られるものの2011年にカナダのベンチャー企業、D-Wave Systemsによって既に商用化されている。こちらについて詳しく見てみよう。

実用化間近? 「量子アニーリング型」でできること
 量子アニーリング型の量子コンピューターは、1998年に東京工業大学の門脇正史氏と西森秀稔氏によって提案された理論を応用して作られた。量子ゲート型に比べればシンプルに実現できるため、いち早く商用化にこぎつけることができたのだ。

 汎用性は高くないが、「組み合わせ最適化問題」を解くことに関してはスーパーコンピューターでも歯が立たないほどの処理能力を持つ。いわば一点特化型の能力だが、昨今様々な分野で重要視されるAIや機械学習、ビッグデータの処理においては非常に有用な能力と言える。

 例えば複数の組み合わせの中から最適なものを選び出すカーナビのルート検索。自動運転時代を目前に控えた自動車業界では最も必要とされる技術の1つだろう。他にも低コストで高いパフォーマンスを発揮する回路を設計したり、効果的な投資先や経営戦略を選択する際にも活用できる。また、従来のコンピューターでは長い時間を要した分子の構造解析も短時間に終えられるため、新薬の開発にも役立つと期待されている。上手く機械学習に応用すればAI(人工知能)の性能向上に役立てることも可能だ。

 膨大な情報の中から最適な組み合わせを導き出す。シンプルなようだが、情報社会においては非常に価値のある能力と言える。データを収集することはできても、その情報をどう解析し、価値を持たせるかということについては、多くの企業が腐心している部分だろう。こうした問題を一瞬で解決してしまう可能性を持つ、量子アニーリング型の量子コンピューターが私たちの生活を変える日は遠くなさそうだ。

オープンイノベーションで競争加速、各社の開発状況
 では実際のところ、量子コンピューターの開発はどの程度まで進んでいるのだろうか? 代表的な3社を紹介する。

IBM

量子ゲート型の「IBM Q System」を開発。これに関心を持つ企業や学術研究機関による「IBM Q Network」というコミュニティーも組成しており、研究・開発と並行して量子コンピューターの活用法を積極的に探求している。日本でも今年5月17日に慶應義塾大学と共に「IBM Q ネットワークハブ」の開設を発表し、実用化に向けてグローバルな知見を集めている。

Google

2013年にD-Wave Systemsによる量子アニーリング型の量子コンピュータをいち早く導入。NASAと共にこのコンピューターの研究を行った。一方、自社でも量子ゲート型の量子コンピューターを開発。IBM同様、実用化に向けて研究を進めている。

Microsoft

量子ゲート型の量子チップや量子コンピューターを稼働させるための冷却装置、そして量子コンピューター向けの最新プログラミング言語を開発・発表している。本来同社はソフトウェア企業だが、量子コンピューターへの投資を拡大している。

 各社、より汎用性が高い量子ゲート型の研究を急いでいることがうかがえる。ビジネスに実装されていくのは量子アニーリング型が先行するかもしれないが、冒頭で取り上げたニュースやIBMの例を見ると分かるように、量子コンピューターの研究・開発には様々な企業や団体がパートナーとして加わるオープンイノベーションの形で進むことも多い。

 全く新しい技術ということもあり、技術的な部分はもちろん、様々な分野からの知見を集めて実用化を加速させようとしているのだ。ハードウェア的な面で言えば、Microsoftは冷却装置の開発はフィンランドの装置メーカー、BlueForsと共同で行っている。そしてIBM Q ネットワークハブの初期メンバーに三菱UFJ銀行、みずほフィナンシャルグループなどが名を連ねていることなどを見ると、特に金融系企業における同技術への関心の高さを伺い知ることもできる。実装に向けて、開発速度は今後いっそう加速していくだろう。

 NASAとGoogleの研究により、得意分野を任せればスーパーコンピューターの1億倍の速さで計算できるという結果が明らかになっている量子コンピューター。途方もない技術が数年後の社会をどう変えてしまうのか。引き続き各社の動向を見守りたい。
(記事引用)









なぜ血みどろの「米中貿易戦争」は日本にとって良いことなのか?
MAG2 NEWS2018年09月26日 09:17
9月24日、米国は中国への関税UP第3弾として日用品など2000億ドルに10%の関税UPを実施しました。ますます激しさを増す「米中貿易戦争」ですが、この「血みどろ」の戦いに日本も巻き込まれてしまうのでしょうか? メルマガ『国際戦略コラム有料版』の著者・津田慶治さんは、この米中貿易戦争は日本にとって良い面もあるとして、その根拠や背景を詳しく解説しています。
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地経学で見る米中貿易戦争と中東情勢
今週も米中貿易戦争やシリア内戦で大きな動きがあり、その検討を継続する。

0. 「日本4.0」
エドワード・ルトワックの本『日本4.0』を読んだが、1.0の江戸幕府で平和の構造ができ、2.0の明治維新で西洋文化を取り込み、3.0の戦後体制で軍事から経済にシフトして発展してきた日本が、今変革の時を迎えている。米国が世界の覇権を放棄して、日本は自分で自分を守る必要があり、独自の戦略が必要になっている。『日本4.0』は、その変革をどのように考えたらよいかの提案である。

日本は、敵国に侵入して情報を取る情報機関や少人数で作戦ができる特殊部隊が必要であるが、米国のような大掛かりな特殊部隊ではなく、イスラエルのような少人数で犠牲を覚悟した作戦ができる部隊の育成が必要であるという。

もう1つが、政治軍事の地政学より地経学の時代になるという。大規模な軍事作戦ができない状況になり、経済的なツールによる外交が重要になってくるとしている。

この「地経学の戦い」が米中間で始まった。それが貿易戦争であるようだ。この本の内容は、このコラムで議論したことばかりであるが、ルトワックの良さは、そのネーミングの仕方でしょうね。

詳しく知りたい方は、エドワード・ルトワックの本『日本4.0』を読んでください。

1. 米中貿易戦争の第3弾
米国は、第1弾として7/6に半導体など340億ドルに25%の関税UP、第2弾として8/23に化学品など160億ドルに25%の関税UP、そして今回、第3弾として9/24に日用品など2000億ドルに10%の関税UPを実施する。中国が対抗処置を取ったら、2370億ドルの輸入品にも10%の関税UPを行うと警告した。

対して、中国も第1弾、第2弾までは同額の処置を取ったが、第3弾では600億ドルに10%関税UPと米国と同額にできなかった。輸入量が1300億ドルしかないので、追従できなくなってきたことによる。そして警告を無視し、かつ米国との通商交渉も拒否した。

今後を見ると、米国は、2370億ドル分の輸入品への関税UPや為替操作国指定や投資制限、留学生制限、国有企業への制裁などができる。特にドル決済を使わせないことで、国際決済を難しくできる。

対する中国は、米国債売却という大きな武器がある。その他に米国企業製品への不買運動、人民元通貨圏を拡大して、国際決済ができない制裁を掻い潜るために、米国の地経学上の武器であるドル基軸通貨制度を崩壊させる方向になる。

米国債の売却は不利益もあるが、新規米国債を買わないだけで、米国債の金利上昇が起きる。事実、最近10年国債の金利が3.4%になり、もし、本格的に米国債売却が始まれば、金利6%になるとアナリストは言う。米国債の暴落が起きる。

米中貿易戦争は、中国も大変なことになるが、米国の経済も弱めることが確実である。貿易戦争に勝者はいない。血みどろの戦いになるだけだ。

2. 工場再編
そして中国は経済会議で、米国と血みどろの戦いを覚悟した。それが、通商交渉の拒否である。李克強首相は、人民元を下げないで価値を維持し、人民元通貨圏を拡大するようだ。米国の為替操作国指定を恐れているわけではないと感じる。

米国企業は、中国産部品を使えなくなり、世界的なサプライチェーンの再構築が必要になる。今回の関税UPで日本企業の中国工場から米国への出荷も少なくなる。このため、日本企業も工場の再編が必要になる。そして、次に中国の輸入品全部に25%の関税UPになり、米国への輸出品は、どこで作るかという問題が起きる。

米国は、輸入品を撲滅するべく、同盟国からの輸入品に対しても関税UPをするというので、欧州も日本も、中国と米国の中間に立つしかない。そして、人民元・ユーロ・円通貨圏拡大という、ドル基軸通貨圏を侵食することを共同で行うことになりそうだ。地経学では、基軸通貨を取ることが勝つことになるので、米国の衰退を加速させる。

それと、米中が血みどろの戦いになると、欧州と日本は中国市場の攻略という意味では、米国企業の抜ける分だけ有利になる。漁夫の利になる。13億人の市場を米国は放棄することになる。それにより、米国企業の衰退を加速させる。

そして、米企業のバーゲンセールが来る。内部留保を積み増している日本企業は、積極的に買うことだ。ダウ株価も大幅な下落になる。地経学の基本を無視したトランプ大統領により、米国は衰退を早めることになる。

3. 日米通商交渉の武器
米国の問題点が明確化してきた。税金を低くしたことによる米国の財政赤字が拡大して、より一層の米国債を発行する必要があるが、最大の購入者である中国が少なくとも買わないことになる。次の購入者は日本であり、本来は日本に通商交渉では強く当たれないはず。

それを強く当たるなら、日本も米国債を買わないし、売却も考えるというしかない。米国債金利上昇が起き、米国経済は逆回転して、11月までに景気が後退することになり、中間選挙も負けることになる。このため、トランプ大統領は11月までは交渉を継続して、景気後退を避けるはずで、交渉を引き延ばせるはずだ。

米国が、目標を中国に定めたなら、日本を米国の味方にするべきなのである。という意味では、米中貿易戦争が血みどろになったことは、日本にとっては良いことになる。

もう1つの問題点は米国産農産物、LNGなどの米輸出品の売却先確保である。この部分でも関税的には日本の工業製品の関税は0%であり、米国は2%で、畜産物の関税は、日本は平均約35%、米国は平均25%であり、TPPレベルの関税にすると米国と同等程度になる。

非関税障壁での安全性能などについては、安全性に問題がないなら、法律を変える必要がある。畜産品は消費者の選択の幅を確保するために完全自由化にするべきである。

4. イスラエル対ロシアの戦いか?
シリア内戦で、トルコとロシア、イランの間でイドリブ総攻撃を中止して非武装地域を作り地域を分離して、トルコとロシアが共同で非武装地域の監視を行い、両者でアルカイダ系武装勢力をせん滅するという合意ができた。

しかし、イスラエル空軍機がシリアのイラン軍を空爆、その戦闘機へのミサイルがロシア偵察機に命中して墜落した。ロシア兵14人が犠牲になった。シリア軍の防空システムは、北朝鮮製であり精度が悪く、イスラエル空軍機はロシア偵察機を盾にしたようである。

それと、イスラエルはシリア攻撃場所を事前にロシアに通報することになっていたが、攻撃1分前に通報したことで、ロシア偵察機が回避行動を取れなかった。

このため、ロシアのショイグ国防相は、イスラエルのリーベルマン国防相に対し、報復措置を検討すると伝えた。

これにより、この地域でトルコ、シリア、ロシア、イラン対イスラエル、米国の戦争が起きる可能性が出てきた。サウジなどはロシアを敵にしての戦いには参加しないので、実質、イスラエル対ロシアの戦いになる。そうすると、ロシア軍が使用するイスラエル製レーダー部品を、どう回避するか見物である。イスラエル製半導体の代わりに日本製半導体を使う可能性がある。

米海軍は、イスラエルの軍港を使わず、中国海軍が使用しているなど、トランプ大統領はイスラエルを支援するが、マティス国防長官などはイスラエルから離れている。しかし、トランプ大統領は、イスラエル支援のためにシリアに駐留する米軍を長期に滞在させるとしたが、特殊部隊2000名しかいないのでメインにはなれない。クルド人部隊もロシアを敵にしないので、参加しないと思われる。

イスラエルの孤立化という嫌な感じになってきた。そして、相手がロシアであり、今までの中東戦争とは様相が大きく違うことになる。

さあ、どうなりますか?
(記事引用)




音楽の古典(雅楽・神楽)
ジャズとクラッシック音楽 ジャズ理論 架空民族音楽  

 どのような音楽も、特定の文化や歴史の刻印を帯びています。今、自分を辺境に辿り着いた民族音楽学者だと想像してみてください。 
 そして今、聴いている音楽を、自分がフィールドレコーディングしているのだと、考えてみてください。その音楽は、なんのために存在して、どのような様式や歴史をもっているでしょうか。それはどのような言葉でだれのために発せられているのでしょうか。 

 この感性を磨き、自己省察するための手助けを、このプログラムでは提供します。異言語への翻案や、あたらしい楽器の開発に伴う、音楽の様式の変容は、創造的なプロセスであり、我々にとってのかけがえのない社会的リソースです。 
 個人にとって、それは技法の集合以上の意味を持ちます。今、昔覚えたなにかの曲を、思い出しながら歌ってみてください。オリジナルとどう違っているでしょうか。それを観察することが、あなた自身が文化のただ中にいる存在であり、あなた自身が同時に民族音楽学者であるということなのです。  
 
「小俣 友海氏」著者、は民族音楽についてそう説明する  
#「なぜいま北欧サウンドか」、というタイトルにして記事を書いたのが昨日のことだった。 
 20歳<28歳<、欧州最北端の小さな島国から、なぜ次々と才能あふれる若手音楽家が登場するのか。よもや40年前の「ビートルズ」出現、とまではいわないだろう。「アウスゲイル」の「サウンド オブサイレンス」は秀逸、こちらはサイモンとガーファンクル、さすが北欧の冷めた風を感じるのは、どうしたわけだろう。とその感想綴った。 

 我々(私)が古典音楽を語ると、その話は、能、狂言、越前琵琶、雅楽、神楽など純粋な東洋音楽になるのは必然である。それをどれほど理解しているかいないか、ということは別にして、開口一番そう答えるに違いない。歴史的に外国から閉ざされていた日本は、日本古典音楽以外を知らなかった。(詳しく云えば雅楽は古代中国唐の渡来音楽である)

 ながらく五線譜上の音階というものを理解していなかった日本は、明治以降の文明大変革の洗礼を受けて、その西洋音楽を学ぶこととなる。 

 その基礎が成熟しないまま、世界的な戦争に突入、そして敗戦。その後、怒涛のごとくアメリカポピュラーミュージックのエンターテイメントが席巻した。現代時間で時代的にその足跡をたどることはできる。 

 結論的に、そのことを語るのはいま、いましかない。あと数年もすると、そんな話はオトギ話として子孫に語り継がれるようになるだろう。 

 個人的には「ジャズ」の歴史足跡、本質、理論を知りたいとおもった。もともと自身は古典音楽奏者であり、五線譜とは縁がない。昨今の教育は、日本の古典でも五線譜で学習するようになっている。が、現場では一切そんなことはしない。あるのは師匠の口伝のみである。 

 ジャズはアメリカの音楽である。そのことは、世界中のジャスアーティストが証明している。基本的な西洋音階を学び、ある程度の研鑽を積めば、あとは言葉がなくとも、五線譜で会話ができる。それほとスタンダードな音楽がジャズである。 

 ジャズの旋律は独特で、他のどの民族的な音楽とも違う。もちろん、譜面に起こしたメロディーでどのような音楽ともジョイントできる。 

 それでも、ジャズらしい音楽にするには、一定の約束事か必要で、それにはジャズ理論が欠かせない。それらを学ぶには西洋音楽、とくにクラッシック音楽理論を理解していないと、ジャズの音階の組み立てができない。 #
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雅楽の本道 「式部職楽部の八仙」(2017年NHK元旦放送されたもの)
八仙 由来 utamai.com
八仙(はっせん)とは、もともと渤海楽と呼ばれるジャンルの楽曲でしたが、高麗楽に編入されました。崑崙八仙または鶴舞などの別名が、古学書に表記されています。

八仙 三五要略「鶴舞」ト号ス 別装束舞
   面甲有リ 小曲
「崑崙八仙」ト云フ。破、拍子十三、又十ニ。急、拍子十三
古代中世芸術論「教訓抄 巻第五」-日本思想体系-より筆者読み下し
楽曲・舞とも由来は不明ですが、一説には鶴の一群が大空に飛びかう姿を舞にしたとも言われています。
舞人の装束は別用装束で、鯉の繍文様に網をかけた貫頭衣の袍に、鳥の頭と嘴をイメージしたような、冠と面を着用します。舞の途中で「か~ごめ、かごめ~♪」を連想させるような、4人が輪になって回るような舞振があり、非常にユニークです。

※サンサーラ. 輪廻 - インドの伝統的な転生観である輪廻。サンサーラ(梵、巴: saṃsāra). 転生 - 生まれ変わりの観念全般。 輪廻 (ジャイナ教) - インドの古代宗教における輪廻。サンサーラ。断食による入滅。(ウイキペディア)

いやこれがテレビ番組? それも民放??? 驚きだ。こんなときの形容詞「日本もまんざらすてたもんじゃないさ」、という語句が浮かんだが、みな一様にそう感じているのだろう。

このところ、隣の隣人が突然テレビに出て、なんのことやらとおもったら「素人の新鮮さ」がウリのようだった。もはや手垢のついた芸能関係もネタが見えてきたか、という感慨だ。

そんなことで思い当たるフシがある。地元千葉長生で古典芸能を40年して以来、中にはアメリカ、ニューヨークからわざわざ、それをしたいがためにALTを希望して、仕事をしながら雅楽を演奏する人がいる。すでに彼の滞在は20年が経過した。国内で結婚し日本人妻との間に3人の子がいる。
いまでは日本人の奏者とかわらない。むしろ他にも弓とか琴とか、いろいろやっている。彼は完全にクールジャパン化している。

そうした外人を全面にアピールしたテレビ番組がある。
「私が日本に住む理由」BS.JAPAN ホスト高橋 克典 月曜日21時だ。それはすでに見て知っていたので、これだったら彼も該当するのではと、局にメールを送った。
しばらくして返信があり、本人「ホール・ブライアン」先生を紹介した。あとは本人と局(担当外注)の折衝なので、それで私は退いた。

1月ほど経過して不採用の通知があったらしい。残念な話しだが、相手側の判断であるからどうにもならない。それですべて終わったと思っていたら、そのネタが業界筋に回され、関西の放送局が受けることになったらしい。この時点で私の手は離れているので、進捗状況はまったく知れない。

結果的に3次段階まで下って番組制作の運びとなったらしい。そのリハーサルと本番は地元神社で撮られたので私も立会いで見ていた。

内容は日本の風景のなかで演奏するその姿と、両親の住むニューヨークとの間でネット交信の模様が放送された。
本人いわく、日本の恩師、私と雅楽師匠の堀川氏に感謝しているというものだった。
やはり、こうした外人は特異であるし他にも何人かいたが持続しているのは彼だけだし、それにむくいてやりたといおもった老婆心である。

それはまったく私事であるからさしたる意味はないが、【サンサーラ】と同様の上質なドキュメントという点で共通するとおもい書いてみた。



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