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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

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アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世、BC356年7月20日-BC323年6月10日)
マケドニア王のピリッポス2世とオリュンピアスの間に生まれた。彼はヘーラクレースとアキレウスの家系で、ギリシア世界で最大の両英雄の血筋を引く。父はアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを家庭教師として招く。アレクサンドロスは「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残すほどに、アリストテレスを最高の師として尊敬し、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。BC338年、アレクサンドロスは父に従ってギリシアの南部に出兵しカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。父ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスにコリント同盟を締結させ全ギリシアの覇権を握ると、続いてペルシア東征を計画したが、紀元前336年に護衛のパウサニアスに暗殺された。20歳の若さで王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦い、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国の押さえを重臣アンティパトロスに任せた。

(小アジアの征服)BC334年、父の遺志を継いでペルシア東征に出発し、小アジアに渡ったマケドニア軍38,000はグラニコス川の戦いで小アジア太守の連合軍4万と対峙した。アレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将ミトリダテスを投槍でしとめた。この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得た。カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らし、紀元前333年アンティオキアの北西イッソスにおいてダレイオス3世自らが率いるペルシア軍10万と遭遇するが、ペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。このときペルシアから和睦を拒否した。

(エジプトの征服)シリアでは反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、唯一頑強に抵抗したフェニキアのティル(現ティルス)を屈服させると、さらに南下してエジプトに侵入した。エジプトは11年前のBC343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりで占領は容易であった。BC332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像が祭られた。その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。

(ペルシア王国の滅亡)BC331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで、20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れるとペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンやスーサの主要都市を略奪、ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺と強姦が繰り広げられたうえ、徹底的に破壊して焼き払った。ペルセポリスの徹底した破壊は、ペルシア戦争時にペルシアがアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの復讐の意味もあった。ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。



(バビロン帰還と大王急逝)インドへの遠征を目指し、BC326年にインダス川を越えてヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由に進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。帰還したアレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとる。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王衣を身にまといペルシア風の儀礼や統治を導入したため、マケドニア人の反発を招いた。バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが蜂に刺され、祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、BC323年6月10日に死去した。

(死後のマケドニア帝国の行方)彼の遺将たちが大王の遺言に忠実に「最強の者が帝国を継承」しようとして覇を争うことになり、アンティゴノス、セレウコス、プトレマイオス他の諸将によるディアドコイ(後継者)戦争を経て分裂した。BC3世紀にアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム三王国が出現し、それらは互いに相争っていたものの、ひとまずはこの三国鼎立に落ち着いた。その後、紀元前168年にアンティゴノス朝が滅ぼされたのを皮切りに西方は順次ローマに併合され、ヘレニズム諸三国はいずれもローマに滅ぼされた。東方はパルティアが勃興してセレウコス朝の領土の大部分を奪い、東方領はマケドニア人の手を離れた。以後、東地中海から中央アジアに至る地域はイスラーム帝国の出現まで統一を見なかった。(Wikipedia要約)


●アレキサンダー大王時代のユダヤ

アレキサンダー大王率いるマケドニア軍とパレスティナについては、ほとんど資料が残されていない。パレスチナに進軍した時、ほとんどの都市はペルシャ支配を嫌っていたので、戦うことなく服従したが、ティル(ツロ)だけはダレイオスに忠誠を示して抵抗した。結局マケドニア軍は7カ月かけて陥落させている。

歴史家ヨセフスはユダヤ古代誌で、「近隣部族はこぞって貢納金を贈ってアレクサンダーに忠誠を示したが、ユダヤはなぜかこれをしなかった。ティル(ツロ)攻略後、アレクサンダーは軍をエルサレムに進めた。当然人々は、アレクサンダーがユダヤを懲罰し、大祭司に死を与えるだろうと予想した。当時のエルサレムの大祭司はヤドア(ネヘミヤ時代の大祭司エリアシブの子孫)だったが、彼は夢で神の御告げ「白い衣を着て、城壁の外まで出迎えなさい」を受けていた。そこで、エルサレムの主だった者が贈物を携えて王を迎えに行った。アレクサンダーが到着すると、アレクサンダーは彼らを見て、自ら大祭司に挨拶し神の前に額づいた。側近が驚いていると、王はかつて見た夢の物語、「私がまだマケドニアにいたとき、夢の中に神が現れて『これからおまえは全世界を征服することになる。さあ、行きなさい』と言ったが、その時の神の姿がこの大祭司と同じ白い衣だ。私がこの遠征を実行し、ペルシャを滅ぼし、すべて心に願うことが実現できたのも神の導きだと思う」と語った。それからアレクサンダーはエルサレムの神殿に入り、律法にかなうやり方で神に犠牲を捧げたと言う(正当化する作り話に過ぎない)。

現実には、長年ペルシャ帝国の寛容な宗教政策に慣れていたユダヤ人は、西からの新しい権力者アレキサンダー大王の政策が不明なので、簡単には従う事はしなかったが、当時エルサレムはそれほど影響力もない町だったため、あまり問題にならなかった。アレキサンダー支配時代も十年間ほどで終わった。それよりも、その後のディアドコイ(後継者)争いによる混乱が問題だっただろう。パレスティナはシリアとエジプトの狭間で、プトレマイオス朝とセレウコス朝の力関係如何では、戦乱の地になる可能性があったからだ。しかし長い混乱は続かず、結局プトレマイオスがいち早くパレスティナを支配下に治めたので、ユダヤはプトレマイオス朝の支配下に置かれ、宗教寛容政策のお陰で一時の平和を謳歌する事となった。しかし、プトレマイオス朝とセレウコス朝、北と南の権力闘争・領土争いの戦いは何度も起ってしまう。ダニエル書には、これについても黙示録的に描いている。

●ダニエル書とヘレニズム支配

ネヘミヤの宗教改革で、ユダヤはエルサレム神殿と律法を中心に結束した。ペルシャ帝国の支配の中でユダヤ民族の共同体を成立させた。軍備なき祭祀共同体は、大祭司をトップに儀礼的遮断を強化する事で、民族の誇りとアイデンティティを保持する。ペルシャ帝国が滅び、アレキサンダー大王も亡くなって以降、ヘレニズム諸国の抗争、ローマ帝国の台頭で、パレスチナを巡る政治的情勢が大きく変化する。ダニエル書は、ギリシャ文化の浸透、ヘレニズム化の激動の時代、シリヤ王アンティオコス4世(エピファネス)支配下で宗教迫害が激化したマカベア戦争頃(BC167年)に最終編纂されたと考えられている。

ダニエル書は預言書というより黙示文学に近く、ユダヤ教正典では諸書に分類されている。支配国セレウコス王朝批判と支配者への審きという内容のため、弾圧を恐れて国名も王名も仮の名前にし、主人公の名も伝説上の知者ダニエルに託している。1章~6章は前編、宗主国の宮廷に仕えているダニエルが、天上の秘密を告げられて王の夢解きをする物語。ダニエル書のさわりだけ記しておきます。

(前編)バビロン王ネブカドネツァルは何度も同じ夢を見て不安になり眠れなくなり、その解釈を賢者に求める

(ダニエル2:31-35)王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。これがその夢です。

この箇所は、ダニエル(かつてのイスラエルの王侯貴族となっている)が王に夢を解き明かす場面。金の頭は諸国を支配するバビロン王ネブカドネツァル。その偉大な王の死後、銀(第二の国)、青銅(第三の国)、鉄と陶土(第四の国)と次々に国が変わるが、最後は大きな石のような大国がすべての国を滅ぼし、支配するようになる、とダニエルは王に解き明かす。

(注釈:偉大な王と真の知者ダニエルのみに明かされた天上の秘密)強大な四大帝国の将来。これは、バビロン(新バビロニア、BC625-BC539年)、メディア(BC715-BC550年)、ペルシャ(アケメネス朝、BC550-BC330年)、ヘレニズムの4国の4人の王を意味し、最後の大きな石はローマ。「人手によらず」はイスラエルが武力行使することなく、4つの支配者は自滅するというもの(基本的には7章の4頭の獣の幻と同じ)。これは当時、凄まじい迫害を加えているセレウコス王朝アンティオコス4世エピファネスの大弾圧も、その終末は近い、結局台頭中のローマにより滅ぼされる。神に支配される新しい秩序の到来は近いと、暗に人々を激励している。過去のネブカドネツァルの時代から未来を見通す預言としている(実際は事後預言)。

(後編1)ペルシャ時代、ダニエル自らが物語る4つの夢と幻(書かれたのは、遥か後代のアンティオコス4世エピファネスの宗教弾圧期)

ダニエルは示された一連の黙示に一層苦しみ悩む。もはや知者ダニエルでも出来ない幻の解釈を、み使いに求めた。

(聖書引用はながくなるので省略、注釈のみ)

(注釈):4つの怪獣は、バビロン、メディア、ペルシャ、ヘレニズムの4国を指し、4人の王を意味する(2章のネブカドネツァルが見た「巨大な像」の夢の再現)。このうち、10本の角のある第4の怪獣に相当する国(アレキサンドロス大王)が最も傲慢だが(7:19~20)、やがて滅亡して10人の王(10本の角)に分裂し、そのうち一人の王(一本の角、シリヤ王エピファネス)が立つという。その角(エピファネス)は一時聖者と戦って勝つが(7:21)、やがて「日の老いたる者」神が審きを行い、滅ぼされてしまう。「いと高き者の聖者」(「人の子のような者」と同一)が勝ち、王権をうけてメシアとされると解き明かす。これをまとめると、第4の国・アレキサンドロス大王の征服後、一人のシリヤ王エピファネスが神と敵対して「いと高き方の聖者」である大祭司(オニア3世)を悩まし殺害する(7:25)。やがて審判が行われ、エピファネスは滅ぼされる(7・26)。その審きの座に「人の子のような者」が天の雲に乗って来て、「日の老いたる者」神の前で王権を受けてメシヤとされる(7:13-14)。この王権を受けた「人の子」のような「いと高き者の聖者」とこの聖なる民が、諸国・諸民族を解放して、権力的な支配を終らせる、という幻(7:15-27)。この最後の審判の幻を黙示の基本とし、変形しながらこの後も登場。


「チプラスのギリシア世界.1.2.3」 了
シリーズ始めに戻る http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52055532.html
 

ストアーズ.JPの新企画 CD販売


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※著作権を侵害する可能性のある作品や、タワーレコードにて今回の企画としてふさわしくないと判断させていただいたCDにつきましては、掲載をお断りさせて頂く場合がございますので予めご了承ください。
掲載期間は予定となります。事前予告なく変更される場合がございますので予めご了承ください。

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たった1秒の僅差???
2015年7月1日午前8時59分59秒→「59分60秒」、を挿入して完了、ということであるらしい。
1秒余計にセットして何が変わるのか、まったく「呪文」のような操作で世の中、自分の生活は何も変わらない。
いや、変わったかもしれないが、その変わったことを認知する方法を誰も教えないので、代わったかも知れない変わらないかもしれない。

そもそも回転する大宇宙(銀河系)を意識して地球上、そして自宅では生活していない。だから「コペルニクス」的変革を引用しなくても、太陽がこの地球のために、はたまた自分のために周っていると勘違いしていても、一向に差し支えない。(それでは絶歌論理とおなじになってしまう~)

難しいことはさておいて、「1本の木は2本の木とは異なる」、と子供騙しのような、子守唄を唱えた世界的物理学者がいる。20世紀の偉大な宇宙物理学者「アインシュタイン」が、難しい数学理論を平易に、頭の悪い我々に噛み砕いて説明してくれたのが、その数の定義だった。
たしかに1本しか見えない杉の木と、その隣にもう一本、木があったら風景はかわる。それが100本、千本、1兆本となれば、景色はまったく違うものにみえる。

アインシュタインは、その違いを説明している。その観点で「うるう秒」を認識してみると、とても大事なセッテングに思えるから不思議だ。

もともと自然科学は、ギリシア発祥の学問であるが、そのギリシアは今、デフォルト問題で汲々としている様は、なんとなく滑稽に見えるが、1本と1兆の差は無いに等しい、と言い出したら、やはりギリシア哲学は健在だった、ということなのだろうか。

時間・時刻の定義-「うるう秒」の調整はどんな意味があるのか-
中村 亮一
保険研究部
電話番号:03-3512-1777 
e-mail:nryoichi@nli-research.co.jp

研究員の眼2015年06月22日
今年(2015年)の7月1日(水)午前9時直前(日本時間)に3年ぶりとなる「うるう秒」の調整が行われる。これを機会に「時間・時刻の定義」等について考えてみた。

1-「うるう秒」の調整とは
   「うるう秒」の調整は1972年から行われているが、今回は26回目にあたる。因みに、「うるう秒」の調整とは、総務省及び独立行政法人情報通信研究機構(NICT)のプレスリリース資料(2015年1月16日)によれば、以下のとおりである。

「うるう秒」の調整とは

実際に何が起こるのかというと、日本においては、2015年7月1日午前8時59分59秒の次に(通常は存在しない)59分60秒が挿入されて、その後9時00分00秒となる1。

(参考)2015年7月1日の【日本時刻】

 1|我々の生活等への影響は
    今年7月1日は水曜日の平日で、しかも午前9時という時刻にうるう秒が挿入されることから、万一システム等にトラブルが発生した場合に影響が拡大する可能性があるということで、関係者は各種の対策を進めてきている。
    ただし、一般市民の普通の生活には殆ど直接的な影響はなく、例えばスマートフォン、パソコン、電波時計等については基本的には自動的に補正等されるので、特段何か対応する必要があるわけではないとのことである。

 2|次のうるう秒の調整日は決まっていない
    ところで、うるう秒については、地球の自転速度が不規則なため、2015年7月1日の次のうるう秒がいつなのかは決まっていない。
    実際に過去のうるう秒の(世界の標準時ベースでの)実施日をみてみると、1972年から1979年までは毎年、1981年から1998年までは1年から2年毎に行われていたのに、2005年からはほぼ3年毎に実施される形になっている。このようにうるう秒の実施ペースが鈍ってきていることは、実は「地球の自転速度が(現在の天文時の時間のベースとなっている)1820年時点よりは遅くなっているものの、ここ40年間ではむしろ早くなっている」ことを意味している。

 3|うるう秒の廃止問題
    そもそも、うるう秒の導入については、賛否両論があり、現在も廃止が世界的に議論されている。廃止論者は、マニュアルでの対応を不規則に求められることに伴う各種のリスク発生の可能性等を問題視している。廃止反対論者は、天体観測やアンテナ制御等のソフト&ハードウェアへの影響や地球の自転との同期の乖離等を気にしている。今年の11月にジュネーブ(スイス)で開催される世界無線通信会議(WRC)でうるう秒の廃止の是非が決定される2ことになっている。
    地球の自転は長期的には潮汐力を原因3として減速傾向にあり、将来的にはより高い頻度でうるう秒の調整が必要になってくると言われているようであるが、それでも仮にうるう秒による時間調整を行わない場合でも、500年後で約30分程度の差異ということである。

2-時間と時刻の定義
   ここで、うるう秒による調整の前提となる「時刻」及び「時間」の定義について紹介する。

 1|時刻の定義
    現在の時刻は、先のNICTの説明にあるとおり、(1)世界の標準時(協定世界時)(UTC)に基づいている。これは、高精度な原子時計に基づく時間の長さをベースとしつつ、以前から使われていた地球の公転・自転に基づく(2)天文時(世界時)(UT1)との関係を考慮して、(2)とのずれが0.9秒以内におさまるように、原子時計に基づく(3)国際原子時(TA1)に対して過去からうるう秒の調整を行ってきたもの、ということになる。
    なお、国際原子時4は1958年から時を刻んでおり、1972年に初めてうるう秒が導入された時点で、協定世界時との差が10秒あったため、今回の改定で両者の差異が36秒となる。このことは1958年から地球の自転が(原子時計による時刻に比べて)36秒遅くなったことを意味している。

協定世界時(UTC)

 2|時間の定義
    時間の基礎となる「1秒」の定義については、以前は、地球の自転の周期、即ち1日の長さ(LOD)を基に、その86,400分の1(1日=86,400秒=24時間×60分×60秒)と定義されていた。その後1960年からは、地球の自転よりも変動が少ない公転に基づいて「1900年1月1日時点の地球の公転速度に基づいて算定される1太陽年の31,556,925.9747分の1」と改定5された。
    1967年に、より高精度化と安定化を図るために「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍に等しい時間」と改定され、1997年からは、「この定義は温度0K(絶対零度)のもとで静止した状態にあるセシウム原子に基準を置いている」とされ、現在に至っている6。

 3|各地域の時刻(標準時)
    我々が実際に使用している時刻は、さらに各地域が定めている標準時によっている。日本の場合には協定世界時より9時間進んだ形になるが、国によっては協定世界時との関係が様々になる。サマータイムを採用している国では季節によって異なり、広大な国土を有する国では、米国やロシアのように複数の時間帯(共通の標準時を有する地域)を有する国もあれば、中国のように1つの時間帯を採用している国もあることになる。

3-時間の高精度化について
   以上、「うるう秒」及び「時間と時刻の定義」について簡単に紹介してきたが、以下では個人的な感想を述べてみたい。

 1|高精度な時を刻む原子時計
    現在の高精度な「1秒」を決定しているのは「温度0Kのもとで静止した状態にあるセシウム133の原子」とのことだが、それでは原子時計において「温度0K」「静止した状態」等がどの程度の高精度で実現できているのか、重力や電磁波等の影響を十分排除できているのか等の疑問が発生してくる。
    これについては、実際にこうした点も考慮して必要な補正等も行いながら、時間を決めているとのことである。ただし、こうした効果を評価するには1ヶ月程度の期間を要するということで、高精度な協定世界時はリアルタイムには存在しないということである。

 2|うるう秒について
    そもそも、地域や季節によって時刻が異なり、人々が感じる時刻の生活感覚も必ずしも同一とは限らない。従って、頻繁なうるう秒の調整によって、地球の自転と同期させることにどの程度の意味があるのかという気もする。また、うるう秒の調整により、本来的に連続的で安定的であるべき時刻が、不連続で必ずしも安定的とはいえないものになってしまっている印象を受けてしまう。
    時間を高精度化し、うるう秒の調整を行うと決めたことにより、逆にその結果発生する各種の課題解決のために、例えばシステム等に相当な負荷をかけた対応等が必要になってきている。

 3|時間の高精度化の必要性
    うるう秒の調整はもちろん人間が定めたルールによるものであるが、その背景には、時間の定義を高精度化したことが挙げられる。時間の定義は、長さ7等の計量単位の定義にも関係していることから、その改定は各方面に幅広い影響を与えることになる。
    従って、なぜそこまでして時間を高精度化する必要があるのか、ということにもなる8。
    これについては、産総研(AIST)のWebページ9によれば、1秒の精度が高まることにより、例えば、電気振動などの現象が単位時間当たりに繰り返される回数を表す「周波数」がより正確になり、これまで以上に大容量・高速の情報通信が実現し、カーナビや携帯電話などに使われるGPS測位技術が高度化する、ことになるとのことである。さらには、基礎物理定数の再検証等の最先端の科学研究にも時間の高精度化が不可欠とのことである。

4-まとめ
   科学等の世界においては、技術の進歩等に伴い、高精度化が進み、各種の定義の改定が行われていく。このことはもちろん極めて重要な意味を有しており、今後ともさらなる追究が行われていかなければならないことは言うまでもない。
   ただし、一方でこうした改定に伴い、過去の定義に基づいて構築されている各種のシステム等に対して、人間が定めたルールの中での整合性確保等のために、他の定義の改定等多くの調整等が必要になってくることになる。その結果として、例えばうるう秒の調整のように、全て機械で自動的に対応することが困難になり、何らかの形で大きなコストと負荷をかけてのマニュアルでの対応等が求められてくることにもなる。
   このことはある意味で何とも皮肉な結果という感じもするが、逆説的に言えば、人間の存在意義を示すよい機会となり、新たなビジネスチャンスを生んでいる、と考えることができるのかもしれない。
   いずれにしても、こうやって考えてみると、物事を追究していく過程で、定義を高精度化していくことの意義、困難さ、複雑さについて再認識させられた気がしてくる。
   日常生活ではあまり意識することはないが、1秒の長さというのは極めて重要な意味を有している。「時間の概念の持つ奥深さ」について改めて考えさせられるよい機会になった、と感じた次第である。
 
  1 過去のうるう秒は全て「1秒追加される」ことになっていたが、理論的には「1秒削除される」こともありうる。削除の場合には、59分58秒の次の59分59秒が削除されて00分00秒となる。
  2 日本や米国は廃止を主張している。
  3 月の引力等による潮汐により、海洋底が摩擦を受け、地球の自転にブレーキがかかるのが主な原因と考えられている。
  4 世界各国に約 400台以上ある原子時計の平均で決定される。
  5 これは、過去の天文観測結果に基づけば、ほぼ1820年時点でのLODを基に「1秒」と定義したことに相当する。
  6 1秒の長さについては、協定世界時(UTC)と国際原子時(TA1)は原子時計に基づいており同じだが、天文時(UT1)は異なっている。
  7 長さについては、「1メートルは、1 秒の 1/299,792,458 の時間に光が真空中を進む距離」と定義されている。
  8 なお、さらなる時間の高精度化に向けての研究も進められており、「秒を再定義」することも考えられているようである。
 











ビル・ゲイツの別荘で長野県軽井沢はどう変わる? 軽井沢の別荘事情
マイナビ ニュース OFFICE-SANGA  [2013/08/09]
マイクロソフト社の共同創業者・会長であり、世界的な大富豪であるビル・ゲイツ氏が、軽井沢町内の敷地2万2,000平米に別荘を建設中というのは、地元では誰もが知るところ。完成の暁には、日本有数の避暑地はどのように変貌するのだろう。現地でレポートするとともに、軽井沢の方向性を探ってみる。
       

ところで、軽井沢における近年の別荘事情はどうなっているのか。前出の社長に尋ねてみると、「うちは30年以上ここで商売をしているけど、1店舗しかなくて事業規模が小さいせいもあり、業況にほとんど変化はないよ。逆に、ゲイツ氏の別荘建設後の景気に期待している」とのこと。

加えて、町内で3店舗を営業しているというA社の役員にも質問。「当社は不況と言われる中でも、比較的土地・建物の需要に恵まれています。別荘の建設現場が途切れたことはほとんどありません。聞くところによると、近年は他県の別荘を売り払い、ここで新たな別荘を求める富裕層が増加しているそうです」。

確かに、軽井沢は傍目(はため)にも分かるように、この5年間くらいで確実に変わってきている。
ひとつは、自転車利用者が増えたということ。これに伴って、至る所に自転車を貸し出す店舗が出店している。これにはいろいろな理由が考えられるが、自転車の性能が向上し、より乗りやすく安全になったことなども影響しているらしい。また、自転車のデザイン自体も優れている。

軽井沢では自転車での移動が盛んで、至る所で自転車が貸し出されている

通年型のリゾート地へと変貌する軽井沢

また、軽井沢と言えば避暑地・別荘地としての印象が強く、冬場などはシーズン・オフという印象をお持ちの読者も多いであろうが、今ではこの考え方は通用しない。軽井沢は既に、通年型のリゾート地へと変貌しつつある。

その強力な原動力となったのが、「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」だ。同施設はかつてゴルフ場があった場所に、長野新幹線軽井沢駅とともに設けられた。これまでに、East・New East・New East Garden Mall・味の街・West・New Westの6つの店舗群が配置されている。

軽井沢・プリンスショッピングプラザの出現に伴って年間を通して顧客が訪れるようになり、この影響で、ツルヤ軽井沢店、マツヤ軽井沢店などのスーパーマーケットが取扱量を拡大。並行して、コンビニエンスストアなどの小規模店舗も相次いで出店した。

こうなってくると、冬期は閉鎖していた各種店舗も需要の高まりから通年型へと営業形態を変化させ、結果として、軽井沢は通年型のリゾート地へと変貌を遂げつつあるのだ。ただし、冬場の軽井沢は気温が低く積雪もあり、防寒と乗用車の冬用タイヤ装着は必須条件である。

軽井沢・プリンスショッピングプラザは、夏休みに入って連日の大賑わい

軽井沢でおすすめのスポットとは?

では、軽井沢でおすすめスポットはどこか。前述の通り軽井沢は通年型のリゾート地へと変貌しつつあるため、ほとんどのリゾート客の要望に応えられるほど、多くの立ち寄りスポットを抱えていること間違いなしだ。

旧軽井沢メインストリート(旧軽井沢銀座)、旧三笠ホテル、雲場池、白糸の滝、千ヶ滝、碓氷峠、塩沢湖、浅間山、油屋旅館、つるや旅館、万平ホテル、軽井沢大賀ホール、ショー記念礼拝堂他、矢ヶ崎公園、堀辰雄文学記念館、セゾン現代美術館、小瀬温泉、ゆうすげ温泉、塩沢温泉、塩壺温泉、星野温泉トンボの湯、立ち寄りの湯 軽井沢千ヶ滝温泉……。枚挙にいとまがない。

1906年(明治39年)5月に開業した旧三笠ホテルは、今や歴史的建造物として国の重要文化財に指定され、森林の中でひっそりとたたずんでいる

“La volonte(ラ・ボロンテ)”でしばし休憩

遊びどころがあれば、休憩どころも必要だ。そこで、旧軽井沢ホテルの近くにある小洒落(しゃれ)たお店へ。この「La volonte」は森の中の小さなお店で、アーティストによるクラフトや雑貨を選りすぐって集めている。そして、ゆっくりと軽井沢を過ごせるカフェ・コテージも併設している。

筆者はここで、素朴な味のチーズケーキ(400円・税込み)とシナモンが掛かったカプチーノ(650円・税込み)を注文。手作りの味と静寂感のある店で浸れる幸せをかみしめた。ちなみにLa volonteは、4月中旬~11月下旬のみ展開している。

旧軽井沢ホテルの近くで見つけたお店“La volonte(ラ・ボロンテ)”。軽井沢にはこういった憩いの空間が普通にあるのがまた魅力

軽井沢は国際的なリゾート地へ!?

本題から逸れてしまったが、今回の取材のテーマ、ゲイツ氏の別荘出現で軽井沢はどんな影響を受けるのか?ということである。これに対する答えは簡単には出てきそうにないが、ある意味軽井沢がいよいよ、日本有数の避暑地から国際的なリゾート地へと、変貌を遂げる過程と見ることもできるのではないだろうか。ゲイツ氏別荘の完成は今冬と言われており、一体どういう影響が出てくるのか、注目せざるを得ない。 

上総氏 上総国の大武士団
そもそも両総平氏は千葉三郎常房の鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)などを除き、初期においては名字地とした地も下総国に偏っており、上総国には夷隅郡内にわずかに所領が見えるに過ぎない(『徳嶋本千葉系図』)。つまり、両総平氏の根本はもともと下総国であった可能性が高いと思われる。

いよいよ歴史の核心に入ってきた。あちこち断片的に集めてきた資料の一つ一つを縒り糸で綴じ、一つの歴史物語の輪郭が見え始める。 
 
時代が飛んで2.26事件の「斉藤実」暗殺

2・26事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。
事件の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。

当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。
もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。(27日、その別荘の在り処とは千葉県上総国一宮)

斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
※日本国海軍軍人「斉藤実」(海軍参謀本部員、秋津洲、厳島各艦長を経て、日露戦争当時は海軍次官。第1次西園寺内閣海相、以来第1次山本内閣まで8年間海相をつとめた)。

2.26日、海軍トップの「斉藤実」が、帰るべき別荘に帰らなかった理由は、ただ一つ、「グルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した」、というのが明確な理由として歴史書に残されている。それにはまったく疑う余地はない。
自サイトでも記したが、その偶然は、まことの偶然か、それとも偶然を装った必然か、今となっては知る由も無いが、事件の核心は「斉藤実」が標的となっていたことはよく知られた事実である。天皇のご意見番としてぴったり寄り添い、また、死してお悔やみの言葉をいただく。
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軍人斉藤実が一宮という土地に別荘居宅を構えるのは、特に珍しいことではなく、その当時にあって、その他の著名な人物も別荘地を所有していた。それを広く宣伝した人物がいて、その人物にもスポットをあてて物語りは作られる。

かつて京都南禅寺界隈の広大な別荘群の一角に軍人「山縣有朋」の別荘があったことは、よく知られた事実である。そのことと、時間を隔てて斉藤実が「天平」の時代より名を馳せた上総地方に居を構えるというのは、軍人特有の匂いを嗅ぎ取る鋭敏な嗅覚によるところが大きいとみる。

そのことについて、これから歴史の糸を紡いで行こうとする「御伽草子」のような物語である。 
 
文中にある「鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)」という地名は、今でも「いすみ市」に所在する。
現在はその場所に「清水寺」が建立されており古刹として、地元の人々の崇敬を集めている。その地の由来については諸説があり、今となってはどれが真実か皆目見当もつかないが、すぐ脇には夷隅川が流れており、時代を考慮して陸路より海路河川交通と考えたほうが理屈があう。
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もともと、この夷隅(延喜式にも載る)は穀倉地帯としても有名であった。また「古語拾遺」によれば「麻」栽培生産の適地として、「忌部氏」が上陸したという伝説も見逃せない。さらに、ここいらの土地から地鉄を採取したという言い伝えもある。
既に物故した古老の話によれば、「アカハガネ」と称した土地もあったと訊く。それを良く吟味すれば「玉鋼」であることは、充分理解できる話しだ。

 
平常長の頃の両総平氏勢力想像図
「上総氏」は両総平氏の族長家、惣領家とされている氏族である。この氏族を指して「上総氏」とするのは厳密には不適切であるが、便宜上「上総(権)介」に就任(除目による任官ではないだろう)した平氏を指して「上総氏」と呼ぶ場合もある。

両総平氏の歴史上、古くは平高望、平忠常のみが「上総(権)介」に就任した記録があるのみ(平高望の上総介就任は「六国史」や公文書での記録はないが、『将門記』や『神皇正統記』などに記述)で、忠常の子・常将や孫の常長が「上総(権)介」に就いたという明確な史料はない。つまり、惣領家が必ずしも「上総(権)介」に就任したわけではない、ということになる。

そもそも両総平氏は千葉三郎常房の鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)などを除き、初期においては名字地とした地も下総国に偏っており、上総国には夷隅郡内にわずかに所領が見えるに過ぎない(『徳嶋本千葉系図』)。つまり、両総平氏の根本はもともと下総国であった可能性が高いと思われる。

一般に、千葉氏は上総国山辺郡大椎(千葉市緑区大椎町)から千葉へ本拠地を移したとされているが、大椎からは明確な平安期の遺物は見つかっておらず、どれほどの信憑性があるか疑問である。

平常兼亡きあと、遺跡は長男・常重が継承したと思われるが、いまだ幼少であったためか、天治元(1124)年6月、常兼の弟で下総国相馬郡に私領を持っていた相馬五郎常晴が常重を養子として相馬郡を譲っている。

平常兼・平常晴の頃の両総平氏勢力想像図  (■:下総平氏 ■:上総平氏)
なお、常晴は両総平氏の「惣領(族長権者)」ともされるが、千葉氏をはじめ東総の下総平氏庶家が「上総氏」から惣領権の行使を受けていた形跡が見られない。あくまで父権による子の支配に過ぎなかったと想像される。

惣領の子を親世代の庶子が養子となして所領を譲る例もあるため、常晴が常重を養子となして相馬郡を譲った事実をして常晴を「両総平氏」の「惣領」と断定する証明にはならないであろう。つまり、「上総氏」を「両総平氏」の族長権者(惣領権者)と考えることは難しい。

両総平氏が上総へ進出したと思われる事例は、常晴以前においては兄の千葉三郎常房の夷隅郡鴨根郷進出を見るにとどまる。つまり、「両総平氏」が上総国へ進出したのは比較的新しく、常晴より前には、伝承上の大椎郷ならびに忠常以来の所縁があった夷隅郡の一部を領するのみだったことがわかる。

常晴は常重に相馬郡を譲ったのち、何らかのきっかけにより上総国へ移ったことは、常晴が「上総介」と呼ばれていた(永暦2年4月1日『下総権介平申状案』)ことからも事実であろう。実際は常晴の子・常澄が急速に上総国に勢力を拡大していったのだろう。

平常重・平常澄の頃の 両総平氏 勢力想像図
(■:下総平氏 ■:上総平氏)
常晴が上総国内で本拠とした場所は、遠祖・忠常ゆかりの夷隅郡であったと推測される。常晴にとっては曾祖父に当たる平忠常が居住した場所が「伊志み」とあり(『小右記』)、以来、忠常の子・常将や孫・常長が伝えてきたのだろう。この地にはすでに兄・三郎常房が入っていたが、常房の子である千田常益、原常宗、次浦常盛らはいずれも下総国千田庄を名字地としており、常房一族は上総国から撤退し、下総国千田庄へ移っていることがわかる。常房亡きあとと推測されるが、常晴が常房の跡を襲う形で夷隅郡に入ったのだろう。推測だが、この常晴の上総移住時期が、常晴が常重に相馬郡を譲った天治元(1124)年6月なのかもしれない。 

そして、常晴の子・平常澄は長男・伊南新介常景が夷隅郡伊南庄にいた(荘官か)ことからも想像できるように、夷隅郡を中心に勢力をひろげている。その勢力拡張の背景にあったのは、おそらく「上総権介」という(在)国司的な権力と、上総国一宮である玉前神社の神威であり、常晴とその子・上総権介常澄に至って上総平氏は在地勢力を自己勢力に組み込みながら、上総国内への影響力を次第に拡大させたのだろう。

常澄には、印東次郎常茂、匝瑳三郎常成、埴生六郎常益、木内太郎常範、相馬九郎常清といった下総国を名字地とする子息があり(『徳嶋本千葉系図』)、下総国内にまでその勢力を伸ばしたことがうかがわれる。

ただし、少なくとも常澄後の上総氏が下総国の一族に対して「族長権」を行使した形跡はなく、常澄亡きあとはそれぞれが独立した勢力となったと推測され、上総氏自体の勢力基盤は上総国内にほぼ集約されていたと推測される。

●両総平氏系譜(赤は下総国へ移った人物) 
 平常長――+―平常兼――――千葉常重
(下総権介)|(下総権介) (下総権介)
      |         ↓
      |      +=千葉常重―――千葉常胤―――相馬師常
      |      |(下総権介) (下総権介) (二郎)
      |      |
      |      +―戸気長実
      |      |(五郎)
      |      |
      +―相馬常晴―+―平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
                    |(伊南新介) (伊北庄司)
                    |
                    +―印東常茂―+―長南重常――+―長南久常
                    |(印東介) |(太郎)   |(次郎)
                    |      |       |
                    +―匝瑳常成 +―印東頼常  +―多名気常泰
                    |(三郎)  |(印東別当) |(三郎)
                    |      |       |
                    +―大椎惟常 +―南郷師常  +―米満親常
                    |(五郎)  |(四郎)    (七郎)
                    |      |
                    +―埴生常益 +―戸田常政
                    |(六郎)   (七郎)
                    |
                    +―木内常範 
                    |(太郎?)
                    |      
                    +―平広常――――平能常
                    |(八郎)   (小権介)
                    |
                    +―相馬常清―――相馬貞常
                    |(九郎)   (上総介?)
                    |
                    +―天羽秀常
                    |(天羽庄司)
                    |
                    +―金田頼常
                     (権太夫)


伝承
『古語拾遺』には、天太玉命の孫・天富命が阿波忌部を率いて東遷し、房総半島に上陸したとしている。この記述の中で、「麻」の古語を「総(ふさ)」というとし、古代の総国(ふさのくに;のち安房国・上総国・下総国に分立)は東遷した忌部が麻を植えたことによるとしている。また、穀(かじ)の木を生むことにより結城郡が、阿波忌部の居るところとして安房郡(古くは阿波とも表記。のち安房国)が名付けられたとしている。
同書では、天富命は安房郡において太王命社を建てた旨が記され、現在の安房神社に比定される。安房神社では昭和7年(1931年)に海食洞窟が見つかり多数の人骨が発掘され、これを忌部氏に仮託し忌部塚として祀っている。その他にも千葉県域に多くの関係地が残っている。
なおこれら伝承がある一方で、安房に忌部が設けられたという史料等は見つかっていない。そのため、この伝承は東国における中臣氏の勢力と対抗するために、忌部氏が奈良時代に造作したものと見るむきもある。(記事引用〆) 




(参照ウィキぺデア)
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/enjouji.htm






 

歯科治療と金属 冶金学
 シュメールの冶金
 矯正治療だけでなく、歯科治療では、たくさんの金属が使われていますが、口腔内で使用するので、為害性のないものでなければなりません。そのため、歯科では貴金属が多用されます。

 矯正治療も、Angleの時代は金合金や、白金加金合金が使われていたので、治療費はものすごく高価だったといわれて患者さんは億万長者の子弟だけだったといわれています。
 その名残りか、矯正治療は高価であるとイメージが付きまとっていますが、現在では貴金属はほとんど使用しないのですが、全歯牙を可及的、理想的に配列するためには一人ひとりのトータル・チェアータイムが大きいので高価にならざるを得ません。

 アメリカで矯正治療が普及したのは安価なステンレス・スチールが発明された後といわれ、金属材料の発達は大きな貢献をしています。

 メソポタミア文明
 そもそも鉄を初めて使ったのは、シュメール文明(メソポタミア文明)であったといわれ、その鉄は隕鉄という隕石の一種を加熱し、たたいて武器にしたといわれています。 しかし、鉄鉱石を溶解する製鉄技術を確立したのは紀元前15世紀に現れたヒッタイトといわれています。

 ダマスカス刀
 ステンレス・スチールは先人の知恵の寄せ集めによって作られたようで、鉄は武器や生活の道具として使われてきた経緯があり、構造部材として鉄が使われるうになったのは、産業革命以後です。
 十字軍の頃はヨーロッパの剣より、イスラムの剣の方が優れており、特にダマスカスで作られた刃物が珍重されていました。ダマスカスの剣は日本刀のように刃に波模様があります。
 ダマスカス剣はウーツ鋼と呼ばれるインドで作られた鋼をアラビア商人がシリアのダマスカスで鍛造して作った剣です。
 ダマスカス(ウーツ)鋼はインドの旧デリーのイスラム寺院にあるいわゆる2000年以上錆びない「デリーの柱」がそうであるといわれてきましたが、実際はダマスカス鋼とも関係がなく地中で錆が進行しているのがわかりました。(デリーの柱)

 その後、ウーツ鋼もダマスカス剣も失われ、伝説だけが残り、その後、色々な国で色々な人が再現を試みました。
 
 1821年フランスのピエール・ベルティエという鉱山技師が、クロム鉱石と鉄鉱石を混ぜて溶解し、できた合金の耐酸性が高いことを発見し、このフェロクロムからさらにクロム鋼を作り、刃物を作ったところ、切れ味も申し分なく、耐酸性もあることを確認、研磨するとダマスカス模様が現れました。

 台所の流しや食器に使われる「18-8」ステンレスは刃物ようのステンレスより遥かに錆びにくいのですが、「焼き入れ」できません。
 これがステンレス・スチールの始まりで現在ではJIS規格でも70種類以上あり、生活のあらゆる場面で使われています。
 医療分野でのステンレス鋼の採用も早く1925年にはニッケルメッキのメスの代わりにステンレス製のメスがカタログに載り、1938年にはほとんどのメーカーでニッケルメッキ製は駆逐されています。歯科領域でも、医療用器具や矯正治療様ブラケットやワイヤーなどはステンレスで作られています。更に、ニッケルにアレルギーを持つ患者さんでは、ニッケル含有量の少ないステンレス製のインプラント材が使われることがあります。

 紀元前55世紀、金属同士を混ぜ合わせると、性質が変わることは古代からわかっており、紀元前5500年頃~紀元前3500年頃に栄えた「ウバイド文化」で、宝石としても利用されていた孔雀石(マラカイト)を加熱すると銅の塊が得られることが発見され、紀元前4000年~3000年には中近東だけでなくバルカン半島でも銅精錬が始まり、紀元前3000年頃、古代メソポタミアのシュメール遺跡で最古の青銅器が発見されています。

 銅の融点は1083℃で、錫(融点231.9℃)と混ぜると約875℃で溶解し合金ができます。銅と錫の混合比は銅が増えると赤みを増して溶けにくくなり、80%以上になると溶けにくくなり、逆に錫が増えると硬度は上がりますがもろくなります。

 青銅は銅などに比べれば硬く、研磨や鋳造・圧延などの加工ができたので、斧・剣・壷などが作られましたが、メソポタミアには隕鉄を利用した、製鉄技術存在したようで、メソポタミアのヒッタイト王国で製鉄技術が生まれ、青銅製武具は鉄製品に取って代わられ、青銅器時代から鉄器時代へと移行しました。

 鉄の原料は、鉄鉱石や砂鉄ですが、これらは酸化鉄として存在しており、高炉で炭や石炭、コークスを使い1500度以上に加熱し、鉄を酸素と分離します。できた鉄は「銑鉄」と呼ばれ、炭素が4~5%含まれ、その他にSi,Mn,P,Sなどの不純物が含まれ、硬度はあるが脆く、鋳物にしか使えません。

 刃物や構造材を作るためには、もっと強度のある鉄材が必要で、平炉や転炉で酸化製錬し、不純物を取り除き、溶鋼を作ります。この溶鋼は使用目的により再度、酸素を取り除かれると同時にNi,Cr,W,Moなどの元素を加え鋼塊にされます。

 実用材料としての鉄・鋼は炭素含有量で0.08~2.0%のものが鋼で、それ以下は鍛鉄または軟鉄と呼ばれ、焼き入れしても硬化しません
 一方、2.0%以上のものは鋳鉄と呼ばれ、硬い反面脆いのでこれも鋳物に使われます。

 鋼の結晶構造
 物質にはたとえば水のように、固体、液体、気体という相変態をすることは誰も経験で知っていますが、金属の場合加熱することで固体状態のまま性質が変化することが知られ、鉄では低温時のα鉄(フェライト)(結晶構造は体心立方格子ですが炭素原子が鉄原子より小さいため、隙間に入り込む)から高温(912℃)になるとγ鉄(オーステナイト)(結晶構造が面心立方格子に変化し、α鉄より隙間が大きいので、多くの炭素を固溶)となり、さらに高温(1400℃)を超えるとδ鉄(δフェライト)(結晶構造は体心立方格子に変化、炭素の固溶は減少)になります。δ鉄はほとんど利用されません。
こさらに温度をあげると鉄は液相になり炭素を完全に固溶できるようになります。

 鋼はほとんどの場合、熱処理をすることで、最終製品の必要とする特性を発揮させます。熱処理は基本的には加熱における加熱速度・加熱温度・保持時間、そして冷却温度・冷却保持温度・冷却時間により、その特性が変化しますが、そのほかにも炭素や添加金属の量や種類によっても変化します。

 熱処理の基本は以下の4種類です。熱を使って金属の柔らかさを制御する

 1. 焼きならし(normalzing)
 加工による内部のひずみを取り除いたり、組織を標準の状態に戻したり、微細化する熱処理です。熱処理をすると強度、延性が高くなります。焼き入れの予備処理としても使われます。鋼をオーステナイト組織の状態で十分保持したのち、空気中で十分に冷却します。
 2. 焼き入れ(quenching)
 鋼をγ鉄(オーステナイト)の状態に加熱した後、水中または油中で急冷することにより、マルテンサイト組織の状態に変化させる熱処理です。焼き入れは、炭素量が0.3%以下でないと効果はありません。
 焼き入れは鋼の硬さを増大させる目的で行われますが、靱性(ねばり)が低下するので、一般には次の焼き戻しをセットで行います。
 3. 焼き戻し(tempering)
 焼入れによって硬化した鋼に靭性を与えるため、マルテンサイト組織の状態から鋼を再加熱し、一定時間保持した後に徐冷する作業を言います。再加熱後、保持する温度により組織の変化が異なり、600℃で焼き戻すとソルバイト組織が、400℃程度ではトルースタイト組織が得られます。
 4. 焼きなまし(annealing)
 金属を加工すると硬く脆くなりますが、高温に加熱したのち,徐冷すると、結晶を成長させ、結晶格子の欠陥を減らすと展延性が回復します。、これは「焼きなまし」といいます。鋼をオーステナイト組織の状態で十分保持した後、炉中で徐冷します。

 弾性フックの法則
 小学生の頃、ばねばかり原理について勉強した時、フックの法則は勉強しましたが、弾性については、現在ではどれほど単純ではなく、色々な素材について研究されています。
 フックの法則フックの法則は、バネに重りを吊るし、一定の重さまでは比例的にバネの長さが変化しますが、限界を超えると元に戻らなくなるというものでした。

 一般に、弾性体は力を加えられると変化し、その時のひずみと力の割合を弾性率といい、以下の式が成り立ちます。 

 弾性率は以下の4種類があります

 (1) ヤング率
 物を引っ張った時の伸びと力の関係から求められる定数です。「曲げ剛性」「たわみ剛性」とも呼ばれます。バネの場合、バネの形状、巻き数、太さなどでバネの強さは変化しますが、形状によらず素材そのものの性質を表すのがヤング率です。
 (2) 体積弾性率
 圧力をかけた時の体積の縮みと力の関係から求められる定数です。
 (3) 剛性率
 ものをずらした時のズレと力の関係から求められる定数です。「ズレ弾性」とも呼ばれます。
 (4) ポアソン比
 ものを引っ張った時の縦の伸びと横の縮みから求められる定数です。
 弾性係数に及ぼす熱処理の影響は一般に小さく、実用上ほとんど無視して差し支えないと言われ、金属の熱処理に対応する最も直接的な変化は書式であり、炭素鋼や低合金鋼などは、フェライトーパーライト、焼戻しマルテンサイト或いはベイナイトなどの組織がありますが、これらは、物理的性質や機械的性質はかなり異なりますが、弾性係数は組織依存性が低く、若干の例外を除けばその変動は数%以内に過ぎません。
(記事検索引用〆)


ヒッタイト「鉄の謎」に挑む 通説揺らぐ発見も
2010年8月7日11時25分朝日新聞

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鉄を武器にアナトリア(現在のトルコ)に強勢を誇ったヒッタイト。文明の発展に大きな貢献をした「鉄」を、彼らはいつ手にしたのか。製鉄技術はどのように世界に広がったのか。「鉄の帝国」の謎に挑む日本の研究者の発掘現場を訪れた。

■日本の研究機関、トルコで発掘25年

 アンカラから南東に65キロ。岩山の上にヒッタイト帝国期(紀元前1400~同1200年ごろ)のビュクリュカレ遺跡はある。険しい斜面に石の壁が顔をのぞかせる。高さ7メートルという。巨石の上に日干しれんがを積んで城壁にしたらしい。周囲には数百メートル四方の街があったことが磁気探査でわかっている。

 「この遺跡にヒッタイトの製鉄炉があってもおかしくない。付近には鉄鉱石が転がっているし、鹿の骨もある。鹿がいたということは、燃料の木々も豊富だったということだ」。中近東文化センター(東京)の付属機関、アナトリア考古学研究所の松村公仁研究員はいう。

 焼かれて変色したれんががあった。大火災の痕跡らしい。帝国を滅亡に追い込んだ戦いを物語るのだろうか。戦争の遺物が出るかもしれない、という期待を抱かせる。

 中近東文化センターは1985年、トルコ中部のカマン・カレホユック遺跡で調査を始め、98年には現地にアナトリア考古学研究所を設立。昨年からはビュクリュカレ遺跡で本格的な発掘を始めた。

 今年7月にはカマン・カレホユック考古学博物館が開館し、トルコ政府が招いた報道陣に公開された。日本政府の途上国援助(ODA)を含む総事業費は約5億円。ヒッタイトの謎を長期的に探究する体制が整った。

 「やがて鉄をめぐる秘密のベールがはがされていくはずだ」。大村幸弘所長は、そう力を込める。調査の進展次第で、鉄を駆使して帝国を築き上げたヒッタイトの実像に迫れるからだ。それは、人類が飛躍を遂げる原動力となった製鉄技術の伝播(でんぱ)過程の解明につながる。


紀元前1200年の「カタストロフ」 (ウィキぺデア記事)

前1200年のカタストロフとは地中海東部を席巻した出来事のこと。
この出来事の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎える事になり鉄器時代が始まった。
そしてその原因は諸説あるが、この出来事の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出す。

紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する出来事が発生した。
現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。

これらには諸説あり、気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなったとする説、エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説などが存在する。
地震によって崩壊したとする説は環東地中海全体の崩壊ではなく、特定の国にのみ考えられており、少なくともミケーネ時代のティリンスではドイツ考古学研究所 の調査によれば激しい地震活動が発生したことが確認されている。

この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば、ヒッタイトの崩壊、エジプトにおける海の民の襲撃、ギリシャのミケーネ文明の崩壊、気候の変動、以上の4項目に分けることができる。
また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる。

ヒッタイトの崩壊

ウガリットのラス・シャムラ遺跡で発見された文書によればヒッタイトの崩壊は前12世紀初頭とされている。
このラス・シャムラ遺跡を発掘したクロード・A・シェッフェルによれば、海の民が沿岸を進み小アジアを横断、ヒッタイトとその同盟国へ攻撃を仕掛けキプロス、シチリア、カルケミシュ、ウガリットへ手を伸ばしたとされている。ただし、アナトリア内陸部にあるハットゥシャはその痕跡は残っていない。

また、ヒッタイトの最後の王シュッピルリウマ2世がウガリットの支援を受けた上で海の民に勝利したというエピソードも残されているが、これは侵入者がヒッタイトを分断して崩壊へ導いたことを否定する材料にもならず、トラキアからフリュギア人らがヒッタイトを攻め滅ぼした可能性もフリュギア人らがヒッタイトの大都市が崩壊したのちにアナトリアへ至っていることから余り高くない。

ヒッタイトの崩壊には2つの仮説が存在しており、侵入者がハットゥシャ、カニシュ などあらゆる建物に火を放ったとする説。
ヒッタイトは内部と近隣地域から崩壊した後、アッシリアの攻撃を受けた事によりウガリットを代表とする属国、同盟国が離反、さらには深刻な飢饉のために弱体化して崩壊したとする説である。
シェッフェルによれば後者の説には裏づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見された文書によればヒッタイト最後の王、シュッピルリウマ2世は「国中の船を大至急、全て回す」よう命令しており、オロンテス川流域の小麦をキリキアへ運ぶのと同時に、王、その家族、軍隊を移動させようとしていた。
これはシュッピルリウマ2世が首都を捨てようとしていたことが考えられ、これについてシェッフェルはかんばつと地震により、ヒッタイトに繰り返し飢餓が発生していたと分析している。

さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方は地震群発地帯であり、地震により火災が発生したことで各都市が火災の跡が残っているとしており、ウガリット時代の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていたとしている。

また、前者の説はギリシャ北部から移住したフリュギア人、エーゲ海より侵入した人々、いわゆる『海の民』らがヒッタイトへ侵入、ヒッタイト滅亡の最大の要因となったと推測している説も否定されているわけではない。
(記事検索ウィキぺデア) 







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古語拾遺・こごしゅうい
『古語拾遺』とは、古代の氏族である斎部(いんべ)氏の由緒を記した歴史書である。

斎部広成(ひろなり)の撰述(せんじゅつ)で、807年(大同2)に成立した。祭祀(さいし)を担当した斎部氏が、同様の職掌に携わっていて勢いを強めた中臣(なかとみ)氏に対抗して、正史に漏れている同氏の伝承を書き記したものであり、正確にいうと、斎部氏によって提出された愁訴(しゅうそ)状であって、『古語拾遺』は後人による命名である。

※斎部広成の伝記は『日本後紀』の808年(大同3年)11月17日の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかのことはわからない。ちなみに、この昇階は平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、807年(大同2年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。
元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族だった。しかし、大化の改新以降、同様に祭祀を司っていた中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)が政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。本書は斎部氏の正統性を主張し有利な立場に立つために著されたものであると考えられる。
(ウィキぺデア記事)

伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神の国生みと、神々の誕生神話から筆をおこし、757年(天平宝字1)の時代までのことが記述されており、斎部氏の氏族伝承をはじめ、記紀に並ぶ古代史の貴重な文献である。

古語拾遺・現代語訳
古語拾遺一巻 加序

古語拾遺
従五位下 斎部宿禰廣成 撰(
いんべのすくねひろなり)
聞くところによると、上古の世は文字が無く、貴賎老少問わず口から口へ伝えていたが、その言った事、行った事や出来事を忘れはしないかと書き記して以来、古を語る事を好まなくなり、浮ついた華やかさを競い興じて還って旧老をあざ笑い、遂に世代を重ねて古代を忘れ、代を重ねる後とに古法をを失った。
顧みて故実を問う時その根源を知らない。
国史・家史にこの理由を記録されていると言っても、詳らかにすれば、なお判らない所が有る。愚臣が言わなければ、恐らく絶えてしまって伝える事が出来なく成ります。幸いに召されて問われましたので、長らく思って今した事を述べたいと思います。故に旧事を敢えて申します。
聞くところによると、天地の初めイザナギ・イザナミの二神は共に夫婦と成り、大八州国(オオヤシマノクニ)および山川草木を生まれ、次に日の神と月の神を生まれ、その後に素戔嗚の神をうまれた。素戔嗚の神は常に泣き叫んでいた。
そのため、人は夭折し青山は枯れ山と成ったので、父母の二神は「お前の行いは大変ひどい。早く根の国に退去しなさい。」
と命じられた。

また、天地が別れる初めに天で生まれた神は、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と言う。
次に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)[古くは、多賀美武須比と言う。これは皇親神留伎命である。]
次に神皇産霊神(カミムスビノカミ)[これは皇親神留彌命の事で、この神の子の天児屋命(アメノコヤノミコト)は中臣朝臣(ナカトミノアソン)の先祖である。]

その高皇産霊神が生んだ娘の名は栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)[天祖の天津彦尊の母である。]
生んだ男の名は天忍日命(アメノオシヒノミコト)[大伴宿禰の先祖である。]
生んだ男の名は天太玉命(アメノフトタマノミコト)[斎部宿禰の先祖である。]
太玉命の率いる神の名は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)と言う。[阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖である。]
手置帆負命(テオキホオイノミコト)[讃岐の国の忌部の先祖である。]
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)[紀伊の国の忌部の先祖である。]
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)[出雲の国の忌部の玉作りの先祖である。]

ここに、素戔嗚の神が日の神(天照大神)に別れを告げるために天に登ってきたとき櫛明玉命がお迎えし、瑞八坂瓊勾玉を献じた。素戔嗚の神はそれを受け取り日の神に献じた。
神は共に誓約をして、その玉より天祖の吾勝尊(アカツノミコト)が生まれた。是をもって天照大神は吾勝尊を育てられた。 甚だしく寵愛され常に腋の下に抱かれていた。
名付けて腋子と言う。 [今の世に幼児を名付けて和可古(ワカコ)と言うのは是が始まりである。]
その後、素戔嗚の神が日の神に行った行為は、甚だ酷い事で種々の凌侮を行った。所謂、畔を壊し[古くは阿波那知(アハナチ)と言う]、溝を埋め[古くは美曽宇女(ミゾウメ)と言う]、水門を開放し[古くは斐波那知(ヒハナチ)という]、種を重ねて撒き[古くは志伎麻伎(シキマキ)と言う]、 田に櫛をさしたり[古くは久志佐志(クシサシ)と言う]、生き剥ぎ・逆剥ぎ・汚い物を撒き散らした。
[この様な天罪を素戔嗚の神は日の神の耕し種を播く時期に密かに田に往き櫛を刺し、相争い種子を重ね播きし、畔を壊し溝を埋め水門を開け放った。新嘗の時に糞尿を戸に塗り、織室に生きた馬を逆剥ぎし室内に投げ入れた。この天罪は今、中臣の祓いの詞である。織の元は神代より起こっている。]

ここに、天照大神は激怒され天石窟(アメノイワヤ)に入られ磐戸を閇め幽居された。国中が常に闇に包まれ昼と夜の区別がつかなくなった。群神は憂い迷い手足の置き所を知らず、総ての諸々の事を燭を燈して決済した。高皇産霊の神は八十萬(ヤソヨロズ)の神を天八湍川(アメノヤスカワ)の河原に集めて、今後の方策を議論した。

ここに思兼神(オモイノカネノカミ)が深く考え遠く慮り「太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、石凝姥神(イシコリドメノカミ)[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。]に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの事が始まりである。]に麻で青和幣(アオニギテ)[古くは爾伎弖]を作らせ、天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて白和幣(シロニギテ)を作らせ [是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。]、天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖である。]に文布を織らせ、天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。所謂、和衣(ニギタエ)である。

[古くは爾伎多倍(ニギタヘ)と言う。]櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ、手置帆負・彦狭知の二神に天御量(アメノミハカリ) [大小の量り雑器などの名である。]大峡・小峡の木を伐り瑞殿を造り[古くは美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う。 ]また、御笠と矛盾を作らせ、天目一箇神(アマノメヒトツカミ)種々の刀・斧・鐡鐸[古くは佐那伎(サナギ)と言う。]を作らせ、それらの物が揃ったら、天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)[古くは 佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う。]を堀って上の枝には玉を掛け、中程の枝には鏡を掛け、下の枝には青和幣・白和幣を掛けて、太玉命に捧げ持たせて讃えさせ、また、天児屋命に相共に祈祷させ、また天鈿女命(アメノウズメノミコト)[古くは天乃於須女(アメノオスメ)と言う。

その神は強悍で勇ましかった。今の世に強い女性を於須女と言うのはこの事による。]に真辟葛(マサキズラ)を鬘とし蘿葛(ヒカゲ)を手繦(タスキ)とし[蘿葛は比可気(ヒカゲ)]竹の葉・飫憇木(オケノキ)の葉を手草[今は多久佐 (タクサ)]着鐸(サナギ)を付けた矛を手に持ち、石窟戸(イワヤド)の前に誓槽を伏せ[古くは宇気布禰 (ウケブネ)と言う。誓約の意味である。]庭火を挙げ、俳優をを行い、相共に歌い舞わせる。」と言った。


ここに、思兼神の謀通りに石凝り姥神に日像の鏡を鋳造させた。初めに鋳造した鏡は小さく意に合わなかった。[これは紀伊の国の日前神(ヒノクマノカミ)である。]次に鋳造した鏡はその状態が麗しかった。[これは伊勢の大神である。]謀り通りに設け備える事が終わった。

太玉命は廣く篤い称え詞を申して「私が持っている鏡は、明かりが輝いていて汝の命の様である。戸を開けてご覧になってください」と言った。太玉命は天児屋命と共にその祈祷をした。そのとき天照大神は心の中で「このごろ、私が籠もって天下が真っ暗で有ると言うのに、群神は何故このように歌楽を楽しんでいるのだろう」と一人思われた。

戸を開けて覗き見されたとき、天手力雄神(アメノタチカラヲノカミ)にその扉を引き明けさせて、新殿に遷坐させた。天児屋命と太玉命は日御綱(ヒノミツナ)を[今の斯利久迷縄(シリクメナワ)。これは日影の像である。]その殿に懸け廻らし大宮賣神(オオミヤメノカミ)を御前に侍わせ [これは太玉命が久志備に生んだ神である。
今の世の内侍で善言や美詞で君臣の間を和らぎ宸襟を喜ばせる様な事である。] 豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)と櫛磐間戸命(クシイワマドノミコト)の二神に殿の門を守衛させた。

[これは両方とも太玉命の子である。]この時に天上は初めて晴れ諸共が相見た顔はみな、明るく白かったので手を伸ばし歌い舞い、相共に讃えて「阿波禮(アハレ)[天が晴れる事を言う。] 阿那於茂志呂(アナオモシロ)[古語事の大いに心を込めて皆、阿那(アナ)と讃えて言ったのは衆の顔が明るく白かったためである。] 阿那多能志(アナタノシ)[言い手を伸ばして舞う。今は楽事をさして、これ多能志(タノシ)と言うのはこの意味である。] 阿那佐夜憩(アナサヤケ)[竹の葉の聲である。] 飫憇(オケ)[木の名である。その葉を振るわす調べである。]」と言った。二神は共に「もう、お戻りになりませんように。」と言った。

素戔嗚の神に罪過を帰せ、千座置戸(チクラオキド)を科し、鬚・手足の爪を抜いて贖わせて、その罪を祓い天上より追放した。素戔嗚の神は天より出雲の国の簸之川上(ヒノカワカミ)に降、天十握剣(アメノトツカノツルギ)[その名前は天羽羽斬(アマノハバキリ)と言う。 今は石上神宮(イソノカミノカミノミヤ)にあり、古くは大蛇の羽羽(ハバ)と言う。蛇を斬る事を言う。]で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斬り、その尾の中から一つの霊剣を得て、その名を天叢雲(アメノムラクモ)と言う。 [大蛇の上に常に雲気が在った事から名前となった。
倭武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の年に相模の国に至り野火の難に遇い、やがてこの剣で草を薙ぎ免れ得た事から草薙剣と言う。]天神に献上した。その後、素戔嗚の神は国神の娘を娶り大己貴神(オオナムチノカミ) [古くは於保那武智神(オオナムチノカミ)と言う。]を生んだ。そして、ついに根国に行かれた。また、大己貴神[またの名を大物主神(オオモノヌシノカミ)またの名を大国主神(オオクニヌシノカミ)またの名を大国魂神(オオクニタマノカミ)今、大和の国の城上(シキウエ)の郡の大三輪神(オオミワノカミ)である。]は小彦名神(スクナヒコナノカミ)[高皇産霊尊の子で常世に隠れられた。]と共に力を併せ心を一つにして天下を経営した。
蒼生畜産(ソウセイチクサン=人と獣)の為に病気を治す方法を定め、また鳥獣昆虫の災いを掃おうとして禁厭の法を定めて百姓は今に至るまでことごとく恩頼を蒙る。皆、効験があった。

天祖の吾勝尊は高皇産霊神の娘の栲幡千千姫命を娶り天津彦尊を生んだ。皇孫命(コウソンノミコト)と言われる。 [天照大神・高皇産霊神の二神の孫の為、皇孫と言う。]そうして、天照大神・ 高皇産霊尊は皇孫を天下らせて豊葦原中国(トヨアシハラナカツクニ)の君としようと思われた。
経津主神(フツヌシノカミ)[この神は磐箇女神(イワフツメノカミ)の子。 今、下総の国の香取(カトリ)の神がこの神である]・武甕槌神(タケミカヅチノカミ) [この神は甕速日神(ミカハヤヒノカミ)の子。
今、常陸の国に鹿嶋のがこの神である。]を遣わして、駆逐し平定させた。ここに大己貴神と事代主神は共に退去された。退去されるときに国を平定した時に使用した矛を二神に授けて「私はこの矛で国を平定した。天孫がもしこの矛を用いて国を治めれば必ず平安が来るであろう。今から私は退去する。」と言われて、その後、隠れられた。ここに二神は帰順しない悪しき神々を誅し、遂に復命した。

この時に天照大神・高皇産霊尊は語らい「葦原瑞穂国は私の子孫が王と成るべき地である。
皇孫よ行って治めなさい。
天皇の位はが栄える事は天壌無窮であろう。」と言われた。そして八咫鏡と草薙剣の二品の神宝を皇孫に授けられ、永く天璽[所謂、神璽の剣と鏡がこれである。]とされた。矛と玉は自ずから従った。
そして、勅して「我が子よ、この宝鏡を見るのは私を見るのと同じで有る。同じ床で同じ殿で斎鏡としなさい」と言われた。
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また、天児屋命・太玉命・天鈿女命を配して侍らせ、勅して「私は天津神籬(アマツヒモロギ)[神籬は古くは比茂呂伎と言う。]および天津磐境(アマツイワキ)を立てる起こし、私の孫の為に斎奉るべきである。
汝、天児屋命と太玉命の二神は天津神籬を持って葦原中国に降り、また私の孫の為に斎奉りなさい。汝、二神も殿内に共に侍り、良くお守りしなさい。我が高天原の御斎庭(ユニワ)の穂 [是は稲穂である。]を我が子に捧げなさい。太玉命は諸部の神を率いて、その職により共に仕え天上の儀の如くしなさい。」と言われた。諸神も共に副え従えさせた。また、大物主神に勅して「八十萬の率いて永く皇孫の為にお守りしなさい」と言われた。
 
大伴の遠祖の天忍日命(アメノオシヒノミコト)と来目部の遠祖の天?津大来目を杖を帯び先駆けさせた。かくて、天降りする間に先駆けの者が還ってきて「一人の神が天之衢にいます。
その鼻の長さは七咫、背の高さは七尺、口の端が輝き、目は八咫鏡のようです」と報告した。従う神を遣わして、その名前を問うたが八十萬の神は、みな名前を相見る事すら出来なかった。

ここに天鈿女命は勅を受けて往き、胸を露にし裳帯を臍の下まで下してその神を見て嘲笑った。その時に衢に居る神が「貴方は何故その様な事をするのです。」と問うた。
天鈿女命は「天孫がお越しに成る道に居るのは誰だ」と問うた。衢に居る神は答えて「天孫が天降りされると聞いたので、お迎えしようと待っています。私の名は猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)と言います。」と言った。天鈿女命は再び問い「汝が先に行くか、私が先に行くか」と言った。答えて「私が先に行きます。」と言った。

天鈿女命は再び問い「汝は何処に行くのか、天孫は何処に行くのか」と言った。答えて「天孫は筑紫の日向の高千穂の○(木患)触の峯に至り、私は伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に至。」と言い、また「私の名前を顕したのは貴方です。貴方は私を最後まで送って言ってください」と言った。天鈿女命は戻って報告した。

天孫は天降ろうとする時に猿田彦大神が言った様に乞うまま天鈿女命に最後まで送らせた。 [天鈿女命は猿女君の遠祖である。顕した神の名を氏姓にし、今は男も女も猿女君と名乗る]ここに群神は皆、勅を受けて天孫の歴代相助けその職に共に従った。

天祖彦火尊(ヒコホノミコト)は海神の娘の豊玉姫命を娶って、彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)を生んだ。 生まれる日に海辺に室を建てる時に掃守連(カニモリノムラジ)の遠祖の天忍人命(アメノオシヒトノミコト)は共に仕えて箒を作り蟹を掃き、また鋪設を掌り、遂に職の名前として蟹守と言う。 [今の世では掃守と言うのはこの事が伝えられて居るためである。]

神武天皇が東征を行う年になって大伴氏の遠祖の日臣命(ヒノオミノミコト)は督将の元戎を率いて兇渠を斬り払い、命の功績に片を並べる者は無かった。物部氏の遠祖の饒速日命は敵を殺し輩を率いて官軍に帰順した。忠誠の効を殊に褒めて寵愛された。

大和氏の遠祖の椎根津彦は皇船を迎え案内したので、香山の嶺に功績を表した。賀茂縣主(カモノアガタヌシ)の遠祖の八咫烏は宸駕を導いたので菟田の道に御璽を顕した。妖気は既に晴れてまた風塵も無く都を橿原に建てて宮室を作った。

天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。] 手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、正殿を建てた。[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、高天原に届くほど高く御殿を造られた。]その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしである。

また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)[古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。]造る。 その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物とその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布[古くは阿良多倍と言う。]と共に進貢した。
天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波の国に遣わして穀・麻種を植えた。その末裔は今は彼の国に居る。大嘗の年に木綿・麻布・種々の蓑を貢ぎ奉った。

故に郡の名を麻殖(アサウエ)としたのは是が元である。

天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。[古くは麻を總と言う。 今の上總・下總のに国がこれである。] 阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)[今の安房の国がこれである。]と言う。

天富命はやがてその地に太玉命の社を建てた。今は安房社(アワノヤシロ)と言う。その神戸(カムベ)に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を作る。その末裔は、今別れて讃岐の国に居る。年毎に調庸の他に八百竿を奉る。是はその事のしるしである。

皇天二祖の詔のままに神籬を建てた。所謂、高皇産霊、神皇産霊(カミムスビ)、 魂留産霊(タマツメムスビ)、生産霊(イクムスビ)、足産霊(タルムスビ)、大宮賣神(オオミヤメノカミ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)、御膳神(ミケツノカミ) [巳上、今、御座の斎祭るところである]、櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)、豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)[巳上、今、御門の斎祭るところである。]生嶋(イクシマ)[是は大八州(オオヤシマ)の霊で今、生嶋の坐の斎祭るところである。]坐摩(イカスリ)[是は大宮地(オオミヤドコロ)の霊で今、坐摩の坐の斎祭るところである。]

日臣命は来目部を率いて宮門を守りその開閉を掌る。饒速日命は内物部を率いて矛楯を造り、そのもの既に備わった。

天富命は諸斎部を率いて天の璽の鏡と剣を捧げ持ち正殿に安置して共に瓊玉を懸けて、その幣物を陳列して殿祭りの祝詞した。[その祝詞の文は別巻にある。]次に宮門を祭る。[その祝詞の文もまた別巻にある。]その後、物部は矛楯を立て、大伴来目は杖を建てて門を開け、四方の国に朝廷と天位の貴い事を示させた。この時に帝と神の距離は遠くなく同じ殿で床を共にされていて、是を常とされていた。故に神物も官物も未だ分別されていなかった。宮内に蔵を建て斎蔵(イミクラ)と名付けて斎部氏を永くその職に任じた。 

また、天富命は物を作る諸氏を率いて大幣を作らせた。天種子命(アメノタネコノミコト) [天児屋命の孫である。]は天罪国罪(アマツツミクニツツミ)[所謂、天罪とは神が既に犯した罪、国罪とは国中の人民が犯した罪の事で有る。中臣の禊の詞にある。] を祓い、即ち鳥見山(トミノヤマ)の山中に祭り所を建て天富命が幣を陳列し祝詞をして皇天に祭り、遍く諸々の祭りを行い、神祇の恩に答えた。是ゆえに中臣・斎部の二氏は伴に祠祀に関する職を掌った。 猿女君の氏は神楽の事により仕えた。この他の諸氏も各々の職があった。
磯城瑞籬(シキミズガキ)の帝(崇神天皇)の時代になって、暫くして、神威を畏れられ、同じ殿に居られると不安で有るため、斎部氏に石凝姥神(イシコリドメノカミ)の末裔と天一箇神 (アメヒトツノカミ)の末裔の二氏を率いさせて鏡を鋳造させ剣を作らせた。
是を護身の御璽とされた。是が今、践祚の日に獻、神の御璽の鏡と剣である。倭の笠縫邑に磯城の神籬を立てて天照大神と草薙剣を遷した。皇女の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に斎奉らせた。その遷した日の夕方、宮人は皆集まり終夜、宴を開き楽で歌った。いわく「宮人の大夜すがらに、いざとおし。ゆきのよろしもなお、よすがらに」 ─ [今の世に歌って言うには、宮人の大よそ衣、膝通し、ゆきよろしも大よそ衣の歌の伝である。]
また六年八十萬の神たちを祭って天社国社及び神地(カムドコロ)・神戸(カムベ)を定めた。
初めて男の弭(ユハズ)の調[弓矢などで取った獲物]と女の手末(タナスエ)の調[女性の手で作った絹の布など]を貢がせた。いま、神祇の祭りに熊の皮・鹿の皮・角・布などを用いるのは是が元である。
巻向玉白朝(まきむくのたまきのみかど=垂仁天皇)は皇女倭姫命(やまとひめのみこと)[天皇の第二皇女。母は皇后の狭穂姫]に命じて天照大神を斎奉らせた。皇女は神の教えの通りに伊勢国の五十鈴の川原に社を建てた。よって斎宮(いつきのみや)を立て、倭姫命を住まわせた。
始め天上に折られるとき予め深い契りを結び、衢の神が先ずこの地に降ったのには深いわけがあった。そして、この御世に初めて弓矢刀を以て神祇を祭り、さらに神地・神戸を定めた。
また、新羅の王子の海檜槍(アマノヒボコ)が来たり、今、但馬国の出石郡(イヅシコオリ)に大社を作った。
纏向日代朝(マキムクヒシロノミカド=景行天皇)は日本武命(ヤマトタケルノミコト)に東夷を征討させた。 命は行く途中に伊勢神宮に詣でて倭姫命に会った。草薙剣を日本武命に授けて教えて言うには「慎重に怠るな」。

日本武命は既に東夷を平らげ尾張の国に還られた。宮簀媛を娶って久しく留まられ月を経て剣を解き家において徒歩で伊吹山に登られ毒にあたって亡くなられた。その草薙剣は今は尾張の国の熱田社に在る。未だ礼典あらず。磐余稚櫻朝(いわれわかさくらのみかど=神功皇后)に至り住吉大神が現れ新羅を討ち給い三韓は始めて朝貢した百済国王は懇ろにその誠実さを表し、ついに異心を抱く事がなかった。

軽島豊明朝(カルシマノトヨアケノミカド=応神天皇)に至り、百済王は博士の王仁を奉った。王仁は河内の文首(フミノオビト)の始祖である。秦公(はたのきみ)の先祖の弓月(ユヅ)は百二十県余りの民を率いて帰化し、漢値(アヤノアタイ)の先祖の阿知使主(アチノオミ) は十七県余りの民を率いて来朝した。ついに秦・漢・百済より信服した民は各々万をもって数えられ、褒賞するに足りる。みなその祠が有ったけれども未だ幣例を預かる事はなかった。

後磐余稚桜朝(ノチノワカサクラノミカド=仁徳天皇)の世になって、三韓は貢物を奉る事は絶えなかった。 斎蔵の傍らに更に内蔵を建てて、公のものを分別して収め始めて阿知使主と百済博士王仁にその入出状況を記録させ、更に蔵部を定めた。

長谷朝倉朝(ハツセノアサクラノミカド=雄略天皇)に至って、秦氏を分散して他の一族にそれぞれ隷属させられていた。秦酒公(ハタノサケノキミ)は進んで仕え寵愛を受け、秦氏を集めて、酒公に賜う詔を受けた。かれは百八十種の勝部を率いて蚕を飼い、織物を織り、貢物を奉って庭中に積み上げた。それにより、宇豆麻佐(ウヅマサ)と言う姓を賜った。 [宇豆麻佐(ウヅマサ)と言うのは貢物を積むままに埋もれた事である。奉るところの絹・綿が肌膚(はだへ)に柔らかで故に秦の字を読んで之を波陀(ハダ)と言う。 

また、秦氏の奉る所の絹を以て神を祭る剣の柄を巻き、今の世にも猶然り。いわゆる秦の機織の起こりである。]かくて、後の国々貢物を奉る年毎にあふれ、更に大蔵を立てて蘇我麻智宿禰(ソガノマチノスクネ)に三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を調べさせた。秦氏の其の物を出納し東西の文氏が記録するその帳簿を勘案し、この故に漢氏に姓を賜い内蔵・大蔵となし、秦・漢の二氏を内蔵大蔵の鍵の司とした。蔵部の起こりである。

小治田朝(オハリダノミカド=推古天皇)に至り太玉命の末裔は絶えず、帯のごとく天恩をうけ廃たのを興し、途絶えたのを継げはつかにその職に仕えた。

難波長柄豊前朝(ナニハナガラノトヨサキノミカド=孝徳天皇)白雉四年に至り小華下諱は斎部首作賀斯 (イミベノオビトサカシ)を以て神官の頭に召して(今の神祇伯である)王族・宮内・禮儀・婚姻・卜筮の事を司らせ、夏冬の二季に御卜之式(ミウラノノリ)をこの時より始めた。作賀斯の子孫はその職を得ることが出来ず、衰えて今に至る。

浄御原朝(キヨミハラノミカド=天武天皇)に至って、天下の姓を改め八等にわけた。その年の功績のみ評価し、天降りの功績は評価されなかった。その二つ目に朝臣と言う。
これを中臣氏に賜い、詔をして太刀を賜う。その三つ目に宿禰と言う。これを斎部氏に賜い、詔をして小刀を賜う。その四つ目に忌寸と言う。
これを秦・漢の二氏に賜り、百済文氏(クダラノフミウジ)等の姓とした [けだし、斎部と共に斎蔵の事を預かった事により姓とした。今、東文氏・西文氏が祓いの太刀を獻のは、けだし、この故による。]大宝年間に至り、初めて記録したが、神祇の記録は猶、明確にされた物が無く、祭の禮その方法は未だに整わなかった。

天平年間に至り、神名帳を考えて造った。中臣が専断し勝手に取捨し、故ある者は小祀であってもみな記載され、 縁の無い者は大社でも廃された。その奏施は当時、欲しいままに行い諸社の封税全てが一門に入った。

天降りの時より起こり、東征に及ぶまで臣従した群神の名は国史に現れたのは、 或いは皇天の厳命を受けて天孫の護衛となり、或いは昌運の洪啓に遭い神器の大造を助け
る。そうであるなら、功を記録し苦労に酬いるに至っては均しく祀典に預かるべきである。或いは未だに幣物の分け前に預からず。猶、介推の恨みを抱く。ましてや、草薙の神剣はいみじくも天璽である。

日本武尊が凱旋された年より留まって、尾張国熱田社にある。外賊が討伐されてこの方、国より出なかった。神物の霊験はこの様な事を見なければならない。そうであるなら、幣を奉の日に同じく敬い祀るべきであるのに、昔からもれている。その禮を修めないのは忘れられたところの一つである。

それ、先祖を尊び貴い者を敬うのは禮の教の最初とするところである。すなわち、 聖皇登極(アマツヒツギシロシメス)は父祖を受け継ぎ上帝を祭り六宗を祭り山川を祭り群神を遍くする。そうであるなら、天照大神は惟祖惟宗であら貴い方であり類なく、大神以外の諸神はすなわち子であり臣である。誰が敢えて抗うことが出来るだろうか。
そうであるのに、今、神祇官の幣を分配する日、諸神の後に伊勢神宮をするのは忘れられた事の二つ目である。

天照大神は元々帝と同じ殿にあられて仕え奉る義は君も神も一体であった。天上より始めて中臣・斎部二氏は相伴に日神にのみ奉る。猿女の先祖も神の怒りを解いた。そうであるなら、三氏の職は離れるべきではない。然るに今、伊勢宮司は中臣氏のみ就けて、二氏は預かる事が出来ない。忘れられた事の三つ目である。

全て神殿を造り奉るのは皆神代の職に依るべきである。斎部の官は御木・麁香の二郷の斎部を率いて切るのに斎斧をもってし、掘るのに斎鋤をもってする。
そののち、工夫等は手を下ろし造り終わった後に斎部が殿祭及び門祭を行い、その後、御坐べきである。しかるに、伊勢宮及び大嘗の由紀主基宮を造るとき皆斎部は預からなかった。
忘れられたところの四つ目である。また、殿祭・門祭は元々太玉命の仕え奉った儀である。斎部氏の職とする所である。
然れども、中臣・斎部共に神祇官に任じられて相共に仕え奉る。ゆえに宮内省が奏じた言葉に御殿祭仕え奉らんとして中臣・斎部は帝に候と申す。宝亀年間に至りて始めて宮内少輔従五位下中臣朝臣は常に恣意的に奏する言葉を改めて、中臣斎部を率いて帝に候と言った。それは省さながらにして、永く後の例として未だに改められていない。忘れられたところの五つ目である。

また、神代より始めて中臣・斎部は神事に仕え祭りて、差はなかった。中頃よりこの方、権勢は一氏に移る。
斎宮寮主神司の中臣・斎部は元々同等で七位官であった。然るに延暦の初め朝原内親王が斎奉る日に殊に斎部を降格し、八位官にした。今に至るも復位で来ていない。忘れられたところの六つ目である。
凡そ諸神に幣を奉るは中臣・斎部共にその事に預かった。しかし今は、太宰主神司は独り中臣が任じられ斎部は預かる事がない。忘れられたところの七つ目である。

諸国の大社も中臣を任じて斎部は預かる事がない。忘れられた所の八つ目である。 
全ての鎮魂の儀は天鈿女命の遺跡である。奏であるなら、御巫の職は旧氏を任ずべきである。そうであるのに今は他の氏を任じている。忘れられた事の九つ目である。

全ての大幣を造る者は神代の職に依るべきである。斎部の官は供を作る諸氏を率いて例に准じ造り備えた。そうであるなら、神祇官の神部を中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏で有るべきである。然るに今は中臣・斎部等の二三の氏ののみがあり、それ以外の氏は考選に預かる事はない。 神の裔の散り失せて、その裔が絶えようとしている。忘れられたところの十目である。

また、勝宝九歳、左辨官の口宣に今より以後は伊勢大神宮の幣帛使いは専ら中臣を用いて他の姓を用いる事はならないと言った。それは行われなかったけれども猶、前例となり記されて司は削り捨てなかった。忘れられた事の十一である。

昔、神代に大地主神(おおとこぬしのかみ)田を作ろうとした日に牛の宍を田人に食べさせた。そのとき御歳神(みどしのかみ)の子その田に来て饗に唾ををして帰って父にその有様を告げた。
御歳神は怒りを発して、その田に宇名後を放って苗葉をたちまちに枯れそこなわせて篠竹となした。ここに大地主神は片巫(カタカムナギ)[志止止鳥(シトトトリ)] 肘巫(ヒジカムナギ)[今の世の竃の輪又は米占である。]その故を占いで問うた。
御歳神の祟りの為、白猪・白馬・白鶏を献じて、その怒りを解きなさいとでた。教えのままに御歳神に謝罪し奉った。答え賜り、「実に私の思いである。麻柄を以て働き作り働け」すなわち、その葉を以て掃い天押草を持ってそれを押し、烏扇を以て扇げ。もし隠して出て去らないようなら、牛の宍を以て溝口に置いて男茎の形を作り、以てそれに添えてこれは、その怒りをもって厭所である。 [つすのみ・なるはしかみ・胡桃葉及び塩を以て置き賜うその畔に分け古事につすを以て都須と言う。]」

彼、その教えのままに従えば、苗葉が又茂り、年穀も豊かに実った。これは今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御歳神を祭る事の起こりである。

前件の神代の事説は盤古に似ている。氷を疑うの意は信を取るのは真に難しい。しかもわが国家は神物霊と言えども、今皆見存している事に触れて聞く事がある、嘘と言うべからず。
ただ、中古は猶、うって礼楽未だ明らかになっていない。事を制し法を垂れる事は遺漏が多い。聖運は初めて開けて尭暉を八州に照らし、宝暦ただ新たに舜波を四海に蕩かす。

鄙俗を往代に変え、秕政を当年に改め時に従って制を垂れ、万葉の英風を伝え、廃れるを興し絶えたるを継ぎ、千載の闕典を補い、もしこの造式の歳にあて、かの望みである秩序の礼を制し、密かに恐れる。
後の今を見て、今の古を見るかならんを。愚臣廣成朽万の齢で既に八十を越えた。 
犬馬の労をただ、暮に彌く切なり。たちまち死去してしまえば、恨みを地下に含む。巷の談も猶、取るべき物もあり。庸夫の思いも徒に捨て易からず。幸いに求訪の休運にあい、深く口実の堕ちないのを喜ぶ。願わくばその文の高く達して天鑒の曲照を被らん事を。
大同三年二月十三日

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画像「斎鏡」(拓本) 上総国一宮 玉前神社 蔵

 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
上総国(かずさのくに)
現在の千葉県の中央部。大国で親王任国。初め総 (ふさ) の国と称した。『古語拾遺』によれば,忌部氏が四国の阿波国から部民を伴い海路ここにいたったとしている。もと武社,菊麻,上海上,馬来田,須恵,伊甚の国造が支配。
(引用ブリタニカ)






 
リンク  http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html

常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。

その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝える旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。

編纂者は不明で、現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。 

遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合が常陸国守であったことから、その編纂者に比定されることもある。 また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説がある(このことについては高橋虫麻呂を参照)。
 

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。

7世紀に成立した。成立時期については、『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されたことになるが、壬申の乱(672年)の功臣である大伴吹負が後世の常陸守に相当する「常道頭」(「常陸」ではない)に任じられたとする記事がある事から、「常陸」という呼称の成立を7世紀末期とする考えもある。

なお、『常陸国風土記』(逸文)の信太郡の条に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」とあり、令制国成立前は日高見国だったとされている。

律令制が敷かれた当初の常陸国は多珂国を編入したため、現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県浜通りの大熊までに至る広大な国であった。

『常陸国風土記』には、「久慈郡と多珂郡の境の助川を道前(道の口)と為し、陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後(道の尻)と為す。」という記述があり、「助川」が日立市に、「苦麻」が大熊に相当する。言い換えると、現在の福島第一原発付近が、常陸国と陸奥国の境であった。

後に陸奥国が設けられると、常陸国の北端は菊多郡まで(陸奥国との境:現在の湯本駅付近)になった。
更に718年(養老2年)に、菊多郡が新設の石城国に入れ替えられ、常陸国と石城国の境に当たる現在の平潟トンネルのすぐ近くに菊多関(後の勿来関)が建てられた。

これ以後は常陸国の範囲は変わらず、西南部を除いた茨城県に相当する範囲となった。新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)、那珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡から構成される。

平安時代の天長3年9月6日(826年10月10日)、常陸国と上総国、上野国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。

親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上であった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。

律令制による国郡支配が解体された平安時代末期以降、荘園の分立や郡の分割が進んだ。近世始めに実施された太閤検地の際に、細分化された郡や荘を再編成して古代の郡の復元が図られたが、その領域は古代のものとはかなりの違いがある。
明治政府による郡区町村編制法と郡制の施行による再編を経て、第二次大戦後の現代まで続いた茨城県の郡の区分と領域は、この太閤検地で再編されたものを基礎としている。


上総下総の分立
『帝王編年記』によると、安閑天皇元年(534年)に上総国を置いたというが、これは総国を上下に分けたという意味に解され、下海上・印波・千葉の国造の領域を併せて下総国が、阿波・長狭・須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社の国造の領域を併せて上総国が分立した。

上総・下総という地名は、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説があり、『帝王編年記』の記述に合致し、伝承を裏付けるものである。

律令時代

国造制から律令郡国制への移行は、早ければ大化元年(645年)、遅くとも大化5年(649年)以前と推測され、この間に令制国としての上総国と下総国が成立した。

和銅6年(713年)の好字二字令によって「上総国」「下総国」と表記が改められたと考えられる。
これ以前は「上捄国」「下捄国」と書かれていた(詳細下記。本項では便宜上これ以前についても総の字を使った)。
養老2年(718年)上総国から、阿波国造および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。
ここにおいて令制国としての「房総三国」が成立した。天平13年(742年)安房国を再度上総国に併合したが、天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。そのまま明治維新に至る。

文字表記

もともとは「捄」「上捄」「下捄」「阿波」等の表記であったものが、のち「総」「上総」「下総」「安房」に改められたものと考えられている。

『古語拾遺』(807)説に従えば、「麻=総」という図式が成立することになるが、「総」という字には麻に関係する意味は存在しない。

そのため、この説は伝承にすぎず信頼できないともいわれていた。
ところが、昭和42年(1967年)藤原宮から発掘された木簡に「己亥(699年)十月上捄国阿波評(安房郡、後の安房国)……」という文字が書かれたものが発見された。

発見当初はこれを「上狭国(=上総)」の別字体であると解釈されていた。続いて同じ藤原宮から「天観上〈捄〉国道前」という木簡も発見されたが、こちらの4文字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出された。
そのうちに「捄」と読む説も出たものの、「上捄」では意味が通じないとされ、一旦は保留とされていた。そして、その後の研究で「捄」という字の和訓は「総」と同じ“ふさ”であること、天観という上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は「総」ではなく、捄国・上捄・下捄など「捄」の字が用いられていた可能性が高くなった。
この「捄」とは房を成して稔る果実の事を指し(『大漢和辞典』説)、麻の実も収穫時には「捄」に該当することから、麻の稔る姿より「捄」の字が用いられ、令制国成立後同じ和訓を持つ佳字である「総」に書き改められたとすれば、麻と総を間接的には結び付けることが可能となり、『古語拾遺』の記述の信憑性が再評価されることとなった。

総国(ふさのくに、捄国)は、上古の坂東の国。大雑把にいって律令時代以降の「房総三国」に該当する。古くは「総」ではなく「捄」の字を書いたが、本項では便宜上「総」の字を使う。

律令制以前、ヤマト王権から総国(捄国)とされていた地域があった。『古語拾遺』によれば、神武天皇の時、天富命が天日鷲命の孫達を従えて、初め阿波(現在の四国の徳島県)の麻植(後の麻植郡)において、穀物や麻を栽培していたが、後により豊かな土地を求めて衆を分け一方は黒潮に乗って東に向い、常陸の地に上陸した。彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」と命名したという。


古語拾遺(こごしゅうい)は平安時代の神道資料である。官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した。全1巻。
807年(大同2年)2月13日に書かれたとされている。大同元年(806年)とする写本もある。だが、跋(あとがき)に「方今、聖運初めて啓け…宝暦惟新に」とある。このことから、平城天皇即位による改元の806年(延暦25年・大同元年)5月18日以降であることがわかり、「大同元年」説は誤りということが分かる。

『日本後紀』の大同元年8月10日の条に、『以前から続いていた「中臣・忌部相訴」に対する勅裁があった』とある。この条文から、「大同元年」論者は『古語拾遺』をこの勅裁に先立つ証拠書類だと考えた。しかし、本文にはこの8月10日の出来事を前提に書かれているので矛盾することとなる。

斎部広成の伝記は『日本後紀』の808年(大同3年)11月17日の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかのことはわからない。ちなみに、この昇階は平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、807年(大同2年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。

常陸風土記・総国(引用ウィキぺデア





 



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