idobatakaigi.com-blog

『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

日本の“海軍力”はアジア最強 海外メディアが評価する海自の実力とは
 NewSphere 2017年06月02日 11:00
 昨今の日本の“海軍力”の強化が海外メディアの注目を集めている。その象徴の一つが「事実上の空母」との呼び声が高い、ヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」だ。5月中旬から戦後最大規模の外洋遠征中 で、26、27日には中国の進出が著しい南シナ海で「航行の自由作戦」を実施した米海軍ミサイル駆逐艦「デューイ」と共同訓練を行った。3月には、この「いずも」と同型の「かが」が就役。これで一回り小さいヘリコプター搭載型護衛艦「ひゅうが」「いせ」と合わせ、“空母4隻体制”になり、「日本海軍はアジア最強」(米ナショナル・インタレスト誌)といった論調や分析記事が目立ってきている。

 反対に、国内メディアは、改憲論議とも大きく絡むデリケートな問題なだけに、「いずも」の動きなどにしても、まるで腫れ物に触るかようなあっさりとした報道がほとんどだ。日本ではあまり公に語られることのない海上自衛隊の実力と、ライバル・中国とのパワーバランスはどうなっているのか? 海外メディアの見方を紹介する。

◆最新鋭空母4隻を保有?
 英BBCは、英国国際戦略研究所(IISS)のアレクサンダー・ニール氏の分析を紹介。同氏は、6月2日から開催されるアジア太平洋地域の防衛問題を話し合う国際会議、「IISSアジア安全保障会議(シャングリラ会合)」に参加予定の有力な研究員だ。「いずも」は、5月15日に同じシンガポールで開催された国際観艦式に参加しており、その姿を目にしたニール氏は、「日本が第二次大戦後に建造した軍艦で最も大きく、(護衛艦というよりは)むしろ空母に見える」と表現する。

 インドのビジネス・スタンダード紙は、「いずも」と同型の新造艦「かが」が、ミッドウェー海戦で米海軍に撃沈された旧帝国海軍の空母「加賀」と同じ艦名を戴くことに着目。中国はそれに反応して「悪名高き軍艦」という表現を使って「かが」の就役を非難したが、同紙は「加賀がヘリコプター搭載艦として復活したことにより、日本はアジアで唯一、2隻の航空母艦サイズの軍艦を持つ海軍大国になった」と書く。「いずも」「かが」よりも小型の「ひゅうが」「いせ」についても、垂直離着陸戦闘機「ハリアー」を搭載するイタリア、スペイン、タイの小型空母に匹敵する戦力だとしている。

 もちろん、日本側の公式なアナウンスは、上記の4隻はあくまでヘリコプターの搭載を前提とした「護衛艦」である。ニール氏も、憲法上の制約のある日本が「いずも」や「かが」の運用において慎重な姿勢を崩さないことは十分に承知している。しかし、同氏自身を含む大半の海外の識者やメディアの見方は、共通して「垂直離着陸機を用いれば十分に空母として運用可能」=「空母としての能力を十分に持っている」というものだ。たとえば、航空自衛隊はF-4の後継機としてステルス戦闘機F-35Aの導入を決めたが、F-35の短距離離陸・垂直着陸(STOVL)タイプのF-35Bを艦載機として運用すればその時点で最新鋭の「空母」になる、とニール氏やナショナル・インタレスト誌は見ている。

◆海上自衛隊は「アジア最強の海軍」
 対中国の視点では、純粋な戦力としては、海上自衛隊が中国海軍を上回っているという見方が主流のようだ。ナショナル・インタレスト誌は、海上自衛隊の艦艇と人員の数、装備の性能、組織力のどれをとっても「アジア最強」だと指摘する。主要装備の性能や役割を詳しく説明したうえで、東日本大震災発生時の災害救助活動の実績を紹介し、海上自衛隊の展開力の高さも折り紙つきだとしている。ビジネス・スタンダード紙は、「そうりゅう」型8隻と「おやしお」型11隻を擁し、2021年までに23隻に拡大する予定の潜水艦戦力も、中国に脅威を与えるとしている。
 
 また、南シナ海を経てシンガポール入りし、その後さらに南シナ海で「デューイ」との共同訓練を行った「いずも」の動きを、ニール氏は尖閣諸島など日本周辺海域での「中国の執拗な動き」への対抗策だと断言する。そして、「『いずも』は安倍政権下で進む日本の軍拡の象徴だ。それは、第二次大戦中の日本の強力な空母艦隊によってもたらされた痛みを強烈に思い出させるものだ」と、中国側の見方を代弁する。

 ビジネス・スタンダード紙は豊富な防衛予算も海上自衛隊の強みだと見る。「防衛費の上限が全体の1%という制約がありながらも、日本の2017年の防衛予算は436億ドルで、インドの535億ドルよりも少し少ないだけだ。そして、インドや中国と違い、日本は陸軍よりも海軍と空軍に多くの予算を回している」と、予算面でも決して自国や中国に負けていないと指摘する。

◆防衛装備の海外移転で強化される防衛力
 我々日本人の多くは、自衛隊の装備はかつての「武器輸出三原則」の制約などにより割高だという認識を持っている。しかし、ビジネス・スタンダード紙は、自国との比較において逆の見方をする。「川崎重工、三菱重工といった巨大企業を擁する日本の洗練された造船産業は、軍艦を迅速に安く作ることができる。そうりゅう型潜水艦は6億8500万ドルだが、これは半分以下のサイズのインドのスコルペヌ型潜水艦とほぼ同コストだ。排水量690トンのあわじ型掃海艦もたった1億6000万ドルで作っている」などと書く。

 日米の連携強化も、中国にじわりとプレッシャーを与えていると各メディアは分析する。「いずも」と「デューイ」の共同訓練は、デューイが中国の南シナ海での動きを牽制する「航行の自由作戦」に従事している艦なだけに、中国のみならずアメリカや周辺諸国の注目も集めた。日本側は「いずも」は航行の自由作戦には参加しておらず、あくまで一般的な編隊・通信の確認だったと説明しているが、ニール氏は、こうした日米の動きを中国は「アメリカによる地域支配の準備をカモフラージュするものだと見ている」と指摘する。また、ニール氏らアナリストは、武器輸出三原則の緩和により、インド、オーストラリアといったアジア太平洋地域の同盟国に高性能な日本製装備が行き渡ることも、広く日本の防衛力強化に貢献すると見ている。

 こうした論調を俯瞰すると、アジア太平洋地域の覇権をアメリカから奪おうと目論む中国にとって、日本の“海軍力”が目の上のたんこぶになりつつあるのだと思えてくる。それが地域の安定にどのように影響していくのか、気になるところだ。
(記事引用)



ワシントンの「狂人」をどう理解すべきなのか[特別寄稿]
ハンギョレ新聞     5/29(月) 17:18配信
ディーン・ベーカー米国経済政策研究センター共同所長
 米国の外にいる人にとって、最近ワシントンで起きていることを理解するのはとても難しいだろう。米国の大統領らがいつも立派な知性の持ち主だったわけではないが、大抵は少なくとも米国と世界に影響を与える主な事案について理解しているものと思われてきた。また、歴代の大統領は政治的偏向に関係なく、各分野の専門家らを周囲に置き、政策を作ったり公式的な発言をする場合も彼らに依存してきた。

 このような歴史は必ずしも栄光に満ちたものではなかった。ジョージ・ブッシュ大統領の専門家たちは、米国を必要もなくで終わりそうにもないイラク戦争に巻き込んだ。ビル・クリントンとブッシュ大統領の最高位経済補佐官らは住宅バブルの土台を提供し、そのバブルの崩壊は70年ぶりの最悪の経済危機を米国にもたらした。

 しかし、これらのひどい失敗を犯したとしても、大統領らは主要政策分野ではそれなりに目に見える努力をしてきた。(ところが)ドナルド・トランプはそうではない。彼は対外および国内政策のほとんどの分野について、本当に何も知らない。70年間この国で生きてきたにもかかわらず、基本的な政策事案について驚くほど無知だ。もっと深刻なのは、彼が(それを)気にも留めないということだ。

 彼の信じられない無知はほとんど毎日明らかになっている。トランプは選挙運動の間、中国を為替レート操作国だと激しく非難し続けた。ところが先月、習近平主席に会った際には、彼と良い関係を結んだと話した。為替レートに言及してその関係を壊したくないと言いながら、韓国が中国の一部だったという興味深い話もした。

EN-AB542_BUSKIN_P_20161117160637 国内問題に対する知識も、(国外に関するものと)あまり変わらない。米国の黒人の歴史を称える期間である2月には、偉大な奴隷解放家であり、民権活動家のフレデリック・ダグラスをまるで今でも生きている人物のように話した(彼は120年前に亡くなった)。また、300万近く得票数が少なかったにもかかわらず、大統領選挙で自分を勝たせてくれた選挙人団制度についても、まったく理解していないようだ。自分をインタビューする記者たちに、まるで新しい情報でも提供するかのように、50州の選挙人団投票地図を見せている。その記者たちにはすでにその地図についてよく知っている。

 共和党は、富裕層ができるだけ多く所有し、早く所有できるようにする手段となった。それに関したイデオロギーや哲学的約束はない。これは単に彼らの懐を満たそうとする問題だ。健康保険改革案の中心は今後10年間にわたり6千億ドル以上の税金を削減することだ。このような削減のほとんどは最上位1%を排他的な対象にするものだ。彼らの健康状態がよければ、健康保険料をより少なく支払うボーナスも付いてくる(この健康保険案で2400万人が保険を失うことになる)。トランプが概要を明らかにした税金改革案が実現すると、最富裕層は毎年数百万ドルを節約できるようになり、彼らの死亡後もその家族は数十億ドルの不動産税を納めなくて済む。

 金持ちをより裕福にするのは税金だけではない。トランプと共和党は、学資金の融資や年金口座からクレジットカード決済まで、金融業界がすべてに課す手数料を低く抑える金融規制の撤廃を目指し、戦っている。温室効果ガス削減努力を廃棄しようとすることに加え、他の環境規制も弱体化させている。その代表的な例が、鉱山から採掘した後、土地の復元を義務付けた規制を翻す行政命令の発動である。この措置は鉱夫の雇用を保護するための対策として宣伝されたが、その反対の効果を生み出すだろう。トランプは石炭会社が労働集約的な地下採掘作業をもっと少ない労働者で行うことを可能にした。

 共和党は明かに能力不足の大統領を追い出せる力を持っているが、彼が最富裕層のための成果を出す限り、いかなる措置も取ろうとしないだろう。彼らが関心を持っているのは再選だけだ。議会での経歴が終わる頃、彼らには高額のロビイストという第2の経歴が加わるだろう。共和党がトランプを見捨てる唯一の場合は、トランプが実際に大衆を当惑させて、かなりの上院・下院議員の再選の見通しが危うくなる時であろう。(しかし)まだそこまでは来ていない。これは、トランプがこれからもとんでもないことをやらかし、腐敗し続けることを意味する。

ディーン・ベーカー米国経済政策研究センター共同所長(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
(記事引用)







放送作家の「表と裏」
西原健太郎  2016年12月06日 13:22 blogos.com
BLOGOSでこのコラムをご覧の皆様。初めまして!わたくし、ラジオ業界で『物書き』の仕事を生業としております、西原健太郎と申します。 

この度は、古くからの友人である編集長の田野さんからの依頼で、このコラムを書かせていただくことになりました。『世間的には全く知られることのない存在』である自分ですが、この度『自分自身の名前で何かを表現する場所』をいただけたことに感謝しています。書くからには何かしら『読む人の心に残るもの』…を心がけ、執筆して参ります。宜しくお願い致します。 

さて、先ほど書きましたが、私、西原健太郎は、『世間的には全く知られることのない存在』だと自分自身でも認識しています。「職業は何か?」と聞かれれば、「放送作家」と答えるようにしているのですが、世の中に数多く存在する、’’煌びやか’’な放送作家の皆さんとは違い、どちらかというと数々の現場で、『裏方の仕事』として様々な文章を書いたり、演出をしたりするのが私の仕事です。 

現在の仕事は、主に『声優』と呼ばれる人達がパーソナリティを務める、ラジオ番組の構成を担当しています。プロとして放送作家活動を始めてから、今年で17年目になります。17年の間、様々な番組を担当させていただきました。 

それらの番組の中には、もしかしたら皆さんがよくご存知の番組もあるかもしれません。でも、それらの番組の放送作家が誰なのかは、ご存知ない方がほとんどだと思います。それもそのはず。番組の中で私は極力『表』に出ず、自分の存在を消し、『裏方に徹している』からです。だから番組はご存知でも、私の事をご存知の方は、ほとんどいらっしゃらないと思います。 

そして、私とは対極の存在。自ら進んで『表』に出て、自分を表現する放送作家も存在します。そこで、初回である今回は、『表に出る放送作家と裏方に徹する放送作家』について、自分の思うところを書いてみようかと思います。 

放送作家という職業は、仮に10人放送作家がいたら、全員違うスタイルで仕事をしています。放送作家という仕事に対する考え方も全員が違うでしょうし、そもそも放送作家という職業は『資格』というものが存在しないので、「自分は今日から放送作家だ!」と宣言してしまえば、誰にでもなれてしまいます。でも、全ての放送作家を仮に二つに分けるとすると『表に出る放送作家』と『裏方に徹する放送作家』に分けることができると思います。 

『表に出る放送作家』は、自分自身のネームバリューで勝負していこうとする作家です。番組中に自分の名前が登場したり、番組内で自分の存在を出していくことを良しとします。時には自分自身が作家としてマイクの前に立つこともあるでしょう。 

また、自分自身の名前でSNSをやったり、対外的に放送作家である自分をアピールしていくのも、『表に出る放送作家』の特徴です。でも、ここで勘違いして欲しくないのは、私は『表に出る放送作家』という存在を否定しているわけではないということです。 

先ほども書きましたが、放送作家が10人いれば、10人違う価値観があります。『表に出る放送作家』は、自らの名前を前面に出すことで、番組に対しての責任を負うことになりますし、SNSをやっていれば、番組への批評の受け皿となることもあるでしょう。 

そして、そのリスクと引き換えに、番組=放送作家というブランドを築くことができます。名前を内外に知らしめることで、新たな仕事の依頼が舞い込むこともあるかもしれません。 

対して『裏方に徹する放送作家』は、番組において、極力自分の存在を消します。ラジオ番組では、演出のスパイスとして『作家笑い』というものを番組内に入れることがあるのですが、『裏方に徹する放送作家』は、笑い声を入れることはあっても、積極的にパーソナリティに話しかけたりはしません。 

それは、『ラジオ番組はパーソナリティの声を聞きたい人が聞いている』と思っているからであり、その中で作家の存在は邪魔になると考えているからです。もちろん『裏方に徹する放送作家』にもデメリットはあります。存在を消しているので、仕事の成果を実感しにくかったり、仕事に対するモチベーションを保つのが難しかったりします。 

『表に出る放送作家』と『裏方に徹する放送作家』。どちらにも一長一短があるということです。このコラムを読まれている方は、どっちの放送作家が作る番組が好みですか? 

ところで、今回私はこのコラムを書くことで、ある意味矛盾を抱え込むことになります。裏方に徹するはずの自分が、自らの名前でコラムを執筆する…いわば表の世界に出ていくことになるわけです。ですが、本来裏方である私だからこそ、何か表現できることもあるのではないかと思い、今回コラムを書かせていただく決心をしました。 

今後は、ある種の矛盾を抱えながら、矛盾から生まれる世界を表現していければと考えています。今後とも何卒よろしくお願い致します。
(記事引用)

ref_l










(♪ ソウルソウル254)







北朝鮮の軍事力にジャーナリストが指摘「真に受ける必要はない」
2017年5月2日 19時5分 トピックニュース
写真:gettyimages
f2d28e6adc6c8221b09ab4985f2fa3fa
 
1日放送の「橋下×羽鳥の番組」(テレビ朝日系)にジャーナリストの石丸次郎氏が出演し、北朝鮮の軍事力について見解を述べた。

番組では、訪朝歴のある識者たちが北朝鮮にまつわる情報について語った。その中で石丸氏は、「軍事強国」だとアピールする北朝鮮について「実際の朝鮮人民軍は全面戦争できる軍隊ではとてもない」と断言したのだ。

石丸氏は番組で、2011年夏に撮影された工兵部隊の兵士の写真を公開した。そこに写っている兵士は栄養失調でやせ細っている。石丸氏の協力者から入手した情報によると、軍隊では飢餓がまん延しているそうで「時期によるが(兵士の)2、3割は栄養失調状態」だというのだ。

続けて石丸氏は、人民軍の武器が、老朽・旧式化しているとも指摘。エネルギー事情についても「車を動かしたり戦闘機を動かす油が全く足りない」のだという。なんでも、元パラシュート部隊兵士の脱北者の話によると「落下傘訓練をする飛行機を飛ばせないから塔の上から飛ぶ訓練ばかりやっていた」とのことだ。

さらに、兵士不足も深刻だそうだ。現在の若年兵士は90年代の大飢饉時に生を受けた世代であり、大きく兵士の数が少ないそう。そこで兵役期間を男子11年、女子7年に延長したほか、徴兵検査の基準も身長142センチ以上から徴兵するなど対策を講じているとのことだ。

最後に、石丸氏は「(軍事強国というイメージを)真に受ける必要はない」と語っていた。

もてあそばれる「日本の歴史」は、今も近現代史も同じである

斎藤実の二・二六事件
その後内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、二・二六事件において斎藤は殺害された。
2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。

斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。
二・二六事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。
二・二六事件の前夜、斎藤は知日派のジョセフ・グルー駐日大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。
斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。

この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年11月)

政治家のころ

1936年2月20日、大蔵大臣高橋是清(左)と
斎藤は外国人との交友が広く、若い頃に4年間も駐米公使館付武官を勤めていたこともあって、特にアメリカ人との交際が深かった。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーとは親友の間柄である。斎藤の英語力は歴代総理の中でも相当のもので、要人との会話も公式会談をのぞいてほとんどを通訳なしでこなし、日記まで英文で書き綴るほどだった。また、ともに滞米経験があり親英米派だった高橋是清とは個人的に親しい友人でもあった。
青年期は痩身であり、堂々たる体格へのあこがれから米国駐在当時、下宿先に毎日ビールを配達させていた。その甲斐あって、斎藤は強靱な体力を得た。明治天皇が危篤のとき、当時の閣僚は1週間宮中に泊り込んで快復を祈ったが、他の閣僚が音をあげる中で、斎藤だけはケロリとしていた。「若い頃は、1週間一睡もしないで平気だった」と豪語したという。強靭な体力は彼の特筆すべき性質であり、朝鮮総督当時においても、日本から到着したその当日午後には執務を開始するほどであった。彼の勤勉さは、この体力に支えられたものだったのである。
若いときから酒豪であったが、日清戦争のとき、広島に設置された大本営に海軍参謀本部参謀として務めた斎藤は、いつものように徹夜で一升酒をあけ、翌日、素知らぬ振りで明治天皇の前に出仕した。明治天皇は休憩時間に斎藤を呼び、好きな蹴鞠の相手をするように言った。実は酔いのさめていない斎藤は、不覚にも腰を抜かしてしまい動けなくなった。明治天皇は斎藤の徹夜酒をすぐに悟ったが、特に何も注意せず、ニコニコしているだけであった。斎藤はしばらく禁酒するとともに、明治天皇の部下への大らかな態度に大いに学ぶところがあったという。

1914年(大正3年)、千葉県一宮町新地に別荘を所有している。九十九里浜の海岸沿いに500坪の土地を坪10銭で手に入れ、建築費も坪20円であったという。この別荘は1901年(明治34年)10月に竣工のもので、1914年(大正3年)に海軍大臣を辞してから購入し、1年の大半をここで過ごした。古洋服に草履をはき、手拭を腰にぶら下げて松の枝おろしや垣根直しなど、ここでの生活は庭いじりが主であった。地元の署長がある時、このときの彼の姿を見て、『爺やさん』と呼んだが、振り向いた顔を見て大慌てに慌てたとの逸話が残っている。なお、別荘を所有していた関係上、近くの玉前神社には彼が奉納した扁額が掲げられている。

斎藤は大変な筆まめで、贈物に対しては必ずといっていいほど礼状を出していた。揮毫をよく頼まれたが、元来の性格のよさから断れず週末は別荘に籠もって筆を振るう日々だったという。自分宛書簡や書類をきちんと保存しておく性格で、選別はすべて自分の手で行っていた。そのため個人の詳細をきちんと把握しており、間違えるということがほとんどなかった。斎藤が整理・保管した書翰類は、大半が国立国会図書館に寄贈されており、近代史の貴重な史料となっている。
朝鮮総督時代の評価
1926年にイギリスの植民地研究の専門家である、アレン・アイルランドは斎藤について次のように述べている。「1922年の朝鮮においては、反日の過激論者を除けば、斎藤総督に対する世間一般の評価は次のようであった。総督は、公明正大で寛容な施政により朝鮮を統治しようと真摯な思いで生き生きしていた。そして、彼は卓越した改革を成し遂げた。教育の問題においては、実に惜しみなく人々の教養に対する意欲に力を貸し、政治的野心については、無益に独立を望む気持ちを助長するものは如何なるものにも断固反対する一方、熱心に地方自治を促進し、日本人と朝鮮人の関係に友好と協力の精神をしみ込ませようとしていたのである」。
(資料ウイキペディア)
(記事引用)2017/5/3





上総介広常「誅殺」(ちゅうさつ、罪をとがめて殺すこと)の理由
面頬2-正面L加納久宜 嘉永元年3月19日~大正8年2月26日(1847-1919)第4代上総一宮藩藩主。
「父」、立花種道(次男)。上総一宮藩主 加納久恒の養子。
慶応3年養父「加納久恒」の死去にともない家督を相続。明治2年(1869)版籍奉還により一宮藩知事。

明治17年(1844)子爵となる。明治23年(1890)貴族院議員。
明治27年(1894)鹿児島県知事となり西南戦争の荒廃の復旧に努めた。

前項では「加納久宜」公の輝かしい履歴と爵位を記述紹介したが、では、それが「上総国」と、どう結ばれるのか、という最大の難問に言及していない。

まさにそれは難問で、 桓武天皇によって決められた親王任国の「上総介」とはいったい誰なのか、という歴史の証明は、源頼朝から下された誅殺によって、さらに歴史の下層へと追いやられてしまった。

唯一の手がかり「天長3年(826年)に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)、いずれも桓武天皇の皇子であった」という記述で追っていくしかなかった。

そこで親王任国という大国の、主要国であった「常陸国」についての資料では、どのくらい収集できるのか、すぐさま検索を開始した。

常陸国 歴代守
常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。
常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。
親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介である。

律令による官位相当と定員
 
養老律令の官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。
職員令が定める大国の定員は、守から少目まで各一人、計6人である。但し、宝亀6年(775年)には少掾二員・少目二員と増員している。
※掾(じょう)とは、日本の律令制四等官のうち三等官を指す。「掾」の文字は国司の三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。 概要. 特に大国と呼ばれる最上級の令制国には特に大掾・少掾が設置された。

国司には含まれない史生の大国における定員は養老令で3人だが、延喜式では5人である。他に国博士一人、国医師一人、学生50人、医生10人が定員として置かれた。

親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。

常陸守
文武4年(700年)10月 百済王遠寶
和銅元年(708年)3月 阿倍狛秋麻呂
和銅7年(714年)10月 石川難波麻呂
養老3年(719年)7月 藤原宇合
天平9年(737年)1月 坂本宇頭麻佐
天平18年(746年)4月 石上乙麻呂
天平19年(746年)9月 紀飯麻呂
天平勝宝4年(752年)6月 百済王敬福
天平宝字2年(758年)6月 佐伯毛人
天平宝字7年(763年)1月 藤原清河
天平宝字8年(764年)10月 石上宅嗣
宝亀八年(777年)10月 藤原小黒麻呂
延暦元年(782年)6月 紀船守
延暦21年(802年)1月 大原某を免
延暦24年(805年)8月 紀直人、卒
延暦24年(805年)9月 橘安麻呂
大同元年(806年)1月 下葛野王
大同元年(806年)2月 和入鹿麻呂
弘仁2年(811年)1月 菅野真道
弘仁5年(814年)7月 藤原福当麻呂
天長元年(824年)6月 佐伯清岑
天長3年(826年) 甘南備高直
 
常陸太守
親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。
天長3年(826年) 賀陽親王
天長7年(830年)1月 葛原親王
承和元年(834年)1月 葛井親王
承和5年(838年)1月 忠良親王
承和7年(840年)1月 葛井親王 再任
承和11年(844年)1月 葛原親王 再任
承和15年(848年)1月 時康親王
仁壽3年(853年) 仲野親王
斉衡4年(857年) 人康親王
貞観2年(860年)1月 賀陽親王
貞観6年(864年)1月 惟喬親王
貞観10年(868年)1月 惟彦親王
貞観14年(872年)2月 惟恒親王
貞観18年(876年)2月 惟彦親王
元慶4年(880年)1月 時康親王
元慶8年(884年)3月 貞固親王

常陸介
天長3年(826年)に常陸国が親王任国とされてからは、「常陸介」が実質的な実務上の最高位であり、官位は養老律令の官位令が定める大国の官位相当の介の正六位下ではなく、従五位以上であることに注意する必要がある。 なお、源氏物語に登場する架空の人物に常陸介 (源氏物語)がいる。
大伴弟麻呂 - 783年(延暦2年)任官。
藤原緒嗣 - 791年(延暦10年)から797年(延暦16年)7月までの間のいずれか。
藤原維幾 - 平将門の乱発生時の国司。
源義光 - 1045年(寛徳2年)から1127年(大治2年)11月25日(10月20日) までの間のいずれか。
藤原実宗- 1107年(嘉承2年)前後
平家盛 - 1147年任官
平頼盛 - 1149年(久安2年)任官、1158年(保元3年)中務権大輔兼任として再任。
平経盛 - 1156年任官
平教盛 - 1160年任官
島津忠景 - 1267年(文永4年)から1295年(永仁3年)までの間のいずれか。
佐竹貞義 - 1287年(弘安10年)から1352年10月18日(正平7年/文和元年9月10日)までの間のいずれか。
(検索資料ウィキぺデア)

以上は「常陸国」また守、介についての検索回答であるが、こと「上総国」に到っては、容易に明確な検索結果とはならなかった。
そのことについては、千葉県という地勢がおおいに関係していた。それは隣国「源政権鎌倉幕府」駿河国という歴史の痕跡が関係していた。

「源頼朝」挙兵
 
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。

『吾妻鏡』では、『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」とはある。尚、『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である 。

同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。

広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。
兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。

『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。

寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時・天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収された。

この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の同族である千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。

しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。

慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べた事を記している。

広常の館跡はいまだに発見されておらず不明である。

上総介「広常」

上総介広常 (かずさのすけひろつね) (?―1183)
平安末期の武将。平忠常(ただつね)の子孫、常澄(つねずみ)の子。
上総権介(ごんのすけ)に任じ、介八郎(すけのはちろう)と称す。
その所領は上総国(千葉県中部)から下総(しもうさ)国(千葉県北部)に及び、この地方最大の勢力を誇った。

保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱には源義朝(よしとも)に従う。
1180年(治承4)8月石橋山(いしばしやま)の敗戦後、安房(あわ)国(千葉県南部)に逃れた源頼朝(よりとも)に誘われたが、初め応ぜず、ようやく9月19日、兵2万騎を率いて隅田(すみだ)川辺に参会、服属した。

以後、常陸(ひたち)国(茨城県)佐竹氏征討などにも功績があったが、83年(寿永2)冬、謀反の疑いにより誅殺(ちゅうさつ)された。しかしまもなく無実が判明、弟たちは助命されたという。[杉橋隆夫]

常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介であった。

親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。 (参考 weblio)
 
親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。
平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。
なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。
承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。
叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。

時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

国司
上総守(天長3年(826年)以前)
708年 - 上毛野安麻呂
731年 - 紀多麻呂
733年 - 多治比広足
741年 - 紀広名
746年 - 百済王敬福
746年 - 藤原宿奈麻呂
749年 - 石川名人
754年 - 大伴稲君
759年 - 藤原魚名
761年 - 石上宅嗣
763年 - 阿倍子嶋
764年 - 布勢人主
764年 - 弓削御浄浄人
768年 - 石上家成
770年 - 榎井子祖
771年 - 桑原王
774年 - 大伴家持
777年 - 藤原黒麻呂
779年 - 紀真乙
780年 - 藤原刷雄
783年 - 布勢清直
789年 - 百済王玄鏡
799年 - 百済王教徳
809年 - 多治比全成

上総太守(任国親王)
仲野親王 - 826-?
阿保親王 - 827年 - 836年
忠良親王 - 836年 - 838年
仲野親王 - 838年 - 842年
阿保親王再任-842年
基貞親王 - 846年 - ?
人康親王 - 849年 - ?
忠良親王 - 853年 - ?
本康親王 -     - 860年
仲野親王 - 861年 - ?
本康親王再任-869年 - ?
惟彦親王 - 875年 - ?

上総介
田中多太麻呂
平高望
平良兼
菅原孝標
平常家
平常晴
平常澄
伊西常景
印東常茂
介八郎広常
境常秀
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
吉良満氏
島津忠宗
吉良貞義
島津貞久
島津師久
島津伊久
北条綱成
織田信長
松平忠輝
織田信勝(丹波柏原藩主)
(資料ウィキぺデア検索)

※筆者注「上総介広常」は、本当に実在したのか、またその名称は「役」を称したものかのか、それとも役と人が表裏一体化したものを、後世の歴史が混同して、呼称が人物名として残ったものなのか、いまだに疑心暗鬼を抱きながら書いている。また、指摘したように常陸国と対象すると、すべての項目が複雑で、その一つ一つの解説文までが、深層奥深くたどりついていない、という掻痒感が最後まで残った。

それを証明するかのように「広常の館跡はいまだに発見されておらず不明である。」という未確認報告がそれを物語っている。

玉前神社 関連記事 
 

木嶋佳苗被告の死刑確定へ 男性3人殺害事件
NHK NEWSWEB 4月14日 15時05分
8年前、東京・千葉・埼玉で男性3人を殺害した罪などに問われ、無罪を主張していた木嶋佳苗被告に対して、最高裁判所は「犯人だということに疑いを差し挟む余地はない」として上告を退ける判決を言い渡し、死刑が確定することになりました。
木嶋佳苗被告(42)は平成21年に東京・千葉・埼玉でインターネットの結婚紹介サイトで知り合った当時53歳と80歳、それに41歳の男性3人をいずれも練炭自殺に見せかけて殺害した罪などに問われました。犯行を裏づける直接的な証拠がない中、被告側は「自殺や火災で死亡した可能性がある」として無罪を主張しました。
shutterstock_269884556
1審のさいたま地方裁判所と2審の東京高等裁判所は、現場で見つかった練炭やコンロと同じ種類のものを被告が入手していたことなどから死刑を言い渡し、被告側が上告していました。

14日の判決で最高裁判所第2小法廷の小貫芳信裁判長は、3人が死亡する直前に被告と一緒にいたことや、練炭やコンロを被告が事前に入手していたことなどを挙げ「犯人だということに疑いを差し挟む余地はない」として無罪の主張を退けました。そのうえで「ぜいたくな暮らしのため真剣な交際を装って男性から金銭を受け取り、その返済やうその発覚を免れるなどの目的で3人を殺害したもので刑事責任は極めて重大だ」として上告を退け、死刑が確定することになりました。

なお、木嶋被告は養子縁組によって現在の名字は「土井」に変わっています。
「周辺での不審死」と「ぜいたくな生活」
この事件では、木嶋佳苗被告の周辺で不審な死が相次いだことや、被告の華やかな暮らしぶりが注目されました。

一連の事件は、平成21年に起きました。この年の8月、埼玉県富士見市の駐車場の車の中で、41歳の男性が死亡しているのが見つかりました。車内には練炭やコンロがあり、自殺のように見えましたが、捜査の過程で、直前に男性と会っていた木嶋被告の存在が浮かび上がりました。被告はこの男性とインターネットの結婚紹介サイトを通じて知り合っていましたが、被告に処方されていたものと同じ睡眠薬の成分が遺体から検出されたのです。また、車内にあったものと同じ種類の練炭やコンロを被告が購入していたこともわかりました。

さらに、被告と結婚紹介サイトを通じて知り合った53歳の男性と80歳の男性が同じように死亡していたことも明らかになりました。それぞれの現場からは練炭やコンロが見つかったほか、被告が男性らから多額の現金を受け取っていたこともわかり、3人を練炭自殺に見せかけて殺害したとして逮捕されました。

当時の被告のブログには、「外国製の高級車を短期間で買い替えた」とか、「1本1万円もするミネラルウオーターを買った」などと、ぜいたくな生活の様子がつづられ、事件との関連が注目を集めました。

一方で関与を裏付ける直接的な証拠はなく、被告は3人の殺害について一貫して無実を訴えました。平成24年からさいたま地方裁判所で始まった裁判員裁判では、3人が殺害されたのか、自殺や火事が原因で死亡したのかが激しく争われました。また、法廷では、被告が18歳のときに北海道から上京したあと、男性と「愛人契約」を結ぶなどして収入を得ていたことや、その金をバッグの購入やエステなどで毎月使い切っていたことなど、これまでの生活が赤裸々に語られました。

被告側は、金銭的な援助をしてくれる相手を求めていて、死亡した男性らとの結婚を真剣に考えていたと主張しました。1審は当時の裁判員裁判としては最長の100日間におよび、判決では、いずれの事件でも男性らが直前に被告と会っていたことや、現場で見つかった練炭やコンロと同じ種類のものを被告が購入していたこと、男性らに自殺の動機がなかったことなどから、「3人を殺害したのは被告以外にありえない」として死刑を言い渡しました。2審の東京高等裁判所で被告側は改めて無罪を主張しましたが、被告本人は事件に関して発言することはなく、1審に続いて練炭などの状況証拠をもとに死刑を言い渡され、上告していました。
(記事引用)




 

天狗に因む生物名
生物の和名として天狗が登場することがある。動物についていえば鼻、または類似器官が突き出た外見に因むものが多い。

歌川国芳筆
空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。
したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである。
事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった[3]。さらに驕慢な尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期成立の『今昔物語集』には、空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載された。これは1296年(永仁4年)に『天狗草紙(七天狗絵)』[4]として描写された。ここには当時の興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、仁和寺、醍醐寺といった7大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれている。これら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが大きな影響を与えていると思われる。
『平家物語』では、「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』(曼殊院蔵)を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介される。

天狗の絵(春日町兵主神社)
『吾妻鏡』天福2年(1234年)3月10日条の記述には、「2月頃、南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる[5])」と記述されている。『吾妻鏡』では、彗星に関する記述も多く記載されているが、この天狗の記述(13世紀中頃)に関しては、彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)。
天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴とも考えられる。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された。
天狗の種類[編集]
前述のように、天狗が成立した背景には複数の流れがあるため、その種類や姿もさまざまである。一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「鼻高天狗」、鼻先が尖ったのは「烏天狗」あるいは「木の葉天狗」という。
山伏天狗
種類としては、天狗として世にあだなし、業尽きて後、再び人身を得ようとする「波旬」、自尊心と驕慢を縁として集う「魔縁」と解釈される場合もある。
その伝承も各地に伝わっており、変わったものとして、紀州に伝わる、山伏に似た白衣を着、自由自在に空を飛ぶ「空神」、長野県上伊那郡では「ハテンゴ」といい、岩手県南部では「スネカ」、北部では「ナゴミ」「ナゴミタクリ」という、小正月に怠け者のすねにできるという火まだらをはぎとりに現われる天狗などが伝えられる。姿を見た者はいないが、五月十五日の月夜の晩に太平洋から飛んでくる「アンモ」もこの類で、囲炉裏にばかりあたっている怠け童子の脛には、茶色の火班がついているので、その皮を剥ぎにくるという。弱い子供を助けてくれ、病気で寝ている子はアンモを拝むと治るという。静岡県大井川では、『諸国里人談』に、一名を「境鳥」といい、顔は人に似て正面に目があり、翼を広げるとその幅約6尺、人間と同じような容姿、大きさで、嘴を持つ「木の葉天狗」が伝えられており、夜更けに川面を飛び交い魚を取っていたと記されている。また、鳥のくちばしと翼を持った鳥類系天狗の形状を色濃く残す「烏天狗」は有名である。有名な是害坊天狗などもこの種で、多くの絵巻にその姿が残されている。尼がなった「女天狗」や、狼の姿をした狗賓という天狗もいた。
神としての天狗

修験道は、奈良時代に役小角(役行者)が創始したとされる[6]が、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている[7]。
修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。その信仰の源は、すでに8世紀からみられた、仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる[2]。神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社が、それぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした[2]。そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった[2]。このように、修験道は、密教との関わりが深かったため、仏教の一派とされることもある。
修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた[8]。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものが破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる[9]。
『日本霊異記』があり、わが国最古の仏教説話集として存在している。 しかし、『日本霊異記』は、物の怪など生々しい描写が多い為に「役小角」が関西地方を歩いて、各山で修行をしたり、各寺社院で教えを説いたりする事から、現在では、神社や各寺社院で「朱印」取得をして、朱印より「道徳教義」を作成して、教義として活用をしている。
さらに、愛知県に鎮座している「片山神社」では『孔雀明王経』も教義として活用をしている。
修験道根本は森羅万象 森曼荼羅に身を構えている為特定の経典は定めていないが主な流れの経典は以下に記する。

ハリギリ
1-ハリギリ

 
Kalopanax septemlobus 3.JPG
7-8月、枝先に多数の散形花序を出す
分類
: 植物界 Plantae
: 被子植物門 Magnoliophyta
: 双子葉植物綱 Magnoliopsida
亜綱 : バラ亜綱 Rosidae
: セリ目 Apiales
: ウコギ科 Araliaceae
: ハリギリ属 Kalopanax
: ハリギリ K. septemlobus
学名
Kalopanax septemlobus (Thunb.) Koidz.

シノニム
和名
ハリギリ(針桐)
ハリギリ(針桐、学名:Kalopanax septemlobus)は、ウコギ科の落葉高木で広葉樹。幹は直立し、高さ10-20m、大きいものは30mになる。別名、センノキ(栓の木)、ミヤコダラ、テングウチワ、ヤマギリなどがある。

日本全土(特には北海道)・朝鮮半島・中国の山地に分布する。若木は枝や樹幹にとげがあるが、老木になるに従い鋭さを失い瘤になる。幹の樹皮に深く縦に入った筋(裂け目)がこの樹木を特徴づける。
葉柄は長さ10-30cm、葉身は掌状に5-9裂し、カエデのような姿で径10-25cmと大きく、天狗の団扇のような形をしている。そこから「テングウチワ」と呼ばれることもある。秋には黄褐色に黄葉する。
7-8月、黄緑色の小花が球状に集まったものが傘状につき、藍色の丸い果実を結ぶ。
肥えた土地に自生するので、開拓時代はこの木が農地開墾の適地の目印であった。その為、北海道には大きな木が多く、明治末には下駄材として本州に出荷された。現在でも国内産の栓の9割は北海道産である。
2008年5月下旬
東京大学小石川植物園 
老木の樹皮 
展開した葉 
展開したばかりの芽は同じウコギ科のタラノキやコシアブラ、ウドなどと同様に山菜として食用にされる。見た目は「たらの芽」としてよく知られる近縁のタラノキの芽に良く似るが、苦味やえぐみとして感じられるあくがやや強い。そのためタラの芽と区別して食用にしない地方もあり、たとえば長崎方言では「イヌダラ」と呼んでタラノキと区別される。もっとも、しっかり灰汁抜きをすればコシアブラ同様に非常に美味であり、利用価値が高い。山菜としての地方名にオオバラ(中部地方)などがある。
果実は塩分を含み、ヌルデなどと共に、海からの塩が貴重だったころの山里で、塩分摂取に利用されてきた可能性も指摘されている[要出典]。
12
山菜として食用にされるハリギリの展開した芽 

枝は芽よりか細い印象があるため、林の中ではその大きな芽がかなり目立つ。 

完全な対ではないが、ほぼ等間隔に脇芽が出る。先端の芽を摘まない場合は2~3個が出るが、先端を摘むと2番目以降の芽の元の大半が芽吹く。トゲの間隔はタラノキよりも広く太く長い。 

木材利用
木材としては「栓(せん)」と呼ばれる。木肌が深く裂け、黒ずんだ褐色の色をしている木から取れる「オニセン(鬼栓)」と、木肌がなめらかな木から取れる「ヌカセン(糠栓)」に分かれる。鬼栓は加工には向かず、沈木に用いられる。一方、糠栓の材は軽く軟らかく加工がし易い為、建築、家具、楽器(エレキギター材や和太鼓材)、仏壇、下駄、賽銭箱に広く使われる。耐朽性はやや低い。環孔材で肌目は粗いが板目面の光沢と年輪が美しく海外でも人気がある。色は白く、ホワイトアッシュに似る。
ケヤキに似た木目を持つことから欅の代用品としても使用される。この場合は着色した上で新欅・欅調と表記されることもある。
シノニム
Kalopanax pictus (Thunb.) Nakai var. lutchuensis auct. non (Nakai) Nemoto
Kalopanax pictus (Thunb.) Nakai,

ケヤキ…木目が類似。

(資料参考ウイキペディア)
 

初期フランドル派ウイキペディア )
『アルノルフィーニ夫妻像』(1434年)、ヤン・ファン・エイク。
Van_Eyck_-_Arnolfini_Portrait
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)所蔵。
この肖像画はその寓意性、象徴性に複雑な意味を持たせた西洋絵画の嚆矢とみなされており、さらに垂直遠近法を採用した最初期の絵画作品の一つと言われている。

『十字架降架』(1435年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン。
プラド美術館(マドリード)所蔵。
初期フランドル派(しょきフランドルは)、または初期ネーデルラント派(しょきネーデルラントは)は、15世紀から16世紀にかけて北方ルネサンス期(アルプス以北の北ヨーロッパの美術運動を意味すると同時に、イタリア以外での全ヨーロッパのルネサンス運動の意味もある)のブルゴーニュ領ネーデルラントで活動した芸術家たちとその作品群を指す美術用語。
初期フランドル派は、フランドル地方のトゥルネー、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市で特に大きな成功をおさめただけでなく、西洋美術史上の観点からも極めて重要な美術運動である。

初期フランドル派の作品には最後期ゴシック様式である国際ゴシックの影響がみられるが、1420年代初頭に活躍したロベルト・カンピンとヤン・ファン・エイクが、国際ゴシック様式をさらに発展させた。
美術運動としての時代区分は、少なくとも前述のロベルト・カンピン(1375年頃 - 1444年)とヤン・ファン・エイク(1395年頃 - 1441年)が活動した1420年代初頭から、ヘラルト・ダフィト(1460年頃 - 1523年)の死去まで続くとされている。
ただしその終焉を、八十年戦争のきっかけとなったネーデルラント諸州のスペイン・ハプスブルク家に対する反乱 (en:Dutch Revolt) が起きた1566年あるいは1568年とする研究家も多い。

初期フランドル派の活動時期はイタリアの初期・盛期ルネサンスとほぼ合致する。しかし中央イタリアの古典古代の復興(ルネサンス人文主義)を背景とするイタリアルネサンス絵画とは別個の美術様式であるとみなされている。初期フランドル派の画家たちは、それまでの北ヨーロッパ中世美術の集大成とルネサンス理念からの影響とを融合させた作品を産みだした。
その結果、作品の美術様式としては初期ルネサンスと後期ゴシックの両方にカテゴライズされることもある。

初期フランドル派の重要な芸術家として、ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ディルク・ボウツ、ペトルス・クリストゥス、ハンス・メムリンク、フーホ・ファン・デル・フース、ヒエロニムス・ボスらの名前が挙げられる。このような初期フランドル派の芸術家たちによって、美術における自然主義的表現と、美術作品とその観覧者に一体感を持たせるような仮想画面空間の構築手法 (en:Illusionism (art)) は飛躍的な進歩をみせ、さらに作品に複雑な寓意を持たせる技法が発展していった。絵画作品としてはキリスト教の宗教画や小規模な肖像画が多く、物語性のある絵画や神話画はほとんど描かれなかった。風景画は独自の発展を遂げており、単独で描かれることもあったが、16世紀初頭までは肖像画や宗教画の背景の一部として小さく描かれることのほうが多かった。支持体に木板を使用して油彩で描かれた板絵が多く、一枚の板からなる作品、あるいは複数枚の板を組み合わせた三連祭壇画や多翼祭壇画などが制作されている。初期フランドル派の芸術家たちは、絵画作品以外にも彫刻、タペストリー、装飾写本、ステンドグラスなども制作しており、美術史上重要な作品も多い。
初期フランドル派の活動時期はブルゴーニュ公国がヨーロッパ中に大きな影響力を持っていた時代とも合致する。当時のネーデルラントはヨーロッパ政治経済の中心地であり、また、高い芸術的技能を誇る高級品の一大産地でもあった。徒弟制度と工房を活用した制作手法によって多くの芸術品を生産することが可能で、諸国の王侯貴族からの直接注文、公開市場のどちらにも良質な作品を供給することができた。極めて多くの芸術作品がこの時期に制作されたが、16世紀半ばにオランダを中心に発生したビルダーシュトゥルム(en)と呼ばれる偶像破壊運動(イコノクラスム)で多くの作品が破壊されたために、現存しているのはわずか千点あまりに過ぎない。さらに、1600年代半ばのマニエリスムの勃興とともに初期フランドル派の作品は流行から外れ、大衆からの人気がある作品群ではなくなった。その結果、現在に伝わる初期フランドル派の作品に関する公式な資料、記録がほとんど存在せず、もっとも重要視される芸術家の情報でさえもほとんど伝わっていないという事態が生じた。初期フランドル派が再評価され始めたのは19世紀半ばになってからのことで、その後美術史家たちの一世紀以上にわたる研究により、作者の特定、こめられた寓意や象徴の解釈、主要な芸術家の生涯などが解明されつつある。しかしながら、重要な作品の作者については今なお大きな議論の的となっている。

用語と領域

1432年にヤン・ファン・エイクが完成させた『ヘントの祭壇画』。この作品と装飾写本の『トリノ=ミラノ時祷書』が、初期フランドル派最初の重要な作品だと見なされている。
「初期フランドル派」は、ブルゴーニュ公国の統治下にあった15世紀から16世紀のネーデルラントで発展した絵画作品と、その作者たる画家を意味する用語として使用されることが多い。初期フランドル派の芸術家たちは、この時代の北ヨーロッパでそれまでの中世ゴシック様式から徐々に脱却し、北方ルネサンスと称される新たな美術様式を創りあげていった。当時の政治的観点ならびに美術史的観点から見れば、ブルゴーニュ公国の文化の影響は、現在のフランス、ドイツ、ベルギー、オランダに渡る地域にまで波及していた。
「初期フランドル派」はさまざまな呼ばれ方をすることがある。「後期ゴシック派」は中世絵画との連続性を重視する立場の用語で、フランス語起源の「初期フランドル派」という用語は、19世紀まで続くフランドルの伝統的芸術の一期間を示すとする立場である。1900年代初頭の英語圏諸国では「ヘント=ブルッヘ派 (en:Ghent-Bruges school)」や「旧ネーデルラント派 (Old Netherlandish school)」と呼ばれることが多かった。「初期フランドル派 (Flemish Primitives)」は、もともとフランス語での伝統的な美術史用語で1902年以降に有名になった呼称であり、とくにオランダとドイツでは現在でもこの名称が主に使用されている。初期フランドル派の「初期」という言葉は粗野で洗練されていないということを表しているのではなく、初期フランドル派の画家たちが新しい絵画の歴史、例えばテンペラから油彩への転換などにおける原点ともいえる存在であることを意味する。ドイツの美術史家エルヴィン・パノフスキーは、もともとは音楽用語である「アルス・ノーヴァ(新しい芸術)」や「ヌーベル・プラティーク(新たな技法)」という用語を使用することにより、初期フランドル派と当時のブルゴーニュ宮廷で人気のあったギヨーム・デュファイ、ジル・バンショワといった先進的な作曲家たちとを関連付けている。ヴァロワ=ブルゴーニュ公家がネーデルラントの統治を確立すると、ネーデルラントはより国際都市的な変貌を遂げ始めた。オーストリア人美術史家オットー・ペヒト (en:Otto Pächt) は、1406年から1420年にかけて芸術の分野でも同様の事象が発生したとし、「絵画に大変革が起きた」、芸術に写実主義という「新たな美」が顕現したと指摘している。

1477年当時のブルゴーニュ公国の地図。ブルゴーニュ公国は15世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家が政治的に統治していた地域で、フランドル北部とネーデルラント王国南部も含まれる。芸術の中心地だったのは15世紀に栄えたブルッヘとヘント、16世紀に栄えたアントワープである。
19世紀時点では初期フランドル派に関する研究が十分に進んでいなかった。当時の研究者たちは、ヤン・ファン・エイクはドイツ人、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンはフランス人で、初期フランドル派発祥の地もフランスかドイツだと考えていた。これらの学説は第一次世界大戦後になってから否定され、ドイツ人のマックス・ヤーコブ・フリートレンダー、パノフスキー、オーストリア人のペヒトらが初期フランドル派の研究発展に大きな業績を残した。この三名のようなドイツ語圏の研究者をはじめ、世界各国の美術史家たちは初期フランドル派の呼称に「フランドル」という地方名を使った用語を使用しているが、英語圏では「初期ネーデルラント派」という用語が使用されることが多い。
14世紀はゴシック様式が国際ゴシック様式へと推移していった時代で、その他にも北ヨーロッパでは様々な芸術学派、様式が発展していた。初期フランドル派の起源は、フランス王宮で伝統的に発展してきた装飾写本に求めることができる。現代の美術史家たちは、フランス王宮でこのような装飾写本が制作されるようになったのは14世紀からだとしている。その後、装飾写本の技法をメルキオール・ブルーデルラムやロベルト・カンピンといった、初期フランドル派の板絵画家たちが取り入れ始めた。カンピンは初期フランドル派最初期の重要な画家であるロヒール・ファン・デル・ウェイデンの師だったとも言われる画家でもある。装飾写本は、ブルゴーニュ公フィリップ2世、アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世といった当時の権力者たちから庇護を受け、1410年代にその最盛期を迎えた。その後もブルゴーニュ公家は装飾写本の庇護を続け、フィリップ3世、シャルルは多くの装飾写本を制作させている。装飾写本は15世紀の終わりごろには衰退しているが、これは板絵に比べて装飾写本の制作工程が遥かに複雑で、高額な費用がかかったためだと考えられている。それでも装飾写本は最高の贅沢品としての市場価値を保ち続けており、他にも木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画も、マルティン・ショーンガウアーやアルブレヒト・デューラーといった優れた芸術家の登場によって新たな人気を獲得していった。

『快楽の園』(1490年 - 1510年頃)、ヒエロニムス・ボス
プラド美術館(マドリード)
中央パネルに描かれているモチーフが道徳的警鐘なのか失楽園なのか、美術史家の間でも見解が分かれている作品。
14世紀の装飾写本には欠落していた精緻な光と影の表現技法を確立し、絵画作品にもたらしたのがヤン・ファン・エイクである。この技法によって聖書の場面をモチーフとした宗教画は自然主義で描かれるようになり、世俗的な肖像画もより感情に訴えかける生き生きとした描写で描かれるようになった。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガはその著書『中世の秋』で、日々の暮らしが「美しさに満ちた」宗教的な儀式や礼典と密接に結び付いた時代だったと記している。このような北ヨーロッパの美術作品はヨーロッパ全土で高く評価されていたが、様々な理由により1500年ごろから徐々に翳りを見せ始める。イタリアで勃興したルネサンス美術が商業的な成功を収め、数十年後には完全に市場価値が逆転してしまった。当時の初期フランドル派美術作品とイタリアルネサンス美術作品の逆転を象徴する出来事が二つある。1506年にルネサンスの巨匠ミケランジェロの大理石彫刻作品『聖母子 (en:Madonna of Bruges)』がブルッヘに、1517年には同じくルネサンスの巨匠ラファエロが描いたタペストリの下絵である『ラファエロのカルトン』がブリュッセルに持ち込まれて好評を博している。ルネサンス美術は北ヨーロッパにもたちまちのうちに広まったが、初期フランドル派の画家たちがルネサンス芸術家たちに与えた影響も少なくない。ミケランジェロの聖母マリアは、ハンス・メムリンクが発展させた様式をもとにして制作されているのである。
その死をもって初期フランドル派の終焉とする学説もあるヘラルト・ダフィトの没年は1523年のことである。クエンティン・マセイスやヒエロニムス・ボスといった芸術家たちは、16世紀半ばから後半にかけても初期フランドル派の様式を維持し続けていたが、この二人を初期フランドル派の芸術家だとはみなさない美術史家も少なくない。ファン・デル・ウェイデンやヤン・ファン・エイクといった最初期の芸術家の作風とはあまりにかけ離れ過ぎだとする。16世紀初頭の北ヨーロッパの芸術家たちは自身の作品に三次元的錯視表現を持ち込み始めた。それでもなお16世紀初頭の絵画作品には前世紀に使用された技法や寓意表現の影響が顕著であり、前世紀からの伝統的絵画様式に忠実に則った、過去作品のコピーといえるような絵画を制作し続けた画家たちもいた。ルネサンス人文主義の影響から抜け出せずに、キリスト教を主題とした宗教画をギリシア・ローマ神話と混交した作品として描き続けた画家たちも存在している。北ヨーロッパの絵画作品が15世紀半ばの様式から完全に脱却したのは、1590年ごろから興った北方マニエリスム (en:Northern Mannerism) 以降のことだった。これは16世紀初頭から中盤にかけてイタリアで隆盛した、ルネサンス後期様式といえるマニエリスムの時期と合致する。世俗人を描いた自然主義の肖像画、庶民あるいは貴族の生活を描いた風俗画、背景として描かれることが多かった風景画や都市画の発展など共通点も多い。
歴史[編集]

『トリノ=ミラノ時祷書』のミニアチュール『聖十字架の発見』。
ヤン・ファン・エイクだと考えられている「画家 G」の作品。
初期フランドル派の起源は、後期ゴシック期の装飾写本の挿絵であるミニアチュールに求めることができる。伝統的な装飾写本に、より精緻な写実性、遠近描写、色彩表現が見られるようになったのは1380年以降のことで、リンブルク兄弟と『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵を手掛けた複数の画家のうちでもっとも高く評価されているネーデルラントの「画家 G」によってそれらの技法が頂点に達した。この「画家 G」が誰なのかは確定していないが、ヤン・ファン・エイクかあるいはその兄であるフーベルト・ファン・エイクだという説が有力となっている。ベルギーの美術史家ヘルヘ・フラン・デ・ルーは『トリノ=ミラノ時祷書』に描かれた「画家 G」による挿絵のことを「現在にいたるまでのあらゆる本の装飾として、最上級の作品群のひとつである。制作されて以来、美術史の観点からしてももっとも優れた作品と言える」と評価している。
油彩技法の確立という極めて重要な変革を成し遂げ、後世の画家たちの絵画制作に多大なる影響を与えたのがヤン・ファン・エイクである。16世紀の画家で、『画家・彫刻家・建築家列伝』を著した美術史家としても知られるジョルジョ・ヴァザーリは、ヤン・ファン・エイクが油彩の発明者であるとしているが、これは誇張された記述である。油彩そのものは以前から存在しており、ヤン・ファン・エイクは油を固着剤として絵具に使用する技法を確立して広く知らしめた画家だった。ヤン・ファン・エイクは油絵具を用いた高度な絵画技法を築き上げた。これは油絵具の乾燥が極めて遅いことを利用したもので、絵具が乾く前に様々な加筆や混色、重ね塗りなどを使用することによって精緻な表現描写を可能とする技法である。さらにロベルト・カンピンやロヒール・ファン・デル・ウェイデンが、ヤン・ファン・エイクの油彩技法を即座に自身の作品に取り入れ、更なる改良を加えていった。この三人が初期フランドル派のなかで最も優れた画家と言われており、第一世代の初期フランドル派の画家たちに非常に大きな影響を与えた。そして、東はボヘミアやポーランド、南はオーストリアやスワビアに至る北ヨーロッパ中に、この三人の画家たちの影響が及んでいくことになる。

『ターバンの男の肖像』 (1433年)、ヤン・ファン・エイク。
ヤン・ファン・エイクの自画像の可能性がある。

『ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの肖像』(1572年)、コルネリス・コルト画。
伝統的に初期フランドル派に分類される画家の中にも、現代の地理でいうところのオランダ、フランドル出身ではない人物は多い。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンはトゥルネー出身で、その誕生名はフランス語風のロジェ・ド・ラ・パステュールである。ドイツ出身のハンス・メムリンク、エストニア出身のミケル・シトウもフランドルで活動し、フランドル様式の作品を描いた、初期フランドル派に分類される画家である。シモン・マルミオンは現在のフランス北部の都市アミアン出身だが、1435年から1471年当時のアミアンがブルゴーニュ公国の一部だったために、初期フランドル派の画家のひとりとみなされることが多い。当時のブルゴーニュ公国は大きな影響力を持った強国であり、初期フランドル派の画家たちが成し遂げた絵画技法の革新はほどなくヨーロッパ中に広まっていった。ヤン・ファン・エイクの絵画作品は、その存命中からヨーロッパ中の富裕層が争って買い求めるほどの評価を得た。複製画も大量に制作され、初期フランドル派絵画の作風を中央ヨーロッパや南ヨーロッパへ広めることに大いに貢献した。当時の中央ヨーロッパ芸術には、イタリアからのルネサンスと北方絵画両方の革新の影響が見られる。この二派の様式は混交し、ハンガリー王マーチャーシュ1世など両派の画家を後援する王侯貴族も現れることとなった[33]。
最初期の初期フランドル派の主要な画家たちは、読み書きができる十分な教育を受けた中流階級以上の出身である。ヤン・ファン・エイクもファン・デル・ウェイデンもブルゴーニュ宮廷で高い地位を与えられており、とくにヤン・ファン・エイクはヨーロッパ中の上流階級の公用語だったラテン語の読解力が要求される役割を果たしていたと言われる。その作品にみられる銘文から、ヤン・ファン・エイクがラテン語とギリシア語両方に精通していたことが伺える。初期フランドル派の多くの芸術家がヨーロッパ各地に後援者を持つようになり、経済的な成功を獲得していった。ヘラルト・ダフィトやディルク・ボウツなど多くの画家が大規模な絵画を個人的に制作し、その作品を自身の好みに応じた教会や修道院に寄進するだけの金銭的余裕があった。また、ヤン・ファン・エイクはブルゴーニュ公宮で宮廷画家ならびに近侍 (en:valet de chambre) の地位を与えられており、ブルゴーニュ公フィリップ3世に親しく謁見できる立場の人物だった。ファン・デル・ウェイデンは堅実な投資家で、計算高かったボウツは裕福な女相続人カタリナを妻とし、フランク・ファン・デル・ストクト (en:Vrancke van der Stockt) は不動産に投資して財を成している[34]。

『女性の肖像』(1460年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン。
ナショナル・ギャラリー(ワシントン)所蔵。
ファン・デル・ウェイデンはこの作品でモデルとなった女性を理想化することなく、より自然主義的な表現で描いている。
初期フランドル派の画家たちの影響は、15世紀にケルンで活動していたシュテファン・ロッホナーや通称「聖母の生涯を描いた画家」(en:Master of the Life of the Virgin) と呼ばれている画家たちにも及んでいた。両者の作品にはファン・デル・ウェイデンやボウツが描いた作品からの影響が見て取れる。その後、ヨーロッパ諸都市で独自の絵画様式が発展し、16世紀初頭の神聖ローマ帝国ではウルム、ニュルンベルク、ウィーン、ミュンヘンなどが芸術の中心都市となっていった。フランス、南北イタリアの芸術革新を受けて、木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画などの芸術も発展を見せている。16世紀になっても前世紀の絵画技法、様式から大きな影響を受け続けた画家たちも存在していた。当時の先進的な画家だったヤン・ホッサールトはヤン・ファン・エイクが15世紀半ばに描いた『教会の聖母子』の複製画を制作している。ヘラルト・ダフィトは自身が良く訪れていたブルッヘやアントウェルペンの様式が見られる絵画を制作した。ダフィトは1505年にアントウェルペンに移住しており、当地のアントウェルペン画家ギルドの会長だったクエンティン・マセイスと親交を結ぶようになった。

『雪中の狩人』(1565年)、ピーテル・ブリューゲル。
美術史美術館(ウィーン)所蔵。
ブリューゲルが冬の情景を描いた絵画中でもっとも有名な作品。16世紀半ばには世俗の風俗画が好んで描かれた。
ヤン・ファン・エイクが発展させた革新的な寓意技法や絵画制作技法は、16世紀になるころには北ヨーロッパで各地でごく標準的なものとなっていた。ニュルンベルクではアルブレヒト・デューラーが、ヤン・ファン・エイクの細部にわたる精緻な表現を模写することによって精密な表現技法を身につけ、さらにデューラー独自の宗教色の感じられない人体描写へと昇華させている。画家という職業が高く評価され、画家たちはさらなる尊敬と社会的地位を謳歌するようになっていった。芸術家のパトロンはたんなる絵画制作依頼者ではなく、芸術家を自身の宮廷に迎え入れ、新たな見聞を広めるための旅行資金をも出資可能な王侯貴族が中心となっていった。15世紀終わりから16世紀初頭にかけて活動したヒエロニムス・ボスは、初期フランドル派の芸術家の中でももっとも重要で有名な画家のひとりである。ボスは非常に特異な画家であり、初期フランドル派の特徴とも言える自然描写、人物描写における写実主義、遠近法の採用はほとんど見られず、イタリアルネサンスからの影響も皆無と言える。それらの代わりに、現在もっとも広く知られているボスの作品には、ヤン・ファン・エイクが『キリスト磔刑と最後の審判』で地獄の図として描いた空想的で幻覚を起こさせるような生物や風景が描かれている。ボスはモラリズムやペシミズムに偏向した独自の作風を追求した画家だった。ボスの作品の中でもとくに三連祭壇画の作品群が、後期の初期フランドル派の絵画作品としてもっとも重要視され高く評価されている。
宗教改革の影響により、絵画の主題も聖書の場面を描いた宗教画から世俗的な風俗画や風景がより多く描かれるようになっていった。宗教的なモチーフは教訓や道徳心を意味するものとして扱われ、聖書の登場人物はわずかに背景にのみ描かれた。ピーテル・ブリューゲルはボスの特異な作風を受け継いだ数少ない画家のひとりで、初期フランドル派とその後の画派の橋渡しとなった芸術家である。ブリューゲルの作品には15世紀から続く伝統的な様式が多く残っているが、採用している遠近表現や作品の主題には明確に現代風の作風が見られる。キャリア初期のブリューゲルは宗教画や神話画を描いていたが、のちに広大な風景を主題とした作品を多く描くようになった。ブリューゲルが描いた複雑な構成の風俗画には、キリスト教に対する不信と国粋主義の片鱗が伺える。





















↑このページのトップヘ