グーグル生んだ移民の活力 新政権で消滅の危機 
伊佐山 元(WiL共同創業者兼最高経営責任者)
2016/11/22付 その他日経
 米国の次期大統領にドナルド・トランプ氏が就くことが決まった後のシリコンバレーでは、混乱が続いている。ベンチャー経営や投資への影響はまだ限定的だが、トランプ氏が掲げる移民排斥や人種差別は危険だ。

いさやま・げん 1997年東大法卒、日本興業銀行(現みずほ銀行)入行。2003年から米大手VCのDCM本社パートナー。13年8月、ベンチャー支援組織のWiL(ウィル)を設立。
 
 学校や日常生活の場では、すでに人種差別が原因の不満が沸騰し、衝突も何度か起きている。今日も我々のオフィスの前では、100人を超える人数の地元の高校生が「ピースマーチ(平和への行進)」に参加して街を闊歩(かっぽ)していた。

 これまで米国のベンチャー企業をめぐる社会では、出自を問わないオープンさが活力の原動力になっていた。この数年を見ても、珍獣の象徴である「ユニコーン」と称される時価総額10億ドル(日本円換算で1000億円)の非上場のベンチャー企業が150社以上も生まれており、その半分程度は移民が創業しているのだ。

 ウーバーテクノロジーズやエアビーアンドビー、スナップチャット、スペースX、ピンタレスト、ドロップボックス――。日本でも話題になるこれらのベンチャー企業の創業者はすべて移民だ。過去20年間に生まれたベンチャー企業の顔ぶれを見ても、創業者はインド人やカナダ人、英国人、中国人、イスラエル人と、まさに人種のるつぼとなっている。

 我々の生活には欠かせなくなったグーグルやヤフーも元はスタンフォード大学で学んだ移民が創業したベンチャー企業だった。シリコンバレーの重鎮の中で唯一トランプ陣営に参加することになった、天才経営者かつ投資家のピーター・ティール氏もドイツ出身だ。

 来年以降、新しい大統領の誕生により、仮に査証(ビザ)の発行が厳しくなり、白人と移民の対立が高まれば、シリコンバレーを支えてきた多様性は失われる。米国経済にも中長期的に大きなマイナスをもたらすのは明らかだ。シリコンバレーを含むカリフォルニア州は、世界の国内総生産(GDP)ランキングで6位に相当する巨大な経済圏だ。この地の活力は米国全体の経済のカギでもある。

 これまでシリコンバレーは、移民にとってアメリカンドリームを実現できる数少ない場でもあった。それゆえコストも競争環境も厳しいなかにあっても、世界中から才能豊かな人たちが集まり、切磋琢磨(せっさたくま)してきた。

 「シリコンバレーで認められたい」「本国に錦を飾りたい」「一族の成功を果たしたい」「世界を変えたい」。彼らの想いは様々だが、リスクの高い環境で優秀な人材が競争することにより、世界でも、まれなイノベーションの聖地を作り上げてきた。この地の開放性が失われ、多様性が認められなくなることは、世界から起業家の希望の地が消えることに等しい。

 「Success follows people, not the technology(成功は技術にあるのではなく、人にある)」と言われるように、シリコンバレーの競争力の源泉は、世界中から集まる人の魅力に尽きる。投資にしても、企業の経営にしても、技術や資本、タイミングなどいろいろな要素が成功の要因ではあるが、その中でも人の要素が圧倒的に大きい。

 今、米国が置かれている状況は、日本にとってチャンスなのかもしれない。いかに世界から優秀な人材をひきつけるのか、どのようにして多様性に寛容で、リスクテークを応援する社会をつくるのか。日本には、その材料はそろっているはずだ。
[日経産業新聞2016年11月22日付](記事引用)

トランプ氏とシリコンバレーに漂う微妙な緊張 
2017/1/26 6:30 日経
霧雨の降る20日午後の米ワシントンDC。ジョン・ロバーツ米最高裁長官の立ち会いの下、ドナルド・トランプ氏が第45代米大統領に就任した。トランプ時代の正式な幕開けだ。

トランプ氏(左端)は大統領就任前の昨年12月にペイパルの共同創業者であるピーター・ティール氏(左から2人目)、アップルのティム・クックCEO(右から2人目)、オラクルのサフラ・キャッツCEO(右端)といったIT企業トップと会談をもった=ロイター

 siliconvalley一方、シリコンバレーでは大統領選の夜の衝撃は薄れつつある。トランプ氏とことごとく意見が対立するIT(情報技術)業界は、同氏の勝利を受け放心状態に陥ったが、今は対応を練っている。IT業界の現時点での対応は今後4年間について多くを物語る。

■一定の距離もち静観

 今のところ、IT業界の関係者は(反トランプ)活動の中心となっている。先週初めにカリフォルニア州パロアルトで始まった抗議デモの矛先は、トランプ陣営の腹心であるピーター・ティール氏と、ティール氏が共同創業した謎多きデータ解析会社パランティール・テクノロジーズに向いている。デモを率いるIT労働者団体は、パランティールとティール氏が「イスラム教徒のデータベースと不法移民の強制送還で利益を得るべきではない」と訴えている。

 全米各地では、グーグルやアドビシステムズ、スラック、キックスターター、インスタカートなどの社員が21日、「今回の大統領選での発言」に対する大規模な抗議デモ「ウイメンズ・マーチ」に参加するため自主的にグループを結成した。「ワシントン・マーチ」はNPO「ガールズ・フー・コード(Girls Who Code)」と「アイファンド・ウイメン(iFund Women)」と手を組んだ。相乗り仲間を集めてバスをチャーターするサービスを手掛けるスタートアップのスケダドルは、このイベントのために1万1000人をバスでワシントンに送り届けた。フレックスも21日、女性向けに健康サービスを提供するスタートアップのための会議をサンフランシスコで開催した。

 国民からの圧力と訴えを受け、トランプ氏が対立的な手法を使う選挙運動で提示した問題に対して、一部の企業はある程度の立場を表明するように迫られている。フェイスブック、マイクロソフト、アップル、グーグル、さらにはパランティールまでもが、トランプ氏が提案したイスラム教徒のデータベース作成には手を貸さない方針を明らかにしている。もっとも、最大300万人を強制送還するという選挙公約について各社の口ははるかに重く、ウイメンズ・マーチに至ってはコメントしないつもりだ(われわれは既にグーグルやアップル、マイクロソフト、ツイッター、フェイスブックなど30社にコメントを求めた)。

 トランプ氏はIT各社の業績を揺るがし、主義に反する政策を導入する可能性が高いが、大半の企業は静観する構えだ。特にフェイスブックは社員に対し、あらゆる政治活動を仕事と区別し、フェイスブックの代表としてこうした活動を行わないよう求めている。

 (テスラモーターズの)イーロン・マスク氏や(ウーバーテクノロジーズの)トラビス・カラニック氏、ティール氏など、IT業界のトップには例外もいる。最初の2人はトランプ氏への助言組織「大統領戦略・政策フォーラム」のメンバーだ。政権移行チームの昨年12月の声明によると、フォーラムは「大統領と頻繁に協議し、経済政策の実行にあたって具体的な経験や知識を提供する」。この3人はおそらく、トランプ氏の漠然としたIT政策課題を具体化するだろう。そうなれば、政策の導入時期が明らかになる。

■将来の衝突は不可避?

 残りのシリコンバレーのそうそうたる面々(フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ氏やグーグルのラリー・ペイジ氏、アップルのティム・クック氏、アマゾン・ドット・コムのジェフ・ベゾス氏など)はずっとおとなしくしているつもりもないし、できないだろう。査証(ビザ)の各プログラムの廃止やネット中立性の撤廃、監視活動の強化、不法移民の集団追放、イスラム教徒のデータベース開発などシリコンバレーがずっと恐れてきたトランプ氏の公約が政策になれば、業界リーダーは声を上げざるを得なくなるだろう。

 トランプ氏が構想する内容にシリコンバレーのリベラルな血が重なれば、どんなに政治的に中立な企業でも特定の主義に偏った論争に追い込まれるのは必至だ。だが、トランプ氏が民衆の対立と分断を招く人物なのは証明済みのように、その政策もIT業界に亀裂や派閥をもたらす恐れがある。IT各社の最高経営責任者(CEO)は株主にとって最善の行動と、国家的な価値観との間で選択を迫られるかもしれない。

 主流派になりつつあるIT業界がトランプ氏と衝突するのは確実であり、当初から既に起きている。しかも、その影響はトランプ氏の政権基盤の核心に及ぶ。IT業界はトランプ氏が創り出すと約束している多くの雇用を、先を争って自動化しているからだ。

By Harrison Weber

(最新テクノロジーを扱う米国のオンラインメディア「ベンチャービート」から転載)

(記事引用)


 

トランプ政権を操る「謎のブロガー」 28歳の異常すぎる存在感
2017年1月22日 18時0分 Forbes JAPAN
「ネット上で最も嫌われている人物」と呼ばれ、荒らし行為でツイッターからアカウント使用停止処分を受けたブロガー、チャールズ・チャック・ジョンソンが、トランプ大統領の政権移行チームとの連携を深めている。

情報筋によると、彼はトランプ政権のチーム編成に協力し、候補者の吟味や「オルタナ右翼」と呼ばれる陣営からの承認を得る活動をしているという。自称「不正を暴くジャーナリスト兼作家」のジョンソンは現在28歳。彼は大統領選挙の数か月前からソーシャルメディアや自身が運営するニュースサイト「GotNews.com」上でトランプの応援を繰り広げ、トランプを批判する人々に向けては虚偽の情報を流した。そのジョンソンが、この国の運営を担うリーダーたちの選出に一役買っているというのだから驚きだ。

フォーブスは、政権移行チームの関係者から匿名を条件に、ジョンソンが関与している事実を突き止めた。先月、ジョンソンに意見を求めたところ、彼は「公式な肩書はない」と述べるにとどまり、具体的な関与についてはコメントを避けた。昨年12月の段階では、電話やメールでのインタビューに応じるとしていたが、今月に入ってコンタクトをしたところ、コメントを拒否した。

ジョンソンは昨年末に行ったメールでのインタビューで、次のように述べている。「トランプ政権の誕生についてはとても嬉しく思っているが、私が希望する人材の多くは政権メンバーに選ばれていない」

ジョンソンは、12月22日のラジオ番組にリバタリアンのブロガー、Stefan Molyneux と出演し、「トランプ政権のために多くの人物の精査を行っている」と述べている。彼は「Black Lives Matter Movement(黒人の命だって大切だ運動)」の活動家を脅したために、2015年5月にツイッターからアカウント使用禁止処分を受けている。

「オルタナ右翼」から絶大な支持
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その後も他人を誹謗中傷したり、虚偽の情報を流してネット上の「荒らし」としてその名が知られるようになった。彼は、ニューヨーク・タイムズの記者の住所を公開したり、バージニア大学で起きたレイプ事件の被害者として関係の無い女性の名前を公開したり、オバマ大統領が同性愛者であると公言するなど、これまでに多くの物議を醸してきた。

2014年のマザー・ジョーンズ誌とのインタビューで、ジョンソンは自身について次のように語っている。「ツイッターに投稿するとき、私はまるで別人格のように好戦的になる。それは、スパイダーマンがコスチュームを着ると穏やかなカメラマンから豹変するのと似ている。私は、自分が発信したコンテンツを拡散させるために、あえてそのようにしているのだ」

ジョンソンは、自身が運営するGotNewsを「嘘だらけの主要メディア」に対抗するものだとしている。彼によると、月間ページビュー数は250万に達するというが、ネット視聴率調査のQuantcastは過去30日間で24万6,000人が同サイトを訪れたと推計している。サイトを見ると、テッド・クルーズ上院議員が連邦最高裁判事の指名間近であることや、トランプが2016年の上院議員選でジョン・マケインを支持したことを「最大の後悔」と述べているといった記事が掲載されている。

白人至上主義団体とも交流

ジョンソンは最近、ワシントンD.C.で白人至上主義者の集会に参加している姿が目撃されている。彼は問題行動を数多く起こしているが、オルタナ右翼勢力から絶大な支持を得ている。彼らは、大統領選挙でトランプ勝利に大きく貢献したと言われている。

ジョンソンの友人で、同じくトランプ支持派の「荒らし」として知られるMike Cernovichによると、ジョンソンはこれまでも水面下で政治活動を行ってきたという。「メディアはジョンソンを批判するが、彼が政治にどれだけ大きな影響を及ぼしてきたかを知ったら驚愕するだろう」と彼は話す。

ジョンソンはいち早くトランプの勝利を予測し、大統領選挙のパーティー会場ではVIP席にいる姿が目撃されている。彼は11月8日頃からトランプタワーに陣取る政権移行チームと連携し、ティールをはじめとする執行チームのメンバーと連絡を取り始めた。ペイパルの共同創業者でフェイスブックの取締役でもあるティールは、シリコンバレー人脈とトランプをつなぐ上で極めて重要な役割を果たしている。

ジョンソンは、トランプ政権の人事において、10名以上の候補者をティールに紹介している。その中には、連邦通信委員会(FCC)の委員長候補であるAjit Paiが含まれる。FCCの共和党系委員であるPaiが委員長候補に名が挙がるのは自然な成り行きだが、ジョンソンが推薦したということは、オルタナ右翼勢力もPaiが適任だと考えていることがわかる。Paiにコメントを求めたが、回答を得ることはできなかった。

ジョンソンは「ピーター・ティールとは共通の敵がいるが、面識はほとんどない」としてティールとの関係を否定した。彼の言う共通の敵とは、ティールが廃業に追い込んだゴーカー・メディアのことだ。ゴーカー・メディアは、元プロレスラーのハルク・ホーガンからプライバシー侵害で訴えられ、巨額の損害賠償によって破産に追い込まれた。

ティールは、ホーガンの裁判費用を密かに支援していたとされる。ジョンソンも、中傷記事を掲載されたとしてゴーカー・メディアを名誉棄損で訴えているが、ジョンソンが最初に相談を持ち掛けたのが、ティールがホーガンの裁判で使った弁護士事務所「Harder Mirell & Abrams」だった。その後、ロサンゼルスの弁護士事務所が引き継ぎ、現在はゴーカー・メディアの破産を受けて裁判は中断している。

保守系ニュースサイトに勤務の過去も

ゴーカー・メディアがジョンソンとティールの共通の敵だとしたら、両者にとっての共通の味方はトランプのアドバイザーで首席戦略官のスティーブン・バノンだろう。バノンは、ジョンソンがかつて勤めた保守系ニュースサイト「ブライトバート・ニュース(Breitbart News)」の会長だった人物だ。昨年12月の電話インタビューで、ジョンソンはバノンについて、「私はバノンの近くで働き、彼を尊敬している」と述べている。

ジョンソンとバノンは、昨年10月に行われた2回目の大統領選討論会の直前に、ビル・クリントン元大統領を性的暴行で訴えた女性4人とトランプによる記者会見を開催した。被害者とされる女性の一人、キャサリン・シェルトンは、1975年にビル・クリントンからレイプされたと主張しているが、ジョンソンは彼女のために1万ドル以上の寄付を集めている。

ジョンソンは先月、フォーブスに対して次のように述べている。「自分の元上司が米国大統領の相談役になったら、気安く間違いを指摘できなくなる」。バノンの広報担当であるAlexandra Preateにコメントを求めたが、回答を得ることはできなかった。

最近では、ジョンソンの友人であるMike CernovichとJeff Gieseaも政権移行チームと面談していることが確認された。この2名はトランプの大統領就任式の夜にワシントンD.C.の全米記者クラブで行われる「DeploraBall」と銘打った支持者向けパーティーを企画し、これまでに1,000枚のチケットを販売している。このパーティーの目的は「トランプの大統領選勝利まで政治的に無視されてきた人々に発言権を与える」ことだという。ジョンソンに、これまでの活動に対する功績をトランプ側から認められているかと尋ねると「私が期待しているほどは認められていない」という答えだった。

ジョンソンは、トランプ支持活動が大きな成果を挙げた要因は、ミーム(インターネット上で爆発的に拡散する単語や顔文字、画像など)によって多くの有権者の感情に訴えることができたことだと分析している。「ペペ・ザ・フロッグ(Pepe the Frog)」というカエルのキャラクターがトランプ支持者の非公式マスコットとなったことなどが良い例だ。ジョンソンは、最近の人々はミームを使い、感情に基づいて政治的主張を行うようになっていると指摘する。実際、ジョンソンらが拡散した事実に基づかない情報に多くの人が反応し、トランプ勝利の大きな流れを作った。

「大統領選の勝因は、多くの人がミームを生み出したことだ。ミームによって新しい大統領が誕生したのだ」とジョンソンは話す。
(記事引用)






 

離任のケネディ大使、真の日米の懸け橋に 高く評価されるその功績とは?
NewSphere2017年01月20日 17:45

1月20日のトランプ政権発足を前に、キャロライン・ケネディ駐日米大使が帰国の途に就いた。2013年に着任した際には、政治経験のほとんどない同氏の任命を危惧する声も多く聞かれたが、振り返れば日米の調整役として高い能力を発揮し、見事にその役割を果たしたと海外メディアは評価している。

◆セレブから大使へ。就任当初は低評価
 ケネディ大使は、アメリカの「ロイヤルファミリー」とも呼ばれるケネディ家の一員で、第35代アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディ氏の長女だ。名門大出身で、弁護士資格も保持しており、まさにセレブと呼ぶにふさわしい人物で、大使就任のニュースは国内外で大きく報じられた。
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 しかし人気とは対照的に、大使としての評価は就任当初は低かったようだ。ワシントンポスト紙(WP)に寄稿した、シンクタンク「日本再建イニシアティブ」の理事長、船橋洋一氏は、十分な政治経験がなく日本の専門家でもないケネディ大使に識者は懐疑的だった、と述べる。ニューヨーク・タイムズ紙(NYT)も、大使という役目に適しているか否か疑問符が付けられたと述べ、2015年の米監察総監室の報告書では、ケネディ大使が在日米大使館規模の機関を指揮管理することに不慣れであることが強調され、大使館内でのコミュニケーションの欠如が批判されたと伝えている。

 さらに、大使就任直後の2013年12月に安倍首相が靖国神社を参拝し、米大使館として「失望」の意を示したこと、また2014年に大使がソーシャルメディアで日本のイルカ漁に反対するコメントを出したことなどで波風が立ったとAPは指摘している。

◆オバマ広島訪問に貢献。日米の調整役へと変身
 しかし、実際にケネディ大使と仕事をした人々は、オバマ大統領と非常に近いこと、またケネディ家の名前による好感度をうまく活用し、大使は日本政府、ビジネス界、日本国民と強い関係を築きあげたと述べる。米国務省東アジア・太平洋局のダニエル・R・ラッセル次官補は、大使は「有名人から信頼され、尊敬され、愛され、そして耳を傾けられる影響力のある公人、そして立派な政治家へと変貌を遂げた」と述べている(NYT)。

 ケネディ大使の功績として、多くのメディアが上げるのが、オバマ大統領に広島訪問を勧め、サポートしたことだ。NYTによれば、大使は執拗ともいえるほど、数ヶ月間にわたり週に何度も広島訪問に関するメールを大統領に送っていたという。また船橋氏によれば、原爆資料館の見学を大統領に勧めたのも、自ら見学してその必要性を強く認識していたケネディ大使だったという。

 大使が日本政府の信頼を勝ち得ていたことを示すのが、安倍首相から戦後70年談話へのアドバイスを求められたことだと船橋氏は述べている。日韓の歴史についての考えをより明白にするように、という大使のアドバイスは、「戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます」という部分に反映され、慰安婦問題への暗示となった。広島訪問と同様、和解の努力の意図を強めることにおいて、大使が重要な役割を果たしたと船橋氏は見ている。

 岸田外相もケネディ大使を高く評価していた政治家の1人だという。「彼女を説得できたときは、ワシントンも説得できた。彼女が断固として否定的な反応を示したときは、日本側も代案を出す時だと思った」と述べ、大使は手強い交渉役だったと回想している(NYT)。沖縄の米軍施設の移転に関しても、日本の高官をワシントンまで連れて行き、日米双方の理解を深めることに尽力したのもケネディ氏だったと船橋氏は指摘している。

 APは、政治的波長の違いにもかかわらず、保守的な安倍首相とリベラルなオバマ大統領の間に信頼関係を構築できたのは、ケネディ大使の在任中だったと述べ、大使が日米のリーダーの距離を埋めたことを示唆している。

◆地道な活動が好感を呼んだケネディ氏。後任はビジネスマン?
 セレブと見られていたケネディ大使だが、その地道な活動でファンを増やしたとNYTは指摘する。大使は、来日以来35の都道府県を訪問。震災で被災した東北での自転車レースなどにも参加し、女性やLGBTの権利を尊重する活動も積極的に行った。また、クリスマス時期に米大使館が公開したビデオで、人気ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』のダンスを真似た職員たちとともにサンタ姿で登場。遊び心にあふれたビデオは話題を呼び、650万回以上視聴されている。

 離任を前に公開したお別れのビデオメッセージでは、大使は「いつか日本に戻ってきたい」と述べ、感謝の気持ちを表した。NYTによれば、以前は政界入りに気持ちが傾いた時期もあったが離任後のプランは決まっていないらしい。ロイターによれば、次の駐日大使として名前が上がっているのは、テネシー州出身の投資会社取締役、ウィリアム・ハガティ氏だ。こちらも外交経験はないとのこと。ケネディ大使の苦労をねぎらうとともに、次の大使の活躍を期待したい。

(山川真智子)

フラメンコギター「沖仁」
ヤマハ
ジャンルを超えた活躍で話題を集めているフラメンコギタリスト沖仁。クレモンティーヌ、葉加瀬太郎、福山雅治など多彩なアーティストとの共演をはじめ、NHK大河ドラマ「風林火山」の紀行テーマ曲の提供、さらにはFUJI ROCK'08への出演など活動フィールドは多岐に亘っている。また2010年7月にはスペインの3大ギターコンクールに数えられるムルシア"ニーニョ・リカルド" フラメンコギター国際コンクールの国際部門において、日本人初の優勝という快挙を成し遂げた。

ギターをはじめたきっかけを教えてください。

はじめて手にしたのはエレキギターで、中学2年の時でした。ロックが好きでBOØWYなどをよく弾いていましたね。高校になるとアコースティックギターで指弾きをするようになって、ビートルズやサイモン&ガーファンクルなどを弾きはじめ、そこからラグタイムギターなどのソロギターを弾くようになりました。これは面白いと思いました。しかもバンドを組まなくてもいいし。(笑)。

そこからフラメンコギターに?

いえ、まだです(笑)。高校卒業後にクラシックギターを習い始めるのですが、それも最初はスティール弦のギターで弾いていました。クラシックギターを弾きはじめるとスペインや南米の曲が好きになり、そうするとだんだんフラメンコも視野に入ってきて。そこで決定的だったのが当時デビューしたばかりのフラメンコギターの新星、ビセンテ・アミーゴのファーストアルバムでした。これにはかなり衝撃を受けました。僕が弾きたかったのはこれだったのかも、と。それでフラメンコギターを弾きはじめたんです。

「行かなきゃ何もわからない」そう思い立ってスペインへ。


フラメンコギターはスペインで修行したのですか。

フラメンコは楽譜なんてない世界ですから、とにかくスペインへ行かないと何もわからない。そう思ってスペインに渡って何人かのギタリストを訪ねました。連絡先も電話番号も知らなかったので現地で誰かに教えてもらって(笑)。結局ビセンテには会えませんでしたが、セラニートには会うことができました。セラニートについて習うことから修行を始め、さらにスペイン南部のヘレスという、フラメンコの発祥地と言われるアンダルシア地方の村へ移って、そこの住人として暮らしながらフラメンコの勉強をしました。

現地で感じたフラメンコの魅力とは何でしょうか?

いろんな言い方ができると思いますが、僕が一番魅力だと思うのは、人生で起こる深い感情、たとえばすごく辛いことから歓びまでを全部そのまま受け止めてくれる大きな器を持った音楽だということです。現地では小さな子どもからよぼよぼのお婆ちゃんまでフラメンコをやるんです。暮らしの中で自然に。それがいいんですよ。本当に器が大きな音楽だと思います。

優勝した時、フラメンコに抱きしめられた気がした。


優勝なさった"ニーニョ・リカルド" フラメンコギター国際コンクールについてきかせてください。

このコンクールには2008年にも出場したんですが、この2年の間にレベルが上がっていて驚きました。もし落ちたら恥ずかしいので一人で行くつもりだったのですが、結局「情熱大陸」のテレビクルーも同行することになり、これは参ったなと(笑)。でも実を言うと今回でコンクールに出るのは最後にするつもりだったし、それだからこそ賞を獲りたいと思っていました。

コンクールの映像ではとてもリラックスしているように見えましたが、演奏していていかがでしたか。

とにかく緊張しないように心がけました。「コンクールで緊張せずに演奏する」ということを自分のテーマにしていたんです。















大舞台で緊張しないためにはどうすればいいのでしょうか。

とても難しいですが、一言で言うと「自我を捨てる」ことです。「自分の力を見せつけよう」とか「負けないぞ」とかライバルに対して「失敗しろ」などと思うのはダメなんです。「自分のベストを見せよう」と考えることすらダメですね。

まるで禅の境地のようですね。

でも結局それしかないと思っています。そうでなければ「勝った、負けた」の話になってしまいますよね。それは小さな「戦争」みたいなもので、その先にいい音楽ってあるのかと考えると疑問です。僕がやりたいことは、聴いてくれるみんなが笑顔になることだし、元気になること。だとすれば「俺のギター、凄いだろ?」というのは違うと思うんですよ。

優勝した時はどんな気持ちでしたか?

優勝を告げられて審査員にハグされた時、まるでフラメンコに抱きしめられたような気がしました。やっと自分のフラメンコと本場スペインのフラメンコが溶け合ったような感じがしたんです。スペインから帰ってからは日本で自分なりのフラメンコを追求してきたんですが、それが伝統と摩擦を起こす部分、折り合いがつかない部分がありました。でもそれがコンクールでフラメンコの母国で受け入れられたことで、折り合いがつきました。それまでは「世界を敵に回して弾いている」ぐらいの気持ちで弾いていたのですが、いまはまったく違う気持ちで自然に演奏できるようになりました。これからが自分としての第2期という気がしています。

ヤマハFC50はフラメンコらしい音。
僕の手にフィットしてピッチも正確です。


コンクールではヤマハのフラメンコギターを弾かれたそうですね。

コンクールで弾いたのはヤマハのフラメンコギターFC50です。他社のものも含めてギターはたくさん持っていますが、コンディションも良く音も気に入っていたので、迷わずFC50を持っていきました。

FC50のどこが気に入っていますか。

まず音です。とてもフラメンコらしい音で、昔のCDで聴けるフラメンコギターの音のようだと感じました。とても野太くて、男性的です。それと僕の場合はサイズも重要なんですが、それが僕にピッタリでした。スケールや弦の間隔、ネックの形。僕は手が小さいほうなのでスペインのギターはたいてい大きすぎるんです。またヴィンテージなどの古いギターは確かにいい音なのですが、チューニングが合わないものが多い。昔のフラメンコなら5フレットより上はほとんど使いませんが、僕はハイポジションも多用するのでピッチは重要です。それと「プルサシオン」と言うのですが、フラメンコってちょっと弦を押し込んで演奏するんですね。その押し返される感覚が気に入っています。抱き心地みたいなものですね。

ヤマハのいい点は「音」と「機能」の両面ということですね。

そうです。ある意味でヤマハのフラメンコギターは僕の音楽とリンクしているんですよ。僕は昔のフラメンコではなく今、この時代のフラメンコを演奏したいと思っていますが、その根底にはフラメンコの伝統があります。このギターもまさにそういう感じがします。

たしかにコンクールの映像を見ても他のギタリストと音の違いがよくわかりました。

審査員の方からも「出場者の中で一番いい音だった」と褒めてもらいました。フラメンコギターにはいわゆる「白」と「黒」があって、それは側板の素材の色を指しています。黒(ローズウッドなど)は音がふくよかでコンサート向きとされていてコンクールでもほとんどの人が黒を弾いていました。一方、僕のFC50は白(スペインシープレス)でした。白はよりジャリンとして、ストレートにハートに来る気がします。普通は伴奏向きとされる白ですが、F50の音にはふくよかさもあったので、僕はあえてFC50で演奏しました。

フラメンコギターはポップスでもジャズでも魅力が出せる楽器。

フラメンコギターの魅力とは?

伝統楽器と考えられがちですが、僕はまだまだフラメンコギターには大きな可能性が秘められていると思うんです。フラメンコという音楽ジャンルの枠には留めておけないぐらい面白い楽器です。自分でもフラメンコギターのポテンシャルのまだほんの数パーセントしか使っていないと感じているぐらい。もちろん僕一人では100にはとても届きませんので、ぜひ多くの人にフラメンコギターを使ってもらって、可能性を拡げてもらいたいと思っています。

フラメンコ以外の音楽でフラメンコギターをどう使ったらいいでしょうか。

まずは身近に感じて欲しいですね。ガットギターの音が欲しい時にクラシックギターではなくフラメンコギターを選ぶ、そんな感じでいいと思うんです。フラメンコギターには柔軟性があり、使ってみるとポップスやロック、ジャズやクラブミュージックにもマッチします。しかもいわゆる「立つ音」なので使いやすいんです。ぜひ手にとって弾いていてほしいと思います。

今後の活動について教えてください。

僕はまずは日本のリスナーにフラメンコをきちんと届けたいと考えているんです。フラメンコだからスペインで、とか世界を舞台に、という前に、まずは今の自分とつながっている方々、同じ時代に同じ土地で生きているみなさんに、フラメンコギターの魅力を直接伝えたいと思っています。

2010年10月29日、ヤマハミュージック浜松店ホールでのリサイタルから

沖 仁(おき じん、1974年9月3日 - )は、日本のフラメンコギター奏者。神奈川県在住。2010年、3大フラメンコギターコンクールの一つであるムルシア“ニーニョ・リカルド”フラメンコギター国際コンクールで、日本人で初めて優勝した。
長野県生まれ。14歳でエレキギターを始める。高校卒業後に、カナダでクラシックギターを学んだ。その後アメリカ合衆国に留学するための手続を行っていたが、同じ頃にスペインのフラメンコギター奏者のビセンテ・アミーゴのアルバムを聴いて衝撃を受け、アメリカへの留学を取りやめてスペインに移住。アンダルシア地方などに住み、地元住民の輪に入って3年半フラメンコギターを学んだのち、2000年に帰国。
帰国した2000年に、カンタオール(フラメンコの唄い手)の石塚隆充と、フラメンコユニット「Taka y Jin」を結成。2002年には初のソロアルバム『ボリビアの朝』(自主制作)をリリース。その後もソロアルバムをEMIミュージック・ジャパンやビクターエンタテインメントからリリースしたほか、さまざまなアーティストに楽曲提供をしている。
2010年7月、スペインで開かれた第5回ムルシア“ニーニョ・リカルド”フラメンコギター国際コンクール(Concurso Internacional de Guitarra Flamenca ‘Niño Ricardo)で、日本人で初めて優勝した。同年9月、毎日放送『情熱大陸』に出演。
ディスコグラフィー
アルバム
ボリビアの朝 Una manana en Bolivia(2002年、自主制作) - 2008年、TONETONE RECORDSより再発。
New day to be seen(2005年、TONETONE RECORDS)
Nacimiento〜誕生〜(2006年、EMIミュージック・ジャパン)
Respeto 〜十指一魂〜(2007年、EMIミュージック・ジャパン)
OKI JIN IN CONCERT 2005(2008年、TONETONE RECORDS)
Al Toque 〜フラメンコの飛翔〜(2010年、ビクターエンタテインメント)
MI CAMINO 〜10年の軌跡〜(2010年、ビクターエンタテインメント)
Concierto 〜魂祭〜(2011年、ビクターエンタテインメント)
映像作品
Con Palmas 〜ライヴ・アット・ブルーノート〜(2011年、ビクターエンタテインメント)
楽曲提供[編集]
「風林火山〜巡礼紀〜」 - NHK大河ドラマ「風林火山」使用曲。
「ONE TIME feat. 一星 & 沖仁」 - SoulJaの楽曲。
「マイ・フェイヴァリット・シングス」 - JR東海CM曲。
「Viajero 〜旅立ちの日〜」「My way 〜Mi camino〜」 - BS-TBS「にっぽん歴史街道」OP、ED。
「My way 〜Mi camino〜」 - BS-TBS「美しい日本に出会う旅」ED。
「La Vida」 - 中森明菜 「Rojo -Tierra-」カップリング。
主なメディア出演
テレビ
『情熱大陸』(毎日放送、2010年9月5日)[5]
『ヨルタモリ』(フジテレビ、2014年10月19日・2015年9月20日) - 2014年は「世界音楽紀行」コーナーで出演
(記事引用)



 

ドキュメント72hours/Route439(NHKテレビ)
年末特番 朝までドキュメント72時間2016 12/29(木)23:25~12/30(金)4:55 視聴者投票による人気作を一挙放送! 5時間半たっぷりお楽しみください。
☆360度 ... http://www4.nhk.or.jp/72hours/
年末特番 朝までドキュメント72時間2016
12/29(木)23:25~12/30(金)4:55 視聴者投票による人気作を一挙放送!
5時間半たっぷりお楽しみください。

を、ついつい見てしまった。こんな時間に
(3:15)・・・。外の闇夜は誰一人起きていな師走の静寂。

これBSの「世界のふれあい街歩き」とは趣きを異にして「日本人の日本人のための日本人による」、動画だった。

「世界のふれあい街歩き」を見ていると、まったくその場所に住んでいるような錯覚さえおぼえる。
最近、同様番組を民放でもやっていて、ついつい見ていて、とちらだか判らないときがある。当然で写っている動画がイタリアだったりドイツだったりオランダだったりと、被写体風景は外国であり、見たこともない景気だから、区別がない。

そうして日本人は、行ったこともない国を、さも知ったような知識を得る。つい先日、それに関連した「小話」があったので、面白おかしく紹介してみよう。

その女、じゃなかった女性は、年のころ60を前にした「余裕」のある平凡な主婦(そう見えるが実際訊いたわけではない。なにしろ開店直後のスーパー店内だった)が茶のみ友達としている大話しを小耳に挟んだ。

全部を解説するとこの小紙では紙片が足りないので割愛してとどめておく。その内容は、「いろいろ海外は行って、もういくとこがない。こんどトルコのアヤソフィアモスクなんかどうかしら、と綾さんに進められて、アラ一緒にど~お」という内容だった。

トルコイスタンブール、アヤソフィアのモスクってイスラム教礼拝する聖地?だったよね。そこにこのおっかさんが行って、どうしたいのか、と疑問が過ぎったが、よもや口には出せなかった。

トルコイスタンブール

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それから一気に日本の里山風景の「朝までドキュメント72時間」の話にシフトする。

まったく、それを比較すると異次元世界で、どうしても目は「明治維新」期の西洋文明追随そっくりコピーに行ってしまう。

その里山にはモスクはなく、道端の道祖神であったり稲荷様であったり、まったく人気のない鎮守の森に佇む朽ち果てた社だったり、そこでは年に一度の祭りがあった。

今では廃校となってしまった小学校の子供たちは、10本の指の数本にしか数えられず、あと数年で村も廃村となるべき憂いがある。

「朝までドキュメント72時間」テレビは、リアルにその風景をとっているわけではないが、いずれそうなってしまうであろう故郷風景を、いま撮って置かないと記録素子が永遠に失われてしまう、という危惧がそこに隠されているような気がした。

画面に出ている老若男女たちは、近所となりの爺さんであったり婆様だったり、いまでは「鼻たれ小僧」という名も死語になってしまい、その風景にはぜひとも「鼻たれ小僧」が必要だったが、すでに時はおそく、彼らは海外に移ってしまい、残された里山には、その親もしくは祖父祖母が、つつましく暮らしていた。

推定では、あと十数年で、それら山村は消滅する、という報告だった。

里山山村が消滅する、というのは、単に生まれ故郷の田舎がなくなる、という単純図式ではなく、日本国そのものの力がなくなり、都会に一極集中した「里山羨望」志願者を10名20名集めて、荒れ放題の山の下刈りをしたところで、「焼け石に水」の1cc2ccを掻き集めたところで、なんの解決策になっていない。

「地方創生」策は、ずいぶん前の「リゾート法」の対極にあったが、いずれにしたってデスク上で作った分厚い官僚策定冊子は、丸投げ「コンサル」の格好の受け皿となって、その先にゼネコンがあって、万事は江戸時代官僚の藩制度から一歩も逸脱しないという、世界に冠たる江戸幕府をクールジャパンと改名しただけで、物事が円滑に進捗する、とPDFファイルに書き込んである。

「朝までドキュメント72時間」、それは師走正月にふさわしい動画だったが、そのほとんどの出演者が団塊世代であったように見えた。

ということはこの世代が世代交代する時代はいま、目の前に迫っている。
そんなこと誰も知っているが口にしたくない話題の一つだ。



元リンク
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52099850.html

別リンク
http://toyotano2953.wixsite.com/mysite

 

今もまったく色褪せしないロッキード事件1970
d00115_mainロッキード事件は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による主に同社の旅客機の受注をめぐって、1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件のこと。
この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、ここでは「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。

最高裁判所判例
事件名 外国為替及び外国貿易管理法違反、贈賄、議院証言法違反被告事件
事件番号 昭和62年(あ)第1351号
1995年(平成7年)2月22日
判例集 刑集49巻2号1頁
裁判要旨
日本の刑事訴訟法上、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、アメリカ連邦法上に基づいて行われた嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきである。
特定機種の選定購入の勧奨は、一般的には、運輸大臣の航空運輸行政に関する行政指導として、その職務権限に属するものというべきである。

内閣総理大臣が行政各部に対し指揮監督権を行使するためには、閣議にかけて決定した方針が存在することを要するが、閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においても、内閣総理大臣の地位及び権限に照らすと、流動的で多様な行政需要に遅滞なく対応するため、内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有する。
大法廷
裁判長 草場良八(最高裁判所長官)
陪席裁判官 園部逸夫 中島敏次郎 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 三好達 大野正男 千種秀夫 高橋久子 尾崎行信 河合伸一

意見
多数意見 園部逸夫 可部恒雄 大西勝也 小野幹雄 大野正男 千種秀夫 尾崎行信 河合伸一(以上8名全部の論点について)、1.については全員一致
意見 草場良八 中島敏次郎 三好達 高橋久子(以上4名2.3.について)
反対意見 なし
参照法条
運輸省設置法(現・国土交通省設置法)28条の2、3条、4条、憲法38条、72条、刑事訴訟法248条、146条、317条、1条、226条、内閣法4条、6条、8条

ロッキード事件(ロッキードじけん)は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による主に同社の旅客機の受注をめぐって、1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件のこと。

この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、ここでは「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。
なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものとする。

この事件は、国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で田中角栄元首相が、1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中元首相以外にも佐藤孝行運輸政務次官や橋本登美三郎元運輸大臣2名の政治家が逮捕された。
さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空の若狭得治社長以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。
この事件は1976年(昭和51年)2月にアメリカ議会上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会(フランク・チャーチ委員長の名から「チャーチ委員会」)における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。
 
トライスターの販売不振

L-1011 全日空のトライスター
 
1970年(昭和45年)11月に初飛行し、1972年(昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社初のジェット旅客機として同社の威信をかけて開発されたもので、中二階の客室、貨物室構造にエレベーターが設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。

ロッキード社はレシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、ロッキードはベトナム戦争の終結によって赤字経営に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。
しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスのDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争にさらされていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジン「RB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材のファンブレードではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、金属製のファンブレードに変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めたほか、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。
このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者に様々な働きかけを行なっていた。

全日空の大型機選定作業
 
1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭副社長を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故、ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。
1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという。
選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという。

トライスターの発注

1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭社長が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。
10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度召集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べ、「整備が自信を持って推すもの以外は乗れない」との意見もあった。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した。

チャーチ委員会

ロッキードF-104J
 
田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年(昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。

さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャンと元東京駐在事務所代表ジョン・ウイリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年(昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

2016年7月に放送されたNHKスペシャル・未解決事件でインタビューに応じた丸紅の大久保利春専務の部下の航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。

当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P3C導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、角栄がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山[5]が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎[6]が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭社長や渡辺副社長、大庭哲夫前社長、丸紅の檜山廣会長や大久保利春専務、伊藤宏専務、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良[8]などが証人喚問され、この模様は全国にテレビ中継された。

5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。
三木の下でアメリカから資料を貰い調べていた当時 内閣官房副長官の海部俊樹はインタビューで「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語っている。

捜査開始

ジェラルド・フォード大統領
 
その後、三木武夫首相がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカのジェラルド・フォード大統領に対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。
また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた。
三木首相は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日にヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。アメリカ政府は同月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意した。

ロッキード隠し
 
捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大したものの、明らかにライバルの田中をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。
また、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が事件捜査の進展を急ぐ三木首相の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中前首相と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。
国民やマスコミはこのような動きに対して「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、このような声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。
一方、吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し、起訴に持ち込んだが、三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、三木の政敵である田中の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。

この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として「三木おろし」が再燃、田中元首相の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。三木首相は9月に内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木首相も田中元首相との対決姿勢を改めて鮮明にする。
三木首相は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。1976年12月5日に行われた第34回衆議院選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木首相は敗北の責任を取って首相を辞任。大平派と福田派の「大福密約」により、後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就くことになった。
在日アメリカ大使館から本国へ、「これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。P3Cについての情報は一切だすな。」という主旨の報告が秘密解除されて見つかっている。
(資料ウイキぺディア部分)




 

今も続く壮絶戦闘
2000年5月にイスラエル首相エフード・バラックによるレバノン占領地域からのイスラエル軍の一方的撤退が実行された。だが、この撤退は国際条約や国連監視団の駐留を含むものではなく、2006年前半には軍備を増強しイスラエルと敵対するヒズボラとイスラエル軍の緊張が高まっていた。

実際2006年5月以降イスラエル北部国境の町キリヤット・シュモネにカチューシャ・ロケットが撃ち込まれている。ヒズボラは国境侵犯攻撃を可能とする為に数年間かけて情報収集を行い、さらにイスラエル軍兵士誘拐作戦に備えて半年間の訓練を行っていた。

ヒズボラの国境侵犯攻撃作戦はイスラエル軍(IDF)国境パトロール隊の順番がドゥルーズ兵達に変わる情報を受けて早められた。つまり、イスラエル軍の内部情報がヒズボラに筒抜けであった。

2006年7月12日午前9時にヒズボラはイスラエル国境付近の町々へ迫撃砲及びカチューシャ・ロケットを撃ち込み始めイスラエル側に11名の犠牲者を出した。これは、国境侵犯攻撃作戦を可能にする為の陽動作戦である。
5分後、ヒズボラはイスラエル国境を侵犯。偵察中の部隊に向かって対戦車ミサイルを撃ち込んだ。この時イスラエル軍兵士3名が死亡。さらに2名を捕虜にしたが、その時点でそのイスラエル軍兵士達が生きていたかどうかは定かでない。
しかしイスラエル情報当局は、彼らの生死について確実な情報を入手することができなかったため、イスラエル政府は2年間にわたって捕虜奪還の姿勢を取らざるを得なかった。これはヒズボラ側との交渉に利用され、また拉致将兵の遺族達を混乱させた。
イスラエル軍は戦車でヒズボラを追いレバノン領内に入るが地雷を踏み乗員4人が死亡。さらに脱出した1人が狙撃された。損害を拡大したイスラエル軍はヒズボラとの開戦を決断、ここに戦争が開始された。
(検索ウィキぺデア)
 
slide01 (1)メソポタミア神話『ギルガメシュ叙事詩』
レバノンに棲むフンババ
今も地中海を望む「フンババ」
 
フンババ(アッカド語:Humbaba、シュメール語:Huwawa フワワ)は、メソポタミア神話の『ギルガメシュ叙事詩』に登場する怪物である。
太陽神ウトゥにより育てられた巨人 (伝説の生物)で、「恐怖」とあだ名される。フンババはエンリルによって神々の住まうレバノン杉の森の番人を任されていた。すなわち「エンリルはフンババに人間たちにとっての恐怖としての役割を与えた」。

フンババはギルガメシュ叙事詩の粘土板2にて初めて言及される。ギルガメシュとエンキドゥが初めての戦いの後に親友になると、フンババを殺すためにレバノン杉の森を目指して出発し、7つの山脈を越える。
ギルガメシュはエンキドゥに語っている。「人が死を免れない存在であるというのならば、私は名声を得るために山々へと入りたい」。
いざフンババと対峙したギルガメシュは妹たち差し出すからという提案でフンババをだまして、彼の7つの「輝き」を脱ぎ捨てさせる。
フンババが油断したところを見計らい、ギルガメシュはフンババをぶん殴り、その怪物を捕らえた。

フンババはギルガメシュに慈悲を請う。しかしエンキドゥはフンババを殺すようにとギルガメシュを説得する。
最後の足掻きとフンババが逃亡を試みるが、エンキドゥによって、あるいはバリエーションによっては2人によってフンババの首が切り落とされた。
彼の首は皮の袋に入れられ、フンババを森の番人に任命したエンリルに届けられた。エンリルは憤慨し、フンババの7つの「輝き」を各所に分配した。「彼は1つ目の輝きを草原に与えた。
彼は2つ目の輝きを川に与えた。彼は3つ目の輝きを葦原に与えた。彼は4つ目の輝きをライオンたちに与えた。

彼は5つ目の輝きを宮殿に与えた(債務奴隷とする版もある)。6番目の輝きを森へ与えた(丘とする版もある)。
7つ目の輝きをヌンガル(Nungal、冥界の女神)へ与えた」。エンリルは彼らに直接復讐するようなことはしなかったが、次のように非難している。
「本当ならフンババは今だってお前たちの食べるパンを食べているはずだったのだ。お前たちの飲んでいる水をのんでいるはずだったのだ! 本当なら彼は讃えられているはずだったのだ」。

フンババの「輝き(またはオーラ、恐怖)」を脱ぎ捨てさせるためにギルガメシュは次に挙げるものをフンババに提案している。

こうしてギルガメシュが森の番人の気をひき、だましている間に、彼が連れてきた15名の未婚の男たちが木を切っては枝を払い、ふもとに積み上げて運び去る準備をしていた。
そのためこの冒険はそれ自体に木材の強奪、すなわち木材資源の乏しいメソポタミアへと木材を持ち帰る目的があったことが判明する。
ギルガメシュはその後、自らの死を意識するようになると、じょじょに罪悪感に苛まれるようになる。
神々はことあるごとにギルガメシュに彼のしたことを、すなわち「特別な木を盗んだこと、フンババを殺したこと」を思い出させた。

切断されたフンババの頭部は美術表現に用いられていた。じっと見据える目ともじゃもじゃのひげと髪の毛は邪気祓いとしての役割を担っていた。

この切断されたフンババの頭部という表現はバビロン第1王朝からネオ・アッシリアまで継続して見られ、そしてアケメネス朝の支配とともに衰退していった。

この表現はギリシアのペルセウスの物語の中に類似性を見つけることができる。この場合メドゥーサの頭部が同じ役割を果たしており、神話の中でペルセウスはやはりメドゥーサの頭部を皮の袋に入れている。
同様に魔よけの意味を持っていた古代ギリシアのゴルゴネイオンはひげを蓄えており、ゴルゴーンが女性であることを考えると不自然である。ジュディス・マッケンジー(Judith McKenzie)はナバテア王国のペトラのフリーズ (建築)にフンババを見つけたと主張している。
(資料ウイキペデア)

Miles Davis/John Coltrane - Konserthuset Stockholm (1960 FULL CONCERT)https://www.youtube.com/watch?v=4_z221y8TOs&t=29s
 




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