その.1 「桃源郷」という説話が中国にあった~

 「桃源郷」という説話が中国にある。
 「晋」の太元年間(376年~396年)、武陵(湖南省)に住む漁師の男が見たという実話として語られていたという。それは多くの人に広く知られていたノンフェクションの世界だった。

 その内容は、神話、民話、寓話、異類婚姻譚など定型的な文のスタイルで書かれてある。それには多少の誇張と創作、加筆もあるだろうが 、こんな世界に憧憬する、と一瞬おもうような、それはそれは美しい世界だ。 

「むかし、むかし、あるところに・・・」、という民話の世界は、いまでは再現不能だか、農家は農家なりの事情があってTPP問題も絡んで安閑としていられない。

 それで最近、田舎の風景も変わってきて、野良仕事をする農夫の姿を見なくなった。だからといってこの日本から米作りが消えたわけではない。作付けの種類も変化し、稲作田に今では「小麦」栽培している。面積にして10ヘクタール程度だから、一人二人の個人の気まぐれでできるものでもない。おそらく農協ルートの上の上(農林水産庁)の政策の一環だろうとはおもう。

 それはさておき、少し前までは、野良着姿のお婆さんが、背中に籠を背負って歩く姿をたまに見かけたことがあったが、いまではまったく見なくなってしまった。多分、別世界に遊びにいったのだろう。
 
 その姿が印象的でいまでも覚えているが、着ている物が、まったく廻りの風景と同一化していて、違和感がない。極端な言い方をすると「保護色」衣装だから、そう見えたのだろう。まるでそれは野鳥の色合いで、ケバケバしくなく主張もなく、まったくその日本的なセンスに感嘆していた。

 その本人が、意識してそうしているとは思えず、おそらく生まれ付いての環境とか、社会風土から発生した容姿だと思う。そこから読み取れるものは、集落助け合いの互助精神から派生していて、穀物育成の方法にしたって田畑の水利を個人一人でやっていたのでは、たちまち渇水して作付け食料はあっという間に枯れてしまう。
 
 そこに必要なのは山間の「ため池」施設で、これは江戸時代以来の藩の事業で、それが全国規模で展開していた。だから昔から農家は、手厚く保護されていたし、また小さな村社会の秩序を維持しており結果的に、そのお婆さんは、雀のような迷彩保護色にいたったのだろうと、勝手な想像をしてみた。

 その村の道路は「大型農道」としてパイパスの役目があり、なまじ都会の高速道路よりずっと速い。広々した稲作地帯に、ポツンポツンとコンビ二があり、高速道路のサービスエリアとまったく変わりない。

 そんな風景の中を冷暖房の効いた車で走っているのだから、「桃源郷」があるはずがない。もしそれがあったとしたら、奥の方にチケット売り場のゲートが待ち構えていることだろう。
 所詮、それは無い物ねだりをしてはいけない、という見本みたいなものだった。
 
 
 ある日のことでした。
 
 山奥の谷川に沿いに船を漕いで上っていたときです。漕ぎ出した場所から随分と上流に進んでいたと思うような川面でした。
  
 そこに突如として桃の木だけが生茂り、桃の花が辺り一面に咲き乱れる桃林が両岸に広がる場所に辿り着いたのです。 
  
 桃の花の芳香、そしてピンク色の美しさ、桃色の花びら、風に舞う花粉や舞い落ちる景色が目に映りました。その郷にすっかり心を奪われた男は、もっと奥にあるはずの源を探ろうと、さらに桃花畑の中を登り、やがて水源に辿り着いたのです。
 
 そこは山でした。
 
 その山腹には穴が穿ってあり人が一人通り抜けられるだけの大きさで奥から光が見えた。男はその穴の中に潜り込み歩いた。
 
 そして穴を抜けるとぱっと視界が開け、そこには広い平野が静かにたたずんでいた。その風景の中には農家があり、庭には田畑も池も桑畑もよく手入れされて美しい里の景色を見せている。
 
 遠くの野良を歩く人や仕事をしている人は外の世界の人と同じような衣服を着て、みな微笑みを絶やすことなく、そしてせっせと働いていた。
 
 その村人が男をみつけて近づいてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみな驚き家に迎え入れ食べ切れないほどのご馳走でもてなした。そして村人たちは男に、よその世界の話しを訊くのだった。 
 
 男は、こんど村人たちの話しを訊くことになった。その村人たちの話しで、村人らは秦の時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末に、この人里離れた山奥の誰も来ない地を探し当てた。

 ・・・ ・・・ 
 
 その男は無事岐路に着き、その土産話を現世で喋りまくったが、その村里は、ようとして探し出すことが出来なかった・・・。

 というオチで結ばれている。

 この「桃源郷」話しは、中国「晋」時代の太元年間(376年)に実際あった話と伝えられるが、東北地方の被災地では「ふるさと」の歌を聴きながら、そんな風景の中に再び舞い戻りたいと切に願っているに違いない。



その.2 スピノザ (1632-1677)オランダ          

スピノザの理神論的証明
(1) 定義
 神とは、全ての物の究極原因で、自らはなんらの原因のもたない存在者である。
(2) 定理
 自らにおいて存在し、自らによって解され、絶対無限の実有である神は唯一である。
(3) 定理
 自然における万物は、神あるいは属性の表われであり、神=自然である。

彼は定義の中に本質があり、そこから神の存在も言えると考えた。
”神は万物を自由意志によって生ずるのでなく、自己本来の法則にしたがって必然的に生ずるのである。ちょうど、三角形の本質(定義)からその内角の和が180度に等しいということが必然的にでてくるのと同じである。”
(参考文献 エチカ)

・デカルトの説明と良く似ている。両方とも三角形を使っているよ。

スピノザはデカルトの影響を受けているから、数学の方法を使って彼の哲学をつくりあげたんだ。

・神様は、僕達みたいに勝手に思いつくまま何かをしているのではなく、法則にしたがっているということか。つまり、自然の法則を探ることは神様の仕事を探っていくことと同じなんだね。

・すると、法則=神ということにならない?

・そんなら、法則さえあれば別に神様なんて考える必要はなくなるじゃん。

 そうなんだ。スピノザは神を信じていたけれど、彼の哲学から無神論が出てくる。
いずれにしても、証明が日本や中国には発達しなかったわけも想像できるね。ヨーロッパで科学が発達しえたのも、こういう風土が大きく影響していることは間違いない。

・まいったなあ。こんな神がいるのかいないのかまで証明しようとする連中の文化を、日本に持込んで僕たちに証明をさせようとするのは、無理があるんじゃないのかなあ。

・でも、キリスト教の影響を受けた証明(科学)が日本や世界で広まったのはどうしてなんですか?

うーん!それは良い質問だ。科学は神の創造の仕事をたたえるために始まった。ケプラーは惑星の運動の法則を見つけることで、神のすばらしい宇宙創造の仕事を明らかにしたと考えた。
つまり神の存在証明だったんだ。ところが、そういった法則が次から次へと見つかっていく中で、スピノザのような「神=自然」の考えが出てきて、やがて自然の中に現れている秩序の追求(法則の発見)だけが科学になっていったんだ。だからキリスト教以外の人々にも広がったといえる。

 その外にも、自然環境や経済、技術、人口の問題などなどいろいろなことが影響していると思うけど、それはみんなで調べてみようよ。

参考文献(新しい科学論:村上陽一郎)
「はまぐりの数学」より http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/god1.shtml


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