音楽家伊庭孝の話 
音楽、その複雑さは歴史の中にあり、海外諸国の古代音楽をその当時の日本に導入したときから始まっている。

林邑楽、吐羅楽、呉楽、新羅楽、高麗楽、唐楽などは発祥国がベトナム・インド・朝鮮・中国である。同じ中国でも、当時唐の国と拮抗していた渤海国は渤海沿岸北東文化をもち渤海楽を作り上げている。それらの楽師が日本に渡来し演奏したと古い記録に残っている。
『日本書紀』に記された音楽の渡来楽人として新羅王が楽人80名を遣わしたと記されている。
720年より遡って453年のことである。701年に大宝律令が施行されたことに伴い、音楽も官制下によって整理統合されている。その後にも試行錯誤を繰り返して現在の大別スタイル、唐楽と高麗楽に淘汰された。

3000年前の中国、殷から周にかけての時代に一オクダーブを十二の音に分け、それに音名を付けたのが十二律音階である。
円周9分長さ9寸の律管を吹いた音を標準音の黄鐘と決めている。この時の周波数が幾つであったのか判らない。この時代の黄鐘周波数が437ヘルツ、という科学的裏付けの根拠は何もない。
しかしアジアの国々に伝わる民族音楽の基準音周波数をデータで拾って聴き較べると『日本音楽概論』に示すデータの437ヘルツの、上下1から2ヘルツの差しか認められない。人間の聴覚でこの差は無いに等しい。「今、日本で用いている標準高度は、宮内省の雅楽部で制定して、各音を音叉に作りイギリスの1875年の博覧会に出品したもの」と伊庭は『日本音楽概論』に明記する。

また「音響学者のエリスが振動数を測定して、それによると標準の壹越は292・7で国際高度(A、435HZ)のD、290・33に最も近いのである」、と伊庭は説明している。
 
この周波数対比を今の考え方に直すと、エリスの測定したAの数値は435ヘルツで、雅楽の十二律の中の黄鐘437ヘルツに対応する。

そこで考えられるのは1875年当時の西洋の国際高度Aが435ヘルツであり、雅楽の音調にすると黄鐘の437ヘルツである。このデータは昭和3年現在を基にしたもので、現在の基準音は430ヘルツである。

アジアの国々に伝わる民族音楽の基準音が437ヘルツを示している、その事実は伊庭孝の執拗な分析と、そして『管絃音儀』に代表される音楽理論に示された概念の「理屈」よりも、人間の原始的感覚に潜む本能が読み取れる。
本質を変える必要がない、という伝統を正統的に踏襲する世界、短絡的に言うなら近代社会の資本市場原理に翻弄されている圏外の国々においてのみそれは有効なのである。
ある絶対的な資本的価値観に左右されることなく、日常生活に密着した普遍的価値観に支えられた伝統こそが信頼に足る形を残すのである。
伊庭の調査したイギリスの1875年の博覧会に出品した周波数データ、音響学者のエリスが振動数を測定したデータのそれぞれが、現在我々が使用している基準音と乖離していても、アジアの国々に伝わる民族音楽の基準音が、その当時の伊庭の示したデータと一致するという事実を冷静に受け止める必要がある。

雅楽の音律定義は古代中国の五行説と方位によって決められ、中央に壹越、東西南北に盤渉、双調、黄鐘調、平調を配する。伊庭が示す概論の標準高度根拠は、この中央の壹越と考えられるが黄鐘を基準とする考えは古くからあった。

1331年に書かれた『徒然草』に音律の記述があり「天王寺の伶人は律を調べ合わせ音が綺麗だ。これは太子の時代の律をもっているからだ。いわゆる六時堂の前の鐘である。その音は黄鐘調のもので、この一調子を用いて、いずれの音も整えた。鐘の音は黄鐘調なるべし」、とする。その時代でも天王寺の鐘が日本音階の拠所としていることが判る。

新羅楽・高麗楽の音律は編鐘・編磬の律によって決められ、「黄鐘はわが国の神仙に近く、壹越よりは二律ほど低いのであるが、これは決して壹越調と神仙とが同一物であり、黄鐘と異なるものであるという事ではなく、唐代の正楽の律は、俗楽よりも二律低く、朝鮮には正楽俗楽ともに傳わり、日本には律の高い俗楽のみが傳わったに基因するのである」と、朝鮮系の音律が日本に渡来したときの経緯にも伊庭孝は言及していた。
 
伊庭孝による『日本音楽概論』という金字塔、それに匹敵また凌駕する著作は以後輩出しないだろう、という思いが私にある。

2015年の今の世相を考慮すると、その結論に到達してしまう。また伊庭孝の生きた昭和初期という時代が古典音楽の貴重な残滓が日常生活の中に生きていた時代ということも見逃せない要素である。

そうした時代背景を目敏く察知していた伊庭は、己が感じた音楽に対する気持ちを誠実に述べている。序説で論じている記述には将来を見据えた伊庭の気持ちがひしひしと伝わってくる。
「日本音楽という言葉は、おそらく今日以後は、新しい意味を帯びて、次第に内容が変じて来るであろう」、と断って西洋と東洋の音楽がクロスオーバーすることを予告しているが、近年、ごく一部ではあるが現実にそのことが起っている。

伊庭孝の言葉に心を動かされ遼遠なエッセンスがある。

「政治的には明治元年に日本は新たに生まれ変わった。我等の研究する日本音楽は、その維新の前の音楽であり、それに関連する諸相である。日本の旧い音楽的活動は決して明治以前で終息したのではない。明治改元直後は無論のこと、現代においても猶盛である。しかも西洋音楽と何の関係もなしにである。そうである以上私どもは慶應を以って日本音楽を締切ってしまうことは到底出来ない」。

現代世相に蔓延している盲目的な西洋音楽一辺倒の傾向を昭和の初期でありながら既に察知したその伊庭孝の信条を今の時代に同調するものが殆どいない、ということが危機的であると私は想う。

かつて狛近真がその当時の音楽情況を憂いて著した『教訓抄』と心情心理的に同等である。しかし、その当時と現代社会の置かれている環境が余りにも違い、寛喜3年「寛喜の飢饉」の年、諸国の大飢饉があった2年後の1233年である。そして『日本音楽概論』が発行されたのは1928年だった。

昭和の大作
『日本音楽概論』

『日本音楽概論』の緻密なプロットとはまったく無関係に、昭和という時代が日本にとって激動の時代であったことを物語る生き証人として『日本音楽概論』が名著であることに変りはない。
「空理空論・想像を許さず一々資料の出典を明らかにされた学者的態度」と伊庭孝の業績を絶賛したのは文学博士今井通郎である。当時の日本音楽界が置かれている情況を博士は真摯な視点で分析していたのである。それは次のような論旨である。
 
洋楽作曲家は、ただでは歴史のある伝統をもった欧米作曲家と伍しては行けず、彼等のもたない日本音楽を素材としたもので対しなければ、勝負にならないことを知り、日本音楽を知らなければならない、ということになっており、教育音学界においても、教員養成機関の教育大学、学芸大学は勿論、音楽大学でも日本音楽の教育をうけないで卒業させられ、教壇に立てば、日本音楽の教材のもられた音楽教科書を取扱わされる現代の音楽教育の現状であるから、何としてでも、その教育担当者は日本音楽を知らなければならない境遇に追込まれているのである。 

と、辛辣な論評をしている。それは1969年当時を語ったものだ。その論説は2015年の現代社会に向けて発信しているかのようである。

博士の抱いた危惧が何も解決されず現代に至ってしまった経緯は、伊庭孝が『日本音楽概論』を著した心情とピッタリ重なると私は感じていた。
それは日本文化の過渡期現象でもある。博士の抱いたその危惧を国内で音楽を職業とする専門家が安閑として見過ごした訳ではない。

日本を代表する作曲家の一人、間宮芳生氏は1990年5月に発行された『現代音楽の冒険』の中でヨーロッパの音楽で育った耳、日本音楽で育った耳が聴く古典音楽を次のように語っている。

「日本の作曲家が雅楽、能、文楽など、日本の伝統芸能を聞き換えるとき、つまり、かつての自国の都市文化と現代の耳との交配が起きるときは、自国文化といえど、これは東西問題という分類をするのがいい。
インドネシアの伝統的音楽ガムランには、幾種類かの伝統的な音階がある。ヨーロッパの音楽で育った耳や、日本音楽で育った耳には、はじめて聞くその音階のガムラン音楽は、どの音も全部調子はずれに聞こえる。少し馴れてくると、今度はがぜん魅力的に聞こえ出すだろう。その魅力のうちの半分は、その不思議な音程、調子外れが魅力だと感じるということになる」。(『現代音楽の冒険』間宮芳生著 岩波新書)

間宮氏は、雅楽・能・文楽はかつての都市音楽であると捉え東西問題分類として、比較の難しい古典音楽を判り易く解説している。そして現在我々が持っている聴覚的音楽の感性が、いかに偏重しているかをヨーロッパ音楽に組み込まれないガムランを引合いに出して、その違いを間宮氏は証明してみせた。

今日、世界規模で西洋思想傾向が求められ人々はそれに順応することに疑問を差し挟む余地はない。それが正しいとか間違いだとか一極傾向による危惧だとか、諸々の政治的論理を抜きにして現実世界は西洋思想傾向に向かっている。

その状況下、国民的傾向として表層的な一過性的現象である髪の毛を疑似西洋色に染め、その意識内部も西洋思想の延長を示す。精神性な領域部分はともかく表皮は西の風に乗せて髪をたなびかせようとしている。
また本質的な西洋に成り切ったのかと問えばギリシア神話の枝葉末節をアニメ的に捉えることはしても、エーゲ海クレタ島ミノア文明に存在したクノッソスの歴史は知らない。
そしてユーラシアの風を嗅ぎ採ることもない。翻って日本の歴史書物狛近真の『教訓抄』のことに及んではまったく知識を持たない。
それもまた国民的伝統なのかもしれない。どこかで何かが激しく変わった、と私は感じていた。

では、そのことが何時からどんな理由で何が変化したのか、という問いに日本人的な情緒表現で応える。私自身もまた日本人の衣を脱ぎ捨てることができないからだ。

「斎部広成」が綴った、これだけは言い遺こしておかなければ死ねない、として「古語の遺りたるを拾ふ」ことを著した『古語拾遺』という古文献を書きのこした。それは802年のことだった。そうした古人の意思は昭和の伊庭孝に引継がれたが、それ以降日本を意識した学術は途絶えた、と私は考えている。
 
それは個人の問題としてではなく国の思想観を物語り、古くよりユーラシア大陸文明を享受しながら、では一体ユーラシアの文明とは何か、正倉院の秘宝はどこから生まれていたのかという素朴な問いを自らの内に問えないことを証明してしまうのである。

伊庭孝はそのことを遥か遠くから鳥瞰していて、現代のそれを危機的情況にあると私は鬱な気分で感じていた。








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