歯科治療と金属 冶金学
 シュメールの冶金
 矯正治療だけでなく、歯科治療では、たくさんの金属が使われていますが、口腔内で使用するので、為害性のないものでなければなりません。そのため、歯科では貴金属が多用されます。

 矯正治療も、Angleの時代は金合金や、白金加金合金が使われていたので、治療費はものすごく高価だったといわれて患者さんは億万長者の子弟だけだったといわれています。
 その名残りか、矯正治療は高価であるとイメージが付きまとっていますが、現在では貴金属はほとんど使用しないのですが、全歯牙を可及的、理想的に配列するためには一人ひとりのトータル・チェアータイムが大きいので高価にならざるを得ません。

 アメリカで矯正治療が普及したのは安価なステンレス・スチールが発明された後といわれ、金属材料の発達は大きな貢献をしています。

 メソポタミア文明
 そもそも鉄を初めて使ったのは、シュメール文明(メソポタミア文明)であったといわれ、その鉄は隕鉄という隕石の一種を加熱し、たたいて武器にしたといわれています。 しかし、鉄鉱石を溶解する製鉄技術を確立したのは紀元前15世紀に現れたヒッタイトといわれています。

 ダマスカス刀
 ステンレス・スチールは先人の知恵の寄せ集めによって作られたようで、鉄は武器や生活の道具として使われてきた経緯があり、構造部材として鉄が使われるうになったのは、産業革命以後です。
 十字軍の頃はヨーロッパの剣より、イスラムの剣の方が優れており、特にダマスカスで作られた刃物が珍重されていました。ダマスカスの剣は日本刀のように刃に波模様があります。
 ダマスカス剣はウーツ鋼と呼ばれるインドで作られた鋼をアラビア商人がシリアのダマスカスで鍛造して作った剣です。
 ダマスカス(ウーツ)鋼はインドの旧デリーのイスラム寺院にあるいわゆる2000年以上錆びない「デリーの柱」がそうであるといわれてきましたが、実際はダマスカス鋼とも関係がなく地中で錆が進行しているのがわかりました。(デリーの柱)

 その後、ウーツ鋼もダマスカス剣も失われ、伝説だけが残り、その後、色々な国で色々な人が再現を試みました。
 
 1821年フランスのピエール・ベルティエという鉱山技師が、クロム鉱石と鉄鉱石を混ぜて溶解し、できた合金の耐酸性が高いことを発見し、このフェロクロムからさらにクロム鋼を作り、刃物を作ったところ、切れ味も申し分なく、耐酸性もあることを確認、研磨するとダマスカス模様が現れました。

 台所の流しや食器に使われる「18-8」ステンレスは刃物ようのステンレスより遥かに錆びにくいのですが、「焼き入れ」できません。
 これがステンレス・スチールの始まりで現在ではJIS規格でも70種類以上あり、生活のあらゆる場面で使われています。
 医療分野でのステンレス鋼の採用も早く1925年にはニッケルメッキのメスの代わりにステンレス製のメスがカタログに載り、1938年にはほとんどのメーカーでニッケルメッキ製は駆逐されています。歯科領域でも、医療用器具や矯正治療様ブラケットやワイヤーなどはステンレスで作られています。更に、ニッケルにアレルギーを持つ患者さんでは、ニッケル含有量の少ないステンレス製のインプラント材が使われることがあります。

 紀元前55世紀、金属同士を混ぜ合わせると、性質が変わることは古代からわかっており、紀元前5500年頃~紀元前3500年頃に栄えた「ウバイド文化」で、宝石としても利用されていた孔雀石(マラカイト)を加熱すると銅の塊が得られることが発見され、紀元前4000年~3000年には中近東だけでなくバルカン半島でも銅精錬が始まり、紀元前3000年頃、古代メソポタミアのシュメール遺跡で最古の青銅器が発見されています。

 銅の融点は1083℃で、錫(融点231.9℃)と混ぜると約875℃で溶解し合金ができます。銅と錫の混合比は銅が増えると赤みを増して溶けにくくなり、80%以上になると溶けにくくなり、逆に錫が増えると硬度は上がりますがもろくなります。

 青銅は銅などに比べれば硬く、研磨や鋳造・圧延などの加工ができたので、斧・剣・壷などが作られましたが、メソポタミアには隕鉄を利用した、製鉄技術存在したようで、メソポタミアのヒッタイト王国で製鉄技術が生まれ、青銅製武具は鉄製品に取って代わられ、青銅器時代から鉄器時代へと移行しました。

 鉄の原料は、鉄鉱石や砂鉄ですが、これらは酸化鉄として存在しており、高炉で炭や石炭、コークスを使い1500度以上に加熱し、鉄を酸素と分離します。できた鉄は「銑鉄」と呼ばれ、炭素が4~5%含まれ、その他にSi,Mn,P,Sなどの不純物が含まれ、硬度はあるが脆く、鋳物にしか使えません。

 刃物や構造材を作るためには、もっと強度のある鉄材が必要で、平炉や転炉で酸化製錬し、不純物を取り除き、溶鋼を作ります。この溶鋼は使用目的により再度、酸素を取り除かれると同時にNi,Cr,W,Moなどの元素を加え鋼塊にされます。

 実用材料としての鉄・鋼は炭素含有量で0.08~2.0%のものが鋼で、それ以下は鍛鉄または軟鉄と呼ばれ、焼き入れしても硬化しません
 一方、2.0%以上のものは鋳鉄と呼ばれ、硬い反面脆いのでこれも鋳物に使われます。

 鋼の結晶構造
 物質にはたとえば水のように、固体、液体、気体という相変態をすることは誰も経験で知っていますが、金属の場合加熱することで固体状態のまま性質が変化することが知られ、鉄では低温時のα鉄(フェライト)(結晶構造は体心立方格子ですが炭素原子が鉄原子より小さいため、隙間に入り込む)から高温(912℃)になるとγ鉄(オーステナイト)(結晶構造が面心立方格子に変化し、α鉄より隙間が大きいので、多くの炭素を固溶)となり、さらに高温(1400℃)を超えるとδ鉄(δフェライト)(結晶構造は体心立方格子に変化、炭素の固溶は減少)になります。δ鉄はほとんど利用されません。
こさらに温度をあげると鉄は液相になり炭素を完全に固溶できるようになります。

 鋼はほとんどの場合、熱処理をすることで、最終製品の必要とする特性を発揮させます。熱処理は基本的には加熱における加熱速度・加熱温度・保持時間、そして冷却温度・冷却保持温度・冷却時間により、その特性が変化しますが、そのほかにも炭素や添加金属の量や種類によっても変化します。

 熱処理の基本は以下の4種類です。熱を使って金属の柔らかさを制御する

 1. 焼きならし(normalzing)
 加工による内部のひずみを取り除いたり、組織を標準の状態に戻したり、微細化する熱処理です。熱処理をすると強度、延性が高くなります。焼き入れの予備処理としても使われます。鋼をオーステナイト組織の状態で十分保持したのち、空気中で十分に冷却します。
 2. 焼き入れ(quenching)
 鋼をγ鉄(オーステナイト)の状態に加熱した後、水中または油中で急冷することにより、マルテンサイト組織の状態に変化させる熱処理です。焼き入れは、炭素量が0.3%以下でないと効果はありません。
 焼き入れは鋼の硬さを増大させる目的で行われますが、靱性(ねばり)が低下するので、一般には次の焼き戻しをセットで行います。
 3. 焼き戻し(tempering)
 焼入れによって硬化した鋼に靭性を与えるため、マルテンサイト組織の状態から鋼を再加熱し、一定時間保持した後に徐冷する作業を言います。再加熱後、保持する温度により組織の変化が異なり、600℃で焼き戻すとソルバイト組織が、400℃程度ではトルースタイト組織が得られます。
 4. 焼きなまし(annealing)
 金属を加工すると硬く脆くなりますが、高温に加熱したのち,徐冷すると、結晶を成長させ、結晶格子の欠陥を減らすと展延性が回復します。、これは「焼きなまし」といいます。鋼をオーステナイト組織の状態で十分保持した後、炉中で徐冷します。

 弾性フックの法則
 小学生の頃、ばねばかり原理について勉強した時、フックの法則は勉強しましたが、弾性については、現在ではどれほど単純ではなく、色々な素材について研究されています。
 フックの法則フックの法則は、バネに重りを吊るし、一定の重さまでは比例的にバネの長さが変化しますが、限界を超えると元に戻らなくなるというものでした。

 一般に、弾性体は力を加えられると変化し、その時のひずみと力の割合を弾性率といい、以下の式が成り立ちます。 

 弾性率は以下の4種類があります

 (1) ヤング率
 物を引っ張った時の伸びと力の関係から求められる定数です。「曲げ剛性」「たわみ剛性」とも呼ばれます。バネの場合、バネの形状、巻き数、太さなどでバネの強さは変化しますが、形状によらず素材そのものの性質を表すのがヤング率です。
 (2) 体積弾性率
 圧力をかけた時の体積の縮みと力の関係から求められる定数です。
 (3) 剛性率
 ものをずらした時のズレと力の関係から求められる定数です。「ズレ弾性」とも呼ばれます。
 (4) ポアソン比
 ものを引っ張った時の縦の伸びと横の縮みから求められる定数です。
 弾性係数に及ぼす熱処理の影響は一般に小さく、実用上ほとんど無視して差し支えないと言われ、金属の熱処理に対応する最も直接的な変化は書式であり、炭素鋼や低合金鋼などは、フェライトーパーライト、焼戻しマルテンサイト或いはベイナイトなどの組織がありますが、これらは、物理的性質や機械的性質はかなり異なりますが、弾性係数は組織依存性が低く、若干の例外を除けばその変動は数%以内に過ぎません。
(記事検索引用〆)


ヒッタイト「鉄の謎」に挑む 通説揺らぐ発見も
2010年8月7日11時25分朝日新聞

TKY201008070106


鉄を武器にアナトリア(現在のトルコ)に強勢を誇ったヒッタイト。文明の発展に大きな貢献をした「鉄」を、彼らはいつ手にしたのか。製鉄技術はどのように世界に広がったのか。「鉄の帝国」の謎に挑む日本の研究者の発掘現場を訪れた。

■日本の研究機関、トルコで発掘25年

 アンカラから南東に65キロ。岩山の上にヒッタイト帝国期(紀元前1400~同1200年ごろ)のビュクリュカレ遺跡はある。険しい斜面に石の壁が顔をのぞかせる。高さ7メートルという。巨石の上に日干しれんがを積んで城壁にしたらしい。周囲には数百メートル四方の街があったことが磁気探査でわかっている。

 「この遺跡にヒッタイトの製鉄炉があってもおかしくない。付近には鉄鉱石が転がっているし、鹿の骨もある。鹿がいたということは、燃料の木々も豊富だったということだ」。中近東文化センター(東京)の付属機関、アナトリア考古学研究所の松村公仁研究員はいう。

 焼かれて変色したれんががあった。大火災の痕跡らしい。帝国を滅亡に追い込んだ戦いを物語るのだろうか。戦争の遺物が出るかもしれない、という期待を抱かせる。

 中近東文化センターは1985年、トルコ中部のカマン・カレホユック遺跡で調査を始め、98年には現地にアナトリア考古学研究所を設立。昨年からはビュクリュカレ遺跡で本格的な発掘を始めた。

 今年7月にはカマン・カレホユック考古学博物館が開館し、トルコ政府が招いた報道陣に公開された。日本政府の途上国援助(ODA)を含む総事業費は約5億円。ヒッタイトの謎を長期的に探究する体制が整った。

 「やがて鉄をめぐる秘密のベールがはがされていくはずだ」。大村幸弘所長は、そう力を込める。調査の進展次第で、鉄を駆使して帝国を築き上げたヒッタイトの実像に迫れるからだ。それは、人類が飛躍を遂げる原動力となった製鉄技術の伝播(でんぱ)過程の解明につながる。


紀元前1200年の「カタストロフ」 (ウィキぺデア記事)

前1200年のカタストロフとは地中海東部を席巻した出来事のこと。
この出来事の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎える事になり鉄器時代が始まった。
そしてその原因は諸説あるが、この出来事の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出す。

紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する出来事が発生した。
現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。

これらには諸説あり、気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなったとする説、エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説などが存在する。
地震によって崩壊したとする説は環東地中海全体の崩壊ではなく、特定の国にのみ考えられており、少なくともミケーネ時代のティリンスではドイツ考古学研究所 の調査によれば激しい地震活動が発生したことが確認されている。

この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば、ヒッタイトの崩壊、エジプトにおける海の民の襲撃、ギリシャのミケーネ文明の崩壊、気候の変動、以上の4項目に分けることができる。
また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる。

ヒッタイトの崩壊

ウガリットのラス・シャムラ遺跡で発見された文書によればヒッタイトの崩壊は前12世紀初頭とされている。
このラス・シャムラ遺跡を発掘したクロード・A・シェッフェルによれば、海の民が沿岸を進み小アジアを横断、ヒッタイトとその同盟国へ攻撃を仕掛けキプロス、シチリア、カルケミシュ、ウガリットへ手を伸ばしたとされている。ただし、アナトリア内陸部にあるハットゥシャはその痕跡は残っていない。

また、ヒッタイトの最後の王シュッピルリウマ2世がウガリットの支援を受けた上で海の民に勝利したというエピソードも残されているが、これは侵入者がヒッタイトを分断して崩壊へ導いたことを否定する材料にもならず、トラキアからフリュギア人らがヒッタイトを攻め滅ぼした可能性もフリュギア人らがヒッタイトの大都市が崩壊したのちにアナトリアへ至っていることから余り高くない。

ヒッタイトの崩壊には2つの仮説が存在しており、侵入者がハットゥシャ、カニシュ などあらゆる建物に火を放ったとする説。
ヒッタイトは内部と近隣地域から崩壊した後、アッシリアの攻撃を受けた事によりウガリットを代表とする属国、同盟国が離反、さらには深刻な飢饉のために弱体化して崩壊したとする説である。
シェッフェルによれば後者の説には裏づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見された文書によればヒッタイト最後の王、シュッピルリウマ2世は「国中の船を大至急、全て回す」よう命令しており、オロンテス川流域の小麦をキリキアへ運ぶのと同時に、王、その家族、軍隊を移動させようとしていた。
これはシュッピルリウマ2世が首都を捨てようとしていたことが考えられ、これについてシェッフェルはかんばつと地震により、ヒッタイトに繰り返し飢餓が発生していたと分析している。

さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方は地震群発地帯であり、地震により火災が発生したことで各都市が火災の跡が残っているとしており、ウガリット時代の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていたとしている。

また、前者の説はギリシャ北部から移住したフリュギア人、エーゲ海より侵入した人々、いわゆる『海の民』らがヒッタイトへ侵入、ヒッタイト滅亡の最大の要因となったと推測している説も否定されているわけではない。
(記事検索ウィキぺデア) 







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