上総氏 上総国の大武士団
そもそも両総平氏は千葉三郎常房の鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)などを除き、初期においては名字地とした地も下総国に偏っており、上総国には夷隅郡内にわずかに所領が見えるに過ぎない(『徳嶋本千葉系図』)。つまり、両総平氏の根本はもともと下総国であった可能性が高いと思われる。

いよいよ歴史の核心に入ってきた。あちこち断片的に集めてきた資料の一つ一つを縒り糸で綴じ、一つの歴史物語の輪郭が見え始める。 
 
時代が飛んで2.26事件の「斉藤実」暗殺

2・26事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。
事件の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。

当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。
もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。(27日、その別荘の在り処とは千葉県上総国一宮)

斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
※日本国海軍軍人「斉藤実」(海軍参謀本部員、秋津洲、厳島各艦長を経て、日露戦争当時は海軍次官。第1次西園寺内閣海相、以来第1次山本内閣まで8年間海相をつとめた)。

2.26日、海軍トップの「斉藤実」が、帰るべき別荘に帰らなかった理由は、ただ一つ、「グルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した」、というのが明確な理由として歴史書に残されている。それにはまったく疑う余地はない。
自サイトでも記したが、その偶然は、まことの偶然か、それとも偶然を装った必然か、今となっては知る由も無いが、事件の核心は「斉藤実」が標的となっていたことはよく知られた事実である。天皇のご意見番としてぴったり寄り添い、また、死してお悔やみの言葉をいただく。
IMG_6870
軍人斉藤実が一宮という土地に別荘居宅を構えるのは、特に珍しいことではなく、その当時にあって、その他の著名な人物も別荘地を所有していた。それを広く宣伝した人物がいて、その人物にもスポットをあてて物語りは作られる。

かつて京都南禅寺界隈の広大な別荘群の一角に軍人「山縣有朋」の別荘があったことは、よく知られた事実である。そのことと、時間を隔てて斉藤実が「天平」の時代より名を馳せた上総地方に居を構えるというのは、軍人特有の匂いを嗅ぎ取る鋭敏な嗅覚によるところが大きいとみる。

そのことについて、これから歴史の糸を紡いで行こうとする「御伽草子」のような物語である。 
 
文中にある「鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)」という地名は、今でも「いすみ市」に所在する。
現在はその場所に「清水寺」が建立されており古刹として、地元の人々の崇敬を集めている。その地の由来については諸説があり、今となってはどれが真実か皆目見当もつかないが、すぐ脇には夷隅川が流れており、時代を考慮して陸路より海路河川交通と考えたほうが理屈があう。
img_2

もともと、この夷隅(延喜式にも載る)は穀倉地帯としても有名であった。また「古語拾遺」によれば「麻」栽培生産の適地として、「忌部氏」が上陸したという伝説も見逃せない。さらに、ここいらの土地から地鉄を採取したという言い伝えもある。
既に物故した古老の話によれば、「アカハガネ」と称した土地もあったと訊く。それを良く吟味すれば「玉鋼」であることは、充分理解できる話しだ。

 
平常長の頃の両総平氏勢力想像図
「上総氏」は両総平氏の族長家、惣領家とされている氏族である。この氏族を指して「上総氏」とするのは厳密には不適切であるが、便宜上「上総(権)介」に就任(除目による任官ではないだろう)した平氏を指して「上総氏」と呼ぶ場合もある。

両総平氏の歴史上、古くは平高望、平忠常のみが「上総(権)介」に就任した記録があるのみ(平高望の上総介就任は「六国史」や公文書での記録はないが、『将門記』や『神皇正統記』などに記述)で、忠常の子・常将や孫の常長が「上総(権)介」に就いたという明確な史料はない。つまり、惣領家が必ずしも「上総(権)介」に就任したわけではない、ということになる。

そもそも両総平氏は千葉三郎常房の鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)などを除き、初期においては名字地とした地も下総国に偏っており、上総国には夷隅郡内にわずかに所領が見えるに過ぎない(『徳嶋本千葉系図』)。つまり、両総平氏の根本はもともと下総国であった可能性が高いと思われる。

一般に、千葉氏は上総国山辺郡大椎(千葉市緑区大椎町)から千葉へ本拠地を移したとされているが、大椎からは明確な平安期の遺物は見つかっておらず、どれほどの信憑性があるか疑問である。

平常兼亡きあと、遺跡は長男・常重が継承したと思われるが、いまだ幼少であったためか、天治元(1124)年6月、常兼の弟で下総国相馬郡に私領を持っていた相馬五郎常晴が常重を養子として相馬郡を譲っている。

平常兼・平常晴の頃の両総平氏勢力想像図  (■:下総平氏 ■:上総平氏)
なお、常晴は両総平氏の「惣領(族長権者)」ともされるが、千葉氏をはじめ東総の下総平氏庶家が「上総氏」から惣領権の行使を受けていた形跡が見られない。あくまで父権による子の支配に過ぎなかったと想像される。

惣領の子を親世代の庶子が養子となして所領を譲る例もあるため、常晴が常重を養子となして相馬郡を譲った事実をして常晴を「両総平氏」の「惣領」と断定する証明にはならないであろう。つまり、「上総氏」を「両総平氏」の族長権者(惣領権者)と考えることは難しい。

両総平氏が上総へ進出したと思われる事例は、常晴以前においては兄の千葉三郎常房の夷隅郡鴨根郷進出を見るにとどまる。つまり、「両総平氏」が上総国へ進出したのは比較的新しく、常晴より前には、伝承上の大椎郷ならびに忠常以来の所縁があった夷隅郡の一部を領するのみだったことがわかる。

常晴は常重に相馬郡を譲ったのち、何らかのきっかけにより上総国へ移ったことは、常晴が「上総介」と呼ばれていた(永暦2年4月1日『下総権介平申状案』)ことからも事実であろう。実際は常晴の子・常澄が急速に上総国に勢力を拡大していったのだろう。

平常重・平常澄の頃の 両総平氏 勢力想像図
(■:下総平氏 ■:上総平氏)
常晴が上総国内で本拠とした場所は、遠祖・忠常ゆかりの夷隅郡であったと推測される。常晴にとっては曾祖父に当たる平忠常が居住した場所が「伊志み」とあり(『小右記』)、以来、忠常の子・常将や孫・常長が伝えてきたのだろう。この地にはすでに兄・三郎常房が入っていたが、常房の子である千田常益、原常宗、次浦常盛らはいずれも下総国千田庄を名字地としており、常房一族は上総国から撤退し、下総国千田庄へ移っていることがわかる。常房亡きあとと推測されるが、常晴が常房の跡を襲う形で夷隅郡に入ったのだろう。推測だが、この常晴の上総移住時期が、常晴が常重に相馬郡を譲った天治元(1124)年6月なのかもしれない。 

そして、常晴の子・平常澄は長男・伊南新介常景が夷隅郡伊南庄にいた(荘官か)ことからも想像できるように、夷隅郡を中心に勢力をひろげている。その勢力拡張の背景にあったのは、おそらく「上総権介」という(在)国司的な権力と、上総国一宮である玉前神社の神威であり、常晴とその子・上総権介常澄に至って上総平氏は在地勢力を自己勢力に組み込みながら、上総国内への影響力を次第に拡大させたのだろう。

常澄には、印東次郎常茂、匝瑳三郎常成、埴生六郎常益、木内太郎常範、相馬九郎常清といった下総国を名字地とする子息があり(『徳嶋本千葉系図』)、下総国内にまでその勢力を伸ばしたことがうかがわれる。

ただし、少なくとも常澄後の上総氏が下総国の一族に対して「族長権」を行使した形跡はなく、常澄亡きあとはそれぞれが独立した勢力となったと推測され、上総氏自体の勢力基盤は上総国内にほぼ集約されていたと推測される。

●両総平氏系譜(赤は下総国へ移った人物) 
 平常長――+―平常兼――――千葉常重
(下総権介)|(下総権介) (下総権介)
      |         ↓
      |      +=千葉常重―――千葉常胤―――相馬師常
      |      |(下総権介) (下総権介) (二郎)
      |      |
      |      +―戸気長実
      |      |(五郎)
      |      |
      +―相馬常晴―+―平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
                    |(伊南新介) (伊北庄司)
                    |
                    +―印東常茂―+―長南重常――+―長南久常
                    |(印東介) |(太郎)   |(次郎)
                    |      |       |
                    +―匝瑳常成 +―印東頼常  +―多名気常泰
                    |(三郎)  |(印東別当) |(三郎)
                    |      |       |
                    +―大椎惟常 +―南郷師常  +―米満親常
                    |(五郎)  |(四郎)    (七郎)
                    |      |
                    +―埴生常益 +―戸田常政
                    |(六郎)   (七郎)
                    |
                    +―木内常範 
                    |(太郎?)
                    |      
                    +―平広常――――平能常
                    |(八郎)   (小権介)
                    |
                    +―相馬常清―――相馬貞常
                    |(九郎)   (上総介?)
                    |
                    +―天羽秀常
                    |(天羽庄司)
                    |
                    +―金田頼常
                     (権太夫)


伝承
『古語拾遺』には、天太玉命の孫・天富命が阿波忌部を率いて東遷し、房総半島に上陸したとしている。この記述の中で、「麻」の古語を「総(ふさ)」というとし、古代の総国(ふさのくに;のち安房国・上総国・下総国に分立)は東遷した忌部が麻を植えたことによるとしている。また、穀(かじ)の木を生むことにより結城郡が、阿波忌部の居るところとして安房郡(古くは阿波とも表記。のち安房国)が名付けられたとしている。
同書では、天富命は安房郡において太王命社を建てた旨が記され、現在の安房神社に比定される。安房神社では昭和7年(1931年)に海食洞窟が見つかり多数の人骨が発掘され、これを忌部氏に仮託し忌部塚として祀っている。その他にも千葉県域に多くの関係地が残っている。
なおこれら伝承がある一方で、安房に忌部が設けられたという史料等は見つかっていない。そのため、この伝承は東国における中臣氏の勢力と対抗するために、忌部氏が奈良時代に造作したものと見るむきもある。(記事引用〆) 




(参照ウィキぺデア)
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/enjouji.htm