坂東千年王国論 より
はじめ大和朝廷は各地に軍団を組織した。21歳から60歳までの男子の内三分の一を徴集し、交代で軍団に集めて二ヶ月ほど兵士として訓練の後、色々な勤労奉仕や各地の警備にあてた。
北九州に派遣された過酷な防人は、東国から徴発された軍団であった。国の軍団にもかかわらず個人の武装や食糧は自弁で、人を雇って身代わりを出したり、位や身分のあるものは兵役免除にするといった不公平や負担が多く、兵士の質が落ちて評判が悪く、律令制度の中で一番早く崩れたといわれる。

 延暦11年(792)に政府は軍団制の兵士を全廃して、多少は質の良いと思われる名家の郡司から、その子弟を集めて健児の制度に切り替えた。しかし結果は軍団制と似たり寄ったりで、有名無実と化した。 

 そこで現れるのが軍事貴族と歴史学で呼ばれる、軍事に精通した貴族が組織する雇兵集団である。この集団が後に「武士」へ成長するが、それには紆余曲折がある。

国造から国司へ
 
 大和朝廷が出来る以前、各地方は国毎の国造によって支配・統治されていた。大和の律令政府は各地の国造を廃止して、中央から派遣する国司による支配に切り替えた。その結果、それまで国造だった者はその国を幾つかに分割した一つの郡司になるか、それが不満なら、それまで国造の氏神だった神社の神主になる他なかった。
 武蔵国の場合でいえば、秩父国をいれて二十一郡に分割されたから、単純計算すると二十分の一にその支配領域を縮小されたことになる。武蔵国造から足立郡司におとされたものがそれであった。 

 中央から赴任してくる国司は国造のように恒久的・世襲的なものではなく、数年の任期で次々に替わる。国造の詰める国衙には、各郡司たちが判官代と呼ばれる在庁官人として務めており、任地に下向しない国司もいるから、郡司たちは支配領域を縮小されたとはいえ、実質的な力を持っていた。 
 国司は数年間の任期にもかかわらず、その土地の実力者である郡司の子女を現地妻とし、郡司はその縁で中央官人との繋がりを得ようとした。郡司にしてみれば、中央と繋がることによって現地支配が容易になるからである。

 先にあげた武蔵国造からおとされた足立郡司の場合は、武蔵介として赴任した菅原正好を娘の婿として迎え入れたらしく、生まれた子供は菅原朝臣を名乗ったまま氷川神社の社務司を継ぎ、さらにその子が足立郡司となった。菅原氏の元は土師で出雲族の支流だから、氷川神社に出雲神を祭ってきた足立郡司家としては受入やすかったのかもしれない。
 
 武蔵国造家系図

在地豪族たちの実力
 中央から辺境の遠国坂東とはいえ、名家の郡司たちばかりでなく、巷にも実力者たちが偏在していた。 

 奈良東大寺の大仏建立に際し、相模国(神奈川県)の漆部伊波は商布二万端を寄進して、天平20年 (748)に外従五位下の位を授かり、その20年後に相模宿禰の賜姓と相模国造に任じられた。坂東は古代布の最大の生産地であったが、漆部が寄進した商布2万端は相模一国が交易雑物として納める商布の3年分に匹敵した。

 それから百年ほど後の承和8年(842)武蔵国男衾郡榎津郷の郡司を務めたことのある壬生吉志福正は、2人の息子の終身にわたる税を前納したいと願い出て許可されている。そればかりでなく、この数年前に不審火で焼けたままになっていた武蔵国分寺の七重塔を、私費で再建したいと申し出て許可された。男衾郡は埼玉県の寄居町・川本町・江南町のあたりとされ、榎津郷のあった江南町の寺内廃寺跡から武蔵国分寺に使われたのと同じ窯の瓦が出土しており、壬生氏の氏寺と推定されている。

 ところが、こういう奇特な者たちばかりではなかった。武蔵国入間郡では武蔵国造に系譜する物部氏と大伴氏が勢力を争っていたらしい。
物部直広成は都の藤原仲麻呂追討の戦功で神護景雲2年(768)に入間宿禰を賜姓した。おそらく入間郡司になったのであったろう。翌年、入間郡の正倉四倉が焼けた。各地で正倉が焼かれ、多くは神火として始末されている。
中には空の正倉に放火して、中身が焼けたように見せかけ、隠匿して私腹を肥す郡司もいた。同じ年、入間郡の大伴赤男は奈良の西大寺に対し、商布千五百段はじめ稲や田・林など莫大な献上をして話題となり、叙位は当然と思われたが、生前にはなく、九年後の死に際して外従五位下が追贈されたに過ぎなかった。正倉が焼けたのは大伴赤男が郡司を追い落とすための放火ではないかと疑われたらしい。
 
群盗山に満る
 
 在地の実力者である郡司などの子女を現地妻とした国司の多くは、数年間の任期がおわると次の役目や他国の国司として転出して行くが、中にはその土地に居着いてしまう者もいる。国司を何期か務めると、一生の貯えが出来るといわれたほどでの役得があった。その財と実力をもって土地に居着く者、また郡司などの家に入り婿した者も少なくないであろう。そんな中には盗賊になる者までいた。

 延喜19年(919)前の武蔵権介源仕は任期が満ちても帰京しようとせず、任地に根拠地を築いて土着しようとしたらしい。源仕の子の源充は箕田源次を名乗り、数10騎を率いて秩父平氏流の村岡五郎と一騎打ちを戦ったと 今昔物語 にある。箕田の地は港区三田説と箕田郷のあった埼玉県鴻巣市箕田の箕田八幡説がある。村岡五郎平良文の地は埼玉県熊谷市南部の村岡説があり、箕田郷と隣接しているから、後の説が有力と思われる。父の源仕は後任の武蔵守高向利春が赴任してくると、官物を運び取り、官舎を燃やし、国府を襲って高向利春を攻めたという。

 源仕は嵯峨天皇の御子50人の中から、一挙に35人を臣籍降下させた内の融の孫にあたり、嵯峨源氏の一人である。融は従一位左大臣、子の昇は正三位大納言、その嫡男適は従五位下内蔵頭と、皇胤の余光に浴したが、次男の仕は中央での任官を断念して、地方に新天地を求めたらしい。藤原氏が官職を独占しはじめたころである。それも国司の次官で定員外の権介であった。任期が満了したとき不満が爆発して、後任の国司を襲ったのかもしれない。

 9世紀後半、坂東は騒然としていた。相次いで蜂起する上総に配置された俘囚たちの叛乱に加えて、各地で群盗が横行する。寛平から昌泰期(889~901)の10年間、東国強盗の首領といわれた物部氏永が蜂起が伝えられている。さらに、雇い馬を使って活動する坂東の運送業者の集団は、群党をなして村々を襲い、東海道の馬を奪っては東山道に使い、東山道で奪った馬を東海道に回すという凶賊集団でもあった。

 既に貞観三年(861)武蔵国に21郡ある各郡ごとに検非違使を一人づつ置いた。「凶猾党を成し、群盗山に満る」というのがその理由であった。昌泰2年(889)には坂東の境、足柄と碓井の峠に関門が設けられた。
 群盗は一見、浮浪の山賊のごときだが、この群盗は「坂東諸国の富豪の輩」というから、土着した国司、富豪の郡司や私営田領主となった豪族たちに他ならなかった。そしてこの群盗を鎮圧し、治安維持のために動員されたのも、健児制を補うために投入された俘囚と同様、雇われた富豪の輩であった。
  
将門の叛乱

 寛平元年(888)垣武天皇の曾孫にあたり、坂東平氏の元祖になる高望王が上総国へ赴任した。上総・常陸・上野の三国は天長3年(826)以来、国守に親王任国制が敷かれていた。東北蝦夷に対する最前線基地の国として、また群盗や俘囚の反乱蜂起に対して、王胤を配して王威による支配を狙ったのであろう。高望王の子等は次々に常陸大掾(国司の守・介に次ぐ三席)・下総介・鎮守府将軍に就任している。先に触れた嵯峨源氏の入植にも、そうした期待があったのかもしれない。

 ところが、高望王の孫で無位無官の平将門が常陸国衙を襲撃して、国家に対して歴然たる反逆を起こした。天慶2年(939)11月21日、平将門は常陸国府で常陸守藤原維幾の国軍と衝突して合戦となり、1000人の将門軍が3000人の国軍を破り、国府に放火して国家に対する歴然たる反乱に踏み切った。

 将門の乱はこれに先立つこと、8年前の延長九年(931)の坂東平氏の内紛による私闘に始まるといわれる。

 将門の父良持の兄弟で叔父にあたる者に、常陸大掾平国香、下総介平良兼、平良正それに平良文がいた。将門と娘の結婚に反対した良兼とのトラブルが内紛の遠因とされる。後に叔父たちと戦闘した際、娘は連れ戻されているくらいだから、よほど反対されていた。

 それから数年後、私闘は本格的になる。
 常陸国筑波山の西麓に前の常陸大掾源護が土着して、広大な私営田を有する勢力を持っていた。その一字名の護から、武蔵国府を襲った前武蔵権介源仕と同様の嵯峨源氏とみなされている。この源護の領地と接する平真樹は、境界争いらしき紛争が生じ、調停を下総の将門に依頼してきた。将門は調停のために常陸の源護の館に向かおうとして、国境を越えたあたりで護の子の扶らに待ち伏せの不意打ちをくらって応戦、扶・隆・繁の三兄弟を討死にさせ、護の館など焼き払ってしまった。しかも、そのとき護の石田館にいた将門の叔父の常陸大掾平国香まで、巻き添えで死亡させた。 

 叔父の国香が源護の館にいたのは、護の娘と結婚していたことによる。良兼・良正も同様に護の娘を妻としていた。彼ら平氏の三兄弟は源護の娘と結婚して、婿入りしたか、通っていたのである。そこは嵯峨源氏護の領地であり、館の所在地であった。
 
 安易な通説
 通説では平氏の三兄弟はむろんのこと、良持・将門父子の領地も含めて、高望王からの伝領地とする。だから、将門謀反の前哨戦は平氏の内紛として解釈されている。

 高望王が上総国へ国司として赴任したことは確実としても、土着した証拠は何もない。仮に高望王が土着したとしても、上総介の高望王が支配権のおよばない常陸国や下総国へ居着くのは無理というものである。安易な通説はこれに気づいていない。

 常陸国筑波山西麓は前の常陸大掾源護の私営田領であった。平国香は源護の娘と結婚して石田(茨城県明野町東石田)の館に入り婿して、舅の護の常陸大掾職を継いだのであろう。国香の子で将門の宿敵になる平貞盛は石田館で生まれている。
 下総介平良兼は現職だから下総国府の近くに館があったはずだが、常陸の服織(茨城県真壁町羽鳥)館の妻のもとに通っていて、襲ってきた将門に館を焼き払われた。良正の営所も筑波郡水守にあったが、これも源護の館であったろう。

 つまり彼ら平氏の三兄弟は嵯峨源氏護の一族として、将門を敵にまして戦ったのであり、一概に平氏の内紛とはいえないのである。因みに三兄弟の末に村岡五郎良文がいたが、既に触れたように埼玉県熊谷市南部におり、将門の乱には無関係であった。源護の娘と婚姻関係を結んだ平氏三兄弟だけが将門と敵対したのである。
 
 坂東平氏系図

将門の母胎
将門の父の平良持(将)は従五位下陸奥鎮守府将軍であった。陸奥国を支配・開拓する軍政府長官である。良持は常陸国に勝楽寺を建立しているが、将門のいた下総国に関わった形跡はない。そこにあるのは県犬養春枝の女子を妻として、将門らが生まれたということだけである。現在は茨城県の取手市寺田、かつては下総国であり寺原村寺田で、ここを地盤とした犬養氏の女を母として将門は生まれた。
『将門記』によると将門は下総の猿島郡石井(茨城県岩井市岩井)と豊田郡鎌輪(茨城県千代川町鎌庭) に館を持って根を張っているが、母方から継承したものであろう。

 つまり、将門反乱の前哨戦は、平氏の内紛というものではなく、常陸の嵯峨源氏と下総の犬養氏の戦いだった。将門と平氏の三兄弟は共に父系を平氏にもっていたが、その根拠とする母族は異なっていたのである。

 源氏も平氏も皇胤であったが、将門が母胎とする犬養氏は、古代にあっては数ある部族の一つに過ぎなかった。飼い犬を使う狩猟や鉱山の発見を生業とし、また番犬を連れて屯倉や宮城門の守衛でしかない。こうした各地の犬養氏を中央で束ねた伴造の県犬養宿禰氏から橘三千代を出した。藤原不比等の妻として安宿媛を聖武天皇の妃にいれて隆盛を極めたが、前夫の子の橘奈良麻呂の変などで失脚した。少なからず藤原氏と縁のあった一族である。

下総の県犬養氏が中央の県犬養宿禰氏に直接の関わりがあろうはずもないが、将門が若いときから中央で仕えた相手は、時の太政大臣摂政の藤原忠平であった。謀反を告訴されると、その経緯を書状で伝えた相手も忠平である。将門がどういう伝手で忠平に仕えるようになったのか、興味深い。故事付けて憶測してみれば、県犬養宿禰氏と藤原氏の関係ではなかったのか。

いずれにしても将門は平氏の一門である前に、県犬養氏の一党を率いる豪族であった。

因みに将門が叛乱に蜂起した猿島郡は、かつての下毛野国であり、紀伊国の豊城入日子命の孫彦狭島命の名による利根川の東側に位置し、坂東の境界の利根川を越えて武蔵国のトラブルに関わったことが、叛乱の切っ掛けになった。
 
  そこで当面の問題として、将門の叛乱以後、その「遺産」の行方である。
 
武蔵野開発の父
 将門の乱から90年後、房総半島三国に平忠常の乱が起きた。将門が根拠としたのは下野国内の猿島・豊田郡といった郡単位のものであったが、忠常は上総・下総国にまたがる国単位の広大な地域の領主であった。しかし、将門は叛乱によって坂東八ケ国を支配したが、忠常にはそうした意志や兆候はみられない。それにもかかわらず、忠常の乱は3年間におよび、坂東を亡国と化した。

 平忠常は将門の叔父の良文の孫にあたる。良文は同じ坂東平氏でありながら、将門の乱に無関係であったとするのは乱の全容を伝える『将門記』である。ところが、平忠常の子孫の千葉氏関係の系図や伝承では、良文は将門の養子であったり、その逆であったりする。また、良文の子の忠頼は将門の娘を母として生まれたとする系図もある。
 つまり反逆者将門をして自族の先祖に位置づけているのである。そればかりでなく、良文は将門と共に平国香と戦ったり、逆に良文と将門が対陣したりと、文献によって良文の立場は異なるが、将門の乱に参戦したとしている。
 千葉氏関係の手によって編まれたのではないかとされる『源平闘諍録』冒頭の系譜には、良文の三男忠光は将門の乱によって常陸国信太の嶋へ配流されたという。

 ところで『将門記』によると、将門は上野国府で親皇を称し、坂東諸国の国司を任命したが、その中で武蔵国が欠落している。
上総介に任命された興世王は乱以前の武蔵権守のまま将門の元へ転がり込んでいるから、これが兼任したという苦しい解釈もあるが、実は良文が武蔵守に任命されたのではないか。
 こういう憶測は次のような理由から生まれる。その情報の詳細さから『将門記』は将門の地元に関わり深い寺僧の手になるとされており、乱後の間もない時期に編まれたとすれば、将門の遺領を継いだ良文を将門の乱の共謀者とは書けなかったのではないか。
 
さらに想像を逞しくすれば、次のような事も考えられる。将門の乱は嵯峨源氏一党との私闘に始まった。良文も嵯峨源氏と見なせる蓑田源次の源充と一騎打ちをしたという『今昔物語集』の説話を先にあげたが、晩年の充は武蔵国を引き払って摂津国へ移り、淀川河口に海賊渡辺党を組織した。将門と良文は縁組みを結んで共に嵯峨源氏と戦い、蓑田源次充を武蔵国から追い出したのではないか。そして乱後、良文は将門の遺領を相続した。

 またの名を村岡五郎と呼ばれる良文の居住地の候補は、先に挙げた熊谷市と港区三田の他に、相模国(神奈川県藤沢市)と茨城県結城郡千代川村村岡説がある。藤沢の村岡説は良文の子の忠道が村岡平太夫と呼ばれて、鎌倉権五郎や大庭・梶原氏など鎌倉党の祖とされたことによろう。一方の千代川町村岡の地は将門遺領で館のあった豊田郡鎌輪の側にある。良文の子孫はここを基点として房総半島へ領地を拡大していったのであろう。

 いずれにしても平良文はおそらく始めは武蔵国の熊谷市村岡にいた。在地の豪族の家に生まれたか、入り婿して、その後、下野国の将門遺領を継いだのは子の忠頼であろう。武蔵国は忠頼の子の将常の子孫が荒川に沿って進出し、同じ忠頼の子の胤宗の子孫は武蔵七党の野与・村山党となった。また、良文の子の忠光・忠道の子孫は鎌倉から三浦半島へひろがった。この村岡五郎平良文をもって後世「武蔵野開発の父」と呼ばれている。
 
 坂東千年王国論 第三章   将門叛乱前後(終)
 
 ~坂東千年王国論~