原田伊織 著の異聞的見解.2
2015年05月23日06:56cocorakinoraki333 Comment(0)Trackback(0)
 
人々に植えられた既成の概念、それは簡単には消えない「私たちが、教科書その他で、いつしか史実であるかのように自然にイメージしてきた吉田松陰像などの、」
その記事をみて、まてよ、どこかで訊いたようなセリフだ。
「フロイトの精神分析」に書いてあって、その一言だった。

そのことの実際を、自身で立証した人物が田中角栄だった。当時「田中角栄」の番記者だった「早野透」氏が、そのことを一冊の本にしている。

以前私は、早野氏がそれを書籍にする前のネット記事を読んだ記憶がある。このサイトのどこかにストックしてあるはずだが、いま探しているヒマはない。だから、次の引用記事で代用とする。内容は、近似しているので参考になるはずだ。

そのことも絡めて松下村塾「吉田松蔭」の架空創作の話しに導きたいと思う。

外界では、維新分裂危機説が、にわかに狼煙を上げようとしている。 
 
維新の屋台骨であった橋下氏松井氏の二名が離党し、その離党の原因は、柿沢幹事長が今月、山形市長選挙で地元の反対を押し切って、民主党などが推す候補予定者の応援をした、というのがその理由だ。
幹事長辞任を求める松井氏らに対し柿沢氏は頑なに拒否、候補者、梅津庸成氏(48)をおす、そのことであることは誰がみても明らかなことだった。

政治は、1ミリたりとも狂い間違うと「命がない」。自分の起こしたアクションは幾千万の価値があると信じきっている。それを許さない相手は、コンマ1ミリを10重ねて、これがお前の轍だとデジタル印字をかざす。そんなものはキーの一押しであっという間に消えてしまうが・・・。
まさに政治はそんな命の保証のない世界だ。(例 北海道中川親子)


没後20年目の角栄ブーム―ソフトな保守への郷愁
早野 透 【Profile】 [2014.05.07]  

戦後政治を生きた「今太閤」
2013年12月で、田中角栄元首相の没後20年となる。それを追悼する公式の催しはなかった。しかし、今なお国民から「角さんがいたらなあ」と何かにつけて引き合いに出される人物である。「没後20年の角栄ブーム」というべきか、それは現代日本政治から失われつつあるように見える「ソフトな保守」への哀惜なのかもしれない。

第二次田中内閣発足時の記念撮影。最前列中央は田中角栄元首相=1972年12月(時事)
田中角栄は「カクエイ」とか「角さん」とか、いまだに名前や愛称で呼ばれることが多く、民衆から親しまれた政治家である。第2次世界大戦後、日本の復興期から成熟期に至るまで、いわゆる戦後政治の時代に生きた。
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1918年、日本海側にある新潟県の貧しい村で生まれ、高等小学校を出ただけで上京し、下積みの仕事を転々としながら建設会社を立ち上げて成功。戦後になって衆議院議員となり、ついに総理大臣まで駆け上がって「今太閤」と呼ばれた(太閤とは引退した摂政、関白に対する敬称。特に日本の戦国時代、百姓の身分から出世し天下を取り関白に就いた武将、豊臣秀吉のこと指す)。

しかし、その間に膨大な政治資金を集めたことで「金権政治家」とも呼ばれ、航空機輸入に絡むロッキード事件で5億円の収賄の疑いで逮捕・起訴された。1・2審で有罪、なお最高裁で争っている間に75歳で死去した。それが1993年のことだ。そんな汚辱の中で葬られた政治家であるにもかかわらず、今なぜ角栄ブームなのか。

角栄流「ソフト政治」と安倍流「対決型政治」

東京地裁で実刑4年の判決を受けた直後の田中角栄元首相=1983年10月(時事)
直接のきっかけは、いくつかの「角栄本」が続けて出版されたことにある。
角栄の愛人の娘、佐藤あつ子が母を描いた『昭(あき)―田中角栄と生きた女』(講談社)、
角栄を至近距離で取材した番記者だった拙著『田中角栄 ― 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書)、そして角栄の秘書の回顧談『角栄のお庭番 朝賀昭』(講談社)が毎日新聞記者・中澤雄大氏の聞き書きによって出た。
ほかにも森省歩『田中角栄に消えた闇ガネ』(講談社)、大下英治『田中角栄秘録』(イースト新書)と続く。角栄死後20年、一つの歴史として観望できるようになって、この清濁両面のある政治家の記憶を、もう一度書き留めておきたいということだったのだろう。

だが、それだけではない。おそらくは安倍晋三首相の率いる日本政治への不満や鬱屈、あるいは抵抗感が「今、角さんがいたらなあ」という人々のつぶやきにも似た郷愁になって現れていると思われる。時代背景の違いはあるけれども、角栄流「ソフト政治」と安倍流「対決型政治」は確かに対比されるべきところがある。

格差是正を目指した経済政策

まず「経済」面から比較してみよう。「政治とは生活です」――角栄は選挙演説をこのせりふで始めるのを常とした。角栄の思想は、政治主導で経済を動かし、経済が人々の暮らしを潤すという、いわば「経済=生活」である。演説に熱心に耳を傾ける民衆の住む田舎の道路建設や防災対策を具体的に語った。

看板政策の「日本列島改造論」は、全国に新幹線や高速道路を張り巡らせて生活基盤を引き上げ、田舎と都会の「格差是正」を図ろうとしたものにほかならない。だがこれは、土地投機を誘発し、1970年代には石油危機に見舞われて挫折することになる。
一方で、高度成長の果実を分配すべく、「福祉元年」を宣言して老人医療費無料化、5万円年金といった施策を断行。義務教育の教員給与を一般公務員より25%引き上げるなど大胆な改革を実行した。

20年におよぶデフレ経済からの脱却を狙うアベノミクスは、角栄流の施策とは異なって、いわば「経済=企業」の視点に立つ。
金融緩和で円安株高に誘導し、大企業は空前の利益をあげている。そこから従業員のベアを実現、景気の好循環を作ろうというものだが、そんなアベノミクスも自分たちには及んでいないと感じる中小企業や地方企業からは、「角さんだったらなあ」といった角栄待望論が聞こえてくる。角さんだったら、もっと下層に日を当ててくれるだろうというのだ。

最大の功績、日中国交正常化

日中国交正常化のための訪中を前に、ハワイで米・ニクソン元大統領(右)と会談する田中角栄元首相(左)=1972年8月(時事)
次に「外交」面でも角栄と安倍は対象的である。
1972年9月、田中角栄は首相就任2カ月で日中国交正常化を手掛け、中国からの戦争賠償放棄を含む難しい交渉を一気呵成にまとめあげた。
中国がソ連と対立して孤立感を深める中、建国のリーダー毛沢東、周恩来が健在なうちに日中戦争の後始末を――という角栄の読みが当たった。
もし中国が日本に戦争被害の賠償請求をするならば、それは膨大なものになるだろう。

毛沢東、周恩来であればこそ「賠償放棄」を国民に説得できた。交渉の最後には毛沢東が出てきて「けんかはすみましたか」と角栄に語りかけ、歴史的和解を演出した。

それ以後、上野動物園にパンダが来て「日中友好」は盛り上がった。貿易も順調に増えた。中国は日本から供与されたODAも全額返せるほどに発展した。中国政府は角栄がロッキード事件で逮捕された後も、日中関係修復に貢献した人々を意味する「井戸を掘った人」として礼遇した。

いま安倍晋三政権にあって、日中関係、加えて日韓関係における、この険悪な状態はいったいどうしたことだろう。
尖閣諸島、竹島などの領土問題がトゲになって、両国との首脳会談開催も困難を極める。南京大虐殺はあったのか否か、従軍慰安婦は強制連行だったのかどうかなど、いわゆる歴史認識の問題はこじれるばかりである。
倍首相の歴史修正的な態度に対し、中韓両国は警戒心を解かない。2013年12月、日本の戦犯を合祀する靖国神社に参拝したことは、被侵略国の中国、韓国を決定的に怒らせた。
角栄だったら、これにどう対応しただろうか。角栄は、陸軍2等兵として中国東北部に応召した経験がある。
しかし、そこでの角栄の思い出は上官から理不尽に殴られたことばかりで、戦前への郷愁はない。
あの機略縦横の角栄だったら、中国、韓国の立場も深くのみ込んで、もっと的確に対応したのではないか。歴史認識というものは、重箱の隅をつついて相手を責めたり、いじましい自己弁明をするトリビアリズムではない。

各国とも角栄世代が去って、歴史の反省・和解のプロセスが継承されていない。どうしてこんなことになるのか。毛沢東、周恩来と渡り合った角栄の政治的大きさへの追憶が人々から湧くゆえんである。

金権政治だが護憲政治、その多面性こそが角栄流

「20年後の角栄ブーム」を反映して、このごろ筆者自身、角栄についての講演を求められることが増えた。そこで私が「角栄はキンケンだったけれども、ゴケンでもあった」と説明すると、参加者がオヤと耳を傾ける。

角栄は自民党総裁選に立候補したときの「国民への提言―私の十大基本政策」の中で、「日本は軍事大国を目指すべきでなく、憲法9条を対外政策の根幹にする」と盛り込んでいる。日本の戦後平和思想のシンボルである憲法9条(戦争放棄、戦力および交戦権の否認)を守るという角栄の言明が中国側から評価され、国交正常化につながったのである。

自民党は立党以来、「憲法改正」、つまり9条改正による軍の復活を党是としてきた。日本国憲法はマッカーサー占領軍の「押しつけ」によるものというのが理由だった。
だが角栄は、例えば「自民党結党25年」の報道番組に出て「占領軍の大前提は、日本の弱体化を図ることだった。だが戦後の諸法規は、日本人の英知によってすべて消化され定着をした」と語っている。

実態をいえば、自民党は「建前改憲、実質護憲」で、安全保障投資はほどほどにして、それよりも経済発展に資源を集中してきた。
「安保費の節約」が角栄にとっての9条のありがたみであり、角栄の平和思想の根底にある。「戦争はもうこりごりだ。もっと平和で豊かな生活をしたい」という戦後の国民思想は、まさにそれだったのである。

小さくなった政治家の器量、大きくなる角栄の存在感

安倍首相はそんな憲法9条の効用を「マインドコントロール」と断じ、国際社会の緊張に立ち向かうために9条の解釈変更で集団的自衛権の行使に進もうとしている。護憲派は、これを「専守防衛」から「海外で戦争のできる国」に転換しようとすることであり、9条の無意味化であると批判する。

しかし、安倍首相が説く国際情勢の厳しさとは、多分に安倍首相本人の対決的な政治戦略がもたらしたものである。田中角栄だったら、もう少し近隣と気持ちを合わせながらうまくやっているのではないか。戦後70年になるに及んで政治家の器量が小さくなり、大きな妥協ができないのではないか。

やはり戦争という苛烈な人生体験が人物を鍛えたのか、戦後体制を作った吉田茂に始まって、岸信介、池田勇人、佐藤栄作らは、明らかに今の政治家よりも大物だった。角栄の同世代には福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘などの個性的なライバルがいた。角栄はこれらの群像の一人にすぎないともいえる。ただ角栄という人物はとりわけ「情」に厚く、その人生は人間ドラマとして起伏に満ちており、人々から今なお思い出されるということである。
今、田中角栄がそこまでの力を発揮できるかどうかはともかくとして、「没後20年の角栄ブーム」は、「日本政治の今」への根底的な国民の違和感の表れと考えるべきなのである。
(2014年3月27日 記)
タイトル写真=第27回自民党臨時大会で新総裁に選出後、第一次田中内閣発足前に記者会見する田中角栄氏(1972年7月撮影、時事通信社提供)

早野 透  HAYANO Tōru[ 署名記事数: 1 最終更新日: 2014.05.07 ]
桜美林大学教授。1945年神奈川県生まれ。1968年東京大学法学部卒業。朝日新聞社で政治部次長、編集委員、コラムニストなどを歴任。2010年より現職。主な著書に『政権ラプソディー―安倍・福田・麻生から鳩山へ』(七つ森書館/2010年)、『田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書/2012年)など。
(記事全文抜粋)

田中角栄リンク記事
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/41332173.html