原田伊織 著の異聞的見解.2a 再検証
そして何と言っても一番の驚きは、通説では、あたかも安政の大獄で井伊直弼によって殺されたことになっている吉田松陰だが、それは事実とかなり異なっていること。

真相は、松陰が老中「間部詮勝」(まなべあきかつ)を暗殺しようとした事実が露見し、長州藩が松陰を捕縛していること。その後身柄は江戸に送られ、日頃よりさまざまな「暗殺」を口にしていた不審人物(無数にいた過激浪士の中の無名な一人としての(吉田寅之助・幼名)として、幕府から長州藩へ人物照会と嫌疑の内容についての問い質しがあり、それに対し、長州藩自らが「斬首やむなし」との返答をしていたがゆえの斬首であったこと。したがって、井伊直弼は、吉田寅之助なる人物を、そもそも知らなかったと考えられること。そして当時の長州藩にとってさえ、吉田寅之助は厄介者であったのだというのである。
それにも関わらず、武力倒幕を果たしたのち、明治新国家建設を後世に物語るための《神話》創成が必要になった時点で、彼らを含めた維新のひとつの「物語」として、吉田松陰のいたわずか3年の間に松下村塾に集ったそれぞれのメンバーたちを、維新のヒーローとして、日本軍閥の祖・山縣有朋が自らの創作による《神話》のなかにとりこんだというのである。 
吉田寅之助は幕府から長州藩に人物照会されていた。?
※前項抜粋記事引用

以上を読む限りでは、これまでの松蔭通説と大幅にことなる。「日本軍閥の祖・山縣有朋が自らの創作による〈神話〉」にいたると、これは飛躍しすぎでは、と訝ってしまう。

ま、山縣有朋に関しては武勇はほとんどなく、「巧緻巧拙」ばかり際立って、さながらCIA・FBI長官を思わせるから、あながち、ないでもない、という所見か。
また、松下村塾の名簿にしても、こちらに載っているが、あちらの記述にはない、というのもあって不明確なことがある。

長州藩自らが「斬首やむなし」、という意味は、身内を殺したことであり、「吉田寅之助は厄介者であった」というくだりは意味深だ。

最新の現在ネットニュースでも山形市長選挙がらみの「維新の会」の内輪もめがあって柿沢幹事長と橋下氏松井氏の両過激対立があり修復不可能まで行ってしまった。
「やっぱ、こんなときヤマガタがいたらな~」、とか「角さんだったらはりとばしてるぜ」なんてことになるのだろう。

よもやこのインターネット時代に「斬首やむなし」はあり得ないだろうが、北の方角から「ハラキリ」しろよと、せっついてきいるが首を洗って待つこともないが???

さらに、老中「間部詮勝」(まなべあきかつ)を暗殺しようとした事実が露見し長州藩が松陰を捕縛していること。など、やたらと殺したがるのがこの時代の背景にあったようだ。それを実感するような出来事が今別の進行中の調書のなかにある。


すでに大方の筋は書き上げているが、上総国一宮藩主「加納久宜」について、そこいらじゅうの資料を集めて読んでいると、本人の所在があやふやになってしまうような出生記録が書かれていて、養子の戸籍痕と幼名、養子名、家系名、そしてやっと晩年名となって、ようやくそれが本人であったと、冷や汗ものだった。

人間の一生時間を計ったら、平均的に70歳としておけば近似値とおもうが、300年前であったら、それは通用しない。
基本的に人間の生存時間は短く、まして病死の確率が高く、健康体であっても不治の病原体に付かれたらそれで終わりだ。
そんなわけで、成人男子(幼子もある)の養子縁組は日常茶飯事におこなわれていたのが、この時代だった。

となると記述された戸籍が唯一の手がかりとなる。それがしっかり書かれていればいいが、先の加納久宜の場合など、先祖が九州三池藩で、関が原の戦いで、徳川政権に加勢しなかったからとい理由から常陸国(下手渡藩立花姓)に左遷される。その常陸国は、かつて陸奥国と隣接する、という歴史記述があり、えっ、それって離れすぎじゃん、となる。わけは「俘囚征伐」に起因している。

さらに、再び九州三池藩にもどって、今度は親戚筋縁をおって上総国加納姓に養子となる。それが上総国一宮藩であった。
で、なぜそんな遍歴を歩む必要があったのかと、普通は思わないが、私の性癖がそれを許さなかった。

これも拙著ページにあるが「親王任国」という桓武天皇時代の制度の一つで蝦夷征伐の名目のもと、常陸いまの福島圏内、上野いまの群馬圏内、そして上総いまの外房圏内(いすみ市にその痕跡が残っている)という三国の主要国を定め前線基地とした。そこに最高官吏(天皇嫡男)を赴任させ、任務に当たらせていた。

この「加納久宜」の血は、まさにそのルート上を歩いている。
この前のページに書いてある「関東軍総司令官立花小一郎」の話も、自分で調べていて驚いた。姓が「立花」とあったのでもしや、と先を追っていくと"案の定"だった。
以下抜粋稿。

関東軍総司令官立花小一郎
昭和17年10月1日には軍から総軍への編制昇格に伴い、総司令官・総参謀長・総参謀副長と呼称変更。
昭和8年7月28日から昭和8年8月22日の間を除き関東軍司令官が満州国在勤特命全権大使を兼ねた。
司令官・総司令官
立花小一郎 (1919年 - 1921年)以下14名
1861年3月20日(万延2年2月10日) - 1929年(昭和4年)2月15日)は、日本の陸軍軍人、政治家。男爵、陸軍大将、第10代福岡市長、貴族院議員。
最後の記述が決定打である。
1861年、三池藩家老(藩主の分家)立花碩(おおい)の長男として生れる。

なお「加納久宜」(生まれ立花姓)の家系とは本家分家の血統であると但し書きが認められた。

また今日新たに書き足した軍事関係の人物も、加納血縁とは無縁だが、その上総国一宮にかつて住んでいたことがあったという証拠もありその写真も載せた。

上原 勇作(安政3年11月9日(1856年12月6日) - 1933年(昭和8年)11月8日)は、明治~昭和期の陸軍軍人。
元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。
陸軍大臣、教育総監、参謀総長。
日向国都城(現宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。 上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。陸軍大臣、教育総監、参謀総長、元帥の「陸軍三長官」を歴任したのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の二名のみである。
安政3年(1856年)、薩摩藩島津氏一門都城島津家重臣、龍岡資弦の次男として生まれる。
1875年(明治8年)、上原家の養子となる。陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)、陸軍士官学校卒業(同期に秋山好古など)。
1881年(明治14年)に渡仏、フランス陸軍に学び、1885年に帰国して工兵の近代化に貢献、「日本工兵の父」と称される。日清戦争においては岳父野津道貫が司令官を務める第1軍の参謀、日露戦争においては、やはり野津が司令官を務める第4軍の参謀長など数々の戦争に従軍して参謀職を務め、1907年(明治40年)に軍功により男爵を授けられた。
1912年(明治45年)、石本新六の死後、第2次西園寺内閣の陸軍大臣に就任。陸軍提出の2個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されるや、帷幄上奏権を行使して辞任。陸軍は上原の後任者を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して内閣を総辞職させた。
1921年(大正10年)に子爵、元帥。
参照
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/41368084.html

捕捉だか2.26事件で暗殺された、かつての海軍大将にして総理大臣「斉藤実」1932年(昭和7年)5月26日 - 第30代内閣総理大臣及び第47代外務大臣に就任。その別荘跡ものこされてい。

以上三名(他の著名人も含む)の高官軍人と総理経験者の別荘群がこの上総国に集中している。それらを招聘したのが「加納久宜」でありその血統ゆえの縁だと伝記ものに記されている。もちろんそれらはかつて桓武天皇か敷いた「親王任国」の由来に起因していることは疑いようもない史実である。


 
外圧に危機感を持つ孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷思想・・・その気持ちを無視して幕府は勅許を得ずに諸外国と条約を結んだ。天皇の意向に反する幕府の開国方針に憤(いきどお)った勤皇の志士の中心となったのが、長州・毛利藩(萩藩)と薩摩・島津藩だった。
勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素ではあった。中でも特筆すべきは、長州藩には吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。
 
幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は、杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔と言う事に成る。
 
吉田松陰の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家禄26石の萩藩士の家で、松陰(ょういん)は、その杉家の次男として生まれた。父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。
母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。

次男だったので生まれて四年後、杉寅之助四歳の時に父・百合之助の弟である家禄57石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。吉田寅之助(松陰)9歳の時、後に友人・小田村伊之助の妻になる妹・杉寿(すぎひさ)が生まれる。そのその3年後の吉田寅之助(松陰)12歳の時には、後に松陰門下となる久坂玄瑞(くさかげんずい)の妻となる末の妹・杉文(すぎあや・すぎふみ)が生まれている。
倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾である。
 

元々、松下村塾は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したも。若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、10歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書/戦法篇」を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。

折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、1850年(嘉永3年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山にi師事をして蘭学を学んだ。

この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。

吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。
もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。
当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。
だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。
しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。

その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の1852年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

ところが、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永6年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれる。翌1854年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。
翌1855年(安政2年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。
その2年後の1857年(安政4年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。
吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か3年の間に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上馨(いのうえかおる/井上聞多)、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。
なかでも、高杉晋作と並び称された久坂玄瑞には、末の妹・杉文(すぎあや)を娶(めと)らせている。

前述のごとく、吉田松陰が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは1857年(安政4年)である。
松陰が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、1859年(安政6年)の10月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か3年の間だけである。
だが、松陰 の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。

実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の孫皇子・良光(ながみつ)親王(懐良(かねなが)親王の子)の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。
在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいた。

その周防国熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

「杉家」
の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。長門国萩から周防国熊毛までは20里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤俊輔(博文)、等を引き連れて会いに行く。
松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。
 
「これなら、上手く行くだろう。」

そして松陰は、井上馨、伊藤俊輔(博文)の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。

1858年(安政5年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌1859年(安政6年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。
井伊直弼は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(1859年/安政6年)の10月に斬刑に処されている。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。
吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは、尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導し、明治維新の原動力となった。
(記事一部引用)

原田伊織 著の異聞的見解.2b 再検証
幕末維新風雲児 http://www.jpreki.com/yurinosuke/
杉百合之助は1804年2月23日生まれ。父は、長州藩の給通組士・杉常徳(杉七兵衛)。玉木文之進は実弟。

26石の小禄であり、長州藩士約3000名の中だと2000位くらいの石高となる。1824年に、杉家の家督を相続し、1825年に児玉太兵衛の養女・滝(杉滝)を迎えた。家格は無給通組(下級武士上等)で石高は僅か26石と極貧の武士であったため、普段は農業もして生計を立てていたが、暮らしが苦しくても士分の誇りは失わず、また無類の読書好きだったと言う。1828年、長男・杉梅太郎(杉民治)が誕生。1830年(天保3年)、記録御次番役に就任。 

そして、1830年8月4日には、次男・杉寅之助(のちの吉田松陰)が誕生している。この時、杉百合之助は26歳。1832年、長女・杉芳子(杉千代)が誕生。1835年、呉服方に就任。この年、1835年、弟・吉田大助が死去したため、吉田家(家禄57石)の家督を、次男の杉寅之助(吉田松陰)に相続させている。
  1839年、次女・杉寿が誕生。
  1841年、3女・艶が誕生するも、1843年に早世。
  1843年、百人中間頭兼盗賊改方に任ぜられ、家を離れて、萩城下に住んだため、長女・杉千代が父の世話をしている。
  杉文 (杉美和子)が誕生。
  1845年、杉敏三郎が誕生。発音が不自由な身であった。
  1855年、密航を企てた吉田松陰が生家預かりの育みとなり、杉家にて蟄居。

杉百合之助は藩に責任を取って切腹すると申し出たが、差し戻されている。吉田松陰は蟄居の身であったが、杉百合之助や近親者に『孟子』や『武教全書』を講じ、杉百合之助は自宅にて塾を開く事を勧めた。1856年、吉田松陰が許されて、松下村塾の主宰者となると、長男・杉 修道(杉梅太郎)と共に、父・杉百合之助は最初の生徒となった。吉田松陰が入獄する際には、下記のような言葉を贈っている。

--家君(かくん)欣然(きんぜん)として曰く(いわく)一時の屈(くつ)は万世(ばんせい)の伸(しん)なり、
いずくんぞ傷まん(いたまん) 親 思う心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらん --

上記は、吉田松陰が処刑される直前に歌った句。
1859年5月、吉田松陰が江戸護送になると、杉百合之助も責任を問われ、藩職を罷免された。この時、杉百合之助は55歳。
(記事引用)

※冒頭にある「26石の小禄であり、長州藩士約3000名の中だと2000位くらいの石高となる。1824年に、杉家の家督を相続し、1825年に児玉太兵衛の養女・滝(杉滝)を迎えた。家格は無給通組(下級武士上等)で石高は僅か26石と極貧の武士であったため、普段は農業もして生計を立てていた」、とある。

この時代の長州藩は、関が原(1660)戦争で徳川幕府に責め負い、領地の大半を失う。まさに藩存亡の危機だったが、藩士をリストラして帰農させた。また新田開発にいそしみ財を蓄えていたと記録されている。その帳簿は現代のバランスシートに匹敵する。
田畑を新たに造作することは、石高生産を上げ、穀倉面積地帯を広げるということだ。それにはトラクターだとか自動脱穀機などなく、すべて人力だ。1町2町歩面積の数倍を耕作するには、膨大な人力生産コストがかかるが、その副産物として、兵士訓練の一翼を担うという利点がある。そのことはエジプトのピラミッドを見れば一目瞭然である。また多くの古代文明国家には、農業生産性が優れるという共通点があり、相乗して兵士の士気が高く戦闘能力も高いことが認められる。昔からの格言「治山治水」とは、そのことを形容した言葉だった。(上総国いすみ市内では、広大で潤沢な溜め池がたっぷり用意されている。古代から穀倉地帯としての知名度があり、また蝦夷"いしみ"また現在名「いすみ」という地名も、延喜式神名帳に記述される。) 

冒頭記述の一説、「井伊直弼は、吉田寅之助なる人物を、そもそも知らなかったと考えられること。」

案外、歴史の中には、とても重要だった申し送り文言が、スッポリ抜け落ちたり、またそれを意図的に抜いてしまったり、伝達情報の重要性がよくわかる。ことに有名な話が「トラトラトラ」暗号の箇所であったりする。それを知っていたがわざと知らぬ振りをして、次の一手の有効材料に使うという戦争の常套手段だ。結果的に日本はサイパンなど南方諸島で壊滅的攻撃を受け最後に原爆投下という結果に到る。

それと同じことが井伊直弼と、吉田寅之助の二者間にあった。もう一つの例として田中角栄のローキード事件がある。いまでも検察に対する裁判経過の不信感が拭えないのは角栄に対する冤罪ではないのか、という問いがいまだにくすぶっている。これも拙著ページに載せてあるが、そのことを明かすために、膨大な行の字数で文を書いた。
参考記事http://idobatakaigicom.ldblog.jp/archives/1038345580.html

もちろん角栄のカリスマ的要素もあるが、それとはパラドックス論証的に、ある月刊誌(文芸春愁)の訴求稿がもとで、そこに到ったという経緯がある。


そのころ社会の世相は当然のように完全アナログ社会で、とくに情報メディアは新聞社に代表されるように、それを核として、ニュース情報が出されていた。とうぜん有無を云わせない発信のみだ。また、ニュースソースがどのような過程で作られたものか、一般人は知ることができなかった。またそれが当たり前だと思っていた。

そして
1983年10月に田中角栄は逮捕される。その当時私は、その月刊誌を欠かさず読んでいた。執筆者立花隆の筆裁きも冴え渡り、よくぞ首相の疑獄事件を暴露したと絶賛した。あらゆる種類のメディアというメディア全部が、そのバイアス志向にはまり、勧善懲悪張本人田中角栄を吊るしあげ、ヨーロッパ中世の異端審問による極刑火あぶり刑の「ジョルダーノ・ブルーノ」のように血祭りにした。その結果の数年後、角栄は病気を患い罪の真偽を晴らさぬまま黄泉国へと旅立った。
その顛末はいまでも語り続けられ、事情をよく知る関係者に講演依頼が引きも切らないという。
そのなかの一説で、ある番記者が語った数行の文の文字が天と地を分ける道標のような意味を内包していると私は察したが、それが世に問われることはなかった。
その本人しか知らない情報と思われる暗号名を、番記者はそれとなく尋ねると、本人は怪訝な顔して「それはなにかね」と逆に質問したという。
※逆指揮権発動
(請訓事項)検事総長が法務大臣に対して伺いをたてる捜査上の重要事項。検察庁法第14条の「法務大臣は、検察官の事務に関して、検察官を一般に指揮監督することができる。ただし、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」に基づき、国会議員の逮捕許諾を要請するとか国家転覆を図った事件など特定の事件につき、検事総長が法務大臣に決裁を求める。法相はこれを拒否して、いわゆる指揮権発動をすることができる。なお、逆に法相が特定人物の逮捕や捜査を督励することを俗に「逆指揮権」と呼び、ロッキード事件の際に話題となった。
丸紅からロッキード社に渡された領収書にピーナッツ100個などの暗号が記され、検察の調べでピーナッツ1個が100万円の意味とわかった。その他ピーシーズ、ユニットなどの暗号領収書も出て流行語となった。
(検索基礎知識

参考記事
「ロッキード事件」の真相に迫る産経新聞連載再録(平成6年12月13日から5回)
※肩書、年齢等は当時のまま

リンク
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/41368084.html