呼継よびつぎ・神籬ひぼろぎ 2014年01月26日06:46記事より
神籬(ひぼろぎ)という場の呼び名
a 「ひもろぎ(神籬)」に同じ。神事をとりおこなう際、臨時に神を招請するため室内や庭に立てた榊(さかき)。しめ縄を張って神聖なところとする。
 古くは、祭りなどの際に、周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて神座とした場所をいい、のちには神社をもいう。神座。ひぼろぎ。《神籬》 「神なびに―立てていはへども /万葉 2657」
b 神にそなえる米・餅・肉などの供物。ひぼろぎ。ひぼろけ。ひもろけ。《胙・膰》 辞書検索

 神籬(ひぼろぎ)という字も、その場所も現日本人は知らない、と前置きしてもいい。それを「死語」と云うらしいが、さて、それを知ってどうすると問われると返答に窮する。
 それと同じカテゴリーで「呼継(よびつぎ)」という言葉が陶芸の世界では使われているようだ。それを知らないと「なんだこいつ、よびつぎ、も、ひぼろぎ、も知らないのか」とさげすみ、無視したような冷めた視線が返ってくる。とかくブランド志向の日本人だから・・・。

 そんなことはどうでもいいが、そうした昔から(この昔から、というのは何時を指すのだろうか。自分で使いながら時間枠が曖昧で、それが100年なのか1000年前なのか規定しない。しかし賢い読者は前後文体から察して、その時間帯を推察している)、昔から大切に扱われていたように思う。
 それがアナログからデジタルへ移行するようになって急激に死語化した。むしろ、それらは必要なく「必要不可」の存在であると時代が要請したのだろう。その代替がパソコンとか、アイフォンとかタブレットなのだろう。
 それを同じ土俵で戦わせると断然IT機器に軍配が上がる。アイフォンの使い方をマニュアルなしに自在に操るのは、その時代に生きて、その時代に必要な生活必需品だからだ。それを1000年後の話しとして考えるとどうなるか。
 いまから1000年前の日本だと、だいたい鎌倉時代になり、その場所も言葉も、書き残した文献も残っている。したがっておおよその鎌倉社会は、再現できるしテレビドラマを見ても違和感はない。
 その先、2000年前はどうか、となるとにわかに怪しくなる。時間と云うのは古くなるほど不透明で、かりに「字体」があったとしても現代人は理解できない。その文言意味を解読するには途方も無い時間と費用がかかる。
 いまは、便利だ全部CDかまたUSB、さらにHDDに保存しておけば半永久保存媒体だと、誰もが信じて疑わない。それが今大問題となっている。

 01、この二つのデジタル記号の組み合わせ方数億通りで、端末ディスプレーに表示され、人間は、視覚でそれを取り込み脳で処理する。いってみれば「文字」「絵」を概念にしてある。その概念は、一時も覚えられないから、記録しておかなければならない。古代でも現代でも文字はそうした機能を備えていた。それを石に刻んだりパピルスに書いたり、和紙と墨で「書」というアートまでに到達した。文字のスタイルは時間枠に関係なく、ほぼ原型を維持しているが、それを写す媒体は、時代とともに大変革している。
 和紙を例にとれば、「神なびに―立てていはへども /万葉 2657」と、その時代の原本となると国宝級だ。扱いも厄介で虫食い穴だらけのボロボロになった紙は、これまた修復するには特別な技が必要となる。
 それに比べたらデジタルのCD・HDDはまったく心配ないと私も思っていた。ところが、その本体の素材が1000年持たない、ということに気が付いて、いま、その素材開発に着手した、という話を耳にした。そんなことは、云われて初めて考えることであって、CDが1000年先に回転しているか、なんてことは考えもしなかった。だいたいが、そのCD版を廻す機械が1000年後にあるのか、ということも大問題であるようだ。
 そうしたことは自分の日常を考えても察しがつくが壊れたら捨てる、型が古いと新しくする約7年サイクル、余ると保存する。それは家屋でも人体でも同様、肥満になる。そんなことを僅かの人生スパンで繰り返していると1000年という時間は、夢のように過ぎ去ってしまう。
 気が付くと、プラスチックは変形し、それをどのよに操作するのかもわからない。さらに悪いことには機器はリモコン操作でないと動かない。取説は冊子でなくパソコン内検索で保存されている。その一つ一つがバラバラに放置され、さながらパズル組み合わせの様相だ。それは現在、古代文字を解読している作業とまったく同じ工程を追っている、と考えるのは単なる杞憂なのか。
 参考までに記録する紙の質素材開発の話しを耳にした。生物遺伝情報の先駆として、DNAに着眼したはなし。塩基配列をデジタルデータとみなし、遺伝子組み換えテクニックで情報を書き、遺伝子解読装置で取り出すというアイディア。
 その方法でシェークスピアの詩を合成遺伝子に保存し、引き出し再生に成功した論文を2013年「ネイチャー」に発表した、という。さらに、生きた細胞遺伝子4箇所に別々の形式で保存し数千年間保存できる、という可能性の端緒を開いた。それは現代科学の最先端技術であるとトロント大谷内研究員が語っている。 
 その物理化学のデジタル論議は、研究成果としては先鋭的な実験である。ひるがえって自分の体験談。
 「経験的観測」に基づいて論証してみると、昔聴いた「黒いレコード盤」は、現物として存在するが無用の長物化として3階ロフトに寝ている。捨てられない。オープンリールテープは重すぎて移動できない。同じく寝たまんま。カセットテープは機械本体が故障で直すのに3万円かかった。そのあと、カセットテープをデジタル化する機械が廉価で開発され修理したアナログカセットデッキは行き場を失った。デジタル定番の本命と目されたMDは、HDDやmp3に座を追われ中古市場のみで活況だ。
 音楽伴奏、パーカッションソフトは、デジタルキーポートに内臓され、素人でも4・5人分のパート演奏が可能で、仕上がりはプロと殆ど変わらない。パソコン画像、絵画に至っては境界線がもはやなくなったと極論される。

 昨日、たまたま聴いた放送音楽で三橋三智也(故人)が三味線で洋楽オーケストラとコラボレーションしていたのを聴いた。見事な演奏だった。たぶんそれは60年以上前の録音だろう。
そしていま新しいとされる津軽三味線の若手奏者が、洋楽とコラボレーションしている。その差60年の隔たりは大きい。
 すでに昔やっていたことが、すっかり払拭され人々の記憶から完全に抹殺され、そこに新しいとされた形態が、実は、すでに実証済みという徒労は、いったい誰が負うのだろうか。

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「呼継(よびつぎ)」
ヒビ割れに宿る日本的美意識を、あえてガラスで表現する男
2014.1.8 WED WIRED