江戸の新田開発
現在の日本の風景、田畑は全国規模の区画整理事業によって、ほぼ四角四面の形に整備され、見た目もすっきりして、それに沿った道路整備も整って車も快適に走れるようになっている。一昔(50年)前の未舗装道路とは格段の差がある。

出来上がった既成の景色、またそれに付随している概念は、それを見ただけで直感的に判断するので、昨日まであった建物が、一夜にして撤去されると、さて、ここに何があったのか、と思い出すこともまま為らないことも沢山ある。

自分が生まれた街、故郷を思い出してみても、育ったころの景色は、物理的なものでなく心象的な記憶の概念として記録されている。ことこまかな詳細は記録してなくても全体像は、はっきり覚えている。

では、自分が生まれる以前の昭和、大正、明治、江戸の風景はどうなっていたのだろうか。昭和初期の1932年、昭和7年ころの写真が、ある所の倉庫に大量に保管してあり、それを見て、驚嘆したことを覚えている。

そこに映っている50年前の特定した場所は、大雑把には変化していないが、人間の姿や街角の建物、かんばん類を見ると、まるで浦島太郎の気分にさせてくれる。その感じを100年とか300年前に戻ると、どうなるのか。
写真もない時代、その景色を想像したこともないし、まして「浮世絵世界」を図版でみても、それが人々の生活を反映している図かといえば、それはまったく異なる。

それと同じ意識感覚で、田舎の風景(べつに田舎でなくてもいいが・)棚田とか里山とか、今では超都会以外のへんぴな場所に価値がある、という意識があって、なんでもかんでも、そこに集中するというのは世の倣いである。

文字も読めない書けない文盲の「水のみ百姓」が、戦争になれば兵隊に、平穏時には畑で芋を作っている。という牧歌的風景の、「花咲かじいさん」、や「桃太郎」立身出世物語は、創作であり、それは現存しない架空のフィクションである。

そう定義するには、いささかの無理がある。無理、というのは、それを切り捨ててしまっては日本人のアイデンティティー欠如にほかならない、という意見が出そうであるからだ。

それでは実際、その「花咲かじいさん」の家に遊びに行ってみようか~。


江戸期の人口増加と食糧増産
新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。

日本では戦国時代、各大名が国力を高めるため競うように米の増産、農地開拓に取り組んだ。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、食糧が増産されたことなどで人口は増加したが、かえって食糧が不足し、主食とする米が必要とされた。

そのため江戸時代初期の17世紀以降、江戸幕府や各藩の奨励のもと、役人や農民たちの主導で湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われ、陸地が増やされ耕地となった。あるいは丘陵地帯や台地、谷地(やち・やつ、台地と台地の間の谷間の湿地帯)など内陸部の荒れ地でも新田の開拓が行われた。

こうした新田開発を通じ、江戸時代初期に全国で1800万石だった石高は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石と倍増に近い勢いで拡大し、特にそれまで畿内などに比べ開発が遅れていた東北、関東、中国、九州などでは湖沼や干潟が新田開発され農地が大きく増えた。

その背景には、測量技術の向上がある。大量の水を必要とする水田の場合は、自然の降雨のみによる供給は不可能であり、灌漑用水の整備が欠かせない。

しかしながら平坦地、あるいはごく緩やかな傾斜地では用水路の掘削は不可能であり、戦国時代以前は一定以上の傾斜地でないと水田の開拓は不可能であった。
それが大名や幕府の主導による大規模な測量によって、平地に開拓された水田への水供給が可能になったのである。また逆に、湖沼や泥湿地のような場所に大規模な排水路を整備しての水田化も行われた。あるいは干潟において干拓工事による水田化も行われた。

江戸幕府は、17世紀後半の無謀な新田開発の乱発を一旦は抑制したが、8代征夷大将軍・徳川吉宗の時代に行われた享保の改革では、「見立新田十分一の法」などを施行し開発者に利益を保証することで商人など民間による新田開発を奨励した。また10代征夷大将軍・徳川家治など、多くの将軍や老中が新田開発を政策的に行った。

これら江戸期の大規模な開発により、それ以前に湖沼や干潟、三角州が広がっていた地域から水辺が失われ、自然形態に影響を及ぼしたともいわれる。
(資料ウィキぺデア)

TANAKA1942bが江戸時代を経済学
2008年8月18日更新
 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/edo.html
 
大江戸経済学 江戸時代の歴史観が変わりつつある
鎖国・貧農・犬公方・貨幣改鋳・3大改革・田沼政治・金貨流出・・・ 
は じ め に
 江戸時代の歴史観が変わりつつある。今まで常識と思われていたことが、実は違っていた、ということが最近多く見られる。代表的なことは「鎖国」という表現だ。最近では「江戸時代は鎖国をしていた」とは言わなくなっている。

 現代の自由貿易、グローバル社会からみれば非常に閉鎖的であったにしても「鎖国」という表現は適切でない、となっている。
 そのほか「田沼意次=賄賂政治家」という説が通説であったが、近年では大石慎三郎らの研究により、当時としてはかなり進んだ経済政策を行ったと再評価されている。 
 日本の業界では珍しく、江戸時代の歴史に関しては歴史学の部外者が多く発言し、いままでの常識が少しづつ塗り替えられている。

 この江戸時代の歴史学の業界は開かれた業界で、ここへの参入が自由であるために、専門家以外も発言し、そのことによって誤った常識が訂正され始めている。 

 そうしたことを意識して、「江戸の歴史観が変わりつつある」と題してホームページを立ち上げることにした。
 ここでは、アマチュアでもあるし、特別新しい事実は提供できないだろうが、大きな歴史観の変化は捉えてみようと思う。例によってダッチロールの繰り返しになるかも知れないけれども、最後までのお付き合いのほど宜しくお願い致します。

(1)新田開発は武将・領主の主導によってか? 
 大きい百姓間の所得格差・資産格差・権力格差
<江戸時代初期の人口増は新田開拓による>  江戸時代初期の人口は約1,200万人、これが享保期(1716年から1735年)には武士・町人・農民あわせて約3,000万人になっている。
 この人口増には食糧(コメ)の増産が影響していることに疑問の余地はない。その食糧増産は、新田開拓によるところが大きい。戦国期末から江戸時代初期にかけて新田開発が行われ、これによりコメが増産され、食糧増産により人口が増えたと考えるのが妥当だ。では、その新田開発はどのように行われたのだろうか?今週のテーマはこうした疑問から始まる、「新田開発は武将・領主の主導によってか?」だ。 
 
 新田開発に関しては「大坂堂島米会所」▲に書いたので、そこから引用してみよう 
大開墾・人口増 江戸時代のコメ問題を扱うとすれば、戦国時代から江戸時代初期の「大開墾・人口増」から扱うのが妥当なようだ。多くの文献はこの時代の用水土木工事の多いことから話を始めている。

 へそ曲がりのTANAKA1942bもこれに関しては定番の話の進め方をしよう。そこで先ず、大石慎三郎著「江戸時代」(中公新書 1977.8)から── 

つくりかえられた沖積層平野 大土木工事の時代  
”天下分け目”といわれた関ヶ原の戦い(1600=慶長5年)を中心とし、その前後約60-70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から4代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を大きく変えた時代であった。ここで土木技術というのは広義のもので、それは大別して、 
 (イ)鉱山開発技術──その結果日本は世界有数の金銀産出国となった。 
 (ロ)築城技術──それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。 
 (ハ)用水土木技術
の三分野に分けることができる。ここではこのなかで日本社会を変えるのにもっとも大きな役割をはたした用水土木技術について考えてみたい。 
 いま土木学会で編集した「明治以前日本土木史」のなかから、古代から徳川時代の終りにあたる1867(慶応3)年までにわが国で行われた主要土木工事のなかで、用水土木関係工事を抜き出して年代別に表を作ってみると表1のようになる。 

 全118件のうちで56件(47.46%)が戦国期から江戸時代初頭の約200年ほどのあいだに集中しており、なかんずく1596(慶長元)年から1672(寛文12)年まで徳川初頭77年間に42件(35.59%)とその集中度がとくに高い。つまりわが国における明治以前の用水土木工事は、戦国期から江戸時代初頭のあいだに、その半数が集中しているのである。 

 しかもその内容をみると第一線級の大河川にたいする巨大土木工事がこの時期に集中しており、それまで洪水の氾濫原として放置されたままになっていた大河川下流の沖積層平野が、広大・肥沃な農耕地(主として水田)につくりかえられているのである。それはもしこれらのことがなければ、江戸時代ひいては明治移行のわが国の国土状況はないと言えるほどのものであった。 

 「明治以前日本土木史」 同じ「明治以前日本土木史」から集計したもので、別の表を引用してみよう。表2を見ると、河川工事は1601-1650に多く、溜池・用水路・新田開発はそれより50年後の、1651-1700に多いことが読みとれる。 

「経済社会の成立―17~18世紀」速水融、宮本又郎編著 岩波書店 
 1988年11月(45頁から引用)(土木学会編「明治以前日本土木史」岩波書店、1936 から作成) 出典
<軍事力の自由競争時代、そこでの経済的基盤> 室町幕府が崩壊し、戦国時代になると各地の武将が力を競い合う「自由競争時代」になる。
 武器、装備、戦略、陰謀、策略、人望などで競い合い、その基盤に経済力があった。その経済力とは、コメの生産力、金・銀鉱山、特産品、商業などであり、コメの増産には特に力が注がれた。戦国時代に新田開発が多くなったのは、軍事力の自由競争時代に勝ち抜くには、経済力増強そのためのコメ増産、そのための新田開発という強いインセンティブが働いていたためであり、大きな川を治め、沖積層平野を新田に作り替え、そこでのコメ増産という経済力を武器にする、それが戦国武将のサバイバル・ストラテジー(生き残り戦略)であった。 

 戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。

 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。

<治水が先か?利水が先か?> この時代大きな力を持った武将が、自由競争で勝ち抜くために大河川の治水工事を行い、新田を開発した。実際歴史に残るような用水工事をした武将がその後も生き残っている。この順序は、用水工事→治水工事→移住→利水工事→作付け、となる。これに対して、「そうではない、治水より利水の方が先だ」との説もある。 

 わが国水田の開発過程をみると、治水が利水に先行して行われた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発が出来ない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。
 農民(あるいは士豪、小領主)による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を果たすというのが普通であって、これが沖積低地開発の常道であった。

 この意味で利水は常に治水に先行する。それゆえ、大名による大規模な治水工事によって初めて沖積平野の開発が行われたということは、実状に合わないのである。 

速水融、宮本又郎編著『経済社会の成立―17~18世紀』岩波書店 
1988年11月 182頁から引用 

<赤米=インディカ米の導入>
 今日私たち日本人が食べているのはジャポニカ米。インディカ米はチャーハンやカレーには適していると言われるが、市場で広く流通しているわけではない。ところが14世紀から19世紀にかけて、「とうぼし」(唐法師、唐干)あるいは「大唐米」「占城稲」という名の赤米種が広く作られていて、新田開発の過程で重要な役割を果たしていた。 
 赤米が日本のどこで作付けされていたか?18世紀の状況では、 
(1)九州・四国・紀伊半島の南部、つまり太平洋側が多かった。ここでは洪積層大地周辺の強湿田地帯で赤米が直播きされていた。農耕としてはかなり粗放的であり、しかも相当に後の時代まで(鹿児島の一部では昭和に入っても)存続する。 
(2)八代、筑後、佐賀平野など干拓クリーク地帯、沖積平野の湿田や用水不足田。これらの地方では直播ではなく移植法による植え付けがなされていた。佐賀藩では1725年で、21%が赤米であった。それ以前17世紀ではこの比率はもっと高かったと思われる。
 日本で書かれた最初の農業技術書「清良記」(17世紀中頃の寛永から延宝の間に書かれたと推定される)によると、栽培される稲の品種は96あり、そのうち「太米」として次の8種が書かれている。
早太唐(はやたいとう) 白早太唐 唐法師 大唐餅 小唐餅 晩唐餅 唐稲青 野大唐 
 当時「太米」は「太唐米(だいとうまい)」ともよばれ、総称として「唐法師」と言われたこともあった。これは米のなかでも、より野生に近く、したがって野生稲の色彩を保っていて、濃いあめ色の実がみのる。いわゆる「赤米」であった。 

 この赤米は、米粒の細長いインディカ種で、炊きあげたのちの粘りけが少なく、食味としては日本では美味とされなかった。そのため値段は白米より安かった。ただし「清良記」は、赤米のまずさではなく、むしろ長所をあげている。「大唐餅」をのぞけば、痩せ地でもよく育つし、日照りにも強い。虫もつかない。風こぼれには弱いが、脱穀の手間がかからない。このように利点の多い稲で、おまけに飯に炊くと炊き増えする。 

 農人の食して上々の稲なり。 

というのが「清良記」の考えであった。 
<赤米が新田開拓の先兵> さてこの赤米が戦国から江戸初期にかけて大きな意味をもつ。それは水田の面積拡大という方向に水稲生産の著しい伸長がみられた段階で、その主役を赤米が担っていたと考えられるからだ。新田は3年から5年くらいの鍬下年季の期間を決め、検地の猶予や無年貢・減免の処置にした。鍬下とは開墾途中との意味。水田は開墾してもすぐ収穫を期待できるわけではない。熟田と比べると劣悪な生産力しかなかった。そこで野生の強靱さを失っていない赤米は、この劣悪な水田で作られる主役であった。 

 当時の開田は、平野部ではすでに熟田化していた丘陵寄りの部分から低湿地の河川近くの方向へ、また沿岸部干拓地では海岸近くの方へ順次工事が進められて来たと思われるので、それらの新田には多くの場合まず赤米種が作られ、その後になってその水田が漸次整備され熟田化するにつれて、従来の赤米が真米に代わり、さらにその先の低湿地の方に進んだ新開田地に赤米が作付けされるといった順序で、赤米→真米への転換が開田の順序に伴って繰り返されて来たのではないかと考えられる。
 すなわち、インディカ系の赤米は、沖積平野における新田開発の第1段階において「稲作のパイオニヤとしての役割」を果たしていた。 

 戦国から江戸初期の新田開発は河川や河川の合流地に広く堆積した沖積地を水田化するようになる。これは大規模な工事で、しかもすぐに収穫が期待できるわけではなく、大変リスクの大きい事業であった。そう考えると、開発の順序<用水工事→注水工事→移住→利水工事→作付け>というのはリスクが大きく、すべての武将、大名がこの順序だったとは考えられない。そこで、<治水より利水の方が先だ>との説もそれなりの正当性があるようにも思えてくる。 

 開発の順序、このように初めに百姓が動き、その後大名が大規模治水工事を開始した、という説。歴史というのは見方によっていろんな説が考えられる。武将・大名主導の開発というのが定説のようだが、赤米がこの時代多く生産されていた、ということに注目すると、百姓主導の新田開発説もそれらしく思えてくる。赤米のことを長々と取り上げたのは、歴史にはいろんな見方がある、ということを言いたかったからのこと。

<百姓主導の新田開発も盛んだった>
 戦国時代になってから大河川の安定工事、新田開発が活発になったのは、(1)コメ増産のインセンティブが強くなった。(2)領主の支配地が広くなって大規模な計画を立てられるようになった。(3)領主の支配力が強くなって百姓を動員出来るようになった。などが考えられる。 そして、戦国時代の武将で大河川の安定工事に実績をあげたのは、伊達政宗、武田信玄、加藤嘉明、黒田長政、加藤清正など。 
 上に書かれたことに特別大きな誤りはないと思われる。しかし、これを読むと「武将・領主が権力を用いて百姓を動員して、河川の安定工事や新田開発を行った」と思いこむことになる。
 しかしこの時代、武将・領主の主導ではなく、百姓が自主的に新田開発を行うのも活発だったようだ。 治水が先か?利水が先か? で取り上げたのは、「武将・領主が主導で新田開発を行ったのではない」との主張につながる。
 しかし、この本ではそれ以上に詳しく説明はしていない。そこで、「新田開発は武将・領主が主導で行われた。しかし、それに対する疑問も投げかけられている」というのが定説になってしまう。武将同士の争いが激しくなれば、武将主導の新田開発も行われた、と考えるべきであろう。しかし、それとは別に、百姓主導での新田開発の活発に行われた。どれほど活発であったかと言うと、インターネットで「新田開発」をキーワードに検索すると、実に多くのサイトがヒットする。ヒットしたサイトから、そこに登場する百姓の名前を抜き出して見よう。 

<百姓・町人が大開発を行った>  江戸時代と中世が決定的に違う社会だと思わせる理由のひとつは、世の中に貨幣が行き渡って、あらゆる生産物が基本的に商品として生産されるようになったという点である。そして江戸時代の新しい社会の諸場面を担当したのが百姓・町人である。 
 江戸時代、第1に見るべきは時代の初め全国に展開した田地の大開発である。しかもその開発は、百姓が隣地に鍬を入れたというようなものではない。開発に第3者の資金が投入されたのである。 
 大開発の説明として、戦国大名が勧農策を講じたなどとした書き物に出会う。しかし大名が開発を勧めただけでは田地の開発は一歩も進まない。「経済外的」な強制力で百姓が耕地開発に従事するはずなど元々ないのである。 

 さて、開発のためにはまず測量の技術者がいる。彼らが土地の高低を計り設計図を作ってくれなければ用水路も排水路もできようがない。次に、農具、鍬や鎌などを作る鍛冶屋がいる。そうした技術者や、よそから来た百姓たちを居住させるための建物がいる。その資金、賃金に充てるための資金、開発資材を整えるための資金、そうした手だて講じたとき、初めて耕地の開発が可能になる。そうした資金が整うことが、戦国末期から江戸時代初期の大土地開発の前提だということになる。 

 それゆえ、背景に金銀が世の中に流通し、その金銀が開発資金に用いられることが必要であった。金銀山を開発所有した者が戦国大名となった。戦国大名が新しい世の中を作った、という意味がそこにある。 
 江戸時代初頭の大名は、戦国大名の延長上にある。寛永14年(1637)2月、宮嶋作右衛門という越後高田藩の御用商人(廻船商人)が高田藩に対して1通の願書を提出した。 
 一、頸城(くびき)郡下美守(しもひだもり)郷(現・頸城村)のうち、おおぶけ(大瀁)野谷地を新田に仕立て申すべき旨、毎度申し上げ候、いよい以て、拙者共に仰せつけさせられ候わば、相違なく新田に開発つかまる候 
 
一、新田用水の儀は、「保倉川」をとりいれ申し候、すなわち、用水普請人足など、日雇いの金銀入用は何ほどにても拙者共、自分につかまつるべく候こと 
 「ふけ」というのは越後では湿地のことを言う。保倉川と海岸砂丘との間は当時浅く広い池になっていて、ところどころにある高みに数件の家があった。そうした家は集落の淵にある湿地を水田に耕してきたのであったが、いま、その大瀁野谷地のたまり水を抜いて池全体を干拓し、水田に変えようというのである。これまでも幾度となく開発の申請が藩に提出されたが、資金を藩に頼ったため、話は一歩も進まなかった。
 
 この開発の申請に際して宮嶋は、干拓をすれば田地にかける水が必要で、その用水として保倉川の水を引き上げる必要があるが、その用水路建設の普請人足などの費用は全部開発申請者が負担すること、それゆえ新田のために引く用水路については村々との間で異議が出ないように藩の方で調整してもらいたいこと、新田ができあがったら開発された田地の十分の一を慣例によって開発者に与えてもらいたいこと、もし新田が寛政しないようなことがあったら普請のために潰れた田地(用水路用に使用した田畑)の年貢は必ず開発申請者が納めること、などの条件をつけて開発を願い出たのである。その願い人の内訳は次の通りであった。 

   高田上小町       宮嶋作右衛門 
   上野(こうずけ)国一ノ宮 松本作兵衛 
     同         茂田七右衛門 
     同         茂田喜右衛門 
     同         神戸三郎左衛門 
                   (「宮嶋家文書」) 
 宮嶋を除いてみんな上州一ノ宮(現・富岡市)の牢人者であった(頸城土地改良区『大瀁郷新田開発史』昭和50年)。(中略) 
 大開発時代と言われる江戸時代の初めの50年間は、貨幣資金が初めて「資本」となって田地開発を進めた時代と言ってよい。自給自足の農民が貧困から逃れるために開墾に精を出したとか、権力からの「経済外的」な強制で農民が開発に従事させられたというのは後世につけた理屈である。 (『村からみた日本史』から)

<百姓間の大きな所得格差・資産格差・権力格差>  「江戸時代」を取り扱うとき、「封建時代、百姓には自由が少なかった」とか「社会の動きは基本的に武士階級によって動かされた」「百姓は白米を食べる機会も少なく、アワやヒエが主食だった」などという見方が一般的になりがちだ。それは、「百姓は……」との表現で、百姓間の「格差」を無視して話しを進めるところに問題がある。
 江戸時代、「食うや食わずの水飲み百姓もいたし、新田開発を主導する豪農もいた」。このことを忘れはいけない、と思い、江戸時代を扱う初めに「百姓の間の所得格差・資産格差・権力格差はとれも大きかった」ということをハッキリさせたかったのと、「社会の変革に百姓が部外者であったかのような見方をしないように」と考え、ここ「新田開発」という項目で扱うことにした。

<主な参考文献・引用文献> 
『江戸時代』                 大石慎三郎 中公文庫     1977. 8.25 
『田沼意次の時代』              大石慎三郎 岩波書店     2001. 6.15 
『将軍と側用人の政治』            大石慎三郎 講談社      1995. 6.20 
『江戸時代の先覚者たち』            山本七平 PHP研究所   1990.10.19 
『歴史の見方考え方』              板倉聖宣 仮説社      1986. 4. 7 
『日本史再発見』                板倉聖宣 朝日新聞社    1993. 6.25 
『日本歴史入門』                板倉聖宣 仮説社      1981. 6.15 
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20 
『近世日本の市場経済』大坂米市場分析』     宮本又郎 有斐閣      1988. 6.30 
『日本経済史』経済社会の成立     速水融、宮本又郎編 岩波書店     1988.11.30 
『株仲間の研究』                宮本又次 有斐閣      1938. 5  
『米価調節史の研究』 本庄栄次郎著作集第6冊 本庄栄次郎 清文堂出版    1972.12.20 
『堂島米会所文献集』              島本得一 所書店      1970. 9.25 
『商品先物取引の世界』            河村幹夫他 東洋経済新報社  1983.10.27 
『江戸庶民の信仰と行楽』           池上真由美 同成社      2002. 4. 1 
『百姓一揆とその作法』              保坂智 吉川弘文館    2002. 3. 1 
『太閤検地と石高制』NHKブックス93    安良城盛昭 日本放送出版協会 1969. 7.25 
『近世稲作技術史』                嵐嘉一 農山漁村文化協会 1975.11.20 
『弾左衛門ー大江戸もう一つの社会』       中尾健次 解放出版社    1994.10.15 
『長崎貿易』                  太田勝也 同成社      2000.12.10 
『享保改革の商業政策』            大石慎三郎 吉川弘文館    1998. 2.20 
『赤米のねがい』 古代からのメッセージ     安本義正 近代文芸社    1994. 3.10 
『赤米・紫黒米・香り米』            猪谷富雄 農産漁村文化協会 2000. 3.31 
『徳川吉宗とその時代』            大石慎三郎 中公文庫     1989. 3.10 
『稲』 ものと人間の文化史86           菅洋 法政大学出版局  1998. 5. 1 
『稲の日本史』                佐藤洋一郎 角川選書     2002. 6.30 
『村から見た日本史』              田中圭一 ちくま新書    2002. 1.20   
『明治以前日本土木史』             土木学会 土木学会     1936. 6

(記事引用)
※引用にあたり
 実によく調べ、また整理してあり賞賛にあたいする。大学講義でもここまでやらないだろう。ましてテレビ番組など、聴取率にうつつをぬかしていると、このような実態調査的学術は敬遠される。本当はむしろ逆なのだが。 

先史ギリシア、ペルシア、イラク、オスマントルコなど、文明開化した国家は、一様に農業国であり、豊かな穀物生産を誇っていた。それはすなわち田畑の開墾技術であり、その延長が兵力増強という対の要素であることは、いまさら改めて認識するまでもない。現代社会では、この農業が疎かになり、やたら先端ITと、もてはやされているが、それだって時代の一過性流行であって、時がくれば違ったものにシフトしている。たぶん、将来的にそれが食物生産の農業だということは、人間だったら皆、感じていることだろう。

「TANAKA1942bが江戸時代を経済学」サイト主、さんにはこの場でお礼申し上げる。
2015年10月21日

ペルシャ3