シリコンバレーの秘密の歴史・(1)(2)――祝・シリコンバレー生誕100周年
伝説が現実になったら、その伝説を出版しましょう――リバティ・バランスを射った男
日経コンピュータ) 2012/07/30
今回から、ブランク氏が著した「シリコンバレーの秘密の歴史」シリーズを隔週の予定で掲載します。第1回は、ブランク氏がひも解くシリコンバレーの原点です。
シリコンバレーの起源は、一般に言われる半導体やパソコン関連の企業ではありませんでした。(ITpro)
siliconvalley
 私は、自分が実際に住み、働く場所となったシリコンバレーのことを、常々知りたいと思っていました。アントレプレナーとして自分のキャリアを積む過程で、投資家のベンチャー・キャピタリスト(VC)や友人に 、「アントレプレナーシップはどこから出現したのか」「シリコンバレーはどのように始まったのか」「なぜこの場所だったのか」「なぜこの時期なのか」「“これを実現してやろう”という文化はどのようにして出現したのか」などを尋ねました。答えとして返ってきたリアクションは、私の過去の職務の中で返ってきたものと同様で「そんなことは誰も気にしていない、自分の仕事に戻りなさい」というものでした。

 私が引退した後、カルフォルニア大学バークレー校ハース・ビジネス・スクールのレスターセンター・アントレプレナーシップ課程でディレクターを務めるジェリー・エングル氏が、勇敢にも「顧客開発」手法を私が教える機会を提供してくれました。クラス用の教材を考案しているとき、シリコンバレーの歴史の一端を予習するのは難しくないと思い、私の長年の疑問だったアントレプレナーシップの起源の答えを得ることになりました。

伝説:ヒューレット・パッカード、アップル、インテル

 私は、シリコンバレー関連書籍で人気があるものをすべて読みました。それらの本は、物語としては同じであり複数のバリエーションと言えました。すなわち、半導体企業やパソコン関連企業を創業したアントレプレナーを英雄と見なしているもので、ビル・ヒューレット氏とデイビット・パッカード氏が創業したヒューレット・パッカード(HP)、ボブ・テイラー氏と彼のチームが始めたゼロックスPARC、スティーブ・ジョブズ氏とスティーブ・ウォズニアック氏が創業した米アップル、ゴードン・ムーア氏とボブ・ノイス氏が創業したインテルなどについて書かれていました。

 それらの本は、読者を奮い立たせるものの驚くような内容はなく、人気のある出版社が出した、一般大衆にアピールするためのものだと思いました。それらはすべて、無一文で大胆なアントレプレナーが、万難を乗り越えて創業し、会社を成功させた、面白い読み物です。

 しかし、アントレプレナー文化がどこからやってきたのかについては、誰も書いていませんでした。「半導体やパソコン企業がなぜここで始まったのか」「米国の他の地域や他の国で、“シリコンバレー”がどうして興らなかったのか」について書いた本は、どこにあるのでしょうか。「Regional Advantage: Culture and Competition in Silicon Valley and Route 128」(邦題、現代の二都物語―なぜシリコンバレーは復活し、ボストン・ルート128は沈んだか)以外は、シリコンバレーの地域的利点を説明していません。その理由は、アントレプレナーは常に前進していて、過去をほとんど振り返らなかったからでしょうか。私は、さらに深く知る必要がありました。

事実:真空管バレー――誕生100周年

 私は驚いたのですが、シリコンバレーはパロ・アルト市のガレージで始まりましたが、それはヒューレット氏とパッカード氏のガレージではありませんでした。シリコンバレーの最初のエレクトロニクス企業は真空管のフェデラル・テレグラフであり、もともとはポールソン・ワイヤレスという名前で1909年に創業されました。

 同社のことは、誰も気にも止めなかったし、誰も指摘しませんでしたが、1912年までに同社のリー・ディフォレスト氏はトライアード(真空管増幅器)を発明しました。その当時のスティーブ・ジョブズ氏であり、未来が見える人、すなわち「ビジョナリー」であり、カリスマで、論争の的になる人でした。

 パロアルトにあったフェデラル・テレグラフとリー・ディフォレスト氏が、シリコンバレーの最初の重要なイベント(出来事)です。シリコンバレーの始まりは、ここに設定する必要があります。

 ビル・ヒューレット氏とディビッド・パッカード氏がスタンフォード大学を辞めてHPを始める1937年までに、スタンフォード大学近辺の農園地帯は既に「真空管バレー」になっていました。HPは、エレクトロニクス・テスト機器(電子検査機器)を開発製造しており、リットン、エイテルやマックローなど、業績を上げている少数の企業の一社に加わりました。

 HPが始まった1930年代の終わりころには、真空管を開発していた、数百人程度の小規模なエンジニアグループが、電子機器製造、プロダクト・エンジニアリング、技術マネジメントなどの、シリコンバレーのエコシステムの中核になりました。

誰に予想できたのでしょうか?―
―マイクロウェーブ・バレー、1950年代と60年代

 第二次世界大戦中とその後のシリコンバレーに関して書かれた資料はあまりありません。戦後と1950年代のシリコンバレーの話のほとんどは、真空管企業の成長とHPの発展に関するものです。よく読まれている文献によると、1960年代のシリコンバレーは、ショックレー、フェアチャイルド、シグネティックス、ナショナル・セミコンダクター、インテルなどによる半導体革命で活気づき、1970年代中ごろには、パーソナル・コンピュータ(PC)が出現します。

 しかしながら、私はより多くの文献を読めば読むほど、1950年代と1960年代に関して一般的に知られているシリコンバレーの歴史は不完全であり、間違っていることに気づきました。現実には、メディアに注目されることもなく、シリコンバレーの歴史文献に載ることもない多くの企業に対して、巨額の資金が支払われたのです。電磁スペクトラム関連で、マイクロウェーブに関する部品やシステムに特化している企業が、シリコンバレーの果樹園の果物(訳者注:アプリコットやプルーン)よりも早く芽を出しました。1950年代の初めから1960年代の初めの10年間で、マイクロウエーブ関連企業の雇用が、700人から7000人に急増しました。

 1950年代と60年代のスタートアップ企業(ワトキンス・ジョンソン、ヴァリアン、ハギンス・ラボ、MEC、スチュアート・エンジニアリングなど)は、マイクロウエーブ用の目覚ましい種類の新しい部品(パワーグリッド・チューブ、クライストロン、マグネトロン、バックワードウエーブ・オシレーター、トラベリングウエーブ・チューブ、クロスフィールド・アンプリファイヤー、ジャイロトロンなど)を製造していました。シリコンバレー全域にわたって、これらマイクロウエーブ用の部品は、米国の軍事目的用システムを製造している新規企業(シルベニア・エレクトロニクス、国防省の研究所、グレンジャー・アソシエイト、フィルコ、ダルモビクター、ESL、アーゴシステムなど)の製品に組み込まれました。1950年代と60年代は、興りつつある半導体やコンピューターの企業よりも、これらの企業によって多額の資金がつぎ込まれたのです。

 1950年代にシリコンバレーのエンジニア数が10倍に増加したのは、半導体ブームが起こる前に、軍関連とマイクロウエーブの需要があったからでした。これらのマイクロウエーブ関連のエンジニアは、大企業ではなくスタートアップ企業で働いていました。しかも彼らの仕事は軍事秘密だったので、誰も知りませんでした。

 バックワードウエーブ・オシレーター、TWT、マグネトロンなどのマイクロウエーブ部品の変わった名前を見たとき、忘れていたかつての記憶が蘇ってきました。これらの部品は、私が働いていたエレクトロニクス戦闘機器の心臓部に入っている主要部品であり、タイでの戦闘機やB-52重爆撃機に入っていました。20年後になって、このストーリーが私の元に帰ってきたのです。

革新はテレビで放映されませんでした

 シリコンバレーで、どうしてこのように爆発的な革新が創造されたのでしょうか。1950年代に、何がこのマイクロウエーブのスタートアップ文化を創造したのでしょうか。1950年代と1960年代にはVCが無かったので、資金はどこから出てきたのでしょうか。このスタートアップ・ブームは、突然どこからともなく現われたようにみえました。それが、ここシリコンバレーでなぜ起こったのでしょうか。どうして軍は、突然マイクロウエーブに関心を持ったのでしょうか。

 その答えの一部は、これらの会社と軍が何らかの関係を結んだからでした。加えて、スタンフォード大学の工学部が、これらのすべての出来ごとに絡んでいたようです。冷戦時に、軍/産業界/大学の関係、特にスタンフォード大学と情報機関との関係が秘密裏に形成されており、それは一般の目には触れることはありませんでした。

 私が読んだ文献には、開発された具体的な製品が何であったのか、スタンフォード大学の貢献が何であったかなどについては書かれていませんでしたが、真の顧客が誰であったか(ヒントは、軍だけでは無いということです)、どうしてこの作業がスタンフォード大学で行われたのか、興味をかき立てる示唆がありました。

 それが、すべての中心にいた、ある一人の人物を指していたとは、誰も知りませんでした。その人とは、スタンフォード大学のフレッド・ターマン教授でした。スタンフォード大学と米軍、そして情報機関が、今ではシリコンバレーで当たり前と考えている、アントレプレナー文化を始めたのです。

 この「シリコンバレーの秘密の歴史」シリーズの次回は、「フレッド・ターマン教授の秘密の人生」と「スタンフォード大学は冷戦を戦う」をお伝えします。

(2009年4月20日オリジナル版投稿、翻訳:山本雄洋、木村寛子)

「スティーブ・ブランク」著者紹介
 スティーブ・ブランク  シリコンバレーで8社のハイテク関連のスタートアップ企業に従事し、現在はカリフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学などの大学および大学院でアントレプレナーシップを教える。ここ数年は、顧客開発モデルに基づいたブログをほぼ毎週1回のペースで更新、多くの起業家やベンチャーキャピタリストの拠り所になっている。著書に、スタートアップ企業を構築するための「The Four Steps to the Epiphany」(邦題「アントレプレナーの教科書新規事業を成功させる4つのステップ」、2009年5月、翔泳社発行)がある。

シリコンバレーの秘密の歴史(2)――第二次世界大戦の映画は、すべて間違っている
2012/08/20
 ブランク氏が著した「シリコンバレーの秘密の歴史」シリーズの第1回では、シリコンバレーの起源が、一般に言われる半導体やパソコン関連が開発された1960年代ではなく、第2次世界大戦やそれ以前までさかのぼることを紹介しました。今回は、その中心となっている人物の登場背景を記しています。(ITpro)

 このブログは、私が書き始めた「シリコンバレーの秘められた歴史」の第2章です。このシリーズの第1章と、このタイトルのビデオとスライドを見ていただけると、内容がより理解しやすくなると思います。

 シリコンバレーの秘密の歴史という“パズル”の次の一片は、私がトム・バイヤーズ氏やティナ・セリッグ氏、マーク・レーズリー氏たちに、スタンフォード大学の工学部のスタンフォード・テクノロジーベンチャー・プログラムでアントレプレナーシップを教えないかと誘われたことに起因します。そして、私のオフィスはターマン工学部ビル内にあります。

フレッド・ターマン――その経歴

 私はターマン教授のことを聞いてはいましたが、実際に何をした人なのかまでは知りませんでした。彼の自伝によると、彼は1930年代の非常に著名なラジオ・エンジニアであり、その分野の教科書を書いた、まさにその人だということでした。彼は、生徒であるビル・ヒューレット氏とデヴィッド・パッカード氏が1939年に会社を創業するのを支援しました。第二次世界大戦中は、ハーバード・ラジオ研究所の所長でした。彼の自伝には、第二次世界大戦後の活動が書かれています。1937年には電子工学部長、1946年には工学部長、1955年には学術担当責任教授(プロボースト)に就任します。1954年に、彼はスタンフォード・オナーズ・コープを開始し、シリコンバレーにある会社のエンジニアたちが、スタンフォード大学院工学部で授業を受けられるようにしました。

 私は、シリコンバレーの歴史とアントレプレナーシップ、そしてターマン教授に興味を持っていたので、1950年代と60年代にシリコンバレーに設立された多数のマイクロウエーブ企業に、ターマン教授が深く関与していたことを知り始めました。しかし、どうやって関与しだしたのでしょうか。そして、その理由は何だったでしょうか。

 そこで私は、マイクロウエーブ開発に関係のある文献を手当たり次第に読み始めました。その結果、第二次世界大戦中のレーダーの歴史に、私を引き戻しました。この話を、あなたは知らないかもしれません。

第二次世界大戦はシリコンバレーと、どういう関係があるのですか?

 簡単に歴史を振り返ってみましょう。1941年12月に日本は真珠湾を攻撃し、ドイツは米国に宣戦布告しました。ソ連が東ヨーロッパで大掛かりな地上戦をドイツに対して展開しているとき、1944年6月に連合軍が西ヨーロッパを侵略するまでに米国と英国がドイツの戦力に対抗できる方法は、英国本土から戦略的な爆撃キャンペーンをすることだけでした。連合軍の狙いは、ドイツが戦争を遂行するのに必要な主要なインフラ施設を空爆で破壊し、ドイツの戦争遂行能力を破壊することでした。

 連合国の空爆のターゲットは、ドイツの石油施設、航空機製造施設、化学製品製造施設、交通施設などでした。米国と英国は役割分担し、英国は夜間、米国は昼間に空爆したのです。
(記事引用)

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