無投票続出の地方選を救う教訓は
山縣有朋の「住民自治」にあり
松元 崇 [元内閣府事務次官/第一生命経済研究所特別顧問] 
【第5回】 2015年5月8日ダイヤモンド

統一地方選挙で無投票が続出 原因は戦後の地方自治の仕組み
日本の統一地方選の投票率は、低下の一途を辿っている。制度の構造的な課題は、どこにあるのか
 
 先の統一地方選挙は、町村長選挙の無投票が43.4%、町村議選でも21.8%が無投票(朝日新聞/2015年4月22日付)。投票率も軒並み最低(読売新聞/2015年4月27日付)というものであった。地方自治は「民主主義の学校」と言われるが、それが危機的と言ってもいい状況になってきている。かつては「出たい人より、出したい人を」などと言っていたが、今や「出たい人」もいなくなってきているのである。

 筆者は、その1つの原因が、憲法が定めた戦後の地方自治の仕組みだと考えている。というのは、戦前には「出たい人より、出したい人を」という流れがあったからである。実は、地方自治に造詣の深い塩野宏・東京大学名誉教授も、日本国憲法に問題があるとすれば、国政の基本を定めるべき憲法において、地方自治体の基本構造を規定してしまったことであろう、としているのである。

 憲法は、地方自治をその本旨に基づいて法律でこれを定めるとしているが、93条2項で「地方公共団体の長、その議会の議員(中略)は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」と規定した。立法者の意思は、それによって日本の民主化を図ろうとしたのであろうが、町村長まで直接選挙にしたことには無理があった。

 というのは、米国でもそうはなっていないからである。米国は「地方自治の実験場」とも言われる国で、町村長が直接公選の地域もあれば、町村議会によって選ばれる地域もある。他の国でも、英国やフランスの町村長は、町村議会で選ばれているし、日本と同様に敗戦国だったドイツの場合も、公選の議員からなる評議会が選任した参事会が行政を行うケースや、参事会の議長が首長になるケースなどと様々である。

 わが国の近代的な地方自治制度は、明治21年の町村制に始まるが、そこで導入された制度は、町村会が町村長を選出するというものであった。そして、町村長を選出する町村会議員は、立候補なしに町村会議員に選ばれ、選ばれれば拒否できないとされていた。それは、立候補などしなくても誰を地域の議員にすべきかを皆が知っており、皆から選ばれれば当然に引き受けるという仕組みであった。

 選ばれたのに辞退すると、公民権停止や市町村税の増課等の厳しい処分が待っていた。立候補制がなかったのは府県会も同じで、そのような制度の下、第1回の東京府会選挙では、福沢諭吉や大蔵喜八郎、安田善次郎などが当選して活躍している。
 (画像と記事はリンクしない)
IMG_6870 ちなみに、国政選挙(帝国議会議員選挙)では候補者制度が導入されたが、その場合でも本人の届け出以外に選挙民による推薦届け出があり、本人が知らないうちに選出されることがあった。「出たい人より、出したい人を」だったのである。

「出たい人より出したい人を」 だった明治時代の地方選挙

 それがどのような選挙だったかについては、国政選挙の例であるが、その実態が岡崎邦輔氏の『憲政回顧録』に紹介されている。

 「このとき(第1回と第2回の帝国議会選挙)は、まだ選挙に対して不正手段を用いて、これを腐敗堕落させるなどということを知らなかった(中略)。全国各地とも、地方第一流の人物を挙げ、藩閥官僚に代わって、直ちに国政を託するに足る人材を目標に、各候補者を選定したものである。(中略)われから進んで候補者として名乗りを上げる人間などは、品性劣等、士人のともに遇すべからざる者として排斥され、かえって選挙されることを迷惑がるような立派な人物を、無理やりに選挙民が担ぎ上げるという有様であった。中には本人の知らぬ間に、当選したものもあれば、本人の承諾なしに選挙してしまったものなどもたくさんあった。費用なども多くは、有志家の自弁で、候補者自身は一文も出さず、全部選挙民の負担したものなど至る所にあった。(中略)その実際は、驚くべく金の要らぬものであった。」

 選挙に金がかかるようになったのは、大正3年の大隈内閣が行った総選挙以来とされている。2個師団増設問題に反対した政友会を潰すために大選挙干渉が行われ、その際、財閥に声をかけて金を集めて候補者に渡すということが行われた。以降、選挙ブローカーが目立つようになり、選挙の金を着服して家を建てたの、妾宅を構えたのというような噂が出るようになった。

 大正7年から原敬内閣が推し進めた地域活性化を重視する政治も、選挙の利権化をもたらし、金がかかる選挙を加速した。「出たい人」による選挙の弊害が目立つようになっていった。そのような事態を是正すべく選挙浄化運動が繰り広げられ、戸別訪問の禁止などの様々な選挙運動取り締り規定が導入された。

 注目すべきは、そのような選挙運動取り締り規定が、町村会選挙には導入されなかったことである。誰を地域の議員にすべきかを皆が知っているということは、普通選挙制度(大正14年)が導入されて選挙人の数が大幅に増加すると、建前に過ぎなくなっていく。そこで大正15年には、府県や市には国と同様の立候補制が導入された。しかしながら、そのときにも町村会には立候補制が導入されず、「出たい人より出したい人を」の選挙のままだったからである。

 そのように、「出たい人より出したい人を」の選挙に拠っていた町村会制度は、明治の元勲・山縣有朋によって創設されたものであった。その前史には色々と興味深いことがあるが、それは別の機会に譲ることとして、ここでは勝海舟の言葉だけをご紹介しておくこととしたい。

 勝海舟は明治26年、「地方自治などいふことは、珍しい名目のやうだけれど、徳川の地方政治は、実に自治の実を挙げたものだヨ。名主といひ、五人組といひ、自身番(警察)といひ、火の番(消防)といひ、みんな自治制度ではないかノー」(『氷川清話』講談社学術文庫、P242)と述べていた。

山縣有朋がつくった住民自治の基礎 「立憲制の学校」にするための工夫

 明治の元勲・山縣有朋が創設した地方自治というと、いかにも中央集権的な制度だったように思われるが、山縣は日本に勝海舟が言う「実に自治の実を挙げた」徳川の地方政治の伝統を引き継いだ制度を導入し、それを立憲制の学校にしようと考えていた。それを象徴しているのが、市町村会の選挙資格が極めて緩やかだったことである。

 市町村会の有権者は、満20歳以上(被選挙権は満25歳以上)の男子でその町村に居住して地租を納め、または直接国税2円以上を納めていればよいとされた。地租さえ納めていれば、その多寡は問われなかった。それは、帝国議会選挙や府県会選挙の有権者が直接国税15円以上(府県会は5円以上)とされて厳しく制限されていたのとは全く異なった姿であった(注)。

 帝国議会選挙における選挙資格は、明治33年に15円から10円に、大正8年に3円にとだんだん引き下げられていくのであるが、その土台に最初から納税額の多寡を問わない町村会選挙があったのである。

 町村会を立憲制の学校(住民自治)にするための工夫としては、納税額の多寡を問わない選挙資格の他に、等級選挙(町村議会)や複選制(府県議会)があった。ともに耳慣れない言葉であるが、等級選挙は市町村会が納税者という株主で成り立っている株主総会だったと思えば、なるほどというような仕組みで、大正15年の普通選挙制導入まで行われた。複選制は、米国の大統領選挙のようなものであった。

 等級選挙は、有権者を町村税納税額の多い者から順に、当該市町村の納税総額の半額(市では3分の1)に達するまでの者を1級選挙人、それ以下の者を2級選挙人(市の場合は3級に区分)と区分し、区分ごとの選挙人がそれぞれ議員定数の半数(市の場合は3分の1ずつ)を選出するものであった。それは、株主総会で大株主がより多くの取締役を選任できるような仕組みであった。市町村のいわば大株主である多額納税者に、より多く市町村行政に関与する権利を持たせて立憲制の学校にしていこうとしたのである。

(注)当時、直接国税を15円以上納めていたのは45万3000人(全人口の1.1%)、5円以上納めていたのは400万人であった。

なお、当時の市町村会選挙では多額納税者(納税額が市町村の上位3人の多額納税者よりも多い者)であれば、非居住者や未成年者、あるいは女性、会社その他の法人にも選挙権を認めていた。これも、市町村会が株主総会のようなものだったと考えれば、なるほどと理解できよう。

 府県会議員の複選制は、地方というよりも国の出先機関であった府県(その前身は江戸時代の藩という「お上」)の議会の選挙にも、江戸時代以来の自治体である市町村会の議員を関与させようとしたものであった。米国の大統領選挙では、州ごとに選出された選挙人が大統領を選挙しているが、市町村議会議員を府県会議員の選挙人にしたのである。

 しかしながら、この複選制は短命に終わる。それは今日の感覚で言えば、複選制がうまく行き過ぎたからであった。政府は、複選制の導入によって、明治10年代の自由民権運動で荒れる存在になった経緯のある府県会を落ち着いたものにできると考えていたが、そうはならなかったのである。

 複選制となっている米国の大統領選挙がフィーバーすることはよく知られているが、同様のことが起こってしまった。市町村会議員選挙に、米国の予備選挙のような過熱がもたらされ、落ち着くどころではなくなってしまったのである。結局、府県会議員の複選制は、導入約10年後の明治32年の改正で廃止され、府県会議員は直接国税3円以上を納める者の直接選挙とされた。

明治政府の試行錯誤に見る 「民主的な選挙」の難しさ

 明治政府が、複選制を導入したり廃止したりしたことは、今日から見れば滑稽にさえ見える。しかしながら、立憲政治の成熟を待たずに行われる民主的な選挙は危険なものである。そのことは、香港の選挙制度が、中国政府によって民主派が立候補できないように改められようとしていることからも、うかがうことができる。今日でも中国を初めとした多くの途上国では民主的な選挙は行われていないのである。

 民主的な選挙の導入がいかに難しいかを指摘していたのが、フランス革命がナポレオンの専制をもたらした時代を生きたトクヴィルであった(『アメリカの民主主義』)。トクヴィルは次のように述べている。

 「それまで参政権をもたなかった人民にこれを与える瞬間は、疑いなく危機の時である」「この点はいくら言っても言い過ぎではない。自由である術を知ることほど素晴らしいことはないが、自由の修業ほどつらいこともまたない。専制はこの反対である。往々にしてそれは多年の苦しみを癒すものとして登場する。権利を支え、抑圧された者を助け、秩序の礎をおく。人民は専制が産み出す一時の繁栄に眠り込み、目を覚ましたときには悲惨な境涯におかれている。自由は逆に、激動の中に生まれるのを常とし、国を分裂させて容易に根づかない」

 「人民が武装して公共の広場に集まって長を選ぶ場合には、(中略)このような選挙の仕組みから生ずるあらゆる内戦の危険にもさらされる」

 そして、民主的な選挙制を導入していたアメリカのケースは例外で、それは「アメリカは外国による征服を少しも恐れる必要がなかった。アメリカの立法者はこうした恵まれた状況のおかげで、(中略)執行権を弱く従属的につくっておけば、これを選挙制にしても危険は無かった」としている。

 明治政府が当時直面していたのは、西欧のアジア・アフリカ植民地化の流れの中で「外国による征服を」大いに恐れなければならない状態であった。そのような中で、明治政府は町村制などについての試行錯誤を行っていたのである。

町村長にも認められた専決処分 効率的な団体自治の観点が登場

 そのようにして導入されたわが国の町村制は、日露戦争後、町村への国からの委任事務が多くなる中で、行政能力向上のために効率性を重視する方向へと舵を切っていく。明治44年の町村制改正では、町村長の権限を強化すると共に、国の委任事務を町村が執行しない場合の代執行の規定が設けられた。町村長の権限が強化されたことは、それまで「町村会ハ其町村ヲ代表シ」とされていたのが、「町村長ハ(中略)町村ヲ代表シ」とされたことに象徴されている。

 当時、町村会によって選出されていた町村長は、今日国会で選ばれる首相と同様の位置づけにあった。その仕組みの下に、今日国会が国権の最高機関とされているのと同様に、「町村会ハ其町村ヲ代表シ」とされて、町村会が町村のいわば「最高機関」とされていた。それが変更されたのである。

 効率的な行政推進の観点からは、町村長に新たに専決処分が認められた(町村制75条)。専決処分は、それまで国の出先との位置づけだった府県知事には認められていたが、町村長には認められていなかった。それが認められたのである。

 ただし認められたと言っても、それは府県の場合よりはかなり限定されていた。府県の場合は、もともと府県会の議決事項が財務に関する6項目だけに限定されていたため(制限列挙主義)、その他の事項すべてについて府県知事の専決処分が当然に認められていた。それに対して町村では、原則としてすべての事項について町村会が議決できることになっていたので(概括主義)、町村長の専決処分は町村会が議決すべき事案を議決しないといった場合にのみ行うことができることとされた。

 また、市町村長に対する市町村会の権限の強化も同時になされた。町村会の議員は、それまで予算以外の案件について発案権が認められていなかったが、それが認められたのである。

実は、このような改正を主導したのは平民宰相と言われた原敬であった。原は「行政自治能力を公費国費で養成した退職官吏」を町村長に充てることが「地方の発達」にとっても益するところが大きいと述べていた。「藩閥官僚」に反発するという時代ではなくなっていたのである。

 効率的な行政の実現という観点は、大正デモクラシーの流れの中で、国・県の権限を市町村に下ろすといった形で、地方自治(団体自治)を推し進めることになっていく。大正15年の市制・町村制改正では、市町村への知事の許認可事項が大幅に整理され、町村長の町村会による選任についても、それまで必要とされていた県知事の認可が不要とされた。内務大臣の許可は、それまでの原則許可制が、原則許可不要とされた。

地方自治の歴史の逆転と 市町村長にまで直接選挙を 義務付けた日本国憲法

 このような地方自治強化の流れは、先の戦争によってご破算になってしまう。昭和18年2月、日本軍がガダルカナル島から撤退を強いられ、9月にはイタリアが降伏するという流れの中、同年3月、東条内閣は総力戦体制を強化するために、市町村長への国の監督を強め、市町村会を名存実亡のものとする地方制度改正を行った。

 町村長の選任には再び知事の認可が必要とされ、内務大臣や知事に町村長や収入役の解職権が与えられた。国から選任の認可を受け、解職されるような町村長は、住民の代表というよりも、もはや国の代理人(国の末端行政機関)になってしまった。

 またこのときの改正で、それまで原則としてすべての事項について議決ができた町村会が、府県会の場合と同様に制限列挙した事項にしか議決できないこととされ、列挙された以外の「軽易な事項」についてはすべて市町村長が専決処分できることとされた。そして、それまで立候補制が導入されていなかった町村会選挙にも立候補制が導入されたのである。それは、立憲制の学校としての歩みを進めてきたわが国の地方自治の歴史の歯車が、戦争遂行のために大きく逆回転した姿であった。

 日本国憲法制定にあたって、米国の担当者が見ていたのは、このようになってしまったわが国の地方自治の姿であった。そこで、国の代理人になってしまった町村長を住民の手に取り戻すという観点から、住民による直接選挙ということにしたのであろう。

 しかしながら、そこには米国においても必ずしも町村長が直接選挙で選ばれているわけではないといった知識が欠けていたように思われる。その結果、今日のわが国の地方選挙で、町村長の無投票が43.4%という姿になってしまったというのが、筆者の考えである。この点については、国政選挙よりも地方選挙の方が投票率が高い(75%程度)フランスの現状と比較してみるとよくわかるのであるが、紙幅も尽きたので、それは次回に譲ることとしたい。
(記事引用)