決して潰しませんという銀行の確約
森本紀行  |HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長
2016年1月14日 10時56分配信
企業経営に浮沈はつきものです。故に、銀行にとって、多くの融資先企業のなかには、少数とはいえ、経営不振に陥り、破綻の危機に瀕するものがでることは、避け得ません。このとき、古くから銀行経営の究極の難問とされてきたことは、どこまで破綻回避へ向けた支援をするのかということです。さて、決して潰さないという確約は、銀行にとって可能なのか。
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雨が降ったら傘を取り上げる

融資先企業の経営不振に対して、銀行は、どのように対応すべきか、これは、非常に古く、かつ、難しい問題です。論点は、業況の悪化が一定の水準を超えると、銀行としては、与信判断を債務者に不利な方向へ変更せざるを得ない一方、そうすれば、債務者の業況の悪化を加速させてしまう可能性があるという矛盾に集約されます。
この矛盾は、古くから、銀行の融資姿勢を批判的に皮肉るものとして、晴れには傘を貸し、雨が降ったら傘を取り上げる、というふうに表現されてきました。これでは、確かに、傘としては役に立たないのですが、これが銀行批判としての意味をもつためには、銀行とは、雨が降るときに傘を差し出すもの、即ち、企業の業況の悪いときには、金融支援をするのが銀行の責務だ、ということを前提にしなければなりませんが、さて、銀行とは、そのような社会的責務を負うものなのか。
亀井静香先生の思い
実は、かつて、民主党政権下で、亀井静香金融担当大臣は、そのように主張し、そのように行動したという事実があります。
2009年、前年の世界的金融危機をうけた景気後退期において、業況が悪化した中小企業等の救済は、大きな政策課題とされました。そこで、亀井静香先生は、「中小企業金融円滑化法」(正式には「中小企業者等に対する金融の円滑化を図るための臨時措置に関する法律」)の制定に強い意欲を燃やしたのです。
この法案は、景気後退の強い影響を受けた中小企業等について、業況等の客観的基準からすれば、正常な債務者と位置付けることが困難な状況にある場合においても、銀行等が積極的に条件緩和等の措置を行うこと、即ち、傘を差し出すことを努力目標として定めたものです。法律は、実際に、2011年3月末までの時限法として、2009年末に成立し、結果的には、2013年3月末まで延長されて、そこで失効しました。

当然のこととして、当時、この法律を巡っては、賛否両論が激しく対立しました。
反対論は、金融の理論、銀行等の経営の健全性、金融秩序の維持等の見地に基づき、企業の業況等の客観的基準に従い、厳格に融資条件等を適用すべきであり、そのことにより、結果的に破綻に追い込まれる企業がでても、それこそ、産業の新陳代謝であり、産業構造改善を通じた効率化等による経済への好影響が最終的には上回るはずだ、というものです。
それに対して、賛成論は、経済政策の立場からすれば、金融の社会的機能とは、一時的な景気後退期においてこそ積極的な融資姿勢をとることで、企業破綻を未然に防止し、更なる景況悪化をくい止め、早期の景気回復に貢献することだ、というものです。
銀行経営のあるべき姿

では、賛成、反対、どちらに理があったのか。事案は、政治性を帯びるもので、理論的に黒白がつくとも思えませんが、金融規律に法律が介入することは、極めて異常な事態であり、また、資本主義経済体制に内在する原理からすれば、自由競争に基づく淘汰を通じて、社会全体の経済効率性を実現しつつ、成長することが前提されている以上、金融界としても、産業界としても、反対の立場をとるべきものであったと思われます。
ただし、民間銀行の融資判断に政治的に介入することは、経済政策の視点とはいえ、明らかに不適切で異常なことだとしても、銀行経営の本来あるべき姿として、銀行自身の中長期的な企業価値の問題として、融資先企業の業況の悪化に対して、どう対応すべきなのかは、全くの別問題であるといわざるを得ません。

実際、業況の悪化が景気変動に伴う一時的なものだとしたら、表層的な経営指標の悪化だけで、安直に融資判断を変更させることは、不適当であると考えられます。不適当という意味は、そうすることで、企業を破綻に追い込んでしまえば、なによりも、銀行自身の損失であるということと、淘汰による産業の効率化とはいっても、不況抵抗力の強さだけでは、企業の真の価値は測り得ないということです。
また、仮に、業況の悪化が、一時的なものではなくて、構造的なものだとしても、単に破綻に追い込めば済むというものでもなく、そこにある人材、技術、資産、知名度、歴史などは、別の環境で、別の条件下で、別の利用方法で、有効に活用し得るものも少なくないはずで、まさに、そのような資源の再配置こそが産業効率化の実質的な意味だとしたら、銀行として、融資を超えた支援の方法があり得ると考えられるのです。
「事業性評価に基づく融資等」

では、業況の悪化が、一時的なものなのか、構造的なものなのか、銀行に判断できるものでしょうか。また、支援といったときに、高度に規制された銀行として、一体、何ができるのでしょうか。
銀行として、融資先企業の業況について、表層的な数字を超えて深く経営実態を理解しない限り、支援すべきかどうか、支援すべきとして、何をすべきか、判断できないはずなのです。実は、この点は、現在の金融庁において、「事業性評価に基づく融資等」という表現をとって、問題提起されていることです。
事業性評価というのは、企業の過去の事業活動を反映した財務諸表に現れる表層的な数字の評価ではなくて、企業が営む事業の現在と将来に関する評価ですから、当然に、財務諸表には未だ現れてこない情報から融資判断することを意味します。つまりは、死んだ数字ではなくて、生きた活動を評価して、それを融資判断につなげるということです。
こうした事業性評価に基づけば、業況の悪化について、一時的なものか、構造的なものかは、判断が可能なはずで、2009年のような経済状況においても、「中小企業金融円滑化法」のような政府の過剰介入を待つまでもなく、銀行自身の利益と顧客の利益の視点において、支援されるべき企業と、そうでない企業の選別は、十分に合理的になされ得たのでしょう。

そのような視点から、亀井静香先生を再評価するならば、経営の実態をみず、表層的な数字しかみない銀行に対して、今の金融庁の用語でいうところの事業性評価を努力目標として課そうとされたものと、いえなくもないでしょう、その評価が多分に好意的にすぎるとしても。
銀行としての支援のあり方
要は、事業性評価に基づけば、経営の問題点も特定できるので、適切な支援の方法も工夫できるということです。徹底した事業性の評価に基づけば、一時的な経営不振についても、構造的な経営不振についても、それぞれに、適切な支援の方法が明らかになるはずなのです。
もちろん、支援とはいっても、高度に規制された銀行には、業として、できることは限られます。例えば、商品の販売政策、内部管理体制、生産工程等に、企業経営の問題点を発見したとして、銀行にできる助言や支援は多くはないかもしれません。しかし、支援できる専門家を紹介することはできます。

また、銀行の専門分野として、保有資産の合理化、債務の削減、資本の増強、事業の譲渡や承継等、適切に助言できる分野は広いですし、銀行自身では実行できない不動産の処分等や外部資本の導入等については、外部の専門家との連携が可能です。
そうした支援の一環として、銀行自身としても、融資残高の維持や条件緩和等も必要になるでしょうが、周辺の支援が適切になされている限り、それらは不良債権の予備軍ということでは決してなく、立派な正常債権として、位置づけ可能なものになるはずです。
加えて、支援の継続のなかで、一定の顧客の再編等はあるにしても、銀行として、融資先の確保が図られ、そのなかから、新規融資機会も開発できれば、それこそ、まさに、銀行の利益であるはずなのです。

支援の確約

ここで、論点は、どうすれば、銀行として、企業経営の生きた実態を把握できるのか、ということですが、実は、その答えが表題の意味です。つまり、銀行として、決して潰しませんという確約をすること、即ち、支援を確約することによって、企業の生きた実態を知り得るようになるのです。この理屈は、銀行と債務者である企業との関係を、医師と患者との関係に比較して考えれば、すぐにわかることです。
債務者である企業は、当然のこととして、銀行との円滑な関係を維持できるように、意図的に行動する傾向をもちます。具体的には、業況の改善は、それを示す証跡とともに、積極的に銀行に伝えても、経営の悪化については、それを示す証跡を隠し、銀行に覚られないようにするでしょう。これでは、銀行として、適切なときに、適切な支援をしようとしても、そもそも、きっかけを得ることができません。
銀行として、適切に事業性を評価し、適切な支援の方法を工夫できるためには、業況の悪化について、債務者が早期に相談に来るように仕向けなければなりませんが、その結果として、融資条件等の不利益な変更を予想するなら、即ち、傘を取り上げられるのでは、誰も、そうはしません。
それに対して、患者は、最適な治療を得るために、体の悪いところを包み隠さずに医師に報告します。それは、最適な治療の提供が医師の職業上の義務として、確約されているからなのです。同様に、債務者が悪いところを包み隠さずに銀行に報告するためには、銀行として、債務者に支援が確約されていなければならないのです。

フィンテックの射程

もちろん、事業性評価をテクノロジーで実現することも不可能ではないでしょうから、その方向にフィンテックの重要な可能性が潜むことは間違いありません。例えば、融資先企業の日々の膨大な取引実態の解析から、業況の変調の先行指標を取り出すことは、技術的に可能のように思えます。医療に喩えれば、患者からの積極的な情報提供がなくとも、高度な検診技術のもとでは、的確に体の変調を突き止め、早期に最適な治療を施すことも、可能になるのでしょう。
しかし、医療の根本にあるのは、医師と患者との間の信頼関係、というよりも、より高度な信認関係、即ち、フィデューシャリー関係であり、患者の生きることへの強い意志です。こうした心的なものがなければ、テクノロジーによって正しく病因が突き止められ、適切な治療方法が発見されても、患者として、治療を受け入れることはないでしょう。
同様に、企業経営において、基礎にあるのは、働く人、取引先、そして何よりも、経営者なのであって、それらの人の心抜きには、また、銀行と債務者である企業との間の関係、信認関係へまでは高め得ないにしても、とにかく強い信頼関係抜きには、いかなる支援策も有効には機能し得ないと思われます。
テクノロジーは、道具です。いかに強力で有能な道具であっても、所詮は道具であって、使う人間の人的能力に従属するものです。

最善を尽くす義務

当然のことながら、銀行は、支援を確約しても、成果は保証できません。銀行は、収益事業として、支援を行うのであって、慈善事業を行うのではありませんから、厳格な金融規律のもとで、一切の支援を打ち切らなければならない局面もあるのです。それは、医療においても、治療し得ない能力の限界を超えた領域があるのと同じです。
問題は、最善が尽くされたかどうかです。医師として、最善を尽くしたといえる限り、治療し得なかったとしても、患者も遺族も納得できるのであって、治療の確約は成就したのです。銀行として、最善を尽くしたといえる限り、支援し得なかったとしても、経営者も従業員も納得できるのであって、支援の確約は成就したのです。
(記事引用)