日本芸能史六講/折口信夫 著
民俗学者の折口信夫さんは日本藝能の歴史を発生学的に論じた『日本芸能史六講』において、<藝能はおほよそ「祭り」から起つてゐるものゝやうに思はれます>と述べています。また、この「祭り」は饗宴といったほうが適当かもしれないとも言っている。かつては祭りそのものが宴会の形をなし、客人(マレビト)を饗応の御馳走で招くものだったからです。

このまれびとに対して対蹠の位置にある人があるじです。このあるじといふ語は、吾々は主人といふ風に考へ易いが、もとは饗応の御馳走のことを言うた語です。つまり来客の為に準備しておいた御馳走を、その客にすゝめることをばあるじすと言うてゐますが、御馳走をすゝめる役が、主人だつたのでせう。そしてこのことから、主人をあるじと言うやうになつたのです。
折口信夫『日本芸能史六講』

+++ +++ +++

神道の史的価値  折口信夫 著
 
長い旅から戻つて顧ると、随分、色んな人に逢うた。殊に為事の係りあひから、神職の方々の助勢を、煩すことが多かつた。
中にはまだ、昔懐しい長袖らしい気持ちを革めぬ向きもあつたが、概して、世間の事情に通暁した人々の数の方が、どらかと言へば沢山であつたのには、実際思ひがけぬ驚きをした。
此ならば「神職が世事に疎い。頑冥固陋で困る」など言ひたがる教訓嗜きの人々の、やいた世話以上の効果が生じて居る。而も、生じ過ぎて居たのは、案外であつた。
社地の杉山の立ち木何本。此価格何百円乃至何千円。そろばん量りの目をせゝる事を卑しんで、高楊枝で居た手は、新聞の相場表をとりあげる癖がつきかけて居る。所謂「官クワンの人ヒト」である為には、自分の奉仕する神社の経済状態を知らない様では、実際曠職と言はねばならぬ。

併しながら此方面の才能ばかりを、神職の人物判定の標準に限りたくはない。又其筋すぢの人たちにしても、其辺の考へは十二分に持つてかゝつて居るはずである。だが、此調子では、やがて神職の事務員化の甚しさを、歎かねばならぬ時が来る。きつと来る。収斂の臣を忌んだのは、一面、教化を度外視する事務員簇出の弊に堪へないからと言はれよう。政治の理想とする所が、今と昔とで変つて来て居るのであるから、思想方面にはなまじひの参与は、ない方がよいかも知れぬ。

唯、一郷の精神生活を預つて居る神職に、引き宛てゝ考へて見ると、単なる事務員では困るのである。社有財産を殖し、明細な報告書を作る事の外に、氏子信者の数へきれぬ程の魂を托せられて居ると言ふ自覚が、持ち続けられねばならぬ。思へば、神職は割りのわるい為事である。酬いは薄い。
而も、求むる所は愈加へられようとして居る。せめて、一代二代前の父や祖父が受けたゞけの尊敬を、郷人から得る事が出来れば、まだしもであるが、其氏子・信者の心持ちの方が、既に変つて了うて居る。田圃路を案内しながら、信仰の今昔を説かれた、ある村のある社官の、寂し笑みには、心の底からの同感を示さないでは居られなかつた。

其神職諸君に、此上の註文は、心ない業と、気のひける感じもする。けれども、お互に道の為、寂しい一本道を辿り続けて居る身であつて見れば、渋面つくつてゞも此相談は聴き入れて貰はねばならぬ。世間通になる前に、まづ学者となつて頂きたい。父、祖父が、一郷の知識人であつた時代を再現するのである。私ども町方で育つた者は、よく耳にした事である。今度、見えた神主は、どう言ふ人か。かうした問ひに対して、思ふつぼに這入る答へは、いつも「腰の低いお人だ」と言ふのであつた。明治も、二・三十年代以後の氏子は、神職の価値判断の標準を、腰が低いと言ふ処に据ゑて居た。かう言ふ地方も、随分ある。一郷を指導する知識の代りに、氏子も、総代の頤の通りに動く宮守りを望んで居たのである。

かうした転変のにがりを啜らされて来た神職の方々にとつては、「宮守りから官員へ」のお据ゑ膳は、実際百日旱ひでりに虹の橋であつた。われひと共に有頂天になり相な気がする。併し、ぢつと目を据ゑて見廻すと、一向世間は変つて居ない。氏子の気ぐみだつて、旧態を更めたとは見えぬ。いや其どころか、ある点では却つて、悪くなつて来た。
世の末々まで見とほして、国家百年の計を立てる人々には、其が案ぜられてならなくなつた。閑却せられて居た神人の力を、借りなければならぬ世になつたと言ふ事に気のついたのは、せめてもの事である。
だが、そこに人為のまだこなれきらぬ痕がある。自然にせり上つて来たものでないだけ、どうしても無理が目に立つ。我々は、かうした世間から据ゑられた不自然な膳部に、のんきらしく向ふ事が出来ようか。何時、だしぬけに気まぐれなお膳を撒かれても、うろたへぬだけの用意がいる。其用意を持つて、此潮流に乗つて、年頃の枉屈を伸べるのが、当を得たものではあるまいか。当を得た策に、更に当を得た結果を収めようには、懐手を出して、書物の頁を繰らねばならぬ。

「神社が一郷生活の中心となる」のは、理想である。だが、中心になり方に問題がある。社殿・社務所・境内を、利用出来るだけ、町村の公共事業に開放する事、放課・休日に於ける小学校の運動場の如くするだけなら、存外つまらない発案である。結婚式場となつて居る例は、最早津々浦々に行き亘つて居る。品評会場・人事相談所・嬰児委托所などには、どうやら使はれ相な気運に向いて来た。世間は飽きつぽい癖に、いろんな善事を後から/\と計画して行く。やつとの事で、そろ/\見え出した成績が、骨折りにつり合はぬ事に気がつくと、一挙にがらりと投げ出して、新手の善事に移つて行く。一等情ないめを見るのは、方便善の一時の榜示杭になつて居たものである。神社及び神職が、さうしたみじめを見る事がなければ、幸福である。

抑亦、当世の人たちは、神慮を易く見積り過ぎる嫌ひがある。人間社会に善い事ならば、神様も、一も二もなく肩をお袒ぬぎになる、と勝手ぎめをして居る。信仰の代りに合理の頭で、万事を結着させてゆかうとする為である。信仰の盛んであつた時分程、神の意志を、人間のあて推量できめてかゝる様な事はしなかつた。
必神慮を問ふ。我善しと思ふ故に、神も善しと許させ給ふ、とするのは、おしつけわざである。あまりに自分を妄信して、神までも己が思惟の所産ときめるからだ。信仰の上の道徳を、人間の道徳と極めて安易に握手させようとするのである。

神々の奇蹟は、信ずる信ぜないはともかくも、神の道徳と人の道徳とを常識一遍で律しようとするのは、神を持たぬ者の自力の所産である。空想である。さうした処から、利用も、方便も生れて来る。二代三代前の神主の方々ならば、恐らく穢れを聞いた耳を祓はれた事であらう。県庁以下村役場の椅子にかゝつて居る人々が、信念なく、理会なく、伝承のない、当世向きの頭から、考へ出した計画に、一体どこまで、権威を感ずる義務があるのであらうか。

当座々々に適する事を念とした提案に、反省を促すだけの余裕は、是非神職諸君の権利として保留しておかねばならぬ。
其には前に言うた信念と学殖とが、どうしても土台になければ、お話にはならない。信念なくして、神人に備つて居るのは、宮守りに過ぎない。事務の才能ばかりを、神職の人物判断の目安に置く事を心配するのは、此為である。府県の社寺係の方々ばかりでなく、大きな処、小さな処で、苟も神事に与るお役人たちに望まねばならぬ。信念堅固な人でこそ、社域を公開してあらゆる施設を試みても、弊害なしに済されよう。これのない人々が、どうして神徳を落さない訣にゆくだらう。

信念の地盤には、どうしても学殖が横たはつて居なければならぬ。揺ぎ易い信念の氏子にすら気をかねて、諸事遠慮勝ちに、卑屈になつて行くのは、学殖といふ後楯がないからである。神に関した知識の有無は、一つ事をしても、信仰・迷信と岐れて現れる。
学術的地盤に立たねばこそ、当季限りの流行風の施設の当否の判断も出来ない。よい加減に神慮を忖度するに止めねばならぬのである。人間は極めて無力なものである。無力なる身ながら、神慮を窺ひ知る道がないでもない。現在信仰の上の形式の本義を掴む事の出来る土台を、築き上げる深い歴史的の理会である。其から又、神の意志に自分を接近させる事の出来る信念である。此境地は、単純な常識や、合理風な態度では達する事が望まれない。

神道は包括力が強い。どんな新しい、危険性を帯びた思想でも、細部に訂正を施して、易々とゝり込む事の出来る大きな腹袋を持つて居る様に見える。処が世間には間々、其手段を逆に考へて、神道にさうした色々な要素を固有して居た、と主張もし賛成もする人が、段々に殖えて来た。此は平田翁あたりの弁証法の高飛車な態度が、意味を変へて現れて来たのである。
さうした人々が、自分の肩書や、後押しの力を負うて、宣伝又宣伝で、どし/″\と羽をのして行く。常識から見ての善であれば、皆神道の本質と考へ込む人々の頭に、さうした宣伝が、こだはりなしにとり込まれ、純神道の、古神道の、と連判を押される事になる。

元々、常識と断篇の学説とを、空想の汁で捏ね合せた代物を、ちよつと見は善事であり、其宣伝の肩に負うた目を昏ますやうな毫光にうたれて、判断より先に迷信して了ふ。
源光ににらみ落されたと言ふ、如来に化けた糞鳶を礼拝して居るのだつたら、どうだらう。
此道に関しては、均しく一票を投ずる権利を持つた神職で居て、学殖が浅く、信念の動き易い処から、こんな連判のなかま入りをしたとあつては、父祖は固より、第一「神」に対して申し訣が立たない次第である。大本教ばかりも嗤はれまい。

なまなかな宗教の形式を採つたが為に、袋叩きの様なめを見た右の宗旨も、皆さん方の居廻りにある合理風な新式神道と、変つた処はあまりないのである。「合理」は竟に知識の遊びである。我々の国の古代と現代との生活を規定する力を許すのは、其が、どの程度まで、歴史的の地盤に立つて居るかと言ふ批判がすんでからの事である。廉々の批判は、部分に拘泥して、全体の相の捉へられないはめに陥れる事がある。
学者の迂愚は、常にこゝから出発して居る。我々の望む所は、批判に馴された直観である、糞鳶の来迎を見て、とつさに真偽の判断の出来る直観力の大切さが、今こそ、しみ/″\と感ぜられる。
合理といふ語ことばが、此頃、好ましい用語例を持つて来た様に思ひます。私は、理窟に合せる、と言ふ若干の不自然を、根本的に持つた語として使つて居る。此にも、今後も其意味のほか、用ゐない考へである。念の為に一言を添へました。

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

 青空文庫 分野別リストhttp://yozora.kazumi386.org/

図書カード
作家名: 著者 折口 信夫
作家名読み: おりくち しのぶ
ローマ字表記: Orikuchi, Shinobu
生年: 1887-02-11
没年: 1953-09-03
人物について: 創作では釋迢空を使用。大阪の医師の家に生れるが、父親の放蕩により家計が傾く。苦労の末、東京の国學院大學へ進学し卒業後教鞭をとる。
民俗学者柳田国男に「沖縄行き」を勧められて、当地に残る古の「型」「もの」に感動し、なかなか東京へ帰らなかった。そこで得たことが民俗学者折口信夫の基礎となる。天性の文学的才能が加味し、折口は大胆にも「まれびと」「貴種流離譚」など、独自の言葉を駆使しその論文を発表。
最初、そうした言葉を心よく思わなかったのは、師の柳田国男である。しかし折口は柳田を生涯にわたり尊敬し続けた。
折口の興味は、民俗学に留まらず、国文学の発生にまで及んでいる。それらのほとんど「口術筆記」の形をとっていた。書き手(聞き手)は、折口の頭の回転の速さと独特の言い回しでついていくことに閉口したという。
生活能力に乏しい折口が公私共に信頼をおいていた弟子の藤井春洋を養子としたが、それは春洋本人は知らぬことであった。柳田国男が保証人であるその養子縁組を知ることなく、春洋は硫黄島へ出征してしまっていた。
間もなく折口の下へ春洋の訃報が届いた。今、折口は、遺言通り、春洋の故郷である能登の羽咋で春洋の隣に半分だけ眠っている。もう半分は、大阪の折口家代々の墓で眠っている。(まれびとプロジェクト)
wikipediaアイコン「折口信夫」

底本:「日本の名随筆44 祭」作品社 
   1986(昭和61)年6月25日第1刷発行
   1999(平成11)年2月25日第11刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第二巻」中央公論社
   1965(昭和40)年12月発行(新訂版)
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
※〔〕で囲った部分は、一行に小さい字で二行に渡って書かれています。
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※「かうした神嘗祭りの為の荷前を」の行は、底本では冒頭一字下げになっていましたが、底本の親本を参照して天付きに改めました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
(記事引用)

0731