北朝鮮の出来上がった深い経緯
1950年、日本の終戦復興の中、隣国朝鮮で戦争が始まり、軍需産業がにわかに活況となり、日本が戦後からの再建をはたすのに大きなファクターとなった。
しかし、南北問題は、その後世界平和を脅かす脅威の災禍をのこすこととなる。


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サイエンスと歴史散歩内灘闘争(内灘砂丘、石川)
(解説)
 1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮軍は、北緯38度線を越え、韓国を奇襲攻撃し、朝鮮戦争が勃発しました。米軍を中心とした国連軍の参戦、中国の人民義勇軍の参戦、ソ連の北朝鮮援助と、戦況はめまぐるしく展開しました。

 同年7月8日、連合国軍最高司令官、マッカーサー元帥は、日本に国家警察予備隊(のち自衛隊)創設と海上保安庁拡充を指令し、朝鮮戦争に備えました。

 1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ調和条約において、対日平和条約と同時に結ばれた日米安全保障条約の調印は、その後の日本国内の米軍基地における紛争事件の根源となりました。

 内灘村(のち内灘町)は、金沢市の北郊、河北潟畔の砂丘地に位置する貧しい寒村でした。男は遠洋漁業に出稼ぎに行き、女は村近くで獲れた漁獲物(沿岸漁業、地引き網漁など)を頭上にのせて売り歩き(振売、ふりうり)、金沢市民から、いただきと呼ばれていました。

 1952年(昭和27年)9月6日、米軍用地接収係が秘かに内灘砂丘地(旧陸軍演習地)を視察、10日後、日本政府は内灘の砂丘地及び接岸海域の接収を決定、米軍の各種砲弾試射場に指定されました。これは、小松製作所(小松、石川)で、朝鮮戦争の特需砲弾が製造され、その試射場として内灘砂丘が接収されるというニュースでした。

 内灘村民は、米軍進駐による風紀問題、試射による爆音や震動(着弾の時、地響きしたという)が漁業に深刻な影響を与えること、接収期間が半永久的であることを心配し、ムシロ旗を立て県庁に押しかけ、同年10月、県議会も接収反対の決議をしたため、政府は、総選挙を控えていたので、しばらく見送りました。新聞には、内灘砂丘接収に猛反対、わが生活を奪うもの、緊急村議会で絶対反対を決議、畑とられ漁とられ、村には宿命の砂丘など、大きく取り上げられました。

 しかし、第26回衆院選挙において、吉田茂(よしだしげる)、1878年(明治11年)~1967年(昭和42年)は、自由党を率いて大勝、第4次吉田内閣、1952年(昭和27年)10月30日~1953年(昭和28年)5月18日が成立すると、同年12月、4ヶ月間の期限付き接収を決定、砂丘には、鉄板道路、コンクリート製のかまぼこ形の珍しい構築物を建造、立ち入り禁止となり、1953年(昭和28年)3月から試射が始まりました。  

 その後、1953年(昭和28年)4月の第3回参院選挙は内灘問題が最大の争点となりました。接収促派の林屋亀次郎(国務大臣、自由党)と反対派の井村徳二(改進党)の両候補が戦い、武蔵(林屋、武蔵ヶ辻丸越百貨店の経営者)と大和(井村、片町大和百貨店の経営者)の内灘沖海戦と呼ばれました。井村は革新陣営からも支持され、21万票対19万票(1万6000票余差)で林屋が落選、内灘問題に対する県民の審判が下されました。

 しかし、1953年(昭和28年)3月14日のバカヤロー解散後、第5次吉田内閣、1953年(昭和28年)5月21日~1954年(昭和29年)12月7日は、少数与党のため、改進党と連携し、内灘地区の漁業補償措置と無期限使用を閣議で決定、使用強行を発表しました。

 内灘村民はあくまで試射中止と土地返還を要求、1953年(昭和28年)6月13日、試射場での座り込み、また、学生らのデモ、北鉄労組の軍需物質輸送拒否ストの応援など、激しい運動が展開されました。

 しかし、日本中が朝鮮特需の時期であり、政府による、試射場が日本経済を支えているという説得、また、愛村同志会による地域利益優先の条件闘争により、内灘村は3年間の使用を認めることで妥結、基地反対闘争は終息しました。
その結果、漁業及び公共事業(農地として河北潟の干拓、学校、医療などの諸施設、上下水道の整備、道路の改修、防風林など)の保障要求が認められました(国の保証金と見舞金は、22憶4000万円、当時の村の予算は2000万円)が、村民の表情は複雑なものでした。

 1953年(昭和28年)9月から米軍による砲弾試射が開始され、3年余の後、1957年(昭和32年)1月23日、政府は、内灘村に試射場の土地を全面返還しました。これは、戦後の日本の米軍基地反対闘争のさきがけとして、全国的にも注目された事件でした。
 ところで、1963年(昭和38年)3月17日、和泉雅子主演、非行少女(浦山桐郎監督)という日活映画が公開され、そのタイトルにひかれて見たことがあります。

 この映画が内灘闘争の内灘村を舞台に描かれている(少女とその家族が闘争に巻き込まれること、地元住民の人間関係など)とは、2006年(平成18年)、内灘町歴史民俗資料館 (風と砂の館)を訪ねるまで知らず、エッと驚きましたが、どういうわけか、美しい少女が鍬(くわ)を振り上げ畑を耕している姿しか思い浮かびませんでした。

(参考文献) 若林喜三郎監修: 石川県の歴史、北国出版社(1970); 若林喜三郎編: 加賀能登の歴史、講談社(1978); 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 野島博之(監修)、成美堂出版編集部編: 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 詳説日本史図録編集委員会: 山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2009).(参考資料) 内灘闘争(内灘町、石川):http://www.town.uchinada.lg.jp/webapps/www/info/detail.jsp?id=115; 



金沢、内灘闘争と朝鮮戦争

朝鮮戦争、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。

分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国と1949年10月1日に建国された成立間もない中華人民共和国が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化した後に荒廃させた。

1953年7月27日に中朝連合軍と国連軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。
現在も南北朝鮮の両国間、及び朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていない。休戦以来、休戦直後の1953年10月1日に調印された米韓相互防衛条約に基づいて大韓民国は北朝鮮を想定した米韓合同軍事演習を度々行い、他方朝鮮民主主義人民共和国も大韓民国への領空・領海侵犯を契機に武力衝突を勃発させている。

第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国はカイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表し、1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて米英中ソ四国による朝鮮の信託統治が合意された。

1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍(赤軍)は8月13日に当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、同じく連合国を構成していたアメリカ合衆国は、1945年4月12日に大統領に昇格したハリー・S・トルーマンの反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。
1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏、朝鮮は解放された。
しかし8月24日に平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領し、既に建設されていた朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施し、朝鮮半島南部には9月8日に仁川に上陸したアメリカ軍が朝鮮建国準備委員会を解体した後、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を実施、朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や海外から帰国した左翼と右翼が衝突する連合国による軍政を迎えた。

その後、米ソの対立を背景に1948年8月15日に南部には大韓民国が建国され、追って翌9月9日に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦し、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「抗美援朝軍」「志願軍」。

実態は中国人民解放軍)が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達や訓練などのかたちで支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈した。
本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。
また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。

呼称に関しては、日本では朝鮮戦争もしくは朝鮮動乱と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語でKorean War、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)または朝鮮戦争と呼ばれている。また、戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。

開戦までの経緯

第二次世界大戦終戦時の朝鮮の政治状況

第二次世界大戦の連合国会議によって、降伏後の日本が朝鮮半島を含む海外領土の統治権を放棄することは既定方針であり、1945年7月26日に発表されたポツダム宣言に置いてもその方針は明らかにされていた。

8月、ソ連軍の朝鮮半島侵攻という事態に直面し、アメリカはソ連に38度線での分割占領案を提示した。この境界線はアメリカ陸軍のディーン・ラスクらによって30分間で策定されたものであり、アメリカ軍の占領域に首都ソウルが含まれる事も考慮されていたソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案に8月16日に合意し、8月17日には一般命令第一号(英語版)として、38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏させることが通知された。日本政府は8月14日にポツダム宣言受諾を連合国に通告、日本の降伏が決定された。ソ連軍は8月16日以降に本格的な侵攻を開始し、27日には38度線付近の都市新義州に至った。
9月2日、日本は降伏文書に署名、正式に降伏した。この際に一般命令第一号は日本側に伝達され、大本営は朝鮮半島に駐留していた日本軍に対し、一般命令第一号に従って降伏するよう通告した。

日本統治下の朝鮮半島内では独立運動を志向する諸勢力も存在はしたが、独立志向組織はむしろ国外にあり、その勢力は小さく亡命先での活動が主だった。
大きく分けると中華民国上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。

このような情勢ゆえに日本降伏時、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合は醸成されておらず、日本統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」であった。
朝鮮人が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた。


アメリカは戦前の検討の中で、朝鮮には信託統治を適用するべきと考えていた。
1942年には朝鮮半島の国民は貧しく、文盲が多いため一世代は強大国の保護と支援が与えられなければならないという報告書が出されており、これはアメリカの朝鮮半島政策の根幹となった。
アメリカ大統領ルーズベルトは、1943年2月のアンソニー・イーデン英外相との対談でこの構想をはじめて明かした。
1943年11月22日のカイロ宣言では、朝鮮は自由かつ独立するべきとされていたが、「しかるべき手続きを踏んで」という、信託統治機関に含みをのこす形で発表された。
その後のテヘラン会談で「新設する国際連合によって40年間は信託統治すべき」とし、ソ連のスターリンもこれに同意した。1945年2月のヤルタ会談では「20〜30年間は信託統治すべき」とし、それに対してスターリンは「(統治の)期間は短ければ短いほど良い」と回答していた。

長期間の信託統治を提案したルーズベルトは1945年4月12日に死去したが、同月にモスクワでは米英ソ中の4カ国による信託統治が原則的に合意されている。
しかしその後、朝鮮問題についての詳細な打ち合わせは両国間で行われなかった。
1945年12月、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連は外相会議を開いたが(モスクワ三国外相会議)、朝鮮半島問題も議題となった。この席でアメリカは、朝鮮半島における民主主義的な政府の建設を目標として、暫定政府を成立させた後に、米英ソと中華民国の4か国による最長5年間の信託統治を提案した。
この提案は合意され(モスクワ協定)、12月27日に公表された。その後アメリカとソ連でその方法を継続して協議することになった。

ところが韓国民主党系新聞の東亜日報が協定について「アメリカはカイロ宣言を根拠に朝鮮は国民投票によって政府の形態を決めることを主張し、ソ連は南北両地域を一つにした一国信託統治を主張して38度線での分割が継続される限り国民投票は不可能だとしている」と事実と異なる報道をしたため、国内での反信託運動が大きく広まった(東亜日報#捏造記事・疑義が持たれた報道)。12月31日の集会とデモは空前の規模に達した。

信託統治に対してはほとんどの派が完全独立を主張し反対を表明していたが、年が明けると左派は一転して信託統治賛成に回った。右派は信託統治では反対だったが、内部では親日派や資産家が多い韓国民主党と臨時政府派が対立した。

金九を主席とする臨時政府派は、即時独立を求めて全国ストライキを訴えるなど過激化していった。軍政庁にとって行政運営上、朝鮮人登用は必要であり、過激な運動を抑える治安問題の解決のため、即時独立に固執せずアメリカの方針を理解する韓国民主党を重用した。さらにアメリカ政府の意向に反して反信託運動を黙認してしまった。ここに李承晩が合流した。
一方ソ連占領区域では、現在の北朝鮮政府が「各地で自発的に生まれた」と自称する人民委員会が1945年10月までに朝鮮総督府の統治組織を接収した。
ソ連は1945年11月に朝鮮民主党を起こした曺晩植に接触し、信託統治の容認を求めたが容れられなかったため、代わりに朝鮮共産党の北部分局のトップに過ぎなかった金日成の支援に回った。ソ連の後ろ盾を得た金日成によって

その後、国内の他の共産主義者たちは時間をかけて粛清されていくことになる。
アメリカとソ連は、1946年1月16日からの予備会談を経て、独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、李承晩などが反信託運動とともに反共・反ソを激しく主張、ソ連はアメリカに李承晩らの排斥を訴えたが、アメリカは反信託よりも反共を重視して聞き入れずお互いの姿勢を非難して対立、5月6日委員会は決裂、信託統治案は頓挫した。
(資料ウィキぺデア)

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松本清張“ゼロの焦点

4月17日日曜 NHKBSプレミアム 午前1時15分~ 午前2時15分
第1回「松本清張“ゼロの焦点”」再放送 (本放送2016年1月21日(木) 22:00~23:00)

文学作品をテキストにこだわって読み解く「読書会」シリーズ。
今回は松本清張の「ゼロの焦点」。サスペンスの王道“断崖シーン”はこの物語から始まった。戦後日本の闇を背景にした“社会派小説”で、大ベストセラーになった松本清張の代表作だ。でも読み込んでみると、かなり変わった推理小説。事件がなかなか起こらない、女性目線で語り、女性が大活躍する、結婚こそが謎?と、実は硬派で軟派な物語を徹底的に読み解く。
【ゲスト】笠井潔,小森陽一,中村文則,橋本麻里,華恵