日本民主主義国家歴代元首
1.伊藤博文
2.黒田清隆
3.山縣有朋

学生グループ「SEALDs」 ケント・ギルバートが斬る
 慶應義塾の創立者で、日本人の思想の近代化に貢献した福澤諭吉が欧米諸国を視察したのは、幕末の1860年代前半、150年以上昔の話だ。帰国後出版した『西洋事情』に、英国議会を見学したときの話がある。主張の対立する2つの政党が政策をめぐって大論争をしていた。ところが、議会が終わると一緒のテーブルで酒を酌み交わし、食事を始めた。西洋では日常的な光景が、福澤の目には奇異に映った。議会の中ではお互いの主張を容赦なくぶつけ合うが、議論の後は仲間として付き合う。福澤は意見の異なる人間を尊重する精神を学んだという。
 昨年、安全保障関連法制の審議中、学生グループ「SEALDs」(シールズ)が「民主主義ってなんだ!」と叫んでいたが、民主主義とはまさにこれである。口調は熱く激しくとも、発言の内容には品位と礼節を保ち、論理的かつ冷静に議論することが民主主義の根幹である。
 議論の参加者全員が、問題の解決を一緒に目指す仲間なのだ。だから、「主張の対立」と「個人的感情」を混同させ、相手を口汚く罵(ののし)る行為は、民主主義の理念に反する。
 米大統領選の共和党候補指名争いで、不動産王のドナルド・トランプ氏は挑発や罵倒ばかりだが、マルコ・ルビオ上院議員も同じことをやった。結果、紳士的な党主流派に見放され、撤退に追い込まれた。日本には感情的対立から、相手の信用やメンツを潰そうと躍起になる人が多い。「右か左か」「バカか利口か」「大物かザコか」などのレッテル貼りから水掛け論になり、問題解決は先送りされる。東日本大震災後の冷静な振る舞いから、「世界一の民族」と称賛された日本人が、議論(?)だけは感情的で、欧米の小学生以下のレベルだ。
 私も呼びかけ人を務める「放送法遵守を求める視聴者の会」は先日、テレビキャスター7人に公開討論会を提案したが、彼らのメンツを潰したいわけではない。数日前も、安倍晋三首相の発言に不適切なニューステロップがあった。最近の放送には変なところが多いから、今後のあるべき姿を議論したいのだ。われわれは「放送法第4条」を絶対視しているわけではない。放送に政治的公平を求めた米国の「フェアネス・ドクトリン」は1987年に廃止された。電波停止の可能性が残された放送法や電波法の存在が問題だと考えるなら、法改正を主張すべきだ。意見の異なる人間を尊重する精神を学んだ、礼節あるジャーナリストと本格的な議論がしたい。(ケント・ギルバート 夕刊フジ 2016.3.19)
(記事引用)

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小泉純一郎の生い立ち
1942年(昭和17年)1月8日、神奈川県横須賀市に、父小泉純也と母芳江の長男として生まれる。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった。
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戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。井料克己によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだ貧まずしくて夕食の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまに川や海に行って魚やうなぎを釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という。

神奈川県立横須賀高等学校から慶應義塾大学経済学部を卒業。英国ロンドン大学群ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(U.C.L.)に留学の後、1969年(昭和44年)8月に父が急死したため帰国。
同年12月、亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。

福田赳夫の秘書時代
 
福田赳夫の秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した。横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った。
福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で靴揃そろえておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り~お車ぁ~”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行い捲土重来を期していた。

姉・信子(政策秘書)、ほかに2人
弟・正也(私設秘書)
妻は石原慎太郎の妻・典子の従兄弟の娘
元妻・佳代子(エスエス製薬元会長泰道照山の孫娘、泰道三八の姪)
長男・孝太郎(俳優、タレント)
1978年(昭和53年)7月生 -
二男・進次郎(政治家)
二男・進次郎
1981年(昭和56年)4月生 -

小泉家 (神奈川県横浜市金沢区大道、横須賀市)
祖父小泉又次郎は慶応元年(1865年)、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人・由兵衛の二男として生まれた。又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であった。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった。

入れ墨を施した江戸時代の人(1870年)
当時の横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという。

1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争から日露戦争にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。
この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない。

又次郎は若い頃、軍人になることを諦めとび職人になることを決意した証に、全身に入れ墨を彫っていた。明治41年(1908年)衆議院議員に当選、浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣を務めた。
曾祖父・由兵衛[40](神奈川県平民、とび職人、請負師)
曾祖母・徳(神奈川県平民、岡崎文五郎二女)

祖父・又次郎
祖父・又次郎(神奈川県平民、とび職人、請負師、小学校代用教員、新聞記者、政治家)
1865年(慶応元年)5月生 - 1951年(昭和26年)9月没
父はとび職人・請負師の小泉由兵衛。『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。
普選運動の闘士として庶民人気が高かった。
純一郎が厚生大臣に就任したとき、フォーカスのインタビューで祖父のことをこう語っている。「いまじゃゴルフ場にも入れてくれないのにな。ところが祖父は、全身刺青で大臣や副議長までやった。首から背中、腕にかけて龍が彫ってあって、それや見事なものだったよ。」 「僕が9才のときになくなった。よく覚えていますよ。マージャン、花札、おいちょかぶ、みんな教えてもらったんだもの」
祖母・石川ハツ(又次郎の妾)
父・純也(政治家)

父・純也と、純一郎
1904年(明治37年)1月生 - 1969年(昭和44年)8月没
純也は鹿児島県川辺郡東加世田村(のち加世田市、現南さつま市)の漁業鮫島家に生まれた。父親の彌三左衛門(やざえもん)は事業に失敗し、地元の鰹節(かつおぶし)工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった。母親が三男六女を育てたが、家が貧まずしく純也のきょうだいのうち3人が亡くなっている。
生家の鮫島家が事業に失敗したため上京し、苦学しながら政治の道を志した。芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった。
又次郎のところに出入するうち二人は恋におち、東京・青山の同潤会アパートで同棲をはじめた。又次郎は「帰って来い」と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている。純也と芳江の結婚について、又次郎の養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている
純也は昭和12年(1937年)衆議院議員に当選、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を務めた。在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導した。
(資料ウィキぺデア)

(記事引用)

元首相の「小泉純一郎」は、小池新知事の後見的位置にいた人物として紹介した。そのキャラクターは謂うに及ばず、世間に知れ渡っているが、党内での人気は余りなかった。今回の検索で、そのことを良く理解できた。また郵政民営化法案でも売国奴として批判されたが、これを読む限りでは、そんなことは風評に過ぎないことを知る。ということは世間の噂ほど信用ならないものはない。しかし、いったん付いてしまったタグは、本人の意思と関係なく、はがすことは殆ど無理である。
そのことで悩む著名人はおおいし、また一般人でも、それから逃れることが出来ず死の道を選ぶケースもある。