日々日常のオドロキ出来事
これは昨年書いた自著記事を、ピックアップしたものである。豊洲のトヨもない。当然だ。でもそれなりに新しいニュース記事はある。

なかなか皆様、面白い視点で社会を観察していると憧憬した。最後の記事は、やや新しくて、文学賞の話だ。

書籍、本、などオワコン議題だが、このネタは新鮮味があったので、取り上げた。いまどき80歳新人が賞を取る、というのはめったにない。というか今後、絶対にないといい切れる。どうして明日死んでしまうかわからないジジイに賞なんぞくれてやるか。とおもっていたら、いまどき、そんな授賞を仕組んだ奴らがアホなんだと本人が毒舌づいた。いやいや、それだけで話題騒然だ。

2015年09月15日
佐藤孝弘氏の勝因 カテゴリ: 2015/9/13
 http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52062242.html
うたげのあとの~後始末
ここでいう「宴」は、二つの意味があって、一つは当然「山形市長選」で、一つは郷土の祭の話題だった。ともに13日という日が重なっていたので、忘れられない2015年9月になりそうだった。  

まず選挙を分析してみよう。当初、日本海はずれの米どころ山形市また県、についての選挙が私個人にとって、どれほどの意味があるのか、という関心事においては、失礼ながらまったくなかった。たまたま、自身のブログ記事に、ある立候補者名があり、ネット検索で、この記事がアルゴリズム網にかかった、と推測できる。

その因果について、まったく知るところではなかったので、書いた記事をよーく読んでみると、確かに、その人物の名が載っていたが、内容としては、本人が主人公ではなかった。
しかしネット内アルゴリズムは、スペルもしくは名称を感知し、それを集約して検索項目に表示するので、記事の脈略については問わない、そのようなシステムになっているようだった。
 
ときに「維新の会」の内輪揉めがニュースになるくらい、惨憺たる様相を呈していた。そのニュースの政治動向で、ある人物が「党」の規約に違反して山形に乗り込む、という、そうした、まったく予想外の展開が、私のブログに降り注いできた、という「風オケ」リテラシーである。
もともと「維新の会」の行方に関しては期待が持てないと思っていたので、その観点から、候補者選挙応援するということは、価値のある選挙ではないかと、首を突っ込んでみた、という訳である。なんてことはない、タダの野次馬的根性だった。

さすがに地元新聞紙「河北新報」のニュースが、もっとも新しいソースを提供していたので、その記事を何度も使わせていただいた。また、ネット2ちゃんによる地元の声も、新鮮で、やはり生身の声を反映していた。

だが、紋切り型見出しもあったようで、今回の選挙が「安保論戦」で展開されるといった筋は、見事に打ち砕かれた。私も当初、そうなると予想していたが、両者の発信記事をよく読むと佐藤孝弘氏(39)自民・公明・次世代・改革推薦は、それにまったく触れない、という戦略を立てていた。結果的に、そのことが選挙戦で功を奏したようである。

そのことは私のブログでも指摘した。

9/7日付、"山形市内は拡声器合戦が繰り広げられていることだろう。自民佐藤氏は安保法案をスルーし、かたや梅津氏「戦争法案ノー」と訴えるビラを10万枚、と互いに戦略を明確にした。さながら「安保対決」の様相だ、と毎日は書いているがそれは間違い。
どちらが勝っても負けても、数回の落選という辛酸をなめたもの同士の闘いは熾烈を極める、と遠隔地にいながら、手に汗握る"。
そう書いて記事にした。

また9月2日の私の記事では、こう書いている。
同じく大阪組の浦野靖人衆院議員(大阪15区)もこれに追随、「(幹事長)辞職よろしくお願いします」とツイッタ―に書き込み、柿沢氏は謝罪に追い込まれる騒ぎになった。
こうしたゴタゴタがなければ、安倍政権はまたしても地方で鉄槌を下されることになるのだが。
「ゴタゴタがなければ安倍政権は保守化する。9月6日告示13日の結果は追込み組織票のハナの差如何投開票」。
と分析している。

もちろん、それは結果論だから、そう云えることでパチンコではないが、9~10万負けたときの話しは誰にも云わない、のと同じ論法である。

そして肝心の9月13日投票結果、投票率56.94%で前回を9.34ポイント上回った。
56,369票佐藤孝弘(当選) 54,596梅津庸成(次点)、その差「1773票」差は、薄氷どころではない、濡れた和紙の上を10トンダンプが走るようなもので、甲乙付けようもない。極論すると、どちらが勝った負けたとしても誰も文句のつけようがないほどに、切迫していた。まさに血の吐くような死闘が展開していたことが想像される。

私は始め、そのどちらとも無縁なので、二者択一の要素はなかったが、たまたま梅津氏の名が当ブログにあったため、それに加担したようになったが、如何せん番外応援の影響力はゼロにちかいものがあった。しかし、その選挙にバーチャル上で参加できたことは幸運と考えている。

なぜか~、それは現日本の政治スタイルを写実に投影し、また、立候補者よりむしろ、有権者意識、その一票で政治が動かせる、という期待感を抱かせた。投票率56.94パーセント、けっして満足できる数字ではないが、権利者半数以上が参加したことは及第点とされる。が、その数字の実態は誰も判らないしカミにぞ知る世界だ。

私は選挙プロではないが、この数字の意味はある程度理解できていた。当ブログで「鼻の差」と読んだのは、その読みがあったからだ。

まず、「激戦」とされながらも投票率56.94%というのは偽りのない数字が証明している。
激戦に間違いはないが、関係者のみの激戦である。利害関係、既得権益権者群れ、そこに巣食う政治やくざたち、そう読んでいる。となると、「わけのわかんねー素人は黙ってろ」という不文律の障壁が立ちはだかり浮遊票、若輩層票は、得てして場外に放り出される。よくいう、その層を取り込め、というがそれはウソで、自分たちがその壁を作っている。

下記に「ニートさん」による「期日前投票の出口調査」の引用記事を読んでみたが、現実の偽らざる選挙実態が、克明に描かれている。(こうしたネタはメディア報道機関がすべきだが、それをしたら内部告発的になり、また政治力学もからんで媚び企業は、絶対できない)。

そこから一つの回答書が得られたが、投票用紙は「鉛筆無記名」だから、思想内容傾向など推理することは皆無である。したがって、これから云うべき内容は、すべて推測であるから信憑性の裏書はない、とおもってくれたらいい。

この出口調査は、何のためかといったら新聞記事のスクープ的即時性を書くために、データをいち早く分析、勝敗を読む、という戦略と思われる。それはより多くの数、投票締め切りまでの時間帯、偏らない票の読み、を得て集計する。そこから何が読めるかといえば、当落の格差点数が浮かび上がり、時間的余裕があれば締切り時間までに、ある特定の人物に票を投入するという時間差投票ができる。ケータイ、スマホなど生活端末を使えば瞬時に千でも万で、指令書発信が可能だ。念をおすがそれは推測の域である。

「ニートさん」ではないが、調査員でバイトするひともいれば指令書を受け取るバイトさんも、存在するはずだ。そうでなくても組織員であれば、全国の登録者への指示は、昔ほど難しいことではない。

そんな諸々が複雑に絡み合って、極度の僅差「鼻の差」という開票結果が、これからも多くの選挙現場で展開するだろう。
 
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バイトと副業 日雇い無色透明
どーも、ニートです。 
皆さんは選挙に行かれたことがありますか?
 
もし、選挙に行かれたことがある方であれば、投票を終えた後に「〇〇社ですが、出口調査にご協力いただけないでしょうか」と声をかけられたことがあるかもしれません。
 
実はあれって、新聞社やTV局の社員ではなくバイトがやっているんですよね。ニートも今回、はたらこねっとを介して派遣登録し、期日前投票の出口調査のバイトに参加してきたので、今回はこのバイトについてダイジェストでご紹介したいと思います。
 
某日前日 PM2:00~4:00 説明会

今回応募したのは、「労働時間が一番長い代わりに最も時給が良い会社」と噂の某社だった。「期日前投票の出口調査の仕方について説明を行う」と言われ、某社の一室に、既に選考を通過してきた数十名の日雇い派遣社員たちが集められた。
 
ただ、日雇いと言っても、これまでニートが参加してきたようなメンバーとは大きく雰囲気が異なる。一言で言えば「今回の参加者はみなホワイトカラーの社会人っぽかった」ということ。
 
まず彼らの恰好も、オフィスカジュアルは当然としてスーツの参加者がちらほらいる。特に何も言われることはなかったが、自分の恰好を見下ろし、さすがにジーパンは不味かったかと後悔した。
 
また、明らかに20代と分かる参加者は4,50名の参加者のうちニートを含め2,3名ほどで、みな言葉づかいがしっかりしていた。投票当日の他社の調査員も30代以上の方しかいなかったので、調査員は意外と狭き門らしい。社のブランドを背負って調査するのだから当然か。
 
とはいえ、選考が厳しくとも作業自体が難しいというわけではない。内容は単純なもので、「出口でアンケートを取る→アンケート結果を集計→アンケートデータを本部へ送る」の3ステップである。これを休憩をはさんで数サイクルほど。作業自体は誰にでも出来る。要は見た目の清潔さと印象の問題である。
 
余談だが、アンケート収集の方法を聞いて「もし自分が新聞社を一社だけ選ぶなら、この会社のものを購読しよう」と思った。少なくとも、当日のデータの取り方を他社から見聞きした限り、ランダムサンプリングを意識してデータを取っていたのは、この社だけだった。
 
逆に言えば、大多数のメディアの出す数字とはどれほど恐ろしいものであるかも分かる良い経験だった。
 
某日 AM8:30~PM7:30 アンケートの収集

選挙の出口調査は、どの新聞社(あるいはTV局)に雇われるかによって、また、どの現場に配置されるかによって、その業務時間も、給料も、環境も、内容も大きく変わってくる。
 
当然だが、新聞社によって時給は大きく違うし働く時間も大きく違う。一方で労働環境に関して、市役所の外と中のどちらで作業できるかは役所の判断による。運の悪いことに、ニートはこの寒空の中、外でアンケートを取る場所に配置されてしまった。
(昨日記事引用)

忌野清志郎の選挙ソング「目覚まし時計は歌う」
2009年5月2日没 
没後6年して多くのファンの胸の中にある「忌野清志郎」。 彼が歌ってきた曲の中には社会に向けたメッセージソングもあった。 2105年9月13日
忌野清志郎の「選挙ソング」!?「目覚まし時計は歌う」

すっかり忘れてしまったが、「一つは郷土の祭の話題」。ともに13日という日が重なったので、今後、このようなケースはないだろう。
このブログでも展開している桓武時代「親王任国」(784年)の常陸国、上総国、上野国
の区分けの一つ上総国一宮の祭りとして、是非紹介したかった。
 
そして「常陸国」は、わが心のふるさと父の生まれ故郷である。そのことはブログ記事にしてある。それら歴史とは、間断なくつなかっていることを実感させることを示している。

ギタリストのチューニング

「なぜギタリストはステージでチューニングをするのか」という題名が気になっていた。これまで書いた選挙記事とは、まるで相容れないストーリー展開で、不必要なセットだと訝しくおもうだろう。

これはギター弾きでなければ判らない臨床心理学で、とくに「新フロイト派は、精神分析学において、フロイトの欲動論を批判し」云々、の前段階でギター構造の糸巻き、ペグ(マシンヘッド)のポストに巻きつける長さは概ねペグ2つ分前後にするのは勝手で、自分の巻き方でいい。
そしてチューニングしながらペグを右に巻いたり左にスライドしたりと、チューナーヘルツ
と同調するまで、何時間でもやる。下手をすると1曲も弾かずにチューニングだけで終わってしまう、こともある。

その時間のかけ方を説明したのが「兵庫慎司」氏で、最終的にそれは「無意味」と書いている。これほど簡潔な言葉はない。

「ほら、ムエタイの選手って、試合前に神に捧げる踊りをするじゃない? あれと一緒だと思う。あれをやることによって精神を集中する、みたいな」・・・、と例話を挙げて説明しているのが利いている。

端的にいって、「カミの世界に近づく儀式」、とでもいったらいいのか、それしかない。
この音合わせチューニング儀式は、西洋音楽の超基本で、「楽音」と定義し、人工的に発生される音(楽器など)を、音楽のソースとしている。その根底はグレゴリオ聖歌だとされ、古代ギリシアをルーツとしている。

その対極に試合前に神に捧げるムエタイ踊りがあり、音程がずれていたり、意図的にノイズを発生させる細工が楽器に施されている。それはとても東洋的であり、また哲学的である。

そのまったく無意味なチューニングのペグヘッドを撫で回して、心の安定を誘うという行為は、すべての要素に当て嵌まると私は考えていたのである。


「なぜギタリストはステージでチューニングをするのか???」 
兵庫慎司が“積年の謎”に迫る 2015年9月13日 18時9分

 ライブ中にステージ上でミュージシャンが行う、ギターやベースのチューニング。あれ、どんな意味があるのだろうか。

 曲間でボーカルがMCをしている時に、チューニングをしているのはまだしも、客電が消えSEが流れ、ステージに登場してアンプ脇に立てられていたギターを手にし、いきなり1弦ずつチューニングを確かめ始めるギタリスト。みんながみんなそうではないが、けっこうな頻度で目撃する。その間、こっちは演奏スタートを待ってぼーっとSEを聴いていなきゃならないことになる。そもそもギターはきっちりチューニングが合った状態でそこに置かれているはずなわけで、あれ、意味あんの?

 何年か前に、その筋のプロである知人ふたりにたずねてみたことがある。ひとりは元々楽器店で働いていて、レコード会社へ転職して以降一貫して制作畑で仕事をしてきたディレクター(仮にYとします)。もうひとりはさまざまなバンドを手がけてきて、今も日々大忙しで日本中を飛び回っているベテランローディー(仮にQとします)。

 Qの答え。

「意味ないですね」

 リハが終わってそこでギターが置かれた段階でもちろんしっかりチューニングしてあるし、温度やなんかの影響でチューニングが狂ったりしないように、開場後も自分たちローディがステージに行って確認しているので、基本的に必要のない行為であると。

 これ、昔、渋谷陽一がよく書いたり言ったりしていた彼の持論なのだが、ライブの時、海外の有名ギタリストは全然チューニングを直さない、という。確かに僕もライブを観ていてそう思ったことがある。で、そういうアーティストの場合、ステージにギターを置いておかないで、ギターを持って出てくることが多い。なるほど、それなら直前まで楽屋でチューニングできますよね。

 と思ったらですね。たとえば、日本のフラワーカンパニーズというバンドの竹安堅一というギタリスト。この男、最近、ライブの時、ギターを持って出てくるようになったのだが(確か昔は違ったと思う)、それでも1曲目を始める前にステージでチューニングをするのだ。手にギターを持って、楽屋を出て、ステージの自分の立ち位置に到達するまでの間にチューニングが狂ったかもしれない、というのか。どんだけ心配性なんだ。つまりその行為も、基本的に意味がない、ということになる。

 そう考えると、曲間のMCなんかの時にチューニングをしているのも、ほんとに意味あんのか? という気がしてくる。そりゃあ弾いてるうちに多少は狂うこともあるかもしれないが、そのギタリストがチューニングをする前の曲で、「ありゃ、ギターの音、狂ってんなあ」と思った経験、僕にはほぼない。逆に、「さっきあんなに念入りにチューニングしてたくせに、曲が始まったら狂ってるじゃねえか!」と思ったことはあるが。

 たとえば奥田民生は、あんまりチューニングしない。どんどんギターを交換しながらライブをやるのでその必要がないのだと思うが、この間、9月3日Zepp DiverCity Tokyoでのサンフジンズのツアーファイナルでは、次の曲にいこうとしてギターをちょっと弾いてから「あ、ごめん、ストップ」と中断し、チューニングを直していた。これはわかる。ちゃんと目に見える形で明確な理由があって、チューニングしたわけなので。

 それにだ。そもそも前提として不思議なのが、ギターってそんなにチューニング狂う楽器なのか? いや、狂うんだろうけど、ならば、狂わないようにできないものなんだろうか。

 昔、中島らものエッセイで読んだのだが、三味線という楽器はそもそも弾いているうちにどんどん調弦が狂っていくような作りになっていて、それを直しながら弾くのも技術のうち、それができない奴はダメ、というふうに判断されるらしい。「アホか!」と、中島らもは書いていた。そんな意味ないことで優劣つけてないで、そもそも調弦が狂わんように作り直さんかい、と。

 という三味線の例ほどではないが、ギターももうちょっとなんとかならないものなんだろうか。僕が高校生の頃に、フロイド・ローズやケーラーといったヘビメタ御用達のトレモロアームが流行り始めた時、同時にギターのヘッドのすぐ下んとこで弦を締めつけるやつ……チューニングロックっていうんでしたっけ、あれが登場した時は、これでチューニング狂わなくなるのかな、と思ったら、そうでもなかったし。

 というか、じゃあ逆に、なんで外タレの大物ギタリストは、そんなにもチューニングが狂わないんだろうか。

 というこの話、実は昔、RO69という音楽サイトでやっていたブログで同じようなことを書いたのだが、当時、それを読んだ友人の音楽ライター、島田諭が以下のようなメールをくれた。

 以下、そのままコピペ。

ジェフ・ベック等のスーパーギタリストが、ライブ中にチューニングしないのは、チューニングの狂う確率が圧倒的に低いギターを使っているからです。
つまりは基本、狂わないんです。

だからチューニングの必要がない、という、おそろしく単純な理由なんです。

ペグ、ナット、ブリッジ、使用する弦。スーパーなギタリストほどこういったもの、そしてメンテナンスに気を遣います。

異常なほど気を遣います。

つまり、スーパーなギタリストほど、チューニングの狂う確率が圧倒的に低いギターを「作り出している」んです。

そのための労力は絶対に惜しまない。
エディ・ヴァン・ヘイレンが弦を鍋で煮てからギターに張る、というのは有名な話ですね。
聞けばなるほどなアイデアですが、そんなことを思いつく、そんなことをしてしまうなんて、病的としかいいようがありません。

だけど、ギターを弾くことに対し、それだけ必死だということであって、となれば、当然、いつも側にいるローディーもスーパーな存在であるわけで、そういうギタリストと、そういうローディーが一緒に、チューニングの狂う確率が圧倒的に低いギターを「作り出している」わけです。

だからスーパーなギタリストほど、メインとして使用するギターは1本か2本しかなくて、弦が切れてしまったとか、変則チューニングなど、演奏に直接的に関係する場合を除けば、ライヴ中は基本的に、ずーっと同じギターを使っています。

たとえが古くて申し訳ないけど、くだんのエディもそう、リッチー・ブラックモアもそう、マイケル・シェンカーもそう、ナイト・レンジャーのふたりもそう、アン・ルイスが大好きだったジェイク・E・リーもそう。そして、ジェフ・ベックやゲイリー・ムーアもそうです。

どうでしょう、なかなか説得力あるでしょ?

 コピペ、以上です。

 確かに説得力ある。なるほど、と思う。

 そして。つまり、逆に言うと、ライブの始まる時やMCの間にピンピンとチューニングをしている日本のギタリストたちは、そこまでの努力をしてチューニングの狂わないギターを作りだそうとしてはいない、ということになる。

 なぜ彼らはそれをしないのか。チューニングが狂ってもいいと思っているわけではないが、狂ったら直せばいい、と思っているからだろう。とまず思われるが、もうひとつは「ステージの上でチューニングしたい」からなのではないだろうか。

 前述の、1曲目をやる前にチューニングするの、意味あるの? と尋ねた時の、Yの答えはこうだった。

「あれはチューニングをしてるけど、チューニングをしてるんじゃないんだよ」

「え、じゃあなんなんですか?」

「ほら、ムエタイの選手って、試合前に神に捧げる踊りをするじゃない? あれと一緒だと思う。あれをやることによって精神を集中する、みたいな」

「へえー。でもそれ、客前でやる意味なくないですか? 楽屋でやれよ、って話じゃない?」

「いや、だってムエタイの選手もリングで踊るじゃん。誰も『控室で踊れよ!』って怒らないでしょ? リングなりステージなりっていう場に立ってるからこそ、その行為に意味がある、ってことなんじゃないかな」

 これを拡大解釈すると、曲間のMCの時にチューニングをするのも、「あれをやることで心が落ち着く」「ボーカルがしゃべっている間、手持ち無沙汰にならなくてすむ」という理由なのではないかという気がする。

 そう考えるとわかる。腑に落ちるし、そちらの事情も理解できる。できるんだけど、いざ観る側に回ると……日常的にライブというものを観るようになって30年以上経つが、いまだに慣れることができない。単に、私がすんごいせっかちな性格だからなんですが。MCもないならなくていい、どんどん曲をやってほしい、ぐらい思うタチだからなんですが。

 でも結論。チューニングの狂わないギターは存在しない。一部のスーパーギタリストは、自分で自分のギターをそのように作り替えていくが、大半のギタリストは、それをやらない。なぜ。ステージでチューニングをしたいから。

 なお、私、ギター、持っていますが弾けません。毎年正月になるたびに「今年こそはギター弾けるようになりたい」「あと、今年こそは英語しゃべれるようになりたい」と思い続けて30年以上経過、そんな奴ですので、お詳しい方からの、あるいは当事者であるギタリストからの、異論反論は大歓迎です。(兵庫慎司)
(記事引用)

蓮實重彦さん、報道陣に「馬鹿な質問はやめていただけますか」
三島由紀夫賞を受賞 The Huffington Post |  執筆者: 吉川慧ハフィントンポストについて
投稿日: 2016年05月17日 11時12分 JST 更新: 2016年05月17日 14時09分 JST

「第29回三島由紀夫賞」(新潮文芸振興会)の選考会が5月16日に開かれ、フランス文学者で元東大総長の蓮實重彦さん(80)の「伯爵夫人」に決まった。都内で開かれた受賞記者会見で蓮實さんは「まったく喜んではおりません。はた迷惑な話だと思っております」と受賞の感想を不愉快そうに述べた。報道陣からの質問には「馬鹿な質問はやめていただけますか」などと切り返す場面もあり、会見場は異例の重苦しい雰囲気に包まれた。

会見の模様はニコニコ生放送でも中継された。詳細は以下の通り。

■受賞会見の質疑応答

――最初に伺いますが、三島賞受賞の知らせを受けてのご心境をお願いします。

「ご心境」という言葉は、私の中には存在しておりません。ですからお答えしません。

――本日、蓮實さんは、どちらでお待ちになっていて、連絡を受けたときはどのような感想を持ちましたでしょうか。

それも、個人的なことなので申しあげません。

――わかりました。それと、今回、三島賞の候補になったとき、当然のことながら事務局から連絡があり、了解されたと思います。正直、蓮實さんが、前途を開く新鋭の新人賞に候補になったのはびっくりした。もしかしたらお断りになるのではないかと思っていたので。蓮實さんはどのような思いでお受けになったのでしょうか。

それもお答えいたしません。

――じゃあもう一つ、別の質問を。今回、選考委員を代表して町田康さんが代表して講評を伝えられました。町田さんによると、「さまざまな議論があった中で、これまで退廃的な世界も描かれてきた蓮實さんですが、今回の作品は言葉で織り上げる世界が充実していて、小説としての出来は群を抜く」という、そのような…。

あの、質問なら簡単におっしゃってください。

――「さまざまな議論があった中で、これまで退廃的な世界も描かれてきた蓮實さんですが、今回の作品は言葉で織り上げる世界が充実していて、小説としての出来は群を抜く」という評価がありました。そういった評価についての思いは何かありますか。

ありません。

―わかりました。それと、今回、三島賞の候補になったとき、当然のことながら事務局から連絡があり、了解されたと思います。正直、蓮實さんが、前途を開く新鋭の新人賞に候補になったのはびっくりした。もしかしたらお断りになるのではないかと思っていたので。蓮實さんはどのような思いでお受けになったのでしょうか。

それもお答えいたしません。

――じゃあもう一つ、別の質問を。今回、選考委員を代表して町田康さんが代表して講評を伝えられました。町田さんによると、「さまざまな議論があった中で、これまで退廃的な世界も描かれてきた蓮實さんですが、今回の作品は言葉で織り上げる世界が充実していて、小説としての出来は群を抜く」という、そのような…。

あの、質問なら簡単におっしゃってください。

――「さまざまな議論があった中で、これまで退廃的な世界も描かれてきた蓮實さんですが、今回の作品は言葉で織り上げる世界が充実していて、小説としての出来は群を抜く」という評価がありました。そういった評価についての思いは何かありますか。

ありません。

 ――(司会)他にございますでしょうか。

ないことを期待します。

――こういう場ですと、受賞が決まった方に「おめでとうございます」という言葉を投げかけてから質問するのが通例ですが、ちょっとためらってしまう。蓮實先生は、受賞について喜んでいらっしゃるんでしょうか。

まったく喜んではおりません。はた迷惑な話だと思っております。80歳の人間にこのような賞を与えるという機会が起こってしまったことは、日本の文化にとって非常に嘆かわしいことだと思っております。

もっともっと若い方。私は、順当であれば、いしいしんじさんがお取りになられるべきだと思っておりましたが、今回の作品が必ずしも、それにふさわしいものではないということで。選考委員の方が、いわば「蓮實を選ぶ」という暴挙に出られたわけであり、その暴挙そのものは、非常に迷惑な話だと思っています。

――いま話にでましたが、「日本文化の状況にとってはよろしくない」と。今の文学の状況について、先生の目から見て何かものたりなさを感じるようなことはあるのでしょうか。今回、ご自身が作品を発表される背景にもそういうお考えがあったり…。

いえ、それはありません。

――「もっと若い方が取るべきだ」とありましたが、ついこの間、蓮實さんは早稲田文学新人賞で黒田夏子さんを選ばれて、彼女は芥川賞をとりました。必ずしも80歳ということ(が「暴挙」)なのか。それとも別の理由なのか。黒田さんも受賞時に70代の後半を超えていらっしゃったかと思います。「暴挙」と言われる理由についてもう少し具体的にお答え頂ければ。

黒田さんは若い方ですので、一切問題ないと思います。若々しい方ですし、文学としても若々しいものであると。従って、若者的な若々しさとは違う何かがあったので、私は選ばせていただきました。

――今回の作品は、舞台が戦争の始まる直前とはいえ、若い男の子が主人公で、非常に映画が好きで。なにか蓮實さんの若い青春期を思い起こさせるような…。

いや、全くそれはありません。あの、馬鹿な質問はやめていただけますか。

――わかりました。黒田さんの世界には若々しさがあると。私は蓮實さんの作品に若々しさを感じたのですが、そういう風にご自身で理解はされていたりしますか。

黒田さん(の作品)は傑作であり、私の書いたものは到底傑作といえるものではありません。あの程度のものなら、私のように散文のフィクションの研究をしているものであれば、いつでも書けるもの。あの程度の作品というのは相対的に優れたものでしかないと思っております。

――「相対的に優れたものでしかない」とご自身の批評、さすがだなと驚いているのですが…。

あの、おっしゃることと、質問が噛み合ってないと思います。いまおっしゃったことは必要ないと思います。

――単刀直入に伺いたい。今回3作目ですが、執筆しようと思われたきっかけがあれば伺いたいのですが。

全くありません。向こうからやってきました。

――依頼があったから書いたという…。

は?

――依頼があったから書いたと…。

いえいえ、そうでありません。

――「小説が向こうからやってきた」ということでしょうか。

そういうことです。

――逆に伺いたいのですが。研究者の目で「相対的に優れたものでしかない」と思いながら、小説というものは書いたりできるものなのでしょうか。やっぱり何か情熱やパッションがなければ書けないと思うのですが。

情熱やパッションは全くありませんでした。専ら、知的な操作によるものです。

――戦争に向かう今の時代の危うさとか、卑猥なイメージで読者を揺すぶってみたいとか。そういう意図はない感じでしょうか。

申し訳ありません。おっしゃることの意図がわかりません。

――先ほど「小説が向こうからやってきた」「知的好奇心」とも仰いました。「『ボヴァリー夫人』論」を書かれたことは大きかったんでしょうか。

それは非常に大きいものであったことは確かです。ボヴァリー夫人』論に費やした労力の、100分の1も、この小説には費やしておりません。

――「三島賞を与えたことは暴挙」とおっしゃったのですが、なぜ候補を断ることをしなかったのでしょうか。

なぜかについては一切お答えしません。お答えする必要ないでしょう。

――講評には「作品として一つの時代の完結した世界を描いている」という話がありました。この作品を現代の今、書く理由というものが、蓮實さんの中にあったのでしょうか。

全くありません。というのは、向こうからやってきたものを受け止めて、好きなように、好きなことを書いたというだけなんです。それでいけませんか?何をお聞きになりたかったんでしょうか。

――80歳になられるところですが、今年の執筆予定など決まっているものがあれば教えてください。

何についてでしょう。小説をまた書くということですか。

――小説とか、研究、批評とか。

小説を書くという予定はありません。書いてしまうかもしれません。なにせ小説というのは向こうからやってくるものですから。あと、ジョン・フォード論は完結しなければいけないと思っておりますが…。

この作品について、どなたか聞いて下さる方はおられないんでしょうか。

――何がやってきて、何について書かれたものでしょうか。文学的研究者として第三者だとしたら、どのように評価されますか。

評価については先ほど申しあげた通りです。「相対的に優れたものであり、あんなものはいつでも書ける」ということです。それから、最初の質問はなんでしたっけ。

――向こうから、何が来たんでしょうか。

向こうから来たというのは、いくつかのきっかけがあったことはお話ししておいたほうがいいと思います。

現在93歳になられる、日本の優れたジャズ評論家がおられますけれども、その方が12月8日の夜、あるジャズのレコードを聞きまくっていたという話があるわけですね。「今晩だけは、そのジャズのレコードを大きくかけるのはやめてくれ」と両親から言われたという話がありますが、その話を読んだときに、私はその方に対する大いなる羨望を抱きまして。結局、「1941年12月8日の話を書きたいなぁ」と思っていたんですが、それが『伯爵夫人』という形で私の元に訪れたのかどうかは、自分の中ではっきりいたしません。

――「書きたいなぁ」と思われたのはいつ頃でしょうか。

「書きたいなぁ」とは一度も思っておりません。

――何について書かれた作品なのでしょうか。

え?

――何について書かれた作品なのでしょうか。この中で、自分は何を書いたと…。

まったく何も書いていません。あの、お読みになって下さったのでしょうか。そしたら、何が書かれていましたか。

この小説は、私が書いたものの中では、一番女性に評判がいいものなんです。私は細かいことは分かりませんが、たぶん今日の選考委員の方々の中でも女性が推してくださったと私は信じています。

――今回は、場所は日本ですけれども、いろいろと海外もでてくる。回想の中でいろいろな場所がでてきますし、歴史的な背景も出てきます。改めて小説的なディテールを書くときに、何かお調べになることがあったのか。それは一切なく、想像の中だけで書き進められたのか。

私の想像の中だけで書き進めたわけですけれども、同時に読んでいた書物の中から、「あ、これは面白い」と拾ったケースなどもあります。

――伯爵夫人と若い青年との出会いというのが、なにか蓮實さんが映画でご覧になったり読んだりしたものが知らずに来たのか。それとも最初に伯爵夫人のような女性が先に出て来たのか。それとも逆に青年が先に来て、伯爵夫人がでてきてしまったか。その辺りお伺いできれば。

今のご質問ですけれども、私を不機嫌にさせる限りの質問ですのでお答えいたしません。

――冒頭の一文に「ばふりばふり」という、ちょっと変わった擬音語がでてきたり、おもしろい日本語、言葉が多いのですが。こういう言葉というのは、どういうふうに使われたのか伺いたいと思います。

「ばふりばふり」というのは、戦前に中村書店という漫画を出している書店がありました。その中で2人の少年が東南アジアに旅する話がありまして、その中で、東南アジアの天井に張ったカーテンを、冷房のために揺らすわけです。その時に「ばふりばふり」という言葉を使っていたので、私が今からほぼ70年前に読んだ言葉が、そのままそこに出てきたものとお考えいただいていいと思います。

――依頼があったから書いたという…。

は?

――依頼があったから書いたと…。

いえいえ、そうでありません。

――「小説が向こうからやってきた」ということでしょうか。

そういうことです。

――逆に伺いたいのですが。研究者の目で「相対的に優れたものでしかない」と思いながら、小説というものは書いたりできるものなのでしょうか。やっぱり何か情熱やパッションがなければ書けないと思うのですが。

情熱やパッションは全くありませんでした。専ら、知的な操作によるものです。

――戦争に向かう今の時代の危うさとか、卑猥なイメージで読者を揺すぶってみたいとか。そういう意図はない感じでしょうか。

申し訳ありません。おっしゃることの意図がわかりません。

――先ほど「小説が向こうからやってきた」「知的好奇心」とも仰いました。「『ボヴァリー夫人』論」を書かれたことは大きかったんでしょうか。

それは非常に大きいものであったことは確かです。ボヴァリー夫人』論に費やした労力の、100分の1も、この小説には費やしておりません。

――「三島賞を与えたことは暴挙」とおっしゃったのですが、なぜ候補を断ることをしなかったのでしょうか。

なぜかについては一切お答えしません。お答えする必要ないでしょう。

――講評には「作品として一つの時代の完結した世界を描いている」という話がありました。この作品を現代の今、書く理由というものが、蓮實さんの中にあったのでしょうか。

全くありません。というのは、向こうからやってきたものを受け止めて、好きなように、好きなことを書いたというだけなんです。それでいけませんか?何をお聞きになりたかったんでしょうか。

――80歳になられるところですが、今年の執筆予定など決まっているものがあれば教えてください。

何についてでしょう。小説をまた書くということですか。

――小説とか、研究、批評とか。

小説を書くという予定はありません。書いてしまうかもしれません。なにせ小説というのは向こうからやってくるものですから。あと、ジョン・フォード論は完結しなければいけないと思っておりますが…。

この作品について、どなたか聞いて下さる方はおられないんでしょうか。

――何がやってきて、何について書かれたものでしょうか。文学的研究者として第三者だとしたら、どのように評価されますか。

評価については先ほど申しあげた通りです。「相対的に優れたものであり、あんなものはいつでも書ける」ということです。それから、最初の質問はなんでしたっけ。

――向こうから、何が来たんでしょうか。

向こうから来たというのは、いくつかのきっかけがあったことはお話ししておいたほうがいいと思います。

――「書きたいなぁ」と思われたのはいつ頃でしょうか。

「書きたいなぁ」とは一度も思っておりません。

――何について書かれた作品なのでしょうか。

え?

――何について書かれた作品なのでしょうか。この中で、自分は何を書いたと…。

まったく何も書いていません。あの、お読みになって下さったのでしょうか。そしたら、何が書かれていましたか。

この小説は、私が書いたものの中では、一番女性に評判がいいものなんです。私は細かいことは分かりませんが、たぶん今日の選考委員の方々の中でも女性が推してくださったと私は信じています。

――今回は、場所は日本ですけれども、いろいろと海外もでてくる。回想の中でいろいろな場所がでてきますし、歴史的な背景も出てきます。改めて小説的なディテールを書くときに、何かお調べになることがあったのか。それは一切なく、想像の中だけで書き進められたのか。

私の想像の中だけで書き進めたわけですけれども、同時に読んでいた書物の中から、「あ、これは面白い」と拾ったケースなどもあります。

――伯爵夫人と若い青年との出会いというのが、なにか蓮實さんが映画でご覧になったり読んだりしたものが知らずに来たのか。それとも最初に伯爵夫人のような女性が先に出て来たのか。それとも逆に青年が先に来て、伯爵夫人がでてきてしまったか。その辺りお伺いできれば。

今のご質問ですけれども、私を不機嫌にさせる限りの質問ですのでお答えいたしません。

――冒頭の一文に「ばふりばふり」という、ちょっと変わった擬音語がでてきたり、おもしろい日本語、言葉が多いのですが。こういう言葉というのは、どういうふうに使われたのか伺いたいと思います。

「ばふりばふり」というのは、戦前に中村書店という漫画を出している書店がありました。その中で2人の少年が東南アジアに旅する話がありまして、その中で、東南アジアの天井に張ったカーテンを、冷房のために揺らすわけです。その時に「ばふりばふり」という言葉を使っていたので、私が今からほぼ70年前に読んだ言葉が、そのままそこに出てきたものとお考えいただいていいと思います。

――依頼があったから書いたという…。

は?

――依頼があったから書いたと…。

いえいえ、そうでありません。

――「小説が向こうからやってきた」ということでしょうか。

そういうことです。

――逆に伺いたいのですが。研究者の目で「相対的に優れたものでしかない」と思いながら、小説というものは書いたりできるものなのでしょうか。やっぱり何か情熱やパッションがなければ書けないと思うのですが。

情熱やパッションは全くありませんでした。専ら、知的な操作によるものです。

――戦争に向かう今の時代の危うさとか、卑猥なイメージで読者を揺すぶってみたいとか。そういう意図はない感じでしょうか。

申し訳ありません。おっしゃることの意図がわかりません。

――先ほど「小説が向こうからやってきた」「知的好奇心」とも仰いました。「『ボヴァリー夫人』論」を書かれたことは大きかったんでしょうか。

それは非常に大きいものであったことは確かです。ボヴァリー夫人』論に費やした労力の、100分の1も、この小説には費やしておりません。

――「三島賞を与えたことは暴挙」とおっしゃったのですが、なぜ候補を断ることをしなかったのでしょうか。

なぜかについては一切お答えしません。お答えする必要ないでしょう。

――講評には「作品として一つの時代の完結した世界を描いている」という話がありました。この作品を現代の今、書く理由というものが、蓮實さんの中にあったのでしょうか。

全くありません。というのは、向こうからやってきたものを受け止めて、好きなように、好きなことを書いたというだけなんです。それでいけませんか?何をお聞きになりたかったんでしょうか。

――80歳になられるところですが、今年の執筆予定など決まっているものがあれば教えてください。

何についてでしょう。小説をまた書くということですか。

――小説とか、研究、批評とか。

小説を書くという予定はありません。書いてしまうかもしれません。なにせ小説というのは向こうからやってくるものですから。あと、ジョン・フォード論は完結しなければいけないと思っておりますが…。

この作品について、どなたか聞いて下さる方はおられないんでしょうか。

――何がやってきて、何について書かれたものでしょうか。文学的研究者として第三者だとしたら、どのように評価されますか。

評価については先ほど申しあげた通りです。「相対的に優れたものであり、あんなものはいつでも書ける」ということです。それから、最初の質問はなんでしたっけ。

――向こうから、何が来たんでしょうか。

向こうから来たというのは、いくつかのきっかけがあったことはお話ししておいたほうがいいと思います。

現在93歳になられる、日本の優れたジャズ評論家がおられますけれども、その方が12月8日の夜、あるジャズのレコードを聞きまくっていたという話があるわけですね。「今晩だけは、そのジャズのレコードを大きくかけるのはやめてくれ」と両親から言われたという話がありますが、その話を読んだときに、私はその方に対する大いなる羨望を抱きまして。結局、「1941年12月8日の話を書きたいなぁ」と思っていたんですが、それが『伯爵夫人』という形で私の元に訪れたのかどうかは、自分の中ではっきりいたしません。

――「書きたいなぁ」と思われたのはいつ頃でしょうか。

「書きたいなぁ」とは一度も思っておりません。

――何について書かれた作品なのでしょうか。

え?

――何について書かれた作品なのでしょうか。この中で、自分は何を書いたと…。

まったく何も書いていません。あの、お読みになって下さったのでしょうか。そしたら、何が書かれていましたか。

この小説は、私が書いたものの中では、一番女性に評判がいいものなんです。私は細かいことは分かりませんが、たぶん今日の選考委員の方々の中でも女性が推してくださったと私は信じています。

――今回は、場所は日本ですけれども、いろいろと海外もでてくる。回想の中でいろいろな場所がでてきますし、歴史的な背景も出てきます。改めて小説的なディテールを書くときに、何かお調べになることがあったのか。それは一切なく、想像の中だけで書き進められたのか。

私の想像の中だけで書き進めたわけですけれども、同時に読んでいた書物の中から、「あ、これは面白い」と拾ったケースなどもあります。

――伯爵夫人と若い青年との出会いというのが、なにか蓮實さんが映画でご覧になったり読んだりしたものが知らずに来たのか。それとも最初に伯爵夫人のような女性が先に出て来たのか。それとも逆に青年が先に来て、伯爵夫人がでてきてしまったか。その辺りお伺いできれば。

今のご質問ですけれども、私を不機嫌にさせる限りの質問ですのでお答えいたしません。

――冒頭の一文に「ばふりばふり」という、ちょっと変わった擬音語がでてきたり、おもしろい日本語、言葉が多いのですが。こういう言葉というのは、どういうふうに使われたのか伺いたいと思います。

記事に対してのコメント2名(これが一番まともな内容だった?) 
Shinji Schenker Tatano
そもそも「表層批評宣言」してる蓮實センセに、作者自身の体験とか作品の裏側を聞く記者の馬鹿を通り越した質問レベルに心底呆れたんだろうな、とこんなアホなオレでもセンセの「ご心境」をお察しし、心から同情いたします(笑) 蓮實センセの会見での司会者や記者どもは、質問する以前にまずは受賞者に対する敬意をはらって、正しい「日本語」を使うお勉強と、作品に対する適切な問いかけが出来る「教養」を身に付けてから質問しようよwこの国のマスコミの劣化にはホトホト呆れる。 あ、ちなみにワタシは”町山派”なので、センセの映画批評は大嫌いですwww
いいね! · 返信 · 8 · 2016年5月17日 15:51 · 編集済み

くろかわ けんたろう
日本で文学とかは難しいところかもしれませんね。日本で理解し易いところがあれば売れるとか利益、そのあたりでしょう。もっとも才能や資質に欠いたようなおじさんが、こうと信じる、女性作家とか若年フリーター作家を、実はネーム力0なのに、無理やり芥川、太宰だと押し付け、それをプロモーションするという狭い業界のある一日でしょう。広告様は、書籍や書店経営に最近力を入れており、例えばとして最近広告様がアメリカ合衆国から聞いたという、同性愛ドラマや小説が、いっぱいになりあふれる日も、もしかしたら近いかもしれません。こうした賞、広告活動とは一切、関わるなとは言えませんが、面白くないし、インターネットでは広告様よりより有意義な文章やコンテンツも得られます。こうした権威やビジネスを守るにはやはり鎖国し、外国からの情報を絶って、一流企業の子弟を縁故採用するを繰り返すしかないのではないでしょうか。幕府よろしく、広告様が指定したアイドル、書籍をこそ一般層は無批判に消費し続けるのでしょう。
いいね! · 返信 · 1 · 2016年5月16日 21:51
(記事引用)

注:作中、重複する部分がある。ペースト部分がうまくいかなくなった。直していると余計に混乱するので、同じ文は、飛ばして読むこと。
-編集筆者より-