豊洲問題の"紛糾"は「現代型組織」の必然だ
政治家に「公約以上」は期待されていない
中島 義道 :哲学者
東洋経済オンライン / 2016年10月1日 8時0分
いまや、築地の東京中央市場の豊洲移転にまつわる不手際で大騒ぎです。豊洲市場の最高責任者である歴代5人もの「市場長」が各建物の下に広がる巨大な地下空洞を「知らなかった」とは、そして(9月下旬の時点で)「誰が」盛り土をやめてこの空洞を造ることを指令したのかわからないとは、怒りを通り越しておかしくてたまらない。これこそ、組織というものの「盲点」ではなくて「笑点」です。

多分、何度も会議を開いて、細部にわたるまで綿密に「検討」したことでしょう。しかし、ポカンと大穴が開いてしまった。私は、これを聴いても何の不思議も覚えなかった。まさに、組織とはこういうもの、その自然な欠陥が全部露出してしまったと言えましょう。

■人類は不自然なほどの無責任体制を採用した

近代社会における組織は、官庁や会社をはじめ、病院でも大学でも、「ほんとうのこと」を見ようとしない。チラリと見えても、必死の思いで隠そうとする。マスコミなどが追及の手を緩めずに、じわじわと瀬戸際まで責めて、もうごまかしきれないと悟ったときに、やっと「ほんとうのこと」を小出しにする。われわれは、何度こういう絵に描いたように画一的な構図を見てきたことでしょうか。

極めて興味深いことは、こういう構図は近代法の基本原理である「基本的人権」を背景にして成立しているということです。責任を負わせるには、どこまでも注意深くなくてはならない。かつての魔女裁判・異端尋問をはじめとする残酷な濡れ衣を避けるために、人類は不自然なほどの無責任体制を採用したのです。

このことは、前々回で取り上げた「舛添問題」に典型的に現れていますが、ある不祥事を人から責められて直ちに責任を認めることは、まずない。まずは、「まったくの誤解」であることを「誠心誠意」語る。テレビの視聴者は、画面上で動く舛添さんの表情や身のこなし、口調から「どこかおかしい」と思うのですが、決定的証拠を見いだせない限り、すでに「あきらめる」覚悟もしている。一種のゲームが開始され、すべては直感的・常識的な「おかしさ」とは 別のところで動いていくことを予感するのです。

国民は、格闘技を見物するかのように、野党やマスコミの追及を舛添さんがどう「かわす」か、その力量を見てやろうという姿勢になっている。もうこれは慣れっこになっているので、どんなに「おかしく」思っても、公的な裁きは審判の判定に頼らねばならないように、個々人の印象とは別に、法律や証拠によらねばならない、という「教養」を身につけているのです。

そして追及されている者は、いくらごまかしても、いくら人を騙しても、明らかに法律に反していない限り、「法律に反していない」ことを楯にとって、居直っている。そればかりか、自分を責める者を反対に人権侵害と言わんばかりに責め返す。実際、責め返さないまでも、自分は被害者だと言わんばかりの姿勢に早変わりするのです。

法律や証拠にのみ従うというのは、全然尊敬すべき態度ではないのに、そう思い込んでしまうほど、現代人は退化している。いいですか? 「正しい」態度とは、法律や証拠に加えて自分の「良心」に従うこと、単に外形的につじつまを合わせることではなく、内面の叫び声をも聴くことでしょう。たとえ法律上(証拠上)何の問題もないとしても、良心に照らし合わせて、みずから責任を取ることでしょう。

■ある「村長」が西洋人学者たちに投げかけた問い
 
個人のレベルでは、これがまだあるかもしれない。法律的には罰せられず、誰も証拠をつかめないのに、みずから友人や恋人を騙した非を認めて、責任をとるかもしれない。しかし、民事・刑事事件ではこうしたことはほとんど期待できず、なかでも組織にはまったく期待できません。

医療ミスで病院が、いかなる違法行為でもなく、証拠も挙がっていないのに、(内部告発でもなく)病院長あるいは執刀医みずから「良心に照らして」ミスを認めることがあるでしょうか? 企業が、マスコミから追及されているわけでもなく、国民の批判を浴びているわけでもないのに、ただ「良心に照らして」商品検査のごまかしや手抜きを、やくざとのつながりを、認めることがあるでしょうか? 私が記憶している限り、ないのです。

これに関しては、哲学的に興味深い「ウェイソンテスト」と呼ばれるものがあるので、紹介します。統治形態(よく治められているか)を調べるために、西洋人の学者グループがある未開部落に入った。彼らが「村長」と面会し、統治の仕方を聞き出そうとしたところ、村長はこう答えた。

「この村においては『毎朝(痛い)入れ墨をした者に、私はパンを与える』というルールがあるだけだ。これから村民のうち代表者4人を選ぶ。Aは入れ墨をした。Bは入れ墨をしていない。Cはパンをもらった、Dはパンをもらっていない。さあ、彼らのうち2人だけを選んで『入れ墨をしたか?』あるいは『パンをもらえたか?』という質問をすることによって、私が『よい村長』であるかどうかを決めてくれ。ただし、彼らは質問に対して「はい、いいえ」だけで答える。あなた方はどんな2人を、どういう理由で選ぶであろうか?」

なかなか頭のいい村長ですが、大学のコミュニケーション論の講義で、この問題を出したところ、ほとんどすべての学生は正解に至らなかった。まさに村長の「思う壺」にはまってしまったのです。

さて、結果はどうであったか? 西洋人たちは「なんと簡単な問題なのだ!」と叫んで、すぐにAとDを選んだ。その理由は、もし入れ墨をしたAに「パンをもらえたか?」と聞いたら「はい」と答え、もしパンをもらえなかったDに「入れ墨をしたか?」と聞いたら「いいえ」を答えたら、「入れ墨をしたらパンをもらえる」というルールは守られているわけで、この村は「よい村」であり、村長は「よい村長」であることが証明される。Bは入れ墨をしなかったのだから、パンをもらえないのは自業自得であり、Cはパンをもらえたのだから入れ墨をしたのは当然であって、聞く必要はない。

西洋人たちは自信に満ちた顔つきで、いくぶん村長に軽蔑的視線を注ぎながら、こう答えました。あなた方も、まさに明答と思うのではありませんか? しかし、そうではないのです。この答えを聴いた村長はカラカラと大声で笑って、こう言いました。

「あなた方、私をそんな悪い村長とお思いか? 私がルールを『守る』のは当たり前だ。私はルール(約束)以上のことをするのだ。私は、『入れ墨をすればパンを与える』というルールを作りながら、入れ墨をしなくてもパンを与えるほど『よい村長』なのだよ」

■政治家に公約以上のことなど誰も期待していない
 
これには、西洋人学者たちも度肝を抜かれた……というお話です。わかりますか? 現代社会では、選挙の公約を守るのが「よい政治家」であり、守らないのが「悪い政治家」であって、公約以上のことをすることなど誰も期待していない。都知事が給与を半減するという公約をして、実際は無給にするとしたら、みんな驚くでしょう。

舛添前都知事が、誰からも追及されないのに、家族一同回転寿屋で飲み食いし、それを公費につけておいた(すべて単なる想像ですが)、とみずから告白して辞職したら、みんな唖然とするでしょう。しかし、これこそ正真正銘の「よいこと」ではないでしょうか? しかし、「ウェイソンテスト」が示そうとしていることは、(西洋型)近・現代人は、このことを自覚しなくなったということです。

たとえば、私は35年以上京王線沿線に住んでいるのですが、最寄りの芦花公園駅から新宿駅まで12駅もあるのに、運賃はたったの170円、記憶のある限り変わっていません。京王線は清潔で(うるさい車内放送と駅構内放送を除いて)快適で、乗務員の対応もよく、現代日本のほかの物価とくらべても格安だと思うのですが、たとえそこで私が新宿駅長室を訪れ「京王線は安すぎますから、これからはぜひ新宿まで200円払いたいのですが……」と訴えても、たぶん聞き入れられないでしょう。

私はあの「よい村長」と同じ思想のもとに「よいこと」をしようとしたのですが、どんなに説明しても駅長を納得させることはできないにちがいない。いや、まずくすると気味悪がられて、警察を呼ばれるかもしれない(から、私といえども実行はしないのです)。

というわけで、現代社会は、ルール以上の意味での「よいこと」をすることはまったく期待されないどころか、異常者として排斥されるほどである。とすると、豊洲の巨大な地下空洞を誰が指示したか、なかなかわからないのも、まあわかるというものです。
(記事引用)