初期フランドル派ウイキペディア )
『アルノルフィーニ夫妻像』(1434年)、ヤン・ファン・エイク。
Van_Eyck_-_Arnolfini_Portrait
ナショナル・ギャラリー(ロンドン)所蔵。
この肖像画はその寓意性、象徴性に複雑な意味を持たせた西洋絵画の嚆矢とみなされており、さらに垂直遠近法を採用した最初期の絵画作品の一つと言われている。

『十字架降架』(1435年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン。
プラド美術館(マドリード)所蔵。
初期フランドル派(しょきフランドルは)、または初期ネーデルラント派(しょきネーデルラントは)は、15世紀から16世紀にかけて北方ルネサンス期(アルプス以北の北ヨーロッパの美術運動を意味すると同時に、イタリア以外での全ヨーロッパのルネサンス運動の意味もある)のブルゴーニュ領ネーデルラントで活動した芸術家たちとその作品群を指す美術用語。
初期フランドル派は、フランドル地方のトゥルネー、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルなどの都市で特に大きな成功をおさめただけでなく、西洋美術史上の観点からも極めて重要な美術運動である。

初期フランドル派の作品には最後期ゴシック様式である国際ゴシックの影響がみられるが、1420年代初頭に活躍したロベルト・カンピンとヤン・ファン・エイクが、国際ゴシック様式をさらに発展させた。
美術運動としての時代区分は、少なくとも前述のロベルト・カンピン(1375年頃 - 1444年)とヤン・ファン・エイク(1395年頃 - 1441年)が活動した1420年代初頭から、ヘラルト・ダフィト(1460年頃 - 1523年)の死去まで続くとされている。
ただしその終焉を、八十年戦争のきっかけとなったネーデルラント諸州のスペイン・ハプスブルク家に対する反乱 (en:Dutch Revolt) が起きた1566年あるいは1568年とする研究家も多い。

初期フランドル派の活動時期はイタリアの初期・盛期ルネサンスとほぼ合致する。しかし中央イタリアの古典古代の復興(ルネサンス人文主義)を背景とするイタリアルネサンス絵画とは別個の美術様式であるとみなされている。初期フランドル派の画家たちは、それまでの北ヨーロッパ中世美術の集大成とルネサンス理念からの影響とを融合させた作品を産みだした。
その結果、作品の美術様式としては初期ルネサンスと後期ゴシックの両方にカテゴライズされることもある。

初期フランドル派の重要な芸術家として、ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン、ディルク・ボウツ、ペトルス・クリストゥス、ハンス・メムリンク、フーホ・ファン・デル・フース、ヒエロニムス・ボスらの名前が挙げられる。このような初期フランドル派の芸術家たちによって、美術における自然主義的表現と、美術作品とその観覧者に一体感を持たせるような仮想画面空間の構築手法 (en:Illusionism (art)) は飛躍的な進歩をみせ、さらに作品に複雑な寓意を持たせる技法が発展していった。絵画作品としてはキリスト教の宗教画や小規模な肖像画が多く、物語性のある絵画や神話画はほとんど描かれなかった。風景画は独自の発展を遂げており、単独で描かれることもあったが、16世紀初頭までは肖像画や宗教画の背景の一部として小さく描かれることのほうが多かった。支持体に木板を使用して油彩で描かれた板絵が多く、一枚の板からなる作品、あるいは複数枚の板を組み合わせた三連祭壇画や多翼祭壇画などが制作されている。初期フランドル派の芸術家たちは、絵画作品以外にも彫刻、タペストリー、装飾写本、ステンドグラスなども制作しており、美術史上重要な作品も多い。
初期フランドル派の活動時期はブルゴーニュ公国がヨーロッパ中に大きな影響力を持っていた時代とも合致する。当時のネーデルラントはヨーロッパ政治経済の中心地であり、また、高い芸術的技能を誇る高級品の一大産地でもあった。徒弟制度と工房を活用した制作手法によって多くの芸術品を生産することが可能で、諸国の王侯貴族からの直接注文、公開市場のどちらにも良質な作品を供給することができた。極めて多くの芸術作品がこの時期に制作されたが、16世紀半ばにオランダを中心に発生したビルダーシュトゥルム(en)と呼ばれる偶像破壊運動(イコノクラスム)で多くの作品が破壊されたために、現存しているのはわずか千点あまりに過ぎない。さらに、1600年代半ばのマニエリスムの勃興とともに初期フランドル派の作品は流行から外れ、大衆からの人気がある作品群ではなくなった。その結果、現在に伝わる初期フランドル派の作品に関する公式な資料、記録がほとんど存在せず、もっとも重要視される芸術家の情報でさえもほとんど伝わっていないという事態が生じた。初期フランドル派が再評価され始めたのは19世紀半ばになってからのことで、その後美術史家たちの一世紀以上にわたる研究により、作者の特定、こめられた寓意や象徴の解釈、主要な芸術家の生涯などが解明されつつある。しかしながら、重要な作品の作者については今なお大きな議論の的となっている。

用語と領域

1432年にヤン・ファン・エイクが完成させた『ヘントの祭壇画』。この作品と装飾写本の『トリノ=ミラノ時祷書』が、初期フランドル派最初の重要な作品だと見なされている。
「初期フランドル派」は、ブルゴーニュ公国の統治下にあった15世紀から16世紀のネーデルラントで発展した絵画作品と、その作者たる画家を意味する用語として使用されることが多い。初期フランドル派の芸術家たちは、この時代の北ヨーロッパでそれまでの中世ゴシック様式から徐々に脱却し、北方ルネサンスと称される新たな美術様式を創りあげていった。当時の政治的観点ならびに美術史的観点から見れば、ブルゴーニュ公国の文化の影響は、現在のフランス、ドイツ、ベルギー、オランダに渡る地域にまで波及していた。
「初期フランドル派」はさまざまな呼ばれ方をすることがある。「後期ゴシック派」は中世絵画との連続性を重視する立場の用語で、フランス語起源の「初期フランドル派」という用語は、19世紀まで続くフランドルの伝統的芸術の一期間を示すとする立場である。1900年代初頭の英語圏諸国では「ヘント=ブルッヘ派 (en:Ghent-Bruges school)」や「旧ネーデルラント派 (Old Netherlandish school)」と呼ばれることが多かった。「初期フランドル派 (Flemish Primitives)」は、もともとフランス語での伝統的な美術史用語で1902年以降に有名になった呼称であり、とくにオランダとドイツでは現在でもこの名称が主に使用されている。初期フランドル派の「初期」という言葉は粗野で洗練されていないということを表しているのではなく、初期フランドル派の画家たちが新しい絵画の歴史、例えばテンペラから油彩への転換などにおける原点ともいえる存在であることを意味する。ドイツの美術史家エルヴィン・パノフスキーは、もともとは音楽用語である「アルス・ノーヴァ(新しい芸術)」や「ヌーベル・プラティーク(新たな技法)」という用語を使用することにより、初期フランドル派と当時のブルゴーニュ宮廷で人気のあったギヨーム・デュファイ、ジル・バンショワといった先進的な作曲家たちとを関連付けている。ヴァロワ=ブルゴーニュ公家がネーデルラントの統治を確立すると、ネーデルラントはより国際都市的な変貌を遂げ始めた。オーストリア人美術史家オットー・ペヒト (en:Otto Pächt) は、1406年から1420年にかけて芸術の分野でも同様の事象が発生したとし、「絵画に大変革が起きた」、芸術に写実主義という「新たな美」が顕現したと指摘している。

1477年当時のブルゴーニュ公国の地図。ブルゴーニュ公国は15世紀にヴァロワ=ブルゴーニュ家が政治的に統治していた地域で、フランドル北部とネーデルラント王国南部も含まれる。芸術の中心地だったのは15世紀に栄えたブルッヘとヘント、16世紀に栄えたアントワープである。
19世紀時点では初期フランドル派に関する研究が十分に進んでいなかった。当時の研究者たちは、ヤン・ファン・エイクはドイツ人、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンはフランス人で、初期フランドル派発祥の地もフランスかドイツだと考えていた。これらの学説は第一次世界大戦後になってから否定され、ドイツ人のマックス・ヤーコブ・フリートレンダー、パノフスキー、オーストリア人のペヒトらが初期フランドル派の研究発展に大きな業績を残した。この三名のようなドイツ語圏の研究者をはじめ、世界各国の美術史家たちは初期フランドル派の呼称に「フランドル」という地方名を使った用語を使用しているが、英語圏では「初期ネーデルラント派」という用語が使用されることが多い。
14世紀はゴシック様式が国際ゴシック様式へと推移していった時代で、その他にも北ヨーロッパでは様々な芸術学派、様式が発展していた。初期フランドル派の起源は、フランス王宮で伝統的に発展してきた装飾写本に求めることができる。現代の美術史家たちは、フランス王宮でこのような装飾写本が制作されるようになったのは14世紀からだとしている。その後、装飾写本の技法をメルキオール・ブルーデルラムやロベルト・カンピンといった、初期フランドル派の板絵画家たちが取り入れ始めた。カンピンは初期フランドル派最初期の重要な画家であるロヒール・ファン・デル・ウェイデンの師だったとも言われる画家でもある。装飾写本は、ブルゴーニュ公フィリップ2世、アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世といった当時の権力者たちから庇護を受け、1410年代にその最盛期を迎えた。その後もブルゴーニュ公家は装飾写本の庇護を続け、フィリップ3世、シャルルは多くの装飾写本を制作させている。装飾写本は15世紀の終わりごろには衰退しているが、これは板絵に比べて装飾写本の制作工程が遥かに複雑で、高額な費用がかかったためだと考えられている。それでも装飾写本は最高の贅沢品としての市場価値を保ち続けており、他にも木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画も、マルティン・ショーンガウアーやアルブレヒト・デューラーといった優れた芸術家の登場によって新たな人気を獲得していった。

『快楽の園』(1490年 - 1510年頃)、ヒエロニムス・ボス
プラド美術館(マドリード)
中央パネルに描かれているモチーフが道徳的警鐘なのか失楽園なのか、美術史家の間でも見解が分かれている作品。
14世紀の装飾写本には欠落していた精緻な光と影の表現技法を確立し、絵画作品にもたらしたのがヤン・ファン・エイクである。この技法によって聖書の場面をモチーフとした宗教画は自然主義で描かれるようになり、世俗的な肖像画もより感情に訴えかける生き生きとした描写で描かれるようになった。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガはその著書『中世の秋』で、日々の暮らしが「美しさに満ちた」宗教的な儀式や礼典と密接に結び付いた時代だったと記している。このような北ヨーロッパの美術作品はヨーロッパ全土で高く評価されていたが、様々な理由により1500年ごろから徐々に翳りを見せ始める。イタリアで勃興したルネサンス美術が商業的な成功を収め、数十年後には完全に市場価値が逆転してしまった。当時の初期フランドル派美術作品とイタリアルネサンス美術作品の逆転を象徴する出来事が二つある。1506年にルネサンスの巨匠ミケランジェロの大理石彫刻作品『聖母子 (en:Madonna of Bruges)』がブルッヘに、1517年には同じくルネサンスの巨匠ラファエロが描いたタペストリの下絵である『ラファエロのカルトン』がブリュッセルに持ち込まれて好評を博している。ルネサンス美術は北ヨーロッパにもたちまちのうちに広まったが、初期フランドル派の画家たちがルネサンス芸術家たちに与えた影響も少なくない。ミケランジェロの聖母マリアは、ハンス・メムリンクが発展させた様式をもとにして制作されているのである。
その死をもって初期フランドル派の終焉とする学説もあるヘラルト・ダフィトの没年は1523年のことである。クエンティン・マセイスやヒエロニムス・ボスといった芸術家たちは、16世紀半ばから後半にかけても初期フランドル派の様式を維持し続けていたが、この二人を初期フランドル派の芸術家だとはみなさない美術史家も少なくない。ファン・デル・ウェイデンやヤン・ファン・エイクといった最初期の芸術家の作風とはあまりにかけ離れ過ぎだとする。16世紀初頭の北ヨーロッパの芸術家たちは自身の作品に三次元的錯視表現を持ち込み始めた。それでもなお16世紀初頭の絵画作品には前世紀に使用された技法や寓意表現の影響が顕著であり、前世紀からの伝統的絵画様式に忠実に則った、過去作品のコピーといえるような絵画を制作し続けた画家たちもいた。ルネサンス人文主義の影響から抜け出せずに、キリスト教を主題とした宗教画をギリシア・ローマ神話と混交した作品として描き続けた画家たちも存在している。北ヨーロッパの絵画作品が15世紀半ばの様式から完全に脱却したのは、1590年ごろから興った北方マニエリスム (en:Northern Mannerism) 以降のことだった。これは16世紀初頭から中盤にかけてイタリアで隆盛した、ルネサンス後期様式といえるマニエリスムの時期と合致する。世俗人を描いた自然主義の肖像画、庶民あるいは貴族の生活を描いた風俗画、背景として描かれることが多かった風景画や都市画の発展など共通点も多い。
歴史[編集]

『トリノ=ミラノ時祷書』のミニアチュール『聖十字架の発見』。
ヤン・ファン・エイクだと考えられている「画家 G」の作品。
初期フランドル派の起源は、後期ゴシック期の装飾写本の挿絵であるミニアチュールに求めることができる。伝統的な装飾写本に、より精緻な写実性、遠近描写、色彩表現が見られるようになったのは1380年以降のことで、リンブルク兄弟と『トリノ=ミラノ時祷書』の挿絵を手掛けた複数の画家のうちでもっとも高く評価されているネーデルラントの「画家 G」によってそれらの技法が頂点に達した。この「画家 G」が誰なのかは確定していないが、ヤン・ファン・エイクかあるいはその兄であるフーベルト・ファン・エイクだという説が有力となっている。ベルギーの美術史家ヘルヘ・フラン・デ・ルーは『トリノ=ミラノ時祷書』に描かれた「画家 G」による挿絵のことを「現在にいたるまでのあらゆる本の装飾として、最上級の作品群のひとつである。制作されて以来、美術史の観点からしてももっとも優れた作品と言える」と評価している。
油彩技法の確立という極めて重要な変革を成し遂げ、後世の画家たちの絵画制作に多大なる影響を与えたのがヤン・ファン・エイクである。16世紀の画家で、『画家・彫刻家・建築家列伝』を著した美術史家としても知られるジョルジョ・ヴァザーリは、ヤン・ファン・エイクが油彩の発明者であるとしているが、これは誇張された記述である。油彩そのものは以前から存在しており、ヤン・ファン・エイクは油を固着剤として絵具に使用する技法を確立して広く知らしめた画家だった。ヤン・ファン・エイクは油絵具を用いた高度な絵画技法を築き上げた。これは油絵具の乾燥が極めて遅いことを利用したもので、絵具が乾く前に様々な加筆や混色、重ね塗りなどを使用することによって精緻な表現描写を可能とする技法である。さらにロベルト・カンピンやロヒール・ファン・デル・ウェイデンが、ヤン・ファン・エイクの油彩技法を即座に自身の作品に取り入れ、更なる改良を加えていった。この三人が初期フランドル派のなかで最も優れた画家と言われており、第一世代の初期フランドル派の画家たちに非常に大きな影響を与えた。そして、東はボヘミアやポーランド、南はオーストリアやスワビアに至る北ヨーロッパ中に、この三人の画家たちの影響が及んでいくことになる。

『ターバンの男の肖像』 (1433年)、ヤン・ファン・エイク。
ヤン・ファン・エイクの自画像の可能性がある。

『ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの肖像』(1572年)、コルネリス・コルト画。
伝統的に初期フランドル派に分類される画家の中にも、現代の地理でいうところのオランダ、フランドル出身ではない人物は多い。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンはトゥルネー出身で、その誕生名はフランス語風のロジェ・ド・ラ・パステュールである。ドイツ出身のハンス・メムリンク、エストニア出身のミケル・シトウもフランドルで活動し、フランドル様式の作品を描いた、初期フランドル派に分類される画家である。シモン・マルミオンは現在のフランス北部の都市アミアン出身だが、1435年から1471年当時のアミアンがブルゴーニュ公国の一部だったために、初期フランドル派の画家のひとりとみなされることが多い。当時のブルゴーニュ公国は大きな影響力を持った強国であり、初期フランドル派の画家たちが成し遂げた絵画技法の革新はほどなくヨーロッパ中に広まっていった。ヤン・ファン・エイクの絵画作品は、その存命中からヨーロッパ中の富裕層が争って買い求めるほどの評価を得た。複製画も大量に制作され、初期フランドル派絵画の作風を中央ヨーロッパや南ヨーロッパへ広めることに大いに貢献した。当時の中央ヨーロッパ芸術には、イタリアからのルネサンスと北方絵画両方の革新の影響が見られる。この二派の様式は混交し、ハンガリー王マーチャーシュ1世など両派の画家を後援する王侯貴族も現れることとなった[33]。
最初期の初期フランドル派の主要な画家たちは、読み書きができる十分な教育を受けた中流階級以上の出身である。ヤン・ファン・エイクもファン・デル・ウェイデンもブルゴーニュ宮廷で高い地位を与えられており、とくにヤン・ファン・エイクはヨーロッパ中の上流階級の公用語だったラテン語の読解力が要求される役割を果たしていたと言われる。その作品にみられる銘文から、ヤン・ファン・エイクがラテン語とギリシア語両方に精通していたことが伺える。初期フランドル派の多くの芸術家がヨーロッパ各地に後援者を持つようになり、経済的な成功を獲得していった。ヘラルト・ダフィトやディルク・ボウツなど多くの画家が大規模な絵画を個人的に制作し、その作品を自身の好みに応じた教会や修道院に寄進するだけの金銭的余裕があった。また、ヤン・ファン・エイクはブルゴーニュ公宮で宮廷画家ならびに近侍 (en:valet de chambre) の地位を与えられており、ブルゴーニュ公フィリップ3世に親しく謁見できる立場の人物だった。ファン・デル・ウェイデンは堅実な投資家で、計算高かったボウツは裕福な女相続人カタリナを妻とし、フランク・ファン・デル・ストクト (en:Vrancke van der Stockt) は不動産に投資して財を成している[34]。

『女性の肖像』(1460年頃)、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン。
ナショナル・ギャラリー(ワシントン)所蔵。
ファン・デル・ウェイデンはこの作品でモデルとなった女性を理想化することなく、より自然主義的な表現で描いている。
初期フランドル派の画家たちの影響は、15世紀にケルンで活動していたシュテファン・ロッホナーや通称「聖母の生涯を描いた画家」(en:Master of the Life of the Virgin) と呼ばれている画家たちにも及んでいた。両者の作品にはファン・デル・ウェイデンやボウツが描いた作品からの影響が見て取れる。その後、ヨーロッパ諸都市で独自の絵画様式が発展し、16世紀初頭の神聖ローマ帝国ではウルム、ニュルンベルク、ウィーン、ミュンヘンなどが芸術の中心都市となっていった。フランス、南北イタリアの芸術革新を受けて、木版あるいは銅板によるエングレービングを用いた版画などの芸術も発展を見せている。16世紀になっても前世紀の絵画技法、様式から大きな影響を受け続けた画家たちも存在していた。当時の先進的な画家だったヤン・ホッサールトはヤン・ファン・エイクが15世紀半ばに描いた『教会の聖母子』の複製画を制作している。ヘラルト・ダフィトは自身が良く訪れていたブルッヘやアントウェルペンの様式が見られる絵画を制作した。ダフィトは1505年にアントウェルペンに移住しており、当地のアントウェルペン画家ギルドの会長だったクエンティン・マセイスと親交を結ぶようになった。

『雪中の狩人』(1565年)、ピーテル・ブリューゲル。
美術史美術館(ウィーン)所蔵。
ブリューゲルが冬の情景を描いた絵画中でもっとも有名な作品。16世紀半ばには世俗の風俗画が好んで描かれた。
ヤン・ファン・エイクが発展させた革新的な寓意技法や絵画制作技法は、16世紀になるころには北ヨーロッパで各地でごく標準的なものとなっていた。ニュルンベルクではアルブレヒト・デューラーが、ヤン・ファン・エイクの細部にわたる精緻な表現を模写することによって精密な表現技法を身につけ、さらにデューラー独自の宗教色の感じられない人体描写へと昇華させている。画家という職業が高く評価され、画家たちはさらなる尊敬と社会的地位を謳歌するようになっていった。芸術家のパトロンはたんなる絵画制作依頼者ではなく、芸術家を自身の宮廷に迎え入れ、新たな見聞を広めるための旅行資金をも出資可能な王侯貴族が中心となっていった。15世紀終わりから16世紀初頭にかけて活動したヒエロニムス・ボスは、初期フランドル派の芸術家の中でももっとも重要で有名な画家のひとりである。ボスは非常に特異な画家であり、初期フランドル派の特徴とも言える自然描写、人物描写における写実主義、遠近法の採用はほとんど見られず、イタリアルネサンスからの影響も皆無と言える。それらの代わりに、現在もっとも広く知られているボスの作品には、ヤン・ファン・エイクが『キリスト磔刑と最後の審判』で地獄の図として描いた空想的で幻覚を起こさせるような生物や風景が描かれている。ボスはモラリズムやペシミズムに偏向した独自の作風を追求した画家だった。ボスの作品の中でもとくに三連祭壇画の作品群が、後期の初期フランドル派の絵画作品としてもっとも重要視され高く評価されている。
宗教改革の影響により、絵画の主題も聖書の場面を描いた宗教画から世俗的な風俗画や風景がより多く描かれるようになっていった。宗教的なモチーフは教訓や道徳心を意味するものとして扱われ、聖書の登場人物はわずかに背景にのみ描かれた。ピーテル・ブリューゲルはボスの特異な作風を受け継いだ数少ない画家のひとりで、初期フランドル派とその後の画派の橋渡しとなった芸術家である。ブリューゲルの作品には15世紀から続く伝統的な様式が多く残っているが、採用している遠近表現や作品の主題には明確に現代風の作風が見られる。キャリア初期のブリューゲルは宗教画や神話画を描いていたが、のちに広大な風景を主題とした作品を多く描くようになった。ブリューゲルが描いた複雑な構成の風俗画には、キリスト教に対する不信と国粋主義の片鱗が伺える。