マイクロソフトはなぜスマホ時代の敗者となったのか、
元アスキー西和彦が語る
ダイヤモンド2018.7.17 
西 和彦:東京大学工学系研究科IoTメディアラボラトリー ディレクター

 ビル・ゲイツとWindowsを開発、その後、袂を分かって日本に帰国し「アスキー」の社長になった西和彦氏。現在は、東京大学でIoTに関する研究者として活躍している。日本のIT業界を牽引したと言っても過言ではない西氏に、まずはWindowsの開発について語ってもらった。
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自叙伝をまとめて改めて思う
15年刻みで転機迎えた私の人生

 2016年、松の内が明けると同時に、私は、「自叙伝」の執筆を始めた。そんな気になったのは、2月に60歳を迎えることに加え、マイクロソフトのビル・ゲイツと共にMS-DOSやWindowsの開発に没頭した過去のいきさつなどについて、書き残しておくことが重要だと思っていたからだ。そして、パソコンやインターネットの創生期から関わってきた者として、これからの未来についても考えを記しておく責任があると考えていたこともある。

 自伝をまとめてみて改めて確認できたのは、私の人生は「15年刻み」で転機を迎えていることだった。今、62歳だから、結局、私の人生は四つの“時代”で成り立っていたことになる。

 最初の15年は、「電気少年」の時代だ。物心ついた頃から、プラモデルやラジオの製作、アマチュア無線などに夢中になった。身の回りにあるものは、何でも分解して中身を確認しないと気が済まなかったほどだ。初めてコンピュータに触れたのは1972年、16歳の時だった。

 二つ目の15年は、大学在学中にパソコン雑誌(当時はマイコンと呼ばれていた)を創刊したことから始まり、米国では同世代のビル・ゲイツという若者がWindowsの開発を進めていることを知って、その開発に参画すると共に、Windowsベースの日本語版のパソコンOSの開発を進めていた時代だ。大学生から30歳くらいまでの頃だ。

 80年代初頭だったこの頃、私は日本と米国を毎月2往復するような生活を続けていた。今でこそ、海外を飛び回るビジネスマンは当たり前になったが、当時は、海外赴任を命じられたら数年は帰国できないような時代。そんな頃に、日米を頻繁に往復する生活は特異なもので、それだけパソコン革命の胎動に並々ならぬエネルギーを感じていたのだ。

 三つ目の15年は、半導体開発をめぐる方針の違いからビル・ゲイツと袂を分かち、日本に帰国してアスキーの社長に就任した時代だ。株式公開の喜び、バブルの熱狂、そしてリストラの苦しみなど、良くも悪くも会社経営のすべてを体験した時代だ。結果的にアスキーをCSKに売り、私自身もアスキーを去る。それが2002年のことだ。

 四つ目の15年は、教育者、研究者の時代だ。アスキーの仕事から身を退く前から大学で講師をしたり、1999年には博士号を取得したりするなど、研究に目が向き始めていた。アスキーのすべての役職を退いて以降は、マサチューセッツ工科大学(MIT)の客員教授に就任したのを皮切りに、祖母が創立した須磨学園(神戸)の学園長と、尚美学園大学の教授を兼務する生活が続いてた。

 2017年には、東京大学工学系研究科の「IoTメディアラボラトリーディレクター」に就任。学部生や院生に「設計工学」や「産業総論」を共同で教える一方、インターネットを軸としたクラウドとIoT、つまり「ポストスマホ」時代のIT技術を研究している。具体的には、16Kカメラやディスプレイ、次世代の光ディスク、次世代FM音源チップの開発などだ。

 と、これまでの人生を振り返ったところで、まず語っておかなければならないのが「Windowsの蹉跌」についてだろう。

スマホにフルスペックWindowsなら
競争の風景は変わっていた
 東大でこうしたテーマに取り組んでいる背景には、ITのパラダイムシフトの中で、マイクロソフトもビルも、そして私自身も「負けた」という意識があるからだ。

 マイクロソフトはWindowsに磨きをかけていく過程で、必然的にCPUやメモリーといったハードウエアの問題に直面した。簡単に言えば、自らが作ったOSを動かすためのハードを自ら用意すべきなのか、それとも他社に委ねるのかという問題だ。
 当時、私はマイクロソフトで、OSの受け皿となるパソコンの開発を担っていたから、必然的に自社開発を主張したのだが、ビル・ゲイツは最終的にハードウエアは他社に委ねることにし、ソフト開発に特化することにした。この戦略によりマイクロソフトは、半導体の景気サイクルに巻き込まれることもなく、ソフト開発で莫大な収益を獲得していく。

 Windowsが果たした偉大な功績は、改めて紹介するまでもないだろう。パソコンは、1992年頃から世に出始め、マイクロソフトが1995年に発売したWindows95を契機に劇的に普及する。また、業務用ソフトとしても発展を続け、ビジネスオペレーションのインフラにもなっていった。

 そんな巨人が、初めてうろたえるほどの衝撃を受けたのが、スマートフォンの登場だった。

 マイクロソフトも、「Windowsモバイル」というスマホを開発した。このOS自体は、「iOS」や「アンドロイド」に決して負けない優れたOSだった。しかし、最大の戦略ミスは、Windowsのフルスペックをスマホに移植しなかったことだ。スマホでWindowsが動く世界、言い換えればWindowsがプラットホームとなるスマホを創らなかった。それが最大の敗因になった。

 スマホでWindowsがフルで動かせたならば、絶対にWindowsが勝者になっていただろう。なぜならば、日常の暮らしや仕事で使っているOSが、そのままスマホというユビキタスなツールでも使えるからだ。

 しかし、マイクロソフトにその発想はなかった。「スマホにはスマホのOSが必要だ」と考えたのだ。フルスペックWindowsのスマホへの移植に挑戦していれば、今の状況は大きく変わっていたはずだ。

 こうしたマイクロソフトの戦略ミスを誘引したのはインテルだ、というのが私の見立てだ。

 皆さんご存じの通り、マイクロソフトとインテルは、“ウィンテル”と呼ばれるコンビで躍進を続けてきた。「卵が先かニワトリが先か」ではないが、Windowsの機能向上にCPUの機能向上が呼応し、CPUの機能向上にWindowsの機能向上が呼応した。

「複雑な作業をとにかく早く」がウィンテルの基本思想だが、スマホにそれほどの機能はいらない。むしろローパワーな機能で十分だった。インテルにとっては“うまみ”がないが、もしマイクロソフトが彼らにローパワーなCPUを作らせていたら、戦いは変わっていただろう。
スティーブ・バルマーの辞任で

スマホ戦略に幕引き
 マイクロソフトのスマホOS戦略は、CEOだったスティーブ・バルマーの実質的な引責辞任という形で幕を閉じる。

 スティーブの辞任については、ちょっとした裏話がある。ビルは、その前からスティーブを辞めさせる時期を模索し続けていたのではないか。その絶好の機会となったのが、スマホOSの覇権をめぐる中でスティーブが手掛けた、ノキアの買収と失敗だった。

 スティーブは、ビルの後を受け2000年にCEOに就任した。当時は、Windowsが覇権をさらに拡大させようとしていたと同時に、静かに“ポストWindows”とでも言うべき新たなITの主役が模索されていた時代でもあった。

 スティーブは、Windowsの覇権拡大については、辣腕営業マンとしての力量をいかんなく発揮していた。しかし後者の、次なるIT世界の主役の模索と開拓については、まったくと言っていいほど成果を出せていなかった。その象徴が、ゲーム用機器「Xbox」への多額投資の決断と挫折だろう。ただスティーブは、自分の失敗でも人のせいにするところがあり、言い方は妙だがなかなか汚点を残さなかった。

 ノキアの買収が持ち上がったときだ。私は「そもそも、失敗するつもりで買ったら犯罪だけど、ノキアを買って失敗してもマイクロソフトが揺らぐことはない。ならば買ったらいいんじゃない」と思った。

 これはあくまでも私の推測だが、このときにビルには、「ノキアを買収してもスマホ分野で勝ち名乗りを上げるのは難しい。だが、ノキア買収に失敗すれば、その責任を取らせる形でスティーブを平和に辞めさせることができる」というシナリがすでにあったのではないだろうか。つまり、ノキアに投じた金は、スティーブ・バルマーを辞めさせるための“工作資金”的な色合いを備えていたと思えて仕方がないのだ。

 寄り道になるが、一つ思い出話を書けば、私はビルがスティーブを雇う現場に立ち会っていた。
1980年夏のことだ。私と妻、そしてビルとその彼女ら6人は、カリブ海でヨットクルーズを楽しんでいた。そこで話題に出たのが、ビルに参謀役をつける時期が来たのではないかということだった。

 私が、「ビルにもそろそろ男の秘書役がいるんじゃないの」と言ったらビルは、「東京に行くと、お偉いさんは皆、運転手つきのクルマに乗っているけれど、あれは贅沢だと思わないか」と反論する。

 そこで、「それは日本の常識であって、今、言っていることは話が違う。女性の秘書はすでにいるけれど、男の秘書は役割が違う。君の分身として動く人物だ。メールを送っても返事が遅いし、電話もつながらない。そんな状態は、今後、ビジネスが拡大していく中で会社のリスクになっていくのではないか」と言った。

 ビルが納得したようなので、「誰かいないか」と聞くと、「スティーブがいい」という話になった。

 スティーブは、ハーバード時代にビルと学生寮で同じ部屋に住んでおり、第2優等で卒業した秀才だった。学校を出た後はP&Gに勤め、当時はMBAを取得するためにスタンフォードの経営大学院に学んでいた。

 カリブ海のヨットから、スティーブに無線経由で電話をかけた。「年俸5万ドルでマイクロソフトに来ないか」。当時の無線電話は、秘話システムなどないから話の内容はダダ漏れだったろう。と言っても、マイクロソフトという会社名など、一般の人はまだ誰も知らない頃のことだから、なんら問題はなかった。

「コンピューターはメディアである」
具現化で決まるIT世界の栄枯盛衰
 
 結局、ビルも私も、パソコンやネット、デジタルメディアの分野ではそれなりの仕事を残せたものの、スマホでは仕事らしい仕事はなにもしていない、いや、できなかった。それは、われわれにとって蹉跌であった。

 だからこそIoTやクラウドでは、結果を残したいと頑張っているのだが、基本的な考えは、初期の頃と何ら変わっていない。「コンピューターはメディアになる」という認識だ。

 私が仲間と『月刊ASCII(アスキー)』を創刊したのは1977年のこと。その創刊号のコラムで、私は「コンピューターはメディアになる」と書いた。その意味するところは、コンピューターはまず数字を扱い、次に文字を扱うようになり、そして写真やグラフィックスを扱うようになる。そこでとりあえずの成熟を迎え、そこからさらにオーディオ編集やビデオ編集などの世界が始まってくるというものだった。
なぜそんな認識を持ったかといえば、私がアマチュア無線をやっていたからだ。無線そのものは、音声や電信での通信を楽しむものだが、実はアマチュアでも電波を利用して音声映像を送受信したり(つまりテレビだ)、テレタイプをやったり、ファックスのような送受信を行うなど「上級者ならではの」楽しみ方があった。

 無線家にとって、コンピューターは通信機に他ならなかったし、ならば通信機と同様に数字や音声、映像などさまざまなメディアを展開できると考えるのはすごく自然な発想だったのだ。

 メディアとは、具体的には「情報を運ぶ」「情報を売る」「情報に広告を載せる」という三つの要因で成立している。従前は、運ぶを郵便や電話が担い、売るを新聞や雑誌が担い、広告を載せることはテレビが担うという形で、事業として成立させてきた。

 それぞれ個別の事業が、IT革命でどんな変容を迫られているかは、次回で詳しく述べてみようと思うが、いずれにしもスマホというツールが、メディアとしてどのような機能を発揮するかについて私は具体的な認識を持たず、技術的にもソフト的にも具体的な関わりを持つことができなかった。これは非常に悔しい。

 15年周期の第4時代である45歳以降は、研究者や教育者として生き、成果物も少なくなかった。マイクロプロセッサー「ネクスジェン686」、日本初のメディアセンター、世界初の64ビットパソコン、日本最速スーパーパソコンクラスターなど、自慢できる成果はあるのが、主流となるスマホに関わっていくものではなかった。

 ネットを軸にしたIoTとクラウドの新しいIT世界は、私が取り組んできたことを存分に活かせる場でもある。コンピューターはメディアとなる、という基本認識をどのように拡張していけるか、また流れに重ねていけるか。それが具体的にどのような形で展開されるか。次回は、その展開のアイデアについて既存メディアの変容などを踏まえつつ述べてみたいと思う。

*次回は7月30日(月)公開予定です。

(記事引用)