五木寛之 雑文録
連載10513回 「心の相続」とはなにか <1>
公開日:2018/10/15 17:00 nikkan-gendai
 
 最近、ふしぎなところから、しきりと講演の依頼がくるようになった。
 これまでほとんど縁のなかった分野の業界である。経済団体とか、新聞社・雑誌社の経営セミナーとか、ときには信託銀行などの企業だ。
 私はふだんは文化ホールや学校、また地方の公民館やお寺さんなどで話をすることが多い。経済やビジネスの世界などには全く関係がないので、けげんな気がした。
 それでも頼まれれば出かけていく。私は講演というか、人に話をすることを大事な仕事だと思ってきたからだ。

 しかし、行ってみて改めてとまどうことが多い。いわゆる文化講演会ではなく、何時間もプログラムされたセミナーの一部だからである。一部と三部には、著名な評論家や経済学者などの名前が並んでいる。ときには竹中平蔵などというビッグなゲストもいた。

 そんな場ちがいな場所で、小説家にどういう話をさせようというのか。
 演題を見ると『心の相続』となっている。私はいつも即興でしゃべるので、タイトルはなんでもいいのだ。それにしても『心の相続』とは何か。
 どうやら集ってきている聴衆は、相続問題について勉強をしようという人びとであるらしい。
「どうしてぼくがこういう会に呼ばれたんでしょうね」
 と担当者にきくと、相手はうなずいて、
「五木さんが先ごろ経済雑誌のインターヴューでお話しになっていたことに、各方面から非常に関心が集っておりまして」
「ぼくがどんな話を――」
「魚の骨ですよ。あれは私もなるほどと、すこぶる共感いたしました」
「え? 魚の骨?」
「ほら、若い女性編集者が、秋刀魚の焼いたのを見事に綺麗に食べる話」
「ふーん」

 そう言われてみれば、そんな話をしたような気がする。
 先日、打合わせの後で、近くの食堂で編集者数人と食事をした。そのなかに20代と思われる新人の女性編集者がいて、控え目に皆の話を聞いていたのだ。なよなよした感じの全然ない、ボーイッシュな娘さんだったが、食事のあと彼女の前のお皿を見て、ひどく感心したのである。

 ―

 私は昔から魚の食べ方が下手だった。魚料理は好きなのだが、食べ終えた皿の上を見て気恥かしい思いをするのが常だった。
 魚の残骸というか、骨や皮や頭や尻っぽがグチャグチャになって、見るに耐えない惨状を呈している。

 ところが、そのとき焼魚定食を食べ終えたあとの、若い女性編集者の皿の上を見てびっくりしたのである。
 魚の骨がまるで標本みたいに、じつに綺麗に皿の上に横たわっていたのだ。最近、そんなふうに見事に魚を食べる若者を見たことがない。
 私がまじまじと皿を眺めているのを見て、同席した男性編集者が、けげんな顔で、
「どうかしましたか」
 と聞く。
「いや、彼女、すごいね。最近こんなに綺麗に焼き魚を食べる人は見たことがない」
「たしかに」
「きみの皿なんかひどいもんだ。遺跡を掘り返したみたいじゃないか」
「イツキさんだって爆弾が落ちたジャングルみたいな――」
 自分の皿が話題になって、照れくさそうにしている女性編集者が、笑いながら言った。
「家は母が魚の食べ方にうるさくって。母も祖母からいつも叱られていたそうです」
「なるほど」
 祖母、母親、娘と、3代続いた魚の食べ方とあれば見事なのも当然だろう。
 ふとかたわらの若い男の編集者を見れば、箸を棒のようにワシ掴みににぎって、飯をかきこんでいる。

 そのときふと思ったのは、親や家から相続するのは、財産ばかりじゃないな、ということだった。土地や、株や、貯金などを身内で相続するのは当り前だ。しかし、人が相続するのはモノだけではない。目に見えない沢山のものを私たちは相続するのである。
 魚の食べ方などはその一つにすぎないだろう。実際には驚くほど沢山のものを、私たちは相続しているのではあるまいか。

 自分は両親から何を相続したのだろうか、と、そのときふと考えた。
 引揚者で生活に苦労していたので、財産どころか借金を相続しかねない暮しだった。しかし、よく考えてみると、目に見えない沢山のものを私は相続している。あらためてそのことをふり返ってみた。私は両親から何を相続したのだろうか。
ーー
 コンビニで週刊誌を見ると、やたら相続の記事が目につく。
 どうやら「孤独」の後は「相続」がジャーナリズムの次の焦点であるらしい。
 ところで、私の両親は共に学校教師だった。母は福岡女子師範、父は同じ福岡県の小倉師範学校の出身である。当時、貧しい農村の青年子女が、官費で勉強できる場所は限られていたのだ。
 卒業後、2人とも地方の小学校の教師となり、どこかの職場で知り合って結婚したのだろう。残念なことに2人とも早世したので、くわしいことはわからない。

 私がいまになって残念に思うことの一つは、彼と彼女の若い頃の話をほとんど聞いていないことだ。どういう青年だったのか、当時はどんな本を愛読していたのか。何を望み、どんな夢を描いていたのか。

 その意味で、私は両親から何の記憶も相続していないにひとしい。父は剣道の有段者だったが、いつ稽古をし、どんな大会に出たのか。母はどんな歌をうたい、どんな服を着ていたのか。当時の世相はどうだったのか。

 今にして思えば、もっと親の話を聞いておくべきだった、とつくづく後悔する。両親の思い出を知ることも相続の一つなのだから。

 父親は勉強家で、本棚には本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤などのあいだに、西田幾多郎やヘーゲルの本などが石原莞爾と一緒に並んでいた。丸山真男のいう当時の下層インテリの典型である。毎晩、夜中におきて何か書いているので、こっそり留守中にのぞいてみたら、『禊の弁証法』という題名がついた原稿だった。どこかの専門誌にでも、送るつもりだったのだろうか。

 私が父からしつけられたものの一つは、やたらと本を大切にする、というマナーだった。文庫本でも、それをまたいで歩いたりすると物差しでピシャリと足を叩かれたものだ。私はいまでも本をまたぐのは避ける習性がある。
 また、読みさしのページを折ったりすることも、ひどく嫌った。母がこぼしていたことがある。「父さんは、ページの隅を折ったりすると、すごく怒るんだから。それはドッグ・イヤーといっていけないことなんだって」

 父は武道会の役員で、詩吟の愛好家でもあった。毎朝、私を叩きおこして『古事記』の素読をやらせたあと、庭で一緒に詩吟をうたう。おかげで今でも私はいくつかの漢詩を暗記している。これも見えない相続の一つだろうか。
 ーー
 私が両親から相続したものをふり返ってみると、まだまだいくらでもある。
 たとえば、私の喋り方は形の上では共通語であるが、アクセントやイントネーションはまったくの九州弁だ。正確にいうと福岡の筑後弁である。柿と牡蠣の区別がつかない。橋も箸も一緒である。若いころは三バカ方言作家としてからかわれたものだ。

 寺山修司、立松和平、そして私の三人である。
 この喋り方は、まぎれもなく私が父母から受けついだものである。両親ともに福岡人だから、家庭内の会話は百パーセント九州弁だった。この年になってもまだ両親から相続した喋り方が消えていない。
 食べ物に関する嗜好もそうだ。味つけの好みもそうである。

 私の家では正月の雑煮に入れる餅は、丸餅だった。餅とはすべて円いものだと思い込んでいた。東京へ来てから四角い餅の存在を知ったのだ。 
 また正月の雑煮に鶏肉を入れ、味噌仕立てにするのも、私の家の流儀だった。
 ほかにも数えあげてみれば、いくらでもある。
 私は中年期に達するまで、私の家の宗旨に無関心だった。だが、ときたま子供の頃に両親が仏壇の前で、なにかとなえているのを思い出すことがあった。記憶の底をたどってみると、

<キーミョームーリョージューニョーラーイ>

 という呪文のような文句が浮かびあがってくる。これが『正信偈』という真宗門徒のとなえるお勤めの経文であることを知ったのも、かなり後になってからのことだった。蓮如が定めた真宗の作法である。
 人との挨拶の仕方、お礼の言い方、そのほか数えきれないほどのものを私は両親から相続しているのだ。残念ながら綺麗な魚の食べ方は相続してはいない。
 昔、韓国の地方の駅のキオスクで、買物をしたとき、売り子の娘さんが釣りを差し出すときに、右手の肘の下にそっと左手をそえて渡してくれたのが、すごく優雅に感じられたことがあった。昔、長袖の服を着ていた頃の名残りだろうか。家というより、社会から相続した身振りだったのかもしれない。
 家や親や先輩からだけではない。私たちは土地や資産だけでなく、見えないさまざまなものを相続しているのである。それを仮りに「心の相続」と呼んでおくことにする。 
(この項つづく)
 ――協力・文芸企画
(記事引用)