【昭和天皇の87年】英国首相も脱帽 呼び覚まされた天性の君徳
産経ニュース2018年10月28日 7時6分
欧州へ(4)
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 1921(大正10)年5月12日、ロンドン市のシンボル的建物ギルド・ホールで、日出づる国の皇太子が朗々と演説した翌日、英紙「デーリー・テレグラフ」は書いた。

 「(裕仁皇太子)殿下は実に大なる魅力と謙譲な御態度とを備へられ、その御人格は此(こ)の古建造物、古雅な歓迎の式、及び歓迎設備の華麗と相俟(あいま)つて、実に美しい対照であつた」-

 英国への到着前、随行の供奉(ぐぶ)員らが最も心配したのは、裕仁皇太子の社交性だったことはすでに触れた。しかしそれは杞憂(きゆう)だったと、供奉員の沢田節蔵(のちの国際連盟日本代表)が記録に残している。

 端的な例は、到着5日目の5月13日に駐英日本大使館で行われた、日本側主催の晩餐(ばんさん)会だ。エドワード皇太子をはじめ英政府首脳や各界の名士らを招いた宴の席で、裕仁皇太子は「社交界の勇者たる態度」を示したという。

 裕仁皇太子はロイド・ジョージ首相に、当時英国で起きていた炭坑ストライキ問題を自ら話題にし、英国政府の難しい対応をねぎらった。裕仁皇太子が「多忙な首相の健康を心配しています。世界全体のために十分自重されることを希望します」と述べると、感激したジョージ首相は何度も頭を下げ、裕仁皇太子の手を固く握りしめる一幕もあった。

 このとき、周囲で見守る沢田らを驚かせたのは、裕仁皇太子の抜群の記憶力だ。日本側担当者は事前に、出席者の情報を集めて伝えていた。裕仁皇太子はその情報をもとに、各界の名士らと代わる代わるあいさつしながら「職業趣味の異なるに従ひ、適当な話題で、御会談」したという。

 続いて行われた夜会では600人の参加者の中に進んで分け入り、握手しながら数十人と言葉を交わした。そこで沢田らが見たのは、かつて元老の山県有朋が批判したような、寡黙で「石地蔵の如き」皇太子ではなかった。堂々たる「社交界の勇者」だった。

 日本を出港以来、供奉員らの諫言(かんげん)にも素直に耳を傾け、国際交流の現場で自らの立場を再認識したことが、裕仁皇太子に備わる天性の君徳を呼び覚ましたのだろう。

 沢田が記録に書く。

 「(裕仁皇太子の社交性は)欧州社交界の事情に深く通暁してゐる人々の態度と、何等変りなきのみか、少しも尊大ぶられる所がなく、極めて真摯で、且つ自然な御態度であらせられた…」

× × ×

 英国滞在中、見事な社交性をみせた裕仁皇太子だが、もう一つ、その後の思考や言動に大きな影響を与える出来事があった。

 5月21日~23日、スコットランド北部の山地ハイランドを、非公式に訪ねたときのことだ。

 裕仁皇太子はここで、英国貴族の名門、アソール公爵家のブレア城に滞在、アソール公とともに2億7000万坪に及ぶ緑豊かな敷地内を散策したり、渓流でサケ釣りをして1メートル近い大物を釣り上げたりと、久々に自然を楽しんだ。

 アソール家の接待は、飾り気のないアットホームなものだった。昭和天皇実録には、夕食後に公爵夫人がピアノで邦楽を演奏し、そのピアノ伴奏で夫人の妹が民謡を独唱する様子などが記されている。

 23日夜、惜別の晩餐会が開かれた。

 アソール公とその家臣、裕仁皇太子と供奉員らは、互いに打ち解けて歓談し、アソール公らがスコットランド古来の慣習で椅子に立ち、片足をテーブルに乗せて両国皇室のために乾杯すると、今度は裕仁皇太子らが立ち上がってテーブルに片足を乗せ、日本式に万歳三唱した。

 珍事が起きたのは、その後である。

 食事が終わり、舞踏会が始まると、粗末な平服の男女が数十人、次々と広間に入ってきた。裕仁皇太子らは最初、アムール公の招きで近在の住民があいさつに来たものと思ったが、彼らはアムール公らに近づき、バグパイプの奏楽に合わせて、スコットランド風の舞踏を一緒に踊り始めたのだ。

 昭和天皇実録によれば《正装の公爵が平常服の老婆の手を取り、盛装の公爵夫人が粗衣の老爺と組むなど、いかにも平民的で、なんら主従の差、貴賤の別、上下の隔意なく、屈託のない様子で(舞踊を)繰り広げられる》(7巻164頁)

 実は、踊っている男女はアムール家の使用人らが普段着姿で登場したもので、アムール公の演出だった。あえて日常の生活をみせてこそ、裕仁皇太子の外遊の目的に資すると、アムール公は考えたのである。

 日本では考えられない光景に、裕仁皇太子は強い衝撃を受けたことだろう。同時に、近代国家における君主と国民のあるべき関係について、再認識するところがあったのではないか(※1)。

 2日後、マンチェスター市で行われた歓迎会。裕仁皇太子の演説に、明らかな変化が見られた。これまで「予は~せり」などと文語調が多かったのが、この日は「~であります」と、一般市民にわかりやすい口語調だったのだ(※2)。

 英国滞在も残りわずか。裕仁皇太子の中で、何かが芽生えようとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)


(※1) 外遊中、裕仁皇太子はこの夜のことを何度も供奉員らと話し、アムール公に「滞在中に見たことは、スコットランドの美しい自然とともに、帰国後も長く記憶に残るでしょう」などとする手紙を送った

(※2) 時事新報の特派員記者として外遊を取材した後藤武男によれば、このときの演説は原稿を持たずに行われ、裕仁皇太子は自身の率直な気持ちをよどみなくスピーチしたという


【参考・引用文献】

○二荒芳徳、沢田節蔵著「皇太子殿下御外遊記」(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社)所収の「デーリー・テレグラフ」

○宮内庁編「昭和天皇実録」7巻

○後藤武男著「天皇外遊と三人男」(文芸春秋編「昭和天皇の時代」所収)

○後藤武男著「われらの摂政宮」(時友社)
シリーズ
.3 https://www.sankei.com/premium/news/181027/prm1810270013-n1.html
.2 https://www.sankei.com/premium/news/181021/prm1810210013-n1.html
.1 https://www.sankei.com/premium/news/181020/prm1810200015-n1.html

(記事引用)