杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年〈明治33年〉1月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月31日)は、日本の外交官。早稲田大学高等師範部英語(教育学部英語英文学科)科本科中退。第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。ウイキペディア

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第二次世界大戦直前のヨーロッパへ カウナスに残る旧日本領事館               1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任する。

ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふに理解される」と報じた。

日本の外務省はソ連への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられた。そのなかで千畝は、「白系露人と政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部に移籍してからは、共産主義者の嫌疑をかけられ迷惑した」などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。北満鉄道譲渡交渉を控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路で行われたのかソ連側も把握できないほど周到なものだった。

ソ連が最後まで入国自体を認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。バルト三国を初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に辞令を発令されたのは、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報が喫緊の課題になったためであるという。

1938年(昭和13年)3月4日、杉村陽太郎・駐仏日本大使は、パリの日本大使館から、ヘルシンキに着任している「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する、広田弘毅外務大臣への極秘電信を送った。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令ハ官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し、千畝の引き抜き作戦は失敗に帰した。というのも、千畝には、独ソ間で日本の国家存亡に係わる重大任務が待ち受けていたからである。

1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、リトアニアで生活を開始した。8月28日にカウナスに着任する。着任直後の9月1日にドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まる。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日、リトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。1940年6月15日、ソビエト軍がリトアニアに進駐する。

杉原千畝のカウナスにおける任務の具体的内容については、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。

カウナスは、ソ連邦に併合される以前の[注釈 15]リトアニア共和国における臨時の首都でした。外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。

— 1967年に書かれた千畝による露文書簡の冒頭部分
日本人がほとんどいないカウナスに千畝が赴任してきたことに驚いて興味を持った地元紙『セクマディエニス』は早速領事館に取材を申し込み、「日出ずる国からの来客」「日本はどのような国か」という見出しで特集を組んだ。杉原一家の写真つきで紹介された特集記事で、「日本ではそれぞれの家に風呂があり、日本人は毎日風呂に入るというのは本当ですか」「日本の女性の地位はどうでしょうか」「女性は社会生活に参画していますか」といった質問に千畝は一つひとつ生真面目に答えた。さらに、日本における売春の実態などにも言及したほか、日本とリトアニアの貿易発展の可能性も示唆し、リトアニアの習慣や食事に対する自身の見解も述べた。これにより、ステポナス・カイリースの『日本論』(全3巻)以来のちょっとした日本ブームを引き起こした。

千畝が欧州に派遣された1938年(昭和13年)、当時のドイツのユダヤ人迫害政策によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事(初代)は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、同年10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。千畝がカウナスに臨時の領事館を開設する直前のことである。その訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」は、以下のようなものであった。

満洲国外交部
1919年(大正8年)11月、早稲田大学を中退し[注釈 7]、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。この官費留学生の募集で、英独仏語の講習生募集は行われなかった。ロシア語選択は当初の千畝の選択ではなく、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたものである。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。当時の千畝は、三省堂から刊行されていたコンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていくといった特訓を自分に課していたという。

1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)。最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、満州里(領事館)へ転学命令。満州里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点であった。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙つきの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じる。1930年(昭和5年)に日露協会学校を卒業した佐藤四郎(哈爾濱学院同窓会会長)は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、謄写版刷りのソ連の新聞記事を生徒たちに配布して流暢なロシア語で読み上げ解説する青年教師の千畝を回顧している。母校の教師として千畝は、ロシア語文法・会話・読解、ソ連の政治・経済および時事情勢などの講義を担当した。佐藤は「ロシア語の力は、日本人講師でずば抜けていた」と証言している。

1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、ハルビン総領事館などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、600ページあまりにわたる報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、「本書は大正十五年十二月、在哈爾濱帝國總領事館、杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考に資すること多大なるを認め、これを剞劂に付す」
【現代日本語訳=この本は、大正15年(1926年)12月、ハルビンの日本総領事館の杉原書記官が書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します】

高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。

1932年(昭和7年)3月、満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道および付帯施設の周到な調査をソ連側に提示し、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり という記述が見られる。

ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得て間もなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。

このハルビン在職期に千畝は、有名なシモン・カスペ(英語版)殺害事件など、ユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。

千畝は、破格の金銭的条件で関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。

かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、このころから「大日本帝国の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。千畝の手記には「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝には稀な激しい言葉が見られる。

千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったため、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。

満洲時代の蓄えは離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡ったときと同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか記念写真一葉撮る金銭的余裕さえなかった。

手記のなかで千畝は「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。


第二次世界大戦直前のヨーロッパへ

カウナスに残る旧日本領事館
1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任する。

ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふに理解される」と報じた。

日本の外務省はソ連への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられた。そのなかで千畝は、「白系露人と政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部に移籍してからは、共産主義者の嫌疑をかけられ迷惑した」などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。北満鉄道譲渡交渉を控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路で行われたのかソ連側も把握できないほど周到なものだった。

ソ連が最後まで入国自体を認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。バルト三国を初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に辞令を発令されたのは、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報が喫緊の課題になったためであるという。

1938年(昭和13年)3月4日、杉村陽太郎・駐仏日本大使は、パリの日本大使館から、ヘルシンキに着任している「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する、広田弘毅外務大臣への極秘電信を送った。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令ハ官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し、千畝の引き抜き作戦は失敗に帰した。というのも、千畝には、独ソ間で日本の国家存亡に係わる重大任務が待ち受けていたからである。

1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、リトアニアで生活を開始した。8月28日にカウナスに着任する。着任直後の9月1日にドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まる。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日、リトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。1940年6月15日、ソビエト軍がリトアニアに進駐する。

杉原千畝のカウナスにおける任務の具体的内容については、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。


「命のビザ」

杉原が作成した通過ビザ
ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいた。グットヴィルトは、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクに出国の協力を求めた。ズヴァルテンディクは、今日でも有名なオランダ企業フィリップス社のリトアニア支社長だったが、1940年(昭和15年)5月、バルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けて、ナチス共鳴者のティルマンス博士に代わりカウナス領事に就任していた。祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクは、グットヴィルトらの国外脱出に協力を約束。6月末にグットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクにこの件のことを相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んでくれた。

ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインのついたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだのである。ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちがカウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。

1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。

ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。千畝は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。

ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビザも間に合う」だろう[59]と情状酌量を求める請訓電報を打った。しかし本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。

杉原夫人が、難民たちの中にいた憔悴する子供の姿に目を留めたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かんだ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。

日本では神戸などの市当局が困っているためこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、千畝はビザ発給の理由を説明している。

千畝によるビザ発給に対する本省の注意は、以下のようなものであった。

「最近貴館査證ノ本邦經由米加行『リスアニア』人中携帶金僅少ノ爲又行先國手續未濟ノ爲本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ處置ニ困リ居ル事例アルニ附避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ對シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滯在費等ノ相當ノ携帶金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル樣御取計アリタシ」
【現代語訳=最近カウナスの領事館から日本を経由してアメリカ・カナダに行こうとするリトアニア人のなかには、必要なお金を持っていなかったり行先国の手続きが済んでいなかったりなどの理由で、わが国への上陸を許可できずその処置に困ることがあります。避難民と見なしうる者に関しては、行先国の入国手続きを完了し、旅費・滞在費等に相当する携帯金を持っている者でなければビザを与えないよう取りはからって下さい】
— 1940年8月16日付の本省から条件を満たしていない者が居ると注意を受けた電信

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