ジャズの無双時代:アメリカが生んだひとつの真のアートの台頭と隆盛Published on 4月 10, 2018
21世紀に入って20年近くが経過した現在、多くの人々の中では、ジャズはメインストリームの周辺的な立場に追いやられた音楽という印象かも知れない。勿論、言うまでもないことだが、“ジャズのゲットー”から這い上がり、メインストリームのシーンへとクロスオーヴァーして、ケタ外れな枚数のレコードを売り上げているミュージシャンたちもいないわけではない――最近で言えばグレゴリー・ポーターやダイアナ・クラールあたり――しかし総体的に見れば、もはやジャズからベストセラー・リストに食い込むのは難しいと言うべきだろう。 だが、かつては確かにジャズがポピュラー・ミュージックとして幅を利かせていた時代があり、世界中のラジオやジュークボックス、ナイトクラブやコンサート・ホールからはいつもジャズが聴こえていたのだ。フラッパーからビートニク全盛時代まで、ジャズは向かうところ敵なしだった。だが、その35年余の音楽界における権勢を終焉に向かわせたのが、ロックン・ロールという名の地殻変動的一大事であり、カルチャーにおいても音楽においてもまさしく津波の如き圧倒的なパワーで他のあらゆる種類の音楽をもたちどころに押し流し、存在感を薄れさせてしまったのである。その威力を悩ましくも笑える腰振り等で体現していたのが、ジャンルの王様として頂点を極めたエルヴィス・プレスリー だった。

では、ジャズはいかにして世界制覇を成し遂げたのだろうか? その問いに応えるために、まずは1920年のアメリカへと時間を遡ることにしよう。その2年前に第一次世界大戦が終わり、平和な社会に対する期待と勝利による高揚感が相まって経済が一気に上向きになったことに加え、戦後の楽観的な空気に染まった若い世代が、個人レベルでの大いなる自由を求めるようになっていた。だが、これからはお気楽な快楽主義に根差した生活を送ろうという目論見は、新たな戦いを始めたアメリカ議会によってたちまちのうちに抑え込まれてしまう。それはまるで違う種類の戦争であった。人類の多くが抱える主要な悪癖のひとつを標的にした、道徳的聖戦である。1920年1月16日、犯罪や暴力行為や貧困率を減らし、アメリカ社会の生活水準を上げるという目的の下に、ボルステッド法が成立した。この法律は、アルコールの製造、販売、輸送、消費及び輸入を禁止するいわゆる禁酒法だ。

だが、歴史を見れば分かる通り――そして人間の習性として――禁止されればたちまち前よりもっと欲しくなるというのは当然の流れである。そんなわけで、結果的には禁酒法はその運用期間の13年の間、もっぱら増殖する密造酒造業者と組織的犯罪網による密売行為の触媒となっただけだった。禁酒法が施行されるやいなや、通称スピークイージーと言われる客に酒を出す違法クラブが雨後のタケノコのように後から後から営業を始めた。こうした‘邪悪の巣窟’(清教徒たちはそう呼んだ)では、酒は当たり前のように手に入り、まして金さえあれば、閉店まで飲み続けることも出来たのだ(警察に踏み込まれるまでの話だが)。

無論、エンターテインメントはこうした酒飲み相手の店でも大いに需要があり、この放埓な快楽主義の時代に何より合っていたのが、エキサイティングで新鮮、シーンに出てきたばかりのシンコペーションがかったダンス・ミュージックで、ラグタイムとヨーロッパのマーチング・バンド・ミュージックとの間に生まれた私生児で、元は南部の娼家でアフリカ系アメリカ人たちによって生み出された音楽…そう、ジャズだったのだ。男性も女性も、1920年にようやく選挙権が認められたばかりの都会に暮らすアメリカ人の若者たちが、自分たちの個人としての自由を表現し、その解放感を自分なりの感覚で誇示したいと考えた時、彼らに率先して選ばれたのがジャズという音楽だったのである。あの時代、ジャズは革命のサウンドトラックだったのだ――あるいは、ごく控えめに言っても、祝祭そのものだったのである。

ジャズの台頭がアメリカ政府の禁酒法導入決定と切っても切れない関係であったことに加え、その隆盛を支えたのは、音楽そのものを世の中に広める上で絶大なる影響を及ぼすことになる、ある重要な技術的発展であるグラモフォン(蓄音式)レコードの登場だ。録音された音源というのは1877年頃から既に出回ってはいたのだが、フォノグラフ(レコード)・プレイヤーが本格的に普及し始めたのは1918年、再生可能なレコード盤製造の特許期間が終了し、どこの会社でもレコードを生産することが可能になってからのことだった。

だが、たとえ蓄音式レコードが発明されなかったとしても、20年代において紛れもなく最も重要なジャズ・マン、ルイ・アームストロングは恐らく何らかの方法で、後世にも知られる存在となっていたに違いない。ニューオリンズ近郊の貧しく荒廃した地域に生まれ、つつましく育ったルイ・アームストロングは、やがて世界で最も影響力のあり、明らかに最も偉大なトランペット奏者にまで昇りつめた。そして勿論、その黄金のトランペット・サウンドに加えて、彼は一度聴いたら誰もがそれと分かる、独特のクセのある歌声の持ち主だった。
 

ルイ・アームストロングが最初にレコーディングをしたのはキング・オリヴァー・クレオール・ジャズ・バンドで、1923年のことだったが、間もなく彼は独立してホット・ファイヴやホット・セヴンといったグループで世の中を大いに沸かせた。彼の当時最大のヒット曲は 「West End Blues」や「Potato Head Blues」だった。ルイ・アームストロングの人気は30年代に入っても衰えの兆しを見せることなく、1971年に亡くなるまでレコーディングとツアー活動をずっと続けていた。

キング・オリヴァーのバンドを離れた後、ソロとして活動を始める前の一時期、ルイ・アームストロングはニューヨークでフレッチャー・ヘンダーソンのバンドに合流した。元は化学者として研究所で働いていたが、音楽の方が実入りがいいことを知って転身を遂げたフレッチャー・ヘンダーソンはブルース・シンガーの伴奏を務めるピアニストから、やがて自身のジャズ・バンドを結成して20年代半ばにはビッグアップルでも屈指のホットな存在となっていた。フレッチャー・ヘンダーソンがこの時期出した中で最も人気を博したレコードは、快活な「King Porter Stomp」だったが、作曲家のジェリー・ロール・モートンによれば、この曲は20年も前に書きあげられていたのだそうだ。ジェリー・ロール・モートンはまた、1926年にリリースされたポピュラー・ナンバー「Black Bottom Stomp」の作家でもあり、曲と同名のダンスも大流行となった。

ルイ・アームストロング同様、デューク・エリントンも20年代に登場し、亡くなるまで長年その人気が衰えることのなかったミュージシャンである。都会的で垢抜けた、品の良いデューク・エリントンの音楽は、彼のパーソナリティをそのまま映し出すものだった。彼の名声は1927年、彼の率いるオーケストラがハーレムの有名なナイトスポット、コットン・クラブのハウス・バンドになったのを契機に一気に広まった。

だが、ジャズは決してアフリカ系アメリカ人たちだけの専売特許ではなかった。ビックス・バイダーベックやポール・ホワイトマンらをはじめとする白人ミュージシャンやバンド・リーダーたちも、早々にこの音楽をモノにし、それぞれ自分たちのスタイルを築いていった。その結果として彼らはアメリカ国内だけで多くのレコードを売り上げ、更なるジャズ人気の高まりに貢献したのである。

ハリウッド映画もまた、ジャズ人気の定着に力を貸し、アメリカにおけるそのカルチャー的な存在感を強固なものにする一助となった(奇遇にも、史上初の‘有声映画’は1927年のアル・ジョルスン主演による『ジャズ・シンガー』だ)。だが1929年10月29日、世界を激変させる事態の勃発が一気にジャズの時代の幕を引き下ろし、20年代の定義だったノンストップのパーティーを終わらせる。支払いを清算しなければいけないのに、金庫の中の金が足りなくなったのだ。結果として、アメリカ金融市場における株取引価格の史上稀にみる壊滅的な大暴落により“ブラック・チューズデイ”に起こったウォール・ストリートの破綻は、大恐慌と呼ばれる時代の引き金となったのだった。

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モダンジャズから現代ジャズ(1960年代前半~現在)

試行錯誤するジャズ――「脱ハード・バップ」の動き、他ジャンルとの融合
しばらく続くと思われたハード・バップを中心とするジャズの潮流を変えたのはまたしてもマイルス・デイビス。ハード・バップまでの曲のコード進行に沿って一定の小節を吹き終えたらまた頭のコードに戻り、アドリブの掛け合いをする奏法から、現代音楽などに見られる音階、つまりメロディーラインを生かしたモード奏法への脱却を試みたのです。集大成ともいえるのが1959年の「カインド・オブ・ブルー」。初めの一音を聞いただけでも、新たな歴史の萌芽が感じられる名盤中の名盤です。この後、マイルスは60年代、ハービー・ハンコックやウエイン・ショーターらと黄金クインテットを結成し、モード・ジャズを牽引しました。
「カインド・オフ・ブルー」に愛弟子のテナーサックス奏者、ジョン・コルトレーンが参加していたことも見逃せません。彼はこのアルバムの直後に録音された「ジャイアント・ステップス」で超絶技巧を駆使した、畳み掛けるような音符の嵐で聴く者だけでなく、共演者までも圧倒する「シーツ・オブ・サウンド」を披露し、ハード・バップの到達点を示しました。ハード・バップを極めたコルトレーンにモード奏法という新たな「武器」が加わり、自分の感情や思想を音楽という手段を通じて最大限爆発させたいと考えていたコルトレーンをコードの束縛から解放しました。これが後に触れるフリー・ジャズの広がりにも繋がっていくことになります。
ハード・バップの余韻を残しつつ、新たな方法論を産み出したマイルスとその弟子によるラインとは別に「自由への飛翔」を模索していたのがアルトサックスのオーネット・コールマンでした。彼の音楽、いや音楽というよりも阿鼻叫喚、喜怒哀楽といった人間の感情そのものを表現したかのような「音の原風景」ともいえる演奏は当初ほとんど受け入れられなかったといいます。しかし、前述したマイルスやコルトレーンによる「ポスト・ハード・バップ」に向けた試行錯誤の動きや、アルトサックス、フルート、バスクラリネットを駆使して従来のジャズとフリー・ジャズの間を巧みに空間移動し、橋渡し役を果たしたエリック・ドルフィー、「激情型ジャズ」の代表格ともいえるベーシストにして名作曲家、有能なバンドリーダーでもあるチャールス・ミンガスなどの精力的な活動が融合し、フリー・ジャズの大きなうねりが生じました。
1970年代にはマイルスや彼の弟子のハービー・ハンコックやウエイン・ショーター、チック・コリアらがジャズに電子楽器やエイトビートのようなロックの要素を取り入れたフュージョンを演奏するようになり、一躍ジャズの主流に躍り出ました。特にショーターとジョー・サヴィヌルが中心となって結成した「ウェザー・リポート」、チックの「リターン・トゥー・フォーエバー」はジャズ・ファンでない人々にも支持され、ジャズの可能性を広げました。しかしその反面、フュージョンの台頭は伝統的なジャズの衰退をも意味していました。かつてジャズが聴衆を熱狂の渦に巻き込んだ時代は終わり、「暗黒時代」が到来したと嘆息した人々も少なくありません。
1980年代以降はウイントン・マルサリスなどの若手を中心に、フュージョンからの「揺り戻し」を狙った伝統的ジャズの見直しの動きが広がる一方、クラシックや民族音楽、ポップスなどとの融合も進み、一言で「ジャズ」と括れなくなるほど多様な音楽へと進化しています。

この時代の代表的なミュージシャン

ジョン・コルトレーン (サックス奏者)

John Coltrane (Sax) 1926~1967
1955年にマイルス・デイビスに見いだされてバンドメンバーとなり、一気に頭角を現すと、後にマイルスから独り立ち。複雑なコード進行をもとに、ロングフレーズを一気に吹ききる圧倒的な技術と深い精神性や思想に裏打ちされた激情型のサウンドは、ジャズを芸術の域にまで高めた。アルバム「至上の愛」はコルトレーン音楽の集大成となった。

ハービー・ハンコック (ピアニスト、作曲家)

Herbie Hancock (Pianist, Composer) 1940~
現代のジャズ界を代表するピアニスト。マイルス・デイビスのバンドに加入して以降は「新主流派」の旗手として1960年代のジャズ・シーンを牽引。広大な宇宙を漂流するかのような流麗かつ斬新なサウンドは、フュージョンに繋がる次世代の扉をこじ開けた。演奏の傍ら、ジャズフェスティバルなどのプロデューサー的役割もこなし、ジャズの普及と発展にも精力的に取り組んでいる。

ウィントン・マルサリス (トランペット奏者、作曲家)

Wynton Marsalis (Trumpet, Composer) 1961~
完成された技術とクラシックやジャズの理論を極めた頭脳的なプレイにより、電化が急速に進み、「ロック的」色彩が濃くなっていたジャズから伝統的なジャズへの回帰を目指した世界有数のトランペッター。後進に指導にも大変熱心。ただ、あまりに完ぺきな演奏から、創造性や面白みが欠けるとの評価も受ける。

この時代のお勧めアルバム

ハービー・ハンコック 「処女航海」

レーベル: EMIミュージックジャパン
ハービーの代表作。感情が前面に出るハード・バップとは一線を画したクールで洒落たサウンドやハーモニー、抑制の利いたピアノタッチは従来のジャズリスナーからも高い評価を得た。このアルバムに参加したのはトランペットのフレディ・ハバードやベースのロン・カーターなど、いずれも「新主流派」を代表するミュージシャン。

チック・コリア 「ライト・アズ・ア・フェザー (完全盤)」

レーベル: ポリドール
ピアニストのチック・コリアが率いたグループの超有名盤。中でも有名なのはロドリーゴの「アランフェス協奏曲」からヒントを得てチックが作曲した「スペイン」。その名の通り情熱的かつ感傷的ですらあるメロディーは世界中の多数のミュージシャンに愛され、今や押しも押されもせぬ名曲中の名曲となった。


ジャズの歴史概略



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