idobatakaigi.com-blog

『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

2015年05月

バビロニアよりの贈物.1
 エーゲ海の南部に浮く大きな島、クレタに古代ミュケナイ文明があったことはあまり知られていない。 
 太古より神の請託を受けたクレタ島は、かつて青々とした緑の樹々が生い茂りアーモンド・オリーブ・クリ・クルミ・カリン・ザクロなど果実がたわわに実り、古代の島の人々は芳醇な香りに包まれていた。
 
 クノッソス宮殿跡はミノア文明の幻影を今に伝える。そこには青々とした緑の樹々がエーゲ海の潮の匂いとともに生い繁り、人々は豊かな秋の収穫を神に感謝し祈りを捧げた。それはこの世の楽園を映し出していた。

 現在、野生化したそれらの樹木から今でも果実を採取している。そのことが数千年前の歴史を知る手掛かりであることは、人々のあいだに伝えられた言伝え伝承とともに、より雄弁に歴史を教える場合もある。
 ミュケナイ文明はクレタの伝説ミノス王を称えてミノア文明ともいう。そしてクノッソス宮殿遺跡はミノア文明のかつての栄華を今に伝えている。

 クレタ島の伝説によれば、王は祭司にして領主、保護者にして救済者である。そしてクレタ島の王「ミノス」はゼウスの息子である。
 ギリシアの盲目吟遊詩人ホメロス著・伝とされる長編叙事詩『オデュッセイア』にその記述がありミノスは「おおいなるゼウスの仲間」としている。そしてミノスは九年間王として君臨した。

 クレタに隣接する島、キプロス島の神殿には前屈みの女の像が見つかっているが、それは生殖に関する呪術儀式ともみられ古代の呪儀的要素を現す。
 その奇異な女の像の容姿からある説が生まれた。娘は好奇心のおもむくままに窓から覗き、その時神に襲われたとする神話がアナクサレーテ神話の主要な筋書きである。娘は恋人に対してつれない意思表示をしたために相手が死に、そのことに何の感情も示さず、恋人の葬列が通過するのを窓から覗いているだけだった。
 石の心をもったアナクサレーテは石像になり代り、不滅身体の化身として娘はアプロディーテの神殿の神となったと伝えられる。
 ギリシア神話には果実と神の関係が頻繁に登場する。ホメロスの『オデュッセイア』に登場する王アルキノオスの果樹園を語った中に、ナシやザクロ、リンゴやイチジクなどの樹々、樹液をいっぱい蓄えたオリーブなどが育っていた、と記録している。ギリシアのその時代すでにイチジクが栽培されていたことを物語っている。  

 イチジクがクレタ島からギリシアに移入したことは、その名の由来からしてクレタ島から出ていることでも明らかだった。クレタ島では野生化した樹木から現在でも果実を採取していることが伝説史実をより確かなものとして雄弁に語っている。

 また神聖樹を引き抜きその樹から抜け出した神が巫女に憑依する様は、ペルシア神話の善神であるオフルマズドの神託によって二本の樹から実った果実より二人の男女が生まれ出ることに比較される。原人ガヨーマルトの精液は原始人間を生み出す男女それぞれの樹を創造した端緒的要素の神話である。
 その精液はギリシア神話においてゼウスのモノになり変わり、またイチジクの乳汁に喩えられる。そのイチジクはクレタ島からギリシアにもたらされた。そしてイチジクは男根的なシンボルとして古代神話の中で象徴的に語られている。そのイチジクが女神ナナのアッティス受胎神話ではザクロにかわる。

 古代クレタ島では女性が祭祀の儀式を担っていた。クレタの儀式では植物の生長を促すための精神的高揚のエクスタシー的トランスを伴った舞踏、穀物の豊饒を願う雨乞い儀式など呪術祈祷があった。
 そして最も神聖である聖樹が引き抜かれる。樹から抜け出した精霊が宙に乖離し、この精霊の神が巫女に憑依した。そして儀式の主要である祈祷と舞踏により神が降神する空間の場には神聖な場を示す囲いが施され、樹々の枝が上空を遮る空間に祭壇が設けられる。

 クノッソスの遺跡から大地母神像が発見されているが、その両手に蛇を持つ。この大地母神像と蛇の関係は巫女と考えられており神聖な神の仕いと解釈されている。そして蛇を飼うための土器も発見されイラクリオン博物館に展示されている。紀元前一五〇〇年前のミノア文明の事実が土器によって明らかにされた。

 日本神話の骨格である天照大神と天鈿女命による天の磐戸物語は「クレタの儀式、女性が祭祀の儀式を司り植物の生長を促すための精神的高揚のエクスタシー的トランスを伴った舞踏、穀物の豊饒を願う雨乞い儀式など呪術祈祷」、と比較することができる。

 『古事記』に登場する天鈿女命はシャーマン的要素の強い神でありクレタ島における女性が祭祀の儀式を担った巫女と同義である。
 クレタの古代儀式において植物の生長を促すための精神的高揚を伴った舞踏、穀物の豊饒を願う雨乞い儀式など呪術祈祷は、天鈿女命の所作とまったく同じと解釈してもいいほど酷似している。
 
 その話の出所がクレタの古代儀式であると断定する根拠は一切なく、日本神話の故郷は東南アジアにそのルーツがあると考えるのは有力な一般説である。そのことは712年太安萬侶によって書かれた書物によって訪ねることができる。
 朝廷に仕えていた猿女君は祭祀を司る女系一族で天鈿女命の子孫であると『古事記』に明記している。そして宮廷内の祭祀、古代儀礼である御神楽はこの猿女君によって行われていた。
 紀元前20世紀から前15世紀に栄えた古代のミュケナイ文明は紀元前17世紀を最盛期とするが、同時代よりやや下った年紀にバビロニア、そしてペルシアの予言者ゾロアスターが歴史上にいる。

 イギリスの考古学者、アーサー・エヴァンス卿(1851~1941)によってクノッソス宮殿遺跡が発掘され、1901年に発表された論文には「樹木に対する崇敬と聖なる石に捧げられる」と書かれてある。かつての隆盛を物語るクノッソス宮殿遺跡はエヴァンス卿によって明らかにされ、そして人々の知るところとなった。

 クレタの伝説ミノス王を称えたミノア文明は植物と共に生きる人々の生活を如実に示した神への祈りが聞えてくるようだ。それら周辺諸国の古代神話と共通項を持つクレタ島の古代ミュケナイ文明はアーサー・エヴァンスの発掘調査をもとに、彼の指摘するクノッソス宮殿遺跡の「樹木に対する崇敬と聖なる石に捧げられる」との結論を導いた。

 紀元前1520年から前1450年の間で、クレタ島のすぐ北にあるサントリーニ島が火山噴火をおこしミノア文明は崩壊した。
 またクノッソス宮殿はそれ以前に大地震によって崩壊している。クノッソス遺跡から造船用の工具類が大量に発見され、ミノアでは近隣諸国より先んじてすでに高い造船技術があったことを示している。
 木材・土器・青銅器など輸出していたと見られるが、それに欠かせないのは豊富な木材資源を潤沢に消費していたことの裏付けであった。
「太古より神の請託を受けたクレタ島は、かつて青々とした緑の樹々が生い茂りアーモンド・オリーブ・クリ・クルミ・カリン・ザクロなど果実がたわわに実り、古代の島の人々は芳醇な香りに包まれていた。そこには青々とした緑の樹々がエーゲ海の潮の匂いとともに生い繁り、人々は豊かな秋の収穫を神に感謝し祈りを捧げた。それはこの世の楽園」を思わせた。太古よりクレタ島は森林資源に恵まれていたのである。

 紀元前2000年紀、クレタ島の南部アギオガリーニの花粉分布を調査したボッテマ博士の報告によるとカシ・ナラの森が島を覆っていたという。大陸と隔てた地理的条件は他国の影響を受けることなく森の楽園を誇ってた。クノッソス遺跡やマリア遺跡など四つの主要な遺跡がその事を雄弁に物語っている。

 しかし「サントリーニ島が火山噴火をおこしミノア文明は崩壊した」、と思われたていミノア文明は死んではいなかった。
 近年の調査でサントリーニ島とクノッソスの土器形式を精緻に比較検討してみれば、噴火後においてサントリーニ島の生活痕跡は消失したが、クノッソス住民は存続していたことが判明した。さらにサントリーニ島火山噴火年代を科学的に調査した結果従来説が覆った。トルコのアナトリア高原の年輪解析を分析すると噴火は紀元前1628年であるという値を示したのである。そこから得られる答として噴火後もミノア文明は持続していたという見解だ。













 

麟子鳳雛(りんしほうすう)
tumblr_l86fa7HEkO1qbidlso1_1280






参考・デザインソース】 | 令始画帳
reishi-design.jp637×320画像で検索 伊藤若冲 老松白鳳図








麟子鳳雛」(りんしほうすう)意味  四字熟語「麟子鳳雛」 麟子」は伝説上の霊獣の麒麟の子ども、「鳳雛」は伝説上の霊獣の鳳凰の雛。

森と雨

古来より行われてきた稲作は日本民族として欠かせない田園風景の一つである。その伝統的耕作は弥生時代に水稲耕作として渡来した技術と言われる。ゆえに日本の文化は稲の文化と称される。

水稲を育てるのは水であり、天から降る雨が唯一の水源である。日本の一年通して降る雨は1600から1800ミリで世界平均800ミリの倍の量であり、その雨水に恵まれたのが日本の国土である。

また、この豊富な雨は木を育て日本の国土面積三分の二を覆う森林を養う。まさに雨は天からの恵みの水なのだ。 

天からの授かりものの雨だが純粋無垢というわけではない。海の水が太陽熱で蒸留され雲を作り、それが凝結したのが雨だが、そう簡単な構造で雨は降らないのだ。
雲の塊が雨となるには動機が必要である。海のしぶきから出来た塩の粒子、都会から排出される煤煙、硫酸、アンモニアの水溶液の粒子、植物胞子等々のゴミが空に届き、それらが核となり雲の中に雨滴を作って地上に降りそそぐのが雨である。酸性雨などはそのよい例だ。

そして雨は植物の胞子をも洗い落とし植物の生育を助長させる力もある。その雨力に支えられて育った森林は古代より人間の拠り所でもあった。 

人の手が加えられた森は特定の木を育てるために作られており人間の都合のいい形に造作してある。しかし原始の森、勝手気ままに木々が育成した森は人の侵入を拒み、陽射しが地表に届かない黒く暗い鬱蒼とした森は不気味な静けさと神秘性を秘めている。その森に雨が降りそそぐと淡白色の水蒸気が再び発生し森は幻想的な静寂につつまれる。 

そこに吹く風は色がある。もちろん緑の風なのだがモノトーンではない。森に生える植物がつける葉の色すべての葉緑素の色である。
その雑多な色素を数えた人は多分いないだろう。風はその一色一色に吹きわたり緑色に染まっていく。

大風が吹くと、その全部が混じり合って黒緑の風をつくる。大地を覆い隠した森は風を吹かせる。

古代中国殷の国土はかつて緑に覆われていた。

しかし現在中国の森林面積は10パーセントしかない。さらに現在の黄土高原には5パーセントの森林しか残っていない。そこに降る、黄土高原年間降水量は400ミリである。

「殷」を含む黄土高原周辺の森林面積を試算した中国の研究者がいる。中国社会科学院・安陽工作站、陝西師範大学の朱士光教授である。 

3500年前の古代都市殷の地域では80パーセントが森と草原だった。朱士光教授は、その時代の自然環境を調査し周辺の古代遺跡から、かつて3000年前の黄河流域ではアジア像、サイ、四不像の角、ハゼの花粉が確認され、古代に棲息していたと結論付けている。

それは古代の黄土地帯が広大な自然の森に覆われていたことを物語るものだった。

さらに1500前(南北朝時代)には50パーセントに減少した、と朱士光教授は報告している。その黄土高原に中華民族の祖・黄帝墓である黄帝陵が残されており、数千年の時を経てなお原始の杜が守られていた。

殷から森が消えたとき風は止んだ。そして人も神もいなくなった。

森の消滅は人の住むべき土地を奪ったが、人の住んだ痕跡は確実に残した。殷墟が発見されたのは102年前のことであり、それは3500年前の槿花一朝の栄華を見せてくれたのだ。

1899年に発見された古代文明の足跡である亀甲文字は殷王朝の遺物として20世紀における最大の考古学的発見といわれた。

亀甲文字は殷帝国文明の確かな証であるが、この亀甲文字は発見当時「竜骨」と呼ばれていたのである。骨の上にぎっしりと刻みこまれた古代謎の記録。その神秘的記録は発見当時まったく意味を理解することができなかった。

1899年、その謎の文字と運命的に出会った二人の人物がいた。王懿栄と劉鉄雲、ともに古典学に精通しており、そして金石学の研究者である。 

懿栄は当時マラリヤを患っており病魔を克服するために色々な処方を試していたが根治しない。
しかし、このことが甲骨文字発見の動機になったのである。当時の中国社会では竜の骨は漢方薬として出回っていた。マラリヤの処方薬として漢方薬「竜の骨」が効くと世間に知れていたのだ。病魔に悩まされていた懿栄のために鉄雲が買い込んだ古色蒼然とした骨を手にしたその竜の骨に、謎の文字が刻まれていた。
「竜骨」研究はここから始まる。それからのち多くの学者による研究によって、ようやく解読されるに至り「竜骨」文字は後に亀甲文字、最終的には甲骨文字として世界にデビューしたのである。

1903年、劉鉄雲は「鉄雲蔵亀」6冊を一人で編纂し甲骨文字を世界に紹介したが1907年、53歳で不遇の死を遂げた。
 
しかし何故、竜骨であり亀甲で、また甲骨と呼ぶのだろう…。それは鹿や牛の骨、そして亀の甲に刻まれていたからである。

一説によれば竜骨とは、太古の獣の骨のことを指すという。では太古の骨が「竜」とすれば、その竜はどこにいったのか。太古に生きた動物というが、しかし、それを見た者、また絵にした証拠がない。
ゆえに想像上架空のまぼろしの生き物が竜ということになる。太古の時代に生きた動物として恐竜の存在が化石として確認されているが、実際に生きた恐竜を見たものはいない。

映画ジェラシック・パークでは恐竜が主役となり画面の中のCGでリアルな生態を見せていた。また世界の博物館では、その建物と同じ位の大きさの恐竜の化石が展示してあり一億年前の動物がつい最近まで生きていたのだと錯覚してしまう。ところが人間の歴史はそれに遥かに及ばないのである。

まぼろしの竜、想像上の動物、架空の生き物など、その形容は様々である。観た者が誰もいない(今あるすべての情報では)という点において神格化、そしてカリスマ性を備えている。したがって今日のハイテク社会に至って「畏れおののく」ことはなくとも、竜を捕えてペットにしようなどと不遜な考えを抱くものはいない。

龍は竜神、亀は亀甲、鳳は鳳凰、麟は麒など、いずれも霊妙な徳のある動物として中国古代で神格化されていた。また珍しいものとして人になぞらえ聖賢人にも例えられた。

麟子は麟の子、鳳雛は鳳の雛のことで威光を放つ幼子という意味をさす。同様語では麟鳳亀龍があり同じく神聖な動物としてあがめられ、今日の先進社会になった今でも全く同じように神聖な神とされている。 

龍とおなじく麒麟は想像上の動物として神聖化され、肢体は鹿であり尾は牛、蹄は馬に類し、五色に輝く毛があって雄を麒、雌を麟と呼び、聖人が世に現れると出現するという伝説がある。また他説では、麟は大鹿、雄の鹿との意味もあり、また「燐」に通じるとして光り輝く様を現す、とされる。 

竜については紀元前4世紀末から500年間、蒙古地方を根拠に繁栄した遊牧民族の匈奴、その長たちが集まり天を祭る場を龍城といい、また匈奴の地名、朔北の地も意味する。
古代中国紀元前より言伝えられてきた想像上の動物は一種、荒唐無稽とも解釈できるが現在に生き長らえていないからといって全くのデタラメと断定することも、また根拠の無い話しである。 

古代生物

古くから言い伝えられてきた神の仕いの動物たち亀・鳳・麟は今でも現存し、頭の中でイメージできるが残された一つの神、竜をシュミレーションすることが出来ない。

竜はこれまで多くの想像図は描かれてきたが、そのどれも信憑性に欠ける。それは何故か。実存しない、見たものがいない、過去に生きたその図がない、と諸説を並べても百花斉放で茫漠感が拭い切れない。
そこで最新のデータを挙げて竜の居所を探ってみた。平成13年10月27日付の新聞に載せられたワニの記事である。
 
アフリカのニジェール中東部で全長が大型バス並みの約12メートルに達するとみられる約1億1000  年前の巨大ワニの化石を米シカゴ大学のP・セレノ教授らの発掘チームが見つけ、26日付の米科学  誌サイエンスに発表した。

全身の様子が推定できる化石では最大。あごや歯の形から魚のほか時には小型の恐竜も食べていたと見られる。
化石は1964年に頭骨の一部か見つかり「サルコスクス」(肉のワニの意味)と命名された。その後セレノ教授らが、頭骨や背骨、甲羅のように背を覆う「鱗板」など全身の化石を新たに見つけた。
頭骨は最大のもので約1・6メートルで、口先が細長いのが特徴。体重は8トンに達したと推定される。
生涯成長し続けたと考えられ、鱗板に残された成長を示す縞模様の推定で、巨大肉食恐竜ティラノサウルスとほぼ同じ最大サイズに達するまでに50から60年かかったと見られる。(平成13年10月27日付 読売新聞)

また朝日新聞では「サルコスクス・インペラトル」と呼ばれるワニ類の祖先。発見場所が内陸の河川のたい積物の地層だった。
国立科学博物館の真鍋真主任研究官は「サルコスクスが見つかった同じ地層から、史上最大級の肉食恐竜の化石が見つかっている。当時の平均気温は今より数度高く史上最高の温室状態だったと考えられ、環境と進化の観点からも興味深い」とのコメントを述べている。(平成13年10月27日付 朝日新聞)

考古学界では昨今の正確な最新機器の精度で測定精度が格段に進歩し新発見、新事実が続々と登場する。この地球上に二億年前の哺乳動物「ハドロコディウム」(大きな頭)推定体重約二グラムが存在した事実を化石が証明したことも、そうした出来事である。恐竜が絶滅する以前、すでに哺乳類が生きていたのである。  

原始哺乳類「ハドロコディウム」が2億年前、ワニの祖先「サルコスクス」が1億年前にこの地球上に生きていたことを化石が証明した。
このサルコスクスが地球上で恐竜と生存競争をしていた。恐竜化石の存在で過去に生きたことは判るが遥か昔に絶滅し今はいない。

今回発見のワニの祖先「サルコスクス」は現在棲息しているワニとほぼ同じ体型と推定されるがその大きさが桁外れだ。
ワニの原形だから今のワニをスケール拡大して想像すればイメージできる。大型バスのサイズ12メートルだ。
この「ワニ」は亀・鳳凰・麟などと同じく、今でも現存しているにもかかわらず古代文明中国において神聖化されていない。
古代中国文明の影響をうけている日本において、その記述がないわけではない。

古事記にそのワニが登場している。古事記の中でもっともドマチックなトヨタマヒメノミコトがワニに化身してしまう場面だ。
自ら小屋を作り、そこで御子を生むが夫に覗かれてしまう。恥ずかしさの余りワニに化身して御子を置いて自分の国へ帰ってしまう。これが何故ワニであるのか良く判らないが、この場面は当時の古代日本において創作ではなく、中国、朝鮮そして広くアジアに伝わる一種の神話物語の定型として言い伝えられて来たものであるらしい。

それでも何故「ワニ」なのか根源的な理由を説明できる記述が見当たらない。「はるか昔よりアジア一帯に伝承されてきた神話である」の説に、それ以上の説得力のある理由を捜し出すことが無力である。なお現代解釈ではワニを「サメ」と見るのが一般的だが、巨大ワニ化石のの発見で伝承神話を再検討する必要がある。

伝説の神の遣いの動物、亀・鳳・麟は今でも現存しておりイメージできるが残された唯一つの神、竜をシュミレーションすることが出来なかった。
竜の想像図のどれも信憑性に欠けるし、また古代壁画もなかった。今回のワニの祖先の化石は竜をシュミレートするに最も近い候補と想像心を肥大させるのだが。
地球上に棲む生物の栄枯盛衰は古代生物の考古学的研究でさらに変化に富んだ生き物がいたことを証明するだろう。

甲骨

甲骨文字が発見される以前では地元住民の間では、それを竜骨と呼んでいた。竜骨と呼ぶくらいだから竜の骨と信じていたのだろう。
だからその当時では古代中国の歴史的価値のある甲骨ではなく漢方薬の竜骨でしかなかった。民衆にとって謎めいた訳の判らない文字などは、どうでもよかったのである。
 
ところで殷時代の甲骨文にはあらゆる情報が刻み込まれていたが、その中に戦いの記述ものこされている。殷帝国と度々戦火を交えた敵国の「羌」である。
「羌」は河南西方の山岳にいた異族で戦によって捕らえられた者は奴隷にされたり、犠牲として斬首され殉葬された。

img_1



甲骨文の研究者である貝塚茂樹氏は殷の思想観をそのように語る。







アジアにおけるパワーゲームの関心度!!!
このニュースを日本人が、どの程度関心を持って注視しているか知りたい。記事を読む限りでは、所詮ジャブ程度の双方探りあいだが、きわめて本気な気がする。

アジア領海におけるアメリカのタスクは、以前より重点を置いていただけに、出方によっては「自衛隊」がなんらかの方法で関与するようになると緊張感をもって見守る必要がある。
つい先日書いた自衛隊「朝霧駐屯地」の拠点設置がにわかに真実味を帯びる。
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52050510.html

米中パワーゲームで緊迫する南シナ海 人工島の面積は昨年末の4倍に
木村正人2015年05月22日 07:48
米国が仕掛けたチキンゲーム
これまで、のさばらせすぎたのがまずかった――と、米国が南シナ海で中国にチキンゲームを仕掛けている。中国は漁船、海底油田の開発施設、公船などを使って既成事実を少しずつ積み重ねている。

狡猾な「サラミソーセージ薄切り戦略」で米軍との正面衝突を避けながら、南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島で人工島を次々と埋め立て、滑走路の整備を急ピッチで進めてきた。

南シナ海や東シナ海で中国が米国の同盟国ともめ事を起こしても、米国は対中関係に響かないよう報道向け声明で非難するだけだった。このため、フィリピンや日本は米国に強い態度を示すよう何度も求めてきた。

中国の横暴をこのまま放置しておくと南シナ海に「不沈空母」がいくつできるか分からない状況になってきた。早ければ2017年にも空母艦載機が離着陸できる人工島の滑走路が完成する。そうなれば安全保障上の脅威は一気にエスカレートする。

南沙諸島をめぐっては中国や台湾、フィリピン、ベトナム、マレーシアが領有権を主張している。米国はこれまで他国の領有権争いに首を突っ込んで来なかったが、もう知らぬ顔の半兵衛を決め込むわけにはいかないところまで追い込まれた。

来年の米大統領選をにらんで共和党のマルコ・ルビオ上院議員は中国に対してもっと毅然とした態度を取るようオバマ政権を突き上げている。中国問題は米大統領選の大きな争点になるはほぼ確実だ。

人工島の上空を飛行した意味
米海軍の哨戒機P8-Aポセイドンが、中国が滑走路を建設するファイアリークロス礁や、ミスチーフ礁の上空1万5千フィート(4572メートル)を飛行した。中国側は米哨戒機にすぐ離れるよう警告した。

R0V_P8SafeSep_101119_KS_132
米軍の哨戒機P8-Aポセイドン(米海軍HPより)
3d9fcb7c-s
米CNNのクルーが同乗しており、米哨戒機の乗務員は偵察活動が初めてではないことをにおわした。この様子は全世界に放送された。

ベトナムやフィリピンはかつてファイアリークロス礁やミスチーフ礁を支配していたが、現在は中国が実効支配している。米国は中国に対し、領有権争いのある岩礁での埋め立てを中止するよう要求。中止しない場合は、人工島の12カイリ以内に哨戒機や軍艦を派遣すると警告してきた。

いずれの国の船舶も平和や安全を害することがない限り他国の領海を通航することができる(無害通航権)。一方、領空に入る場合はその国の許可が必要だ。

グレーゾーンがある海と違って、領空はシロ・クロがはっきりしている。米軍機がファイアリークロス礁やミスチーフ礁の上空を飛行し、CNNを通じて世界に伝えたということは中国の領有権を認めないと宣言したことになる。

なめられた米国
 
米国のケリー国務長官は今月16~17日、中国を訪れ、習近平国家主席や王毅外相らと会談し、南沙諸島での埋め立て中止を求めている。しかし、王外相は「主権と領土は断固して守る」と強く反発した。言ってダメなら行動で分からすしかない。CNNのニュースにはそんな意味が込められている。

なぜ米国が重い腰を上げたのか。国際コンサルティング会社IHSが発行する軍事専門誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」から南シナ海の状況を見てみよう。

(1)ファイアリークロス礁
南シナ海その1
滑走路の一部ができ上がったファイアリークロス礁(IHS提供)

860f986c
最初の組み写真は(上)2月6日撮影(下)3月23日撮影。下は3月23日撮影した写真を拡大したものだ。全長3千メートルの滑走路のうち幅53メートル、長さ503メートル分が完成し、幅20メートルと長さ400メートルのエプロンもすでにできている。港湾施設や誘導路もある。

(2)スビ礁
2月6日と4月17日に撮影した写真を比べると、全長3300メートルの滑走路をつくることができる人工島(2.27平方キロメートル)が埋め立てられている。

(3)ミスチーフ礁
南シナ海その3
ミスチーフ礁(IHS提供)

上の組み写真は少し古いが、4月13日に新たに撮影された写真では、サンゴ礁を破壊したり、土砂を埋め立てたりした人工島の面積は2.42平方キロメートルに達していることが確認されている。

(4)ジョンソン礁
埋立地の上に複数の大型施設を建設。

米国防総省の「中国の軍事力に関する年次報告書2015年版」によると、中国は14年に南沙諸島の5カ所で大規模な埋め立て工事を進めた。同年12月には2平方キロメートルだった埋め立て面積は早くも4倍の8平方キロメートルに広がっている。

中国は南シナ海のほぼ全域と言える広い海域に「九段線」を引いて、領有権を主張。1988年の南沙諸島海戦で、サンゴ礁に立てられたベトナム旗を守るベトナム兵ら約70人が中国人民解放軍海軍の銃撃で死亡。この海戦で中国はファイアリークロス礁やジョンソン礁などを手に入れた。

中国はウクライナの空母ヴァリャーグを完成させた「遼寧」を就航させ、前方展開能力をつけている。ファイアリークロス礁やスビ礁の滑走路や関連施設が完成すれば、南シナ海での中国の前方展開能力は飛躍的にアップする。

フィリピンも台湾もマレーシアも領有権争いにある島や岩礁に飛行場や滑走路を持っており、中国側にはこれに対抗する狙いがある。さらには人工島に桟橋を設けて人民解放軍海軍の守備隊を常駐させ、対空砲を設置、領有権を争う国々の潜水夫を排除する前線基地として使用するという見方もある。

南沙諸島の海域をパトロールしていた米海軍の最新鋭沿岸海域戦闘艦(LCS)が中国海軍のミサイル・フリゲート艦に何度も追跡されている。米海軍側は「洋上で不慮の遭遇をした場合の行動基準(CUES)」に基づき事態がエスカレートするのを防いでいると説明している。

中国は、豊富な海底資源の確保、中東からの原油を輸送する海上交通路(シーレーン)の防衛という以上に、九段線で仕切った南シナ海の「国土化」を図り、最終的に米軍を追い出すのが狙いとみて良いだろう。

(おわり)

「カタルーニャ王国」~フェニキアの人々

サルデーニャは、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。周辺の島を含めて、サルデーニャ自治州を構成している。この州は、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。
州都はカリャリ 
面積: 24,090 km² 人口: 166.2万 (2014年7月) 1 人当たりの GDP: 19,700.00 EUR (2008年)


画像 カタルーニャ音楽堂とカテドラル@バルセロナ| ウーマンエキサイト みんなの投稿

woman.excite.co.jp452 × 644画像で検索
パスタは何処のバルで食べてもとても美味しかったのですが、カウンターに置いてあるのでパンが乾燥しているものが多い。でも、ここは回転が良いのか。


4279e4f2

サルデーニャ(イタリア語: Sardegna)は、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。

サルデーニャは、サルデーニャ語ではSardigna, Sardinna, Sardinnia 、イタリア語ではSardegna、カタルーニャ語ではSardenyaと綴る。この違いの影響もあり、日本語ではイタリア語からのサルデーニャの他、ラテン語や英語のSardiniaに由来するサルディニア、サルジニア、サルヂニア、サルデニアなどの表記がある。


古代にこの島はフェニキア人によりイクヌーザ(ラテン式の綴りでIchnusa、もとはHyknusa)と呼ばれており、現在は州都カリャリで製造される、サルデーニャで一番ポピュラーなビールにその名を残している。また、イタリア半島を足だとすると、その足跡にあたるような島の形から、古代ギリシャ人はサンダリオン(Sandalyon)と呼んでいた。鰯の英語名サーディンはこの島から来ている。


新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。

少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。

その碑文の研究によると、彼らは、サルディス(リディア)を出発し、ティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。
遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。

以下は英語版の項目en:History of Sardiniaからの翻訳である。


先史時代
 

1979年、15万年前にさかのぼる人類の痕跡が発見された。
ガッルーラからサルデーニャ北部に居住した最初の人間は、おそらくイタリア半島のトスカーナから渡ってきたとみられている。
島の中央部にはバレアレス海を渡り、イベリア半島から来た人々が居住したとも考えられている。先史時代の矢じり(約5000年〜6000年前)や、現在カリャリの考古学博物館に納められている地中海地方の母神像から、高いレベルで石の彫刻を作る能力を持っていたと推測される。


石器文化と黒曜石の時代

石器時代には既に、モンテ・アルチ (Monte Arci) は重要な役割を演じていた。この休火山は、黒曜石採掘と刃物・矢じりへの加工の中心地のひとつであった。現在でも山腹では火山ガラスを見つけることが出来る。サッサリの考古学博物館には、紀元前2600年頃の青銅器時代(またはAneolithic Age)の土器が展示されている。


ヌラーゲ文化の時代

先史時代のサルデーニャは、ヌラーゲと呼ばれる独特の石造りの構造物に特徴づけられている。サルデーニャには複雑な構造のものから単純なものまで、大小7000のヌラーゲが現存している。最も有名なのはカリャリ県バルーミニのヌラーゲ遺跡、スー・ヌラージ・ディ・バルーミニである。

このヌラーゲは紀元前1800年から250年頃にわたって造られ、紀元前1200年から900年頃に全盛期を迎えた。聖なる水場の隣に建てられ(例:Santa Cristina, Sardara)、墓の構造はドルメンと呼ばれる。この時代サルデーニャ人は既に、西地中海で交易を行っていたミケーネ人と接触していたことがわかっている。


エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャとのつながりは真偽が疑わしく、立証されていない。
墓場 (Tombe dei giganti) には沈みかけの船をかたどった墓石があり、長い航海中に惨事があったことを示している。古代ギリシャで初めて地中海を西に航海したエウボイア人は、サルデーニャをHyknousaと呼んだ。のちにラテン化しIchnus(s)a(イクヌーザ)となった。

ノーラ遺跡の石碑は、フェニキア人がこの島をShardenと呼んだ証拠となっており、これがSardiniaという名前の由来となっている。


サルデーニャにおけるフェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人


紀元前8世紀から、Tharros(ターロス)、Bithia(ビティア)、Sulcis(スルシス)、Nora(ノーラ)、Karalis(カラリス、現在のカリャリ)と、フェニキア人が都市や砦をいくつもサルデーニャに築いた。

フェニキア人はレバノンの出身で、地中海で交易を行っていた。彼らは島のあらゆるエリアに定住した。
サルデーニャはカルタゴ(現在のチュニジア)、スペイン、ローヌ川(フランス)、エトルリア(イタリア半島)の間にあったため、西地中海の中心として特別な地位を獲得していた。
イグレージアス周辺の鉱物地帯は、鉛や亜鉛の産地として重要であった。都市は防御しやすく天然の港になる、多くは河口に近い半島部や島のような、戦略上の重要な地点に造られた。

フェニキア人ののちに、紀元前500年ごろカルタゴ人(Punic、ポエニ)がサルデーニャ周辺の地中海の覇権を確立した。カルタゴの影響はサルデーニャのほぼ全域に及んでいる。


紀元前238年、ローマ人が島を獲得した。ローマはカルタゴと第一次ポエニ戦争を戦ったが、戦後にカルタゴの傭兵が反乱を起こしたため、ローマはこの年サルデーニャに上陸し、占領する機会を得た。

ローマ人がサルデーニャを獲得した時点で、既に社会基盤と(少なくとも平野部では)都市化された文化があった。サルデーニャはシチリアとともに、エジプト征服までのあいだローマの穀倉地帯のひとつでありつづけた。フェニキア・カルタゴ文化は、ローマ人の支配下にあっても紀元後数世紀まで根強く残った。Tharros(ターロス)、Nora(ノーラ)、Bithia(ビティア)、Antas(アンタス)、Monte Sirai(モンテ・シライ)らは、建築と都市計画の調査に非常に重要な考古学遺跡となっている。


中世

ジュディカーティの領国(14世紀)

ローマ帝国の滅亡後、サルデーニャは何度と征服の対象とされている。東ローマ帝国による帝国の一部としての奪還に先立ち、456年北アフリカのヴァンダル人に占領された。711年からは、サラセン人による沿岸部の都市への攻撃が始まった。
これが原因となり、9世紀には1800年の歴史を持つターロスが放棄され、内陸のオリスターノが取って代わった。アラブ人に対抗するために、海洋共和国であったピサとジェノヴァによる支援が求められた。


1063年から、この地域の東ローマ帝国の政治行政組織を踏襲する形で、審判による統治を意味するジュディカーティ(Giudicati)という制度が形成された。
中世後期において最も特筆すべき、今に至るまで島のヒロインと慕われる人物は、ジュディカーティであったアルボレア国の妃エレオノーラ・ダルボレア(Eleonora d'Arborea)である。彼女は法制の整備に尽力し、1395年に発効した先進的な民法典カルタ・デ・ログ(Carta de Logu)は1827年まで使われた。


同じ時代、アラゴン=カタルーニャ王国の影響が大きくなり、これはアラゴンによるサルデーニャ占領まで続いた。アラゴンの塔と呼ばれた見張り台が沿岸部全域にわたって作られ、アラブ人の侵入を防ぐことに役立った。これらの見張り台のいくつかは、ちょうど戦略上の重要地点にあったフェニキア都市の石を使って作られた。

教会建築への再利用としての好例は、古い都市オトカ(Othoca)の跡に建てられたサンタ・ジュスタ(Santa Giusta)教会にみられる。当時のスペインの影響の強さは、今でもアルゲーロ周辺でカタルーニャ語の方言が使われていることからも伺える。
(資料ウィキペディア)


PPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPPP

















↑このページのトップヘ