idobatakaigi.com-blog

『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

2015年06月

上総氏 上総国の大武士団
そもそも両総平氏は千葉三郎常房の鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)などを除き、初期においては名字地とした地も下総国に偏っており、上総国には夷隅郡内にわずかに所領が見えるに過ぎない(『徳嶋本千葉系図』)。つまり、両総平氏の根本はもともと下総国であった可能性が高いと思われる。

いよいよ歴史の核心に入ってきた。あちこち断片的に集めてきた資料の一つ一つを縒り糸で綴じ、一つの歴史物語の輪郭が見え始める。 
 
時代が飛んで2.26事件の「斉藤実」暗殺

2・26事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。
事件の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。

当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。
もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。(27日、その別荘の在り処とは千葉県上総国一宮)

斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
※日本国海軍軍人「斉藤実」(海軍参謀本部員、秋津洲、厳島各艦長を経て、日露戦争当時は海軍次官。第1次西園寺内閣海相、以来第1次山本内閣まで8年間海相をつとめた)。

2.26日、海軍トップの「斉藤実」が、帰るべき別荘に帰らなかった理由は、ただ一つ、「グルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した」、というのが明確な理由として歴史書に残されている。それにはまったく疑う余地はない。
自サイトでも記したが、その偶然は、まことの偶然か、それとも偶然を装った必然か、今となっては知る由も無いが、事件の核心は「斉藤実」が標的となっていたことはよく知られた事実である。天皇のご意見番としてぴったり寄り添い、また、死してお悔やみの言葉をいただく。
IMG_6870
軍人斉藤実が一宮という土地に別荘居宅を構えるのは、特に珍しいことではなく、その当時にあって、その他の著名な人物も別荘地を所有していた。それを広く宣伝した人物がいて、その人物にもスポットをあてて物語りは作られる。

かつて京都南禅寺界隈の広大な別荘群の一角に軍人「山縣有朋」の別荘があったことは、よく知られた事実である。そのことと、時間を隔てて斉藤実が「天平」の時代より名を馳せた上総地方に居を構えるというのは、軍人特有の匂いを嗅ぎ取る鋭敏な嗅覚によるところが大きいとみる。

そのことについて、これから歴史の糸を紡いで行こうとする「御伽草子」のような物語である。 
 
文中にある「鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)」という地名は、今でも「いすみ市」に所在する。
現在はその場所に「清水寺」が建立されており古刹として、地元の人々の崇敬を集めている。その地の由来については諸説があり、今となってはどれが真実か皆目見当もつかないが、すぐ脇には夷隅川が流れており、時代を考慮して陸路より海路河川交通と考えたほうが理屈があう。
img_2

もともと、この夷隅(延喜式にも載る)は穀倉地帯としても有名であった。また「古語拾遺」によれば「麻」栽培生産の適地として、「忌部氏」が上陸したという伝説も見逃せない。さらに、ここいらの土地から地鉄を採取したという言い伝えもある。
既に物故した古老の話によれば、「アカハガネ」と称した土地もあったと訊く。それを良く吟味すれば「玉鋼」であることは、充分理解できる話しだ。

 
平常長の頃の両総平氏勢力想像図
「上総氏」は両総平氏の族長家、惣領家とされている氏族である。この氏族を指して「上総氏」とするのは厳密には不適切であるが、便宜上「上総(権)介」に就任(除目による任官ではないだろう)した平氏を指して「上総氏」と呼ぶ場合もある。

両総平氏の歴史上、古くは平高望、平忠常のみが「上総(権)介」に就任した記録があるのみ(平高望の上総介就任は「六国史」や公文書での記録はないが、『将門記』や『神皇正統記』などに記述)で、忠常の子・常将や孫の常長が「上総(権)介」に就いたという明確な史料はない。つまり、惣領家が必ずしも「上総(権)介」に就任したわけではない、ということになる。

そもそも両総平氏は千葉三郎常房の鴨根郷進出(上総国夷隅郡鴨根)などを除き、初期においては名字地とした地も下総国に偏っており、上総国には夷隅郡内にわずかに所領が見えるに過ぎない(『徳嶋本千葉系図』)。つまり、両総平氏の根本はもともと下総国であった可能性が高いと思われる。

一般に、千葉氏は上総国山辺郡大椎(千葉市緑区大椎町)から千葉へ本拠地を移したとされているが、大椎からは明確な平安期の遺物は見つかっておらず、どれほどの信憑性があるか疑問である。

平常兼亡きあと、遺跡は長男・常重が継承したと思われるが、いまだ幼少であったためか、天治元(1124)年6月、常兼の弟で下総国相馬郡に私領を持っていた相馬五郎常晴が常重を養子として相馬郡を譲っている。

平常兼・平常晴の頃の両総平氏勢力想像図  (■:下総平氏 ■:上総平氏)
なお、常晴は両総平氏の「惣領(族長権者)」ともされるが、千葉氏をはじめ東総の下総平氏庶家が「上総氏」から惣領権の行使を受けていた形跡が見られない。あくまで父権による子の支配に過ぎなかったと想像される。

惣領の子を親世代の庶子が養子となして所領を譲る例もあるため、常晴が常重を養子となして相馬郡を譲った事実をして常晴を「両総平氏」の「惣領」と断定する証明にはならないであろう。つまり、「上総氏」を「両総平氏」の族長権者(惣領権者)と考えることは難しい。

両総平氏が上総へ進出したと思われる事例は、常晴以前においては兄の千葉三郎常房の夷隅郡鴨根郷進出を見るにとどまる。つまり、「両総平氏」が上総国へ進出したのは比較的新しく、常晴より前には、伝承上の大椎郷ならびに忠常以来の所縁があった夷隅郡の一部を領するのみだったことがわかる。

常晴は常重に相馬郡を譲ったのち、何らかのきっかけにより上総国へ移ったことは、常晴が「上総介」と呼ばれていた(永暦2年4月1日『下総権介平申状案』)ことからも事実であろう。実際は常晴の子・常澄が急速に上総国に勢力を拡大していったのだろう。

平常重・平常澄の頃の 両総平氏 勢力想像図
(■:下総平氏 ■:上総平氏)
常晴が上総国内で本拠とした場所は、遠祖・忠常ゆかりの夷隅郡であったと推測される。常晴にとっては曾祖父に当たる平忠常が居住した場所が「伊志み」とあり(『小右記』)、以来、忠常の子・常将や孫・常長が伝えてきたのだろう。この地にはすでに兄・三郎常房が入っていたが、常房の子である千田常益、原常宗、次浦常盛らはいずれも下総国千田庄を名字地としており、常房一族は上総国から撤退し、下総国千田庄へ移っていることがわかる。常房亡きあとと推測されるが、常晴が常房の跡を襲う形で夷隅郡に入ったのだろう。推測だが、この常晴の上総移住時期が、常晴が常重に相馬郡を譲った天治元(1124)年6月なのかもしれない。 

そして、常晴の子・平常澄は長男・伊南新介常景が夷隅郡伊南庄にいた(荘官か)ことからも想像できるように、夷隅郡を中心に勢力をひろげている。その勢力拡張の背景にあったのは、おそらく「上総権介」という(在)国司的な権力と、上総国一宮である玉前神社の神威であり、常晴とその子・上総権介常澄に至って上総平氏は在地勢力を自己勢力に組み込みながら、上総国内への影響力を次第に拡大させたのだろう。

常澄には、印東次郎常茂、匝瑳三郎常成、埴生六郎常益、木内太郎常範、相馬九郎常清といった下総国を名字地とする子息があり(『徳嶋本千葉系図』)、下総国内にまでその勢力を伸ばしたことがうかがわれる。

ただし、少なくとも常澄後の上総氏が下総国の一族に対して「族長権」を行使した形跡はなく、常澄亡きあとはそれぞれが独立した勢力となったと推測され、上総氏自体の勢力基盤は上総国内にほぼ集約されていたと推測される。

●両総平氏系譜(赤は下総国へ移った人物) 
 平常長――+―平常兼――――千葉常重
(下総権介)|(下総権介) (下総権介)
      |         ↓
      |      +=千葉常重―――千葉常胤―――相馬師常
      |      |(下総権介) (下総権介) (二郎)
      |      |
      |      +―戸気長実
      |      |(五郎)
      |      |
      +―相馬常晴―+―平常澄――+―伊南常景―――伊北常仲
                    |(伊南新介) (伊北庄司)
                    |
                    +―印東常茂―+―長南重常――+―長南久常
                    |(印東介) |(太郎)   |(次郎)
                    |      |       |
                    +―匝瑳常成 +―印東頼常  +―多名気常泰
                    |(三郎)  |(印東別当) |(三郎)
                    |      |       |
                    +―大椎惟常 +―南郷師常  +―米満親常
                    |(五郎)  |(四郎)    (七郎)
                    |      |
                    +―埴生常益 +―戸田常政
                    |(六郎)   (七郎)
                    |
                    +―木内常範 
                    |(太郎?)
                    |      
                    +―平広常――――平能常
                    |(八郎)   (小権介)
                    |
                    +―相馬常清―――相馬貞常
                    |(九郎)   (上総介?)
                    |
                    +―天羽秀常
                    |(天羽庄司)
                    |
                    +―金田頼常
                     (権太夫)


伝承
『古語拾遺』には、天太玉命の孫・天富命が阿波忌部を率いて東遷し、房総半島に上陸したとしている。この記述の中で、「麻」の古語を「総(ふさ)」というとし、古代の総国(ふさのくに;のち安房国・上総国・下総国に分立)は東遷した忌部が麻を植えたことによるとしている。また、穀(かじ)の木を生むことにより結城郡が、阿波忌部の居るところとして安房郡(古くは阿波とも表記。のち安房国)が名付けられたとしている。
同書では、天富命は安房郡において太王命社を建てた旨が記され、現在の安房神社に比定される。安房神社では昭和7年(1931年)に海食洞窟が見つかり多数の人骨が発掘され、これを忌部氏に仮託し忌部塚として祀っている。その他にも千葉県域に多くの関係地が残っている。
なおこれら伝承がある一方で、安房に忌部が設けられたという史料等は見つかっていない。そのため、この伝承は東国における中臣氏の勢力と対抗するために、忌部氏が奈良時代に造作したものと見るむきもある。(記事引用〆) 




(参照ウィキぺデア)
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/enjouji.htm






 

歯科治療と金属 冶金学
 シュメールの冶金
 矯正治療だけでなく、歯科治療では、たくさんの金属が使われていますが、口腔内で使用するので、為害性のないものでなければなりません。そのため、歯科では貴金属が多用されます。

 矯正治療も、Angleの時代は金合金や、白金加金合金が使われていたので、治療費はものすごく高価だったといわれて患者さんは億万長者の子弟だけだったといわれています。
 その名残りか、矯正治療は高価であるとイメージが付きまとっていますが、現在では貴金属はほとんど使用しないのですが、全歯牙を可及的、理想的に配列するためには一人ひとりのトータル・チェアータイムが大きいので高価にならざるを得ません。

 アメリカで矯正治療が普及したのは安価なステンレス・スチールが発明された後といわれ、金属材料の発達は大きな貢献をしています。

 メソポタミア文明
 そもそも鉄を初めて使ったのは、シュメール文明(メソポタミア文明)であったといわれ、その鉄は隕鉄という隕石の一種を加熱し、たたいて武器にしたといわれています。 しかし、鉄鉱石を溶解する製鉄技術を確立したのは紀元前15世紀に現れたヒッタイトといわれています。

 ダマスカス刀
 ステンレス・スチールは先人の知恵の寄せ集めによって作られたようで、鉄は武器や生活の道具として使われてきた経緯があり、構造部材として鉄が使われるうになったのは、産業革命以後です。
 十字軍の頃はヨーロッパの剣より、イスラムの剣の方が優れており、特にダマスカスで作られた刃物が珍重されていました。ダマスカスの剣は日本刀のように刃に波模様があります。
 ダマスカス剣はウーツ鋼と呼ばれるインドで作られた鋼をアラビア商人がシリアのダマスカスで鍛造して作った剣です。
 ダマスカス(ウーツ)鋼はインドの旧デリーのイスラム寺院にあるいわゆる2000年以上錆びない「デリーの柱」がそうであるといわれてきましたが、実際はダマスカス鋼とも関係がなく地中で錆が進行しているのがわかりました。(デリーの柱)

 その後、ウーツ鋼もダマスカス剣も失われ、伝説だけが残り、その後、色々な国で色々な人が再現を試みました。
 
 1821年フランスのピエール・ベルティエという鉱山技師が、クロム鉱石と鉄鉱石を混ぜて溶解し、できた合金の耐酸性が高いことを発見し、このフェロクロムからさらにクロム鋼を作り、刃物を作ったところ、切れ味も申し分なく、耐酸性もあることを確認、研磨するとダマスカス模様が現れました。

 台所の流しや食器に使われる「18-8」ステンレスは刃物ようのステンレスより遥かに錆びにくいのですが、「焼き入れ」できません。
 これがステンレス・スチールの始まりで現在ではJIS規格でも70種類以上あり、生活のあらゆる場面で使われています。
 医療分野でのステンレス鋼の採用も早く1925年にはニッケルメッキのメスの代わりにステンレス製のメスがカタログに載り、1938年にはほとんどのメーカーでニッケルメッキ製は駆逐されています。歯科領域でも、医療用器具や矯正治療様ブラケットやワイヤーなどはステンレスで作られています。更に、ニッケルにアレルギーを持つ患者さんでは、ニッケル含有量の少ないステンレス製のインプラント材が使われることがあります。

 紀元前55世紀、金属同士を混ぜ合わせると、性質が変わることは古代からわかっており、紀元前5500年頃~紀元前3500年頃に栄えた「ウバイド文化」で、宝石としても利用されていた孔雀石(マラカイト)を加熱すると銅の塊が得られることが発見され、紀元前4000年~3000年には中近東だけでなくバルカン半島でも銅精錬が始まり、紀元前3000年頃、古代メソポタミアのシュメール遺跡で最古の青銅器が発見されています。

 銅の融点は1083℃で、錫(融点231.9℃)と混ぜると約875℃で溶解し合金ができます。銅と錫の混合比は銅が増えると赤みを増して溶けにくくなり、80%以上になると溶けにくくなり、逆に錫が増えると硬度は上がりますがもろくなります。

 青銅は銅などに比べれば硬く、研磨や鋳造・圧延などの加工ができたので、斧・剣・壷などが作られましたが、メソポタミアには隕鉄を利用した、製鉄技術存在したようで、メソポタミアのヒッタイト王国で製鉄技術が生まれ、青銅製武具は鉄製品に取って代わられ、青銅器時代から鉄器時代へと移行しました。

 鉄の原料は、鉄鉱石や砂鉄ですが、これらは酸化鉄として存在しており、高炉で炭や石炭、コークスを使い1500度以上に加熱し、鉄を酸素と分離します。できた鉄は「銑鉄」と呼ばれ、炭素が4~5%含まれ、その他にSi,Mn,P,Sなどの不純物が含まれ、硬度はあるが脆く、鋳物にしか使えません。

 刃物や構造材を作るためには、もっと強度のある鉄材が必要で、平炉や転炉で酸化製錬し、不純物を取り除き、溶鋼を作ります。この溶鋼は使用目的により再度、酸素を取り除かれると同時にNi,Cr,W,Moなどの元素を加え鋼塊にされます。

 実用材料としての鉄・鋼は炭素含有量で0.08~2.0%のものが鋼で、それ以下は鍛鉄または軟鉄と呼ばれ、焼き入れしても硬化しません
 一方、2.0%以上のものは鋳鉄と呼ばれ、硬い反面脆いのでこれも鋳物に使われます。

 鋼の結晶構造
 物質にはたとえば水のように、固体、液体、気体という相変態をすることは誰も経験で知っていますが、金属の場合加熱することで固体状態のまま性質が変化することが知られ、鉄では低温時のα鉄(フェライト)(結晶構造は体心立方格子ですが炭素原子が鉄原子より小さいため、隙間に入り込む)から高温(912℃)になるとγ鉄(オーステナイト)(結晶構造が面心立方格子に変化し、α鉄より隙間が大きいので、多くの炭素を固溶)となり、さらに高温(1400℃)を超えるとδ鉄(δフェライト)(結晶構造は体心立方格子に変化、炭素の固溶は減少)になります。δ鉄はほとんど利用されません。
こさらに温度をあげると鉄は液相になり炭素を完全に固溶できるようになります。

 鋼はほとんどの場合、熱処理をすることで、最終製品の必要とする特性を発揮させます。熱処理は基本的には加熱における加熱速度・加熱温度・保持時間、そして冷却温度・冷却保持温度・冷却時間により、その特性が変化しますが、そのほかにも炭素や添加金属の量や種類によっても変化します。

 熱処理の基本は以下の4種類です。熱を使って金属の柔らかさを制御する

 1. 焼きならし(normalzing)
 加工による内部のひずみを取り除いたり、組織を標準の状態に戻したり、微細化する熱処理です。熱処理をすると強度、延性が高くなります。焼き入れの予備処理としても使われます。鋼をオーステナイト組織の状態で十分保持したのち、空気中で十分に冷却します。
 2. 焼き入れ(quenching)
 鋼をγ鉄(オーステナイト)の状態に加熱した後、水中または油中で急冷することにより、マルテンサイト組織の状態に変化させる熱処理です。焼き入れは、炭素量が0.3%以下でないと効果はありません。
 焼き入れは鋼の硬さを増大させる目的で行われますが、靱性(ねばり)が低下するので、一般には次の焼き戻しをセットで行います。
 3. 焼き戻し(tempering)
 焼入れによって硬化した鋼に靭性を与えるため、マルテンサイト組織の状態から鋼を再加熱し、一定時間保持した後に徐冷する作業を言います。再加熱後、保持する温度により組織の変化が異なり、600℃で焼き戻すとソルバイト組織が、400℃程度ではトルースタイト組織が得られます。
 4. 焼きなまし(annealing)
 金属を加工すると硬く脆くなりますが、高温に加熱したのち,徐冷すると、結晶を成長させ、結晶格子の欠陥を減らすと展延性が回復します。、これは「焼きなまし」といいます。鋼をオーステナイト組織の状態で十分保持した後、炉中で徐冷します。

 弾性フックの法則
 小学生の頃、ばねばかり原理について勉強した時、フックの法則は勉強しましたが、弾性については、現在ではどれほど単純ではなく、色々な素材について研究されています。
 フックの法則フックの法則は、バネに重りを吊るし、一定の重さまでは比例的にバネの長さが変化しますが、限界を超えると元に戻らなくなるというものでした。

 一般に、弾性体は力を加えられると変化し、その時のひずみと力の割合を弾性率といい、以下の式が成り立ちます。 

 弾性率は以下の4種類があります

 (1) ヤング率
 物を引っ張った時の伸びと力の関係から求められる定数です。「曲げ剛性」「たわみ剛性」とも呼ばれます。バネの場合、バネの形状、巻き数、太さなどでバネの強さは変化しますが、形状によらず素材そのものの性質を表すのがヤング率です。
 (2) 体積弾性率
 圧力をかけた時の体積の縮みと力の関係から求められる定数です。
 (3) 剛性率
 ものをずらした時のズレと力の関係から求められる定数です。「ズレ弾性」とも呼ばれます。
 (4) ポアソン比
 ものを引っ張った時の縦の伸びと横の縮みから求められる定数です。
 弾性係数に及ぼす熱処理の影響は一般に小さく、実用上ほとんど無視して差し支えないと言われ、金属の熱処理に対応する最も直接的な変化は書式であり、炭素鋼や低合金鋼などは、フェライトーパーライト、焼戻しマルテンサイト或いはベイナイトなどの組織がありますが、これらは、物理的性質や機械的性質はかなり異なりますが、弾性係数は組織依存性が低く、若干の例外を除けばその変動は数%以内に過ぎません。
(記事検索引用〆)


ヒッタイト「鉄の謎」に挑む 通説揺らぐ発見も
2010年8月7日11時25分朝日新聞

TKY201008070106


鉄を武器にアナトリア(現在のトルコ)に強勢を誇ったヒッタイト。文明の発展に大きな貢献をした「鉄」を、彼らはいつ手にしたのか。製鉄技術はどのように世界に広がったのか。「鉄の帝国」の謎に挑む日本の研究者の発掘現場を訪れた。

■日本の研究機関、トルコで発掘25年

 アンカラから南東に65キロ。岩山の上にヒッタイト帝国期(紀元前1400~同1200年ごろ)のビュクリュカレ遺跡はある。険しい斜面に石の壁が顔をのぞかせる。高さ7メートルという。巨石の上に日干しれんがを積んで城壁にしたらしい。周囲には数百メートル四方の街があったことが磁気探査でわかっている。

 「この遺跡にヒッタイトの製鉄炉があってもおかしくない。付近には鉄鉱石が転がっているし、鹿の骨もある。鹿がいたということは、燃料の木々も豊富だったということだ」。中近東文化センター(東京)の付属機関、アナトリア考古学研究所の松村公仁研究員はいう。

 焼かれて変色したれんががあった。大火災の痕跡らしい。帝国を滅亡に追い込んだ戦いを物語るのだろうか。戦争の遺物が出るかもしれない、という期待を抱かせる。

 中近東文化センターは1985年、トルコ中部のカマン・カレホユック遺跡で調査を始め、98年には現地にアナトリア考古学研究所を設立。昨年からはビュクリュカレ遺跡で本格的な発掘を始めた。

 今年7月にはカマン・カレホユック考古学博物館が開館し、トルコ政府が招いた報道陣に公開された。日本政府の途上国援助(ODA)を含む総事業費は約5億円。ヒッタイトの謎を長期的に探究する体制が整った。

 「やがて鉄をめぐる秘密のベールがはがされていくはずだ」。大村幸弘所長は、そう力を込める。調査の進展次第で、鉄を駆使して帝国を築き上げたヒッタイトの実像に迫れるからだ。それは、人類が飛躍を遂げる原動力となった製鉄技術の伝播(でんぱ)過程の解明につながる。


紀元前1200年の「カタストロフ」 (ウィキぺデア記事)

前1200年のカタストロフとは地中海東部を席巻した出来事のこと。
この出来事の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎える事になり鉄器時代が始まった。
そしてその原因は諸説あるが、この出来事の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出す。

紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する出来事が発生した。
現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。

これらには諸説あり、気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなったとする説、エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説などが存在する。
地震によって崩壊したとする説は環東地中海全体の崩壊ではなく、特定の国にのみ考えられており、少なくともミケーネ時代のティリンスではドイツ考古学研究所 の調査によれば激しい地震活動が発生したことが確認されている。

この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば、ヒッタイトの崩壊、エジプトにおける海の民の襲撃、ギリシャのミケーネ文明の崩壊、気候の変動、以上の4項目に分けることができる。
また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる。

ヒッタイトの崩壊

ウガリットのラス・シャムラ遺跡で発見された文書によればヒッタイトの崩壊は前12世紀初頭とされている。
このラス・シャムラ遺跡を発掘したクロード・A・シェッフェルによれば、海の民が沿岸を進み小アジアを横断、ヒッタイトとその同盟国へ攻撃を仕掛けキプロス、シチリア、カルケミシュ、ウガリットへ手を伸ばしたとされている。ただし、アナトリア内陸部にあるハットゥシャはその痕跡は残っていない。

また、ヒッタイトの最後の王シュッピルリウマ2世がウガリットの支援を受けた上で海の民に勝利したというエピソードも残されているが、これは侵入者がヒッタイトを分断して崩壊へ導いたことを否定する材料にもならず、トラキアからフリュギア人らがヒッタイトを攻め滅ぼした可能性もフリュギア人らがヒッタイトの大都市が崩壊したのちにアナトリアへ至っていることから余り高くない。

ヒッタイトの崩壊には2つの仮説が存在しており、侵入者がハットゥシャ、カニシュ などあらゆる建物に火を放ったとする説。
ヒッタイトは内部と近隣地域から崩壊した後、アッシリアの攻撃を受けた事によりウガリットを代表とする属国、同盟国が離反、さらには深刻な飢饉のために弱体化して崩壊したとする説である。
シェッフェルによれば後者の説には裏づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見された文書によればヒッタイト最後の王、シュッピルリウマ2世は「国中の船を大至急、全て回す」よう命令しており、オロンテス川流域の小麦をキリキアへ運ぶのと同時に、王、その家族、軍隊を移動させようとしていた。
これはシュッピルリウマ2世が首都を捨てようとしていたことが考えられ、これについてシェッフェルはかんばつと地震により、ヒッタイトに繰り返し飢餓が発生していたと分析している。

さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方は地震群発地帯であり、地震により火災が発生したことで各都市が火災の跡が残っているとしており、ウガリット時代の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていたとしている。

また、前者の説はギリシャ北部から移住したフリュギア人、エーゲ海より侵入した人々、いわゆる『海の民』らがヒッタイトへ侵入、ヒッタイト滅亡の最大の要因となったと推測している説も否定されているわけではない。
(記事検索ウィキぺデア) 







関連記事 http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html



古語拾遺・こごしゅうい
『古語拾遺』とは、古代の氏族である斎部(いんべ)氏の由緒を記した歴史書である。

斎部広成(ひろなり)の撰述(せんじゅつ)で、807年(大同2)に成立した。祭祀(さいし)を担当した斎部氏が、同様の職掌に携わっていて勢いを強めた中臣(なかとみ)氏に対抗して、正史に漏れている同氏の伝承を書き記したものであり、正確にいうと、斎部氏によって提出された愁訴(しゅうそ)状であって、『古語拾遺』は後人による命名である。

※斎部広成の伝記は『日本後紀』の808年(大同3年)11月17日の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかのことはわからない。ちなみに、この昇階は平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、807年(大同2年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。
元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族だった。しかし、大化の改新以降、同様に祭祀を司っていた中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)が政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。本書は斎部氏の正統性を主張し有利な立場に立つために著されたものであると考えられる。
(ウィキぺデア記事)

伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神の国生みと、神々の誕生神話から筆をおこし、757年(天平宝字1)の時代までのことが記述されており、斎部氏の氏族伝承をはじめ、記紀に並ぶ古代史の貴重な文献である。

古語拾遺・現代語訳
古語拾遺一巻 加序

古語拾遺
従五位下 斎部宿禰廣成 撰(
いんべのすくねひろなり)
聞くところによると、上古の世は文字が無く、貴賎老少問わず口から口へ伝えていたが、その言った事、行った事や出来事を忘れはしないかと書き記して以来、古を語る事を好まなくなり、浮ついた華やかさを競い興じて還って旧老をあざ笑い、遂に世代を重ねて古代を忘れ、代を重ねる後とに古法をを失った。
顧みて故実を問う時その根源を知らない。
国史・家史にこの理由を記録されていると言っても、詳らかにすれば、なお判らない所が有る。愚臣が言わなければ、恐らく絶えてしまって伝える事が出来なく成ります。幸いに召されて問われましたので、長らく思って今した事を述べたいと思います。故に旧事を敢えて申します。
聞くところによると、天地の初めイザナギ・イザナミの二神は共に夫婦と成り、大八州国(オオヤシマノクニ)および山川草木を生まれ、次に日の神と月の神を生まれ、その後に素戔嗚の神をうまれた。素戔嗚の神は常に泣き叫んでいた。
そのため、人は夭折し青山は枯れ山と成ったので、父母の二神は「お前の行いは大変ひどい。早く根の国に退去しなさい。」
と命じられた。

また、天地が別れる初めに天で生まれた神は、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と言う。
次に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)[古くは、多賀美武須比と言う。これは皇親神留伎命である。]
次に神皇産霊神(カミムスビノカミ)[これは皇親神留彌命の事で、この神の子の天児屋命(アメノコヤノミコト)は中臣朝臣(ナカトミノアソン)の先祖である。]

その高皇産霊神が生んだ娘の名は栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)[天祖の天津彦尊の母である。]
生んだ男の名は天忍日命(アメノオシヒノミコト)[大伴宿禰の先祖である。]
生んだ男の名は天太玉命(アメノフトタマノミコト)[斎部宿禰の先祖である。]
太玉命の率いる神の名は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)と言う。[阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖である。]
手置帆負命(テオキホオイノミコト)[讃岐の国の忌部の先祖である。]
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)[紀伊の国の忌部の先祖である。]
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)[出雲の国の忌部の玉作りの先祖である。]

ここに、素戔嗚の神が日の神(天照大神)に別れを告げるために天に登ってきたとき櫛明玉命がお迎えし、瑞八坂瓊勾玉を献じた。素戔嗚の神はそれを受け取り日の神に献じた。
神は共に誓約をして、その玉より天祖の吾勝尊(アカツノミコト)が生まれた。是をもって天照大神は吾勝尊を育てられた。 甚だしく寵愛され常に腋の下に抱かれていた。
名付けて腋子と言う。 [今の世に幼児を名付けて和可古(ワカコ)と言うのは是が始まりである。]
その後、素戔嗚の神が日の神に行った行為は、甚だ酷い事で種々の凌侮を行った。所謂、畔を壊し[古くは阿波那知(アハナチ)と言う]、溝を埋め[古くは美曽宇女(ミゾウメ)と言う]、水門を開放し[古くは斐波那知(ヒハナチ)という]、種を重ねて撒き[古くは志伎麻伎(シキマキ)と言う]、 田に櫛をさしたり[古くは久志佐志(クシサシ)と言う]、生き剥ぎ・逆剥ぎ・汚い物を撒き散らした。
[この様な天罪を素戔嗚の神は日の神の耕し種を播く時期に密かに田に往き櫛を刺し、相争い種子を重ね播きし、畔を壊し溝を埋め水門を開け放った。新嘗の時に糞尿を戸に塗り、織室に生きた馬を逆剥ぎし室内に投げ入れた。この天罪は今、中臣の祓いの詞である。織の元は神代より起こっている。]

ここに、天照大神は激怒され天石窟(アメノイワヤ)に入られ磐戸を閇め幽居された。国中が常に闇に包まれ昼と夜の区別がつかなくなった。群神は憂い迷い手足の置き所を知らず、総ての諸々の事を燭を燈して決済した。高皇産霊の神は八十萬(ヤソヨロズ)の神を天八湍川(アメノヤスカワ)の河原に集めて、今後の方策を議論した。

ここに思兼神(オモイノカネノカミ)が深く考え遠く慮り「太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、石凝姥神(イシコリドメノカミ)[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。]に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの事が始まりである。]に麻で青和幣(アオニギテ)[古くは爾伎弖]を作らせ、天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて白和幣(シロニギテ)を作らせ [是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。]、天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖である。]に文布を織らせ、天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。所謂、和衣(ニギタエ)である。

[古くは爾伎多倍(ニギタヘ)と言う。]櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ、手置帆負・彦狭知の二神に天御量(アメノミハカリ) [大小の量り雑器などの名である。]大峡・小峡の木を伐り瑞殿を造り[古くは美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う。 ]また、御笠と矛盾を作らせ、天目一箇神(アマノメヒトツカミ)種々の刀・斧・鐡鐸[古くは佐那伎(サナギ)と言う。]を作らせ、それらの物が揃ったら、天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)[古くは 佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う。]を堀って上の枝には玉を掛け、中程の枝には鏡を掛け、下の枝には青和幣・白和幣を掛けて、太玉命に捧げ持たせて讃えさせ、また、天児屋命に相共に祈祷させ、また天鈿女命(アメノウズメノミコト)[古くは天乃於須女(アメノオスメ)と言う。

その神は強悍で勇ましかった。今の世に強い女性を於須女と言うのはこの事による。]に真辟葛(マサキズラ)を鬘とし蘿葛(ヒカゲ)を手繦(タスキ)とし[蘿葛は比可気(ヒカゲ)]竹の葉・飫憇木(オケノキ)の葉を手草[今は多久佐 (タクサ)]着鐸(サナギ)を付けた矛を手に持ち、石窟戸(イワヤド)の前に誓槽を伏せ[古くは宇気布禰 (ウケブネ)と言う。誓約の意味である。]庭火を挙げ、俳優をを行い、相共に歌い舞わせる。」と言った。


ここに、思兼神の謀通りに石凝り姥神に日像の鏡を鋳造させた。初めに鋳造した鏡は小さく意に合わなかった。[これは紀伊の国の日前神(ヒノクマノカミ)である。]次に鋳造した鏡はその状態が麗しかった。[これは伊勢の大神である。]謀り通りに設け備える事が終わった。

太玉命は廣く篤い称え詞を申して「私が持っている鏡は、明かりが輝いていて汝の命の様である。戸を開けてご覧になってください」と言った。太玉命は天児屋命と共にその祈祷をした。そのとき天照大神は心の中で「このごろ、私が籠もって天下が真っ暗で有ると言うのに、群神は何故このように歌楽を楽しんでいるのだろう」と一人思われた。

戸を開けて覗き見されたとき、天手力雄神(アメノタチカラヲノカミ)にその扉を引き明けさせて、新殿に遷坐させた。天児屋命と太玉命は日御綱(ヒノミツナ)を[今の斯利久迷縄(シリクメナワ)。これは日影の像である。]その殿に懸け廻らし大宮賣神(オオミヤメノカミ)を御前に侍わせ [これは太玉命が久志備に生んだ神である。
今の世の内侍で善言や美詞で君臣の間を和らぎ宸襟を喜ばせる様な事である。] 豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)と櫛磐間戸命(クシイワマドノミコト)の二神に殿の門を守衛させた。

[これは両方とも太玉命の子である。]この時に天上は初めて晴れ諸共が相見た顔はみな、明るく白かったので手を伸ばし歌い舞い、相共に讃えて「阿波禮(アハレ)[天が晴れる事を言う。] 阿那於茂志呂(アナオモシロ)[古語事の大いに心を込めて皆、阿那(アナ)と讃えて言ったのは衆の顔が明るく白かったためである。] 阿那多能志(アナタノシ)[言い手を伸ばして舞う。今は楽事をさして、これ多能志(タノシ)と言うのはこの意味である。] 阿那佐夜憩(アナサヤケ)[竹の葉の聲である。] 飫憇(オケ)[木の名である。その葉を振るわす調べである。]」と言った。二神は共に「もう、お戻りになりませんように。」と言った。

素戔嗚の神に罪過を帰せ、千座置戸(チクラオキド)を科し、鬚・手足の爪を抜いて贖わせて、その罪を祓い天上より追放した。素戔嗚の神は天より出雲の国の簸之川上(ヒノカワカミ)に降、天十握剣(アメノトツカノツルギ)[その名前は天羽羽斬(アマノハバキリ)と言う。 今は石上神宮(イソノカミノカミノミヤ)にあり、古くは大蛇の羽羽(ハバ)と言う。蛇を斬る事を言う。]で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斬り、その尾の中から一つの霊剣を得て、その名を天叢雲(アメノムラクモ)と言う。 [大蛇の上に常に雲気が在った事から名前となった。
倭武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の年に相模の国に至り野火の難に遇い、やがてこの剣で草を薙ぎ免れ得た事から草薙剣と言う。]天神に献上した。その後、素戔嗚の神は国神の娘を娶り大己貴神(オオナムチノカミ) [古くは於保那武智神(オオナムチノカミ)と言う。]を生んだ。そして、ついに根国に行かれた。また、大己貴神[またの名を大物主神(オオモノヌシノカミ)またの名を大国主神(オオクニヌシノカミ)またの名を大国魂神(オオクニタマノカミ)今、大和の国の城上(シキウエ)の郡の大三輪神(オオミワノカミ)である。]は小彦名神(スクナヒコナノカミ)[高皇産霊尊の子で常世に隠れられた。]と共に力を併せ心を一つにして天下を経営した。
蒼生畜産(ソウセイチクサン=人と獣)の為に病気を治す方法を定め、また鳥獣昆虫の災いを掃おうとして禁厭の法を定めて百姓は今に至るまでことごとく恩頼を蒙る。皆、効験があった。

天祖の吾勝尊は高皇産霊神の娘の栲幡千千姫命を娶り天津彦尊を生んだ。皇孫命(コウソンノミコト)と言われる。 [天照大神・高皇産霊神の二神の孫の為、皇孫と言う。]そうして、天照大神・ 高皇産霊尊は皇孫を天下らせて豊葦原中国(トヨアシハラナカツクニ)の君としようと思われた。
経津主神(フツヌシノカミ)[この神は磐箇女神(イワフツメノカミ)の子。 今、下総の国の香取(カトリ)の神がこの神である]・武甕槌神(タケミカヅチノカミ) [この神は甕速日神(ミカハヤヒノカミ)の子。
今、常陸の国に鹿嶋のがこの神である。]を遣わして、駆逐し平定させた。ここに大己貴神と事代主神は共に退去された。退去されるときに国を平定した時に使用した矛を二神に授けて「私はこの矛で国を平定した。天孫がもしこの矛を用いて国を治めれば必ず平安が来るであろう。今から私は退去する。」と言われて、その後、隠れられた。ここに二神は帰順しない悪しき神々を誅し、遂に復命した。

この時に天照大神・高皇産霊尊は語らい「葦原瑞穂国は私の子孫が王と成るべき地である。
皇孫よ行って治めなさい。
天皇の位はが栄える事は天壌無窮であろう。」と言われた。そして八咫鏡と草薙剣の二品の神宝を皇孫に授けられ、永く天璽[所謂、神璽の剣と鏡がこれである。]とされた。矛と玉は自ずから従った。
そして、勅して「我が子よ、この宝鏡を見るのは私を見るのと同じで有る。同じ床で同じ殿で斎鏡としなさい」と言われた。
538a


また、天児屋命・太玉命・天鈿女命を配して侍らせ、勅して「私は天津神籬(アマツヒモロギ)[神籬は古くは比茂呂伎と言う。]および天津磐境(アマツイワキ)を立てる起こし、私の孫の為に斎奉るべきである。
汝、天児屋命と太玉命の二神は天津神籬を持って葦原中国に降り、また私の孫の為に斎奉りなさい。汝、二神も殿内に共に侍り、良くお守りしなさい。我が高天原の御斎庭(ユニワ)の穂 [是は稲穂である。]を我が子に捧げなさい。太玉命は諸部の神を率いて、その職により共に仕え天上の儀の如くしなさい。」と言われた。諸神も共に副え従えさせた。また、大物主神に勅して「八十萬の率いて永く皇孫の為にお守りしなさい」と言われた。
 
大伴の遠祖の天忍日命(アメノオシヒノミコト)と来目部の遠祖の天?津大来目を杖を帯び先駆けさせた。かくて、天降りする間に先駆けの者が還ってきて「一人の神が天之衢にいます。
その鼻の長さは七咫、背の高さは七尺、口の端が輝き、目は八咫鏡のようです」と報告した。従う神を遣わして、その名前を問うたが八十萬の神は、みな名前を相見る事すら出来なかった。

ここに天鈿女命は勅を受けて往き、胸を露にし裳帯を臍の下まで下してその神を見て嘲笑った。その時に衢に居る神が「貴方は何故その様な事をするのです。」と問うた。
天鈿女命は「天孫がお越しに成る道に居るのは誰だ」と問うた。衢に居る神は答えて「天孫が天降りされると聞いたので、お迎えしようと待っています。私の名は猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)と言います。」と言った。天鈿女命は再び問い「汝が先に行くか、私が先に行くか」と言った。答えて「私が先に行きます。」と言った。

天鈿女命は再び問い「汝は何処に行くのか、天孫は何処に行くのか」と言った。答えて「天孫は筑紫の日向の高千穂の○(木患)触の峯に至り、私は伊勢の狭長田の五十鈴川の川上に至。」と言い、また「私の名前を顕したのは貴方です。貴方は私を最後まで送って言ってください」と言った。天鈿女命は戻って報告した。

天孫は天降ろうとする時に猿田彦大神が言った様に乞うまま天鈿女命に最後まで送らせた。 [天鈿女命は猿女君の遠祖である。顕した神の名を氏姓にし、今は男も女も猿女君と名乗る]ここに群神は皆、勅を受けて天孫の歴代相助けその職に共に従った。

天祖彦火尊(ヒコホノミコト)は海神の娘の豊玉姫命を娶って、彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)を生んだ。 生まれる日に海辺に室を建てる時に掃守連(カニモリノムラジ)の遠祖の天忍人命(アメノオシヒトノミコト)は共に仕えて箒を作り蟹を掃き、また鋪設を掌り、遂に職の名前として蟹守と言う。 [今の世では掃守と言うのはこの事が伝えられて居るためである。]

神武天皇が東征を行う年になって大伴氏の遠祖の日臣命(ヒノオミノミコト)は督将の元戎を率いて兇渠を斬り払い、命の功績に片を並べる者は無かった。物部氏の遠祖の饒速日命は敵を殺し輩を率いて官軍に帰順した。忠誠の効を殊に褒めて寵愛された。

大和氏の遠祖の椎根津彦は皇船を迎え案内したので、香山の嶺に功績を表した。賀茂縣主(カモノアガタヌシ)の遠祖の八咫烏は宸駕を導いたので菟田の道に御璽を顕した。妖気は既に晴れてまた風塵も無く都を橿原に建てて宮室を作った。

天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。] 手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、正殿を建てた。[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、高天原に届くほど高く御殿を造られた。]その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしである。

また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)[古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。]造る。 その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物とその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布[古くは阿良多倍と言う。]と共に進貢した。
天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波の国に遣わして穀・麻種を植えた。その末裔は今は彼の国に居る。大嘗の年に木綿・麻布・種々の蓑を貢ぎ奉った。

故に郡の名を麻殖(アサウエ)としたのは是が元である。

天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。[古くは麻を總と言う。 今の上總・下總のに国がこれである。] 阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)[今の安房の国がこれである。]と言う。

天富命はやがてその地に太玉命の社を建てた。今は安房社(アワノヤシロ)と言う。その神戸(カムベ)に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を作る。その末裔は、今別れて讃岐の国に居る。年毎に調庸の他に八百竿を奉る。是はその事のしるしである。

皇天二祖の詔のままに神籬を建てた。所謂、高皇産霊、神皇産霊(カミムスビ)、 魂留産霊(タマツメムスビ)、生産霊(イクムスビ)、足産霊(タルムスビ)、大宮賣神(オオミヤメノカミ)、事代主神(コトシロヌシノカミ)、御膳神(ミケツノカミ) [巳上、今、御座の斎祭るところである]、櫛磐間戸神(クシイワマドノカミ)、豊磐間戸神(トヨイワマドノカミ)[巳上、今、御門の斎祭るところである。]生嶋(イクシマ)[是は大八州(オオヤシマ)の霊で今、生嶋の坐の斎祭るところである。]坐摩(イカスリ)[是は大宮地(オオミヤドコロ)の霊で今、坐摩の坐の斎祭るところである。]

日臣命は来目部を率いて宮門を守りその開閉を掌る。饒速日命は内物部を率いて矛楯を造り、そのもの既に備わった。

天富命は諸斎部を率いて天の璽の鏡と剣を捧げ持ち正殿に安置して共に瓊玉を懸けて、その幣物を陳列して殿祭りの祝詞した。[その祝詞の文は別巻にある。]次に宮門を祭る。[その祝詞の文もまた別巻にある。]その後、物部は矛楯を立て、大伴来目は杖を建てて門を開け、四方の国に朝廷と天位の貴い事を示させた。この時に帝と神の距離は遠くなく同じ殿で床を共にされていて、是を常とされていた。故に神物も官物も未だ分別されていなかった。宮内に蔵を建て斎蔵(イミクラ)と名付けて斎部氏を永くその職に任じた。 

また、天富命は物を作る諸氏を率いて大幣を作らせた。天種子命(アメノタネコノミコト) [天児屋命の孫である。]は天罪国罪(アマツツミクニツツミ)[所謂、天罪とは神が既に犯した罪、国罪とは国中の人民が犯した罪の事で有る。中臣の禊の詞にある。] を祓い、即ち鳥見山(トミノヤマ)の山中に祭り所を建て天富命が幣を陳列し祝詞をして皇天に祭り、遍く諸々の祭りを行い、神祇の恩に答えた。是ゆえに中臣・斎部の二氏は伴に祠祀に関する職を掌った。 猿女君の氏は神楽の事により仕えた。この他の諸氏も各々の職があった。
磯城瑞籬(シキミズガキ)の帝(崇神天皇)の時代になって、暫くして、神威を畏れられ、同じ殿に居られると不安で有るため、斎部氏に石凝姥神(イシコリドメノカミ)の末裔と天一箇神 (アメヒトツノカミ)の末裔の二氏を率いさせて鏡を鋳造させ剣を作らせた。
是を護身の御璽とされた。是が今、践祚の日に獻、神の御璽の鏡と剣である。倭の笠縫邑に磯城の神籬を立てて天照大神と草薙剣を遷した。皇女の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に斎奉らせた。その遷した日の夕方、宮人は皆集まり終夜、宴を開き楽で歌った。いわく「宮人の大夜すがらに、いざとおし。ゆきのよろしもなお、よすがらに」 ─ [今の世に歌って言うには、宮人の大よそ衣、膝通し、ゆきよろしも大よそ衣の歌の伝である。]
また六年八十萬の神たちを祭って天社国社及び神地(カムドコロ)・神戸(カムベ)を定めた。
初めて男の弭(ユハズ)の調[弓矢などで取った獲物]と女の手末(タナスエ)の調[女性の手で作った絹の布など]を貢がせた。いま、神祇の祭りに熊の皮・鹿の皮・角・布などを用いるのは是が元である。
巻向玉白朝(まきむくのたまきのみかど=垂仁天皇)は皇女倭姫命(やまとひめのみこと)[天皇の第二皇女。母は皇后の狭穂姫]に命じて天照大神を斎奉らせた。皇女は神の教えの通りに伊勢国の五十鈴の川原に社を建てた。よって斎宮(いつきのみや)を立て、倭姫命を住まわせた。
始め天上に折られるとき予め深い契りを結び、衢の神が先ずこの地に降ったのには深いわけがあった。そして、この御世に初めて弓矢刀を以て神祇を祭り、さらに神地・神戸を定めた。
また、新羅の王子の海檜槍(アマノヒボコ)が来たり、今、但馬国の出石郡(イヅシコオリ)に大社を作った。
纏向日代朝(マキムクヒシロノミカド=景行天皇)は日本武命(ヤマトタケルノミコト)に東夷を征討させた。 命は行く途中に伊勢神宮に詣でて倭姫命に会った。草薙剣を日本武命に授けて教えて言うには「慎重に怠るな」。

日本武命は既に東夷を平らげ尾張の国に還られた。宮簀媛を娶って久しく留まられ月を経て剣を解き家において徒歩で伊吹山に登られ毒にあたって亡くなられた。その草薙剣は今は尾張の国の熱田社に在る。未だ礼典あらず。磐余稚櫻朝(いわれわかさくらのみかど=神功皇后)に至り住吉大神が現れ新羅を討ち給い三韓は始めて朝貢した百済国王は懇ろにその誠実さを表し、ついに異心を抱く事がなかった。

軽島豊明朝(カルシマノトヨアケノミカド=応神天皇)に至り、百済王は博士の王仁を奉った。王仁は河内の文首(フミノオビト)の始祖である。秦公(はたのきみ)の先祖の弓月(ユヅ)は百二十県余りの民を率いて帰化し、漢値(アヤノアタイ)の先祖の阿知使主(アチノオミ) は十七県余りの民を率いて来朝した。ついに秦・漢・百済より信服した民は各々万をもって数えられ、褒賞するに足りる。みなその祠が有ったけれども未だ幣例を預かる事はなかった。

後磐余稚桜朝(ノチノワカサクラノミカド=仁徳天皇)の世になって、三韓は貢物を奉る事は絶えなかった。 斎蔵の傍らに更に内蔵を建てて、公のものを分別して収め始めて阿知使主と百済博士王仁にその入出状況を記録させ、更に蔵部を定めた。

長谷朝倉朝(ハツセノアサクラノミカド=雄略天皇)に至って、秦氏を分散して他の一族にそれぞれ隷属させられていた。秦酒公(ハタノサケノキミ)は進んで仕え寵愛を受け、秦氏を集めて、酒公に賜う詔を受けた。かれは百八十種の勝部を率いて蚕を飼い、織物を織り、貢物を奉って庭中に積み上げた。それにより、宇豆麻佐(ウヅマサ)と言う姓を賜った。 [宇豆麻佐(ウヅマサ)と言うのは貢物を積むままに埋もれた事である。奉るところの絹・綿が肌膚(はだへ)に柔らかで故に秦の字を読んで之を波陀(ハダ)と言う。 

また、秦氏の奉る所の絹を以て神を祭る剣の柄を巻き、今の世にも猶然り。いわゆる秦の機織の起こりである。]かくて、後の国々貢物を奉る年毎にあふれ、更に大蔵を立てて蘇我麻智宿禰(ソガノマチノスクネ)に三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を調べさせた。秦氏の其の物を出納し東西の文氏が記録するその帳簿を勘案し、この故に漢氏に姓を賜い内蔵・大蔵となし、秦・漢の二氏を内蔵大蔵の鍵の司とした。蔵部の起こりである。

小治田朝(オハリダノミカド=推古天皇)に至り太玉命の末裔は絶えず、帯のごとく天恩をうけ廃たのを興し、途絶えたのを継げはつかにその職に仕えた。

難波長柄豊前朝(ナニハナガラノトヨサキノミカド=孝徳天皇)白雉四年に至り小華下諱は斎部首作賀斯 (イミベノオビトサカシ)を以て神官の頭に召して(今の神祇伯である)王族・宮内・禮儀・婚姻・卜筮の事を司らせ、夏冬の二季に御卜之式(ミウラノノリ)をこの時より始めた。作賀斯の子孫はその職を得ることが出来ず、衰えて今に至る。

浄御原朝(キヨミハラノミカド=天武天皇)に至って、天下の姓を改め八等にわけた。その年の功績のみ評価し、天降りの功績は評価されなかった。その二つ目に朝臣と言う。
これを中臣氏に賜い、詔をして太刀を賜う。その三つ目に宿禰と言う。これを斎部氏に賜い、詔をして小刀を賜う。その四つ目に忌寸と言う。
これを秦・漢の二氏に賜り、百済文氏(クダラノフミウジ)等の姓とした [けだし、斎部と共に斎蔵の事を預かった事により姓とした。今、東文氏・西文氏が祓いの太刀を獻のは、けだし、この故による。]大宝年間に至り、初めて記録したが、神祇の記録は猶、明確にされた物が無く、祭の禮その方法は未だに整わなかった。

天平年間に至り、神名帳を考えて造った。中臣が専断し勝手に取捨し、故ある者は小祀であってもみな記載され、 縁の無い者は大社でも廃された。その奏施は当時、欲しいままに行い諸社の封税全てが一門に入った。

天降りの時より起こり、東征に及ぶまで臣従した群神の名は国史に現れたのは、 或いは皇天の厳命を受けて天孫の護衛となり、或いは昌運の洪啓に遭い神器の大造を助け
る。そうであるなら、功を記録し苦労に酬いるに至っては均しく祀典に預かるべきである。或いは未だに幣物の分け前に預からず。猶、介推の恨みを抱く。ましてや、草薙の神剣はいみじくも天璽である。

日本武尊が凱旋された年より留まって、尾張国熱田社にある。外賊が討伐されてこの方、国より出なかった。神物の霊験はこの様な事を見なければならない。そうであるなら、幣を奉の日に同じく敬い祀るべきであるのに、昔からもれている。その禮を修めないのは忘れられたところの一つである。

それ、先祖を尊び貴い者を敬うのは禮の教の最初とするところである。すなわち、 聖皇登極(アマツヒツギシロシメス)は父祖を受け継ぎ上帝を祭り六宗を祭り山川を祭り群神を遍くする。そうであるなら、天照大神は惟祖惟宗であら貴い方であり類なく、大神以外の諸神はすなわち子であり臣である。誰が敢えて抗うことが出来るだろうか。
そうであるのに、今、神祇官の幣を分配する日、諸神の後に伊勢神宮をするのは忘れられた事の二つ目である。

天照大神は元々帝と同じ殿にあられて仕え奉る義は君も神も一体であった。天上より始めて中臣・斎部二氏は相伴に日神にのみ奉る。猿女の先祖も神の怒りを解いた。そうであるなら、三氏の職は離れるべきではない。然るに今、伊勢宮司は中臣氏のみ就けて、二氏は預かる事が出来ない。忘れられた事の三つ目である。

全て神殿を造り奉るのは皆神代の職に依るべきである。斎部の官は御木・麁香の二郷の斎部を率いて切るのに斎斧をもってし、掘るのに斎鋤をもってする。
そののち、工夫等は手を下ろし造り終わった後に斎部が殿祭及び門祭を行い、その後、御坐べきである。しかるに、伊勢宮及び大嘗の由紀主基宮を造るとき皆斎部は預からなかった。
忘れられたところの四つ目である。また、殿祭・門祭は元々太玉命の仕え奉った儀である。斎部氏の職とする所である。
然れども、中臣・斎部共に神祇官に任じられて相共に仕え奉る。ゆえに宮内省が奏じた言葉に御殿祭仕え奉らんとして中臣・斎部は帝に候と申す。宝亀年間に至りて始めて宮内少輔従五位下中臣朝臣は常に恣意的に奏する言葉を改めて、中臣斎部を率いて帝に候と言った。それは省さながらにして、永く後の例として未だに改められていない。忘れられたところの五つ目である。

また、神代より始めて中臣・斎部は神事に仕え祭りて、差はなかった。中頃よりこの方、権勢は一氏に移る。
斎宮寮主神司の中臣・斎部は元々同等で七位官であった。然るに延暦の初め朝原内親王が斎奉る日に殊に斎部を降格し、八位官にした。今に至るも復位で来ていない。忘れられたところの六つ目である。
凡そ諸神に幣を奉るは中臣・斎部共にその事に預かった。しかし今は、太宰主神司は独り中臣が任じられ斎部は預かる事がない。忘れられたところの七つ目である。

諸国の大社も中臣を任じて斎部は預かる事がない。忘れられた所の八つ目である。 
全ての鎮魂の儀は天鈿女命の遺跡である。奏であるなら、御巫の職は旧氏を任ずべきである。そうであるのに今は他の氏を任じている。忘れられた事の九つ目である。

全ての大幣を造る者は神代の職に依るべきである。斎部の官は供を作る諸氏を率いて例に准じ造り備えた。そうであるなら、神祇官の神部を中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏で有るべきである。然るに今は中臣・斎部等の二三の氏ののみがあり、それ以外の氏は考選に預かる事はない。 神の裔の散り失せて、その裔が絶えようとしている。忘れられたところの十目である。

また、勝宝九歳、左辨官の口宣に今より以後は伊勢大神宮の幣帛使いは専ら中臣を用いて他の姓を用いる事はならないと言った。それは行われなかったけれども猶、前例となり記されて司は削り捨てなかった。忘れられた事の十一である。

昔、神代に大地主神(おおとこぬしのかみ)田を作ろうとした日に牛の宍を田人に食べさせた。そのとき御歳神(みどしのかみ)の子その田に来て饗に唾ををして帰って父にその有様を告げた。
御歳神は怒りを発して、その田に宇名後を放って苗葉をたちまちに枯れそこなわせて篠竹となした。ここに大地主神は片巫(カタカムナギ)[志止止鳥(シトトトリ)] 肘巫(ヒジカムナギ)[今の世の竃の輪又は米占である。]その故を占いで問うた。
御歳神の祟りの為、白猪・白馬・白鶏を献じて、その怒りを解きなさいとでた。教えのままに御歳神に謝罪し奉った。答え賜り、「実に私の思いである。麻柄を以て働き作り働け」すなわち、その葉を以て掃い天押草を持ってそれを押し、烏扇を以て扇げ。もし隠して出て去らないようなら、牛の宍を以て溝口に置いて男茎の形を作り、以てそれに添えてこれは、その怒りをもって厭所である。 [つすのみ・なるはしかみ・胡桃葉及び塩を以て置き賜うその畔に分け古事につすを以て都須と言う。]」

彼、その教えのままに従えば、苗葉が又茂り、年穀も豊かに実った。これは今、神祇官が白猪・白馬・白鶏を以て御歳神を祭る事の起こりである。

前件の神代の事説は盤古に似ている。氷を疑うの意は信を取るのは真に難しい。しかもわが国家は神物霊と言えども、今皆見存している事に触れて聞く事がある、嘘と言うべからず。
ただ、中古は猶、うって礼楽未だ明らかになっていない。事を制し法を垂れる事は遺漏が多い。聖運は初めて開けて尭暉を八州に照らし、宝暦ただ新たに舜波を四海に蕩かす。

鄙俗を往代に変え、秕政を当年に改め時に従って制を垂れ、万葉の英風を伝え、廃れるを興し絶えたるを継ぎ、千載の闕典を補い、もしこの造式の歳にあて、かの望みである秩序の礼を制し、密かに恐れる。
後の今を見て、今の古を見るかならんを。愚臣廣成朽万の齢で既に八十を越えた。 
犬馬の労をただ、暮に彌く切なり。たちまち死去してしまえば、恨みを地下に含む。巷の談も猶、取るべき物もあり。庸夫の思いも徒に捨て易からず。幸いに求訪の休運にあい、深く口実の堕ちないのを喜ぶ。願わくばその文の高く達して天鑒の曲照を被らん事を。
大同三年二月十三日

記事検索 角館總鎭守 神明社 
〒014-0373 秋田県仙北市角館町岩瀬117 電話/FAX共通  0187-53-2376 

画像「斎鏡」(拓本) 上総国一宮 玉前神社 蔵

 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
上総国(かずさのくに)
現在の千葉県の中央部。大国で親王任国。初め総 (ふさ) の国と称した。『古語拾遺』によれば,忌部氏が四国の阿波国から部民を伴い海路ここにいたったとしている。もと武社,菊麻,上海上,馬来田,須恵,伊甚の国造が支配。
(引用ブリタニカ)






 
リンク  http://www13.plala.or.jp/corakira/index003a.html

常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。

その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝える旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。

編纂者は不明で、現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。 

遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合が常陸国守であったことから、その編纂者に比定されることもある。 また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説がある(このことについては高橋虫麻呂を参照)。
 

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。

7世紀に成立した。成立時期については、『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されたことになるが、壬申の乱(672年)の功臣である大伴吹負が後世の常陸守に相当する「常道頭」(「常陸」ではない)に任じられたとする記事がある事から、「常陸」という呼称の成立を7世紀末期とする考えもある。

なお、『常陸国風土記』(逸文)の信太郡の条に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」とあり、令制国成立前は日高見国だったとされている。

律令制が敷かれた当初の常陸国は多珂国を編入したため、現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県浜通りの大熊までに至る広大な国であった。

『常陸国風土記』には、「久慈郡と多珂郡の境の助川を道前(道の口)と為し、陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後(道の尻)と為す。」という記述があり、「助川」が日立市に、「苦麻」が大熊に相当する。言い換えると、現在の福島第一原発付近が、常陸国と陸奥国の境であった。

後に陸奥国が設けられると、常陸国の北端は菊多郡まで(陸奥国との境:現在の湯本駅付近)になった。
更に718年(養老2年)に、菊多郡が新設の石城国に入れ替えられ、常陸国と石城国の境に当たる現在の平潟トンネルのすぐ近くに菊多関(後の勿来関)が建てられた。

これ以後は常陸国の範囲は変わらず、西南部を除いた茨城県に相当する範囲となった。新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)、那珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡から構成される。

平安時代の天長3年9月6日(826年10月10日)、常陸国と上総国、上野国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。

親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上であった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。

律令制による国郡支配が解体された平安時代末期以降、荘園の分立や郡の分割が進んだ。近世始めに実施された太閤検地の際に、細分化された郡や荘を再編成して古代の郡の復元が図られたが、その領域は古代のものとはかなりの違いがある。
明治政府による郡区町村編制法と郡制の施行による再編を経て、第二次大戦後の現代まで続いた茨城県の郡の区分と領域は、この太閤検地で再編されたものを基礎としている。


上総下総の分立
『帝王編年記』によると、安閑天皇元年(534年)に上総国を置いたというが、これは総国を上下に分けたという意味に解され、下海上・印波・千葉の国造の領域を併せて下総国が、阿波・長狭・須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社の国造の領域を併せて上総国が分立した。

上総・下総という地名は、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説があり、『帝王編年記』の記述に合致し、伝承を裏付けるものである。

律令時代

国造制から律令郡国制への移行は、早ければ大化元年(645年)、遅くとも大化5年(649年)以前と推測され、この間に令制国としての上総国と下総国が成立した。

和銅6年(713年)の好字二字令によって「上総国」「下総国」と表記が改められたと考えられる。
これ以前は「上捄国」「下捄国」と書かれていた(詳細下記。本項では便宜上これ以前についても総の字を使った)。
養老2年(718年)上総国から、阿波国造および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。
ここにおいて令制国としての「房総三国」が成立した。天平13年(742年)安房国を再度上総国に併合したが、天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。そのまま明治維新に至る。

文字表記

もともとは「捄」「上捄」「下捄」「阿波」等の表記であったものが、のち「総」「上総」「下総」「安房」に改められたものと考えられている。

『古語拾遺』(807)説に従えば、「麻=総」という図式が成立することになるが、「総」という字には麻に関係する意味は存在しない。

そのため、この説は伝承にすぎず信頼できないともいわれていた。
ところが、昭和42年(1967年)藤原宮から発掘された木簡に「己亥(699年)十月上捄国阿波評(安房郡、後の安房国)……」という文字が書かれたものが発見された。

発見当初はこれを「上狭国(=上総)」の別字体であると解釈されていた。続いて同じ藤原宮から「天観上〈捄〉国道前」という木簡も発見されたが、こちらの4文字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出された。
そのうちに「捄」と読む説も出たものの、「上捄」では意味が通じないとされ、一旦は保留とされていた。そして、その後の研究で「捄」という字の和訓は「総」と同じ“ふさ”であること、天観という上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は「総」ではなく、捄国・上捄・下捄など「捄」の字が用いられていた可能性が高くなった。
この「捄」とは房を成して稔る果実の事を指し(『大漢和辞典』説)、麻の実も収穫時には「捄」に該当することから、麻の稔る姿より「捄」の字が用いられ、令制国成立後同じ和訓を持つ佳字である「総」に書き改められたとすれば、麻と総を間接的には結び付けることが可能となり、『古語拾遺』の記述の信憑性が再評価されることとなった。

総国(ふさのくに、捄国)は、上古の坂東の国。大雑把にいって律令時代以降の「房総三国」に該当する。古くは「総」ではなく「捄」の字を書いたが、本項では便宜上「総」の字を使う。

律令制以前、ヤマト王権から総国(捄国)とされていた地域があった。『古語拾遺』によれば、神武天皇の時、天富命が天日鷲命の孫達を従えて、初め阿波(現在の四国の徳島県)の麻植(後の麻植郡)において、穀物や麻を栽培していたが、後により豊かな土地を求めて衆を分け一方は黒潮に乗って東に向い、常陸の地に上陸した。彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」と命名したという。


古語拾遺(こごしゅうい)は平安時代の神道資料である。官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した。全1巻。
807年(大同2年)2月13日に書かれたとされている。大同元年(806年)とする写本もある。だが、跋(あとがき)に「方今、聖運初めて啓け…宝暦惟新に」とある。このことから、平城天皇即位による改元の806年(延暦25年・大同元年)5月18日以降であることがわかり、「大同元年」説は誤りということが分かる。

『日本後紀』の大同元年8月10日の条に、『以前から続いていた「中臣・忌部相訴」に対する勅裁があった』とある。この条文から、「大同元年」論者は『古語拾遺』をこの勅裁に先立つ証拠書類だと考えた。しかし、本文にはこの8月10日の出来事を前提に書かれているので矛盾することとなる。

斎部広成の伝記は『日本後紀』の808年(大同3年)11月17日の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかのことはわからない。ちなみに、この昇階は平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、807年(大同2年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。

常陸風土記・総国(引用ウィキぺデア





 



古代中国「殷」
前漢の歴史家、司馬遷が著したとされる『史記』の「殷本紀」をもとにした王系表がある。それを王位の継承関係図として甲骨文にした。そこには多くの神々が祭られているが、その主要をしめるのは殷の先王である。

殷の時代、天上に住む姿のない神を帝と考えた。当時の人々は最高神は帝である、としたのである。また自然神は山であったり川であったり、そして動植物に神格をあたえ、それらを神として崇め畏怖する存在とした。 

このような自然神は風や雨、稔りなどに影響力を持つと考え、稔りを祈願する対象としている。また稔りを妨げ凶作の力にも影響を与えるものと考えた。その奥に潜む見えない何者かによって支配されるとし、それが天の気象であると考え自然神の力は雨を降らせる力を持つ、とした。したがって雨請いの儀式は自然神に対する畏敬の念を形にあらわしたものである。

『史記』を著した司馬遷(前145~前87)は130巻から成る書物『史記』を紀元前97年に完成した。古代中国を語るにはこの『史記』なくして一歩も進まない。

殷時代の神々を克明に記した甲骨文がある。この甲骨文は殷墟から発掘されているが、発見当時では周辺農家の畑に埋もれたりして考古学的資料ではなく「秘薬」として売買されていた。学術的価値より先に「竜骨」と呼ばれ世に出回っていた。その竜骨に刻まれていた文字が謎の文字として注目を集めたのである。 

この甲骨文字を現代の新聞を読むような訳にはいかない。メソポタミア楔文字がそうであるように、現代の知識で理解できる内容に変換する作業が必要である。 

冒頭に記述した最高神帝や、雨を降らせる力を持つ自然神がいる、と断定的に表記できるのは、それらの甲骨文を解読して判ったことを現代語に翻訳した結果である。
その甲骨文解読に生涯を捧げる者もいる。それほど歴史のある分野であり、甲骨文発掘は考古学的に20世紀の偉大な発見とされる理由である。 

さきの殷に関する記述は『古代中国』貝塚茂樹・伊藤道治、著によるが、両氏の解読変換作業がなければ甲骨文は永遠に甲骨であり単なるマラリアの秘薬でしかなかった。勿論、現地中国の甲骨文研究者は多数存在し、中でも懿栄と鉄雲の甲骨文字発見の経緯は今では伝説化されたと言っていい。

200px-OracleShell

甲骨文字は動植物の象形であり、動物の骨や甲羅に刻んだ甲骨文字を火で炙り気象などを占ったと解釈されている。それは現代漢字文字の原始の姿である。
今日、文字なくして総ての分野、あるいは日常の生活は成り立たない。この甲骨文字が現代漢字に変容する過程の証拠がみつかり、新聞に報道された。 
 




「最古の玉牒・中国西安で発見」とあり、玉牒に刻まれた篆書と隷書の見事な筆体で書かれたその石片の写真が添えられている。

記事によれば、皇帝が天地の恵みに報いるために行った大礼「封禅」の儀式で祭文を記したのが「玉牒」である。封は山東省の泰山で土壇を作り天を祭る儀式であり、「禅」は地を祭る儀式で、玉牒は封の儀式の祭文を書いたもの、と新聞に書いてある。
篆書の歴史は紀元前208年に李斯が小篆をつくり、そして程貌がそれを整理して隷書を編纂したという。
(朝日新聞記事抜粋)

コンピューター時代の現代でも、この篆書、隷書とも書道の極致として羨望の書となっている。また篆書を刻印に刻んだものを篆刻という。それは芸術の域に達した分野として、書と独立して現代社会に生き続けている。

祈ぎごと(ねぎごと・願掛け)

古来より行われてきた稲作は日本民族として欠かせない田園風景の一つである。その伝統的耕作は弥生時代に水稲耕作として渡来した技術と言われる。ゆえに日本の文化は稲の文化と称される。
 それは従来いわれていた定説であったが、近年の考古学的発掘調査によって従来言われるその定説は怪しくなってきた。 
それでも、それらの諸説に左右されることなく伝統的文化は淡々と持続している。

2015年の現在に至ってなお、「お田植祭」儀式が4月29日に全国各地で執り行なわれる。稲と民族の関わりを象徴する儀式であり、春風そよぐ田園で繰り広げられる儀式は、早乙女が稲を耕作する様を形式化したものである。

水稲を育てるのは水であり、天から降る雨が唯一の水源である。日本の一年通して降る雨は1600から1800ミリで世界平均800ミリの倍の量であり、その雨水に恵まれたのが日本の国土である。また、この豊富な雨は木を育て日本の国土面積三分の二を覆う森林を養う。まさに雨は天からの恵みの水なのだ。 

天からの授かりものの雨だが純粋無垢というわけではない。海の水が太陽熱で蒸留され雲を作り、それが凝結したのが雨だが、そう簡単な構造で雨は降らないのだ。雲の塊が雨となるには動機が必要である。

 海のしぶきから出来た塩の粒子、都会から排出される煤煙、硫酸、アンモニアの水溶液の粒子、植物胞子等々のゴミが空に届き、それらが核となり雲の中に雨滴を作って地上に降りそそぐのが雨である。酸性雨などはそのよい例だ。そして雨は植物の胞子をも洗い落とし植物の生育を助長させる力もある。その雨力に支えられて育った森林は古代より人間の拠り所でもあった。 

人の手が加えられた森は特定の木を育てるために作られており人間の都合のいい形に造作してある。しかし原始の森、勝手気ままに木々が育成した森は人の侵入を拒み、陽射しが地表に届かない黒く暗い鬱蒼とした森は不気味な静けさと神秘性を秘めている。その森に雨が降りそそぐと淡白色の水蒸気が再び発生し森は幻想的な静寂につつまれる。 

そこに吹く風は色がある。もちろん緑の風なのだがモノトーンではない。森に生える植物がつける葉の色すべての葉緑素の色である。その雑多な色素を数えた人は多分いないだろう。風はその一色一色に吹きわたり緑色に染まっていく。大風が吹くと、その全部が混じり合って黒緑の風をつくる。大地を覆い隠した森は風を吹かせる。 一年の周期が365日に細分化されていることを気象から学び、古代の人々はそれをもとに暦を作り上げた。

Nile Credit 600

エジプト・ナイル河では河に流れ込む雨水が季節の変化で水位が変わる。穀物を栽培する農業では極めて重要なデータであり指標となる暦は必然的に考えられた知恵である。約7000年前の話しだ。






古代中国においては太陰暦が考案され、紀元前300年の春秋・戦国時代に、より現実的な暦が必要とされ一年周期を細かく区切り24の節気とした。さらにその節気を初候・二候・三候と分け、二四節気七二候が考えられたのである。

古代中国「殷」の国土はかつて緑に覆われていた。 しかし現在中国の森林面積は10パーセントしかない。さらに現在の黄土高原には5パーセントの森林しか残っていない。黄土高原に降る年間降水量は400ミリである。











 
                                              

↑このページのトップヘ