2015年07月

日本スポーツ振興センター
ウィキぺデア
独立行政法人日本スポーツ振興センター(にほんスポーツしんこうセンター、Japan Sport Council, JSC)は、河野一郎が理事長を務める日本のスポーツ振興団体。独立行政法人日本スポーツ振興センター法に基づいて設置されている文部科学省の外郭団体である。

2003年(平成15年)10月1日、それまでの日本体育・学校健康センターの業務等を承継するかたちで設立された。設立時には、日本政府から1,953億5,600万円余りが出資されている。
法人設立の趣旨は国民の健康増進であり、業務は国立競技場の運営、スポーツ科学の調査研究、スポーツ振興くじ(toto)の実施などのスポーツ関連事業と、学校災害共済給付制度の運営、学校における安全・健康保持の普及などの学校関連事業とに二分される。

業務内容
国立競技場の運営及びスポーツの普及・振興に関する業務
スポーツ科学・医学・情報研究業務
ナショナルトレーニングセンターの管理・運営業務
スポーツ振興のための助成業務
スポーツ振興投票等業務
災害共済給付及び健康安全普及業務
批判
日本スポーツ振興センターは文部科学省の外郭団体であり、役員には文部省(現文部科学省)、大蔵省(現財務省)といった中央省庁からの天下り官僚が就任している。
また、日本スポーツ振興センターの年に2回ある助成審査委員会の会議は全報道機関に公開されていたが、2007年4月5日の会議から運動記者クラブのみに限定されている。
日本スポーツ振興センターは、学校管理下での事故などが原因で死傷した児童・生徒に対する災害共済給付金の支給も行っている。しかし、給付対象となるかどうかは事故などの発生が学校管理下か否かで決まるため、いじめを苦にした学生が自殺した場合には学校内で自殺したか否かによって取り扱いが異なることになり、毎日新聞がこれを批判したことがある。
関連前史
1955年(昭和30年):日本学校給食会設立
1958年(昭和33年):国立競技場設立
1960年(昭和35年):日本学校安全会設立
1982年(昭和57年):日本学校健康会設立
1986年(昭和61年):日本体育・学校健康センター設立
1990年(平成2年):スポーツ振興基金部を設置
1999年(平成11年):スポーツ振興投票部を設置
2001年(平成13年):国立スポーツ科学センターを設置
日本スポーツ振興センター
2002年(平成14年):「独立行政法人日本スポーツ振興センター法」(平成14年法律第162号)が公布
2003年(平成15年):独立行政法人日本スポーツ振興センター設立
2008年(平成20年):ナショナルトレーニングセンターを設置
2009年(平成21年):文部科学省から登山研修所の管理運営を任される

本部所在地
本部事務所 東京都新宿区霞ヶ丘町10番1号
現在の本部事務所は国立競技場に隣接しているが、同競技場が2019年(平成31年)までに改築・拡大されることを受けて明治神宮外苑地区の南寄りに移転、同じく移転が必要となる日本青年館と一体の施設として新築される予定。神宮外苑地区は東京都風致地区条例により建物の全高規制(15メートルまで)がされているが、センターの提案を受け、都が「地区再整備計画」をまとめた際にお手盛りで、高層建築物が存在出来るようにこの規制を緩和していたことが判明した。本部ビル自体も竣工から20年しか経過していない。


(朝日新聞ニュース抜粋)
 新国立競技場建設の事業主体である日本スポーツ振興センター(JSC)が外部の有識者に建設計画を説明する7日の会議を、有識者の一員でデザインの審査委員長も務めた建築家の安藤忠雄氏が欠席する意向を固めたことが分かった。
 7日の会議では、総工費の内訳や2520億円に膨らんだ経緯についてJSCが詳細な説明をする予定。現行計画は安藤氏が審査委員長を務めた審査委員会が最優秀に選んだ英国の建築家ザハ・ハディド氏のデザインが基になっている。安藤氏の事務所は6日、取材に対し、「予定を把握していない」と答えた。

朝日新聞 
http://www.asahi.com/articles/ASH765GY7H76UTQP022.html


キリスト教千夜百話
ヘレニズム支配の開始
ホーム  イエスの生涯とパウロの生涯

アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世、BC356年7月20日-BC323年6月10日)
マケドニア王のピリッポス2世とオリュンピアスの間に生まれた。彼はヘーラクレースとアキレウスの家系で、ギリシア世界で最大の両英雄の血筋を引く。父はアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを家庭教師として招く。アレクサンドロスは「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残すほどに、アリストテレスを最高の師として尊敬し、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。BC338年、アレクサンドロスは父に従ってギリシアの南部に出兵しカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。父ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスにコリント同盟を締結させ全ギリシアの覇権を握ると、続いてペルシア東征を計画したが、紀元前336年に護衛のパウサニアスに暗殺された。20歳の若さで王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦い、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国の押さえを重臣アンティパトロスに任せた。

(小アジアの征服)BC334年、父の遺志を継いでペルシア東征に出発し、小アジアに渡ったマケドニア軍38,000はグラニコス川の戦いで小アジア太守の連合軍4万と対峙した。アレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将ミトリダテスを投槍でしとめた。この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得た。カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らし、紀元前333年アンティオキアの北西イッソスにおいてダレイオス3世自らが率いるペルシア軍10万と遭遇するが、ペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。このときペルシアから和睦を拒否した。

(エジプトの征服)シリアでは反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、唯一頑強に抵抗したフェニキアのティル(現ティルス)を屈服させると、さらに南下してエジプトに侵入した。エジプトは11年前のBC343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりで占領は容易であった。BC332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像が祭られた。その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。

(ペルシア王国の滅亡)BC331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで、20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れるとペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンやスーサの主要都市を略奪、ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺と強姦が繰り広げられたうえ、徹底的に破壊して焼き払った。ペルセポリスの徹底した破壊は、ペルシア戦争時にペルシアがアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの復讐の意味もあった。ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。



(バビロン帰還と大王急逝)インドへの遠征を目指し、BC326年にインダス川を越えてヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを破り、さらにインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由に進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。帰還したアレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとる。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王衣を身にまといペルシア風の儀礼や統治を導入したため、マケドニア人の反発を招いた。バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが蜂に刺され、祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、BC323年6月10日に死去した。

(死後のマケドニア帝国の行方)彼の遺将たちが大王の遺言に忠実に「最強の者が帝国を継承」しようとして覇を争うことになり、アンティゴノス、セレウコス、プトレマイオス他の諸将によるディアドコイ(後継者)戦争を経て分裂した。BC3世紀にアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム三王国が出現し、それらは互いに相争っていたものの、ひとまずはこの三国鼎立に落ち着いた。その後、紀元前168年にアンティゴノス朝が滅ぼされたのを皮切りに西方は順次ローマに併合され、ヘレニズム諸三国はいずれもローマに滅ぼされた。東方はパルティアが勃興してセレウコス朝の領土の大部分を奪い、東方領はマケドニア人の手を離れた。以後、東地中海から中央アジアに至る地域はイスラーム帝国の出現まで統一を見なかった。(Wikipedia要約)


●アレキサンダー大王時代のユダヤ

アレキサンダー大王率いるマケドニア軍とパレスティナについては、ほとんど資料が残されていない。パレスチナに進軍した時、ほとんどの都市はペルシャ支配を嫌っていたので、戦うことなく服従したが、ティル(ツロ)だけはダレイオスに忠誠を示して抵抗した。結局マケドニア軍は7カ月かけて陥落させている。

歴史家ヨセフスはユダヤ古代誌で、「近隣部族はこぞって貢納金を贈ってアレクサンダーに忠誠を示したが、ユダヤはなぜかこれをしなかった。ティル(ツロ)攻略後、アレクサンダーは軍をエルサレムに進めた。当然人々は、アレクサンダーがユダヤを懲罰し、大祭司に死を与えるだろうと予想した。当時のエルサレムの大祭司はヤドア(ネヘミヤ時代の大祭司エリアシブの子孫)だったが、彼は夢で神の御告げ「白い衣を着て、城壁の外まで出迎えなさい」を受けていた。そこで、エルサレムの主だった者が贈物を携えて王を迎えに行った。アレクサンダーが到着すると、アレクサンダーは彼らを見て、自ら大祭司に挨拶し神の前に額づいた。側近が驚いていると、王はかつて見た夢の物語、「私がまだマケドニアにいたとき、夢の中に神が現れて『これからおまえは全世界を征服することになる。さあ、行きなさい』と言ったが、その時の神の姿がこの大祭司と同じ白い衣だ。私がこの遠征を実行し、ペルシャを滅ぼし、すべて心に願うことが実現できたのも神の導きだと思う」と語った。それからアレクサンダーはエルサレムの神殿に入り、律法にかなうやり方で神に犠牲を捧げたと言う(正当化する作り話に過ぎない)。

現実には、長年ペルシャ帝国の寛容な宗教政策に慣れていたユダヤ人は、西からの新しい権力者アレキサンダー大王の政策が不明なので、簡単には従う事はしなかったが、当時エルサレムはそれほど影響力もない町だったため、あまり問題にならなかった。アレキサンダー支配時代も十年間ほどで終わった。それよりも、その後のディアドコイ(後継者)争いによる混乱が問題だっただろう。パレスティナはシリアとエジプトの狭間で、プトレマイオス朝とセレウコス朝の力関係如何では、戦乱の地になる可能性があったからだ。しかし長い混乱は続かず、結局プトレマイオスがいち早くパレスティナを支配下に治めたので、ユダヤはプトレマイオス朝の支配下に置かれ、宗教寛容政策のお陰で一時の平和を謳歌する事となった。しかし、プトレマイオス朝とセレウコス朝、北と南の権力闘争・領土争いの戦いは何度も起ってしまう。ダニエル書には、これについても黙示録的に描いている。

●ダニエル書とヘレニズム支配

ネヘミヤの宗教改革で、ユダヤはエルサレム神殿と律法を中心に結束した。ペルシャ帝国の支配の中でユダヤ民族の共同体を成立させた。軍備なき祭祀共同体は、大祭司をトップに儀礼的遮断を強化する事で、民族の誇りとアイデンティティを保持する。ペルシャ帝国が滅び、アレキサンダー大王も亡くなって以降、ヘレニズム諸国の抗争、ローマ帝国の台頭で、パレスチナを巡る政治的情勢が大きく変化する。ダニエル書は、ギリシャ文化の浸透、ヘレニズム化の激動の時代、シリヤ王アンティオコス4世(エピファネス)支配下で宗教迫害が激化したマカベア戦争頃(BC167年)に最終編纂されたと考えられている。

ダニエル書は預言書というより黙示文学に近く、ユダヤ教正典では諸書に分類されている。支配国セレウコス王朝批判と支配者への審きという内容のため、弾圧を恐れて国名も王名も仮の名前にし、主人公の名も伝説上の知者ダニエルに託している。1章~6章は前編、宗主国の宮廷に仕えているダニエルが、天上の秘密を告げられて王の夢解きをする物語。ダニエル書のさわりだけ記しておきます。

(前編)バビロン王ネブカドネツァルは何度も同じ夢を見て不安になり眠れなくなり、その解釈を賢者に求める

(ダニエル2:31-35)王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。これがその夢です。

この箇所は、ダニエル(かつてのイスラエルの王侯貴族となっている)が王に夢を解き明かす場面。金の頭は諸国を支配するバビロン王ネブカドネツァル。その偉大な王の死後、銀(第二の国)、青銅(第三の国)、鉄と陶土(第四の国)と次々に国が変わるが、最後は大きな石のような大国がすべての国を滅ぼし、支配するようになる、とダニエルは王に解き明かす。

(注釈:偉大な王と真の知者ダニエルのみに明かされた天上の秘密)強大な四大帝国の将来。これは、バビロン(新バビロニア、BC625-BC539年)、メディア(BC715-BC550年)、ペルシャ(アケメネス朝、BC550-BC330年)、ヘレニズムの4国の4人の王を意味し、最後の大きな石はローマ。「人手によらず」はイスラエルが武力行使することなく、4つの支配者は自滅するというもの(基本的には7章の4頭の獣の幻と同じ)。これは当時、凄まじい迫害を加えているセレウコス王朝アンティオコス4世エピファネスの大弾圧も、その終末は近い、結局台頭中のローマにより滅ぼされる。神に支配される新しい秩序の到来は近いと、暗に人々を激励している。過去のネブカドネツァルの時代から未来を見通す預言としている(実際は事後預言)。

(後編1)ペルシャ時代、ダニエル自らが物語る4つの夢と幻(書かれたのは、遥か後代のアンティオコス4世エピファネスの宗教弾圧期)

ダニエルは示された一連の黙示に一層苦しみ悩む。もはや知者ダニエルでも出来ない幻の解釈を、み使いに求めた。

(聖書引用はながくなるので省略、注釈のみ)

(注釈):4つの怪獣は、バビロン、メディア、ペルシャ、ヘレニズムの4国を指し、4人の王を意味する(2章のネブカドネツァルが見た「巨大な像」の夢の再現)。このうち、10本の角のある第4の怪獣に相当する国(アレキサンドロス大王)が最も傲慢だが(7:19~20)、やがて滅亡して10人の王(10本の角)に分裂し、そのうち一人の王(一本の角、シリヤ王エピファネス)が立つという。その角(エピファネス)は一時聖者と戦って勝つが(7:21)、やがて「日の老いたる者」神が審きを行い、滅ぼされてしまう。「いと高き者の聖者」(「人の子のような者」と同一)が勝ち、王権をうけてメシアとされると解き明かす。これをまとめると、第4の国・アレキサンドロス大王の征服後、一人のシリヤ王エピファネスが神と敵対して「いと高き方の聖者」である大祭司(オニア3世)を悩まし殺害する(7:25)。やがて審判が行われ、エピファネスは滅ぼされる(7・26)。その審きの座に「人の子のような者」が天の雲に乗って来て、「日の老いたる者」神の前で王権を受けてメシヤとされる(7:13-14)。この王権を受けた「人の子」のような「いと高き者の聖者」とこの聖なる民が、諸国・諸民族を解放して、権力的な支配を終らせる、という幻(7:15-27)。この最後の審判の幻を黙示の基本とし、変形しながらこの後も登場。


「チプラスのギリシア世界.1.2.3」 了
シリーズ始めに戻る http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52055532.html
 

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たった1秒の僅差???
2015年7月1日午前8時59分59秒→「59分60秒」、を挿入して完了、ということであるらしい。
1秒余計にセットして何が変わるのか、まったく「呪文」のような操作で世の中、自分の生活は何も変わらない。
いや、変わったかもしれないが、その変わったことを認知する方法を誰も教えないので、代わったかも知れない変わらないかもしれない。

そもそも回転する大宇宙(銀河系)を意識して地球上、そして自宅では生活していない。だから「コペルニクス」的変革を引用しなくても、太陽がこの地球のために、はたまた自分のために周っていると勘違いしていても、一向に差し支えない。(それでは絶歌論理とおなじになってしまう~)

難しいことはさておいて、「1本の木は2本の木とは異なる」、と子供騙しのような、子守唄を唱えた世界的物理学者がいる。20世紀の偉大な宇宙物理学者「アインシュタイン」が、難しい数学理論を平易に、頭の悪い我々に噛み砕いて説明してくれたのが、その数の定義だった。
たしかに1本しか見えない杉の木と、その隣にもう一本、木があったら風景はかわる。それが100本、千本、1兆本となれば、景色はまったく違うものにみえる。

アインシュタインは、その違いを説明している。その観点で「うるう秒」を認識してみると、とても大事なセッテングに思えるから不思議だ。

もともと自然科学は、ギリシア発祥の学問であるが、そのギリシアは今、デフォルト問題で汲々としている様は、なんとなく滑稽に見えるが、1本と1兆の差は無いに等しい、と言い出したら、やはりギリシア哲学は健在だった、ということなのだろうか。

時間・時刻の定義-「うるう秒」の調整はどんな意味があるのか-
中村 亮一
保険研究部
電話番号:03-3512-1777 
e-mail:nryoichi@nli-research.co.jp

研究員の眼2015年06月22日
今年(2015年)の7月1日(水)午前9時直前(日本時間)に3年ぶりとなる「うるう秒」の調整が行われる。これを機会に「時間・時刻の定義」等について考えてみた。

1-「うるう秒」の調整とは
   「うるう秒」の調整は1972年から行われているが、今回は26回目にあたる。因みに、「うるう秒」の調整とは、総務省及び独立行政法人情報通信研究機構(NICT)のプレスリリース資料(2015年1月16日)によれば、以下のとおりである。

「うるう秒」の調整とは

実際に何が起こるのかというと、日本においては、2015年7月1日午前8時59分59秒の次に(通常は存在しない)59分60秒が挿入されて、その後9時00分00秒となる1。

(参考)2015年7月1日の【日本時刻】

 1|我々の生活等への影響は
    今年7月1日は水曜日の平日で、しかも午前9時という時刻にうるう秒が挿入されることから、万一システム等にトラブルが発生した場合に影響が拡大する可能性があるということで、関係者は各種の対策を進めてきている。
    ただし、一般市民の普通の生活には殆ど直接的な影響はなく、例えばスマートフォン、パソコン、電波時計等については基本的には自動的に補正等されるので、特段何か対応する必要があるわけではないとのことである。

 2|次のうるう秒の調整日は決まっていない
    ところで、うるう秒については、地球の自転速度が不規則なため、2015年7月1日の次のうるう秒がいつなのかは決まっていない。
    実際に過去のうるう秒の(世界の標準時ベースでの)実施日をみてみると、1972年から1979年までは毎年、1981年から1998年までは1年から2年毎に行われていたのに、2005年からはほぼ3年毎に実施される形になっている。このようにうるう秒の実施ペースが鈍ってきていることは、実は「地球の自転速度が(現在の天文時の時間のベースとなっている)1820年時点よりは遅くなっているものの、ここ40年間ではむしろ早くなっている」ことを意味している。

 3|うるう秒の廃止問題
    そもそも、うるう秒の導入については、賛否両論があり、現在も廃止が世界的に議論されている。廃止論者は、マニュアルでの対応を不規則に求められることに伴う各種のリスク発生の可能性等を問題視している。廃止反対論者は、天体観測やアンテナ制御等のソフト&ハードウェアへの影響や地球の自転との同期の乖離等を気にしている。今年の11月にジュネーブ(スイス)で開催される世界無線通信会議(WRC)でうるう秒の廃止の是非が決定される2ことになっている。
    地球の自転は長期的には潮汐力を原因3として減速傾向にあり、将来的にはより高い頻度でうるう秒の調整が必要になってくると言われているようであるが、それでも仮にうるう秒による時間調整を行わない場合でも、500年後で約30分程度の差異ということである。

2-時間と時刻の定義
   ここで、うるう秒による調整の前提となる「時刻」及び「時間」の定義について紹介する。

 1|時刻の定義
    現在の時刻は、先のNICTの説明にあるとおり、(1)世界の標準時(協定世界時)(UTC)に基づいている。これは、高精度な原子時計に基づく時間の長さをベースとしつつ、以前から使われていた地球の公転・自転に基づく(2)天文時(世界時)(UT1)との関係を考慮して、(2)とのずれが0.9秒以内におさまるように、原子時計に基づく(3)国際原子時(TA1)に対して過去からうるう秒の調整を行ってきたもの、ということになる。
    なお、国際原子時4は1958年から時を刻んでおり、1972年に初めてうるう秒が導入された時点で、協定世界時との差が10秒あったため、今回の改定で両者の差異が36秒となる。このことは1958年から地球の自転が(原子時計による時刻に比べて)36秒遅くなったことを意味している。

協定世界時(UTC)

 2|時間の定義
    時間の基礎となる「1秒」の定義については、以前は、地球の自転の周期、即ち1日の長さ(LOD)を基に、その86,400分の1(1日=86,400秒=24時間×60分×60秒)と定義されていた。その後1960年からは、地球の自転よりも変動が少ない公転に基づいて「1900年1月1日時点の地球の公転速度に基づいて算定される1太陽年の31,556,925.9747分の1」と改定5された。
    1967年に、より高精度化と安定化を図るために「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍に等しい時間」と改定され、1997年からは、「この定義は温度0K(絶対零度)のもとで静止した状態にあるセシウム原子に基準を置いている」とされ、現在に至っている6。

 3|各地域の時刻(標準時)
    我々が実際に使用している時刻は、さらに各地域が定めている標準時によっている。日本の場合には協定世界時より9時間進んだ形になるが、国によっては協定世界時との関係が様々になる。サマータイムを採用している国では季節によって異なり、広大な国土を有する国では、米国やロシアのように複数の時間帯(共通の標準時を有する地域)を有する国もあれば、中国のように1つの時間帯を採用している国もあることになる。

3-時間の高精度化について
   以上、「うるう秒」及び「時間と時刻の定義」について簡単に紹介してきたが、以下では個人的な感想を述べてみたい。

 1|高精度な時を刻む原子時計
    現在の高精度な「1秒」を決定しているのは「温度0Kのもとで静止した状態にあるセシウム133の原子」とのことだが、それでは原子時計において「温度0K」「静止した状態」等がどの程度の高精度で実現できているのか、重力や電磁波等の影響を十分排除できているのか等の疑問が発生してくる。
    これについては、実際にこうした点も考慮して必要な補正等も行いながら、時間を決めているとのことである。ただし、こうした効果を評価するには1ヶ月程度の期間を要するということで、高精度な協定世界時はリアルタイムには存在しないということである。

 2|うるう秒について
    そもそも、地域や季節によって時刻が異なり、人々が感じる時刻の生活感覚も必ずしも同一とは限らない。従って、頻繁なうるう秒の調整によって、地球の自転と同期させることにどの程度の意味があるのかという気もする。また、うるう秒の調整により、本来的に連続的で安定的であるべき時刻が、不連続で必ずしも安定的とはいえないものになってしまっている印象を受けてしまう。
    時間を高精度化し、うるう秒の調整を行うと決めたことにより、逆にその結果発生する各種の課題解決のために、例えばシステム等に相当な負荷をかけた対応等が必要になってきている。

 3|時間の高精度化の必要性
    うるう秒の調整はもちろん人間が定めたルールによるものであるが、その背景には、時間の定義を高精度化したことが挙げられる。時間の定義は、長さ7等の計量単位の定義にも関係していることから、その改定は各方面に幅広い影響を与えることになる。
    従って、なぜそこまでして時間を高精度化する必要があるのか、ということにもなる8。
    これについては、産総研(AIST)のWebページ9によれば、1秒の精度が高まることにより、例えば、電気振動などの現象が単位時間当たりに繰り返される回数を表す「周波数」がより正確になり、これまで以上に大容量・高速の情報通信が実現し、カーナビや携帯電話などに使われるGPS測位技術が高度化する、ことになるとのことである。さらには、基礎物理定数の再検証等の最先端の科学研究にも時間の高精度化が不可欠とのことである。

4-まとめ
   科学等の世界においては、技術の進歩等に伴い、高精度化が進み、各種の定義の改定が行われていく。このことはもちろん極めて重要な意味を有しており、今後ともさらなる追究が行われていかなければならないことは言うまでもない。
   ただし、一方でこうした改定に伴い、過去の定義に基づいて構築されている各種のシステム等に対して、人間が定めたルールの中での整合性確保等のために、他の定義の改定等多くの調整等が必要になってくることになる。その結果として、例えばうるう秒の調整のように、全て機械で自動的に対応することが困難になり、何らかの形で大きなコストと負荷をかけてのマニュアルでの対応等が求められてくることにもなる。
   このことはある意味で何とも皮肉な結果という感じもするが、逆説的に言えば、人間の存在意義を示すよい機会となり、新たなビジネスチャンスを生んでいる、と考えることができるのかもしれない。
   いずれにしても、こうやって考えてみると、物事を追究していく過程で、定義を高精度化していくことの意義、困難さ、複雑さについて再認識させられた気がしてくる。
   日常生活ではあまり意識することはないが、1秒の長さというのは極めて重要な意味を有している。「時間の概念の持つ奥深さ」について改めて考えさせられるよい機会になった、と感じた次第である。
 
  1 過去のうるう秒は全て「1秒追加される」ことになっていたが、理論的には「1秒削除される」こともありうる。削除の場合には、59分58秒の次の59分59秒が削除されて00分00秒となる。
  2 日本や米国は廃止を主張している。
  3 月の引力等による潮汐により、海洋底が摩擦を受け、地球の自転にブレーキがかかるのが主な原因と考えられている。
  4 世界各国に約 400台以上ある原子時計の平均で決定される。
  5 これは、過去の天文観測結果に基づけば、ほぼ1820年時点でのLODを基に「1秒」と定義したことに相当する。
  6 1秒の長さについては、協定世界時(UTC)と国際原子時(TA1)は原子時計に基づいており同じだが、天文時(UT1)は異なっている。
  7 長さについては、「1メートルは、1 秒の 1/299,792,458 の時間に光が真空中を進む距離」と定義されている。
  8 なお、さらなる時間の高精度化に向けての研究も進められており、「秒を再定義」することも考えられているようである。
 











ビル・ゲイツの別荘で長野県軽井沢はどう変わる? 軽井沢の別荘事情
マイナビ ニュース OFFICE-SANGA  [2013/08/09]
マイクロソフト社の共同創業者・会長であり、世界的な大富豪であるビル・ゲイツ氏が、軽井沢町内の敷地2万2,000平米に別荘を建設中というのは、地元では誰もが知るところ。完成の暁には、日本有数の避暑地はどのように変貌するのだろう。現地でレポートするとともに、軽井沢の方向性を探ってみる。
       

ところで、軽井沢における近年の別荘事情はどうなっているのか。前出の社長に尋ねてみると、「うちは30年以上ここで商売をしているけど、1店舗しかなくて事業規模が小さいせいもあり、業況にほとんど変化はないよ。逆に、ゲイツ氏の別荘建設後の景気に期待している」とのこと。

加えて、町内で3店舗を営業しているというA社の役員にも質問。「当社は不況と言われる中でも、比較的土地・建物の需要に恵まれています。別荘の建設現場が途切れたことはほとんどありません。聞くところによると、近年は他県の別荘を売り払い、ここで新たな別荘を求める富裕層が増加しているそうです」。

確かに、軽井沢は傍目(はため)にも分かるように、この5年間くらいで確実に変わってきている。
ひとつは、自転車利用者が増えたということ。これに伴って、至る所に自転車を貸し出す店舗が出店している。これにはいろいろな理由が考えられるが、自転車の性能が向上し、より乗りやすく安全になったことなども影響しているらしい。また、自転車のデザイン自体も優れている。

軽井沢では自転車での移動が盛んで、至る所で自転車が貸し出されている

通年型のリゾート地へと変貌する軽井沢

また、軽井沢と言えば避暑地・別荘地としての印象が強く、冬場などはシーズン・オフという印象をお持ちの読者も多いであろうが、今ではこの考え方は通用しない。軽井沢は既に、通年型のリゾート地へと変貌しつつある。

その強力な原動力となったのが、「軽井沢・プリンスショッピングプラザ」だ。同施設はかつてゴルフ場があった場所に、長野新幹線軽井沢駅とともに設けられた。これまでに、East・New East・New East Garden Mall・味の街・West・New Westの6つの店舗群が配置されている。

軽井沢・プリンスショッピングプラザの出現に伴って年間を通して顧客が訪れるようになり、この影響で、ツルヤ軽井沢店、マツヤ軽井沢店などのスーパーマーケットが取扱量を拡大。並行して、コンビニエンスストアなどの小規模店舗も相次いで出店した。

こうなってくると、冬期は閉鎖していた各種店舗も需要の高まりから通年型へと営業形態を変化させ、結果として、軽井沢は通年型のリゾート地へと変貌を遂げつつあるのだ。ただし、冬場の軽井沢は気温が低く積雪もあり、防寒と乗用車の冬用タイヤ装着は必須条件である。

軽井沢・プリンスショッピングプラザは、夏休みに入って連日の大賑わい

軽井沢でおすすめのスポットとは?

では、軽井沢でおすすめスポットはどこか。前述の通り軽井沢は通年型のリゾート地へと変貌しつつあるため、ほとんどのリゾート客の要望に応えられるほど、多くの立ち寄りスポットを抱えていること間違いなしだ。

旧軽井沢メインストリート(旧軽井沢銀座)、旧三笠ホテル、雲場池、白糸の滝、千ヶ滝、碓氷峠、塩沢湖、浅間山、油屋旅館、つるや旅館、万平ホテル、軽井沢大賀ホール、ショー記念礼拝堂他、矢ヶ崎公園、堀辰雄文学記念館、セゾン現代美術館、小瀬温泉、ゆうすげ温泉、塩沢温泉、塩壺温泉、星野温泉トンボの湯、立ち寄りの湯 軽井沢千ヶ滝温泉……。枚挙にいとまがない。

1906年(明治39年)5月に開業した旧三笠ホテルは、今や歴史的建造物として国の重要文化財に指定され、森林の中でひっそりとたたずんでいる

“La volonte(ラ・ボロンテ)”でしばし休憩

遊びどころがあれば、休憩どころも必要だ。そこで、旧軽井沢ホテルの近くにある小洒落(しゃれ)たお店へ。この「La volonte」は森の中の小さなお店で、アーティストによるクラフトや雑貨を選りすぐって集めている。そして、ゆっくりと軽井沢を過ごせるカフェ・コテージも併設している。

筆者はここで、素朴な味のチーズケーキ(400円・税込み)とシナモンが掛かったカプチーノ(650円・税込み)を注文。手作りの味と静寂感のある店で浸れる幸せをかみしめた。ちなみにLa volonteは、4月中旬~11月下旬のみ展開している。

旧軽井沢ホテルの近くで見つけたお店“La volonte(ラ・ボロンテ)”。軽井沢にはこういった憩いの空間が普通にあるのがまた魅力

軽井沢は国際的なリゾート地へ!?

本題から逸れてしまったが、今回の取材のテーマ、ゲイツ氏の別荘出現で軽井沢はどんな影響を受けるのか?ということである。これに対する答えは簡単には出てきそうにないが、ある意味軽井沢がいよいよ、日本有数の避暑地から国際的なリゾート地へと、変貌を遂げる過程と見ることもできるのではないだろうか。ゲイツ氏別荘の完成は今冬と言われており、一体どういう影響が出てくるのか、注目せざるを得ない。 

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