2015年08月

原田伊織 著の異聞的見解.2a 再検証
そして何と言っても一番の驚きは、通説では、あたかも安政の大獄で井伊直弼によって殺されたことになっている吉田松陰だが、それは事実とかなり異なっていること。

真相は、松陰が老中「間部詮勝」(まなべあきかつ)を暗殺しようとした事実が露見し、長州藩が松陰を捕縛していること。その後身柄は江戸に送られ、日頃よりさまざまな「暗殺」を口にしていた不審人物(無数にいた過激浪士の中の無名な一人としての(吉田寅之助・幼名)として、幕府から長州藩へ人物照会と嫌疑の内容についての問い質しがあり、それに対し、長州藩自らが「斬首やむなし」との返答をしていたがゆえの斬首であったこと。したがって、井伊直弼は、吉田寅之助なる人物を、そもそも知らなかったと考えられること。そして当時の長州藩にとってさえ、吉田寅之助は厄介者であったのだというのである。
それにも関わらず、武力倒幕を果たしたのち、明治新国家建設を後世に物語るための《神話》創成が必要になった時点で、彼らを含めた維新のひとつの「物語」として、吉田松陰のいたわずか3年の間に松下村塾に集ったそれぞれのメンバーたちを、維新のヒーローとして、日本軍閥の祖・山縣有朋が自らの創作による《神話》のなかにとりこんだというのである。 
吉田寅之助は幕府から長州藩に人物照会されていた。?
※前項抜粋記事引用

以上を読む限りでは、これまでの松蔭通説と大幅にことなる。「日本軍閥の祖・山縣有朋が自らの創作による〈神話〉」にいたると、これは飛躍しすぎでは、と訝ってしまう。

ま、山縣有朋に関しては武勇はほとんどなく、「巧緻巧拙」ばかり際立って、さながらCIA・FBI長官を思わせるから、あながち、ないでもない、という所見か。
また、松下村塾の名簿にしても、こちらに載っているが、あちらの記述にはない、というのもあって不明確なことがある。

長州藩自らが「斬首やむなし」、という意味は、身内を殺したことであり、「吉田寅之助は厄介者であった」というくだりは意味深だ。

最新の現在ネットニュースでも山形市長選挙がらみの「維新の会」の内輪もめがあって柿沢幹事長と橋下氏松井氏の両過激対立があり修復不可能まで行ってしまった。
「やっぱ、こんなときヤマガタがいたらな~」、とか「角さんだったらはりとばしてるぜ」なんてことになるのだろう。

よもやこのインターネット時代に「斬首やむなし」はあり得ないだろうが、北の方角から「ハラキリ」しろよと、せっついてきいるが首を洗って待つこともないが???

さらに、老中「間部詮勝」(まなべあきかつ)を暗殺しようとした事実が露見し長州藩が松陰を捕縛していること。など、やたらと殺したがるのがこの時代の背景にあったようだ。それを実感するような出来事が今別の進行中の調書のなかにある。


すでに大方の筋は書き上げているが、上総国一宮藩主「加納久宜」について、そこいらじゅうの資料を集めて読んでいると、本人の所在があやふやになってしまうような出生記録が書かれていて、養子の戸籍痕と幼名、養子名、家系名、そしてやっと晩年名となって、ようやくそれが本人であったと、冷や汗ものだった。

人間の一生時間を計ったら、平均的に70歳としておけば近似値とおもうが、300年前であったら、それは通用しない。
基本的に人間の生存時間は短く、まして病死の確率が高く、健康体であっても不治の病原体に付かれたらそれで終わりだ。
そんなわけで、成人男子(幼子もある)の養子縁組は日常茶飯事におこなわれていたのが、この時代だった。

となると記述された戸籍が唯一の手がかりとなる。それがしっかり書かれていればいいが、先の加納久宜の場合など、先祖が九州三池藩で、関が原の戦いで、徳川政権に加勢しなかったからとい理由から常陸国(下手渡藩立花姓)に左遷される。その常陸国は、かつて陸奥国と隣接する、という歴史記述があり、えっ、それって離れすぎじゃん、となる。わけは「俘囚征伐」に起因している。

さらに、再び九州三池藩にもどって、今度は親戚筋縁をおって上総国加納姓に養子となる。それが上総国一宮藩であった。
で、なぜそんな遍歴を歩む必要があったのかと、普通は思わないが、私の性癖がそれを許さなかった。

これも拙著ページにあるが「親王任国」という桓武天皇時代の制度の一つで蝦夷征伐の名目のもと、常陸いまの福島圏内、上野いまの群馬圏内、そして上総いまの外房圏内(いすみ市にその痕跡が残っている)という三国の主要国を定め前線基地とした。そこに最高官吏(天皇嫡男)を赴任させ、任務に当たらせていた。

この「加納久宜」の血は、まさにそのルート上を歩いている。
この前のページに書いてある「関東軍総司令官立花小一郎」の話も、自分で調べていて驚いた。姓が「立花」とあったのでもしや、と先を追っていくと"案の定"だった。
以下抜粋稿。

関東軍総司令官立花小一郎
昭和17年10月1日には軍から総軍への編制昇格に伴い、総司令官・総参謀長・総参謀副長と呼称変更。
昭和8年7月28日から昭和8年8月22日の間を除き関東軍司令官が満州国在勤特命全権大使を兼ねた。
司令官・総司令官
立花小一郎 (1919年 - 1921年)以下14名
1861年3月20日(万延2年2月10日) - 1929年(昭和4年)2月15日)は、日本の陸軍軍人、政治家。男爵、陸軍大将、第10代福岡市長、貴族院議員。
最後の記述が決定打である。
1861年、三池藩家老(藩主の分家)立花碩(おおい)の長男として生れる。

なお「加納久宜」(生まれ立花姓)の家系とは本家分家の血統であると但し書きが認められた。

また今日新たに書き足した軍事関係の人物も、加納血縁とは無縁だが、その上総国一宮にかつて住んでいたことがあったという証拠もありその写真も載せた。

上原 勇作(安政3年11月9日(1856年12月6日) - 1933年(昭和8年)11月8日)は、明治~昭和期の陸軍軍人。
元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。
陸軍大臣、教育総監、参謀総長。
日向国都城(現宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。 上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。陸軍大臣、教育総監、参謀総長、元帥の「陸軍三長官」を歴任したのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の二名のみである。
安政3年(1856年)、薩摩藩島津氏一門都城島津家重臣、龍岡資弦の次男として生まれる。
1875年(明治8年)、上原家の養子となる。陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)、陸軍士官学校卒業(同期に秋山好古など)。
1881年(明治14年)に渡仏、フランス陸軍に学び、1885年に帰国して工兵の近代化に貢献、「日本工兵の父」と称される。日清戦争においては岳父野津道貫が司令官を務める第1軍の参謀、日露戦争においては、やはり野津が司令官を務める第4軍の参謀長など数々の戦争に従軍して参謀職を務め、1907年(明治40年)に軍功により男爵を授けられた。
1912年(明治45年)、石本新六の死後、第2次西園寺内閣の陸軍大臣に就任。陸軍提出の2個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されるや、帷幄上奏権を行使して辞任。陸軍は上原の後任者を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して内閣を総辞職させた。
1921年(大正10年)に子爵、元帥。
参照
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/41368084.html

捕捉だか2.26事件で暗殺された、かつての海軍大将にして総理大臣「斉藤実」1932年(昭和7年)5月26日 - 第30代内閣総理大臣及び第47代外務大臣に就任。その別荘跡ものこされてい。

以上三名(他の著名人も含む)の高官軍人と総理経験者の別荘群がこの上総国に集中している。それらを招聘したのが「加納久宜」でありその血統ゆえの縁だと伝記ものに記されている。もちろんそれらはかつて桓武天皇か敷いた「親王任国」の由来に起因していることは疑いようもない史実である。


 
外圧に危機感を持つ孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷思想・・・その気持ちを無視して幕府は勅許を得ずに諸外国と条約を結んだ。天皇の意向に反する幕府の開国方針に憤(いきどお)った勤皇の志士の中心となったのが、長州・毛利藩(萩藩)と薩摩・島津藩だった。
勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素ではあった。中でも特筆すべきは、長州藩には吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。
 
幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は、杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔と言う事に成る。
 
吉田松陰の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家禄26石の萩藩士の家で、松陰(ょういん)は、その杉家の次男として生まれた。父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。
母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。

次男だったので生まれて四年後、杉寅之助四歳の時に父・百合之助の弟である家禄57石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。吉田寅之助(松陰)9歳の時、後に友人・小田村伊之助の妻になる妹・杉寿(すぎひさ)が生まれる。そのその3年後の吉田寅之助(松陰)12歳の時には、後に松陰門下となる久坂玄瑞(くさかげんずい)の妻となる末の妹・杉文(すぎあや・すぎふみ)が生まれている。
倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾である。
 

元々、松下村塾は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したも。若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、10歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書/戦法篇」を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。

折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、1850年(嘉永3年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山にi師事をして蘭学を学んだ。

この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。

吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。
もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。
当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。
だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。
しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。

その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の1852年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

ところが、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永6年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれる。翌1854年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。
翌1855年(安政2年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。
その2年後の1857年(安政4年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。
吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か3年の間に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上馨(いのうえかおる/井上聞多)、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。
なかでも、高杉晋作と並び称された久坂玄瑞には、末の妹・杉文(すぎあや)を娶(めと)らせている。

前述のごとく、吉田松陰が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは1857年(安政4年)である。
松陰が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、1859年(安政6年)の10月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か3年の間だけである。
だが、松陰 の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。

実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の孫皇子・良光(ながみつ)親王(懐良(かねなが)親王の子)の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。
在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいた。

その周防国熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

「杉家」
の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。長門国萩から周防国熊毛までは20里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤俊輔(博文)、等を引き連れて会いに行く。
松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。
 
「これなら、上手く行くだろう。」

そして松陰は、井上馨、伊藤俊輔(博文)の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。

1858年(安政5年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌1859年(安政6年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。
井伊直弼は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(1859年/安政6年)の10月に斬刑に処されている。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。
吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは、尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導し、明治維新の原動力となった。
(記事一部引用)

原田伊織 著の異聞的見解.2b 再検証
幕末維新風雲児 http://www.jpreki.com/yurinosuke/
杉百合之助は1804年2月23日生まれ。父は、長州藩の給通組士・杉常徳(杉七兵衛)。玉木文之進は実弟。

26石の小禄であり、長州藩士約3000名の中だと2000位くらいの石高となる。1824年に、杉家の家督を相続し、1825年に児玉太兵衛の養女・滝(杉滝)を迎えた。家格は無給通組(下級武士上等)で石高は僅か26石と極貧の武士であったため、普段は農業もして生計を立てていたが、暮らしが苦しくても士分の誇りは失わず、また無類の読書好きだったと言う。1828年、長男・杉梅太郎(杉民治)が誕生。1830年(天保3年)、記録御次番役に就任。 

そして、1830年8月4日には、次男・杉寅之助(のちの吉田松陰)が誕生している。この時、杉百合之助は26歳。1832年、長女・杉芳子(杉千代)が誕生。1835年、呉服方に就任。この年、1835年、弟・吉田大助が死去したため、吉田家(家禄57石)の家督を、次男の杉寅之助(吉田松陰)に相続させている。
  1839年、次女・杉寿が誕生。
  1841年、3女・艶が誕生するも、1843年に早世。
  1843年、百人中間頭兼盗賊改方に任ぜられ、家を離れて、萩城下に住んだため、長女・杉千代が父の世話をしている。
  杉文 (杉美和子)が誕生。
  1845年、杉敏三郎が誕生。発音が不自由な身であった。
  1855年、密航を企てた吉田松陰が生家預かりの育みとなり、杉家にて蟄居。

杉百合之助は藩に責任を取って切腹すると申し出たが、差し戻されている。吉田松陰は蟄居の身であったが、杉百合之助や近親者に『孟子』や『武教全書』を講じ、杉百合之助は自宅にて塾を開く事を勧めた。1856年、吉田松陰が許されて、松下村塾の主宰者となると、長男・杉 修道(杉梅太郎)と共に、父・杉百合之助は最初の生徒となった。吉田松陰が入獄する際には、下記のような言葉を贈っている。

--家君(かくん)欣然(きんぜん)として曰く(いわく)一時の屈(くつ)は万世(ばんせい)の伸(しん)なり、
いずくんぞ傷まん(いたまん) 親 思う心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらん --

上記は、吉田松陰が処刑される直前に歌った句。
1859年5月、吉田松陰が江戸護送になると、杉百合之助も責任を問われ、藩職を罷免された。この時、杉百合之助は55歳。
(記事引用)

※冒頭にある「26石の小禄であり、長州藩士約3000名の中だと2000位くらいの石高となる。1824年に、杉家の家督を相続し、1825年に児玉太兵衛の養女・滝(杉滝)を迎えた。家格は無給通組(下級武士上等)で石高は僅か26石と極貧の武士であったため、普段は農業もして生計を立てていた」、とある。

この時代の長州藩は、関が原(1660)戦争で徳川幕府に責め負い、領地の大半を失う。まさに藩存亡の危機だったが、藩士をリストラして帰農させた。また新田開発にいそしみ財を蓄えていたと記録されている。その帳簿は現代のバランスシートに匹敵する。
田畑を新たに造作することは、石高生産を上げ、穀倉面積地帯を広げるということだ。それにはトラクターだとか自動脱穀機などなく、すべて人力だ。1町2町歩面積の数倍を耕作するには、膨大な人力生産コストがかかるが、その副産物として、兵士訓練の一翼を担うという利点がある。そのことはエジプトのピラミッドを見れば一目瞭然である。また多くの古代文明国家には、農業生産性が優れるという共通点があり、相乗して兵士の士気が高く戦闘能力も高いことが認められる。昔からの格言「治山治水」とは、そのことを形容した言葉だった。(上総国いすみ市内では、広大で潤沢な溜め池がたっぷり用意されている。古代から穀倉地帯としての知名度があり、また蝦夷"いしみ"また現在名「いすみ」という地名も、延喜式神名帳に記述される。) 

冒頭記述の一説、「井伊直弼は、吉田寅之助なる人物を、そもそも知らなかったと考えられること。」

案外、歴史の中には、とても重要だった申し送り文言が、スッポリ抜け落ちたり、またそれを意図的に抜いてしまったり、伝達情報の重要性がよくわかる。ことに有名な話が「トラトラトラ」暗号の箇所であったりする。それを知っていたがわざと知らぬ振りをして、次の一手の有効材料に使うという戦争の常套手段だ。結果的に日本はサイパンなど南方諸島で壊滅的攻撃を受け最後に原爆投下という結果に到る。

それと同じことが井伊直弼と、吉田寅之助の二者間にあった。もう一つの例として田中角栄のローキード事件がある。いまでも検察に対する裁判経過の不信感が拭えないのは角栄に対する冤罪ではないのか、という問いがいまだにくすぶっている。これも拙著ページに載せてあるが、そのことを明かすために、膨大な行の字数で文を書いた。
参考記事http://idobatakaigicom.ldblog.jp/archives/1038345580.html

もちろん角栄のカリスマ的要素もあるが、それとはパラドックス論証的に、ある月刊誌(文芸春愁)の訴求稿がもとで、そこに到ったという経緯がある。


そのころ社会の世相は当然のように完全アナログ社会で、とくに情報メディアは新聞社に代表されるように、それを核として、ニュース情報が出されていた。とうぜん有無を云わせない発信のみだ。また、ニュースソースがどのような過程で作られたものか、一般人は知ることができなかった。またそれが当たり前だと思っていた。

そして
1983年10月に田中角栄は逮捕される。その当時私は、その月刊誌を欠かさず読んでいた。執筆者立花隆の筆裁きも冴え渡り、よくぞ首相の疑獄事件を暴露したと絶賛した。あらゆる種類のメディアというメディア全部が、そのバイアス志向にはまり、勧善懲悪張本人田中角栄を吊るしあげ、ヨーロッパ中世の異端審問による極刑火あぶり刑の「ジョルダーノ・ブルーノ」のように血祭りにした。その結果の数年後、角栄は病気を患い罪の真偽を晴らさぬまま黄泉国へと旅立った。
その顛末はいまでも語り続けられ、事情をよく知る関係者に講演依頼が引きも切らないという。
そのなかの一説で、ある番記者が語った数行の文の文字が天と地を分ける道標のような意味を内包していると私は察したが、それが世に問われることはなかった。
その本人しか知らない情報と思われる暗号名を、番記者はそれとなく尋ねると、本人は怪訝な顔して「それはなにかね」と逆に質問したという。
※逆指揮権発動
(請訓事項)検事総長が法務大臣に対して伺いをたてる捜査上の重要事項。検察庁法第14条の「法務大臣は、検察官の事務に関して、検察官を一般に指揮監督することができる。ただし、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」に基づき、国会議員の逮捕許諾を要請するとか国家転覆を図った事件など特定の事件につき、検事総長が法務大臣に決裁を求める。法相はこれを拒否して、いわゆる指揮権発動をすることができる。なお、逆に法相が特定人物の逮捕や捜査を督励することを俗に「逆指揮権」と呼び、ロッキード事件の際に話題となった。
丸紅からロッキード社に渡された領収書にピーナッツ100個などの暗号が記され、検察の調べでピーナッツ1個が100万円の意味とわかった。その他ピーシーズ、ユニットなどの暗号領収書も出て流行語となった。
(検索基礎知識

参考記事
「ロッキード事件」の真相に迫る産経新聞連載再録(平成6年12月13日から5回)
※肩書、年齢等は当時のまま

リンク
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/41368084.html






 





原田伊織 著の異聞的見解.2
2015年05月23日06:56cocorakinoraki333 Comment(0)Trackback(0)
 
人々に植えられた既成の概念、それは簡単には消えない「私たちが、教科書その他で、いつしか史実であるかのように自然にイメージしてきた吉田松陰像などの、」
その記事をみて、まてよ、どこかで訊いたようなセリフだ。
「フロイトの精神分析」に書いてあって、その一言だった。

そのことの実際を、自身で立証した人物が田中角栄だった。当時「田中角栄」の番記者だった「早野透」氏が、そのことを一冊の本にしている。

以前私は、早野氏がそれを書籍にする前のネット記事を読んだ記憶がある。このサイトのどこかにストックしてあるはずだが、いま探しているヒマはない。だから、次の引用記事で代用とする。内容は、近似しているので参考になるはずだ。

そのことも絡めて松下村塾「吉田松蔭」の架空創作の話しに導きたいと思う。

外界では、維新分裂危機説が、にわかに狼煙を上げようとしている。 
 
維新の屋台骨であった橋下氏松井氏の二名が離党し、その離党の原因は、柿沢幹事長が今月、山形市長選挙で地元の反対を押し切って、民主党などが推す候補予定者の応援をした、というのがその理由だ。
幹事長辞任を求める松井氏らに対し柿沢氏は頑なに拒否、候補者、梅津庸成氏(48)をおす、そのことであることは誰がみても明らかなことだった。

政治は、1ミリたりとも狂い間違うと「命がない」。自分の起こしたアクションは幾千万の価値があると信じきっている。それを許さない相手は、コンマ1ミリを10重ねて、これがお前の轍だとデジタル印字をかざす。そんなものはキーの一押しであっという間に消えてしまうが・・・。
まさに政治はそんな命の保証のない世界だ。(例 北海道中川親子)


没後20年目の角栄ブーム―ソフトな保守への郷愁
早野 透 【Profile】 [2014.05.07]  

戦後政治を生きた「今太閤」
2013年12月で、田中角栄元首相の没後20年となる。それを追悼する公式の催しはなかった。しかし、今なお国民から「角さんがいたらなあ」と何かにつけて引き合いに出される人物である。「没後20年の角栄ブーム」というべきか、それは現代日本政治から失われつつあるように見える「ソフトな保守」への哀惜なのかもしれない。

第二次田中内閣発足時の記念撮影。最前列中央は田中角栄元首相=1972年12月(時事)
田中角栄は「カクエイ」とか「角さん」とか、いまだに名前や愛称で呼ばれることが多く、民衆から親しまれた政治家である。第2次世界大戦後、日本の復興期から成熟期に至るまで、いわゆる戦後政治の時代に生きた。
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1918年、日本海側にある新潟県の貧しい村で生まれ、高等小学校を出ただけで上京し、下積みの仕事を転々としながら建設会社を立ち上げて成功。戦後になって衆議院議員となり、ついに総理大臣まで駆け上がって「今太閤」と呼ばれた(太閤とは引退した摂政、関白に対する敬称。特に日本の戦国時代、百姓の身分から出世し天下を取り関白に就いた武将、豊臣秀吉のこと指す)。

しかし、その間に膨大な政治資金を集めたことで「金権政治家」とも呼ばれ、航空機輸入に絡むロッキード事件で5億円の収賄の疑いで逮捕・起訴された。1・2審で有罪、なお最高裁で争っている間に75歳で死去した。それが1993年のことだ。そんな汚辱の中で葬られた政治家であるにもかかわらず、今なぜ角栄ブームなのか。

角栄流「ソフト政治」と安倍流「対決型政治」

東京地裁で実刑4年の判決を受けた直後の田中角栄元首相=1983年10月(時事)
直接のきっかけは、いくつかの「角栄本」が続けて出版されたことにある。
角栄の愛人の娘、佐藤あつ子が母を描いた『昭(あき)―田中角栄と生きた女』(講談社)、
角栄を至近距離で取材した番記者だった拙著『田中角栄 ― 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書)、そして角栄の秘書の回顧談『角栄のお庭番 朝賀昭』(講談社)が毎日新聞記者・中澤雄大氏の聞き書きによって出た。
ほかにも森省歩『田中角栄に消えた闇ガネ』(講談社)、大下英治『田中角栄秘録』(イースト新書)と続く。角栄死後20年、一つの歴史として観望できるようになって、この清濁両面のある政治家の記憶を、もう一度書き留めておきたいということだったのだろう。

だが、それだけではない。おそらくは安倍晋三首相の率いる日本政治への不満や鬱屈、あるいは抵抗感が「今、角さんがいたらなあ」という人々のつぶやきにも似た郷愁になって現れていると思われる。時代背景の違いはあるけれども、角栄流「ソフト政治」と安倍流「対決型政治」は確かに対比されるべきところがある。

格差是正を目指した経済政策

まず「経済」面から比較してみよう。「政治とは生活です」――角栄は選挙演説をこのせりふで始めるのを常とした。角栄の思想は、政治主導で経済を動かし、経済が人々の暮らしを潤すという、いわば「経済=生活」である。演説に熱心に耳を傾ける民衆の住む田舎の道路建設や防災対策を具体的に語った。

看板政策の「日本列島改造論」は、全国に新幹線や高速道路を張り巡らせて生活基盤を引き上げ、田舎と都会の「格差是正」を図ろうとしたものにほかならない。だがこれは、土地投機を誘発し、1970年代には石油危機に見舞われて挫折することになる。
一方で、高度成長の果実を分配すべく、「福祉元年」を宣言して老人医療費無料化、5万円年金といった施策を断行。義務教育の教員給与を一般公務員より25%引き上げるなど大胆な改革を実行した。

20年におよぶデフレ経済からの脱却を狙うアベノミクスは、角栄流の施策とは異なって、いわば「経済=企業」の視点に立つ。
金融緩和で円安株高に誘導し、大企業は空前の利益をあげている。そこから従業員のベアを実現、景気の好循環を作ろうというものだが、そんなアベノミクスも自分たちには及んでいないと感じる中小企業や地方企業からは、「角さんだったらなあ」といった角栄待望論が聞こえてくる。角さんだったら、もっと下層に日を当ててくれるだろうというのだ。

最大の功績、日中国交正常化

日中国交正常化のための訪中を前に、ハワイで米・ニクソン元大統領(右)と会談する田中角栄元首相(左)=1972年8月(時事)
次に「外交」面でも角栄と安倍は対象的である。
1972年9月、田中角栄は首相就任2カ月で日中国交正常化を手掛け、中国からの戦争賠償放棄を含む難しい交渉を一気呵成にまとめあげた。
中国がソ連と対立して孤立感を深める中、建国のリーダー毛沢東、周恩来が健在なうちに日中戦争の後始末を――という角栄の読みが当たった。
もし中国が日本に戦争被害の賠償請求をするならば、それは膨大なものになるだろう。

毛沢東、周恩来であればこそ「賠償放棄」を国民に説得できた。交渉の最後には毛沢東が出てきて「けんかはすみましたか」と角栄に語りかけ、歴史的和解を演出した。

それ以後、上野動物園にパンダが来て「日中友好」は盛り上がった。貿易も順調に増えた。中国は日本から供与されたODAも全額返せるほどに発展した。中国政府は角栄がロッキード事件で逮捕された後も、日中関係修復に貢献した人々を意味する「井戸を掘った人」として礼遇した。

いま安倍晋三政権にあって、日中関係、加えて日韓関係における、この険悪な状態はいったいどうしたことだろう。
尖閣諸島、竹島などの領土問題がトゲになって、両国との首脳会談開催も困難を極める。南京大虐殺はあったのか否か、従軍慰安婦は強制連行だったのかどうかなど、いわゆる歴史認識の問題はこじれるばかりである。
倍首相の歴史修正的な態度に対し、中韓両国は警戒心を解かない。2013年12月、日本の戦犯を合祀する靖国神社に参拝したことは、被侵略国の中国、韓国を決定的に怒らせた。
角栄だったら、これにどう対応しただろうか。角栄は、陸軍2等兵として中国東北部に応召した経験がある。
しかし、そこでの角栄の思い出は上官から理不尽に殴られたことばかりで、戦前への郷愁はない。
あの機略縦横の角栄だったら、中国、韓国の立場も深くのみ込んで、もっと的確に対応したのではないか。歴史認識というものは、重箱の隅をつついて相手を責めたり、いじましい自己弁明をするトリビアリズムではない。

各国とも角栄世代が去って、歴史の反省・和解のプロセスが継承されていない。どうしてこんなことになるのか。毛沢東、周恩来と渡り合った角栄の政治的大きさへの追憶が人々から湧くゆえんである。

金権政治だが護憲政治、その多面性こそが角栄流

「20年後の角栄ブーム」を反映して、このごろ筆者自身、角栄についての講演を求められることが増えた。そこで私が「角栄はキンケンだったけれども、ゴケンでもあった」と説明すると、参加者がオヤと耳を傾ける。

角栄は自民党総裁選に立候補したときの「国民への提言―私の十大基本政策」の中で、「日本は軍事大国を目指すべきでなく、憲法9条を対外政策の根幹にする」と盛り込んでいる。日本の戦後平和思想のシンボルである憲法9条(戦争放棄、戦力および交戦権の否認)を守るという角栄の言明が中国側から評価され、国交正常化につながったのである。

自民党は立党以来、「憲法改正」、つまり9条改正による軍の復活を党是としてきた。日本国憲法はマッカーサー占領軍の「押しつけ」によるものというのが理由だった。
だが角栄は、例えば「自民党結党25年」の報道番組に出て「占領軍の大前提は、日本の弱体化を図ることだった。だが戦後の諸法規は、日本人の英知によってすべて消化され定着をした」と語っている。

実態をいえば、自民党は「建前改憲、実質護憲」で、安全保障投資はほどほどにして、それよりも経済発展に資源を集中してきた。
「安保費の節約」が角栄にとっての9条のありがたみであり、角栄の平和思想の根底にある。「戦争はもうこりごりだ。もっと平和で豊かな生活をしたい」という戦後の国民思想は、まさにそれだったのである。

小さくなった政治家の器量、大きくなる角栄の存在感

安倍首相はそんな憲法9条の効用を「マインドコントロール」と断じ、国際社会の緊張に立ち向かうために9条の解釈変更で集団的自衛権の行使に進もうとしている。護憲派は、これを「専守防衛」から「海外で戦争のできる国」に転換しようとすることであり、9条の無意味化であると批判する。

しかし、安倍首相が説く国際情勢の厳しさとは、多分に安倍首相本人の対決的な政治戦略がもたらしたものである。田中角栄だったら、もう少し近隣と気持ちを合わせながらうまくやっているのではないか。戦後70年になるに及んで政治家の器量が小さくなり、大きな妥協ができないのではないか。

やはり戦争という苛烈な人生体験が人物を鍛えたのか、戦後体制を作った吉田茂に始まって、岸信介、池田勇人、佐藤栄作らは、明らかに今の政治家よりも大物だった。角栄の同世代には福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘などの個性的なライバルがいた。角栄はこれらの群像の一人にすぎないともいえる。ただ角栄という人物はとりわけ「情」に厚く、その人生は人間ドラマとして起伏に満ちており、人々から今なお思い出されるということである。
今、田中角栄がそこまでの力を発揮できるかどうかはともかくとして、「没後20年の角栄ブーム」は、「日本政治の今」への根底的な国民の違和感の表れと考えるべきなのである。
(2014年3月27日 記)
タイトル写真=第27回自民党臨時大会で新総裁に選出後、第一次田中内閣発足前に記者会見する田中角栄氏(1972年7月撮影、時事通信社提供)

早野 透  HAYANO Tōru[ 署名記事数: 1 最終更新日: 2014.05.07 ]
桜美林大学教授。1945年神奈川県生まれ。1968年東京大学法学部卒業。朝日新聞社で政治部次長、編集委員、コラムニストなどを歴任。2010年より現職。主な著書に『政権ラプソディー―安倍・福田・麻生から鳩山へ』(七つ森書館/2010年)、『田中角栄 - 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書/2012年)など。
(記事全文抜粋)

田中角栄リンク記事
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/41332173.html






大阪地方検察庁特別捜査部所属、障害者郵便制度悪用事件担当主任検事、前田恒彦によるフロッピー改ざん事件 2010年(平成22年)9月21日
スクープ大阪地検特捜部証拠改ざん事件報道
2010年9月21日、朝日新聞朝刊に歴史に残る記事が掲載された。見出しは「検事 押収資料を改ざん」、大阪地検特捜部の主任検事によって押収証拠のデータが改ざんされたことを報じる大スクープ事件である。
周知のように、検察組織は激震に見舞われその存在が根本から問われることになった。この記事の取材をしたのは、社会部の検察担当の板橋洋佳氏ら朝日新聞大阪本社の検察担当記者たちだ。検察特捜部という国家権力の中枢で起こった不正事件は、どのような取材を経て世に出るに至ったか。板橋記者にその経緯と意味を聞き、「権力を取材すること」「ジャーナリストの仕事」について討論する会を、2011年3月5日(土)大阪で開いた。この連載はその会の模様を整理したものである。(石丸次郎)

以下記事部分内容
2010年1月から、無罪となった村木さんの公判が始まる。私は捜査段階から検察担当をしていたので今回の公判が注目を浴びるというのはわかっていた。上司の司法記者クラブのキャップと話をして、公判に応援取材にはいることになった。(引用〆)

その「例題記事」を念頭において、今回の公判である。

美濃加茂市長事件控訴審
事実審理開始で重大なリスクを抱え込むことになった検察
郷原信郎が斬る 郷原信郎  2015年08月26日 13:25
昨日(8月25日)午後、名古屋高裁で、美濃加茂市長事件の控訴審第1回公判が開かれた。
検察官が控訴趣意書、弁護側が答弁書に基づいて、それぞれの主張を行い、裁判所は、検察官が行った証拠請求のうち、贈賄供述者中林の取調官の中村道成警部補と、弁護人が告発した中林の融資詐欺の捜査・処分を担当した苅谷昌子検事の二人の証人尋問を行うことを決定した。

【検察控訴趣意書と東芝不適切会計に共通する「偽装の構図」】でも述べたように、検察官の控訴趣意書は、書かれていることの大部分が証拠に基づいていない、或いは事実を歪曲しており、全体が「偽装建築」のようなものであり、答弁書で、その「偽装」を徹底的に引きはがした。裁判所も、双方の書面を読み、少なくとも控訴趣意書における検察官の主張も、それを前提に行っている証拠請求も、「苦し紛れ」のものであることは十分に認識したはずだ。

本来、刑事裁判においては、一審中心主義がとられており、証拠の請求、取調べは一審で行うのが原則だ。控訴審では、「一審で請求しなかったことについてのやむを得ない事情」がある場合にしか証拠請求ができない。「一審の無罪判決が予測不可能だったこと」を「やむを得ない事情」だとする検察官の理屈は論外であり、裁判所に認められる余地はない。それでも、裁判所が2人の証人尋問を決定したのは、検察官の証拠請求について「やむを得ない事情」が認められないとしても、裁判所独自に職権で取調べる必要があると判断したということであろう。

一日も早く無罪判決が確定し、藤井市長の無実・潔白が動かぬものとなることを望んでいる美濃加茂市民にとっても、市長の下で職務を遂行する市職員にとっても、これ以上、市長の裁判に時間がかかるのは耐え難いことであろうし、そういう意味では、控訴審での審理が続くことで、判決の確定が遅れるのは残念だ。

しかし、一方で、今回の事件をめぐっては、いまだに多くの謎が残されていることも事実である。

悪質極まりない手口で4億円近くもの融資詐欺を犯していることを自白している中林に対して、僅か2100万円の詐欺事件を立件しただけで、それ以降は、全く捜査の対象にせず、合計30万円の藤井市長への贈賄の容疑の取調べばかりを行ったのは、いかなる意図によるものだったのか、名古屋地検では、弁護人が4000万円の融資詐欺を告発するまで、中林の処分に対して、いかなる検討が行われ、いかなる求刑が予定されていたのか。

一審で、弁護人は、中林の供述経過に関して、「客観的資料との辻褄合わせ」の疑いなど多くの問題を指摘したうえで、中林の取調警察官である中村警察官の証人尋問を請求し、取調べの記録の証拠開示も求めたが、検察官は、中村警察官の証人尋問には強く反対し、取調べメモの開示にもなかなか応じず、最終的は裁判所の手続の中で取調べメモの一部だけを開示した。

ところが、一審で無罪判決を受け、窮地に追い込まれた検察官は、その中村警察官を自ら証人尋問請求し、その上、「中林の供述経過が合理的なものであることを示す取調べメモも存在していのに一審では不必要と考えて開示も証拠請求もしなかった」などと述べて証拠請求してきたのである。

検察官は、一審で主任検察官と中林が行ったような「連日、朝から晩までの綿密な打合せ」を、今度は、中村警察官との間で行って、中林の供述経過が合理的だというストーリーを作り上げてくるのであろうか。

取調べメモについて、私は、答弁書で

検察官は、刑事訴訟において強大な権限を与えられ、関連する証拠も、積極証拠であれ消極証拠であれ、すべて把握し、保持できる立場にある。それだけに、重大な消極証拠の存在が、事後的に明らかになった場合には「隠ぺい」が疑われ、逆に、存在していることを認識していたら当然証拠請求すべき積極証拠を事後的に出してきた場合には捏造が疑われるのは致し方ないところである。

と指摘した。

検察官は、そのような取調べメモが存在していることが一審の段階からわかっていたのに証拠請求しなかったと本気で主張するのであろうか。

控訴審裁判所は、このような検察官の証拠請求を「論外」と言って切り捨て、第1回期日で即日結審することも可能だったはずだ。敢えてそうせず、2人の証人尋問を決定したのは、控訴審裁判所が、現職市長が市長職を継続したまま一貫して無実を主張し、公判で戦い抜き、一審で無罪判決を勝ち取ったという「前代未聞の事件」について、なぜ、市長が逮捕・起訴されたのか、警察官・検察官は、どう判断で、どのような対応をしてきたのかという、誰しもが思う根本的な疑問について、真相解明の役割を果たそうという決意によるものであろう。

取調べメモが捏造ではないかとの疑いについても、中村警察官の証言が、組織を守ろうとして事実に反する証言を行うのではないかという点についても、控訴審裁判所は、十分な問題意識を持って審理に臨まれるのだろうと思う。

市長の冤罪が完全に晴れる「美濃加茂の本当の春」を待つ市民、市職員の皆さんには大変申し訳ないが、かくなる上は、控訴審裁判所の今回の決定を前向きに受け止め、警察、検察の捜査や取調べの過程を明らかにするための立証活動を徹底的に行っていくこととしたい。

検察官請求証拠がすべて却下され、第1回期日で即日結審していたら、年内に予想される次回判決期日での控訴棄却は確実であった。控訴審での事実審理が開始されることで、検察としては、無罪判決が早期に確定するという目の前のリスクをひとまず回避したことになる。しかし、それによって、この事件をめぐる「警察・検察の闇」が明らかになるという、重大なリスクを抱え込むことになった。
記事引用 
郷原信郎 2015年08月26日 13:25






 

戦前エリートはなぜ劣化したのか-国家を担うべき政治家、官僚、軍人は破滅に向かう日本を誰も救えなかった
エリートはなぜ失敗したのか?  磯田道史(歴史家)
文藝春秋SPECIAL 2015秋2015年08月26日 07:00
 自動車が崖に向かって猛スピードで走っている。車中の人々は、誰も前を見ず、ブレーキを修理したり、エンジンの調子を整えたりしている。運転手も視界が悪いと窓を拭くばかりで、肝心のハンドルを握っていない。 

 満州事変から敗戦に至る日本は、運転手がよそ見をして、ハンドルから手を放していたために崖から海に転落していった車に見えます。 

 運転手として、国のハンドルを切り、ブレーキを踏まなければならなかったのは誰か? それは戦前のエリートにほかなりません。政治家や官僚、軍人たちです。 

 なぜ、彼らは国の舵取りを誤ったのか? いや、それどころか、なぜそれを放棄してしまったのか? 

 それは戦前日本の失敗を考えるとき、もっとも重要な問いの一つです。 

 それを考えるために、明治維新まで時間を遡り、この国のエリートを大きく三期に分けて考えてみましょう。 

 第一期は、明治維新の志士で明治政府の創設に参画したエリートです。西郷隆盛(1827生)や大久保利通(1830生)、伊藤博文(1841生)や山県有朋(1838生)、西郷従道(1843生)といった人々です。 

 第二期は慶応年間(1865〜1868)から明治初めごろに生まれ、江戸時代の生き残りに育てられたエリートです。秋山好古(1859生)、秋山真之(1868生)、正岡子規(1867生)、夏目漱石(1867生)ら司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公たちの世代です。 

 第三期は、明治の半ばから終わりごろに生まれたエリートです。彼らは明治の終わりから昭和初期に大人になり、エリートの地位を手にいれていきました。東條英機(1884生)、近衛文麿(1891生)、広田弘毅(1878生)、重光葵(1887生)、米内光政(1880生)らの名前が挙がるでしょう。ハンドルから手を放してしまったのは、この世代でした。 

 総合知に富んでいた第一期のエリート
 第一期のエリートの特徴は、非常に数が少ないことです。まだ日本の所帯が小さかったので、政治的な指導者が大勢いる必要がなかったのです。また、そのほとんどが武士でした。彼らと後のエリートとの最大の違いは、試験で選ばれた人材ではない、ということです。彼らは志士ですから、選抜試験は戦場から殺されずに生きて帰ってくることでした。 

 生き残る能力を試されながら、「あいつは学もあるし、人柄もいい」と地域の仲間うちでの声望を得ることで、選抜されていきました。その過程では、故郷をともにするものが信頼できる仲間を選んでいく「郷党の論理」がはたらいていました。この論理は、明治政府の藩閥政治を形成していったので、閉鎖的で身内びいきだと評判が悪いのですが、人物を能力だけでなく、家族構成から性格、性癖まで総合的に見られる利点を持っています。 

 一定の声望を得た人物は、藩や志士集団のなかで、何らかのポストや役割を与えられました。そこで藩の軍艦購入に大いに貢献したとか、藩の外交を担って活躍したといった、具体的な成果を上げた者が、さらに上の地位に上っていきました。今の言葉でいえば、幕末維新のエリートは、徹底した成果主義で選抜されていたのです。 

 第一期エリートの特徴は、物事を一から構想し、それを完成させる能力の鍛錬を受けていたことです。江戸期は、分業が今ほど進んでおらず、使える人やモノも限られていましたから、上に立つ人間は一から十まで段取りを整えなければ、物事を成し遂げられませんでした。第一期エリートになるような人間は、様々な現場経験を積み、スペシャリストが持つ専門知ではなく、ジェネラリストに必要な総合知を自然と備えるようになっていました。これこそ国を統べるエリートに求められるものです。 

 たとえば、薩摩藩の城下、下加治屋町に住んでいた西郷隆盛・大久保利通ら下級武士は、楠木正成への尊敬の念を厚くすると、大工でもないのに、自分たちで材木を調達して、楠公を祀る神社を建ててしまいました。西郷・大久保たちは、この神社を建てるように新しい国づくりをしたに違いありません。 

 また、私が書いた『武士の家計簿』の中でも紹介しましたが、幕末維新の時代を生きた猪山成之(1844生)は、明治政府の大村益次郎(1825生)に会計官として取りたてられたのですが、一度もやったことのない政府の軍艦の修繕を命じられました。猪山は軍艦が停泊するドックをつくることから始めて、何とかこの無理難題をやり遂げます。高い総合知を身につけていたのです。 

 第一期のエリートは、総合知とともに統治者としての知識と経験、村や藩、ひいては国家全体への責任感を持っていました。それらは数百年の間、日本で統治を担ってきた武士階級が培ってきたものでした。 

 第二期のエリートは、第一期にないものを持っていました。それは高度な専門知です。明治維新が徹底的に江戸時代の身分制を否定し、能力主義を導入したからです。 

 彼らの使命は西欧の学問や制度を輸入することでした。第一期エリートは明治政府を創設し、「富国強兵」「殖産興業」という国家目標を掲げましたが、それを実行するには、彼らの手足となってはたらいてくれる実務家、テクノクラート、スペシャリストが大量に必要でした。 

 第二期エリートが、まず取り組まなければならなかったのは、外国語の習得です。そのため彼らの多くは、イギリスやフランス、ドイツに留学し、西欧社会に飛び込みました。彼らは日本人がほとんどいない環境で外国語を学び、膨大な書籍を読み、今度はそれらのエッセンスを日本語に翻訳し、日本に持ち帰らなければなりませんでした。
 江戸時代の空気のなかで生きていた人間が、いきなり近代西欧の真っ只中に投げ込まれるという強烈な体験は、第二期エリートを劇的に進化させました。時代を画すような大きな変化が歴史に訪れたとき、新旧二つの時代をまたいで生きる人間は、新しい時代の息吹を全身で吸収し、赤子のように短期間で飛躍的な成長を遂げることがあります。そのような成長が社会に与える恩恵を、私は「人材ボーナス」と呼んでいます。第二期エリートは、まさに日本にそれをもたらしました。 

 たとえば、海軍参謀として日露戦争における日本海海戦勝利に大きく貢献した秋山真之は、1897年から三年ほど、アメリカに留学しますが、そのとき「自分が一日怠ければ、日本が一日遅れる」という言葉を残しています。それぐらいの切迫感と国家に対する責任感をもって勉強していました。秋山はまた、軍事用語を日本語に翻訳しなければなりませんでした。秋山には、自分がつくった訳語が、その後の海軍の教育や訓練、実戦で使われていくことがわかっていました。自分が訳を間違えたら、人の生死、ひいては国の存亡に関わる。秋山は常にそのような緊張感を持っていたはずです。 

 このとき秋山は元米国海軍軍人で戦略研究家のマハンに師事しました。彼の『海上権力史論』は、今でも海軍戦略を学ぶ者の必読書です。秋山はまた、1898年の米西戦争を視察しています。書物、先生、戦争、いずれをとっても秋山は「本物」から学んだのです。 

 外国語はあまり得意ではなく、専門知も十分ではないけれども、大局観を持ち、総合知に富んだ第一期エリートとスペシャリストとしての高度な教育を受けた第二期エリートの組み合わせは最強でした。その力がもっとも発揮されたのが、日露戦争です。 

 乃木希典(1849生)、児玉源太郎(1852生)、大山巌(1842生)、東郷平八郎(1847生)といった江戸時代の生き残りの大将たちが、秋山真之、財部彪(1867生)、鈴木貫太郎(1867生)ら第二期エリートを使いこなしたことで、勝利がもたらされました。

能力主義はエリートをどう変えたか
 さて、いよいよ第三期のエリートです。彼らは第二期エリートと同じ方法で選抜され、育てられましたが、明らかに劣化していきました。それはなぜでしょうか? 

 その原因は、明治政府による身分制度の徹底した否定と能力主義にあります。近代日本の身分制否定の徹底ぶりは、明治政府が近代国家を建設するにあたって範としたイギリスやフランス、ドイツ以上でした。西欧諸国は今もなお階層社会であり、エリートを輩出する階層は限られています。明治時代と同時代の西欧諸国では、軍隊の将校や外交官は、貴族によって占められていました。しかし、明治政府が初めて選抜し、育てた第二期エリートの出身階層は、教育水準が高かった武士や名主・庄屋階層が多かったものの、年を経るにつれて、急速に他の階層にも広がっていきました。 

 このことにはいい面と悪い面があります。

 いい面は、あらゆる階層に立身出世の道が拓けたことです。能力さえあれば、出世できるという希望は国民の向上心を高め、社会に活力を生み出します。国からみれば、エリートの裾野が広がり、より能力の高い人材を登用できるようになりました。 

 悪い面は、エリートが筆記試験の成績が優秀な、いわゆる学校秀才ばかりの集団になってしまいます。武士や庄屋は家庭に行政が入り込み、公の訓練を親代々みてきましたが、新しい学校秀才はそんな世代ではありません。行政の暗黙知はない。それで、多くの弊害が生まれます。 

 第一は人材の多様性が失われることです。このような集団は危機に弱い。 

 第二は筆記試験で集めた秀才に画一的な教育を施すので、専門知には長けているけれども、総合知には欠けているエリートが生まれやすいことです。 

 社会が複雑になると、専門化が進み、大量のスペシャリストが必要とされるのは確かです。ですから、エリートのスペシャリスト化が進むのは致し方ない。しかし、社会の複雑化によって、未来は予測しづらくなります。何が起きるかわからないときに絶対必要なのが、総合知を備えたジェネラリストの直観です。エリートを全部スペシャリストにしてはいけないのは、そのためです。 

 しかし、日本陸軍はトップをすべてスペシャリストにするような教育をしました。陸軍中枢を担う人材は、一五歳ぐらいで陸軍幼年学校に入学し、陸軍士官学校、陸軍大学校と進んでいきますから、知識は軍事に偏り、庶民の暮らしも知らなければ、お米も炊けません。純粋培養からは総合知など期待できません。総合知は幅広い人生経験、現場体験がなければ培われないからです。そのいい例が、近代日本の名宰相となった高橋是清(1854生)と原敬(1856生)でしょう。高橋はアメリカ商人に騙されて、奴隷として売られるなど、海千山千の経験を積んでいますし、原敬は新聞社、外務省など様々な組織を渡り歩く過程で、引き立てられていきました。 

 第三は出身階層が武士や名主・庄屋以外にも広がっていったことで、第一期、第二期のエリートが持っていた家庭教育で提供される統治者としての知識と経験、国家全体への責任感が失われていったことです。近代日本は「お国のため」「天皇のため」という名目を掲げて、出世すれば、なんでも手に入ります。表向きは国の為、本当は自分の為に、金が欲しい、愛人を囲いたい、周囲から認められたい、といった私利私欲を満たすために、エリートを目指す人々が出現してきました。夏目漱石が「帝国大学は今や月給取りをこしらえて威張っている」と嘆いたのは、そのことでした。 

 これらの弊害が極まって、第三期のエリートの劣化がもたらされました。劣化は第二期エリートでも進行していたはずです。第二期も第三期も選抜・育成方法は同じだからです。むしろ第二期エリートはなぜ、劣化しなかったのか? と問わなければなりません。 

 その最大の理由は、彼らが能力主義以前の身分制社会、すなわち江戸時代をからだで知っていたからでしょう。彼らの親は江戸時代の人々でしたし、彼らを指導したのも、江戸時代の生き残りである第一期エリートでした。しかも、武士や名主・庄屋階層の出身者が多かったので、統治者としての知識や経験、全体への責任感を自然と受け継ぐことができました。それゆえに彼らはスペシャリストになるための教育を受けながらも、ジェネラリストとして常に国家全体を考えることができたのです。 

 もう一つの大きな理由は、明治国家が持っていた切迫感や緊張感にあります。一刻も早く西欧の学問や制度を導入して、近代化をはからなければ、西欧列強に征服されてしまうかもしれない。日本全体がそのような恐怖に包まれていました。 

第三期エリートの慢心と油断
 ところが、第三期のエリートが大人になるころ、日本はロシアに勝ち、国中の緊張感がほどけました。翻訳書が多く出版されるようになり、国産の科学技術が出てきます。すると、日本語や国産品だけでも、ある程度、用が足りるようになります。必死の思いで外国の技術や制度を学ばなくとも、日本はもう立派にやっていける、という慢心と油断が生まれてきます。これが日本という小国のエリートにとって、死活的に重要な感覚を失わせてしまいました。それは、時とともに変わっていくもの、すなわち国家を取り巻く環境の変化を捉える鋭敏な感覚です。日本は周囲の状況に上手に対応して、舵を執って行かなければ、沈没してしまう国柄です。周囲の状況の変化をつぶさに観察し、感じ取る能力が、とりわけ必要とされるのは、そのためです。では、近代日本にとって、時とともに変化する環境とは、何でしょうか? それは今も昔も国際情勢と科学技術です。第三期エリートは、それらに対する鋭敏な感覚を失ってしまったのです。 

 1930年のロンドン海軍軍縮会議における「条約派」と「艦隊派」の対立には、第三期エリートの劣化が如実に表れています。この会議は英米日仏伊の海軍力のバランスをとりながら軍縮するために開かれたものですが、日本に提案された海軍力を受け容れようとした「条約派」とそれに反対した「艦隊派」の間で対立が生じました。「条約派」には、浜口雄幸(1870生)、西園寺公望(1849生)、山梨勝之進(1877生)、加藤友三郎(1861生)、鈴木貫太郎らがおり、「艦隊派」には、加藤寛治(1870生)、末次信正(1880生)らがいました。 

 後世から見ると、国際情勢を鋭敏に感じ取り、それに的確に対応していこうとしていたのは、「条約派」です。「艦隊派」は、米国海軍に敗けない戦力を維持するためには条約案は呑めない、軍隊の「兵力量」を決めるのは、天皇大権の一つである「統帥権」に属するから、それを干犯している、という論理で対抗しました。しかし、結局は第三期エリートが自分たちの身過ぎ世過ぎ、すなわちポストや予算を守るために反対していたようにしか見えません。自分たちが所属する組織の利益を守るために「統帥権」を持ち出し、天皇の威を借りるのが、第三期エリートのまずいところです。彼らには今、日本はどのような国際情勢の下に置かれていて、そのなかで生き残るためには、海軍はどうあるべきか、というジェネラリスト的な視点がまったく欠けていました。それなのに自分たちの利益を「天皇のため」「国のため」という誰も文句が言えないお題目を掲げて守ろうとする。 

 残念ながら、1930年ごろから、第三期エリートのなかで比較的、国際情勢や科学技術に鋭敏な感覚を持っていた「条約派」的なエリートは端に追いやられていきました。第三期エリートの劣化とともに、そのようなことが、あらゆる領域で起きていました。1939年のノモンハン事件では、戦車や砲兵の近代化が遅れていたため、日本陸軍はソ連に大敗を喫しました。それでもなお陸軍は、その失敗を直視せず、科学技術の遅れを精神主義で補おうとしました。そして、1941年、陸軍幼年学校出身で教科書を丸暗記することで成績を上げた東條英機が首相となりました。東條はスペシャリスト的エリートの典型で、ジェネラリスト的な部分は欠片もありません。東條は「私の肉体は天皇の意思を受けた表現体である」と自分に言い聞かせていたそうですが、逆に言えば、自分の判断というものがない。首相、陸相、参謀総長を兼任していたのですから、天皇の決断を待つのではなく、天皇を助けるために自ら決断を下すべきでした。 

 明治政府ができて、およそ70年で戦前エリートは劣化し、国は滅びました。戦後70年経った今、戦後エリートにも同じような劣化が進んでいるような気がしてなりません。統治者としての知識と経験、国家全体への責任感、幅広い好奇心と多彩な人生経験によって培われた分厚い教養と総合知、それを土台とした時とともに変化する国際情勢と科学技術への鋭敏な感覚と直観、環境の変化を想像する力……。それらが国を率いるエリートには必要です。しかし、ジェネラリストは育てることはできません。彼らを見出したら、素早くピックアップし、重要な仕事を与えることで鍛えていくしかありません。そこが難しいところです。 

 現代のスペシャリストとして育成されるエリートのなかに、そのようなジェネラリストを発生させるにはどうすればいいのか? 70年前の失敗を繰り返さないために、日本人全員が、そのことを常に考えておかなければなりません。 

■プロフィール
いそだ みちふみ 1970年生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。静岡文化芸術大学教授。著書に『武士の家計簿』『無私の日本人』など。 
(記事引用)


 

越天楽今様 ①春のやよい」
2012-11-08 07:55:19 | 日本龍の声サイト
『越天楽』(えてんらく)は、雅楽の演目である。舞は絶えて曲のみ現存している。雅楽の曲のなかで最も有名な曲である。楽器は主に8種類。管楽器、弦楽器、打楽器に分かれている。
原曲は中国・前漢の皇帝文帝の作品と伝えられている。しかし高祖・劉邦の軍師張良の作曲であるという説や、日本での作曲である説などもあり、実際の所はよくわかっていない。
越天楽に歌詞をつけたのが『越天楽今様』であり、特に有名なのは、800年もの昔、雅楽のメロディーに天台宗の名僧・慈鎮和尚が作った「春のやよいの…」で始まる歌詞である。また「黒田節」、巫女が奉納する「浦安の舞」「豊栄の舞」も、現代版越天楽今様と言って良い。
古謡、『越天楽今様 春のやよい』は、日本に小学校唱歌が誕生して以来、今日まで、脈々と民族の魂を子どもたちに植え付けてきた。小学唱歌集/初編(明治14年11月)に採用された。それは、外国の音楽を導入しつつも、翻訳唱歌ではなく、日本独特の「国樂」を目指した明治の先覚者の心意気を象徴する曲選びであったと言える。

「越天楽今様 春のやよい」 ・雅楽 慈鎮和尚 作詞

春のやよいの あけぼのに
四方(よも)の山べを 見わたせば
花盛りかも しら雲の
かからぬ峰こそ なかりけれ

花たちばなも 匂(にお)うなり
軒のあやめも 薫るなり
夕暮さまの さみだれに
山ほととぎす 名乗るなり

秋の初めに なりぬれば
ことしも半ばは 過ぎにけり
わがよ更けゆく 月影の
かたぶく見るこそ あわれなれ

冬の夜寒の 朝ぼらけ
ちぎりし山路は 雪ふかし
心のあとは つかねども
思いやるこそ あわれなれ
(引用歌詞抜粋 龍の声)~


『大東亞戰爭終結ノ詔書』 2015-08-22 08:41:51 | 日本


副島隆彦の学問道場
武士、官僚、政治家、軍人 田中光顕について
 さらに右翼暴力団を使って田中光顕はすきあらば牧野伸顕を暗殺しようとしていたようだ。当時、すでに、血盟団事件(1932年2月~3月)に井上準之助、団琢磨などの三井の要人暗殺があり、血盟団事件の第二弾として、1932年5月15日には三井財閥系の犬養毅首相の暗殺が首相官邸で行われた。そういう時代に、田中光顕が牧野内大臣暗殺を目論んでいたと、木戸幸一は警視総監からの情報として記している。井上日召のような「昭和維新派」というのが、田中光顕・頭山満のような三菱マネーで育てられた裏社会の人間によって育成されていたのであり、単に昭和維新の背景に格差問題を見るだけなのは読みが浅いのだろう。

 これは私の感想であるが、すでに陸軍内、海軍内も軍閥化が進みつつあったのだと思う。1930年にはロンドン軍縮条約問題があり、対英米協調の条約派とナショナリスティックな艦隊派に海軍が二分している。陸軍においても、1930年に桜会という秘密結社ができて、日本の軍事国家化が進められていた。

 田中光顕が1932年の5.15事件や1936年の2.26事件の首謀者の青年将校に対する助命嘆願を願い出ていることからも分かるが、田中光顕は皇道派の側に立って、昭和維新を断行するのを支援していたのだろう。それは井上日召に対して、「儂は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらいの気力も体力も持っている。君達もしっかりおやり!」と励ましたあたりからもうかがい知れるのである。

 一木宮内大臣を失脚させるだけではなく、田中光顕は新聞を利用して、「内大臣廃止論」を発表している。牧野内大臣への権力闘争である。鬼塚氏は牧野が二・二六事件で暗殺されなかったのは、田中との権力闘争において、牧野が軍門に降ったからだとしている。その根拠として、枢密院議長人事において、西園寺が推した一木元宮内大臣(1934-36)の後任に、右翼の平沼騏一郎が1936年3月に選ばれたことを上げている。

 牧野や西園寺にとって、右翼団体を動かしながら、宮中の枢要なポストを廃止しろと言ってきたり、息のかかった平沼を押し込もうとした田中光顕は非常に恐ろしい人物だっただろう。

 鬼塚氏は、田中光顕が右翼を使って宮中の乗っ取りを画策していることについて、『西園寺公と政局』(1934年12月30日)の記述を根拠としている。この日の日記には、「例の国家改造運動、即ち田中光顕とか内田良平とか頭山満などを看板にしてやる右傾の大合同の合理的国家改造運動」の話が出てくる。この中には大本教も入っており、この運動が「宮様内閣」を作る運動であることが述べられている。鬼塚氏は以下のようにこの日記の記述を更にわかりやすく解説する。

(引用開始)

 この運動が二・二六事件へと発展する。あの事件は青年将校たちの反乱と見るべきではない。「右傾の大合同」による宮様内閣(秩父宮首班)を目的としたものだった。田中光顕は、大日本生産党総裁並びに黒龍会主幹の内田良平、そして玄洋社の頭山満と内々に通じあい、大本教も含めた「右傾の大合同」の合理的国家改造運動を進めていたことが、この『原田日記』から理解できる。

『日本の本当の黒幕』(下)252ページ
(引用終わり)

 要するに、2・26事件を「青年将校の思い」という視点で見ると大きく本質を見誤るということだろう。大本教という新興宗教も田中光顕の道具だったに過ぎない。明治維新のすべてを知る男、田中光顕は、宮中への影響力を保とうと、右翼団体まで動員して国家改造をしようとした。明治維新の立役者が、昭和維新の黒幕でもあったという身も蓋もない話である。感情的に暴走した若者をクーデターに駆り立てるのが黒幕の仕事である、ということを私はこの鬼塚本によって再確認した。

 世界大恐慌が始まる前後から、日本の政治に軍閥というものが入り込んできた。これは軍隊における権力闘争の派閥であるが、同時に、それ以外にもそれぞれのシンパというものがいたということで、テロによって政治を変えようとする動きが本格化していって、その黒幕にいたのが、宮中を追い出されて、一時西園寺との権力闘争に敗れた田中光顕だったということである。そして、田中光顕は三菱マネーで動いていたという。

 そこで私はわからなくなったのだが、三菱といえば、もともと三菱の岩崎一族の加藤高明やその外相の幣原喜重郎のような「対英米協調派」ではなかったのか。なぜそのような三菱が田中光顕を放っておいたのか。鬼塚氏はこのへんの日本の権力闘争と大きな世界権力構造のつながりについてあまり説明しない。というより、鬼塚氏は太田龍門下だから、ここはロスチャイルド黒幕説なのだ。しかし、私はそれは一面的な見方であり、ロックフェラーとロスチャイルドの大財閥の闘いがあったと思う。アメリカにおいても、1921年の外交問題評議会設立後しばらくするとロックフェラーの影響力が強くなっていくということを私は『世界を動かす人脈』などの自著で立証したから、鬼塚氏のロスチャイルド史観にはかなり違和感がある。しかし、そのことは国内勢力論だけを主に論じたこの『日本の本当の黒幕』を読んでいく際にはあまり支障にならななかった。

 現段階における私のこの問題に対する回答は以下のようになる。
 
 三菱―ロックフェラーという関係はたしかに戦前においてもあっただろう。しかし、アメリカのロックフェラー財閥といえども、日本に満州利権を独占させるつもりはなかったに違いない。もともとアメリカが、太平洋進出したのは最終的には中国市場の門戸開放を果たさせるためだった。

 ところが、日本が行った大陸外交はアメリカの権益を脅かすものだった。古くは、ハリマン財閥との満州鉄道日米共同経営の話を、小村寿太郎外相が蹴ったという事実がある。日露戦争の終戦の仲介をアメリカのセオドア・ルーズベルトが行ったのも、日本を入り口に満州地方の権益を獲得し、当時の覇権国であったイギリスに対抗する狙いがあったのだと思う。ハリマンの共同経営提案を日本が蹴った後も、1909年には米国務長官が「満州鉄道中立提案」というのを行っている。

 この時点で、日本の大陸政策と門戸開放主義を中心にするアメリカ極東政策が対立を始めており、日本が関東軍による1931年の満州事変のより、満州国建国を目指すようになり、日本政府のコントロールが効かない状態になっていった。翌年には第一次上海事変が起きて、これも英米を含む列強の権益を脅かした。満州事変に関するイギリスのロスチャイルド系のリットン卿による報告書は、日本に融和的なものであったが、日本はこれを受け入れなかった。その後、日本は1933年に国際連盟を脱退して孤立化を始める。

 更に、1937年には盧溝橋事件と第二次上海事変が起きており、その後、パネー号事件というものが起きている。この事件は、日本の海軍機が揚子江を航行していた米国アジア艦隊揚子江警備船「パネー号」を攻撃、沈没させ、乗務員に対し機銃掃射を行った事件であった。重要なのは、パネー号に先導案内されていたのが、米国スタンダード・バキューム・オイル社の商船4隻と、ジャーディン・マセソン社の倉庫船と汽船黄浦号だったというところだろう。アメリカとイギリスの権益を日本海軍は大陸侵攻の過程で攻撃したということになる。

 いくら三菱系の加藤高明や幣原が融和外交を目指しても、軍縮問題で高まるナショナリズムや、三菱自身が満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に事業を飛躍的に拡大させていったこともあり、もはや大恐慌時の世界では対米協調よりもいかにして生存圏を満州や華北から華中に見出すかという事が重要になっており、それは中国大陸における英米の権益を踏みにじる事で実行されたのだろう。

 そのようなナショナリズムの原動力になっていったのが、頭山満や内田良平であり、宗教的には田中智学や大本教の勢力だったと見ることが出来、それが昭和維新の正体だろう。その黒幕が田中光顕だと見ることができる。

 しかし、「軍閥化する日本」というのは言ってみれば、「タリバン化する日本」という意味であり、アメリカはそれをコントロール出来ないとなれば、すぐに切り捨てるはずである。国内では三井の要人を暗殺することで、間接的にロスチャイルドの代理人を次々と抹殺していった田中光顕のグループは三菱系であった。三菱には表と裏の顔があるのかもしれない。

 表の顔は加藤高明(岩崎弥太郎の長女と結婚)に代表される「対米協調」の三菱。裏の顔は田中光顕の率いる裏社会の三菱だ。鬼塚氏には、アメリカを支配してきたのがロックフェラーでイギリスを支配してきたのがロスチャイルドだという視点がないので、このあたりをすごく曖昧にしているという欠点がある。鬼塚氏にしてみると、みんなロスチャイルドなのだ。やはり、それは違うと思う。

 歴史にもしがあるならば、日露戦争直後の1905年に日本がハリマン(この当時のハリマンは、戦後暗躍したアベレル・ハリマンと違い、ロックフェラー系ではない)の満鉄共同経営を受け入れて大陸の権益を、イギリスやアメリカと分け合ったらどうなっていたかと考えたい。なぜ日本はドイツと急接近してアメリカのロックフェラー財閥が育てたヒットラーと同盟を結ぶことになったのか。

 私は、満洲事変後もリットン調査団が日本に融和的な報告書を出したというところに、私は中国大陸におけるイギリスとアメリカという新旧の覇権国の勢力争いというもう一つの構図があったのだと見ている。ところが、日本の右翼は、イギリスもアメリカもともに受け入れないで、権益を独占しようとした。

 だから、当然のようにイギリスもアメリカも日本を本当に敵国としていくようになったのだろう。日本のナショナリストが軍閥化して手に負えなくなれば、三井系も三菱系も関係なく、取り潰すという判断になったのだろう。それはアルカイダを育てて、要らなくなったら、戦場に送り込んで潰すという、アメリカの発想と似ている。

 戦後の三菱財閥が、徹頭徹尾、親米路線を貫くようになったのは、戦前の反省だろう。覇権国に逆らって中国大陸の利権を独り占めしようとして、中国大陸を混乱に陥れた日本軍閥の「失敗」を嫌というほど知っているのだろう。冷戦の激化による「逆コース」がないまま、GHQの財閥解体が貫徹されたら、三菱は存在しなかったかもしれないわけだから。逆コースの号令をかけたロックフェラー系のダレス国務長官に日本の経営者は頭が上がらないのだろう。

 三菱財閥の最後の総帥は、岩崎小弥太(1879-1945)だ。岩崎小弥太について三菱グループのウェブサイトは次のように解説している。

(引用開始)

 小彌太は若い頃英国に学び、周囲には国際的な考えの人も多かったが、なにせ国内では少数派だった。軍部若手将校らは自由主義外交と財閥を目の仇にし、五・一五事件や二・二六事件などで襲撃・暗殺を繰り返した。三菱銀行本店も三井銀行本店も襲撃された。国際情勢に通じていた小彌太は、親しい外交官や軍人には平和を維持すべしと主張していた。しかし世の大勢は変わらなかった。

 1941年12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾の米国太平洋艦隊を奇襲攻撃、太平洋戦争が始まった。開戦直後の予想以上の「大戦果」に国民は狂喜した。開戦二日目の12月10日、小彌太は三菱協議会(三菱系各社の最高幹部の集まり)を招集した。

 そのとき、彼はこう語った。

「今度の戦争は日本始まって以来の大事件だ。自分はこれまで国民の一員として政治外交上の問題にいろいろ意見を言ってきたが、ことここに至っては国の方向は明らかだ。こうなった以上は天皇の命令に従い一致協力して勝つために努力しよう」

 このあたりは、明治生まれの日本人の共通感覚である。また小彌太は男爵でもあり、天皇家を崇敬していた。だが、彼の志は次の言葉に表れている。

 「しかしこの機会に諸君に特に考えて欲しいことがある。第一は目前の情勢の変化に惑わされず常に百年の大計を立てて事に処して欲しい。この戦争は一時のことだ。何時(いつ)までも戦争が続く訳ではない。そう考えて大局を見て経営に当たって貰いたい」

「第二は英米の旧友を忘れるなということである。これまで三菱と提携してきた多くの英米の友人がいる。彼等とは今日まで事業の上で利害を共にしてきた。今や不幸にして戦火を交える両国に分かれたが、これによってこれまでの友情が変る事はありえない。国法の許す限り彼等の身辺と権益を保護すべきである。いつの日か平和が回復したら、また彼等と手を携えて、再び世界の平和と人類の福祉のために扶(たす)けあおう」
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/koyata/koyata02.html

(引用終わり) 

 このように見ていくと、三菱4代目の岩崎小弥太はまさか日本がアメリカと戦争することになるとは思っていなかったようだ。しかし、鬼塚氏が指摘することが確かなら、その三菱から金をもらっていた、田中光顕こそが日本を戦争に引きずり込んでいった責任がある一人である。

 軍閥化した日本を太平洋戦争で敗北させたことによって、アメリカは日本を再び軍閥化させずに、うまくアメリカの代理人としてコントロールするやり方を作り上げたということになる。しかし、軍閥の名残として、戦後も児玉誉士夫から血盟団事件の生き残りの四元義隆らの裏社会の人間は残って歴代首相と密接につながっていったし、アメリカも占領政策にそれを利用した。戦犯となった岸信介は首相となり、その孫の安倍晋三が今の総理大臣であり、安倍は岩崎小弥太が設立に寄与した成蹊学園の出身である。 安倍は長州・三菱の系譜にある総理大臣であるということになる。安倍晋三の周りを見れば、それこそ「ごろつき」と言って差し支えないような、早大雄弁会あがりの自民党の政治家がそばにいる。

 しかし、戦前の歴史は資料があまりにも少ない。残されている資料だけではどうせキレイ事しか描けない。鬼塚氏は残されている資料の断片をつなぎ合わせることで、怪物ともいうべき田中光顕という人物を中心に据えて明治から、大正、昭和初期に至るまでの権力闘争を描いた。かなり鬼塚氏の独創が入っている箇所も多い本だが、引用部分がしっかりしている部分も多いので、戦前の闇を研究する人には良い出発点になっているはずだ。

 「歴史の闇に挑戦すべし」と鬼塚氏は本書の最後のページに書き残している。

 しかし、それにしても資料が少なすぎる、と私は思わざるをえない。

 ただひとつ言えることは、私には、戦前の右翼民族派の活動と、今の「靖国神社に参拝せよ」と煽り立てる右翼団体や在特会のようなよくわからない右翼活動家たちの姿は、戦前の井上日召らの姿に重なって見えるということだ。そのような勢力は戦前の大本教とも地下水脈でつながる宗教勢力とも接点を持っているだろう。そういう勢力が安倍晋三を支持しているのだと見ると、アメリカが安倍政権を嫌に忌み嫌っているのがよく分かる気がするのだ。そのような過激な右翼勢力は現在、戦前のように社会の主流を占めては居ない。
 それが幸いといえば幸いだ。確かに、アメリカという覇権国は日本の政治に深く入り込んでいる。しかし、ここで激情に任せて右も左も分からないまま、反米運動をするのでは、おそらく戦前と同じ轍を踏んでしまうことになるだろう。

 要するに、今後も日本人は世界の権力構造のバランスオブパワーを理解し、その上でうまく立ち回っていくしか無い、ということだろう。結局、戦前の日本原理主義のような「ナショナリズム一辺倒」では失敗するということだ。世界の大勢を7割は受け入れて、民族固有価値を3割は主張する。これが副島隆彦の云う「七・三の構え」という考え方である。

 戦前の日本人がハリマンの満鉄共同経営を受け入れたり、リットン調査団報告書を受け入れるだけの度量の広さが無かったことが不幸だった。戦前に駐米大使をした、ジョゼフ・グルーはその日記に意味深いことを書き残している。

「日本人はポーカーが下手だ」

けだし名言だと言わなければならない。

(記事部分引用〆)

プロフィール 
田中光顕(たなか みつあき、天保14年閏9月25日(1843年11月16日) - 1939年(昭和14年)3月28日)は、日本の武士・土佐藩家老深尾氏家臣、官僚、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。
(資料ウィキぺデア)

 

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