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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

2015年08月

戦争のスタイルを変えた男フリッツ・ハーバー(ドイツユ、ダヤ人)
毒ガス開発 超臨界流体状態直接反応

フリッツ・ハーバー(Fritz Haber, 1868年12月9日 - 1934年1月29日)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。
妻「クララ・イマーヴァール」はともに科学者だったがハーバーと対立しピストル自殺。
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ハーバー・ボッシュ法(ハーバー・ボッシュほう、Haber–Bosch process)または単にハーバー法 (Haber process) とは、鉄を主体とした触媒上で水素と窒素を400 - 600 °C、200 - 1000 atmの超臨界流体状態で直接反応させ、N2 + 3H2 → 2NH3の反応によってアンモニアを生産する方法である。


 

右図のハーバーとボッシュが1906年に開発した合成法である。
窒素を含む化合物を生産する際の最も基本となる過程であり、化学工業にとって極めて重要な手法である。

反応過程
現代の工業化学では、メタンから不均一系触媒を使って単離された水素と大気中の窒素とを反応させてアンモニアを合成している。

水素の合成
まず、メタンを精製して触媒を失活させる硫黄分を除去する。約800 °C、3 MPaで精製したメタンを酸化ニッケル(II)を触媒として水蒸気と反応させる。これは水蒸気改質と呼ばれる。
CH4 + H2O → CO + 3H2
水素量に対応する化学量論量の窒素を含有するだけの空気を加えて、水蒸気改質で残存したメタンを酸化させる。水素の一部も燃焼する。いずれも大きな発熱反応であり、発生した熱(およそ1000 °Cに達する)を利用して水蒸気改質に用いる高温高圧の水蒸気を得る。
2CH4 + O2 → 2CO + 4H2
CH4 + 2O2 → CO2 + 2H2O
2H2 + O2 → 2H2O
高転化率と高い反応速度を両立するため、Fe-Cr系触媒とCu-Zn系触媒を用いた二段階の水性ガスシフト反応によって、一酸化炭素と水蒸気から二酸化炭素と水素を得る。本反応は平衡反応であるため、濃度0.5%程度の一酸化炭素が残存する。
CO + H2O → CO2 + H2
炭酸カリウム水溶液により、二酸化炭素を除去する。生成した炭酸水素カリウムは再生塔で炭酸カリウムに再生される。
CO2 + K2CO3 + H2O → 2KHCO3
混合気体はメタン化炉へ送られ、ニッケル系の触媒を用いて、アンモニア合成反応で触媒毒になる一酸化炭素を10 ppm以下までメタン化により除去する。
CO + 3H2 → CH4 + H2O

アンモニア合成 - ハーバー法
最後に二重促進鉄を触媒としてアンモニアを合成する。
\mathrm{N}_2 \, \mathrm{(g)} + 3 \mathrm{H}_2 \, \mathrm{(g)} \rightleftharpoons 2 \mathrm{NH}_3 \, \mathrm{(g)}, \quad \Delta H^o = -92.4 \,\mathrm{kJ \cdot mol} ^{-1}

この反応は約20 MPa、約500 °Cで行う。触媒を通した後アンモニアは-33 °C程度まで冷却され、液体の状態で排出し適当な平衡定数を維持する。未反応の水素と窒素は循環し再び触媒床に通される。
なお、尾崎、秋鹿らによりハーバー法よりも温和な条件でアンモニアを合成できるルテニウム触媒を用いた合成法が確立されている。
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画像 2015/8/22の朝日


ハーバー法を成功させた鍵の1つは、化学平衡を有利にし、かつ高い反応速度を得るために必要な高温高圧反応装置を開発できたことであり、もう1つは反応を促進する触媒を開発できたことである。
窒素分子は非常に強い窒素原子間結合を有しているため、極めて反応性に乏しい。実際、多くの場合、不活性ガスとして取り扱われる。従って、窒素分子を活性化できる触媒の開発が極めて重要であった。

フリッツ・ハーバーらは鉄鉱石(酸化鉄を主体とし、酸化アルミニウム、酸化カリウムを含む)を触媒に用いた。
このとき注意すべきことは、酸化鉄を触媒として装填するが、実際に反応しているのは水素によって還元されて生じた単体の金属鉄であることである。酸化アルミニウムは還元されず担体として鉄の単体がシンタリングするのを防ぎ、酸化カリウムは塩基として鉄に電子を供与して触媒能力を高めている。これらの作用から二重促進鉄触媒と呼ばれる。これらの機構は後にゲルハルト・エルトルにより解明された。

二重促進鉄触媒は、触媒開発を担当したアルヴィン・ミタッシュ(英語版)により見出された。ミタッシュは、様々な鉄鉱石を触媒として用いたところ、スウェーデン産の磁鉄鉱が非常に高い活性を示すことを発見した。そしてさらに検討を重ね、微量のアルミナとカリウムが必要であると結論付けた。この結論に至るまで、ミタッシュは約2万種類の触媒を試したと言われている。

ドイツのフリッツ・ハーバー、カール・ボッシュによるこの方法は、水と石炭と空気とからパンを作る方法とも言われた。
小麦の育成には窒素分を含む肥料の十分な供給が不可欠だが、痩せた氷河地形で土壌が未発達な土地が多いドイツでは、小麦の栽培は困難で、主要な穀物生産は硝石などの海外産窒素肥料の輸入によるか、痩せた土壌に強いライ麦に頼る、あるいは穀物の代替品として新大陸産のジャガイモに頼らざるを得なかった。

本法によるアンモニア合成法の開発以降、生物体としてのヒトのバイオマスを従来よりもはるかに多い量で保障するだけの窒素化合物が世界中の農地生態系に供給され、世界の人口は急速に増加した。現在では地球の生態系において最大の窒素固定源となっている。

しかしこの方法は同時に平時には肥料を、戦時には火薬を空気から作るとも形容され、爆薬の原料となる硝酸の大量生産を可能にしたことからその後の戦争が長引く要因を作った。例として、この方法でドイツは、第一次世界大戦で使用した火薬の原料の窒素化合物の全てを国内で調達できた。
さらに、農地生態系から直接間接双方の様々な形で、他の生態系に窒素化合物が大量に流出しており、地球全体の生態系への窒素化合物の過剰供給をも引き起こしている。この現象は、地球規模の環境破壊の一端を成しているのではないかとする懸念も生じている。
ハーバーは本法の業績により1918年にノーベル化学賞を受賞したが、第一次世界大戦中にドイツの毒ガス開発を主導していたために物議を醸した。またボッシュは本法を応用した高圧化学反応の研究により1931年に同賞を受賞している。

井上馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。

幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(もんた、ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。

政界から引いた後、一時は三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと復帰し、辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、伊藤に説得された大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年(1875年)の大阪会議を実現させた。同年に発生した江華島事件の処理として翌明治9年(1876年)に正使の黒田清隆と共に副使として渡海、朝鮮の交渉に当たり2月に日朝修好条規を締結した。
6月に欧米経済を学ぶ目的で妻武子と養女末子、日下義雄らと共にアメリカへ渡り、イギリス・ドイツ・フランスなどを外遊、中上川彦次郎、青木周蔵などと交流を結んだが、旅行中に木戸の死、西南戦争の勃発や大久保の暗殺などで日本が政情不安になっていることを伊藤から伝えられ、明治11年(1878年)6月にイギリスを発ち7月に帰国した。

明治34年(1901年)の第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業に入ったが、大蔵大臣に大蔵省時代からの右腕だった渋沢栄一を推したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと判断した井上は大命を拝辞するに至った。

組閣断念の理由について、歴史家の村瀬信一は渋沢を初めとする財界が政治との関わり合いを嫌ったこと、同じ長州派の伊藤と山縣有朋が憲法、軍事で成果を上げ、それぞれ立憲政友会、官僚集団といった基盤を備えていたことに対し、外交・財政いずれも功績を残せず、政党と官僚閥とも繋がりがなく、財界以外に基盤がない点から内閣を諦めたと推測している。

大命拝辞した後は後輩の桂太郎を首相に推薦、第1次桂内閣を成立させた。桂政権では日露戦争直前まで戦争反対を唱え、明治36年(1903年)に斬奸状を送られる危険な立場に置かれたが、翌37年(1904年)に日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集、日本銀行副総裁高橋是清を通してユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから外債を獲得した。

明治40年(1907年)侯爵に陞爵した。明治41年(1908年)3月に三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した時に尿毒症にかかり、9月に重態に陥ったが11月に回復、明治42年(1909年)の伊藤の暗殺後は西園寺公望や松方正義などと共に元老として、政官財界に絶大な影響力を持った。

明治44年(1911年)5月10日、維新史料編纂会総裁に任命された。
明治45年(大正元年・1912年)の辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助、大正2年(1913年)に脳溢血に倒れてからは左手に麻痺が残り、外出は車椅子の移動となる。

大正3年(1914年)の元老会議では大隈を推薦、第2次大隈内閣を誕生させたが、大正4年(1915年)7月に長者荘で体調が悪化、9月1日に79歳で死去した。葬儀は日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区西麻布の長谷寺と山口県山口市の洞春寺に埋葬された。戒名は世外院殿無郷超然大居士。

生前から井上の生涯を記録する動きがあり、三井物産社長の益田孝と井上の養嗣子勝之助が編纂して大正10年(1921年)9月1日に財政面を主に書いた『世外侯事歴 維新財政談』が上・中・下の3冊で刊行された。
昭和2年(1926年)に勝之助の提案で井上の評伝を作ることが決められ、昭和8年(1933年)から翌9年(1934年)にかけて全5巻が刊行された。
また、これとは別に伊藤痴遊が明治41年に井上の快気祝いとして評伝『明治元勲 井上侯実伝』を、大正元年に『血気時代の井上侯』を出版している。
(資料ウィキぺデア)

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経済あれこれ
久原房之助  2010-07-28 03:00:20 | Weblog
久原房之助が創始した久原鉱業所と言っても現在知る人はほとんどない。
しかし日産自動車、日立製作所、ジャパンエナ-ジ-は現在の日本を代表する企業である。房之助はこれらの会社を創立したというより、その基礎を作った。
同時に彼は明治末から大正時代にかけて出現した、富豪・成金の代表でもある。
鉱山開発で巨万の富を作り、それを公私両面にわたって蕩尽したことは事実。一時期彼の資産は2億5000万円とも言われた。

久原家は長州(山口県北部)の須崎で庄屋を務め、益田藩の財政にも関与し、苗字帯刀を許された御用商人だった。益田氏は長州毛利藩の家老で12000石を給され、その支配地は自治を許されていた。ここでは便宜上益田藩と呼びますが、幕府法制上正式な呼称ではない。

1956年(文久2年)久原家当主半平は暗殺されます。益田家の仕業です。さらに米買占の悪評を立てられ、藩民から白眼視される。
半平の養子である庄三郎はすぐ、須崎を捨てて萩に移り、そこで商売を始めた。房之助は萩で1969年(明治2年)に生まる。
庄三郎の商売はなかなかうまく行かなかった。庄三郎の実家である藤田家の三男伝三郎はすでに大阪に出て事業を始めていた。

藤田伝三郎についてはすでに述べてある。1874年(明治7年)久原庄三郎は弟の伝三郎を頼り大阪に出る。
同年藤田三兄弟、藤田鹿太郎、久原庄三郎、藤田伝三郎が、藤田組を立ち上げた。
一応兄弟会社になっているが、実権者は末弟の伝三郎だった。伝三郎達は長州閥の人脈をたどり、大阪鎮台の司令官山田顕義から軍靴製造を委託される。
これが藤田組成功の第一歩である。
西南戦争では軍靴製造に加えて、人夫の手配と輸送を請負、組発展の基礎を築いた。
西南戦争では、運輸は岩崎弥太郎、人夫手配は西の藤田に、東の大倉が引き受ける。岩崎、藤田、大倉とも以後富豪・財閥として栄えたが、発展の基礎は、西郷隆盛が画策した西南戦争がきっかけだった。

西南戦争では莫大な戦費が投入され、政府は紙幣を乱発する。
借金して事業をし、儲けたら、下がった価値の紙幣で払う、二重三重の儲けになという算段である。1881年(明治14年)藤田組は資本金6万円、内藤田伝三郎3万円、藤田鹿太郎と久原庄三郎各15000円の持分で同族会社を正式に作った。
 
1879年(明治12年)萩に残されていた房之助母子達は大阪に移住する。
同年藤田組最大の事件(災禍)が起った。当主の伝三郎に紙幣贋造の疑いがかかり、多くの幹部が逮捕され、厳しい取調べを受ける。結果は無実たが、これは西南戦争で長州閥に遅れをとった薩摩閥の陰謀のとみられていた。藤田伝三郎が懇意にしていた井上馨追い落としが意図されていた。

この井上馨という人は、明治経済界のどこにでも顔を出す人で、裏工作の専門家であり、経済界の重鎮として通っていた。

 房之助は1880年、12歳で東京商法講義所に入学。この商法講義所は後に、東京商業学校、東京高等商業学校、そして現在の一橋大学になる。3年後卒業、実務に早く就く事を希望する父親庄三郎に嘆願し、福沢諭吉に憧れて慶応義塾に入る。3年後卒業、房之助は森村市左衛門の作った森村組に押しかけ就職をした。始め森村は房之助のような金持の子弟は使い物にならないと就職依頼を拒絶した。

房之助は強引に嘆願して、神戸支店倉庫係に採用される。彼の勤務振り、特にその仕事処理の独創性を支店長から聴いた森村は、房之助を抜擢して、ニュウヨ-ク支店勤務を命じた。

房之助は欣喜雀躍するが、ここで強力な反対に出会た。藤田組の後援者である、井上馨の反対です。藤田組の御曹司がなぜ藤田組に入らないのだ、と井上は言う。井上の言葉には伝三郎ですら逆らえなかった。なくなく房之助は森村組を辞した。房之助が遣られたところは、秋田県小坂にある小坂銀山だった。しかしニュウヨ-ク行き挫折に対する無念は終生彼の人生について回っていた。

1891年(明治24年)22歳、房之助は小坂鉱山に赴任した。彼の月給は10円、鉱夫でも8円。小坂鉱山は戦国時代から銀山として有名たが、当時掘りつくされ、藤田組としては廃坑か売却を考えていた。
房之助はニュウヨ-ク行きを断念した結果が、廃坑の後始末ではかなわないと思い、なんとか鉱山の再生を考える。
銀鉱は掘りつくしたが、黒物(黒鉱)は充分にあった。黒鉱とは、銅、鉄、鉛、亜鉛、硫黄に少量の金銀を含む複合物。これをなんとかできないかと房之助は考えた。

特にそこから銅を抽出する事を考える。東大工学科卒の新進気鋭の武内雅彦を迎え、彼の卒業論文のテーマは自溶製錬法である。最新式の精錬法です、自溶精錬法とは、燃料を加えることなく、鉱石内部の成分の燃焼で製錬する方法。この方法なら燃費もかからず、幾多の実験の末に、精錬は成功した。
藤田組本社では房之助は廃坑に努力していると思っていた。房之助はこの本社の方針を、覆そうとする。ついに井上馨に応援を求めね明治31年の銅生産額は360トン、翌年は833トン、産額はどんどん増加し明治39年には7000トンを超る。産出額総体は現在の金額に直すと1000億円と想像された。小坂鉱山は銀山から銅山に生まれ変わったのである。 
 
この間藤田組本社は経営危機を迎えていた。
鉱山開発や工事請負、投機に手を広げすぎて、失敗が多く多額の借金を抱えていた。井上馨の斡旋で毛利家から金を借りまる。
数度に分けて総計200万円以上の借財を毛利家から負う。
当主伝三郎以下の幹部の俸給も制限され、経営権は毛利家に移った。
房之助の小坂鉱山での成功により藤田組の借財はなくなった。

併行して藤田三兄弟の間で財産分与をめぐっての争いが起る。当主の伝三郎家に財産管理を集中する企てが進行していた。すでに久原家の当主になっていた房之助は反対し、結局房之助は470万円を分与され、藤田組から分かる。小坂鉱山を成功させ、藤田組の危機を救った彼としては不本意であった。

鉱山経営、財産争い、本社の危機など多事の中、明治33年31歳、房之助は鮎川弥八の次女清子と結婚する。彼女の兄が後に日産コンツエルンを作った鮎川義介。
鮎川についてはすでに彼の列伝で述べてある。
また鮎川兄妹の母方の叔父が、今まで再々出てきた井上馨である。なお房之介は正式に結婚する以前から、彼はある女性との間に一女を設けていた。
この娘「久子」が後石井光次郎と結婚し、その間にできた娘が、シャンソン歌手で有名な石井好子である。
このようにして久原家は二重三重に長州閥で囲まれていた。また房之助は別に球子という女性との間にも多くの子を作っている。昭和17年、後年清子は房之助と協議離婚した。3人の女性に産ませた子供や孫達は房之助の屋敷に集まり、みな仲良くしていたと言う。久原家は解放的なそしてかなり猥雑な家風であったと想像された。
 
1905年藤田組を退社した房之助は、茨城県の赤沢銅山の売買契約を締結し、久原鉱業日立鉱山の名に変更して、鉱山経営に乗り出す。
この時三井銀行から50万円の融資を受け、仲介者は例の井上馨である。
房之助は鉱山経営にすべて斬新な方針で臨みた。まず発電所を造り手掘りをやめて、削岩機を使い機械掘りにし電気鉄道を鉱山全体に走らせる。さらに鉱山と常陸海岸の間に、中央買鉱製錬所を作った。
これは将来鉱山の産出額が低下した場合、他の鉱山から鉱石を買って、製錬するためである。またダイアモンド式試錘機を使い、試錘探鉱を行う。断層にぶち当たるが、なんとか鉱脈を探し、鉱山開発に成功する。

房之助を慕って、多くの人材が日立に来た。彼らの内重要な人物は小平浪平と竹内雅彦だった。
小平は発電機の修理を担当していた。そのうち自分で発電機を作るようになり、機械を組み立てた。
房之助はあまりこの方向には関心がなく賛成ではなかつたが、小平の試みを黙認していた。
小平の試みは発展し、1912年久原鉱業日立製作所の開設に至る。
現在の日立製作所である。竹内雅彦は後に経営危機に陥った久原鉱業を受けつぎ、この会社は現在のジャパンエナ-ジ-になる。

日立鉱山は開業3年目くらいから経営は軌道に乗り、銅の産出額は増加し続け、1916年(大正5年)には37000トンを産出している。
第一次大戦で銅の需要は急増し銅価は上昇し房之助は大富豪になる。盛時における彼の資産は約2億5千万円になると推測されていた。
当時の国家予算がだいたい10億円ですから、彼の資産は国家予算の25%になる。現在の規模に換算すれば25兆円に昇ります。まさに大富豪だ。
また大戦景気に乗っているので成金でもあり久原家の故地須崎に行き、公園や埠頭に波止場などの大規模な寄付を行っている。

房之助の祖父半平の非業の死と、言われ無き悪評の払拭、町民の冷眼視への反発、そして成功顕示などいろいろな気持が混ざっていた。
しかし須崎町民の反発は一部には残っていたようで、房之助の寄付行為の記録は一切ない。
政界への寄金もし、亡命していた孫文にも300万円政治資金を融通している。東京、大阪、京都そして神戸に豪邸を作った。
すべて10000坪以上の規模である。成金がするように不必要なほどに贅をこらした。大阪中ノ島に豪壮な本社を造る。突起すべきは山口県下松(くだまつ)に造船所を造る構想を持ったこと。土地はどんどん買い占め市民も大喜びした。

造船所から発展して、機械製作に進み、日本のクルップになるつもりだった。しかし大戦勃発のために、アメリカが鉄鋼の輸出を禁止したために、この計画は無しになる。
房之助は京浜海岸に臨海工業地帯を作る計画も経ていた。これらの計画は房之助自身の手にはならなかった。小平浪平の日立製作所が代表だが、京浜臨海工業地帯も事実上出現しています。

第一次大戦を機に房之助は、海外開発、商事部門の設立、そして重工業機械工業への進出を試みる。銅の価格は変動する。それに対処するために、彼は以下のような処置をとつた。
価格が低迷している時は、設備の改善に尽くす、価格が上がったら増産する。このやり方は為替についても応用でる。円高になったら設備改善に努め、研究に投資し、円安になったら増産して輸出する。

第一次大戦の2ヶ月前までが、房之助の絶頂期だった。彼は欧州戦線の動向に常に注視していた。戦争が終わりそうな時に経営を縮小する予定だった。欧州各国に派遣した駐在員は「戦争終結近し」と判断したら、「プラチナ高い」という暗号電報を送るべく、指示されていた。終戦の2ヶ月前にこの電文は届きます。
しかしなんの事か解らない新米社員はこの電文を無視する。そのために久原鉱業は終戦に備える事が出来ず、大損をした。しかしこの話はおかしい。

本当にそうなら久原鉱業の幹部は房之助も含めてぼんやりしていた事になる。この前後房之助は腸チブスを患い生死の境にあった。気力体力共に低下し、生死の問題であるから、会社どころではなかった。
当時この病気は死に至る病である。抗生物質もない。病原菌と本人の体力との勝負だけだ。しかし腸チブス原因だけでは説明できないものが残る。
要は房之助の性格と思われた。
彼には財産防衛という考えはない。儲けたら儲けただけ蕩尽するタイプ。三井三菱住友また藤田組のように家訓を作り、当主の恣意を掣肘し、同時に当主中心に資産が集まるような、処置を房之助はしていなかつた。金融業にも熱心ではなかった。

経済人としての久原房之助はここまでだつた。彼は急速に事業経営に関心を失い彼のロマンをかなえそうなものは政治である。
久原鉱業は義兄の鮎川義介に委ねる。鮎川は北九州ですでに若干の工場を経営していたが、危機に陥った久原鉱業を引き受け、そこから後に日産コンツエルンといわれる一大重化学工業の結合体を作り上げた。この中で一番有名なのは日産自動車です。
 
1928年(昭和3年)立憲政友会に入党する。同郷の宰相田中義一の勧めだった。山口一区から出馬して当選し、そのまま逓信大臣になる。1931年政友会幹事長に就任。この出世の速さはやはり彼が抱える資金によるものだった。少なくとも彼には日産と日立が背後にあった。

1936年(昭和11年)2・26事件に巻き込まれ、謀議の疑いで逮捕される。約8ヶ月収監され、証拠不十分で無罪になる。有罪なら死刑は免れない。普通ならこの辺で政治生命は絶たれるのだが、1939年(昭和14年)政友会総裁に推される。
もっとも彼がしたことは、政友会の解散だった。大政翼賛会のさきがけを務めたようなものだった。

2・26事件での入獄から帰った時、房之介の債務は約1億円だった。鮎川他が解決に努力する。房之助は20年の年賦で返却する事を約束する。この時点で彼は69歳だった。本当に返却を信じた者はいたのだろうか。しかし20年後の昭和32年房之助は債務のすべてを返した。そして彼自身には井戸と塀のみが残った。
 
戦後A級戦犯に指定されかける。房之助が孫文に贈った300万円のおかげで指定を免れた。普通なら昭和24年に解除だが、勝手に私有地を売却し、公職違反の規定に反し、さらに2年解除を延長される。戦後も代議士になった。しかし房之助の影響力を恐れた吉田茂の反対で入党はつぶされた。一時期久原内閣という噂もあったくらいだ。

昭和40年、97歳で死去。堂々たる大往生。彼が基礎を作った会社は主なもので4つある。日産自動車、総合電機メ-カ-の日立製作所、石油開発精製・石油化学のジャパンエナ-ジ-、非鉄金属開発加工・電子部品製造の日鉱金属。すべて久原鉱業の分家だ。そしてこれらの永続する堅実な企業は房之助の親族や部下により受けつがれて発展した。
「参考文献 惑星が行く、久原房之助伝」


牧 相信の面影 -Biglobe
同じ頃、藤田組は小坂鉱山や大森銀山(石見銀山)の払い下げも受けており、その資金は長州毛利藩から20万円の借金をした。 明治23年1月の藤田組から共同鉱山への譲渡の復命書に「・・翌廿七日 藤田伝三郎代理人 木村復次 牧相信 及関係人 河端熊助」
(記事引用)

常陸の鉱山開発.1
日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。
久原の経営開始以後大きく発展し、1905年(明治38年)から閉山となった1981年(昭和56年)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなった。

日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成され、また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生しており、日立鉱山は日本の近代産業史に大きな足跡を残している。
日立鉱山の南隣には硫化鉄鉱を主に産出した諏訪鉱山があり、1917年(大正6年)に久原鉱業によって買収された後は日立鉱山の支山となり、1965年(昭和40年)の閉山まで稼動が続けられた。ここでは日立鉱山とともに諏訪鉱山についても説明を行う。

日立鉱山は宮城県南部から福島県東部、そして茨城県の太平洋側に沿って広がる阿武隈山地の南端部に位置している。日立鉱山がある付近の阿武隈山地は、高いところでも標高600メートル程度のなだらかな山地である。鉱山は宮田川の上流部に当たる赤沢谷に沿って開発が開始され、1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた。

宮田川は源流から太平洋に注ぐ河口まで約8キロという短い河川で、日本の多くの鉱山が交通の不便な山地深くに位置しているのに比べて、日立鉱山は恵まれた場所に存在していた。事実、日立鉱山の開発が本格化する以前の1897年(明治30年)には、日本鉄道によって常磐線が水戸駅から平駅まで延伸されており、また日立港も1967年(昭和42年)に重要港湾に指定されるなど鉱山に比較的近接した場所に整備され、交通の便の良さは日立鉱山の歴史に大きな影響を与えることになる。しかし鉱山の中心部は小河川である宮田川上流部の標高約300メートルの谷間にあり、精錬などの鉱山経営や鉱山で働く人々が使用する水の確保には苦労し、宮田川の支流などから貯水池に導水したり、鉱山内から湧出する水を浄化して用いるなどの対策を行った。

明治以前の歴史 佐竹氏と鉱山開発
 
常陸の戦国大名であった佐竹氏は、16世紀末には常陸の統一をほぼ成し遂げ、領内の鉱山開発を進めた。1592年(文禄元年)の文書には、現日立市内の大久保で金を採掘した記録が残っている。大久保の金山は佐竹領内でも主要金山であったと考えられており、日立鉱山の前身に当たる赤沢鉱山でも16世紀末から金の採掘を開始したとの説がある。
これは日立鉱山の赤沢鉱床に佐竹坑と呼ばれる坑道が残っていることや、大久保という地名は16世紀の末頃、かなりの広さを持った地域を指していたと推定されることなどから唱えられている説である。しかし資料の上からは16世紀末に日立鉱山の操業が開始されたことは確認されていない。
佐竹氏は領内の鉱山開発に積極的であったが、関ヶ原の戦いの結果、1602年(慶長7年)に秋田へ転封となった。その結果、常陸から鉱山の経営主体であった佐竹氏がいなくなったのみならず、鉱山開発と経営を担っていた技術者たちも移動してしまった。後述のように水戸藩が領内の鉱山経営に積極的に乗り出すのは1620年代の寛永年間以降であり、佐竹氏の転封から寛永年間までの間に鉱山は衰えていたと考えられる。

水戸徳川家時代の赤沢銅山

画像 赤沢銅山で産出された銅で鋳造されたとの説がある、1626年(寛永3年)水戸で鋳造が開始された二水永タイプの寛永通宝

1609年(慶長14年)からは水戸徳川家(水戸藩)の統治が始まった。現在の日立市内では水戸藩時代も金山の採掘は断続的に続けられたが、18世紀末にはほぼ休止状態となった。

1620年代の寛永年間に入り、水戸藩は領内の鉱山開発に積極性を見せるようになる。これは寛永年間には水戸藩の領国支配も安定し、1625年(寛永2年)には水戸城の修築と拡張を始めるなど、領国経営に本格的に乗り出せる状況が整ったことによる。そのような中、1625年(寛永2年)頃から赤沢銅山で銅の採掘が行われるようになった。
1626年(寛永3年)には水戸で寛永通宝の鋳造が開始されるが、赤沢銅山で採掘された銅が寛永通宝の鋳造に用いられたとの説もある。1639年(寛永16年)には赤沢銅山に銅山奉行が設置されるが、その後まもなく銅の採掘は中止に追い込まれる。
また寛永年間からの赤沢銅山の稼動によって、近隣の農村は鉱毒水による大きな被害を受けたものと考えられる。このことは江戸時代の赤沢銅山の稼動が困難となる要因となった。

1640年(寛永17年)、戦国時代に甲斐の黒川金山(甲州市塩山)の採掘に従事した金山衆の子孫である永田氏の当主である永田茂衛門が水戸藩に来て、治水や鉱山の開発に従事するようになった。永田茂衛門とその息子である永田勘衛門は17世紀後半、水戸藩内で鉱山開発を盛んに行うことになる。
17世紀後半に入ると水戸藩は財政的に苦しくなってきており、鉱山開発を行うことにより藩の財政を好転させるもくろみがあった。
1692年(元禄5年)に永田勘衛門が水戸藩内の鉱山の調査結果と開発策をまとめた「御領内御金山一巻」という文書によれば、永田茂衛門と永田勘衛門は3度に渡って赤沢銅山の開発に乗り出したことがわかる。
しかし赤沢銅山には銅の鉱脈が豊富に存在するものの、採掘によって発生した鉱毒によって再び周辺の水田に被害が発生したことに加えて、銅の価格の低下と精錬用の炭の価格が高騰して採算が取れないため、最終的に開発は断念された。

18世紀に入り、宝永年間に赤沢銅山の再開発を行い、赤沢銅山で産出された銅で貨幣の鋳造を行う計画が立てられた。この計画は江戸幕府の認可を受けることに成功し、江戸の商人から資金の提供を受けて事業が開始された。豪商であった紀伊国屋文左衛門もこの事業に参画したと考えられるが、やはり鉱害が発生して周辺の水田に害をもたらしたことと、利益を挙げることが出来なかったために短期間のうちに事業中止に追い込まれた。
また当時農村地帯であった赤沢銅山周辺に生活習慣の異なる鉱山労働者たちが集まったことによって、住民と鉱山労働者との間に摩擦も発生した。
その後18世紀後半に2回、赤沢銅山の採掘が計画されたが、いずれも鉱害問題から許可を受けられなかった。またやや確実性に欠ける資料であるが、1773年(安永2年)に幕府の許可を受けて赤沢銅山の採掘を再開したが、鉱石の質が悪くて採算が取れず、4年で中止となったとの記録も残っている。いずれにしても赤沢銅山が江戸時代には採算が取れなかったことと、鉱山操業時に発生した鉱毒被害のために開発が規制される傾向にあったことが、赤沢銅山が江戸時代に大きく発展することがなかった理由と考えられる。

幕末の1861年(文久元年)、多賀郡の大塚源吾衛門が水戸藩に赤沢銅山の開発許可を申請した。1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結され、銅は日本からの主要輸出品の一つとなっていた当時の状況から、水戸藩は大塚の申請を許可した。
この時も鉱害被害の発生を懸念した近隣住民から鉱山再開発に反対する声が上がったが、水戸藩は以前よりも技術が進歩していることを説明し、更に鉱害が発生した場合には大塚源吾衛門に補償させるとして住民を説得した。
大塚の赤沢銅山の経営は比較的順調で、「銅山会所」「大塚会所」などと呼ばれるようになった。
これは赤沢銅山で産出される銅を水戸藩の専売品とするばかりではなく、銅の生産そのものを藩の統制下に置くために会所という組織を取らせることになったものと考えられる。
しかし1864年(元治元年)に発生した水戸藩内の内紛である天狗党の乱の際、天狗党の田中愿蔵が逃亡途中に赤沢銅山会所に食料の援助を要請したところ大塚源吾衛門が拒否したため、田中愿蔵は鉱山の生産設備を破壊した上に火を放ったため、赤沢銅山の経営は中断された。

日立鉱山の誕生

久原房之助の登場

久原房之助は1869年(明治2年)山口県萩市に久原庄三郎の三男として生まれた。久原庄三郎は藤田組の創始者である藤田伝三郎の実兄で、藤田伝三郎と久原庄三郎、そして二人の実兄である藤田鹿太郎の兄弟3人が出費して1881年(明治14年)に設立された藤田組は、軍用物資の調達や土木建築業から1884年(明治17年)には小坂鉱山の払い下げを受け、その後鉱山業を中心として多角的な事業展開を行う財閥へと成長した。

久原房之助は1891年(明治24年)に小坂鉱山に赴任し、精鉱課長や坑業課長など主に採鉱や精錬の現場で実績を積み、1900年(明治33年)に小坂鉱山の所長に就任した。当時、小坂鉱山は日本有数の銀の産出量を挙げていた鉱山であったが、銀の価格の低落と生産コストの増大で次第に経営が困難になっていき、その上、1897年(明治30年)の金本位制の復帰によって銀の価格は更に低落し、小坂鉱山は閉山の危機を迎えていた。

久原は当時、組成が複雑であるために精錬が困難で利用されずに放置されていた黒鉱に着目した。後に日立鉱山でも久原を助けることになる竹内維彦を招聘し、黒鉱の精錬法の研究を重ねた結果、1900年(明治33年)黒鉱から銅を精錬することに成功し、小坂鉱山は銀山から日本有数の銅山として蘇った。なお久原房之助のもと、小坂鉱山で働いた人物としては、竹内以外にも後に日立製作所を創立する小平浪平などがおり、多くの有能な人材が日立鉱山の創成期に活躍することになる。

小坂鉱山の再建に成功した久原房之助は、1904年(明治37年)に小坂鉱山から大阪の藤田組本社に戻り、翌1905年(明治38年)3月には父、庄三郎が隠居をしたため久原家の家督を引き継ぎ、藤田組の取締に就任する。しかし叔父である藤田伝三郎と藤田組の後継問題を巡り対立し、もともと独立して事業を興す機会を窺っていた久原は分与金の配分を受けて藤田組を退社することになり、1905年(明治38年)12月10日、正式に退社した。

藤田組で働いている最中から久原房之助は独自の事業展開をもくろみ、国内の鉱物資源について広く調査を行わせていた。そんな久原が目をつけたのが赤沢銅山であった。当時赤沢銅山を経営していた大橋真六と松村清吉、常二の親子は経営難と鉱害問題での周辺住民とのトラブルなどで経営の意欲を失いつつあった。

久原は赤沢銅山の売却希望を聞きつけると、ただちに竹内維彦らを調査のために派遣した。調査の結果、既知の鉱脈以外にも多くの鉱脈の露頭を発見し、推定埋蔵量約100万トンの有望な鉱山であることを予想した。
調査に当たった竹内らは久原房之助に購入を進言し、その結果藤田組を退社した翌日である1905年(明治38年)12月11日、久原は赤沢鉱山を購入した。12月26日には赤沢銅山の名は鉱山の所在地である日立村にちなんで日立鉱山と改められた。竹内維彦らがその将来性を評価して久原房之助に購入を勧めた結果、日立鉱山は久原房之助が所有することになったが、実際の日立鉱山は閉山までに約3000万トンの鉱石を採掘しており、竹内らの予想を遥かに上回る規模の鉱山であった。

創業時の苦心

日立鉱山創業当初、久原房之助が起居した久原本部。現在、日鉱記念館敷地内に移築保存されている。
藤田組から独立して日立鉱山を購入した久原房之助は、まず1906年(明治39年)1月1日に鉱山事務所の規則や勤務心得を作成するなど鉱山の組織を整備し、続いて2月には第一立坑の開鑿を開始し、鉱山附属の診療所を開設した。
続いて9月には里川の水利権を茨城電気会社より取得して、中里発電所の建設を開始するなど矢継ぎ早に鉱山の整備を進めた。
また赤沢鉱山時代に地域住民との間でトラブルになった鉱山近隣の森林伐採問題についても、鉱山事業拡張のための用地確保と建築資材を入手するために森林伐採を行うことを計画した。
久原は住民たちと交渉を積極的に進め、その結果森林の伐採を行う補償として毎年200円を支払うことと、15本の井戸を掘る代金として300円を支出することを条件に保安林の指定解除で合意し、保安林指定を申請した地元住民の名で指定解除の申請が茨城県知事に出され、1906年(明治39年)9月に県より保安林解除の告示がなされた。
このように日立鉱山の創業直後から精力的な鉱山開発が行われていったが、当初、生産は上がらず、その上5月には赤沢銅山以来の従業員が久原の鉱山経営に反発し、同盟罷業を行う事態が発生した。

また藤田組から離れるにあたって久原が受け取ることになった分与金は470万円余りであったが、これは10年分割で支払われることになっていた。久原は赤沢銅山の購入に総計42万円余りを費やしており、創業直後の日立鉱山の経営や積極的な鉱山開発を進めていくためにはどうしても資金の調達が必要になった。

しかし当時の財界は久原のことを重く見ていなかったため、資金調達にも悩まされることになった。小坂鉱山での実績があるといっても、久原はまだ独立して事業を開始したばかりの30代の青年であったわけで、これはやむを得ないところであった。そこで父、庄三郎以来の交流があり、久原房之助のことを高く評価していた長州閥の大物、井上馨の援助を仰ぐことになった。
しかし井上も当初ものになるかどうかわからなかった日立鉱山に対して無条件で援助をするはずがなく、鉱山開発の具体的プランと将来性を証明する具体的な資料を求めてきた。
久原の手によって開発が開始されたばかりの日立鉱山に、井上を納得させることが出来る開発の具体的プランや何といっても将来性を証明する具体的な資料があるわけはなく、久原は自ら採掘現場に出向き、坑夫らとともに採掘に従事して現場から井上が求める具体的な資料を入手しようとも試みたという。

そこで久原はやはり父の代から取引があった鴻池財閥の援助を求めることになった。鴻池は融資について承諾はしたが日立鉱山の経営の参画を強く求め、その結果1906年(明治39年)5月、毛利家の鉱山経営の実績があった神田礼治を日立鉱山の所長として送り込んできた。

しかし積極的に日立鉱山を開発しようとする久原と堅実な開発を志向する神田は激しく対立するようになり、断層によって鉱脈が途切れ、日立鉱山には見込みがないと判断した神田は鉱山開発中止を久原に進言するに至り、結局1907年(明治40年)3月、一年足らずで神田は所長を辞任することになる。また神田とともに日立鉱山にやってきた中堅の技術者たちも全員辞職した。

窮地に陥った久原を救ったのが小坂鉱山で久原のもとで働いた人々であった。第二代所長として久原は小坂時代からの右腕である竹内維彦を任命するなど、多くの人材を小坂鉱山から引き抜いた。
小坂鉱山では職員だけでも40名以上が日立鉱山に移り、「小坂勢」と呼ばれるようになった。社員のみならず多くの優秀な鉱夫も小坂鉱山から日立にやってきたと考えられている。
そして1908年(明治41年)2月、井上馨が日立鉱山の視察に訪れることになった。井上の視察の直前に当時日立鉱山で最も期待をかけていた鉱脈が断層にぶつかり、途切れてしまうというハプニングが起こったが、優秀な鉱夫を2時間交代で24時間体制で採掘に当たらせ、断層の先に鉱脈を再び捉えることに成功した。視察を行った井上は日立鉱山を評価し、井上からの援助は実現することになった。
(資料検索 ウィキぺデア )






日本の黎明 平泉への道
22.蝦夷の強制移住 朝廷側移民と表裏一体
 延暦24(805)年、播磨国の蝦夷(えみし)で蝦夷爵第二等の去(さる)返(がえし)公(のきみ)嶋(しま)子(こ)が浦(うら)上(かみの)臣(おみ)という姓を賜(たまわ)っている。
 また、弘仁5(814)年の条には遠(とおつ)胆沢公(いさわのきみ)母志(もし)が出雲の叛俘(はんふ)、すなわち乱を起こした俘囚(ふしゅう)を討った功績により外(げの)従五位下(じゅごいげ)、元慶4(880)年の条には、近江国の俘囚の遠胆沢公秋雄(あきお)が外従五位下を授けられている。

まとめ担う

 去返公とは、朝廷が猿ケ石川流域の蝦夷の族長に与えたものである。嶋子が公のカバネと蝦夷爵を有していることからすれば、彼は東北では政府側からそれなりに評価されていたのだろうが、やがて反政府的な行動がめだつようになったからなのであろうか、仲間とともに播磨国に移住させられたのである。

 『倭(わ)名(みょう)類(るい)聚(じゅう)抄(しょう)』には播磨国賀茂郡・美嚢(みなき)郡に夷俘(いふ)郷があったことが記されており、彼らが集団居住させられることがあったことがわかる。そして俘囚長が選任され、人々を統括したらしい。嶋子の場合も、播磨国に送られた俘囚集団のまとめ役の役割をになわされていたのであろう。

 遠胆沢公の称号も、胆沢地方、または胆沢よりもなお奥地の蝦夷の族長に与えられたものである。したがって、母志や秋雄も、もともとは岩手県地方の蝦夷の族長の家柄に属する人物なのだが、本人の代なのか、父や祖父の時代のことなのかは明確ではないものの、いつの頃(ころ)かに西日本に強制移住させられているのである。

 蝦夷を各地に強制移住させる政策は、早くから実行されていた。正倉院文書としてたまたま残されている天平10(738)年の駿河国正税(しょうぜい)帳と筑後国正税帳には、陸奥から摂津(せっつ)職(しき)(摂津の国を管掌する役所)まで、および筑後に送られた俘囚115人と62人に関する記録が残されている。
 駿河国正税帳には、陸奥国から摂津(難波の港)まで送られる俘囚115人が駿河国を通過したことが記録されている。この時の俘囚は摂津からは船で瀬戸内海を渡って九州まで行ったのであろう。また、別の例では中央官庁に配属されたり、また高官に与えられて、雑役に従事させられた場合もある。

 朝廷は、城柵を設置して多くの移民を東北に導入する一方で、蝦夷を全国各地に強制移住させる政策も実行したのである。東北地方以外の国々に蝦夷を移住させることは奈良時代以来の政策であった。東北地方への移民と蝦夷の他国への強制移住は表裏一体のものだったのである。

反乱の例も

 『延喜式』には、伊勢・遠江・駿河・甲斐・相摸・武蔵・上総・下総・常陸・近江・美濃・信濃・上野・下野・越前・加賀・越中・越後・佐渡・因幡・伯耆・出雲・播磨・美作・備前・備中・讃岐・伊予・土佐・筑前・筑後・肥前・肥後・豊後・日向という、ほとんど全国の国々で、東北から移住させられた蝦夷に衣服や食料を与えるための予算処置が講じられていることを示す記載がある。

 歴史書には、移住先で朝廷の意にかなう行動をして位を与えられた者がある一方で、農業を嫌って狩猟を好むなど、移住先の生活になじむことができずに逃亡した例も記されている。また、集団で反乱を企て、それ故に再度別の地に移住させられた者もあった。

 反乱の例では、遠胆沢公母志が授位された理由が、出雲での叛俘を討った功績によるものだと明記されており、その乱は出雲国の意宇(おう)郡・出雲郡・神門(かんど)郡の3郡にまたがる大規模なものであった。嘉祥元(848)年には、上総国で俘囚の乱が発生し、貞観17(875)年にも上総国と下野国で、元慶7(883)年にも上総国で大規模な俘囚の乱があったことが記録されている。

 一方で、都の役人と同道して伊賀国名張郡の山中にいた贋金(にせがね)作りや山賊の逮捕にあたった例もある。武力をかわれて、西国の海賊の追捕にあたったり、防人(さきもり)に起用された者さえもあったのである。

 ただし、各地に強制移住させられた蝦夷の子孫がたどった道は、ほとんどわかっていない。

【注】「正税帳」とは諸国で毎年作成した、収入と支出を記入した帳簿。「延喜式」は平安時代前半の状況を示す法令集。
【写真=遠野市郊外を流れる猿ケ石川。「去返公」は、当地方の蝦夷の族長だったとみられる】(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)
(記事検索 岩手日報)


吉美侯部・吉弥侯部


吉美侯部(きみこべ)または吉弥侯部(きみこべ)は服属した蝦夷(俘囚)からなる部民で、出羽国・陸奥国の両国および上野国・下野国などに多く分布する氏の名である。

正倉院所蔵の「陸奥国戸口損益帳」に「君子部阿佐麻呂」「君子部久波自」の名がみられるように本来は「君子部」であったとものとみられるが、757年(天平勝宝9年)3月に「吉美侯部」に改称された。

以後、文献には「吉弥候部」の表記も多く、8世紀後半の陸奥国の人物として吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)、吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)らの名が史料に現れる。

毛野氏がその伴造だったと考えられており、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。
一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある。

吉弥侯部のうち、一部の者は中央に貢進され、朝廷や貴族などに仕えて雑役に従事した。吉美侯部(吉弥侯部)が東北地方以外にも各地に広く分布するのは、律令国家が俘囚を全国に配して内民化をはかったためだと考えられる。

奈良時代後半の吉弥侯横刀(きみこのたち)は近衛府の判官(近衛将監)から上野介へと昇進し、「下毛野朝臣」を賜姓されている。

『新撰姓氏録』では上毛野朝臣と吉美侯部とを同祖としているが、それは疑わしい。しかし、両者がきわめて密接な関係にあったことは疑いなく、それゆえ、そのような伝承がつくられたものと推定される。なお、毛野氏のほかに東北地方に勢力を伸ばした古代氏族には大伴氏や阿部氏、中臣氏があった。丈部(はせつかべ)の人びとが賜姓される場合は阿部氏、大伴部の人びとは大伴氏が多かった。
 
『陸奥話記』には、前九年合戦の際の陣立てにおいて、七陣より成る安倍氏征討軍のうち、第三陣を率いた荒川太郎吉彦秀武(清原武則の甥で娘婿)、第六陣を率いた斑目四郎吉美侯武忠(吉彦秀武の弟)の名がみえ、「吉美侯(吉彦)」の名で大軍を率い、出羽清原氏の姻族として出羽国山北三郡のなかで一定の勢威をほこり、劣勢であった源頼義・義家父子による征服戦争をようやく勝利に導く要因となったなど「地方軍事貴族」と呼んでよい事績が注目される。
(検索ウィキぺデア)



 

呪術と科学(2人のフレイザー)
広島仏教学院 あさのしゅうじ
 右の図をご覧ください。白黒交差した線が渦巻き状に続いているように見えます。しかし、この線を手でなぞってみると、本当はいくつかの正円の組み合わせであることがわかります。(太い白円は私が補助に入れたもの)この図は「フレイザー錯視」と呼ばれるもので心理学者ジェームス・フレイザーによって1908年に提案されたものです。特に錯視の原理を巧みに表した図形のため「錯視の王様」とも評されています。「錯視」とは「視覚による錯覚」で、だまし絵のような見間違いとは原理が全く異なります。フレイザー錯視は、「直角に近い鋭角は、直角として視覚化される」ことによります。視覚の作用で、実際の絵と、脳に写った絵との間にずれが生じているのです。ですから、凝視すればするほど渦巻き状に映るのです。
 
さて、この錯視図が提案されたのと同時期に、活躍した著名な人類学者にジェイムズ・フレイザー(1954–-1941)がいます。先ほどの錯視の提案者フレイザーと同姓同名ですので同一人物のように思えますが、また別の人物です。人類学のフレイザーは、呪術研究の先駆者です。世界各地でみられる信仰、魔術、呪術、慣習などの事例を収集し、十一巻にもわたる著書『金枝篇』を四十年かけて執筆します。
 
彼は呪術を大別して二種類の原理によるとし、それぞれ「模倣呪術」と「感染呪術」と名づけます。模倣呪術とは、似たものは似た結果を呼ぶというものです。例えば、雨乞いの際は、雲に似た煙を用いることで雨という結果を期待します。一方の感染呪術とは、一度接触したものは離れても影響し合うというものです。まじないやのろいでは、対象とする人物の髪や衣服などを用いる場合が多いのが、これにあたります。
 
フレイザーは、このような呪術は、科学と同じ、理性的認識方法に由来する「観念連合」の作用と考え、「疑似科学」と呼びました。因果関係を正確に捉えたものが科学であり、誤って認識したものが呪術であると考えたのです。雲が現れれば、雨が降るという正しい因果関係の認識が科学であり、雲に似た煙を用いることによって雨を期待するという誤った理解が呪術と考えました。このことは、後に研究者の間で議論を呼び、大いに批判されていきますが、呪術を類型化して研究した彼の功績は高く評価されています。
 
さて、フレイザーは、呪術と科学は正誤の違いはあるにせよ、同じ認識方法、観念連合の作用と考えました。一方宗教については、全く異なる理解をしています。彼は宗教を「自然および人間生活を左右し支配すると信じられている、人間以上の力に対する宥和(ゆうわ)・慰撫(いぶ)である」と定義します。科学や呪術が、自然や事物の因果関係の人間の理解という範疇に収まるのに対し、宗教は、それを超えた力に対する人間の態度と位置付けたのです。
 
さらに宗教と呪術を次のように区別します。宗教は超自然的力に対し人格的に捉える傾向があり、人間の願いや請求に応ずることを期待するものであるが、呪術はその対象を非人格的、非意識的力として、力を取り込もうとする立場であるとしました。さらに、宗教は対象としての力を人間以上のものと認め崇め、その前にへりくだるという態度をとるが、呪術は、非人格的な力を、道具や動物のように自分が操作しようとする姿勢をとると区分しました。
 
また、その歴史的起源にも言及し、太古の人類は呪術のみによって生活を営んでいたが、やがて呪術儀礼の無効性に気づき、雨乞いをしたからといって雨を降らすことができない自己の無力を自覚します。そして自己の無力、無知を知った人間は、自分以上の力の前に頭を垂れて随順するに至る。呪術の時代から宗教の時代へと移行したと考えました。
 
さて、フレイザーがこのような学説をとなえていた頃、冒頭でふれた「錯視」は人間の視覚能力の欠陥と捉えられていました。実際の絵と、まぶたに投影される映像との差は「誤作動」だと考えられたのです。時を経た現代、最新の医学をもってしても錯視のメカニズムのすべては、まだ解明されていません。そうした中、人間科学の視点から、錯視は欠陥ではなく、むしろ人に備わった「特性」として受け止められています。必要な事柄に焦点を当て把握するためのもの、とした理解です。
 
このように近代科学の発展の中、合理的でないものは、ひとたび「誤り」と受け止められました。これはフレイザーが指摘した「呪術」的な事柄にとどまらず、宗教的な営みとしての「信仰」「神話」「儀礼」さえもその対象とされました。
 
それが今、社会や人間を対象とした分野で、見直されています。人は機械的、ただ合理的にのみ生きるのではありません。不条理とも思える世界や社会の中で、様々な感情を抱えて生きています。理性の上に成り立つ科学ですが、また理性があるからこそ、人間は宗教的な営みを持つのです。
 
人間の姿、社会の姿を、凝視すればするほどに、宗教的な営みがみえてきます。それは、まるで「錯視」のようです。「何のために生きるのか」「死んだらどうなるのか」こうした問いを理性的な人間は持たざるをえません。その問いを求めれば求めるほどに、人間、社会、自然を超えるものの姿が、自ずとあらわれてくるのでしょう。
 
人間の営みには、必ず宗教的な営みが付随しています。信仰、儀礼、神話などの宗教の諸要素、それはそのまま、もっとも人間的な要素であり、芸術や音楽などあらゆる文化の底に共通してある。人間科学の立場からそのように考えることができるのです。
 
(あさのしゅうじ 広島仏教学院講師・万福寺副住職)

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