2015年08月

坂東千年王国論 より
はじめ大和朝廷は各地に軍団を組織した。21歳から60歳までの男子の内三分の一を徴集し、交代で軍団に集めて二ヶ月ほど兵士として訓練の後、色々な勤労奉仕や各地の警備にあてた。
北九州に派遣された過酷な防人は、東国から徴発された軍団であった。国の軍団にもかかわらず個人の武装や食糧は自弁で、人を雇って身代わりを出したり、位や身分のあるものは兵役免除にするといった不公平や負担が多く、兵士の質が落ちて評判が悪く、律令制度の中で一番早く崩れたといわれる。

 延暦11年(792)に政府は軍団制の兵士を全廃して、多少は質の良いと思われる名家の郡司から、その子弟を集めて健児の制度に切り替えた。しかし結果は軍団制と似たり寄ったりで、有名無実と化した。 

 そこで現れるのが軍事貴族と歴史学で呼ばれる、軍事に精通した貴族が組織する雇兵集団である。この集団が後に「武士」へ成長するが、それには紆余曲折がある。

国造から国司へ
 
 大和朝廷が出来る以前、各地方は国毎の国造によって支配・統治されていた。大和の律令政府は各地の国造を廃止して、中央から派遣する国司による支配に切り替えた。その結果、それまで国造だった者はその国を幾つかに分割した一つの郡司になるか、それが不満なら、それまで国造の氏神だった神社の神主になる他なかった。
 武蔵国の場合でいえば、秩父国をいれて二十一郡に分割されたから、単純計算すると二十分の一にその支配領域を縮小されたことになる。武蔵国造から足立郡司におとされたものがそれであった。 

 中央から赴任してくる国司は国造のように恒久的・世襲的なものではなく、数年の任期で次々に替わる。国造の詰める国衙には、各郡司たちが判官代と呼ばれる在庁官人として務めており、任地に下向しない国司もいるから、郡司たちは支配領域を縮小されたとはいえ、実質的な力を持っていた。 
 国司は数年間の任期にもかかわらず、その土地の実力者である郡司の子女を現地妻とし、郡司はその縁で中央官人との繋がりを得ようとした。郡司にしてみれば、中央と繋がることによって現地支配が容易になるからである。

 先にあげた武蔵国造からおとされた足立郡司の場合は、武蔵介として赴任した菅原正好を娘の婿として迎え入れたらしく、生まれた子供は菅原朝臣を名乗ったまま氷川神社の社務司を継ぎ、さらにその子が足立郡司となった。菅原氏の元は土師で出雲族の支流だから、氷川神社に出雲神を祭ってきた足立郡司家としては受入やすかったのかもしれない。
 
 武蔵国造家系図

在地豪族たちの実力
 中央から辺境の遠国坂東とはいえ、名家の郡司たちばかりでなく、巷にも実力者たちが偏在していた。 

 奈良東大寺の大仏建立に際し、相模国(神奈川県)の漆部伊波は商布二万端を寄進して、天平20年 (748)に外従五位下の位を授かり、その20年後に相模宿禰の賜姓と相模国造に任じられた。坂東は古代布の最大の生産地であったが、漆部が寄進した商布2万端は相模一国が交易雑物として納める商布の3年分に匹敵した。

 それから百年ほど後の承和8年(842)武蔵国男衾郡榎津郷の郡司を務めたことのある壬生吉志福正は、2人の息子の終身にわたる税を前納したいと願い出て許可されている。そればかりでなく、この数年前に不審火で焼けたままになっていた武蔵国分寺の七重塔を、私費で再建したいと申し出て許可された。男衾郡は埼玉県の寄居町・川本町・江南町のあたりとされ、榎津郷のあった江南町の寺内廃寺跡から武蔵国分寺に使われたのと同じ窯の瓦が出土しており、壬生氏の氏寺と推定されている。

 ところが、こういう奇特な者たちばかりではなかった。武蔵国入間郡では武蔵国造に系譜する物部氏と大伴氏が勢力を争っていたらしい。
物部直広成は都の藤原仲麻呂追討の戦功で神護景雲2年(768)に入間宿禰を賜姓した。おそらく入間郡司になったのであったろう。翌年、入間郡の正倉四倉が焼けた。各地で正倉が焼かれ、多くは神火として始末されている。
中には空の正倉に放火して、中身が焼けたように見せかけ、隠匿して私腹を肥す郡司もいた。同じ年、入間郡の大伴赤男は奈良の西大寺に対し、商布千五百段はじめ稲や田・林など莫大な献上をして話題となり、叙位は当然と思われたが、生前にはなく、九年後の死に際して外従五位下が追贈されたに過ぎなかった。正倉が焼けたのは大伴赤男が郡司を追い落とすための放火ではないかと疑われたらしい。
 
群盗山に満る
 
 在地の実力者である郡司などの子女を現地妻とした国司の多くは、数年間の任期がおわると次の役目や他国の国司として転出して行くが、中にはその土地に居着いてしまう者もいる。国司を何期か務めると、一生の貯えが出来るといわれたほどでの役得があった。その財と実力をもって土地に居着く者、また郡司などの家に入り婿した者も少なくないであろう。そんな中には盗賊になる者までいた。

 延喜19年(919)前の武蔵権介源仕は任期が満ちても帰京しようとせず、任地に根拠地を築いて土着しようとしたらしい。源仕の子の源充は箕田源次を名乗り、数10騎を率いて秩父平氏流の村岡五郎と一騎打ちを戦ったと 今昔物語 にある。箕田の地は港区三田説と箕田郷のあった埼玉県鴻巣市箕田の箕田八幡説がある。村岡五郎平良文の地は埼玉県熊谷市南部の村岡説があり、箕田郷と隣接しているから、後の説が有力と思われる。父の源仕は後任の武蔵守高向利春が赴任してくると、官物を運び取り、官舎を燃やし、国府を襲って高向利春を攻めたという。

 源仕は嵯峨天皇の御子50人の中から、一挙に35人を臣籍降下させた内の融の孫にあたり、嵯峨源氏の一人である。融は従一位左大臣、子の昇は正三位大納言、その嫡男適は従五位下内蔵頭と、皇胤の余光に浴したが、次男の仕は中央での任官を断念して、地方に新天地を求めたらしい。藤原氏が官職を独占しはじめたころである。それも国司の次官で定員外の権介であった。任期が満了したとき不満が爆発して、後任の国司を襲ったのかもしれない。

 9世紀後半、坂東は騒然としていた。相次いで蜂起する上総に配置された俘囚たちの叛乱に加えて、各地で群盗が横行する。寛平から昌泰期(889~901)の10年間、東国強盗の首領といわれた物部氏永が蜂起が伝えられている。さらに、雇い馬を使って活動する坂東の運送業者の集団は、群党をなして村々を襲い、東海道の馬を奪っては東山道に使い、東山道で奪った馬を東海道に回すという凶賊集団でもあった。

 既に貞観三年(861)武蔵国に21郡ある各郡ごとに検非違使を一人づつ置いた。「凶猾党を成し、群盗山に満る」というのがその理由であった。昌泰2年(889)には坂東の境、足柄と碓井の峠に関門が設けられた。
 群盗は一見、浮浪の山賊のごときだが、この群盗は「坂東諸国の富豪の輩」というから、土着した国司、富豪の郡司や私営田領主となった豪族たちに他ならなかった。そしてこの群盗を鎮圧し、治安維持のために動員されたのも、健児制を補うために投入された俘囚と同様、雇われた富豪の輩であった。
  
将門の叛乱

 寛平元年(888)垣武天皇の曾孫にあたり、坂東平氏の元祖になる高望王が上総国へ赴任した。上総・常陸・上野の三国は天長3年(826)以来、国守に親王任国制が敷かれていた。東北蝦夷に対する最前線基地の国として、また群盗や俘囚の反乱蜂起に対して、王胤を配して王威による支配を狙ったのであろう。高望王の子等は次々に常陸大掾(国司の守・介に次ぐ三席)・下総介・鎮守府将軍に就任している。先に触れた嵯峨源氏の入植にも、そうした期待があったのかもしれない。

 ところが、高望王の孫で無位無官の平将門が常陸国衙を襲撃して、国家に対して歴然たる反逆を起こした。天慶2年(939)11月21日、平将門は常陸国府で常陸守藤原維幾の国軍と衝突して合戦となり、1000人の将門軍が3000人の国軍を破り、国府に放火して国家に対する歴然たる反乱に踏み切った。

 将門の乱はこれに先立つこと、8年前の延長九年(931)の坂東平氏の内紛による私闘に始まるといわれる。

 将門の父良持の兄弟で叔父にあたる者に、常陸大掾平国香、下総介平良兼、平良正それに平良文がいた。将門と娘の結婚に反対した良兼とのトラブルが内紛の遠因とされる。後に叔父たちと戦闘した際、娘は連れ戻されているくらいだから、よほど反対されていた。

 それから数年後、私闘は本格的になる。
 常陸国筑波山の西麓に前の常陸大掾源護が土着して、広大な私営田を有する勢力を持っていた。その一字名の護から、武蔵国府を襲った前武蔵権介源仕と同様の嵯峨源氏とみなされている。この源護の領地と接する平真樹は、境界争いらしき紛争が生じ、調停を下総の将門に依頼してきた。将門は調停のために常陸の源護の館に向かおうとして、国境を越えたあたりで護の子の扶らに待ち伏せの不意打ちをくらって応戦、扶・隆・繁の三兄弟を討死にさせ、護の館など焼き払ってしまった。しかも、そのとき護の石田館にいた将門の叔父の常陸大掾平国香まで、巻き添えで死亡させた。 

 叔父の国香が源護の館にいたのは、護の娘と結婚していたことによる。良兼・良正も同様に護の娘を妻としていた。彼ら平氏の三兄弟は源護の娘と結婚して、婿入りしたか、通っていたのである。そこは嵯峨源氏護の領地であり、館の所在地であった。
 
 安易な通説
 通説では平氏の三兄弟はむろんのこと、良持・将門父子の領地も含めて、高望王からの伝領地とする。だから、将門謀反の前哨戦は平氏の内紛として解釈されている。

 高望王が上総国へ国司として赴任したことは確実としても、土着した証拠は何もない。仮に高望王が土着したとしても、上総介の高望王が支配権のおよばない常陸国や下総国へ居着くのは無理というものである。安易な通説はこれに気づいていない。

 常陸国筑波山西麓は前の常陸大掾源護の私営田領であった。平国香は源護の娘と結婚して石田(茨城県明野町東石田)の館に入り婿して、舅の護の常陸大掾職を継いだのであろう。国香の子で将門の宿敵になる平貞盛は石田館で生まれている。
 下総介平良兼は現職だから下総国府の近くに館があったはずだが、常陸の服織(茨城県真壁町羽鳥)館の妻のもとに通っていて、襲ってきた将門に館を焼き払われた。良正の営所も筑波郡水守にあったが、これも源護の館であったろう。

 つまり彼ら平氏の三兄弟は嵯峨源氏護の一族として、将門を敵にまして戦ったのであり、一概に平氏の内紛とはいえないのである。因みに三兄弟の末に村岡五郎良文がいたが、既に触れたように埼玉県熊谷市南部におり、将門の乱には無関係であった。源護の娘と婚姻関係を結んだ平氏三兄弟だけが将門と敵対したのである。
 
 坂東平氏系図

将門の母胎
将門の父の平良持(将)は従五位下陸奥鎮守府将軍であった。陸奥国を支配・開拓する軍政府長官である。良持は常陸国に勝楽寺を建立しているが、将門のいた下総国に関わった形跡はない。そこにあるのは県犬養春枝の女子を妻として、将門らが生まれたということだけである。現在は茨城県の取手市寺田、かつては下総国であり寺原村寺田で、ここを地盤とした犬養氏の女を母として将門は生まれた。
『将門記』によると将門は下総の猿島郡石井(茨城県岩井市岩井)と豊田郡鎌輪(茨城県千代川町鎌庭) に館を持って根を張っているが、母方から継承したものであろう。

 つまり、将門反乱の前哨戦は、平氏の内紛というものではなく、常陸の嵯峨源氏と下総の犬養氏の戦いだった。将門と平氏の三兄弟は共に父系を平氏にもっていたが、その根拠とする母族は異なっていたのである。

 源氏も平氏も皇胤であったが、将門が母胎とする犬養氏は、古代にあっては数ある部族の一つに過ぎなかった。飼い犬を使う狩猟や鉱山の発見を生業とし、また番犬を連れて屯倉や宮城門の守衛でしかない。こうした各地の犬養氏を中央で束ねた伴造の県犬養宿禰氏から橘三千代を出した。藤原不比等の妻として安宿媛を聖武天皇の妃にいれて隆盛を極めたが、前夫の子の橘奈良麻呂の変などで失脚した。少なからず藤原氏と縁のあった一族である。

下総の県犬養氏が中央の県犬養宿禰氏に直接の関わりがあろうはずもないが、将門が若いときから中央で仕えた相手は、時の太政大臣摂政の藤原忠平であった。謀反を告訴されると、その経緯を書状で伝えた相手も忠平である。将門がどういう伝手で忠平に仕えるようになったのか、興味深い。故事付けて憶測してみれば、県犬養宿禰氏と藤原氏の関係ではなかったのか。

いずれにしても将門は平氏の一門である前に、県犬養氏の一党を率いる豪族であった。

因みに将門が叛乱に蜂起した猿島郡は、かつての下毛野国であり、紀伊国の豊城入日子命の孫彦狭島命の名による利根川の東側に位置し、坂東の境界の利根川を越えて武蔵国のトラブルに関わったことが、叛乱の切っ掛けになった。
 
  そこで当面の問題として、将門の叛乱以後、その「遺産」の行方である。
 
武蔵野開発の父
 将門の乱から90年後、房総半島三国に平忠常の乱が起きた。将門が根拠としたのは下野国内の猿島・豊田郡といった郡単位のものであったが、忠常は上総・下総国にまたがる国単位の広大な地域の領主であった。しかし、将門は叛乱によって坂東八ケ国を支配したが、忠常にはそうした意志や兆候はみられない。それにもかかわらず、忠常の乱は3年間におよび、坂東を亡国と化した。

 平忠常は将門の叔父の良文の孫にあたる。良文は同じ坂東平氏でありながら、将門の乱に無関係であったとするのは乱の全容を伝える『将門記』である。ところが、平忠常の子孫の千葉氏関係の系図や伝承では、良文は将門の養子であったり、その逆であったりする。また、良文の子の忠頼は将門の娘を母として生まれたとする系図もある。
 つまり反逆者将門をして自族の先祖に位置づけているのである。そればかりでなく、良文は将門と共に平国香と戦ったり、逆に良文と将門が対陣したりと、文献によって良文の立場は異なるが、将門の乱に参戦したとしている。
 千葉氏関係の手によって編まれたのではないかとされる『源平闘諍録』冒頭の系譜には、良文の三男忠光は将門の乱によって常陸国信太の嶋へ配流されたという。

 ところで『将門記』によると、将門は上野国府で親皇を称し、坂東諸国の国司を任命したが、その中で武蔵国が欠落している。
上総介に任命された興世王は乱以前の武蔵権守のまま将門の元へ転がり込んでいるから、これが兼任したという苦しい解釈もあるが、実は良文が武蔵守に任命されたのではないか。
 こういう憶測は次のような理由から生まれる。その情報の詳細さから『将門記』は将門の地元に関わり深い寺僧の手になるとされており、乱後の間もない時期に編まれたとすれば、将門の遺領を継いだ良文を将門の乱の共謀者とは書けなかったのではないか。
 
さらに想像を逞しくすれば、次のような事も考えられる。将門の乱は嵯峨源氏一党との私闘に始まった。良文も嵯峨源氏と見なせる蓑田源次の源充と一騎打ちをしたという『今昔物語集』の説話を先にあげたが、晩年の充は武蔵国を引き払って摂津国へ移り、淀川河口に海賊渡辺党を組織した。将門と良文は縁組みを結んで共に嵯峨源氏と戦い、蓑田源次充を武蔵国から追い出したのではないか。そして乱後、良文は将門の遺領を相続した。

 またの名を村岡五郎と呼ばれる良文の居住地の候補は、先に挙げた熊谷市と港区三田の他に、相模国(神奈川県藤沢市)と茨城県結城郡千代川村村岡説がある。藤沢の村岡説は良文の子の忠道が村岡平太夫と呼ばれて、鎌倉権五郎や大庭・梶原氏など鎌倉党の祖とされたことによろう。一方の千代川町村岡の地は将門遺領で館のあった豊田郡鎌輪の側にある。良文の子孫はここを基点として房総半島へ領地を拡大していったのであろう。

 いずれにしても平良文はおそらく始めは武蔵国の熊谷市村岡にいた。在地の豪族の家に生まれたか、入り婿して、その後、下野国の将門遺領を継いだのは子の忠頼であろう。武蔵国は忠頼の子の将常の子孫が荒川に沿って進出し、同じ忠頼の子の胤宗の子孫は武蔵七党の野与・村山党となった。また、良文の子の忠光・忠道の子孫は鎌倉から三浦半島へひろがった。この村岡五郎平良文をもって後世「武蔵野開発の父」と呼ばれている。
 
 坂東千年王国論 第三章   将門叛乱前後(終)
 
 ~坂東千年王国論~


 

国衙軍制
国衙軍制(こくが ぐんせい)とは、日本の古代末期から中世初頭にかけて(10世紀 - 12世紀)成立した国家軍事制度を指す歴史概念。律令国家が王朝国家へと変質し、朝廷から地方行政(国衙・受領)へ行政権を委任する過程で成立したとされる。また国衙軍制は、軍事貴族および武士の発生と密接に関係していると考えられている。

古代日本の律令国家は、軍事制度として軍団兵士制を採用していた。軍団兵士制は、戸籍に登録された正丁(成年男子)3人に1人を徴発し、1国単位で約1000人規模の軍団を編成する制度であるが、これは7世紀後葉から8世紀前葉にかけての日本が、外国(唐・新羅)の脅威に対抗するため構築したものだった。
しかし8世紀後葉、対新羅外交政策を転換したことに伴い、対外防衛・侵攻のための軍団兵士制も大幅に縮小されることとなった。そのため、軍団兵士制を支えてきた戸籍制度を維持する必要性も低下していき、9世紀初頭以降、律令制の基盤となっていた戸籍を通じた個別人身支配が急速に形骸化していった。

律令制の個別人身支配が弛緩していくと、在地社会の階層分化が進み、百姓の中から私出挙・私営田活動を通じて富を蓄積した富豪層が成長し始めた。
地方行政にあたる国司は、郡司・富豪層に着目し、従来の個別人身支配の代わりに郡司・富豪層の在地経営を通じた支配へと転換していった。国司は調庸・封物を中央の朝廷へ運搬進納する義務を負っていたが、国司はその運搬進納を担う綱領に郡司・富豪層を任じるようになった。調庸・封物の損失や未進が発生した場合は、郡司・富豪が私的に補償する義務を負わされた。

9世紀中葉ごろから、郡司・富豪層が運搬する進納物資を略奪する群盗海賊の横行が目立ち始めた。群盗海賊の実態は、実は郡司・富豪層であった。国司は実績をあげるため、郡司・富豪層へ過度な要求を課することが多くあり、これに対する郡司・富豪層らの抵抗が群盗海賊という形態で現出したのである。略奪した物資は、補償すべき損失や未進に充てられたり、自らの富として蓄積されたりした。群盗海賊の頻発に対し、朝廷と国司は、ほとんど形骸化した軍団兵士制では満足のいく対応ができなかったため、別の鎮圧方策をとる必要に迫られていた。

9世紀中葉における朝廷・国司は、群盗海賊の制圧のために養老律令の捕亡令(ほもうりょう)追捕罪人条にある臨時発兵規定により対応し始めた。臨時発兵とは、群盗海賊の発生に際し、国司からの奏上に応じて「発兵勅符」を国司へ交付し、国司は勅符に基づき国内の兵を発して群盗海賊を制圧する方式を指し、長らく適用されることはなかったが、群盗海賊の横行に直面してこの方式が採用されることとなった。

俘囚
臨時発兵規定で想定されていた兵とは、軍団兵士や健児ではなく、百姓のうち弓馬に通じた者であった。弓馬に通じた百姓とはすなわち、郡司・富豪層であり、帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる 俘囚であった。

臨時発兵規定の適用により、郡司・富豪層と俘囚が国内の軍事力として新たに編成されることとなったのである。特に俘囚が有していた高い戦闘技術は、新たに形成されようとしている軍制に強い影響を与えた。
俘囚は騎馬戦術に優れており、騎乗で使用する白刃である蕨手刀は後の日本刀へとつながる毛抜形太刀の原型となっている。
883年(元慶7)に上総国で勃発した俘囚の武装蜂起(上総俘囚の乱)に際し、朝廷は発兵勅符ではなく、「追捕官符」を「上総国司」へ交付した。
追捕官符とは、同じく捕亡令に基づくもので、逃亡した者を追捕することを命ずる太政官符である。この事件を契機として、以後、追捕官符を根拠として、国司は追捕のため国内の人夫を動員する権限を獲得することとなり、積極的に群盗海賊の鎮圧に乗り出すようになった。そして、国司の中から、専任で群盗海賊の追捕にあたる者が登場した。これは、後の追捕使・押領使・警固使の祖形であるとされている。

以上のようにして、国衙軍制の原型が形成されていった。

9世紀末から10世紀初頭にかけての寛平・延喜期になると、抜本的な国政改革が展開した。調庸・封物を富豪層が京進することにより、院宮王臣家(皇族・有力貴族)は富豪層と結びつき、自らの収入たる封物の確保を図った。富豪層も自らの私営田を院宮王臣家へ寄進して荘園とし、国衙への納税回避を図っていった。

かかる危機に直面した国衙行政と中央財政を再建させるために、院宮王臣家と富豪層の関係を断ち切るとともに、国司へ大幅な支配権限を委譲する改革が行われたのである。
これにより成立した支配体制を王朝国家体制という。
王朝国家体制への移行により、富豪層による調庸・封物の京進は廃され、国司(受領)による租税進納が行われるようになった。
その結果、調庸・封物京進を狙っていた群盗海賊は沈静化することとなった。また、受領への権限集中が行われ、国衙機構内部は受領直属部署(「所」という)を中心とするよう再編成された。郡司・富豪層は、土地耕作を経営し納税を請け負う田堵負名として国衙支配に組み込まれ、また、各「所」に配属されて在庁官人として国衙行政の一翼を担うようになった。
上記の国政改革と並行して、東国では寛平・延喜東国の乱が発生していた。これに対し、朝廷は追捕官符を国衙へ発給し、さらに各国へ国押領使を配置する対策をとった。
追捕官符は発兵などの裁量権を受領に与えるものであり、受領は国内の田堵負名層を兵として動員するとともに、国押領使へ指揮権を与えて実際の追捕にあたらせた。
このように、寛平・延喜東国の乱の鎮圧過程を通じて新たな国家軍制である国衙軍制が、まず東国において成立した。この軍制は、追捕官符を兵力動員の法的根拠とし、兵力動員権を得た受領から国押領使へ指揮権が委任され、国押領使が国内兵力を軍事編成して追捕活動にあたる、というシステムである。
そして、同乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」こそが最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。

一方、西国では承平年間(930年代)に瀬戸内海で海賊行為が頻発し(「承平南海賊」)、936年(承平6)、追捕南海道使に任命された紀淑人とその配下の藤原純友らによる説得が功を奏し、海賊が投降した。

海賊らの実態は富豪層であり、彼らは従前から衛府舎人の地位を得ていた。衛府舎人は大粮米徴収権の既得権を有していたが、朝廷は延喜年間(900年代)に相次いで衛府舎人の既得権を剥奪する政策を打ち出した。
この延喜期の既得権剥奪によって経済基盤を失おうとしている瀬戸内沿岸の衛府舎人らは、自らの権益を主張し続けていたが、承平期に至ってついに海賊行為を展開することとなった。
そして彼らを説得し、田堵負名として国衙支配に組み込んだ功労者が実は藤原純友であった。海賊鎮圧の過程で、純友を含め、瀬戸内海諸国には海賊対応のための警固使が設置された。
この西国の警固使は東国の押領使・追捕使に該当する。追捕官符によって兵力動員権を得た受領のもと、警固使に任じられた者は国内の郡司・富豪層を軍事的に編成し、有事に際しては指揮権を行使した。ここに、西国においても東国と同様の国衙軍制が成立したのである。

9世紀末から10世紀初頭にかけての寛平・延喜期になると、抜本的な国政改革が展開した。調庸・封物を富豪層が京進することにより、院宮王臣家(皇族・有力貴族)は富豪層と結びつき、自らの収入たる封物の確保を図った。
富豪層も自らの私営田を院宮王臣家へ寄進して荘園とし、国衙への納税回避を図っていった。かかる危機に直面した国衙行政と中央財政を再建させるために、院宮王臣家と富豪層の関係を断ち切るとともに、国司へ大幅な支配権限を委譲する改革が行われたのである。これにより成立した支配体制を王朝国家体制という。

王朝国家体制への移行により、富豪層による調庸・封物の京進は廃され、国司(受領)による租税進納が行われるようになった。その結果、調庸・封物京進を狙っていた群盗海賊は沈静化することとなった。
また、受領への権限集中が行われ、国衙機構内部は受領直属部署(「所」という)を中心とするよう再編成された。郡司・富豪層は、土地耕作を経営し納税を請け負う田堵負名として国衙支配に組み込まれ、また、各「所」に配属されて在庁官人として国衙行政の一翼を担うようになった。

上記の国政改革と並行して、東国では寛平・延喜東国の乱が発生していた。これに対し、朝廷は追捕官符を国衙へ発給し、さらに各国へ国押領使を配置する対策をとった。
追捕官符は発兵などの裁量権を受領に与えるものであり、受領は国内の田堵負名層を兵として動員するとともに、国押領使へ指揮権を与えて実際の追捕にあたらせた。

このように、寛平・延喜東国の乱の鎮圧過程を通じて新たな国家軍制である国衙軍制が、まず東国において成立した。この軍制は、追捕官符を兵力動員の法的根拠とし、兵力動員権を得た受領から国押領使へ指揮権が委任され、国押領使が国内兵力を軍事編成して追捕活動にあたる、というシステムである。

そして、同乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」こそが最初期の武士であったと考えられている。彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。

一方、西国では承平年間(930年代)に瀬戸内海で海賊行為が頻発し(「承平南海賊」)、936年(承平6)、追捕南海道使に任命された紀淑人とその配下の藤原純友らによる説得が功を奏し、海賊が投降した。
海賊らの実態は富豪層であり、彼らは従前から衛府舎人の地位を得ていた。衛府舎人は大粮米徴収権の既得権を有していたが、朝廷は延喜年間(900年代)に相次いで衛府舎人の既得権を剥奪する政策を打ち出した。
この延喜期の既得権剥奪によって経済基盤を失おうとしている瀬戸内沿岸の衛府舎人らは、自らの権益を主張し続けていたが、承平期に至ってついに海賊行為を展開することとなった。
そして彼らを説得し、田堵負名として国衙支配に組み込んだ功労者が実は藤原純友であった。
海賊鎮圧の過程で、純友を含め、瀬戸内海諸国には海賊対応のための警固使が設置された。この西国の警固使は東国の押領使・追捕使に該当する。追捕官符によって兵力動員権を得た受領のもと、警固使に任じられた者は国内の郡司・富豪層を軍事的に編成し、有事に際しては指揮権を行使した。ここに、西国においても東国と同様の国衙軍制が成立したのである。

11世紀中葉に、王朝国家体制の変革が行われた。1040年代を画期として、それ以前を前期王朝国家、以降を後期王朝国家と区分する考えがある。
この考えによると、後期王朝国家は全国的な租税賦課(一国平均役など)を契機として成立した。それまでは、受領の権限のもとで地方行政が展開しており、郡司・富豪層らが開発してきた荘園も国衙の承認によって存立していた(国免荘)。
しかし、内裏の焼亡などを契機とした臨時措置として全国的な租税賦課が実施されると、荘園側は、国衙でなく中央の太政官へ免税の申請を行うようになった。
免税特権を獲得した荘園は領域が統合される一円化の措置などを通じて拡大する傾向を示し、国衙が支配する公領を蚕食し始めた。ここに至り、田堵負名層らによる対受領闘争(「凶党」行為)はほとんど見られなくなり、代わって荘園と公領間の相論・武力紛争が頻発し始めた。

国衙軍制は凶党の追捕を対象としていたが、荘園・公領間の紛争において、荘園側は凶党には当たらないこととされたため、国衙軍制をもって荘園・公領間紛争を制圧することはできなかった。
そこで受領は荘園への対抗手段として、主に軍事的に対応能力を有する武士身分の田堵負名に公領の経営と治安維持を委任することで、公領の維持を図ったのである。
その際、国内の武士身分の田堵負名のうち、同一の郡に基盤を持つ者同士が互いに競合しあったため、従来郡の下にあった郷などの領域を郡と同等の国衙統治下の単位に引き上げる措置がとられ、競合する武士が対等な地位を得られるように、それぞれの経営責任者に任ぜられたと考えられている。

こうして公領は郡・郷・保などの単位に再編成され、武士たちは、郡司・郷司・保司として郡・郷・保、の経営と治安維持を受け持つこととなった。
彼ら武士は、受領から委任された徴税権・検断権・勧農権などを根拠として、在地領主へと成長していった。さらに言えば、武士身分の田堵負名は、自らの私営田を権門勢家(皇室・有力貴族・有力寺社)へ寄進して荘園とするとともに、荘官に任じられてもいた。

つまり、彼らは一方では国衙側の郡司・郷司として国衙領の維持にあたり、一方では荘園側の荘官として荘園拡大を図っていたのである。

こうして武士の在地領主化が進行していった。在地領主化した武士は、在庁官人となって国衙行政に参画する一方で、婚姻関係を通じて党を組み、武士団と呼ばれる結合関係を構築していった。
一国に1人置かれる国追捕使または国押領使は、次第に特定の家系が世襲するようになり、こうした累代の国追捕使は国内武士の指導者、つまり「一国棟梁」として国内武士を組織化した。

11世紀中葉の後期王朝国家の成立以来、国衙軍制は機能停止してしまった。国内武士は受領の動員命令ではなく、追捕使の地位を持つ「一国棟梁」の指揮に従うようになっていた。
1030年(長元3)の平忠常の乱に際して追討使に任じられた源頼信がすぐに忠常を帰服させると、朝廷は国衙軍制に代わる軍事制度として追討使方式を多用し始めた。軍事貴族である源頼信は、追討の成功により多くの板東武士と主従関係を結び、最初の「武家の棟梁」と呼びうる存在となった。
有事の際にはこうした「武家の棟梁」が追討使に補任され、主従関係を結んでいる「一国棟梁」以下の武士を動員し、軍事活動を展開したのである。

12世紀末の治承・寿永の乱(源平合戦)を経て、初期鎌倉幕府政権は、国追捕使の権限を継承した惣追捕使を各国に設置することについて、朝廷から承認を得た。惣追捕使は、国内武士を統率する役割を担っており、これは国衙軍制の枠組みを導入したものと評価できる。惣追捕使はその後、守護制度へと発展していった。

かつて、古代的な貴族統治体制を打破したのは武装農民層に由来する武士であるとする説が有力とされていたが、1960年代に戸田芳実や石井進らによる国衙機構に関する研究が進展すると、武士の起源=武装農民説はもはや成立し得なくなった。
国衙軍制の可能性を指摘し、それが武士の起源に関係することを論じたものには、石井進『中世成立期軍制研究の一視点』(「史学雑誌」78編12号所載、1969年)や戸田芳実『国衙軍制の形成過程』(「中世の権力と民衆」所載、創元社、1970年)などがある。

その後、武士の起源に関する研究は、職能論などが議論の中心となり、国衙軍制論は半ば忘れられた状態となったが、1970年代末から1980年代にかけて下向井龍彦らによる研究・問題提起が積極的に進められた。下向井らの議論は、武士の成立を王朝国家論・荘園公領制論などと整合的・有機的に結びつけるものであり、21世紀初頭において、武士成立に関する最も有力な説の一つに位置づけられている。
(資料検索ウィキぺデア 2015/8/16)




参考資料 http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/






ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー
歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者。ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。 
生まれ: ドイツ ライプツィヒ
1813年5月22日-1883年2月13日, イタリア ヴェネツィア
ウィキペディア

ヒトラーの予言 第2章
■第2章:「ニーベルンゲン復讐騎士団」
http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/hitler/hitler02.html

「ニーベルンゲン」とは、古代ゲルマンの恐ろしい伝説の名だ。それを生んだ南ドイツのシュバルツバルト(黒い森)、そこを支配していた神話的な一族の名前でもあった。彼らは族長ニーベルング、不死身の若い英雄ジークフリートを中心に、人類の未来を救う力を持つという正体不明の「宝」を守って、深い森の中で暮らしていた。

ところが、あるとき、人類から未来を奪うため、ブルゴンドという魔族が森に侵入してきた。彼らは裏切者をそそのかし、魔族の毒矢でジークフリートの背中の1点を射させた。そこだけが、不死身の英雄ジークフリートの、たった1つのウィークポイントだった。不死の泉で産湯をつかったとき、そこにだけ、小さな木の葉が落ちてくっついたからだ(一説では、退治した竜の不死の返り血を全身に浴びたとき、背中の1点だけ残った)。そこを射ぬかれた彼は、苦しんで死ぬ。魔族は森の奥の館を襲って「宝」を奪い、ニーベルンゲン一族の大半も魔族の猛毒で悶死する。

だが、かろうじて生き残った彼の17歳の若妻クリームヒルトは、やはり少数だけ残った「ニーベルンゲン騎士団」の若者たちと、たがいの胸を剣で傷つけ、血をすすり合って復讐を誓う。そのため彼女は、「日の昇る東方のアジア王」の前に美しい裸身を投げ出し、ひきかえに協力の密約をとりつけ、アジア軍と騎士団の戦力をあわせて魔族に挑む。

そして何度かの死闘のあと、存亡を賭けた最後の決戦。「騎士団」は猛毒に苦しみながらも、火の剣で魔族を1人ずつ殺す。クリームヒルトも、敵の首領の「魔王」と深く刺し違え、血と炎に悶えつつ息たえる。かくて双方、全員が滅び、森も炎と毒で枯れ果てる。同時に空から燃える星が落ち、大地震と大落雷、赤ん坊の頭ほどの電も降る。あとは焼け崩れ凍りついた死の静寂。何かわからない未来の人類の「宝」だけが、ニーベルンゲンの廃嘘のどこかに、誰にも知られずに埋もれて残るのである。

アドルフ・ヒトラー

何か人類の運命そのもののような、残酷で予言的なこの伝説。これをヒトラーはことのほか気に入っていた。

「おお、これがゲルマンだ。未来の真実だ。私が見ている未来と同じだ。古代ゲルマンの伝説の中に、来たるべき天変地異と復讐の大戦が暗示されているのだ……」

総統本営や山荘のパーティで、たまたまこの伝説(ニーベルンゲン伝説)の話が出ると、ヒトラーはこううめいて拳を震わせ、側近たちが恐れるほど興奮することがあった。オペラではもっと興奮した。彼が好きだったワーグナーのオペラに、この伝説から取った『ニーベルングの指環』という3部作があるが、彼はこれを当時のドイツ楽壇のスターたちに命じて何度も上演させ、全てが滅びる幕切れが来ると必ず叫んだ。

「そうだ、ブラボー、みんな死ね! そして復讐に甦れ! ナチは不死鳥、私も不死鳥だ! 民族の血の怨みに選ばれた者だけが不死鳥になれるのだ……」

ニーベルングの指環
リヒャルト・ワーグナーによるオペラ
序夜と3日間のための舞台祝典劇『ニーベルングの指環』は、リヒャルト・ワーグナーの書いた楽劇。ワーグナー35歳の1848年から61歳の1874年にかけて作曲された。ラストから発表され、4部作完結まで26年。 ウィキペディア

ヒトラーが愛したワーグナー作「ニーベルングの指環」

「ニーベルンゲン復讐騎士団」が生まれたのもこれがきっかけである。彼はその日、とりわけ興奮して、このオペラの「ジークフリート」の幕を見ていたが、美しいクリームヒルトが血をすすって復讐を誓うシーンになったとたん、そばのSS(ナチス親衛隊)の幹部たちに狂おしく言った。

「わかるか、あれがきみらだ。きみらの使命と未来があの中にある。だから、あの名をきみらの中の選ばれた者たちに授けよう。そうだ……。ニーベルンゲン復讐騎士団だ! これからのナチスと新しい人類を築く聖なる土台の将校団だ。それにふさわしい者だけを選んですぐ報告せよ。最終人選は私がじきじきに決める。」

こうして、その特殊グループが生まれたのだった。ほかにも「ニルベの騎士団」や「ラインの騎士団」……いろんな名前の将校グループがナチスにはあったが、そういう同期会と「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、はっきり違う性質のものだった。人数はたった120人。家柄も財産も年功序列もいっさい無関係。たとえ20歳の少尉でも、予知力や霊感や指導力──ヒトラーが認める何か特別な能力──があれば選ばれた。

並外れた体力、天才的な戦闘力、そして何よりも人に抜きんでた高知能、米ソやユダヤや既成の世界への激しい怨念を持っていること、これらも選抜の基準になった。それを表わすプラチナの小さなドクロのバッジ。それを胸につけた純黒の制服と黒い鹿皮のブーツ。ベルトには特製の45口径13連の凶銃ユーベル・ルガー。腕にはもちろん、血の色の中に染め抜かれた黒のカギ十字マーク。

「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、ダンディだが不気味な集団だった。だがその1人1人をヒトラーは、「マイン・ゾーン(私の息子)」と呼んで異常にかわいがった。公式の政策会議には参加させない。しかし内輪の集まりには、よく招いて意見を聞いた。狙った国にクーデターやパニックを起こさせるといった重大な影の任務もよく命じた。

「きみらならわかる」と言って、側近のゲッベルスにさえ話さない秘密の見通しや未来の世界を、熱っぽく話すこともあった。2039年の人類についての「ヒトラー究極予言」も、そうした奇怪な積み重ねの上で、この騎士団だけに話されたものだった。

いつ話されたかは、ヨアヒム・フェスト(ドイツのヒトラー研究の第一人者)によって記録されている。それは1939年1月25日の夜だった。話された場所は、ミュンヘンのナチス本部という説もあるが、ヒトラーは「オーベルザルツベルグ山荘」を霊感の場としていたので、雪に閉ざされた山荘で話された、という説を私(五島)は採りたい。

ところで、ヒトラーの「究極予言」を聞いたとき、冷酷と高知能を誇るニーベルンゲン復讐騎士団の将校たちも、さすがにショックでざわめいたという。騎士団の1人ヨハンネス・シュミット少佐=のちに西ドイツの実業家=が、あとでそう打ち明けたのを、米国籍の予言研究家スタッカート氏が研究者仲間の会合で知り、私に教えてくれた。この件だけでなく、氏からはヒトラー予言について多くの情報をもらった。

『1999年以後──ヒトラーだけに見えた恐怖の未来図』 から抜粋


クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
曖昧さ回避「シュタウフェンベルク」
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52059099.html









二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件である。

陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら陸軍幼年学校・旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官したものの彼らによって組織された。

20歳代の隊付の現役大尉・中尉・少尉達は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。
彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。

将校は近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮した。
岡田啓介内閣総理大臣、
鈴木貫太郎侍従長、
斎藤實内大臣、
高橋是清大蔵大臣、
渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
 
そのうえで、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。軍と政府は、彼らを「叛乱軍(反乱軍)」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。
叛乱(反乱)将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。事件の首謀者は銃殺刑に処された。

事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも呼ばれていた。

統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚と、上下一貫・左右一体を合言葉に特権階級を除去した天皇政治の実現を図った革新派の隊付青年将校は対立していた。はじめは懐柔策を講じていた幕僚らは目障りな隊付青年将校に圧迫を加えるようになった。
 
革命的な国家社会主義者北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。

陸軍はこうした動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていたが、1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で陸軍士官学校事件において磯部と村中を逮捕した。しかしこれによって青年将校の間で逆に陸軍上層部に対する不信感が生まれることになった。

1935年(昭和10年)2月7日、村中は片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが、軍当局は黙殺した。
3月20日、証拠不十分で不起訴になったが、4月1日、停職となった。4月2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。4月24日、村中は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。5月11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出し、磯部は5月8日と13日に、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。
7月11日、「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。
中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。8月2日、村中と磯部は免官となったが、理不尽な処分であった。

1935年(昭和10年)7月、真崎甚三郎教育総監が罷免されて皇道派と統制派との反目は度を深め、8月12日白昼に統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。

五・一五事件(1932年)で犬養毅総理を殺害ほか、各地を襲撃した海軍青年将校らが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用して部下多数を動員したクーデターではない。

なお三井財閥は血盟団事件(1932年2月-3月)で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(総務省統計局の戦前基準国内企業物価指数で、平成25年の価値にして700万円ほど)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた。

2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという。
2月23日、栗原中尉は石原広一郎から蹶起資金として3000円受領した。
2月25日夕方、亀川哲也は村中孝次、西田税らと自宅で会合し、西田・村中の固辞を押し切り、弁当代と称して、久原房之助から受領していた5000円から、1500円を村中に渡した。
 
青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。
まず相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これによって維新断行の機運を醸成すべきで、決行はそれからでも遅くはないという慎重論もあったが、第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。
なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。

安藤輝三大尉は第1師団の満洲行きが決まると、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べ、また1935年1月の中隊長への昇進の前には、当時の連隊長井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束し、蹶起に極めて消極的であった。
栗原、磯部から参加要請され、野中から叱責をうけ、さらに野中から「相沢中佐の行動、最近一般の情勢などを考えると、今自分たちが国家のために起って犠牲にならなければ却って天誅がわれわれに降るだろう。自分は今週番中であるが今週中にやろうではないか」と言われ、ようやく2月22日になって決断した。
 
北一輝、西田税の思想的影響を受けた青年将校はそれほど多くなく、いわゆるおなじみの「皇道派」の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集した少尉級を野中四郎大尉が組織し、決起へ向けて動きを開始したと見るべきであろう。
2月20日に安藤大尉と話し合った西田は、安藤の苦衷を聞いて「私はまだ一面識もない野中大尉がそんなにまで強い決心を持っているということを聞いて何と考えても驚くほかなかったのであります」と述べている。
また山口一太郎大尉は、青年将校たちの多くを知らず、北、西田の影響をうけた青年将校が相対的に少ないことに驚いたと述べており、柴有時大尉も、2月26日夜に陸相官邸に初めて行った際の印象として「いわゆる西田派と称せられていた者のほかに青年将校が多いのに驚きました」と述べている。
 
磯部は獄中手記で「・・・ロンドン条約以来、統帥権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
…藤田東湖の『大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂えん』これが維新の精神でありまして、青年将校の決起の真精神であるのです。
維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又案と計画を実現すること、そのことでもありません。
維新の意義と青年将校の真精神がわかれば、改造法案を実現するためや、真崎内閣をつくるために決起したのではないことは明瞭です。
統帥権干犯の賊を討つために軍隊の一部が非常なる独断行動をしたのです。……けれどもロンドン条約と真崎更迭事件は、二つとも明に統帥権の干犯です。……」と述べている。
村中の憲兵調書には「統帥権干犯ありし後、しばらく経て山口大尉より、御上が総長宮と林が悪いと仰せられたということを聞きました。
…本庄閣下より山口が聞いたものと思っております」とある。また、磯部の調書にも「陛下が真崎大将の教育総監更迭については『林、永田が悪い』と本庄侍従武官長に御洩らしになったということを聞いて、我は林大将が統帥権を犯しておることが事実なりと感じまして、非常に憤激を覚えました。右の話は……昨年十月か十月前であったと思いますが、村中孝次から聞きました」とある。

『本庄日記』にはこういう記述はなく、天皇が実際に本庄にこのような発言をしたのかどうかは確かめようがないが、天皇が統制派に怒りを感じており、皇道派にシンパシーを持っている、ととれるこの情報が彼らに重大な影響を与えただろう。
天皇→本庄侍従武官長→(女婿)山口大尉、というルートは情報源としては確かなもので、斬奸後彼らの真意が正確に天皇に伝わりさえすれば、天皇はこれを認可する、と彼らが考えたとしても無理もないことになる。
 
「蹶起の第一の理由は、第一師団の満洲移駐、第二は当時陸軍の中央幕僚たちが考えていた北支那への侵略だ。これは当然戦争になる。もとより生還は期し難い。とりわけ彼らは勇敢かつ有能な第一線の指揮官なのだ。
大部分は戦死してしまうだろう。だから満洲移駐の前に元凶を斃す。そして北支那へは絶対手をつけさせない。今は外国と事を構える時期ではない。国政を改革し、国民生活の安定を図る。これが彼らの蹶起の動機であった」と菅波三郎は断定している。
 
東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合で青年将校の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起こりうることを報告して事前阻止を進言していた。

磯部と陸軍幹部の接触
 
この蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。
「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後憲兵の尋問に答えている。
1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。

1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
1
936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。

1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。
川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。
1936年1月28日、磯部が真崎大将のもとを訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した。
磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した。
1936年2月早々、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。
 
蹶起趣意書
 
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。
1936年2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。

また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。
蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。

要望事項
 
26日午前6時半ごろ香田大尉が陸相官邸で陸相に対する要望事項を朗読し村中が補足説明した。
現下は対外的に勇断を要する秋なりと認められる
皇軍相撃つことは避けなければならない
全憲兵を統制し一途の方針に進ませること
警備司令官、近衛、第一師団長に過誤なきよう厳命すること
南大将、宇垣大将、小磯中将、建川中将を保護検束すること
速やかに陛下に奏上しご裁断を仰ぐこと
軍の中央部にある軍閥の中心人物(根本大佐(統帥権干犯事件に関連し、新聞宣伝により政治策動をなす)、武藤中佐(大本教に関する新日本国民同盟となれあい、政治策動をなす)、片倉少佐(政治策動を行い、統帥権干犯事件に関与し十一月事件の誣告をなす)を除くこと
林大将、橋本中将(近衛師団長)を即時罷免すること
荒木大将を関東軍司令官に任命すること
同志将校(大岸大尉(歩61)、菅波大尉(歩45)、小川三郎大尉(歩12)、大蔵大尉(歩73)、朝山大尉(砲25)、佐々木二郎大尉(歩73)、末松大尉(歩5)、江藤中尉(歩12)、若松大尉(歩48))を速やかに東京に招致すること
同志部隊に事態が安定するまで現在の姿勢にさせること
報道を統制するため山下少将を招致すること
次の者を陸相官邸に招致すること
26日午前7時までに招致する者――古庄陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
午前7時以降に招致する者――本庄、荒木、真崎各大将、今井軍務局長、小畑陸大校長、岡村第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井中佐

襲撃目標
 
2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。
また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。また2月22日に暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎教育総監陸軍教育総監が目標に加えられた。

第一次目標
 
斎藤實内大臣
斎藤實内大臣(前総理・子爵・予備役海軍大将)は、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。
坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる襲撃部隊が、四谷区仲町三丁目(現:新宿区若葉一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。
襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。
IMG_6870



目の前で夫が蜂の巣にされるの見た妻・春子は、「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとしたため腕に貫通銃創を負った。しかしそれでも春子はひるまず、なおも斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさっている。春子の傷はすぐに手当がなされたものの化膿等によりその後一週間以上高熱が続いた。
春子はその後昭和46年(1971年)に98歳で死去するまで長寿を保ったが、最晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。事件当夜に斎藤夫妻が着ていた衣服と斎藤の遺体から摘出された弾丸数発は、奥州市水沢の斎藤実記念館に展示されている。
斎藤には事件後位一等が追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られ、昭和天皇より特に誄(るい、お悔やみの言葉)を賜った。

後藤文夫内相
警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は警察や地方行財政などの内政を専管する後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸も襲撃して、これを占拠した。歩兵第3連隊の鈴木金次郎少尉が襲撃部隊を指揮していた。後藤本人は外出中で無事だった。

海軍の動き

芝浦埠頭に上陸する海軍陸戦隊(2月26日)
襲撃を受けた岡田総理・鈴木侍従長・斎藤内大臣がいずれも海軍大将・海軍軍政の大物であったことから、東京市麹町区にあった海軍省は、事件直後の26日午前より反乱部隊に対して徹底抗戦体制を発令、海軍省ビルの警備体制を臨戦態勢に移行した。

26日午後には横須賀鎮守府(米内光政司令長官、井上成美参謀長)の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させて東京に急派した。また、第1艦隊を東京湾に急行させ、27日午後には戦艦「長門」以下各艦の砲を陸上の反乱軍に向けさせた。
この警備は東京湾のみならず大阪にも及び、27日午前9時40分に、加藤隆義海軍中将率いる第2艦隊旗艦『愛宕』以下各艦は、大阪港外に投錨した。この部隊は2月29日に任務を解かれ、翌3月1日午後1時に出航して作業地に復帰した。


関連記事
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/39446279.html


http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/preview/edit/59cf4f83bcea3689d248109c1df058cf









 

いわゆる「談話」というやつ???
何回、難解きいても、よくわからないこの「談話」ってやつは、誰が聞いているのでしょうか、と問いたくなる。
また、だれだれ「談話」っ~のがいっぱいあって、それもどれもこれも似たりよったりで、奥歯にモノが挟まったような、物言いで、「すっきりせんかい!」とついついいいたくなる。そうではありませんか???  

アーアーア、皆さん~静粛に・・・ ・・・。

優等生の回答
GQ 本稿は2015年5月発売の『GQ JAPAN』7月号に掲載したコラムです。

村山談話は「優等生の回答」だったと思います。決して日本人全員の「本音」ではないけれど、日本人が公的に言わなければならない「建前」をきちんと言語化していた。ああいう観念的で優等生的な言葉は日本では戦後ひさしく日本社会党が担当していました。
「村山談話」は政界再編の混乱の中で日本社会党の党首がもののはずみで総理大臣になってしまったのが、たまたま戦後50年目だったせいで歴史に残る談話となりました。「しかし」も「とはいえ」もなく、日本の侵略をきっぱりと認め、反省したこの「学級委員答弁」が、いくつかの偶然によって日本の公式発言として歴史に残ることになったのです。その外交的な功績は実に大きなものでした。

村山談話を批判する人たちは、村山談話のせいで中国の反日機運が高まったと言いますけれど、これは歴史的事実として間違っています。
たしかに同時期に中国で反日キャンペーンが始まりましたが、これは党内権力基盤の弱かった江沢民が政治的求心力を得るために民衆のナショナリズムを煽った、ベタで不出来な政治的マヌーバーです。仮にあの時点で、村山談話に遠く及ばない「反省の色のない」談話を出したら、中国の反日キャンペーンはもっと過激で暴力的なものになっていたはずです。

戦後50年 「村山富市」氏 
「私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」。(いわゆる「村山談話」より。前後略)
中国人にとって過去100年を遡っても国民的統合の成功体験は抗日戦しかありません。だから、国民を統合する求心力の強い「物語」が必要になると、彼らはそのつど日本軍国主義に対する中国人民の勝利の物語を呼び出すことになる。その記憶が強調されたり、忘れられたりするのは、中国の政治的文脈によって決定されることで、村山談話の中身とはもう関係がありません。歴史的事実をどう語るかはそのつどの政治的文脈が決定する。そういうことです。

だから、もし8月に出る「安倍談話」が日本軍の戦時におけるふるまいについての誠実な反省の言葉を含んでいなかったら、中国、韓国はもちろん、イギリスやオランダや、場合によってはフランスやアメリカまでもが、これまで封殺してきた「日本軍が自国民に加えた暴力と屈辱」の物語を語り出す可能性があります。欧米が今のところそういう話を持ち出さないでいるのは「日本は戦争犯罪については反省している」という説明を一応信じているからです。

「高校デビュー」の全能感
戦後60年 「小泉純一郎」氏
「こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します」。(いわゆる「小泉談話」より。前後略)
安倍首相がこれまでの右派政治家と違うところは、外交的には「対米追従」でありながら、「反米」の心情を少しも隠さない点にあります。

ペリーの浦賀来航以来、日本人は150年にわたってアメリカ相手に「ゲーム」をしてきました。世界のどの国よりも近代日本に干渉してきたのはアメリカです。この「アメリカによる干渉」に日本人はさすがにうんざりしてきている。反基地運動をしている左派やリベラルだけではなく、「自主憲法」制定や「自主核武装」をめざす右派の諸君もアメリカにうんざりしていることに変わりはない。でも、日本のナショナリストは「反米」を表明することが禁止されていた。

だから、右派は本音を言えば北朝鮮が羨ましいんだと思います。あの国は中国とも韓国ともロシアともアメリカとも、どこが相手でも「事を構える覚悟がある」。もちろん半ばはハッタリですけれど、それでも周りの国はそのせいで北朝鮮を嫌い、恐れてもいる。国内では個人崇拝、独裁、反対派は粛清。民衆が飢えても、軍隊は核武装。偽札は刷る、麻薬もミサイルも売る。この北朝鮮の「けっ。怖いもんなんかねーよ」というヤンキーなスタイルに魅了されている日本人は意外に多いのではないかと思います。日本も「ああいうふうにすればいいのに」とひそかに思っている人たちが安倍首相を支持しているのだと僕は思います。

戦後70年、日本は「3学期の学級委員」的でした。言うことは模範的だが、さして人望はなく、腕力もない、へなちょこな優等生。憲法9条を掲げる日本って、改憲派から見るとそういうふうに見えていたんだと思います。そんな「学級委員的生き方」にうんざりした人たちが「みんな着席してください」と注意している学級委員の背中を蹴飛ばして、「うっせーよ」って言ってみたい気分になっている。窓ガラス割ったり、床につば吐いたりしたい。そういうふうに思っている日本人がたくさんいる。

日本国憲法前文が掲げる「きれいごと」を実現しようとして、70年「優等生」を演じているうちに、きっとみんなうんざりしてきちゃったんですよ。そのうんざり気分が臨界点に近づきつつある。安倍さんの支持層の本音は「悪いことをしたい」んだと思います。もう国際社会から「嫌われてもいい」んです。別に倫理性が高いとか、徳があるとか言われたくない。ほめられるくらいなら、怖がられたい。侮られるくらいなら、嫌われたい。

「高校デビュー」の不良高校生が肩怒らせて、つば吐きながら歩いてみたら、善良な市民がみんな道を空けてくれる。びっくりするのは本人です。なんだよ、世の中ってこんなに簡単なのか。悪い子のふりをしたら、みんなびびるじゃん。そして、このイージーな全能感に嗜癖してしまう。

安倍さんは今「高校デビュー」の全能感に酔い痴れています。歴代自民党政府が遠慮してやらなかったことをいざやってみたら、誰も抵抗しなかった。野党もメディアも全員腰砕けだった。なんだ、愚民どもを支配するのってこんなに簡単だったのか。「てめえ、やんのかよ」とすごんだら、みんな黙り込んだ。これはびっくり。

「かっこうだけ」

戦後70年 「安倍晋三」氏
「?????????」
でも、もとが「高校デビュー」ですから、「かっこうだけ」で、実力はありません。尖閣列島や竹島のことだって、絶対に軍事衝突なんか起こらないとたかをくくっているから強気なことが言える。

もう何度も言ってますけれど、韓国軍の戦時作戦統制権を持っているのは在韓米軍司令官です。だから、韓国軍と自衛隊が戦うことが万一あったとしても、そのとき指揮をとっているのは米軍司令官です。つまり、韓国軍が攻めて来るのは米軍と一緒に、ということです。

中国とも戦争は無理です。尖閣で中国軍と自衛隊や海保との衝突があっても、米軍は出て来ません。中国相手に戦争することにアメリカは何のメリットもないんですから。でも、米軍が出てこなければ日本人は怒り出します。日米安保条約は空文で、米軍基地はただのハコモノだったということになる。そうなれば、当然「日米安保条約即時廃棄」「米軍基地即時撤去」という話になる。アメリカが恐れているのはそういう事態です。だから、あらゆる手立てを尽くして「そういう事態」の到来を防ごうとしている。

でも、アメリカの抑止が100%成功するとは限りません。米軍が日本をコントロールすることを諦めて「もう勝手に中国相手に戦争してろよ」と列島を去るときが来るかもしれない。そのときそこに現出する風景は、1930年代の日本の姿そのままなわけです。世界中を相手に戦争する気分でささくれだった、目つきの悪い国民がそこに残る。

現代日本人の一部にとってそれはたぶんかなり魅力的な空想なんだろうと思います。世界中から嫌われ、恐れられる国になりたい。そう思っている人たちがいま安倍さんを支えている。日本人は「いい人」になるように努力することにもう飽きちゃったんです。これはかなり根の深い国民感情なので、噴き出したら、制御するのは困難です。

海外メディアからの安倍批判は、要するに「あなたのしていることは、『よくないこと』だ」ということに尽くされる。でも、当人は「悪いことがしたい」からわざわざそうしているわけで、「それがどうした」とせせら笑うだけです。

でも、そのうち「ほんとうに悪い奴」が出て来てがつんと一撃食らわせると「きゅん」となっちゃうのが「高校デビュー」の哀しい宿命です。その辺が話の「おとしどころ」でしょう。ふつうに考えれば、ホワイトハウスが「従属国の分際で宗主国の仕事増やすんじゃねえよ」と言ってはり倒しに来るんでしょう。きっと。

内田 樹
思想家、武道家(合気道7段)、神戸女学院大学名誉教授。相談の達人。ブログ「内田樹の研究室」主筆。凱風とは、「南からやわらかに吹く風」の意。





 

↑このページのトップヘ