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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

2015年09月

あと1日の死闘
市政継承か刷新か 攻防し烈 
2015/9/10 河北新報
候補者の訴えに耳を傾ける有権者。投票日が近づくにつれ戦いは激しさを増している
 山形市長選(13日投開票)は最終盤戦に突入した。立候補している無所属新人3人のうち、安全保障関連法案に反対し争点化を図る元防衛省職員梅津庸成氏(48)=民主・共産・社民・生活推薦=と、「流れを変える」と市政刷新を訴える元経済産業省職員佐藤孝弘氏(39)=自民・公明・次世代・改革推薦=の攻防は、し烈を極めている。

<風頼みに危うさ>
  梅津氏がまず切り出したのは安保法案だった。9日夜の個人演説会。「違憲」と戦争に巻き込まれる危険性を強調して力を込めた。
 「この法案は葬り去るしかない」
 入れ違いに会場に入った吉村美栄子知事も、山形市の宣言と佐藤氏のキャッチフレーズを絡めて呼び掛けた。「平和都市の流れを変えられては困るんです」
 梅津氏は市川昭男市長の市政運営の継承を掲げる。民主、共産、社民3党が支える態勢を引き継ぎ、支持者の多くが重なる吉村知事の支援も受ける。
 市川氏は故吉村和夫市長の助役を務めた後継。陣営は和夫氏の長男で会社社長の和文氏が選対幹事長、次男で民主党県連幹事長の県議和武氏が指揮を執る。ともに吉村知事の従兄弟だ。
 陣営幹部は「梅津氏の市政継承は、地盤維持のため、知事らにとっても譲れない」と指摘し、吉村知事の動きに目を見張る。連日、市川市長らと演説会場を回り、自らの選挙でも張らなかったポスターで、自宅の壁一面を埋めた。
 ただ安保法案に反対する世論の高まりと、吉村知事らの支援に期待する陣営内の雰囲気に、危うさを指摘する声もある。
 告示日6日の出陣式で元民主党衆院議員鹿野道彦氏の声が響いた。「何やってるんだ。早く壇上に上がれ」。促されたのは5月末、梅津氏に出馬要請した17人の市議ら。鹿野氏側近は「市議団が動かなければ負けるぞ。風に頼るなという意味だ」と代弁した。

<逆風の強さ誤算>
  佐藤氏陣営は、市長選で問われるべきは安保法案ではなく、これまでの山形市政、未来だと論陣を張る。
 「この10年間、一体何をやっていたんだ。このスピード感のなさ。トップが動かなければ市は動かない」
 佐藤氏は9日夜の個人演説会で、近隣市と山形市の現状を比較して市川市政を痛烈に批判した。
 昨年度のふるさと納税は天童市7億8000万円、山形市1212万円。県内で唯一人口が伸びる東根市が大型の遊び場、子育て施設を整備したのは10年前で、山形市は昨年12月だ。
 佐藤氏は前回市長選の落選直後に再挑戦を表明した。遠藤利明五輪相(衆院山形1区)の全面支援を受け、33の地域後援会を組織。企業、職域団体の会合にも小まめに顔を出してきた。自民党に加え、今回は公明党などの推薦も得た。
 「市職員組合中心の体制が続けば、このまま市役所職員のための市政になる」
 佐藤氏の前にマイクを持った遠藤氏も、市川市政を繰り返しこき下ろす。象徴として119番山形大生死亡訴訟での対応や、唐突に明らかにした保育料値上げ計画などを挙げて「答えは簡単だ。変えるしかない」と強く訴えた。
 佐藤氏にとって、土壇場で目算が狂ったのが安保法案への逆風の強さだ。
 自民党県連の金沢忠一幹事長が9日夜、別の演説会で声を張り上げた。「4年間地道に活動してきた佐藤氏が、告示3カ月前に出てきた相手に負けるわけにはいかない」
 市長選には飲食店経営五十嵐右二氏(64)も立候補している。

<山形市長選> 非自民の市政続き半世紀
 任期満了に伴う山形市長選は、13日の投開票に向け、無所属新人の3候補が激闘を繰り広げている。市川昭男市長の市政運営の継承か刷新かが最大の争点。自民党が現職に相乗りした一時期を除き、非自民中心の市政が約半世紀続いており、3候補とも今回が継続か転換かの「剣が峰」と位置付ける。政党対決の構図にも深く関わる自民、非自民の県都争奪史を振り返る。
(記事引用一部追記)







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市町村大合併のコンセプト

最近よく耳にする「市町村合併」。
しかし、なぜ今「合併」なのか、よくわからない人がほとんどだろう。先ごろ、大宮・浦和・与野の3市が合併し、さいたま市になったが、大規模自治体の合併は稀であり、都市部に住む人にとっては、市町村合併は関心が低いに違いない。さらに、当事者である市町村の住民もこの合併の意味がよくわかっていないのが実情ではないだろうか。

 中には「合併すればその自治体の借金が帳消しになる」というデタラメなウワサも流されているという。いったい、自治体(市町村)の合併にどんな意味があるのか。かく言う私も調べてみるまでは五里霧中。なぜ合併なのか、どんな意味があるのか、そしてどんな問題があるのか、正直言って皆目見当がつかなかった。

 このコーナーでは、誰でもわかるように、自治体合併の意味と影響をまとめてみた。「市町村合併」は決して「地域」だけの問題ではなく、日本のこれからの進路を決定する重要な問題であるということが見えてくるはず。(2003・06・13) [地方自治体]一定の地域およびそこに住む住民を存立の基礎とし、その地域における行政事務を住民の自治によって行う団体。都道府県・市町村などの普通地方公共団体と、特別区、地方公共団体の財産区などの特別地方公共団体とがある。
市町村合併って何?
 いくつかの市町村が一緒になって、より大きな自治体になること。「新設合併」(いわゆる対等合併)と「編入合併」(吸収合併)の2つに分けられる。
合併の沿革 明治・昭和の大合併とどう違うのか
 明治になり、江戸時代から日本に存在した自然村、いわゆる基礎自治体が統廃合されて、中央集権的な行政区域に再編統合された。その数1888年(明治21年)で7万1314。それが、1889年の市町村制の施行で約5分の1の1万5859に減少した。これがいわゆる明治の大合併。

 1945年には1万520に減ったものが、「町村合併促進法」(1953年)、「新市町村建設促進法」(1956年)を経て、1961年には約3分の1の3472になった。これがいわゆる昭和の大合併。
 その後、1965年に「合併特例法」が施行されるが、その効果はほとんどなく、市町村の数は現在までほとんど変わらないまま推移してきた。

 それぞれ、合併の目的は異なり、「明治の大合併」は行政上の目的に合った規模と、自治体としての町村の単位の隔たりをなくすために、300~500戸を村の標準単位にして行われた合併。つまり、明治以前の自然村・集落を行政単位に再編したということ。基本的に地方自治意識を国民に知らしめる意図があった。

 「昭和の大合併」の場合は敗戦後に行われた新制中学の設置管理、消防、自治体警察の創設に関連して、事務などを効率的に処理するために行われた、いわば合理化合併。500人の集落が5つ同じ地域にあったとしたら、それぞれに警察を5つ作るより、まとめて1つにしたほうが、警察・消防活動も合理的にできるということだ。

 これらは、名目上、自治の大義に則ったもので、今展開している「平成の大合併」とは理念が大きく異なる。

 明治、昭和の合併にも国家の要請による「中央集権化」の意図があったが、これに関しては後述。
なぜ今合併なのか
 2001年4月の小泉内閣成立による、いわゆる構造改革論がその背景にある。
「医療費の本人負担率3割にアップ」など、国民の弱い部分に「痛み」を押し付けるのが「構造改革」の実体。国は国民だけでなく、地方自治体ーー中でも弱小自治体に、その「痛み」を押し付けようとする。結論から言えば、それが「市町村合併」だ。

 つまり、国と地方合わせて700兆円近い財政破綻を打開するために、国からの地方交付税を減らそうというのが狙い。

 市町村の数が減れば交付税の「出費」も少なくなる。いってみれば、親に家計をやりくりする才覚が無く、バクチに手を出したりしたあげく、借金を背負い、その責任を、子供たちに押し付け、「おまえら、明日から食事は一日ニ食だけにしろ」と言ってるようなもの。

 もちろん、子供(市町村)は親の手伝いをして、家にお金を入れているのに、親がそのカネを野放図に使っている、という構図が背景にある。いわゆる「3割自治」だ。

 これは、行政サービスの7割を提供しているのに、国民の納める税金の3割しか自治体の直接収入にならないことを指す。当然、国からの交付金、補助金がなければ、自治体の運営はできない。自治体の借金は200兆円以上の巨額にのぼっている。その原因は公共投資に伴う国からの補助金のツケがほとんど。

 悪どい高利貸しに、「カネならいくらでも貸すから、高級な家具を買え、インテリアを新しくしろ」と無駄な出費を強いられ、借金漬けになっているようなもの。立派な庁舎、競技場など、いわゆる「ハコもの」行政のツケが回ってきているといえる。

 しかし、親が子供を養育する義務があるように、国は地方自治体への交付金を勝手にストップしたり、削減することはできない。それは憲法に謳われた「地方自治の本旨」から逸脱するからだ。

 それなら、合併させて市町村の数を減らし、交付金の総額を減らそうというのが、この合併問題の「正体」であり、国がシャカリキになる一番の理由。しかし、「合併してくれ」と上から押し付けるわけにはいかない。合併は下から自発的に行われることが国にとって望ましい。
 で、アメとムチが登場することになる。 
(記事部分引用)


呼継よびつぎ・神籬ひぼろぎ 2014年01月26日06:46記事より
神籬(ひぼろぎ)という場の呼び名
a 「ひもろぎ(神籬)」に同じ。神事をとりおこなう際、臨時に神を招請するため室内や庭に立てた榊(さかき)。しめ縄を張って神聖なところとする。
 古くは、祭りなどの際に、周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて神座とした場所をいい、のちには神社をもいう。神座。ひぼろぎ。《神籬》 「神なびに―立てていはへども /万葉 2657」
b 神にそなえる米・餅・肉などの供物。ひぼろぎ。ひぼろけ。ひもろけ。《胙・膰》 辞書検索

 神籬(ひぼろぎ)という字も、その場所も現日本人は知らない、と前置きしてもいい。それを「死語」と云うらしいが、さて、それを知ってどうすると問われると返答に窮する。
 それと同じカテゴリーで「呼継(よびつぎ)」という言葉が陶芸の世界では使われているようだ。それを知らないと「なんだこいつ、よびつぎ、も、ひぼろぎ、も知らないのか」とさげすみ、無視したような冷めた視線が返ってくる。とかくブランド志向の日本人だから・・・。

 そんなことはどうでもいいが、そうした昔から(この昔から、というのは何時を指すのだろうか。自分で使いながら時間枠が曖昧で、それが100年なのか1000年前なのか規定しない。しかし賢い読者は前後文体から察して、その時間帯を推察している)、昔から大切に扱われていたように思う。
 それがアナログからデジタルへ移行するようになって急激に死語化した。むしろ、それらは必要なく「必要不可」の存在であると時代が要請したのだろう。その代替がパソコンとか、アイフォンとかタブレットなのだろう。
 それを同じ土俵で戦わせると断然IT機器に軍配が上がる。アイフォンの使い方をマニュアルなしに自在に操るのは、その時代に生きて、その時代に必要な生活必需品だからだ。それを1000年後の話しとして考えるとどうなるか。
 いまから1000年前の日本だと、だいたい鎌倉時代になり、その場所も言葉も、書き残した文献も残っている。したがっておおよその鎌倉社会は、再現できるしテレビドラマを見ても違和感はない。
 その先、2000年前はどうか、となるとにわかに怪しくなる。時間と云うのは古くなるほど不透明で、かりに「字体」があったとしても現代人は理解できない。その文言意味を解読するには途方も無い時間と費用がかかる。
 いまは、便利だ全部CDかまたUSB、さらにHDDに保存しておけば半永久保存媒体だと、誰もが信じて疑わない。それが今大問題となっている。

 01、この二つのデジタル記号の組み合わせ方数億通りで、端末ディスプレーに表示され、人間は、視覚でそれを取り込み脳で処理する。いってみれば「文字」「絵」を概念にしてある。その概念は、一時も覚えられないから、記録しておかなければならない。古代でも現代でも文字はそうした機能を備えていた。それを石に刻んだりパピルスに書いたり、和紙と墨で「書」というアートまでに到達した。文字のスタイルは時間枠に関係なく、ほぼ原型を維持しているが、それを写す媒体は、時代とともに大変革している。
 和紙を例にとれば、「神なびに―立てていはへども /万葉 2657」と、その時代の原本となると国宝級だ。扱いも厄介で虫食い穴だらけのボロボロになった紙は、これまた修復するには特別な技が必要となる。
 それに比べたらデジタルのCD・HDDはまったく心配ないと私も思っていた。ところが、その本体の素材が1000年持たない、ということに気が付いて、いま、その素材開発に着手した、という話を耳にした。そんなことは、云われて初めて考えることであって、CDが1000年先に回転しているか、なんてことは考えもしなかった。だいたいが、そのCD版を廻す機械が1000年後にあるのか、ということも大問題であるようだ。
 そうしたことは自分の日常を考えても察しがつくが壊れたら捨てる、型が古いと新しくする約7年サイクル、余ると保存する。それは家屋でも人体でも同様、肥満になる。そんなことを僅かの人生スパンで繰り返していると1000年という時間は、夢のように過ぎ去ってしまう。
 気が付くと、プラスチックは変形し、それをどのよに操作するのかもわからない。さらに悪いことには機器はリモコン操作でないと動かない。取説は冊子でなくパソコン内検索で保存されている。その一つ一つがバラバラに放置され、さながらパズル組み合わせの様相だ。それは現在、古代文字を解読している作業とまったく同じ工程を追っている、と考えるのは単なる杞憂なのか。
 参考までに記録する紙の質素材開発の話しを耳にした。生物遺伝情報の先駆として、DNAに着眼したはなし。塩基配列をデジタルデータとみなし、遺伝子組み換えテクニックで情報を書き、遺伝子解読装置で取り出すというアイディア。
 その方法でシェークスピアの詩を合成遺伝子に保存し、引き出し再生に成功した論文を2013年「ネイチャー」に発表した、という。さらに、生きた細胞遺伝子4箇所に別々の形式で保存し数千年間保存できる、という可能性の端緒を開いた。それは現代科学の最先端技術であるとトロント大谷内研究員が語っている。 
 その物理化学のデジタル論議は、研究成果としては先鋭的な実験である。ひるがえって自分の体験談。
 「経験的観測」に基づいて論証してみると、昔聴いた「黒いレコード盤」は、現物として存在するが無用の長物化として3階ロフトに寝ている。捨てられない。オープンリールテープは重すぎて移動できない。同じく寝たまんま。カセットテープは機械本体が故障で直すのに3万円かかった。そのあと、カセットテープをデジタル化する機械が廉価で開発され修理したアナログカセットデッキは行き場を失った。デジタル定番の本命と目されたMDは、HDDやmp3に座を追われ中古市場のみで活況だ。
 音楽伴奏、パーカッションソフトは、デジタルキーポートに内臓され、素人でも4・5人分のパート演奏が可能で、仕上がりはプロと殆ど変わらない。パソコン画像、絵画に至っては境界線がもはやなくなったと極論される。

 昨日、たまたま聴いた放送音楽で三橋三智也(故人)が三味線で洋楽オーケストラとコラボレーションしていたのを聴いた。見事な演奏だった。たぶんそれは60年以上前の録音だろう。
そしていま新しいとされる津軽三味線の若手奏者が、洋楽とコラボレーションしている。その差60年の隔たりは大きい。
 すでに昔やっていたことが、すっかり払拭され人々の記憶から完全に抹殺され、そこに新しいとされた形態が、実は、すでに実証済みという徒労は、いったい誰が負うのだろうか。

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「呼継(よびつぎ)」
ヒビ割れに宿る日本的美意識を、あえてガラスで表現する男
2014.1.8 WED WIRED  

ネットとテレビは競合しない.斜に構えた若者たち
非常にインセンティブな例題タイトルの記事3っがあって、さて、どれを取り上げて、掻き回してやろうかと、算段していたところ、昨日のハイブリット手法が好評だったので、それにすることにした。いや、これはパクリではない!!!

まず気になったのが「ラジオってどうやって聴くんですか?」 、というのだった。まあ、少々オーバーアクションな見出しだとは思うが、昨今のメディア情報は様々な聞き方があるので、さもありなん。

手前味噌・・・、いやこれもわかりづらいかな。自分の体験的な、その音楽でも本でも、旧アナログ媒体が、パソコン仕様になって、膨大な文字とか絵とか音とか動画とかが、縦横、僅か30センチ四方の液晶に嵌まり込んでしまうのは、やはり脅威な方法論だ。

いまもっとも重宝しているのか、ジャズ番組で内容が濃いのにタダという夢のような送信媒体で、しかも発信がアメリカ。

念のためにURLを明記しておくので、ジャズに限らず、様々なジャンルを持っているので是非聞いてみると納得できるはず。海外アクセスにつきもののスパムは一切シャットアウトされているので心配ご無用。

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朝からあいにくの雨、止みそうになかったが雨降る中、一仕事やってまいりました。いや
いや、この時期、「五穀豊穣」祭祀があり、日本全国秋祭りの季節。(9月13日)
その準備の一つで祭りに欠かせない隣組による「幟」(のぼり)建てがあって、なんでも固陋(ころう)のはなしだと、1683年の天和3年以来よりとのことである、と云っていた。

なにしろ、その「じいさん」
頑迷固陋と云われたくらいで、近所では噂の博学ジジイとして、決して好かれてはいなかった。
99歳までかくしゃくと歩いていたが、昨年、祭りの前日に大往生だったとか。その身辺整理していた家族が、何も遺さなかった中の一つに、ふすまの下張り、じゃないが、一枚の筆描きのメモらしきものがあったらしい。

たまたま、その家族と縁があり、それをみせてもらった文だか、まったく読めなかった。隣町の役場職員で
キュレーターの友人に解読してもらうと、「二条上ル冷泉町の一角に築地塀に囲まれた三井越後屋京本店記念庭園がある。江戸時代の商人・三井高利ゆかりの京本店跡地であり三井京都創業地」(1686年)。ということだった。
その話し、ほとんど40年前だし、まして自分にとってなんの因果もなかったので、そのことはすっかりの忘れていた。

とにかく、今日の雨は止まなかった。
昼前に、その仕事を終えて自宅で喉湿しに仲間3人とビールを飲んだ。 話しの話題で、最近オープンした蕎麦屋の話題になって、蕎麦でも食うか、ということになり、雨の中、傘をさして歩いて5分の、その蕎麦やに入った。

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田舎町の国道沿いで立地は悪くないが、この雨だし、客は誰もいなかった。この店は、旧大地主の母屋としてあったが、御多分に洩れず、家族は離散し、僅かな家系筋が細々と保守していた、という地元住民の風聞だ。それを地元不動産屋の仲介を通してある人が買い、それをテナントとして貸し出したのが蕎麦屋だった。

今流行りの古民家で、さすがに大地主だけの建作りで、明治時代の銀行の扉のような、巨大な門扉が店舗と奥座敷を仕切っていた。こんなさびれた田舎町も、かつては栄華を誇っていた時代があったと、あらためて再認識させられた訳である。

ちなみに蕎麦屋で食ったのは「カレー」だった。その日のメニューに蕎麦はなかった。
(所在、その他URLは調査して後に記載する)


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「ラジオってどうやって聴くんですか?」 
池本孝慈2015年09月07日 10:15
http://blogos.com/article/132441/?p=2
ケーブルテレビで聴く。うちはケーブルテレビではないから、どうでもいいや、と思った方もぜひ読んでみてください。ラジオのデジタル化というかつての動きの中で、実現すれば、かなり面白いことになったのではないか、と個人的に思っているのが、このテレビで聴くというラジオの聴き方です。古い地デジ対応テレビのリモコンに、Dラジオというボタンがあるのは、その頃の名残。このテレビでラジオを聴くという方法、インターフェイス的にはまだまだ課題はあるものの、首都圏、関西圏、福岡圏のJ:COMで実現しています。
(記事部分引用)

<ネットとテレビは競合しない>本質さえ忘れなければ新メディアは、旧メディアの敵ではない 高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
mediagong(メディアゴン)2015年05月27日 http://mediagong.jp/?p=9268
テレビ対日本映画という新旧メディア対決もあった。あっさりとテレビが勝った。でも、日本映画は、長い低迷期を抜けたように思える。テレビでは出来ないことをやろう。テレビ局に入るのではなく、貧乏でもいいから映画をずっとやっていこうという監督が増えたからではないか。逆に、今は、テレビが映画監督に頼っていることもよくある。
(記事部分引用)

<斜に構えた若者たち>なぜ女子大生風俗嬢はテレビカメラの前で泣き崩れたのか
高橋正嘉 2014年12月23日(火) http://mediagong.jp/?p=6769
[TBS「時事放談」プロデューサー]高橋正嘉***
情報番組であろうがなかろうが、「ネタを探す」というのはある意味「人を探す」ということだ。興味あるネタにするには、その人の紹介だけで終わってはいけない。
(記事部分引用)

次の記事より編集記事となる。

「radiko(民放ラジオ)とらじる★らじる(NHKラジオ)で聴く。」、まずこれがキーとなる。
以下は「コラージュハイブリット」にしてあるので、注意して読んでもらいたい。


利用方法は、リモコンでJ:COMテレビを選択し、dボタンを押し、そこからラジオ局を選択。少しめんどくさいですが、テレビに飽きたらラジオ、という選択肢ができることは、今後のラジオメディアを考える際に、とても重要だと僕は考えています。仕組みとしては、FM補完放送やradikoと同様、同時再送信です。

参加局は、首都圏はTBSラジオ、ニッポン放送、文化放送、関西圏は毎日放送、福岡圏はRKB、KBC。いろいろ課題はあるかと思いますが、こういう流れができたことはラジオメディアにとっては未来に向けての大きな一歩だと思っています。ラジオ、ケーブルテレビともに他局も追随してほしいです。

また、あまり知られていないのは、FM局に関しては、多くのケーブルテレビ局は同時再送信を行っています。残念ながらSTBからテレビ受信機への出力はできないのですが、システムコンポなどのFMチューナーにSTBを接続することで、高音質出力ができます。FMアンテナがなくてもクリアな音質でFMの音楽放送が聴けるのは、かなりのメリットではないでしょうか。

ネットの常時接続環境が安定していれば、IPラジオ同時再送信という方法は、もともと難聴取問題の解消のためにできたものですので、都心部に難聴取環境が多い現在、もっともラジオを安定して聴くことができる方法です。スマートフォンでは、各サービスともアプリをダウンロード。PCではサイトにアクセスすることで簡単に聴取できます。
テレビ対日本映画という新旧メディア対決もあった。あっさりとテレビが勝った。でも、日本映画は、長い低迷期を抜けたように思える。テレビでは出来ないことをやろう。テレビ局に入るのではなく、貧乏でもいいから映画をずっとやっていこうという監督が増えたからではないか。

逆に今は、テレビが映画監督に頼っていることもよくある。
テレビとネットの関係を考える。ネットはテレビの敵だという人がいた。今もいる。それは間違いである。テレビ自体の視聴率が落ちたのは他メディア時代が到来したからだが、そのせいばかりにするテレビマンは考え違いをしている。テレビがネットのまねをしているからイケないのだ。動画を集めてみせるコーナーは、ネットに任せておけばいいし、ひな壇に芸人を並べてずっとしゃべっている番組もネット動画の得意技だ。

テレビしか出来ないことは何だろう。それは「創る」ことだ。「稽古」することだ、これ以上は企業秘密だから言わない。テレビゲームがいくら流行っても、レゴで遊ぶ人はいる。スマホがいくら全盛でも、ガラケーに戻す人はいる。手帳を使い続ける人はいる。電子書籍が場所を取らないと言っても、紙の本を棚に並べたい人はいる。紙の本が、本としての本質さえ失わなければ。
 
だが、どういうわけか昔から、一定程度斜に構えてしまう学生がいるものだ。20代の若者には確かにそういう一面があるのだろう。別に拗ねているわけではないが、どうしてもまっすぐには向き合えない。まっすぐにコミットしたいと思う人も取材したが、どこか拗ねている人々も取材した。内面を知れば知るほどそうした人が興味深くなる。

新宿界隈で取材をした時のことだ。新宿にはさまざまな仕事を斡旋する人がいる。その人から新宿で働く学生の話を聞いた。彼はどこにどんな人がいるか詳しい。本当に苦学生で生活費を稼ぐために働いている人もいた。しかし、どこか拗ねている感じの女子大生を一人紹介してもらった。頭のよさそうな女の子だった。彼女は、風俗の店と呼ばれる所で働いていた。そんな彼女と打ち合わせをし、撮影したいということ、撮影の趣旨や考え方などを説明し、撮影の了解を得た。

撮影当日は彼女が住んでいるアパートにも行った。この年齢の女子大生にしてはこぎれいで立派なアパートだった。そして撮れる範囲で一日を追った。夜、撮影の終わりは静かな小料理屋で軽く一杯やりながら話を聞くという設定にしていた。レポーターは今ではかなり有名になっている人である。

レポーターに頼んだことは「インタビュー」ではない。インタビューはこれまで散々やっていた。頼んだことは「何故、こんな無理して仕事をしているのか? 
何故、拗ねて心をすり切らしているのか?」を話し合ってほしい、ということだった。彼女から説得力のある言葉は出てこない。しかし、伝わるものはあった。話が終わりレポーターがいなくなると、彼女はそのまま全く動かず、しばらく泣き続けた。それはかなり長い時間続いた。放送が終わり、すぐに筆者は次の仕事でしばらくの間海外取材に出た。珍しくちょっと長い取材だった。当時、まだ携帯電話はなかった。
海外取材から帰ってくると、筆者のデスクにメモが残っていた。彼女が会社に訪ねてきていたようだった。彼女はどこか気になる人だった。こちらから電話をしてみたが繋がらなかった。住んでいたアパートでも店でも捕まらなかった。「その源氏名の子は辞めた」のだという。連絡はつかず、結局、彼女がどんな用事で筆者を訪ねてきたのかはわからなかった。
そして、それっきりになった。もちろん、探す手がかりはなかった。後は大学だが、それはやるべきことでもない。何を言いに来たのかわからないままだった。

ただ、撮影が終わった時の彼女を思い浮かべれば、いつものような明るさに戻っていた。テレビに出ると決心したのは何かを吹っ切ろうとしたのかもしれない。あれからずいぶん時間が経ったが、相変わらずどこか斜に構えた人生を送っているのか、まっすぐ社会に向かっているのか、どちらなのかよくわからない。だが、今でもこの後の彼女の人生が気になっている。

(以上三種混合記事)


 

杉山 茂丸(元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和10年(1935年)7月19日)は、日本の政治運動家、実業家。
明治から大正、昭和初期にかけて、それぞれの時代の政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行った人物である。
自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋・松方正義・井上馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。
実は戦国大名・龍造寺隆信の末裔である。長男は作家の夢野久作。孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸、詩人の杉山参緑。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は曾孫。戯号として其日庵(そのひあん)。戒名は其日庵隠忠大観居士。

出生から青年期
福岡藩士・杉山三郎平の長男として、現在の福岡市天神あたりで出生する。明治3年(1870年)ごろ、父の帰農に従って遠賀川河口の芦屋村に移住、士族の一家が営む農業はうまくいかず貧困生活を送る。
その後筑紫郡山家や朝倉郡夜須村などを転住。父は寺子屋を開き貧困の中で平民に学問を授ける。その後、四書五経をもとに明治11年(1878年)敬止義塾を筑前町にひらく。
民約論や仏蘭西革命史などを読んで政治に目覚め、明治13年(1880年)、諸国巡遊に旅立ち、初めて東京へ。
この間、山岡鉄舟の門人となり、また後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。滞京一年半で帰郷するが、明治17年(1884年)、熊本の佐々友房から旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した。(杉山茂丸『其日庵叢書第一編』『俗戦国策』『百魔続編』、室井広一『杉山茂丸論ノート』など)

玄洋社時代
伊藤暗殺を果たせなかった杉山は、官憲の追及を避けて北海道に渡るなど、各地を転々としていたが、明治18年(1885年)、熊本県人・八重野範三郎の紹介により同郷の頭山満に出会い、心服して以後行動を共にした。頭山とともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。明治21年(1888年)九州鉄道を創立。

玄洋社機関紙『福陵新報』(のち九州日報を経て、福岡日日新聞と合併し、現在の西日本新聞)創刊などにも関わり、結城虎五郎とともに「頭山の二股肱」と呼ばれた。
またこの時期、玄洋社員・来島恒喜による大隈重信外相襲撃事件が起こり、多くの玄洋社員とともに杉山も嫌疑をかけられ収監されるという経験をした。(杉山『百魔』、藤本尚則『巨人頭山満翁』など)

明治25年(1892年)、第1次松方内閣による流血の選挙干渉事件の際、杉山は頭山の指示のもと、民党圧迫に協力するが、頭山が松方の豹変に激怒して政界との関わりを絶った頃、杉山も玄洋社から離れた。
この前後から杉山は香港との間に石炭貿易を始め、何度も現地に渡航している。杉山は香港貿易を通じて経済知識を蓄え、同時に西欧列強による中国の経済支配の様相を実見して、国家の経済的自立の重要性に目覚めた。しかし貿易事業そのものは失敗し、杉山は妻子を福岡に残して上京した。この時期、福岡に残された家族が貧窮のどん底にあったことは、後年杉山の長男・夢野久作が書き残している。(室井『杉山茂丸論ノート』、夢野久作『父杉山茂丸を語る』など)

日本興業銀行の設立運動
明治27年(1894年)、杉山は同郷の先輩である金子堅太郎の知遇を得て、経済政策を語り合うようになった。またこの前後、東京日日新聞主筆の朝比奈知泉と知り合い「暢気倶楽部」と呼ばれる会合を持つようになって伊藤博文・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平と人脈を広げた。
杉山は金子と協力して工業資本の供給を行う興業銀行設立運動を始め、朝比奈は金子や杉山の動静を東京日日新聞で報道して世論形成に一役買った。杉山は明治30年(1897年)年に初めて渡米し、アメリカの工業事情を視察すると、翌明治31年(1898年)にも渡米して、世界の金融王J・P・モルガンと単独面会し、かつ巨額の借款を約定することに成功した。

杉山らの興業銀行設立運動は、伊藤博文総理や井上馨蔵相の理解を得たものの、地租増徴問題をめぐる内閣と議会との混乱の中で握りつぶされる結果となり、隈板内閣を経て第2次山縣内閣によって、明治33年(1900年)に「日本興業銀行法」が成立する。
しかし、貴族院や国内の銀行家の反対により外資導入は不可とされ、杉山がモルガンとの間に結んだ資本導入は実現しなかった(室井『杉山茂丸論ノート』、杉山『百魔』など)。

台湾統治への関わり
明治31年(1898年)、現地住民の抵抗により統治が進まなかった台湾に、児玉源太郎が第4代総督として就任し、民政局長には後藤新平が抜擢された(1898年6月20日に民政長官)。
杉山は児玉らに対し、製糖産業の振興による台湾経済の確立を献策し、自らも製糖会社の設立に関わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設などにも関与したと見られ、添田壽一・中川小十郎らを台湾銀行総裁として推薦している(杉山『俗戦国策』など)。また、蓬莱米の普及に尽力した。

政友会創設資金の提供
伊藤博文が明治33年(1900年)に立憲政友会を結成するに際して、杉山はその創設資金の一部を提供した。杉山は元来政党政治を否定する立場であったが、将来の日露開戦を睨んで、伊藤によって政府の方針を助ける政党が結成されることは必要と考えていた。
このとき伊藤に提供された十万円の資金の出所は明らかにされていないが、杉山の友人であった小美田隆義や実業家の岡田治衛武が有力視されている。(杉山『俗戦国策』、一又正雄『杉山茂丸』、野田美鴻『杉山茂丸傳』など)

桂太郎、児玉源太郎との盟約
杉山は暢気倶楽部などを通じて陸軍の児玉源太郎と親しく交際し、対露開戦に向けて努力することを盟約した。のちにこの盟約には、明治34年(1901年)に総理大臣となった桂太郎も加わった。桂・児玉・杉山の三者による活動は、対露戦争回避、日露協商を主張する伊藤博文への対処が中心となった。
明治35年(1902年)1月、伊藤博文がロシアとの協商を目的にペテルブルク滞在中、桂内閣が電撃的に日英同盟を締結したのは、伊藤を「日露戦争の戦死者第一号」にしようという杉山の献策に従った政略であった。
また、明治36年(1903年)7月、桂内閣を攻撃していた伊藤博文が枢密院議長に親任され政友会総裁を辞任せざるを得なくなったのも、杉山が桂や児玉に伊藤の祭り上げを献策した結果であるという。(杉山『俗戦国策』)
児玉源太郎との結びつきについては、東京築地本願寺境内に日露戦争戦勝を記念して杉山が児玉に茶釜を贈ったことを記念する「凱旋釜」碑がある。

日露戦争の幕引きと満鉄設立
明治38年(1905年)、奉天会戦のあと児玉源太郎が密かに帰国して、政府首脳に講和の必要性を説いたのは、杉山が児玉に秘密電報を打電して講和を進めるべき時期であると進言したことによるという。
この年の夏、山縣有朋は講和の聖旨を伝達するため、密かに渡満して大山巌以下の満洲軍首脳と会談したが、その際、杉山は一民間人でありながら山縣に随行して満洲へ渡った。
杉山は奉天で児玉源太郎の宿舎に同宿し、そこで児玉から満洲の地誌などの資料を託され、戦後の満洲経営策を立案するよう依頼された。杉山は帰国後、半官半民の合同会社の鉄道会社創設を立案した。この案が児玉によって採用され、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設立された。(杉山『俗戦国策』、一又『杉山茂丸』など)

日韓合邦運動
日露戦争後、日本は韓国の保護国化を進め、伊藤博文を韓国統監として派遣した。杉山は伊藤に、渡韓に際し内田良平を同行するよう薦め、伊藤は内田を統監府嘱託に採用した。
内田は韓国において、親日団体である一進会の李容九や宋秉畯と親交を結び、一進会の日韓合邦運動を支援した。杉山は日本国内にあって、内田からの情報を政府首脳に伝え、また内田や一進会からのさまざまな要請について政府との交渉窓口となった。杉山は一進会の懇請により顧問となっていた。一進会が目指したものは日韓が対等の立場で合併する「合邦」であったが、現実には韓国が日本に併合される結果となった。
このため大正10年(1921年)、杉山は旧一進会の会員たちから自決を要求された。併合後の朝鮮に対する政府の施政の実情を憂慮した杉山は、大正12年(1923年)に総理大臣に宛てた『建白』を著し、朝鮮の施政改革を強く訴えた。(西尾陽太郎『李容九小伝』など)
郷土開発への意欲
大正期、杉山は郷里の経済発展に力を注いだ。博多港を築港するための株式会社を設立し、船成金と呼ばれた親友の中村精七郎が資金を提供して博多築港は進められたが、予想外に工事費が高騰し、中村は破産して築港事業は中断に至った。
また杉山は関門トンネルを民間の力で開鑿しようとして出資者を募り、政府に許可申請まで行ったが、遂に許可は下りず、関門トンネルは後年政府によって築造された。
(杉山『百魔続編』、高野孤鹿『大熊浅次郎君追悼録』など)
(検索引用 ウィキぺデア)
 

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