2015年10月

山縣農場 とは、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた開拓農場(周辺地図)。那須野が原及びその周辺に10以上も開かれた華族農場のひとつである。
なお、ジェイアールバス関東西那須野支店の廃止された山県農場線(矢板北線)の停留所名は「山県農場」であった。

有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、明治19年、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。
山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。
山縣は、開墾にあたる人員の募集の際に、土地をもたない農家の次男三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。
住まいを用意し、入植者の師弟のための学校を開くなど、こまやかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾もすすみ、1910年(明治43年)には有朋は以下のような歌を詠んでいる。
篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、昭和9年(1934年)、三代目当主山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。
当時開かれた華族農場の多くは平地にあって耕作を小作人に任せていたため、第二次大戦後の農地改革などの影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。

略年表
1880年(明治13年)、印南丈作、矢板武が那須開墾社を設立して那須野が原開拓事業にとりかかる。
1880年(明治13年)、渋沢栄一らが伊佐野の拝借願を出すものの、地元の反対で払い下げを断念。
1883年(明治16年)、かわって山縣有朋が拝借願を出す。
1884年(明治17年)、拝借願が認可され、「山縣開墾社」として開墾にあたる人員の募集を開始。
1885年(明治18年)、那須疏水が完成。(山縣農場は那須野が原の外側にあり疏水の恩恵は受けない。また、農場は平地の少ない山間地が主。)
1886年(明治19年)、払い下げがかない「伊佐野農場」として開設。
明治24年、第一回目の小作地払い下げ。
1892年(明治25年)、当時の農場管理者森勝蔵[8]が絵巻物「伊佐野農場圖稿」を描く
1922年(大正11年)、有朋死去。有朋の養嗣子、山縣伊三郎が後を継ぐ。
1924年(大正13年)、前年の関東大震災で被害を受けた小田原の古希庵を山縣農場に移築
1927年(昭和2年)、伊三郎死去。息子の山縣有道があとを継ぐ。
1934年(昭和9年)、農場開設50周年を記念し、希望する小作人36名に土地を分譲して自作農とする。
昭和12年、冊子「山縣農場要覧」編纂。
昭和21年、山縣農場が「第一農場」と「第二農場」に分離。
1947年(昭和22年)、復員した山縣有信(1918年-1974年)が山縣農場の経営に直接あたる。

山縣有朋記念館は、山縣有朋の遺品や山縣文書など関係資料を収蔵展示する資料館。1999年開館。

栃木県矢板市の山縣農場敷地内にある。記念館の建物は小田原の古稀庵にあった伊東忠太設計になる木造洋館が関東大震災で被災した時、これを移築したもので、現在は栃木県指定有形文化財に指定されている。
収蔵品には、明治天皇からの下賜品や陸軍関連の備品、『伊佐野農場圖稿』や山縣がやりとりした書簡も含まれている。

所在地:〒329-2501栃木県矢板市上伊佐野1022番地
山縣有朋記念館  美術館・博物館
住所: 〒329-2501 栃木県矢板市上伊佐野1022
電話:0287-44-2320
(資料ウィキぺデア) 




山縣有朋記念館、山縣農場 とは、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた開拓農場(周辺地図)。那須野が原及びその周辺に10以上も開かれた華族農場のひとつである。
なお、ジェイアールバス関東西那須野支店の廃止された山県農場線(矢板北線)の停留所名は「山県農場」であった。

山縣有朋は、1869-1870年(明治2-3年)に欧米事情視察のため渡欧し、ドイツで貴族が田園に農場をかまえ、農業・林業経営に当たるという貴族農場を見て感銘を受ける。
政府が那須野が原の広大な第三種官有地を払い下げることになったとき、当時、ここを開拓すべく大農場を開いたのは、栃木県令三島通庸をはじめ、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大など錚々たる面々であった。有朋も那須ヶ原への入植を希望したが、平地の殆どはすでに他の高官や旧藩主らによりおさえられていた。
有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、明治19年、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。
山縣は、開墾にあたる人員の募集の際に、土地をもたない農家の次男三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。住まいを用意し、入植者の師弟のための学校を開くなど、こまやかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾もすすみ、1910年(明治43年)には有朋は以下のような歌を詠んでいる。
篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に
自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、昭和9年(1934年)、三代目当主山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。
当時開かれた華族農場の多くは平地にあって耕作を小作人に任せていたため、第二次大戦後の農地改革などの影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。

略年表[編集]
1880年(明治13年)、印南丈作・矢板武が那須開墾社を設立して那須野が原開拓事業にとりかかる。
1880年(明治13年)、渋沢栄一らが伊佐野の拝借願を出すものの、地元の反対で払い下げを断念。
1883年(明治16年)、かわって山縣有朋が拝借願を出す。
1884年(明治17年)、拝借願が認可され、「山縣開墾社」として開墾にあたる人員の募集を開始。
1885年(明治18年)、那須疏水が完成。(山縣農場は那須野が原の外側にあり疏水の恩恵は受けない。また、農場は平地の少ない山間地が主。)
1886年(明治19年)、払い下げがかない「伊佐野農場」として開設。
明治24年、第一回目の小作地払い下げ。
1892年(明治25年)、当時の農場管理者森勝蔵が絵巻物「伊佐野農場圖稿」を描く
1922年(大正11年)、有朋死去。有朋の養嗣子、山縣伊三郎が後を継ぐ。
1924年(大正13年)、前年の関東大震災で被害を受けた小田原の古希庵を山縣農場に移築
1927年(昭和2年)、伊三郎死去。息子の山縣有道があとを継ぐ。
1934年(昭和9年)、農場開設50周年を記念し、希望する小作人36名に土地を分譲して自作農とする。
昭和12年、冊子「山縣農場要覧」編纂。
昭和21年、山縣農場が「第一農場」と「第二農場」に分離。
1947年(昭和22年)、復員した山縣有信(1918年-1974年)が山縣農場の経営に直接あたる。

山縣有朋記念館は、山縣有朋の遺品や山縣文書など関係資料を収蔵展示する資料館。1999年開館。栃木県矢板市の山縣農場敷地内にある。記念館の建物は小田原の古稀庵にあった伊東忠太設計になる木造洋館が関東大震災で被災した時、これを移築したもので、現在は栃木県指定有形文化財に指定されている。
収蔵品には、明治天皇からの下賜品や陸軍関連の備品、『伊佐野農場圖稿』や山縣がやりとりした書簡も含まれている。

所在地:〒329-2501栃木県矢板市上伊佐野1022番地

山縣有朋記念館  山縣農場(やまがたのうじょう) とは、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた開拓農場(周辺地図)。那須野が原及びその周辺に10以上も開かれた華族農場のひとつである。
なお、ジェイアールバス関東西那須野支店の廃止された山県農場線(矢板北線)の停留所名は「山県農場」であった。

山縣有朋は、1869-1870年(明治2-3年)に欧米事情視察のため渡欧し、ドイツで貴族が田園に農場をかまえ、農業・林業経営に当たるという貴族農場を見て感銘を受ける。
政府が那須野が原の広大な第三種官有地を払い下げることになったとき、当時、ここを開拓すべく大農場を開いたのは、栃木県令三島通庸をはじめ、青木周蔵、山田顕義、大山巌、西郷従道、松方正義、佐野常民、品川弥二郎、戸田氏共、毛利元敏、鍋島直大など錚々たる面々であった。有朋も那須ヶ原への入植を希望したが、平地の殆どはすでに他の高官や旧藩主らによりおさえられていた。
有朋は、渋沢栄一が払い下げを希望しながら地元の反対で断念した那須野が原西部に隣接する伊佐野(現矢板市伊佐野)について、許可を譲り受け、地元の同意を取り付けて払い下げにこぎつけ、明治19年、伊佐野農場(のちの山縣農場)を開くに至る。山縣が払い下げで得た土地はおよそ「自然林150町歩、草山600町歩」で、その多くは山林であった。
山縣は、開墾にあたる人員の募集の際に、土地をもたない農家の次男三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。住まいを用意し、入植者の師弟のための学校を開くなど、こまやかな配慮も怠らなかった。その甲斐もあって開墾もすすみ、1910年(明治43年)には有朋は以下のような歌を詠んでいる。
篠原も畑となる世の伊佐野山 みどりに籠もる杉にひの木に
自作農を育てる方針は有朋亡き後も生き続け、昭和9年(1934年)、三代目当主山縣有道は、山縣農場開設50周年を記念して、小作人36名に土地を分譲して自作農としている。
当時開かれた華族農場の多くは平地にあって耕作を小作人に任せていたため、第二次大戦後の農地改革などの影響を直接受けたが、田畑の多くを小作人に譲渡済みで山林主体の経営となっていた山縣農場だけは、農地改革の影響をあまり受けることがなかった。

略年表[編集]
1880年(明治13年)、印南丈作・矢板武が那須開墾社を設立して那須野が原開拓事業にとりかかる。
1880年(明治13年)、渋沢栄一らが伊佐野の拝借願を出すものの、地元の反対で払い下げを断念。
1883年(明治16年)、かわって山縣有朋が拝借願を出す。
1884年(明治17年)、拝借願が認可され、「山縣開墾社」として開墾にあたる人員の募集を開始。
1885年(明治18年)、那須疏水が完成。(山縣農場は那須野が原の外側にあり疏水の恩恵は受けない。また、農場は平地の少ない山間地が主。)
1886年(明治19年)、払い下げがかない「伊佐野農場」として開設。
明治24年、第一回目の小作地払い下げ。
1892年(明治25年)、当時の農場管理者森勝蔵が絵巻物「伊佐野農場圖稿」を描く
1922年(大正11年)、有朋死去。有朋の養嗣子、山縣伊三郎が後を継ぐ。
1924年(大正13年)、前年の関東大震災で被害を受けた小田原の古希庵を山縣農場に移築
1927年(昭和2年)、伊三郎死去。息子の山縣有道があとを継ぐ。
1934年(昭和9年)、農場開設50周年を記念し、希望する小作人36名に土地を分譲して自作農とする。
昭和12年、冊子「山縣農場要覧」編纂。
昭和21年、山縣農場が「第一農場」と「第二農場」に分離。
1947年(昭和22年)、復員した山縣有信(1918年-1974年)が山縣農場の経営に直接あたる。

山縣有朋記念館は、山縣有朋の遺品や山縣文書など関係資料を収蔵展示する資料館。1999年開館。栃木県矢板市の山縣農場敷地内にある。記念館の建物は小田原の古稀庵にあった伊東忠太設計になる木造洋館が関東大震災で被災した時、これを移築したもので、現在は栃木県指定有形文化財に指定されている。
収蔵品には、明治天皇からの下賜品や陸軍関連の備品、『伊佐野農場圖稿』や山縣がやりとりした書簡も含まれている。

所在地:〒329-2501栃木県矢板市上伊佐野1022番地

山縣有朋記念館  
美術館・博物館
住所: 〒329-2501 栃木県矢板市上伊佐野1022
電話:0287-44-2320

【平忠常の乱】
1028‐31年(長元1‐4)房総半島で起こった地方反乱。

平忠常は武蔵野開発者といわれる良文の孫で,上総介,武蔵国押領使,下総権介などを歴任,房総半島の各地に私宅をもつ巨大な私営田領主であった。

乱の原因は知られていないが,1028年に安房守惟忠の焼死事件が起こり,忠常追討の官符が出された。

これは在地に大きな反感を招いて上総介為政は国人にとりこめられたが,忠常は内大臣藤原教通らに使者を送って弁明に努める。(検索 世界大百科事典 第2版の解説)

平忠常の乱
平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で1028年に起きた反乱。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。
平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。

経緯
平良文は下総国相馬郡を本拠に村岡五郎と称し、子の忠頼、孫の忠常の三代に亘り関東で勢力を伸ばした。忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。
長元元年(1028年)6月、忠常は安房守平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが、受領と在地領主である忠常との対立が高じたものらしい。
続いて忠常は上総国の国衙を占領してしまう。上総介縣犬養為政の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。
当時、在地豪族(地方軍事貴族)はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。

事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがった。右大臣・藤原実資は陣定において、頼信を推薦した。頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。
他の公卿も同調するが、後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉・平直方と検非違使左衛門少志・中原成道が追討使に任じられた。直方を追討使に抜擢したのは、関白・藤原頼通だった。直方は貞盛流の嫡流ともいえる立場であり、同じ貞盛流の常陸平氏と連携していた。

常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。
8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられている。郎党は内大臣藤原教通(忠常の「私君」にあたる人物)宛ての書状を持っており、追討令の不当を訴える内容だった。
平直方と中原成道は吉日を選び任命から40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵200を率いて京を出立した。夜中にもかかわらず、見物人が集まり見送ったという。
翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。
追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが消極派の成道と積極派の直方は仲たがいしたため討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。長元2年(1029年)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。同年12月には都への報告を怠ったという理由で成道は解任されてしまう。
長元3年(1030年)3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかった。
忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭って抵抗を続けた。乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。
同年9月、業を煮やした朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元4年(1031年)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。
頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。長元5年(1032年)功により頼信は美濃守に任じられた。

平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。

この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。
だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している(『左経記』長元7年10月24日条)。
この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。
(検索ウィキぺデア)








 

ジョン・F・ケネディ大統領 アメリカン大学演説 
日付:1963年6月10日 場所:Washington, D.C. Washington, D.C. 

アンダーソン学長、大学教職員と評議員会のみなさん、ご来賓のみなさま、わたしの古くからの同僚であり、わたしが次の30分で取ってしまう学位を夜間のロースクールに何年も通ってようやく取得したバード上院議員、ご列席のみなさま、こんにちは。

アメリカン大学の卒業式に列席できることを大変光栄に思います。本校は、メソジスト教会の支援を受けてジョン・フレッチャー・ハースト主教により創設され、1914年にウッドロー・ウィルソン大統領の手によって正式に開校しました。若く、これからさらに成長する学校ですが、歴史が作られ、公的な仕事が行われてきたこの地において、ハースト主教が掲げた歴史と政治の勉学に対する優れた志をすでに実現しています。
人種や信条にかかわりなく勉学の志を持つ人々に開かれた高等教育機関である本校を支援してきた、この地域と全国のメソジスト教会は、アメリカ国民からの感謝を受けるに値します。今日、本校を卒業するみなさんに心からの祝福の言葉を贈ります。

大学の教壇に立った経験のあるウッドロー・ウィルソン大統領は、「大学から巣立つすべての人々が、その時代を代表し、自分の国を代表する人物にならなければならない」と言いました。わたしは、本校を卒業する栄誉を得たみなさんが、自分の人生と能力をかけて、公共への奉仕と支援を積極的に行い続けることを確信しています。

「この地上にあるもので大学よりも美しいものは、ごくわずかしかない」とジョン・メイスフィールドはイギリスの大学を賞賛した文章に書いています。メイスフィールド氏の言葉は、この大学にも当てはまります。彼は、とがった屋根を持つ建物や塔、緑あふれるキャンパス、ツタの生い茂る壁を讃えたのではありません。彼が大学の美しさを賞賛したのは、大学が「無知を憎む人々が知識を得ようと努力し、真理を知る人々が他者の目を開かせようと努力する場所」だからです。
このような理由からわたしは、今日、この場所でお話しするにあたって、無知がはびこることがあまりに多く、真理が理解されることがあまりに少ない、それでいて地上でもっとも重要なテーマを選びました。つまり世界平和です。

わたしの言う平和とはどのようなことでしょう。わたしたちの求める平和とはどのようなものでしょう。それは、アメリカの軍事力によって世界に強制的にもたらされるパクス・アメリカーナではありません。
それは、墓場の平安でも、奴隷の安全でもありません。わたしは、真の平和、すなわち、この地球上での生活を生きる価値のあるものにする平和、人と国が成長し、希望を持ち、子孫のためにより良い生活を作り上げることのできる平和、アメリカ人のためだけではなく、世界中の人々のための平和、今の時代だけではなく、あらゆる時代での平和について話したいと思います。

わたしが平和について語りたいのは、戦争が新しい様相を見せているからです。複数の大国が、強力な核兵器を持ち、そうした戦力に訴えずに降伏することのない時代には、全面戦争に意味はありません。
たった1つの核兵器に、第二次世界大戦で連合軍の全空軍が投下した爆弾の10倍もの威力がある時代には、全面戦争は無意味です。核兵器を含む戦いで生み出された毒物が、風、水、土、種によって地上の隅々に達し、まだ生まれぬ世代にも影響をもたらすような時代には、全面戦争は無意味なのです。

使う必要が絶対にないことを確かめるために、毎年数十億ドルを費やして兵器が集められています。そうした兵器に対する支出は、今の平和を維持するために必要な支出です。しかし、そうした無駄な備蓄、それも破壊しかもたらさず、決して何も生み出さない備蓄を行うことが、平和を得るための唯一の方法だとは、ましてやもっとも有効な方法だとは、私には思えません。
したがって、わたしは、合理的な人々にとっての、必然的、合理的な目標である平和についてお話しします。平和の追求は戦争の追求ほど劇的なものではなく、平和の追求者の言葉はしばしば人々に無視されます。しかし、これほど緊急を要する仕事はほかにないのです。

なかには、世界平和、世界法、世界の軍備撤廃について語るのは無駄で、ソ連の指導者たちが今よりも賢明な態度をとるようにならない限り無意味だと言う人がいます。わたしもそうなることを願っています。
また、われわれがそれを助けることができるとも思っています。しかし同時に、われわれも個人として、そして国家として、自らの態度を見直す必要があります。われわれ自身の態度は、彼らの態度と同じくらい重要だからです。
今日、本校を卒業するみなさん、戦争に絶望し、平和の到来を願う思慮深き市民のみなさん、みなさんひとりひとりが自己の内面に目を向け、平和の可能性、ソ連、冷戦の道のり、この国での自由と平和に対する自分の態度を見つめ直すことから、スタートしましょう。
第一に、平和に対するわれわれの態度を再検討しましょう。あまりに多くの人が、平和の実現は不可能であり、非現実的であると考えています。これは、危険な敗北主義的な考え方です。結局、こうした考えは、戦争は不可避で、人は抗えない力に支配され、滅びる運命にあるという考えに至ります。

そうした考えを受け入れる必要はありません。われわれの問題は、人間が作り出したものです。ならば、人間の手で解決できるはずです。人は自分が望むだけ大きくなることができます。
人間の運命の問題で、人間の力の及ばない場所にあるものなどありません。人間は、その理性と精神によって、解決不可能に思われた問題をも解決してきました。今、同じことをできるはずだとわれわれは信じます。
今、わたしがお話ししているのは、一部の夢想家や狂信者が考えるような、平和や善意に関する絶対的で広大無辺な概念ではありません。希望を持ち、夢見ることの価値を否定しませんが、そうした夢想を現在の唯一の目標にすることは、失望や懐疑をいたずらに招くことになります。
それよりも、もっと実際的で実現可能な平和に目を向けましょう。人間性の急激な改革ではなく、人間社会の段階的な進歩に基づく平和、関係者全員の利益にかなう、具体的な行動と有効な合意の積み重ねによる平和です。
このような平和を簡単に実現する鍵など、どこにもありません。1つや2つの国が採用するだけで効果を発揮するような、壮大な魔法の方程式もありません。
真の平和は、多くの国と人々の行動が積み重なって作り出されるものでなければなりません。そして静的なものではなく、新しい世代の課題が浮かび上がるたびに変化して対応する、動的なものでなければなりません。
なぜなら、平和とは過程であり、問題を解決するための手段だからです。
このような平和が実現しても、いさかいや利害の対立は、ちょうど家庭や国の内部でもそうであるように、依然として残るでしょう。
世界平和は、地域社会の平和と同じく、隣人愛を全員に要求するものではありません。ただ互いに寛容の心を持ち、争いを公正かつ平和的に解決しながら、共に生きることだけを求めるものです。そして歴史は、人と人との対立と同じように、国同士の対立も永遠には続かないことを教えてくれます。われわれの持つ好悪の感情がどんなに不変のものに見えようとも、時の流れや出来事の大きなうねりは、しばしば国家間や隣人同士の関係に驚くような変化をもたらすものです。
ですから、たゆまずに努力を続けましょう。平和は実現できないものではなく、戦争は避けられないものではありません。目標を今よりも明確に定め、もっとわかりやすく身近なものにすることで、われわれは、すべての人々が目標を見つけ、そこに希望を見出し、自然とそこに向かって進みだすようにすることができます。

第二に、ソ連に対するわれわれの態度を再検討しましょう。たしかに、ソ連の指導者たちが彼らのプロパガンダの内容を本当に信じているかもしれないと思うと、落胆を禁じ得ません。最近のソ連の軍事戦略に関する公式文書には、無根拠で信用できない主張がどのページにも並んでいます。
たとえば、「アメリカの帝国主義者たちは、複数の方法で戦争を始める準備をしている」、「アメリカ帝国主義者がソ連に対して先制攻撃をしかける現実的な脅威がある」、「アメリカ帝国主義者の政治目的は、ヨーロッパやその他の資本主義国を経済的および政治的に隷属させ、侵略戦争によって世界を支配することだ」といった主張です。そういった文書を読むと、非常に落胆します。

聖書に「悪しき者は追う人もないのに逃げる」と書かれていますが、まさしくそのとおりです。それでも、そのようなソ連の文書を読んで、わが国とソ連との間にある溝の深さを知ると、暗澹たる気持ちになります。
そしてこれは、アメリカの人々に対する警告でもあります。アメリカはソ連と同じ過ちを犯してはならない、歪曲され、望みを失った、一方的な見解に注目してはならない、紛争は不可避、協調は不可能、対話とは互いに威嚇しあうことだ、と考えてはならない、と警告しているのです。
どのような政府や社会制度であっても、そこで暮らす人々を徳のない人々だと見なさなければならないほど、有害ではありません。
アメリカ国民であるわれわれは、個人の自由と尊厳を否定するものとして、共産主義を深く嫌悪しています。それでも、科学や宇宙の進歩、経済や工業の発展、文化、いくつかの勇敢な行動でソ連の人々が見せた多くの偉業を讃えることはできます。

アメリカとソ連の国民には多くの類似点がありますが、なかでももっとも目立つ共通の特徴は、ともに戦争を嫌い、避けたいと強く思っていることです。
大国同士では珍しく、アメリカとソ連は、一度も互いに戦争をしたことがありません。歴史をふりかえると、第二次世界大戦中にもっとも大きな苦難を味わったのはソ連でした。少なくとも2000万人が命を落とし、多くの住居や農園が焼失し、略奪の被害を受けました。国土の3分の1、工業地帯の3分の2が荒廃に帰し、これはわが国でシカゴより東の地域が全滅することに匹敵します。

もし今日、全面戦争が再び起きたら、その経緯がどのようなものであれ、主たる攻撃目標になるのは、アメリカとソ連でしょう。強大な力を持つ両国が真っ先に全滅の危機にさらされるというのは、皮肉な、そして、間違いのない事実です。
われわれが努力して築き上げてきたものは、たった1日で跡形もなく破壊されてしまうでしょう。冷戦は、アメリカの親密な同盟国を含む多くの国々に負担と危険をもたらしていますが、その冷戦においても、アメリカとソ連は、もっとも重い荷物を背負っています。
なぜなら両国は、本来ならば無知や貧困や病気との戦いに投じるべき巨額の金を、兵器に投じているからです。一方の疑念が他方の疑念を生み、新しい兵器がそれに対抗する兵器を生むという危険な悪循環に、アメリカとソ連の両国が陥っています。
言い換えれば、米国とその同盟国およびソ連とその同盟国は、真の公正な平和を確立して、軍拡競争を停止することに、少なからぬ利益を相互に持つ、ということです。この目標のために合意することは、アメリカだけでなくソ連の利益にもかないます。どんなに敵対する国同士でも、自国の利益になるこうした条約義務を受け入れ、遵守することを期待できます。
ですからみなさん、両国の違いに目を向け、両国の違いを理解しましょう。同時に、両国には共通する利益があり、両国の違いを解消する可能性のある方策があることにも注目しましょう。2つの国の違いをすぐに解消することはできないかもしれません。
しかし、相違があっても世界が平穏であり続けるように力を注ぐことはできます。究極のところ、われわれを結びつけるもっとも根本的な絆は、小さな地球の上でともに生きている、という事実です。われわれはみな同じ空気を吸い、子どもたちの将来を同じように大切に思います。われわれはみな命に限りのある人間です。

第三に、冷戦に対するわれわれの態度を再検討しましょう。同時に、いたずらに論点を増やすために論争するのではない、ということを思い出しましょう。われわれは、誰かを責めたり批判するために、ここにいるのではありません。われわれは、今、目の前にある世界を相手にしなければなりません。
過去18年間の歴史が違っていたら、こうなったはずだと思い描く世界を相手にしてはなりません。
したがって、われわれは、共産圏の内部に建設的な変化が起きて、今は手の届かないように見える解決策が手に入る日が来ることを期待しながら、平和の探求へのたゆまぬ努力を続けなければなりません。
われわれは、真の平和について合意することが共産主義国の利益にもなるように行動しなければなりません。さらに、自国の重要な利益を守りながらも、核保有国は、相手国に屈辱的な退却か核戦争かの二者択一を強いるような対決が起きることを避けなければなりません。核の時代に、そのような対決への道筋を採れば、政策の破綻を招き、全世界の死を望むことにほかならないからです。
これらの目的を確実に果たすため、アメリカが持つ兵器は、挑発的ではなく、慎重に制御され、抑止を目的とし、選択的に使用できる兵器です。
アメリカ軍は、平和に真剣に取り組み、自制を発揮するよう訓練されています。アメリカの外交官は、不必要な刺激や言葉上の敵対を避けるように指示を受けています。
なぜなら、わが国は、防衛体制を緩めることなく、緊張の緩和を追究することができるからです。
わが国の側は、脅迫的な行為をとらなくても、断固たる決意を証明できます。信念が脅かされることを恐れて、海外放送を妨害する必要もありません。
われわれの制度を欲しない人々に、われわれの制度を押し付けたいと思いません。それでも、地球上のあらゆる人々と平和的に競争することを望み、そうした競争に参加する能力を持っています。
一方で、われわれは、国連を強化し、その財政問題の解決を助けて、国連が、平和の追究に今まで以上に有効な働きをできるように支援します。
国連が真の世界安全保障機構、つまり、法に基づいて紛争を解決し、大国だけでなく小国の安全も保障し、最後には兵器を全廃する環境を作る機構になることを望みます。
同時にわれわれは、非共産世界の内側での平和の維持に努めます。
非共産世界では、多くの国がアメリカの友人ですが、西側の結束を弱める問題が原因となって国々が分裂しています。
これが共産主義国による介入を招き、戦争勃発の危機に瀕しています。西ニューギニア、コンゴ、中東、インドにおいて、双方からの批判にさらされつつも、わが国は根気強く努力を続けました。さらにわが国は、隣人であるメキシコとカナダとの間でも、わずかではあっても非常に重要な相違を調整する努力を続け、他国に範を示そうと努めています。

他国について述べるにあたって、わたしは次の1点を明らかにしたいと思います。アメリカは同盟によって多くの国と結ばれています。
この同盟関係は、アメリカと相手国の利害が広範に重なっているからこそ存在します。たとえば、西ヨーロッパと西ベルリンの防衛に対するアメリカの関与が縮小されることなく現在まで続いているのは、それがわれわれの重大な利益と一致するからです。
アメリカが、他の国々やその国民を犠牲にして、ソ連と取引をすることは決してありません。それは、そうした国々がアメリカのパートナーであるからだけでなく、彼らの利益とアメリカの利益が一致するからです。

しかし、われわれの関心は、自由の最前線を防衛することだけでなく、平和への道を追求することでも一致しています。
アメリカが望み、同盟各国が政策目標としているのは、ソ連を説得し、他国の選択を侵害しない限りは、各国が自分の将来を選択できる状況を実現することです。
自分たちの政治経済体制を他国に押し付けようとする共産主義国の動きが、現在の世界緊張の主たる原因です。他国の自主的決定を妨げる国がなくなれば、平和は今よりも確実に保障されます。これに疑いの余地はありません。

そのためには、世界レベルの討論を行うための新しい環境である世界法を実現する努力が新たに必要です。
これは、ソ連とわれわれとの間に今よりも深い理解を必要とします。理解を深めるには、相互間の連絡とコミュニケーションを増やす必要があります。
この方向への第一歩が、モスクワとワシントン間を直通電話で結ぶことを両国で合意しようではないか、という提案です。危機の際には、危険な対応の遅れや、相手の行動に対する誤った理解や解釈が発生する恐れがあります。これを双方で防ぐことが、この提案の目的です。
このほかにも、われわれはジュネーブで、「軍縮」という、過熱する軍拡競争に歯止めをかけ、戦争の偶発的勃発の危険性を縮小することを目的とした、もうひとつの第一歩についても話し合っています。
しかし、ジュネーブでの話し合いで、われわれが主要な長期的利益としてとらえているのは、全面的かつ完全な武装解除です。
その武装解除は、軍備に代わる新たな平和機構の設立を目指す政治活動と並行しながら、段階的に実行するように計画されます。
1920年代から、アメリカ政府は軍縮に向けた努力を重ね、直近の3代の政権は、緊急に軍縮を追求しました。今はまだ、おぼろげな見通ししかないとしても、われわれはこの努力を続けます。わが国を含むすべての国が、軍縮の問題と可能性を今よりも深く理解できるようにするために、この努力を続けます。

このような交渉の中で、ゴールが見えながらも、再スタートを切ることが強く求められている1つの主要な分野があります。それは、核実験を禁止する条約です。身近でありながら、はるか遠くに存在する、このような条約を締結できれば、もっとも危険な領域での軍拡競争の激化を抑制できます。
核兵器のさらなる拡散という、1963年を生きる人間が直面する大きな危機に、核保有国が、今よりも効果的に対応できるようになります。この条約は、われわれの安全保障を拡大し、戦争の可能性を縮小します。
われわれは、あらゆる努力を諦めなさい、あるいは、生死を左右する信頼できる防護策を要求するのをやめなさい、と呼びかける声に惑わされることなく、着実に歩み続けなければなりません。それほど明らかに、このゴールはきわめて重要なのです。

そこで、これに関連した2つの重要な決定を、今ここで発表します。
第一に、ソ連のフルシチョフ首相、イギリスのマクミラン首相、およびわたしの3者は、包括的な核実験停止条約の早期締結を目指した首脳会談を、近くモスクワで開くことに合意しました。歴史は、過度の期待を控えるべきだとわれわれに警告します。しかし、われわれの期待は、全人類の期待でもあります。

第二に、この件に関するわれわれの善良なる意志と崇高な信念を明白に示すため、わたしは、他国が同様の行動をとることを条件に、アメリカ合衆国が大気圏内での核実験を一切行わないことを宣言します。
われわれは、核実験を再開する最初の国に決してなりません。このような宣言は、拘束力のある公式条約の代わりにはなりませんが、わたしは、この宣言が条約締結の助けになることを期待します。
また、このような宣言は、軍縮の代わりにもなりませんが、わたしは、この宣言が軍縮の実現を助けることを期待します。
最後に、みなさん、アメリカ国内における平和と自由に対するわれわれの態度を再検討しましょう。アメリカ社会の質と精神は、海外でのわれわれの努力を正当化し、支えるものでなければなりません。
われわれは、自分の生活を捧げることを通じて、これを証明しなければなりません。今日、本校を卒業するみなさんの多くは、海外平和部隊や現在提案されている国民奉仕隊にボランティアとして参加することで、アメリカ社会の質と精神を証明する特別な機会を持たれることと思います。
しかし、どこにおいても、われわれの全員が、日常の生活の中で、「自由と平和はともに付き従う」という古くからの信条に従って行動しなければなりません。
現在、わが国のあまりにも多くの都市で、自由が不完全であり、それゆえに、平和が得られていません。
地方、州、連邦を問わず、あらゆる政府の行政機関には、その権限内のあらゆる手段を用いて、すべての市民に自由を与え、これを守る責任があります。
また、あらゆる政府の立法機関には、行政機関がそれを実行する権限が十分でない場所があれば、そこでその権限を十分なものにする責任があります。
そして、この国のすべての市民には、他のすべての人の権利を尊重し、国法を尊重する義務があります。
これらのすべては、世界平和に無関係ではありません。聖書に「人の道が主を喜ばせるとき、主はその人の敵をもその人と親しくさせる」と書かれています。
つまり平和とは、根本的には、荒廃の恐怖を感じることなく生活できる権利、自然の空気をそのまま呼吸する権利、将来の世代まで健全に存続する権利といった、人間の権利に関する問題ではないでしょうか。
われわれは、わが国の利益を進んで擁護します。その一方で、人間の利益をも擁護しようではありませんか。
戦争と軍備を排除することは、明らかにこの2つの利益に合致します。万人にとってどれほど有益で、どれほど厳格な文言で規定された条約であっても、欺瞞や言い逃れが出現する可能性を完全に排除することはできません。
しかし、十分な強制力を持ち、締結国の利益に十分にかなう条約であれば、治まる兆候もなく無統制に続く、予測のつかない軍拡競争よりも、はるかに大きな安全を与え、はるかに小さなリスクしか与えません。

世界中が知るように、わが国は決して戦争を始めません。わが国は戦争を欲せず、今、戦争の発生を期待しません。
現世代のアメリカ国民は、戦争、憎しみ、圧制に倦み疲れています。もし他の国が戦争を欲するなら、われわれはその準備をします。
われわれは戦争を止める努力をすぐに始めます。しかしわれわれは、弱者が安全に暮らし、強者が正しく行動する平和な世界を作る目的のために、自分の役割を果たします。
われわれは、そのような任務を前にして無力ではなく、成功への希望を失うことはありません。われわれは、自信にあふれ恐怖することなく、全滅への戦略ではなく、平和への戦略に向かって進み続けます。


ジョン・F・ケネディ
大統領就任演説(1961 年)解説

役場の公務 午前8.30分の前の一仕事
今朝、早く起きて、このパソコンから記事を拾って適当なニュースを見繕って、記事を書こうかと散々、探し回った挙句、取り上げるに相当する新情報はなにもなかった。
芸能ゴシップオンパレードに辟易し、このマヌケたサイトを黙らせろ、と逸る気持ちを説き伏せるのに精一杯だった。これもいつものパターンで儀礼的になっている。

それで、こうしたときは世に倣って下ネタが手っ取り早いと、いつもの場所に行くことにした。すぐ近くの、歩いて9分程度の道のりだった。普段、まったく人気はないが、その店がオープンして3年は経っいると思われるが、閉店してないので営業はしているのだろう。

もっとも夜早く朝早い、私の生活習慣と、夜遅く朝も遅い営業時間では、クロスする時間帯域はゼロなので、お互いはまったく違う世界で生きている、ということになる。

そんな記事を書いていたら、時間になってしまった。
なんの時間かって、今日は町の検診で役所時間午前8時30分に役場に行く必要があった。
8時に到着すると、職員がゾロゾロ歩いてホールに向かっていた。後で訊いてみたらば、町長の訓示挨拶があって、月に1回程度しているという若い職員の返事だった。
その内容を訊きもしなかったが、老若男女職員約46名を前に、何を訓示しようというのだろうか。

ちょっと前に、中小企業会社の社長が本を出すと、その会社は潰れるとかなんとか、そんな記事を読んだことがあった。
それと町長を同じ土俵に載せることはないが、選挙の価値と営利資本金技術者は本質的に変わらないので、まんざら比較対象にしてもまずくはない。

それで、その検診は30分で終わったので、家に着いてから、再度「続編」ということになった。
ネタは、いつもの藤島佑雪さんの人生相談、ベストアンサー模範回答答案である。
ま、殆どが男と女の「憎愛欲得物語」なので、特別トリッキーな筋には移行しない、なので、テーマは異なるが、相談者様の恨みつらみなどのバージョンなので、2.3の文脈をコラージュして、エコ文にした。

早い話、人間の歴史300万年、変わることもなかったので、内容も大それた変革もなくただ好きだ、嫌いだ、だけの話しである。

■不倫している女性たちへ、「男は踏み台」ですよ   

「お悩み」 こんにちは。私も相談させてください。
彼の会社の人事部に告白したり、その結果、彼が地方にとばされることが決まったり(現在は都内一等地にある本社)、彼が私の写真をネット公開したり、私も奥さんのママ友やご近所にばらしたり、醜い修羅場が数カ月続きました。

彼女のいる男性や既婚の男性にどうしても惹かれてしまいます。精神的に強くて、経済的にも独立していけるのであれば、このままずっと浮気相手でいくのもいいかと思います。今は渦中にいて、何がなんだかわかりませんよね。でも、若さってそんなもん。みんな内容は違えどですがね。
子供は好きで絶対にいつか生むと決めていたのに、一体何をやっているのだろうかと、後悔で仕事も投げやりになってしまい、立ち上がれずにいます。子供がいなくなって、ひとりになって、さらに彼まで失うのは耐えられず、まだ一緒にいます。

いろんな辛さを乗り越えて大人になっているんです。辛いときはひとまず寝ましょう。そして一度、彼女も奥さんもいない、自分だけの専属彼氏と付き合ってみましょう。

不倫自体には嫌悪感はなく、楽しむもので、自分の性格にも合っているから仕方ないと割り切っているのですが、先日、今の彼(既婚)の子供ができて、話し合いの結果堕ろすことになりました。「もう私、30なんです」。

知るか!そんなもん!だからどうした!
もう30なんでしょ~。
はい30なんです~。

彼には1歳の子供がいますが、今回のことは本当にごめんと言っています。私の子供のことも、絶対に忘れないと言ってくれています。
正式な彼氏彼女の関係は2番手と違って、お互い対等。ガチンコの付き合いになります。その分、2番手のときとは違う疲れや悩みも出てくるでしょう。でも、今、20代のうちに、別れてもいいから、そういう付き合いを経験しておいてください。そうでなければ、30、40過ぎていざ、結婚したいと思ったとき、独身の男と付き合う実力が不足しているせいで、いいひとと出会ってもチャンスを逃すことになりがち。付き合う力も、若いときの練習がモノを言いますから。

現在も五月雨式にメールや写真や電話を彼にしてしまい、今は彼も「人間関係として友人としてなら続けても構わない。人事にちくったことは怒ってない」と言っています。しかしそう言われるとまた好きだという気持ちが燃えてきてしまいます。完全に関係を断ち切るのがとても難しいです。なにか考え方の部分で変わることができるようなヒントはありますか。
敢えて2番手狙いの方って、本当のところ男嫌いなんじゃないかなあと思うんですよね。どこか信じきれない。どこか怖い。小さいときにお父さんに厳しく叱られていたりすると、そうなる傾向があると聞いたような。あと元彼に裏切られたとか。で、いっそ裏切られる辛さを味わうくらいなら、むしろ浮気相手の一番でいた方が安心、みたいな。男のひとと付き合いたい気持ちはあるけれど、真剣に責任をとる立場になるのは怖い、みたいな。
2番手でいる限りは結婚も考えなくていい。イコールお相手のご両親の介護、その他もろもろ関係ないですからね。

去年1年間、遠恋で婚約までしていた男とその浮気相手が許せません。年末年始休暇に会いに行って入籍の書類を整える予定でしたが、11月くらいに相手から「ほかに彼女できちゃった。君との婚約は間違いだった」みたいなメールが来て別れました。会わずに別れた未練とか、結婚に期待していたので悔しさとか、相手の女が誰なのかわかっちゃったんで恨みとか、いろいろ。抑えきれないです。遠恋ならよくあることかもしれないんですけど、もう半年も引きずっちゃって。
「男は踏み台」ですからね。ましてや不倫相手でしょ?ここで踏み台踏まなくて、どうする!向こうは踏み台になるべく、自らお金も差し出してくれた。ならば、踏め!踏んでジャンプするのだ!

相手の奥さんの大反対があったようですが、「もう好きじゃないし会いたくない」と言われ、結局、彼から大金が振り込まれ終わったのが去年の冬です。しかし、私は半年以上たっても彼のことが忘れられません。どうしたら大好きだったひとを断ち切ることができますか。

回答

不倫女は臆病者 そろそろ自分の中の恐怖心に気がついてみましょうか。
ご相談者さまが一生独身でいられるくらい。2番手で子供を育てるの、今の日本ではかなり大変なことですが、覚悟ができているのであればよいと思います。本人の自由ですからね。
ただ、わたくしがいろいろ見てきた限りのことを申し上げますと、20代には愛人志向の女性も30過ぎると、やっぱり結婚したいとか言い出します。世の中の仕組み、浮気をする男の考え方などがわかってくると、2番より1番になりたい、その方が得!という風に変わってきますから。

最初のご相談者さまへの回答を一部変更して、リピート。こちらのご相談者さまにも同じことを申し上げます。そして最後に、リピート・アフター・ミー。男は踏み台!彼からいただいた踏み台資金を元手に、楽しい人生を送ってください。

外資系(内視鏡)勤務の31歳です。最近6年間付き合った不倫相手と別れました。5度も妊娠中絶を繰り返しても叶わない恋でした。彼の奥さんに訴えられたり、彼の会社の人事部に告白したり、その結果彼が地方にとばされることが決まったり(現在は都内一等地にある本社)、彼が私の写真をネット公開したり、私も奥さんのママ友やご近所にばらしたり、醜い修羅場が数カ月続きました。
(※外資系『内視鏡』はゴロあわせで作ってみました筆者。)
まだ叶えていない夢がたくさんあり、前を向かなくてはなのですが、一生この泥沼から抜け出せない気がします。望んでここにいるはずなのに。こんな弱すぎる私に、喝を入れていただけないでしょうか。
(けーひ 20代 女性)
「もう私、30なんです」。
知るか!そんなもん!だからどうした!
もう30なんでしょ~。
はい30なんです~。
わたくし、的中率100%の予言をいたします。ご相談者さまは、今後、その彼のことを憎みます。あんなひどい男、と許せなくなります。ご自身が結婚をして子をもつ親になれば、過去を振り返って最低な男だったと嫌悪するようになります。辛いですね、悲しいですね。でも、それでいいのです。そう思えるようになったとき、ご相談者さまは強くなっているのです。知恵という武器を備えた大人の女性として、人生を生き抜く力を身につけていることでしょう。
外資系にお勤めなんでしょ?そしたら、それこそがんばって本社勤務にしてもらうとか、現地に転職するとかして海外に移住しちゃえば?仕事じゃなくても彼からもらった大金で留学してもいいわけですし。物理的に彼と離れるのが手っ取り早いような気がしますけどね。向こうに行って、新しい男を見つける。最高じゃないですか。
ほかの男との出会いもあり、結婚前提のひともいれば既婚子持ちのひともいます。二人とも、性的な関係を求めてるのはよくわかるし、私もそれに応じて前進したいんですが、結婚前提の男はあんまり稼ぎはよくないし学歴もあんまり。人柄はよさそうだけど、豹変しそうな感じもある。既婚子持ちの方は、エリートで高学歴高収入。奪えるもんなら奪いたい。けれど、不倫で終わる可能性とかリスクを考えると、やめといた方が無難かと思ったり。もう私、30なんです。高望みして失敗するより、手頃なひとで満足すべきでしょうか。(ホセ女性 30代)

もう30なんでしょ~。

結婚できない、残念なアラサー女性の典型マインド?
だから結婚できない!アラサーの典型マインドにご注意を

銀座では男女関係の裏と表のズブズブを目の当たりにし、この連載でひとさまのお悩みにお答えすること4年半。退役ホステスのわたくしが100%の自信をもって、予言いたします。今のままのマインドでは低スペック未婚男ともハイスペ既婚者とも、両方あなたの思うようには進展しません。未婚は間違いなく豹変するでしょうし、既婚者は言うまでもなくやりたいだけ。泣くことになります!

嫌な思いをされていることと存じます。でも、家まで送ってもらって、そのことも隠していないなら、大丈夫です。男女として、セーフな関係です。で、ご相談者さまが夫として奥様にしてあげられるのは「君が楽しそうだから、僕もうれしいよ」と言ってあげることだけです。ええ、そう言うことで奥様の行為や気持ちを認めてあげるのです。広い胸で受け止めてあげるのです。問題はそのセリフを繰り出した後なんですよ。ご相談者さまの気持ちがほぐれる言葉が返ってくるか、否か。そのときに夫婦のあり方が見えてくると思うんです。そのとき、ちゃんと考えればいいことではないでしょうか?夫婦として、よい時間がもてるようになること、お祈り申し上げます。

不倫している女性たちへ、「男は踏み台」ですよ
(記事引用)
(当該編集記事は、上記urlサイトとはまったく無関係です。)
 

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