2015年11月

山本耀司 高橋幸宏 スペシャル対談

WORLD HAPPINESS 2015のメイン・ビジュアルを手がけたのは、デザイナーの山本耀司さん。その愛犬をモチーフにした素敵なビジュアルが生まれました。本フェスのキュレーションをつとめる高橋幸宏とともに、どのようにしてこのビジュアルの実現に至ったか、うかがいました。 もちろん、今回の主役、凛ちゃんも一緒です。
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──WORLD HAPPINESSは、年ごとに毎回さまざまなアーティストの方がメイン・ビジュアルを担当されてきましたが、今回は幸宏さんにとっての長年の畏友でもある山本耀司さんが担当されることとなりました。

山本耀司(以下、山本)
いよいよ頼む相手がいなくなったんだなと(笑)。

高橋幸宏(以下、高橋)

耀司さんにお願いしちゃったら、この次は誰に頼めばいいのかっていうモンダイはありますね(笑)。

高橋 去年が横尾さん(横尾忠則/WH2014メイン・ビジュアル)で。

山本 そうしたら耀司さんしかいないなって。横尾さんの次に若手を持ってくるのもかわいそうだろうっていう(笑)。

──
そういった思いもあったんですね(笑)。これまでのメイン・ビジュアルはすべてイラストでしたが、初の写真ということで、最初に見た時のインパクトはいつも以上に強烈でしたね。
高橋 嬉しい裏切られ方っていうかね。毎回、アーティストの皆さんには、どんなフェスかっていう説明をするだけで、あとはおまかせ。

「こういうものを作ってほしい」といった具体的なリクエストは一切しないんですけど、耀司さんにも今までと同じような感じでお願いしたんです。
で、出てきたのが凛ちゃん(耀司さんの愛犬)が正面に座ったこの写真のビジュアル。おお、なるほど!って感じで。可愛いんだけど、これまでにないお洒落感でね。たしかに、これまでの一連のビジュアルの中では浮くくらいに際立つものがある。
凛の背後のパネルに映っているのは、結構有名なトップモデルたちですよね?

山本 あのモデルたちの写真は、レスリー・キー(この取材時の撮影も担当)で、このビジュアルを撮ったのが、レスリーの友達のライアン・チャンだから。高橋基本はカラーだけど、モノクロに変換しても耀司さんぽくってカッコいい。小さくリサイズしても充分にインパクトありますしね。
──加えて、耀司さん手書きのロゴも登場しました。

高橋 どうしても耀司さんの手書きのものもほしかったんで、一緒に食事に行ったときに「一筆書いてほしい」とお願いしたんですよ。こっそり紙とペンや鉛筆を用意しておいて(笑)。「とっ払いで三千円くらいくれる?」と訊かれたので、「ワイン一杯つけましょう」と答えて(笑)。
昔、耀司さんと一緒に仕事をした時に、打合せの席で「今度はどういう感じですか」なんて訊くと、ササッとスケッチを書いて「こういう感じでやろうか」って見せてくれる。その走り書きのようなスケッチがいちいち良くって。「もらって帰りたいなあ」と思っていたんですが、やっと夢が叶いました。とにかく、写真もロゴも例年にも増してお洒落になりましたね。ロゴ

──
今回のWORLD HAPPINESSのビジュアルに耀司さんが込めた思いやコンセプトみたいなものはあるんですか?

山本 いや、なにもないです(笑)。パリコレに出たモデルたちが写ったパネルの前にたまたま凛が立ったところを撮ったっていう偶然の産物なんです。こういうのは狙ってできるもんじゃないんで。でも、ものづくりって、偶然できたものがいつもカッコいいんです。

──
てっきり、WORLD HAPPINESSという言葉をイメージして撮影されたビジュアルだと思ってました。

山本 でも、ハッピーでしょ?高橋最初から凛ちゃんを今回のWORLD HAPPINESSのビジュアルに使おうというわけではなかったんだ。

山本 それは全然なくて、僕の右腕の久保っていうスタッフが、「こんな写真ありますよ」って見せてくれたのがこの写真で、「え、いいじゃないか!」と。そういう感じです。ちょうど幸宏からWORLD HAPPINESSのビジュアルを頼まれた直後にそういう偶然があったんで。ちょっと無責任ですけど、考え込んで作るよりもいいんじゃないかっていう。

──
奇跡的にハッピーな瞬間が写真として切り取られた感じがしますね。幸宏さんがおっしゃるように、おしゃれな空気の中に凛ちゃんがいることで、WORLD HAPPINESSのテーマのひとつでもあるファミリー感も見事に出てますよね。

高橋 そうそう。ファミリー感や、WORLD HAPPINESSが持つ、ちょっとほんわかとした雰囲気がちゃんと残ってます。耀司さんは何も考えてないって言ってますけど、……うん、たぶん考えてなかったんだと思いますけど(笑)、出てきたものはバッチリ。ライブやフェスって、本当に偶然の連続、そういうカタマリみたいなものだから、その意味でもぴったりなのかなと思いますね。今回のビジュアルで、WORLD HAPPINESSに、また違う方向性というものをつけ加えてもらったかなっていう気がしてます。凛

──
耀司さんと幸宏さんは、知り合ってもう40年近くになるそうですが。

高橋 知り合ってからはそのくらいになりますね。僕が洋服をやってた頃、まだ耀司さんは男物はやってなくて、たまに僕の店に買いに来てくれたりってこともあったんですけど、急速に親しくなったのは80年代の後半からですかね。仕事を終えた後、夜な夜な飲み歩いてた頃、耀司さんも飲み歩いてて、偶然西麻布店で会ったんです。そこで「あ、久しぶり! 今度パリコレの音楽やってくれない」って言われて「いいっすよ」って言ったら、次の日すぐに耀司さんの会社から正式な依頼の電話がかかってきて(笑)。選曲じゃなくて、オリジナルで作ってくれないかってことで、そこから三年ぐらいの間、一緒にやらせてもらいました。
それで僕は洋服を辞める決心をしたんです。こういう服を作る人がいるんだったら、僕がやる必要はないなって。で、コレクションをお手伝いするようになって、曲を作って「どうだ!」っていう思いで持っていくでしょ。完璧だろ、なんて思いながらね。でも、「すごいイイねえ」と言ってもらえたと思ったら、「これ、音のチャンネルを全部バラバラにしてくれる?」って言われて。
「僕がイメージするものと違ってきちゃうんだけどなあ」なんて思うけど、コレクションは耀司さんの世界だから。

山本 (笑)。

高橋 実際、耀司さんのアイディアが反映されたショーはおもしろかったりするんですよね。当たり前だけどショーの世界観は耀司さんの頭の中にしかないわけで。それを実感してからは、こちらはもう、まな板の上の鯉というか。曲を渡したら耀司さんの調理にまかせるというか。耀司さんのショーの中で生かされる高橋幸宏の曲という、そういう点では本当の意味でのコラボレーションだったかなあと思いますね。とはいえ、たとえば逆の立場でね、耀司さんに提供してもらった服を「ボク、耀司さんの服バラバラにして、こういうふうに切っちゃったんですけど、いいですか?」とは言えませんよね(笑)。

山本 (笑)。

高橋 今なら洗濯機に入れるぐらいはやるかもしれないけど(笑)。

山本 (笑)。WORLD HAPPINESSは今回で何回目なの?

高橋 8回目です。

山本 そんなにやってるんだ。そうやって若手を育ってるってすごいよね。

高橋 育てるってつもりはなくって、単にボクが興味ある人たちに集まってもらってるんですが、WORLD HAPPINESSに出てくれた1、2年後ぐらいには大メジャーになっちゃってるアーティストは何組もいますね。……でも、そうやって大きくなると出てくれないんですよ、もう(笑)。

山本 何それ! そりゃないだろ。

高橋 自分たち単独でドーム・クラスの会場でできるようになるとね……。

山本 ファッション界ではね、そういうことができないんですよ。僕が若いデザイナーを何人か集めて合同でショーをやろうみたいなことを考えても、日本では人が集まらないんです。

高橋 イタリアとかだと、若手育成のためのショーみたいなのがありますよね。

山本 いくつかはありますね。ただそれは、だいたいコンクールで、そのコンクールで賞をもらって三位ぐらいまでに入ると、パリに展示会を持っていける資金を提供してもらえるとか、そういうことで。そこからすぐに大ブレイクっていうのはファッション界ではないですね。

高橋 WORLD HAPPINESSという場が登竜門みたいになっているわけじゃなくて、「この人、いいな」っていう人にボクが目を付けてるだけです。おもしろいなと思わせる人は、それだけで可能性があるってことなんじゃないですかね。
売れ線というだけではなくってね、相当変わっていておもしろいなっていう人もあって。このひねくれ方がイイみたいな感じとかね。それはそれで、数ではなく、ある層に強く訴えかけるアーティストとして長くやってくれたらいいなとも思うし。

山本 幸宏自身が3回転ぐらいひねくれてるから(笑)。

高橋 そうなんですよ。いまは6回転ぐらいで(笑)。

山本 倍になってる(笑)。オレはねえ、幸宏が毎年こういうのをやってるのってよく知らなかったのね。これまで出ている出演メンバーを聞いて「あ、幸宏って偉いんだな」って、つくづく思った(笑)。

高橋 いえいえ、単に業界が長いだけですよ。

山本 偉いですよ。……幸宏とは、いろんな事情ですごい関係は深いんですよ。関係が深いから、平気で一緒に飯食ったりするんですけど、こと音楽となるとね、この人は世界的な人じゃないですか。

高橋 耀司さんこそ世界的な人じゃないですか!(笑)。

山本 そこに音楽ではド素人なオレが「ねえ幸宏」なんていうのは、恐れ多くて言えないですよ。

高橋 けっこう言われてますけどねえ(笑)。

山本 このイベントは、WORLD HAPPINESSっていうタイトルがとっても明るいのと、特定の政治色がないのがいいですね。純粋に音楽の力で励ます、楽しむ。すごいピュアだと思いますね。

山本耀司×高橋幸宏 対談

──
確かにWORLD HAPPINESSという名前は無色な印象が強いですよね。なによりも名前の間口が大きいというか。高橋間口は大きすぎますよね(笑)。山本デカくかまえたもんですよねえ(笑)。
──というわけで、今回のWORLD HAPPINESSですが。

高橋 いつも通りやれればいいなって思いますね。今年は日付が8月23日で、これまでより二週間遅れでの開催です。去年は台風が直撃しちゃいましたけど、さらに台風の危険が増すかも?という日程なんですが。でも、きっと大丈夫です。<モーゼ・幸宏>と言われてますから。数年前に盲腸の手術をしてから効力が弱まってしまった感じもありますが(笑)。

──
晴れ男・高橋幸宏伝説復活といきたいですね(笑)。周辺は雨が降ってるのに、WORLD HAPPINESSの会場だけ奇跡的に雨が降らなかったみたいなことも何度もありましたよね。

高橋 耀司さんのパワーも入れてもらって、なんとかいい環境で楽しくやりたいですね。耀司さんにはなんなら楽屋も用意しておきますから(笑)。

山本 だいたい、このイベントになんでオレは客としてしか呼ばれないんだっていう(笑)。

高橋 なんでオレはアーティストじゃないんだ、と。

山本 そういう不満はあるんですけど(笑)。

高橋 鈴木慶一、耀司さん、僕で、THE BEATNIKSとして一回ライブやったことがありましたね。ドラムがスティーヴ・ジャンセンだったり、ものすごい豪華でしたけど、とても楽しいコンサートだった覚えがあります。いつか、ああいうかたちで出ていただくのもいいかなと思いますね。

山本 いや、オレは苦しかった(笑)。二人(慶一、幸宏)はプロじゃない?

高橋 いや、楽しそうでしたけどね。貫禄充分でした(笑)。

山本 二人についていくのがやっとだった。

高橋 いつかいいタイミングでやりましょうよ。満を持してっていうタイミングで。そうだ、お客さんの退出時にやるっていうのはどうですか?(笑)。「おっと待て、誰だ?」ってお客さんが足を止めるっていう(笑)。

山本 うん、いいかも(笑)。

(対談記事引用)

 

NHKの朝のテレビ小説「あさが来た」。
その主人公のモデルは廣岡浅子という実在の人物で、豪商三井家に生まれ、大同生命や日本女子大の設立に関わった人物。その嫁ぎ先が大阪の豪商加島屋。加島屋は諸藩の蔵元・掛屋(米方両替)、大名貸で鴻池家と並ぶ政商だった。

廣岡浅子の経歴
加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ
歴史の実像に迫る 歴史くらぶ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。
 加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。
 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。
 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。
(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」
(記事引用)


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