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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

2016年04月

パナマ文書はどうやって世に出たのか  
小林恭子の英国メディア・ウオッチ
/25486824/ 2016年 04月 05日ukmedia.exblog.jp 
(ニーマン・ラボのサイトから)
 パナマの法律事務所「モサク・フォンセカ」から流出した、金融取引に関する大量の内部文書。これを元に「パナマ文書リーク」の報道記事が続々と出ている。

 いったいどうやって情報がメディアの手に渡り、各社の報道につながったのか。

 ウェブサイト、ニーマン・ラボ(4月4日付)とワイヤード(4月4日付)の記事から、要点をまとめてみたい。

 法律事務所の内部文書は1977年から2015年12月までの期間のもので、1150万点に上る。文書のサイズは2・6テラバイトに及ぶという。ウィキリークスの手によって世に出た米外交文書リーク(「ケーブルゲイト」、2010年)が1.73ギガバイトであったので、これの数千倍になるという。

 1150万の文書ファイルには480万の電子メール、100万の画像、210万のPDFが入っていた。

経緯は

 2014年末、ある人物が南ドイツ新聞の記者に暗号化されたチャットを通じて連絡をつけてきた。記者の名前はバスチアン・オベルマイヤー(Bastian Obermayer)。その人物は「犯罪を公にしたい」と言ったという。実際に顔を合わせず、連絡は暗号化されたチャンネルのみでだった。そうしなければ「命が危なくなる」からだった。

 オベルマイヤー記者とリーク者は常に暗号化されたチャンネルで連絡を取り合い、どのチャンネルを使うかは時々変えた。それまでのコミュニケーションの内容をその都度、削除したという。暗号アプリの「シグナル」、「スリーマ」や、PGPメールなどを使ったというが、オベルマイヤーはどれをどのように使ったかについて、ワイヤードに明らかにしなかった。

 新たなチャンネルで連絡を始める際には一定の質問と答えを用意し、相手がその人物であることを互いに確認した。

 文書の一部を受け取った南ドイツ新聞は非営利組織の「国際調査報道ジャーナリスト連合」(ICIJ、ワシントンにある)に連絡した。ICIJは過去にも大型リークの分析を担当した経験があったからだ。ICIJのスタッフはミュンヘンにある南ドイツ新聞に出かけ、どう処理するかを話し合ったという。

 この間、ファイルは少しずつ南ドイツ新聞に送られていた。メールで送るには大きすぎるが、どうやって送られたのかについて、南ドイツ新聞はワイヤードに明らかにしていない。

 次に、ICIJのデベロパーたちがリーク文書を検索するサーチエンジンと世界の報道機関がアクセスできるURLを作った。サイトには報道機関の記者たちがリアルタイムでチャットできる仕組みも作られていた。記者同士がワシントン、ミュンヘン、ロンドン、ヨハネスバーグなどに集い、情報を交換もした。

 ICIJによると、リーク文書をそのまま公表する予定はないという。ジャーナリストたちが責任を持って記事化するよう、望んでいるからだ。

 リーク者を守るため、南ドイツ新聞のオベルマイヤーはリーク者との連絡用に使った電話やラップトップのハードドライブを破壊した。「念には念を入れたかった」。今でもリーク者が誰であるかは知らない状態だ。

 ワイヤードはメガリークの新たな時代が始まっている、という。
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 ニーマン・ラボの記事によると、受け取った情報の分析は南ドイツ新聞ばかりではなく、フランスのルモンド紙、アルゼンチンのラ・ナシオン紙、スイスのゾンタ―グツァイトゥング紙、英国のガーディアンやBBCなどが協力して行った。

 プロジェクトにかかわった記者は約400人。世界76か国の100以上のメディア組織が協力したという。

 日本では共同通信と朝日新聞がこのプロジェクトに参加した。
(記事引用)
aer@fwof@es

“パナマ文書” 匿名人物が情報提供か


“パナマ文書” 匿名人物が情報提供か
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租税回避地、いわゆるタックスヘイブンの企業を通じ、各国の首脳らが金融取り引きをしていたとされる問題について、ドイツの有力紙「南ドイツ新聞」は1年以上前に匿名の人物から情報提供を受けたことが問題が発覚するきっかけだったと明らかにしました。

租税回避地、いわゆるタックスヘイブンの国の1つ、パナマの法律事務所の文書が流出し、この中で、各国の首脳らが企業を通じて金融取り引きを行っていたとされる問題で、アイスランドのグンロイグソン首相が辞任を表明するなど、影響が広がっています。

これについて、ドイツの有力紙、南ドイツ新聞は、問題が発覚するきっかけは、1年以上前に匿名の人物がパナマの法律事務所の内部文書を持ち込んできたことだったと明らかにしました。

南ドイツ新聞は、身の危険を訴えていたこの人物と数か月間にわたってインターネットのチャットを通じてやり取りをし、1150万件に上る文書データを受け取った後、調査報道を行う国際的なジャーナリストの団体に連絡をし、共同でデータの分析を行ったということです。

一方、この法律事務所はロイター通信などに対し、「違法行為はしていない」と説明したうえで、「外部からハッキングされてデータが流出したもので、被害者はわれわれだ」と述べ、検察当局に告訴したことを明らかにしました。


中東各国の首脳や親族の名前も


パナマの法律事務所から流出した内部文書には、中東各国の首脳や首脳経験者、そしてその親族も多く含まれていました。

内部文書を公表した調査報道を行う各国の記者で作る団体ICIJによりますと、このうち、シリアのアサド大統領のいとこで、石油や通信部門などシリア経済に強い影響力を持つラミ・マフルーフ氏について、タックスヘイブンであるイギリス領バージン諸島にあるラミ氏の企業が、オーストリアのウィーンやスイスのジュネーブの銀行に多額の資金を預けていたと指摘しています。
さらに、その弟でシリアの情報局の元幹部、ハーフェズ氏も兄のラミ氏に加担していた疑いがあるとしています。

また、内部文書では、サウジアラビアのサルマン国王の名前も上がっています。ICIJによりますと、イギリス領バージン諸島にある2つの企業が、2009年、ロンドン中心部に豪邸を購入するため、合わせて3400万ドル(日本円で37億円余り)の住宅ローンを設定していたということです。サルマン国王の具体的な役割は明らかになっていませんが、ICIJはサルマン国王がこの企業とローンに関わっていた疑いがあると指摘しています。

このほか、UAE=アラブ首長国連邦のハリファ大統領やイラクのアラウィ元首相、それにエジプトのムバラク元大統領の息子など、中東各国の首脳や首脳経験者、それにその親族の名前が多く含まれていました。

スノーデン氏「史上最大のリーク」

世界中に影響が広がっているパナマの法律事務所から流出した内部文書について、アメリカの情報機関による大量の個人情報の収集を告発し、ロシアに亡命しているCIA=中央情報局のスノーデン元職員は3日、自身のツイッターで「データジャーナリズムの歴史で最大のリークだ」とコメントしました。
スノーデン元職員は、その後もアイスランドの首相の辞任の表明を巡る動きなどこの問題について、繰り返しツイッターでコメントしていて、高い関心を示していることがうかがえます。

(記事引用)


パナマ文書はどうやって世に出たのか

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http://ukmedia.exblog.jp/25486824/ 2016年 04月 05日
(ニーマン・ラボのサイトから)
 パナマの法律事務所「モサク・フォンセカ」から流出した、金融取引に関する大量の内部文書。これを元に「パナマ文書リーク」の報道記事が続々と出ている。

 いったいどうやって情報がメディアの手に渡り、各社の報道につながったのか。

 ウェブサイト、ニーマン・ラボ(4月4日付)ワイヤード(4月4日付)の記事から、要点をまとめてみたい。

 法律事務所の内部文書は1977年から2015年12月までの期間のもので、1150万点に上る。文書のサイズは2・6テラバイトに及ぶという。ウィキリークスの手によって世に出た米外交文書リーク(「ケーブルゲイト」、2010年)が1.73ギガバイトであったので、これの数千倍になるという。

 1150万の文書ファイルには480万の電子メール、100万の画像、210万のPDFが入っていた。

経緯は

 2014年末、ある人物が南ドイツ新聞の記者に暗号化されたチャットを通じて連絡をつけてきた。記者の名前はバスチアン・オベルマイヤー(Bastian Obermayer)。その人物は「犯罪を公にしたい」と言ったという。実際に顔を合わせず、連絡は暗号化されたチャンネルのみでだった。そうしなければ「命が危なくなる」からだった。

 オベルマイヤー記者とリーク者は常に暗号化されたチャンネルで連絡を取り合い、どのチャンネルを使うかは時々変えた。それまでのコミュニケーションの内容をその都度、削除したという。暗号アプリの「シグナル」、「スリーマ」や、PGPメールなどを使ったというが、オベルマイヤーはどれをどのように使ったかについて、ワイヤードに明らかにしなかった。

 新たなチャンネルで連絡を始める際には一定の質問と答えを用意し、相手がその人物であることを互いに確認した。

 文書の一部を受け取った南ドイツ新聞は非営利組織の「国際調査報道ジャーナリスト連合」(ICIJ、ワシントンにある)に連絡した。ICIJは過去にも大型リークの分析を担当した経験があったからだ。ICIJのスタッフはミュンヘンにある南ドイツ新聞に出かけ、どう処理するかを話し合ったという。

 この間、ファイルは少しずつ南ドイツ新聞に送られていた。メールで送るには大きすぎるが、どうやって送られたのかについて、南ドイツ新聞はワイヤードに明らかにしていない。

 次に、ICIJのデベロパーたちがリーク文書を検索するサーチエンジンと世界の報道機関がアクセスできるURLを作った。サイトには報道機関の記者たちがリアルタイムでチャットできる仕組みも作られていた。記者同士がワシントン、ミュンヘン、ロンドン、ヨハネスバーグなどに集い、情報を交換もした。

 ICIJによると、リーク文書をそのまま公表する予定はないという。ジャーナリストたちが責任を持って記事化するよう、望んでいるからだ。

 リーク者を守るため、南ドイツ新聞のオベルマイヤーはリーク者との連絡用に使った電話やラップトップのハードドライブを破壊した。「念には念を入れたかった」。今でもリーク者が誰であるかは知らない状態だ。

 ワイヤードはメガリークの新たな時代が始まっている、という。

 ニーマン・ラボの記事によると、受け取った情報の分析は南ドイツ新聞ばかりではなく、フランスのルモンド紙、アルゼンチンのラ・ナシオン紙、スイスのゾンタ―グツァイトゥング紙、英国のガーディアンやBBCなどが協力して行った。プロジェクトにかかわった記者は約400人。世界76か国の100以上のメディア組織が協力したという。

 日本では共同通信と朝日新聞がこのプロジェクトに参加した。

平成維新「綱領」第一条第一項.01 2016.4.1
日本の代表的企業身売り話ニュースだ。日本にとって未曾有の一大事にもかかわらず、いたって平静平穏だ。これは何を意味するか。報道するメディア記事も、今いち釈然としない見解。

例えば「一つ見逃せないのは、シャープも東芝も海外企業の買い手が付いたことだ。友人である電機関係の技術者は、液晶や白物家電も、やりようでまだ新しい技術を付加する余地は十分にある、と言っていた。しかも、シャープにも東芝にもかなり高い技術力と、確立したブランド力が蓄積しているはずだ。そうした技術やブランドは、新興の中国、台湾の企業にとって喉から手が出るほど欲しい要素だという。逆に言えば、経営の失敗で傾いた両社は技術力とブランド力に期待」と、その場取り繕いのような見解意見だ。

液晶や白モノ家電、やりようでまだ新しい技術を付加する余地は十分にある、って、後がないから身売りであって、「やりよう」があったなら何故、それを早く出さないのか。
シャープも東芝もかなり高い技術力は、オリジナル技術でなく、欧米スタイル改良型であり、それを「東西アジア圏」がそっくり引き継いだスタイルだ。

「シャープ・東芝」の技術力とブランド力とは、すなわち明治時代より欧米先進テクノロジーを積極的に奨めた国家戦略であり、そのガイド役が血気盛んな若き官僚たちであったことは、いたるところの書籍にしたためてある。

そうした分析図を眺めていれば、今回の結果が、ごく当然のような結果に到ったことは必然だとおもわなくてはいけない。そんなことは経済の専門家でなくても、日々のニースを丹念に精読していれば判ることである。小学生的嘆息・・・。

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2016年3月31日付.記事
東芝は中国企業へシャープは台湾企業傘下へ 2016年3月22日ダイヤモンド
 不正経理問題に揺れる東芝は、同社の白物家電事業を中国の美的集団(ミデア・グループ)に売却することで基本合意したと発表した。経営不振に陥ったシャープは、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入り再建を目指す模様だ。
 これまでにも、三洋電機が冷蔵庫部門などを中国のハイアールに売却、米国のゼネラル・エレクトリック(GE)が家電部門を同じくハイアールに売却するなどがあった。
 これらはいずれも自社のブランドを確立した有力メーカーが、競争力を失いつつある家電部門などを新興のアジア企業に売却するケースで、中国や台湾などの企業の勢いが鮮明化する一方、わが国や米国などのメーカーの退潮を印象づける出来事だ。
中略
 ただ一つ見逃せないのは、シャープも東芝も海外企業の買い手が付いたことだ。友人である電機関係の技術者は、「液晶や白物家電も、やりようでまだ新しい技術を付加する余地は十分にある」と言っていた。しかも、シャープにも東芝にもかなり高い技術力と、確立したブランド力が蓄積しているはずだ。
 そうした技術やブランドは、新興の中国、台湾の企業にとって喉から手が出るほど欲しい要素だという。逆に言えば、経営の失敗で傾いた両社は、技術力とブランド力があったことでこそ淘汰を逃れることができたとも言える。
(記事引用)

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誰がやる! 誰かやれ! ~その誰ってダレ!!!
昨日書いた記事を抜書きした。それが別にどう~ってことのないニュースだ。と、社会も世間も、経済界人トップも誰も挙手して異を唱えるものがいない。

であったら、このまま日本国中の主要産業の大多数は、遅かれ早かれ日本を除くアジア経済圏の企業に身売りする。別に高等数学方程式を解け、といっているわけではない。
小学校3年生が習う掛け算99で、充分事足りる例題だ。
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幸いなことに「少子高齢化」の度合いが、将来的に加速して進むというのは、はっきりしているので、それに合わせて国内「空洞トンネル化」の対抗策の一環として、企業身売りしている、という国家戦略なら、話は判り易い。

とくに私の住む田舎町では、高齢者住居の空き家が増えて放置され、草木に覆われつつある。あと10年もするとそれは完全に「アンコールワット夏草スワップ」状態と化す。

「地方創生」だって?、いやいや、後手後手地方自治丸投げ政策の中で、これまで疲弊した町が再生した試がないのは確認済みで、その実験場だから、各自治体に配分されている8000万円予算を、担当職員はいかにして「項目」を書き込むか腐心しているところだ。え、新規事業計画書じゃなくて、使いきれなかった分の余剰予算返還の正統理由である。

なにしろ「誰がやる! 誰かやれ!その誰ってダレ」なんだという主体不明のまま、8000万円は使途不明決済となる。

「明治維新」とは、どこにあったのか
明治維新を説明しろといったら迷わず「坂本龍馬」と「勝海舟」だといい、政権を建てたのは木戸孝允(長州)西郷隆盛(薩摩)大久保利通(薩摩)など三傑としての人物、発布当事(1884年)に残る功臣の筆頭格として政府の権勢を握っていた伊藤博文、山縣有朋、黒田清隆などが挙げられる。

そうした近現代歴史は学校で学ぶが、その殆どはNHK大河ドラマ現代プロパガンダ的によって叩き込まれたといっていい。

だから、それが事実に反していたとしても、検証する手立てもなければ時間もなかった、というのが実情だ。しかし、昨今、そのことに異を唱えるものが多くなった。

私もその中に入るが、このブログでも展開している「原田伊織 著の異聞的見解」

で明治維新について述べている。

テレビドラマを見て感心していたころは、過去の歴史をリアリティーに再現しているドキュメンタリー的内容とばかり思っていたが、実はそうではなかった。
「司馬遼太郎」という元新聞記者のシナリオに、すっかり感化され洗脳された、という思いがあり、またテレビ映像という力に、脳の思考が完全にスポイルされていた。

またそのころの時代背景として、娯楽番組にいやけが差したころでもあったし、少しは教養を身に付けたい、という社会風潮も加味されていた時代でもあったような気がする。 その供給バランスにぴったりマッチしたというのが実のところだ。

だから総合的に判断して「司馬遼太郎」という個人キャラは運のいい星の下に生まれた、と判断される。それより後に同じく文筆業としての「立花隆」もまた世間の注目を全身で受けた運のいいライターとして特筆される。ともにメディア時代の「申し子」双璧だ。

ここでは、それら既存既成の概念枠をいったん解いて、さらに再構築するという大胆な発想だか、これが成功するか、また持続するか、世間のささやき「風聞」にうまく載せられるか、という大それたテーマを掲げているが、如何せん、素人であるし、また浅学を鼓舞しまくって本論逸脱する可能性を否定できない。

その大本のコンセプトは、他愛無いニュースの中に紛れ込んでいる。社会も世間も、経済界人トップも誰も挙手して異を唱えるものがいない。
このまま日本国中の主要産業の大多数は、遅かれ早かれ日本を除くアジア経済圏の企業に身売りする。別に高等数学方程式を解け、といっているわけではない。小学校3年生が習う掛け算99で、充分事足りる例題だ。
幸いなことに「少子高齢化」の度合いが、将来的に加速して進むというのは、はっきりしているので、それに合わせて国内「空洞トンネル化」の対抗策の一環として、企業身売りしている、という国家戦略なら、話は判り易い。
と、冒頭にしめした恣意的意見だった。

その手始めに、明治維新只中の経済状態を調べてみた。

江戸時代、金を借りて利息を払う行為
「明治維新後、日本は西欧の資本主義経済を取り入れた。このため江戸時代とは違った経済体制になった」と言うと、「なるほどな」と思うかも知れない。
 
江戸時代は資本主義経済ではなかった、と思っている人も多いかも知れない。
けれども、江戸時代は資本主義的な面も多く、同じ時代の西欧と比べてもひけを取らないほど、資本主義の進んでいた面もある。 このため『資本主義は江戸で生まれた』と言う人もいる。(『資本主義は江戸で生まれた』鈴木浩三 日本経済新聞社 2002. 5. 1) 

その1つは、貨幣制度で、金・銀複本位制度でありながら、銀を金の補助貨幣のように扱い、まるで管理通貨制度のように扱っていた。

その管理通貨制度的な考えは、元禄時代の荻原重秀にまでさかのぼり、幕末の金の大量の流出も、日本と西欧との金融制度の違いから生まれたものだった。

TANAKAの考えは、「当時は日本の金融制度の方が進んでいた」となるのだが、それだけに西欧人に理解されずに大量の金が流出することになった。 これに関しては<グローバリゼーションによって社会は進化する> 幕末、金貨の大量流出。
 
江戸時代の金融制度を調べてみると、金を貸す機関が多いことに気づく。人々は、大名も武士も商人も農民も、「金を借りたら利息を払う」ということは当然のこととなっていた。
しかし、「金を預けて利息を稼ぐ」という金融機関はなかった。 これが明治になってからに銀行制度の発達に大きな影響があったと思う。

つまり、銀行ができて「そこから利息を払って金を借りる」ということには抵抗がなかったが、「預金して利息を稼ぐ」ことには慣れていなかった。
このため銀行の預金が余り伸びなかったのだと思う。 バーナンキやサムエルソンのモデルに当てはまらないのは、預金が集まらなくて、トランスミッションメカニズムが働かなかったのだと思う。 

もちろん「エコマネー」「地域通貨」信奉者の言う、「貨幣は交換のためだけに使うべきで、貯蓄や金融商品の売買などのマネーゲームに使うべきでない」 とか「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」 よりも資本主義的であった。

江戸時代には幕府も町年寄りを使って町人への融資活動を行っていた。 

幕末から明治初期にかけての日本の金融制度、銀行制度を扱うのは、バーナンキやサムエルソンのモデルがあまりにも単純で、日本の銀行制度発達とは違うように思えてきたからだ。 抽象的なモデルとしてのバーナンキやサムエルソンのモデルは否定すべきとは思わないが、実際はまるで違っていた。

そこで日本の銀行について、明治初期のことを調べることにした。 幸い、銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」という資料がとてもまとめきれないほど沢山あった。経済学の教科書で扱っていない、現場のニュアンスが伝わってくる、貴重な資料だと感じた。次週以降もこれらの資料を基に話を続けることにする。

国立銀行という私立銀行が153も設立された 
 
この時代のキーマンは渋沢栄一
明治政府がとった金融政策、試行錯誤が続く。今週は、貨幣を発行することができる「国立銀行」と呼ばれた「民間銀行」を扱う。 今週も多くの銀行の「自分史」である「○○銀行○○年史」から興味を引く文章を引用することにしよう。

<第一国立銀行操業==渋沢栄一総監役に就任>
 明治維新はわが国の近代国家としてのスタートであった。維新政府は、近代国家としての体制をととのえ、西欧先進国に追いつくために、いろいろな政策を早急に実行しなければならなかった。 
国民経済の面においては、まず健全通貨制度と近代銀行制度の確立、殖産興業政策の遂行、株式会社企業の育成ということがその最も重要な、しかも急を要する課題と考えられていた。 

その1つの柱として政府は明治5年11月に、国立銀行条例を公布し、国立銀行(「ナショナル・バンク」の直訳)を興し、これを経済政策の中核としようとした。 
国立銀行条例はさしあたって2つの目的を持っていた。第1は当然のことながら商工業金融の振興であり、第2は明治新政府が歳入を補うため発行した政府発行紙幣の銷却であった。
同条例の目指すところの二重性を端的に反映して、国立銀行は銀行業務とともに、銀行紙幣の発行、官金出納取扱、政府の命令による公債の買入、引換などの特殊な業務を兼営することとなった。 この国立銀行の最初の模範として、政府が積極的に設立をすすめ、そして誕生したのが第一国立銀行であり、その経営の最高責任者は、さきに大蔵省官吏として国立銀行条例の立案者でもあった渋沢栄一であった。 
 
第一国立銀行の資本金の大半は旧幕時代からの両替商の重鎮として力のあった三井組、小野組の両家から出資された関係で、本来ならばこの両者が経営にあたるべきであったが、政府はこの両家の融和協力は難しいと判断し、所期の国策を遂行させるために、2人の頭取の上に、実質的に主宰していく人をおく必要があるとして、総監役という名で渋沢栄一を置くことにした。 
かくして第一国立銀行は明治6年6月11日に東京海運橋兜町の本店において創立総会を開き、同年7月20日、本店および横浜、大阪、神戸の3支店がいっせいに開業した。 

貨幣の単位を両から円にかえたのは明治4年であった。それから2年後、はやくも「流通の枢軸、富殖の根底」(渋沢栄一『第一国立銀行開業祝詞』から)となるべき銀行が設立されたわけで、そのスピーディーなことな驚くばかりである。 

こうして第一国立銀行は設立されたが、その業務は初めから順調にすべり出したわけではなく、先駆者として種々の困難に遭遇しなければならなかった。 

たとえば健全通貨制度の確立ということを国立銀行の使命の1つとし、銀行に金兌換紙幣を発行させた。
これによりかつて政府が発行した不兌換紙幣を銷却しようとしたのであるが、すでにかなりの額の不兌換紙幣が発行せれていたばかりでなく、輸入の増加や、海外の金価格の騰貴などによって、紙幣と金(キン)との値打ちの開きが次第に拡大した。
このため銀行紙幣は発行すれがすぐ兌換さを要求されるという状態になり、創立1ヶ年後の明治7年6月以後は、銀行紙幣を発行することが、事実上できなくなってしまった。
(資料 趣味の経済学
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