2016年07月

    もっとも危険な「神の声」という錯覚

    やはりそれは安易に使うべきではないとおもう

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    障がい者施設襲撃容疑者の「神の声」はどこから来たのか
    千田有紀  | 武蔵大学社会学部教授(社会学)
    2016年7月28日 8時45分配信yahoo.co
    相模原市障がい者施設が襲撃され、多くの方が亡くなられた事件があった。多くのひとが憤りを示している。「ヘイトクライム」、憎悪犯罪である。特定の民族や宗教、性別などの集団に対する攻撃のターゲットは、今回は障がい者だった。しかし事件の全貌が明らかになるにつれ、さらにやりきれない思いに沈むようになった。

    大学時代の友人は、教員をめざしていた容疑者が、「2年生の時に障がい者施設に教育実習に行った後、『障がい者なんて死ねばいい』『(障がい者が)生きている意味が分かんない』と発言していた」という(植松聖「十分刑事責任問える」文章に乱れなく主張明瞭な衆議院議長あて手紙)。田中眞紀子議員らが提出した議員立法により、1998年から教育職員免許状取得者に、介護等の体験が義務化された。容疑者の障がい者への憎悪の始まりが、本来「人の心の痛みのわかる教員、各人の価値観の相違を認められる心を持った教員の実現に資すること」を目的とした制度によってだったことを考えると、皮肉としかいいようがない。

    容疑者は友人に「生まれてから死ぬまで回りを不幸にする重複障がい者は果たして人間なのでしょうか?」「人の形をしているだけで、彼らは人間ではありません」(原文ママ)というLINEを送っているという(LINEで友人に“障害者は人間ではない”)。

    多くの人は、元都知事が府中療育センターの視察に際に、「ああいう人ってのは人格あるのかね」、「みなさんどう思うかなと思って」、「僕は結論を出していない」、「ああいう問題って 安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」と発言したことを思い出したようだ(「ああいう人たちに人格あるのかね 」1999年9月18日『朝日新聞』)。強い抗議を受けた。石原慎太郎氏の名誉のために付け加えれば、「自分の文学の問題にふれてくる。非常に大きな問題を抱えて帰ってきた」とも発言しており、単なる差別を意図した発言ではなかったとは理解している。ただその後「ああいう人ってのは人格あるのかね」という発言は、一人歩きして差別の正当化に使われていった(少なくとも、私は何度も耳にしている)。

    障がい者施設の園長は「(利用者は)死んだほうがいい」というような容疑者の発言に対して、「その考え方は、ドイツ・ナチスの考え方と同じだよ」ということを言ったら、「そういうふうに捉えられても構わない」といような反応をしたという(障害者施設襲撃 男、障害者にいたずら書き「軽い気持ちで...」)。ナチス・ドイツではユダヤ人に対するホロコースト、大量殺戮が知られているが、実はそれだけではない。優生主義思想に基づく安楽死政策では、「生きるに値しない生命」とされた障がい者や重病者が、同性愛者やロマなどとともに、犠牲になっている。優秀な民族をつくるという「全体」の理想のために、「個人」は切り捨てられるべきだと考えられたのである。ユダヤ人へのホロコーストは、むしろ障がい者の安楽死計画である「T4作戦」の延長上に出てきたと考えることすらできる。

    しかしこれはナチス・ドイツに留まる考え方ではない。日本でも、優生思想に基づいて、障がいや病気をもつひとに対する断種、強制的な不妊手術は、戦前から行われてきている。実際には遺伝病ではないハンセン病(らい病)のひとは戦後になっても隔離され、1948年に制定された「優生保護法」の対象となり、戦後も不妊手術や人口妊娠中絶を強制されてきた。らい予防法が廃止されたのは、なんと1996年になってからである。女性の障がい者に対する子宮の摘出の問題もある。

    容疑者は、「神からお告げがあった」といっているという(首狙う残虐な手口 身守れぬ弱者襲う(その1)『毎日新聞』)。そのうえで、「障害者はいらない」「税金の無駄」ともいい、「日本国と世界の為」(衆院議長宛て手紙 全文『毎日新聞』)の犯行だともうそぶく。犯行後には「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」というツイートもしている(「beautiful Japan!!!!!!」 背中に般若の入れ墨画像 事件当日「世界が平和に」植松容疑者とみられるツイート)。

    容疑者のいう神のお告げは、どこからきたのだろうか。「税金の無駄」という言葉にドキリとする。近年の小さな政府をめざし、福祉の切り捨てを推進するなかで、さんざん目にしてきた言葉ではないだろうか。弱者が足手まといであり、弱者への福祉が、全体の福祉のためになっていないという考え方は、たんなる容疑者の妄想なのだろうか。私たちは、容疑者が異常なだけだと考え、非難したくなる。しかしひょっとして「彼」の問題は、「私たち」社会の問題なのではないのか。

    障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。

    出典:植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告
    正しいかどうかは別にして、彼は車イスに一生縛られている利用者を、少なくとも「気の毒」だとは感じていた。また、「遺族の方には謝罪したい」(障害者施設襲撃 逮捕の26歳男「遺族の方には謝罪したい」)「職員は絶対に傷つけず、速やかに作戦を実行します」という。しかし殺害した障がい者のかたがたへは、謝罪をしない。

    彼はどこを間違ったのだろうか。私たちが「彼」にならないためには、何をすればいいのだろうか。容疑者を非難するだけでは終わらない、大きな問題を突きつけられているのではないだろうか。

    千田有紀
    武蔵大学社会学部教授(社会学)
    1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数
    (記事引用)

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    小保方晴子さんの「罠」 私たちはなぜ彼女に魅了されるのか
    千田有紀  | 武蔵大学社会学部教授(社会学)
    2016年3月4日 7時40分配信
    小保方晴子さんの書いた手記『あの日』が、26万部超えだそうである。単純に電卓をはじいて、印税が3600万円以上だと類推してしまった自分はゲスい。しかしなぜここまで皆が小保方さんに魅了されるのかという疑問を抑えきれない。

    近年は、罪を犯したひとが出版して印税を得ることに対して、世間の風当たりは驚くほど強い。小保方さんの本は、研究費で購入して読んだ(*1)。本のなかには、恨みや悲しみは綴られていても、反省の念はまったくといって出てこない。もちろん、事件に至った真相も、まったく解明されていない。「反省の念がない」「犯罪者が印税を得るな」「そもそも出版するな」と叫ばれた手記への反応と較べると、首をかしげたくなるような違いである。
    (記事冒頭引用)

    もときた「未知」に戻る
    http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52090407.html

     

    平成ネット瓦版2
    未解決事件File05ロッキード事件 NHKスペシャル

    NHKスペシャル 未解決事件File.05ロッキード事件

    ▽第1部 2016年7月23日(土)  19時30分~20時45分 

    ▽第2部 2016年7月23日     21時00分~22時00分

    ▽第3部 2016年7月24日 (日) 21時00分~22時00分

    ▽第3部 日米の巨大な闇

    番組解説nhkサイト
    今度の未解決事件は戦後最大の疑獄・ロッキード事件。田中角栄元総理大臣の逮捕の影で埋もれた“巨大な闇”とは。実録ドラマとドキュメンタリー、2夜連続で迫る。

    田中角栄元総理大臣が逮捕された「ロッキード事件」。米ロッキード社が自社の民間航空機の売り込みをめぐり、日本の政財界に巨額の賄賂をばらまいた前代未聞の疑惑が浮上。
    金を受け取った政府高官は誰なのか?
    事件の背後に潜む「昭和の怪物」と言われた黒幕とは?
    そして21億円もの金の行方は?今回、捜査の最前線にあった東京地検特捜部の“極秘資料”を入手し、知られざるロッキード事件の舞台裏を「実録ドラマ」で描く。

     

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    細川都知事誕生なら森喜朗・東京五輪組織委会長の“更迭”も(週刊ポスト)週刊ポスト2013年1月31日号


     東京都知事選に突如旋風を巻き起こした細川護熙氏と小泉純一郎氏の“元首相連合”。では、細川都知事が誕生すると何が起きるのか。細川都知事が五輪関連でまず着手するのは、大会組織委員会会長の“更迭”だろう。

     

     今月14日に森喜朗・元首相の五輪組織委会長就任が決まった。細川氏はこれに異を唱えているという。

     

    「森さんは細川さんが出馬を表明する前から『細川さんは卑怯だ』などと批判の急先鋒に立っていた。森さんを会長に据えるという人事は完全に安倍官邸が描いた人事。
    五輪準備の最高責任者である組織委会長は利権を一手に握ることになる。安倍官邸の狙いはそこだ。しかし開催都市の最高責任者が不在の間に組織委会長を決めるのはいくらなんでもおかしい。森さんこそ卑怯じゃないか」(細川氏側近)

     

     森氏は24日に開かれる理事会で正式就任となるが、細川氏が都知事になればこの人事を白紙に戻すことは可能だという。

     

    「五輪準備では人材も資金も東京都が中心。細川さんが、『森さんが会長をやりたいならやればいい。ただし、都は一切協力しない』と宣言すれば、森さんも何もできなくなり辞退せざるを得ない」(都庁職員)

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     そもそも森氏の会長就任は、人事に反対していた猪瀬直樹前知事の辞任という間隙をついた“火事場泥棒”という面は否めない。新都知事の出方ひとつで安倍官邸の“五輪利権強奪計画”は簡単にひっくり返されることになる。 

     

    電通が語った五輪「裏金疑惑」への弁明とは?

    「ガーディアン紙の記事には誤認がある」 

    田邉 佳介 :東洋経済記者  2016年05月22日

    「電通が語った五輪「裏金疑惑」への弁明とは?

    「ガーディアン紙の記事には誤認がある」 | メディア業界 - 東洋経済オンライン」

    国内外で拡大を続ける同社だが、最近は東京オリンピック招致にかかわる「裏金疑惑」が取りざたされている。この裏金疑惑とは、招致委員会がシンガポールのコンサルタント会社、ブラック・タイディングス社に2度にわたって振り込んだ資金が、IOC(国際オリンピック委員会)関係者への賄賂ではないか、という疑惑だ。

     

    ブラック・タイディングス社については、5月16日に馳浩文部科学相が「電通に勧められて招致委員会が契約を判断した」、JOC(日本オリンピック委員会)の竹田恒和会長も、同社のコンサルタントであるイアン・タン・トン・ハン氏から売り込みがあり「電通に実績を確認した」と発言している。

     

    電通が推薦したとのことだが、会社側の主張は次のようなものだ。

     

    「招致委員会から照会のあった複数のコンサルタントに関して、知る範囲で各氏の実績等について伝えた。イアン・タン氏はその一人」。双方の主張はやや異なっている。

     

    仮に関与があれば、大幅なイメージダウン

     

    また、問題を報じた英ガーディアン紙の記事についても、誤りがあるとしている。同紙は電通の子会社であるAMS(アスリートマネジメント・アンド・サービス)がイアン氏を雇っていたと報じたが、会社側は「電通の子会社ではなく出資関係もない」と否定した。

     

    ガーディアン紙からは掲載前に問い合わせがあり、事実誤認を指摘したが、そのまま掲載されたという。また、「現在のところ、フランス当局から捜査協力の要請などは受けていない」としている。

     

    仮にオリンピック招致をめぐる組織的な不正があり、それに電通が加担したとなれば、大幅なイメージダウンは避けられない。海外における買収戦略も当然、見直しを迫られることになる。JOCの竹田会長は第三者組織によって調査を進める考えを示している。電通の関与の有無も、早晩明らかになるだろう。

    (引用東洋経済


    戻るリンク
    http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52090033.html



    奉行所の役人はわずか166名

    超先進的だった江戸の自治事情(上)

    【第9回】 2016年1月11日松元 崇
    [元内閣府事務次官/第一生命経済研究所特別顧問]
     


    連載第8回では、明治維新期の政府は外交や防衛、それに国家としての最低限の姿をつくり上げるのに手一杯で、内政面、すなわち殖産興業といった分野は基本的に地方や民間任せであったが、そのようなことができたのは、当時の地方の経済力が強かったからだったと述べた。

     

    さらに言えば、江戸時代以来の地方自治がしっかりしていたので、地方のことは地方に任せても問題がなかったのである。そこで今回は、明治維新以降の地方自治の基盤となった江戸の自治についてご紹介することとしたい。実は、その基盤の上に、わが国の民主主義も発展して行ったと言えるのである。

     

    日本の民主主義の礎となった

    江戸時代の地方自治

     

    明治も半ばになった明治26年に、勝海舟が語った話が『氷川清和』という本に出てくる。勝海舟は「地方自治などいふことは、珍しい名目のやうだけれど、徳川の地方政治は、実に自治の実を挙げたものだヨ。名主といひ、五人組といひ、自身番(警察)といひ、火の番(消防)といひ、みんな自治制度ではないかノー」と言っていた。

     

    実は、明治20年代に創設された日本の地方自治制度は、江戸の自治を土台にしていたのである。明治政府は中央集権的で、地方も中央集権化したと認識している人が多いが、明治維新期の政府は外交や防衛、それに国家としての最低限の姿をつくり上げるのに手一杯で、内政面、すなわち地方自治にはほとんどノータッチだったというのが実態だった。

     

    そのため、江戸の自治を引き継いだ。そこで勝海舟の話になるのだが、それでもほとんど問題がないほどのものだったのが、江戸の自治だったのである。ちなみに、明治時代に地方自治制度をつくったのは山縣有朋。明治の元勲として伊藤博文と並び称された山縣は、今日では軍閥の元祖とばかり思われているが、山縣には江戸の自治を引き継いで、その伝統の上に、当時の西欧諸国に負けないような立憲制を築き上げていこうとしたという、全く別の顔があった。戦前の制度はみんな悪いように思っている人が多いが、そのようにしてでき上がった明治の自治には、それなりに優れたところもあった。それがおかしくなったのは、先の戦争のときだと言えよう。

     

    わが国の地方自治制度が江戸の伝統を引き継いでいたことについては、福沢諭吉がこんなことを言っている(『福沢諭吉全集』の「6の65」「6の50~51)。

     

     「日本国民は250年の間、政権こそ窺ふことを得ざれども、地方公共の事務に於ては十分に自治の事を行ひ、政府の干渉を受けざること久し(『福沢諭吉全集』6・65)」

     

    また徳川時代の自治制度を、「今日の立憲政体に遭ふて其まま行はる可きに非ず、多少の取捨ある可きは当然のことなれども、旧制度も新制度も自治は即ち自治なり、(中略)立憲の新政体に適するは、古来我民心に染込みたる自治の習慣こそ有力なる素因なれ。(『福沢諭告全集』6・50―51)」とも述べている。

     

    つまり、「江戸の自治を少し手直しして、そのまま我が国の自治制度にすればいい」と言っていた。福沢諭吉という人は、江戸の封建制を「門閥制度は親の敵」といって批判していた人だったが、江戸の自治については、このように高く評価していた。勝海舟と一緒だったというわけである。

     

    たった166人の役人で切り盛りしていた

    江戸時代の驚くべき自治の仕組み

     

    では、その江戸の自治とはどんなものだったのかということだ。まず質問だが、江戸の町は北町奉行と南町奉行による月番制、すなわち月ごとの交代で治められていたが、それぞれの奉行所の役人の数は、どれくらいだったと思うだろうか。今日で言えば、東京都に当たる組織の職員数がどれくらいだったかということだ。

     

    江戸時代には、旗本8万騎と言われて、かなりの数の武士が幕府にはいた。ちなみに、東京都の現在の職員数は16万5000人あまりだ。もっとも、高等学校の先生などが入っているから、そういった職員を除いた知事部局などの職員数に限ると、3万8000人弱である。

     

    答えは、166名だ。奉行1人、与力25人、同心140人の計166名。たった166人の人数で、今日で言えば東京都の一般行政、警察、裁判所などの業務の元締めを行っていた。何故、そんな少人数で、そんなことができたのかといえば、ほとんどの問題が地域の自治で処理されて、奉行所という「お上」の出番が極めて少なかったからだ。住民生活において生じる様々な問題は、基本的に地域の寄り合いで話し合われ、処理されていた。そこで処理できない、ごく少数の案件だけが「お上」のお世話になっていたのだ。

     

    最近はあまり放映されなくなったが、かつて時代劇全盛の時代に、ドラマ『遠山の金さん』という作品があったが、ドラマの最後に「北町奉行、遠山左衛門尉様、ご出座ァ……」となって「お裁き」が行われ、ハッピーエンドになるというパターンだった。しかしながら、そのようなことが行われるのは、ごく稀だったということだ。ほとんどの実務は、末端の自治で行われて完結していた。そのようなシステムの下に、歌舞伎や浮世絵、お祭りといった江戸の町人文化が花開いていた。地域が活性化していたというわけだ。

     

    それにしても、地域の統治が最終的に「お裁き」という裁判システムで行われていたと言われると、「江戸の自治は随分と特殊な制度だったのだ」と思われるかもしれないが、実はかつての英国や米国の自治も、同様の裁判システムで行われていた。

     

    英国には治安判事という仕組みがあって、地域の自治で納まらない案件を治安判事が裁いていた。米国では巡回裁判所という仕組みがあって、地域の自治で治まらない案件が裁かれていた。自治と言っても、そこでまとまらない話は、最後の元締めがいないと全体がうまくいかないというわけだ。

     

    ちなみに、そのように実質的に行政を司る場合の裁判は、判決までに半年も1年もかかるという今日のそれとは異なり、即決を旨としていた。『遠山の金さん』が登場して啖呵を切れば、ドラマはクライマックスで、もうすぐ最後のコマーシャル。解決に半年や1年もかかるというのでは、とても統治のシステムとしては成り立たない、1時間のドラマにも収まらないというものだったのだ。

     

    江戸時代の「役人」は何らかの

    役についている民間人だった

     

    さて、それにしても、最後には即決の「お裁き」になる、その根底にあった江戸の自治は、どのようなものだったのかを説明しないと、「そんな話は信じられない」と言われそうだ。江戸の町で自治を担っていたのは、町役人と呼ばれた町年寄、町名主、それに家主たちだった。ここで「町役人」と言ったが、今日では役人とは公務員のことであるが、当時の役人とは「何らかの役についている民間人」が多かった。後で、村の自治について説明するときに「村役人」という言葉が出て来るが、それは村で村人のとりまとめをしていた名主や庄屋のことだ。

     

    ということで、そのような江戸の町役人の数は、町方の人口が53.5万人だった寛政3年(1791年)で2万人余だった。一番上にいたのが、月番制をとる3人の町年寄(樽屋、奈良屋、喜多村)。その下に300名弱の町名主(享保8年、268名)がいたが、なんと言っても主役は、一番末端にいた家主たちだった。

     

    家主たちのイメージは、落語に出てくる御隠居さんの現役時代の姿と思えばいい。その家主たちを5人ずつにした5人組が、実際の実務を行っていた。勝海舟が『氷川清話』で触れていた「5人組」だ。戸籍(人別帳)の管理、婚姻、養子、遺言、相続廃嫡の立ち会い、幼年者の後見、火消し人足の世話、夜廻、町内の道造りなどを行っていた。5人の家主たちは、寄り合いということで集まって、地域のことを全て決めると同時に、「町入用」という今日で言えば町民税の収納の連帯責任を負っていた。

     

    それに対して、一般町人である地借人や店家人(たながりにん)はどうしていたかというと、町入用という税金も納めなければ、寄り合いにも参加しない。地域自治のことはすべて大家にお任せだった。実はこの点が、この後説明する村の寄り合いとは違う点だ。村では、地主だけでなく小作人も、村入用、今日でいうところの村民税を負担し、寄り合いにも参加して、地域のことの相談に与かっていた。

     

    江戸の地借人や店借人は、荻生徂徠によれば「江戸は諸国の掃溜」と言われていた人たち、農村で食いつめてきた移住者たちが多かった。九尺二間というから、約3坪の裏店(うらだな)住いというのが一般的だった。両国の江戸東京博物館に行けば、当時の長屋が復元されているので、その模様をご覧いただけるが、そのような長屋に住んでいた地借人や店借人、落語で言えば、熊さん八っつあんに、町入用の負担を求めたり、地域のことに責任を持てというのは無理だったということだ。

     

    彼らも、店5人組といったものを設けて、それなりの自治を行ってはいたが、それは自分たちに関することだけで、地域のことは家主たちの寄り合いで決めてもらっていたというわけである。

     

    江戸の自治は、業界ごとにも行われていた。旅籠(はたご)、両替、質屋、札差(ふださし)、飛脚、呉服といった業界ごとに寄り合いがあった。また地方においては、「若衆宿」といった若者の自治が行われていた。さらには、「牢名主」という言葉があるように、監獄でも自治が行われていた。

     

    ねずみ小僧次郎吉が

    屋根伝いに逃げた理由

     

    江戸の自治がどれだけ幅広く行われていたかに関しては、権力行政の代表とも言える警察も自治で行われていたということをお話すれば、よりイメージがわくだろう。読者諸氏は、ねずみ小僧次郎吉というのをご存じかと思う。かつての時代劇のヒーローの1人だ。18世紀後半の化政期(文化、文政)に、もっぱら大名屋敷を荒らした盗賊だが、その次郎吉が映画などで捕り物の役人に追われて逃げる際には、必ず屋根伝いに逃げていた。

     

    筆者は、「ねずみが屋根裏を這い回るからなのか」「それにしても不思議だな」と思っていたのだが、実はねずみ小僧には、そうする合理的な理由があった。それは、江戸時代には、夜には町ごとの木戸を閉めることになっていたので、夜は道が袋小路になっていたということだ。そんな道を逃げたのでは、たちまち捕り方に追い詰められて御用となってしまうので、次郎吉は屋根伝いに逃げたというわけだったのだ。そして、夜になって町ごとの木戸を閉めていたのが、町方や武家方の自治で置かれていた自身番や辻番という人たちだった。勝海舟が言っていた自身番である。

     

    江戸の町方の自身番は、嘉永3年に990箇所あったが、そこにはその地域の住民が週番で詰めていて、夜の10時には大木戸を閉めた。その後は左右の小木戸を通る通行人を監視していた。そのようなシステムの下で、江戸の長屋住まいの住民は鍵などとは縁のない生活を営んでいたというわけだ。町方の自身番は、今日で言えば、町内会の役員という感じで、その番所は町内の会合や相談所としても利用されていたということなので、警察というのとはちょっと違う感じもするが、武家地に置かれていた辻番は、まさに今日の警察だった。昼は2ないし4名が、夜は4ないし6名が、地域の武家屋敷などから詰めていて、大木戸の開閉といったことだけでなく、所管区域の見廻り、挙動不審者の留置、喧嘩辻斬りの報告、行倒れや泥酔者の介抱などを行っていたのだ(天和3年)。

     

     実は透明性が高かった江戸時代の村民税


    画像 源頼朝 鎌倉時代
    yoritomo

    江戸以外の地方自治は?

    実は透明性が高かった村民税それでは、江戸以外の地方の自治はどうだったのか。江戸時代の300諸侯は、今日の感覚で言えば「独立国」だったから、今日の県の自治などよりも、よほど高度な自治が行われていた。幕府からは、大きな河川の改修や幹線街道維持などのための負担を求められることはあっても、定常的な財政負担を求められることはなかった。

     

    また、特にひどい一揆でも起こらない限り、幕府から指図されたり資金援助を受けたりすることもなかった。藩は独自の軍隊(藩士)を持ち、藩札という独自の通貨を発行していた。また、綿や藍玉の専売といった独自の産業政策(勧業奨励)を行っていた。そのような当時の日本の国の形は通貨統合前のEU諸国だったと考えれば、わかりやすい。そして村では、幕府の領地(天領)であるか、300諸侯の領地であるかを問わず、村の住民による自治が行われていた。

     

    さて、そこで江戸時代の村の自治である。江戸時代は農業が主体の経済なので、ほとんどの人は村に住んでいた。よって江戸の自治の基本は、村の自治だった。藤田武夫という地方財政学者が昭和16年に出した本を見ると、その江戸時代の村の自治の様子が紹介されている。

     

     「経常的な入用は村役人これを立替へて支出し、臨時的なものは高持百姓集合相談の上これを支弁し、年末に総入用を割付ける際に高持百姓立会ってこれを改め、且惣百姓得心の上これを割賦した。白紙帳に一切の入用を詳細に記入し、毎年春支配役所の検閲を受ける」というのである。

     

    かいつまんで説明すると、村で毎年必要になる費用(「経常的な入用」)は、村役人(庄屋や名主といった人たち)が立て替えて支出する。臨時的なものは高持百姓(土地をたくさん持っているという意味で資力がある村民)が集まって相談の上、立て替えて支弁した。そして年末になると、秋の収穫後なので、土地をあまり持っていない百姓も相応の負担ができるようになっており、総入用、つまりそれまでに村役人や高持百姓たちが立て替えていた費用の全額をみんなに割り付けることになる。その際には、高持百姓が立ち会って白紙帳に詳細に記載されている一切の支弁額が正しいかどうかを確認し(改め)、惣(村民全員が参加する自治組織のこと)の百姓みんなが納得(得心)の上、これを割り付けた(割賦した)のである。

     

    そして、白紙帳に記入されている支出(入用)については、毎年春に代官所など(支配役所)の検閲を受けていた。それは、内容に不審な点があれば、村人なら誰でも代官所などに訴え出ることができることになっていたからだった。当時の村民税(村入用)は、このような透明な手続きで、毎年毎年、課税が行われていたのである。

     

    フランスでも日本でも

    行なわれていた単年度課税制度

     

    このように、毎年毎年、課税が行われることを、単年度課税制度という。今日のわが国では、税は一度決められると、その後は毎年、国会や町村会で審議されなくても、決められた税を税務署などに納めなければならない。その感覚からすると、ちょっとびっくりするような仕組みだが、フランスでは今日でも行われている仕組みだ。実は、わが国でも、先の戦争までは行われていた仕組みだった。実は、この仕組みは、税が民主主義の基本だということを考えれば、ごく自然に理解できる制度なのだ。

     

    フランス革命につながったフランスの3部会というのがあったが、基本的に、王が戦争などで必要になった費用を、貴族や商人に、新たな課税で出してもらおうという目的で集めたものだった。原理としては、村役人が支出した村の臨時の村入用を、高持百姓を集めて出してもらったのと同じだ。英国のマグナカルタも、王が戦争のための費用を賄うために、新たな税を貴族たちに賦課する際には、「税を負担させられる貴族たちの同意を得なければならない」といったことを定めていたものだ。

     

    米国のケースで言えば、アメリカ独立戦争時に、ボストン・ティーパーティー事件というのがあった。英国が、当時自分の植民地だった米国において、お茶などに英国議会で決めた税をかけていたが、英国議会には植民地からの代表は送られていなかった。「それはけしからん」と言うので「代表なきところに課税なし」というスローガンを掲げた。つまり、フランスの3部会でも、英国のマグナカルタでも、米国のティーパーティーでも、納税者の代表が税金を決めるのだということが言われていたわけで、それが近代的な議会制民主主義の原点だった。

     

    そのような観点からすると、自分たちの税金を自分たちで決めていた江戸時代の村の仕組みは、近代的な議会制民主主義の原理と同じものだった。納税者集会だったと言えば、わかりやすいかもしれない。

     (記事引用)


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    地方自治

    南英世の政治・経済学教室

    1、大きな流れ

     地方自治という観点からすれば、江戸時代は地方自治がきわめて大きく認められていた時代であった。幕府直轄の仕事は貿易・国防・金の採鉱など少数に限られ、仕事の多くは各藩の裁量にまかされていた。紙幣の発行すら各藩にまかされていたことからも、藩の自治権の大きさが想像できる。しかし、地方自治をあまりに認めると、国家全体としての統一した発展が阻害される恐れがある。事実、日本は江戸時代に欧米に大きく遅れを取ってしまった(もちろん理由はそれだけではないだろうが・・・)。


     明治政府は、欧米にキャッチアップするために、天皇を中心とする強力な中央集権国家体制を築いた。明治憲法には地方自治に関する規定は全くなく、知事は天皇の任命になる国の官吏、市長は議会で選任されたものを天皇の承認を経て任命、また町村長も議会で選出されたあと知事の認可を必要とした。要するに地方の行政は、中央官庁を頂点とするピラミッドの末端と位置付けられたのである


     これに対して、日本国憲法ではわずか4ヵ条ではあったが、初めて地方自治に関する規定が盛り込まれた。これは画期的なことであった。ただし、国と地方の関係は対等な関係ではなく、「上下」「主従」関係にあるとされた。なぜなら、あまりに地方の権限を拡大すると、仮に中央に保守的な政府が成立し、地方に革新的な知事が誕生したような場合、全国がバラバラになる可能性があったからである。しかし、中央と地方が主従関係とされた結果、中央政府はあまりに多くの仕事を抱えることとなり、いわゆる「大きすぎる政府」が生まれる原因の一つとなった。そこで、中央政府の機能を純化するために、地方にもっと権限を委譲することが求められるようになった 。


     このような流れに沿った改革が2000年4月から施行された地方分権一括法である。これは中央と地方の関係を、これまでの上下・主従関係から「対等」な関係へと改め、文字通り地域のことは地域住民が決める民主主義の原点に返ろうとする改革である。この変化はすぐには表れないかも知れない。しかし、レールのポイントの切り替えのように、今後時間を経るにしたがって、少しずつレールの開きが大きくなっていくのではないか。地方分権一括法の施行は、明治憲法、日本国憲法に次ぐ第三の改革だと指摘する人もいる。


    2、地方自治の本旨

     憲法第92条には、地方自治に関する事項は「地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」となっている。一般に地方自治の本旨とは、次の二つの意味に理解される。

     第一の意味は、「住民自治」の原則である。J、ブライスが「地方自治は民主主義の学校である」と述べたが、この原則は住民自らが政治に参加することによって、住民の意思を地方政治に反映させようとするものである。この考え方はイギリスで発達した。この原則は、長・議員の選挙、リコール、特別法の住民投票などに具体化されている。


     第二の意味は、「団体自治」の原則である。これは、国の介入を排除し、国と対等に行政を行なうことを目的とするもので、ドイツで発達した考え方である。具体的には、警察、消防、学校、ゴミ処理などの行政作用をあげることができる。また、そのために条例による立法権も認められている。

     しかし、このような憲法の趣旨にもかかわらず、地方自治は不十分にしか行なわれず、地方行政の多くは国の下請け機関と化し、都道府県においては日常業務の7~8割が国の機関委任事務で占められるていた。また、人事面においても、地方自治体の幹部は自治省からの出向組に占められることが多く、そのため、地元採用の職員の士気を低下させ、地方自治を確立する妨げとなった。


    3、地方分権一括法の施行

     2000年4月から施行された地方分権一括法は、これまでの「機関委任事務」を 廃止し、新たに自治事務と法定受託事務に再編するなど、国と地方の関係を「対等」なものへと変える第一歩となることが期待されている。これにより、従来の機関委任事務の半分以下にあたる45%だけが法定受託事務に移管されることとなり、地方の負担は大幅に軽減された。


    4、地方財政 の概略

     租税には、国に納める国税のほかに、県や市町村に納める地方税がある。 地方税の代表的なものとして、住民が払う住民税や固定資産税のほかに、企業が払う事業税などがある。 しかし、これではとても足りず、必要経費の3分の1程度にしかならない。そのため地方自治は3割自治、あるいは4割自治とかいわれてきたのである。


     残りの6割あるいは7割の財源をどうするか。結局は国に依存するしかない。国は地方に二つの財源を与えてきた。一つは国庫支出金で、これは国が地方自治体にお金の使い道を指定して与えるものである。もう一つは、地方交付税で、これは地方公共団体の間の格差をなくすために交付される。過疎地域ではたくさん交付される一方、東京都のように財政が豊かで交付されないところもある。地方交付税のいいところは、国庫支出金 は使い道が国から指定されるが、地方交付税は使い道が地方の自由になることである。


     2000年4月から地方分権一括法が施行され、その後、三位一体改革が実施されたこともあり、 地方税収入の割合は高まった。


     2010年度(平成22年度)の地方財政の歳入総額は約95兆円のうち、地方税が35%、地方交付税が18%、国庫支出金が15%、地方債が13%、その他 となっている。地方債の発行額は13兆円で、国も借金(累積額約800兆円)、地方も借金(累積額約200兆円)という構図はなかなか変わりそうにない。


    (コラム)

    三位一体改革とは何か

     目的は、地方財政の自立を促し、地方分権をすすめることである。そのために

    1.国のコントロールがもろに出てしまう国庫支出金を減らす

    2.地方交付税があると地方は国を当てにして努力をしなくなるから、地方交付税も減らす

    3.その代わり、国が徴集している税金を地方に「税源移譲」をし、地方財政の自立を促す。

     という内容である。

     こうした改革が実現すれば、「地元のため頑張ります!」と票を集めてきた国会議員はいらなくなり、国会議員を利益誘導型のスタイルから変えることも可能になってくる。 しかし、現実にはもともと財政基盤の弱い地方自治体を直撃することとなり、夕張市のように財政破たん(2007年)に追い込まれた地方自治体もあった。

    (記事引用)
     

    衆院・参院 過去の法律と現行の違いvlomoshiro034802
    大日本帝国憲法は、(天皇の)立法権の協賛機関として衆議院と貴族院の二院からなる帝国議会を置いた。
    民選(公選)議員のみからなる衆議院に対して、貴族院は、皇族議員、華族議員、勅任議員(帝国学士院会員議員、多額納税者議員など)によって構成されていた。

    これに対して日本国憲法は、立法機関として衆議院と参議院の二院からなる国会を置き、参議院は、衆議院と同様「全国民を代表する選挙された議員」のみによって構成されるものとした(日本国憲法第43条第1項)。

    参議院は全く新しく作られ、貴族院との直接のつながりは無い。ただし、初期の参議院が職能代表を指向したのは、かつての貴族院改革案のリバイバルであったという指摘もある。また、第1回参議院議員通常選挙は貴族院出身者が少なからず当選し、彼らが中心になって組織した院内会派緑風会は初期の参議院で大きな影響力を持っていた。

    参議院本会議場
    衆議院との差異、衆議院の優越
     
    参議院議員の任期は、衆議院議員の任期(4年)より長い6年で、衆議院のような全員改選(総選挙)ではなく、3年ごとに半数改選(通常選挙)が行われる(憲法第46条)。また、参議院は任期途中での解散がないが、衆議院は任期途中で解散となることが多く、実際の任期の差はさらに広がる。
    参議院だけに認められる権能としては、衆議院解散中における参議院の緊急集会(憲法第54条2項)がある。
    一方、法律案の再可決(憲法第59条)、予算の議決(憲法第60条)、条約の承認(憲法第61条)、内閣総理大臣の指名(憲法第67条第2項)においては、衆議院の優越が認められている。予算については衆議院に先議権が認められているため参議院は常に後議の院となる(憲法第60条)。また、内閣不信任決議や内閣信任決議は、衆議院にのみ認められている(憲法第69条)。

    詳細は「衆議院の優越」を参照

    もっとも、衆議院が可決した法律案について、参議院が異なる議決をした場合に衆議院が再可決するためには、出席議員の3分の2以上の多数が必要となり、ハードルは高い。また、参議院が議決をしない場合に衆議院は否決とみなして再可決に進むこともできるが、参議院が法律案を受け取ってから60日が経過していなければならず、この方法を多用することは難しい。

    したがって、会期中に予算の他に多くの法律を成立させなければならない内閣にとって、参議院(場合によっては野党以上に与党所属の参議院議員)への対処は軽視できない。
    なお、憲法改正案の議決に関しては、両院は完全に対等である。また、憲法ではなく法律にもとづく国会の議決に関しても対等の例は数多くある(国会同意人事等)。特に衆議院の多数会派と参議院の多数会派が異なるねじれ国会では、政権運営に大きな影響を及ぼすことがある。 ウィキぺデア

    貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下の日本における帝国議会の上院である。

    1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日まで存在した。貴院と略称された。衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が持っていた。

    非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期であった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在していた。

    議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)、その他の法令に定められた。

    議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち、勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち、伯爵・子爵・男爵議員はそれぞれ同爵の者による互選により選出された。
     
    議員の歳費は議院法に定められた。それぞれ、議長7,500円、副議長4,500円、議員3,000円であった(いずれも1920年(大正9年)の法改正から1947年(昭和22年)の法廃止まで、衆議院も同額)。
     
    1890年(明治23年)開会の第1回通常会から、1946年(昭和21年)開会の第92回通常会まで、議員総数は250名から400名程度で推移した。第92回議会停会当時の議員総数は373名であった。
     
    貴族院は概して非政党主義を取ったため政党には厳しかった一方で政府を窮地に陥れることもあり、独自性を発揮した。戦時下においても政党が軍部に迎合していったのに対して総じて冷静であり、絶頂期の東条内閣を議会で批判したのも貴族院であった。

    議員資格 
    皇族議員
     
    満18歳に達した皇太子・皇太孫と、満20歳に達したその他の皇族男子は自動的に議員となった(貴族院令第2条)。定員はなく、歳費もなかった。

    貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。ただし、皇族が政争に巻き込まれることは好ましくないという考えから、皇族は議会で催される式典などに参列したり、傍聴することはあっても、議員として日常的に議会内に立ち入ることはなく、登院は帝国議会史上、きわめて稀であった。
    また男性皇族は原則的に軍人であったので、軍人の政治不関与の建前からも出席は好ましくないとされた。
     
    華族議員

    華族議員は華族から選任された。爵位によって、選任方法、任期その他の定めが異なった。なお、朝鮮貴族は朝鮮貴族令5条により華族と同一の礼遇をうけるものとされたが、爵位による華族議員となる資格は与えられず、別途勅任議員として貴族院議員に列した場合があった。

    公爵議員・侯爵議員
     
    満30歳に達した公爵・侯爵は自動的に議員となった(貴族院令第3条)。定員はなく、歳費もなかった。
    1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢が満30歳に引き上げられた。また、勅許を得て辞職すること及びその後勅命により再び議員となることが認められた。
     
    公侯爵議員も現役軍人たる議員は出席しない慣例になっていた。
     
    伯爵議員・子爵議員・男爵議員
     
    満25歳に達した伯爵・子爵・男爵のうちから同爵の者の互選で選ばれた(貴族院令第4条第1項)。
    任期は7年。互選の方法などについては貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)に定められた。選挙は完全連記制であった。また、委託投票も可能だった。
     
    1890年(明治23年)7月10日、第1回貴族院伯子男爵議員互選選挙が行われた。貴族院令第4条第2項により、伯爵20人以内、子爵と男爵は各73人以内とされ、各爵の議員の定数は各爵位を有する者の総数の5分の1を超えない範囲とされた(第1回帝国議会において伯爵14名、子爵70名、男爵20名。第21回帝国議会において伯爵17名、子爵70名、男爵56名)。
     
    1905年(明治38年)の貴族院令改正(明治38年勅令第58号)により、伯子男爵議員を通して定数143名とし、各爵位を有する者の総数に比例して配分することとなった。これは、日清戦争・日露戦争を経て、華族(戦功華族・新華族)の数が急増したことによる議員数の増加を抑えるための措置である。
     
    1909年(明治42年)の貴族院令改正(明治42年勅令第92号)により、伯爵17名、子爵70名、男爵63名とされた。
     
    1918年(大正7年)の貴族院令改正(大正7年勅令第22号)により、伯爵20名、子爵73名、男爵73名と増員された。
     
    1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢は満30歳に引き上げられ、定数は150名(伯爵18名、子爵66名、男爵66名)とされた。以後、貴族院廃止まで定数変更はない。
     
    伯爵・子爵・男爵議員は同爵の者による互選とはいえ、選挙がある以上選挙運動もまた存在した。こうした中、1892年(明治25年)発足した「尚友会」は、有爵者・貴族院議員の親睦会を謳っていたが、実質は研究会の選挙運動団体だった。

    完全連記制であるため、細かい票の割り振りは必要なく、また第一勢力が圧倒的多数を占めることのできる多数代表制であった。そのため、いち早く選挙運動団体を組織した尚友会は、協力した桂太郎内閣の後押しもあって、やがて伯爵・子爵・男爵議員の大半を牛耳る存在になった。
    伯子男爵議員選挙一覧
    ウィキぺデア

    参議院の選挙制度を解説!メリットとデメリットは?
    1.参議院選挙制度の基本
    参議院の選挙は、3年に1回行われます。これは、参議院議員の任期が6年と決まっており、任期の半分である3年ごとに議員の半数を改選するためです。参議院には、衆議院と違って解散というものがありません。そこで、改選というかたちで民意に反する議員かそうでないかを選定するという方法をとっているのです。

    参議院の選挙方法は、選挙区制と比例代表制に分かれています。まず、選挙区制について解説します。選挙区は、1都道府県に1つ置かれています。東京都であれば、東京都がひとつの選挙区となります。この選挙区、つまり、都道府県ごとに当選できる人数がそれぞれ決まっています。東京都であれば定数10人の半分で5人(2016年の改数で6人)、大阪・愛知などは定数6人の半分で3人です。全体で146名の議員がおり、選挙の度に73人が改選となります。投票は候補者の名前を記入して行われ、得票の多い順に当選していきます。とてもシンプルな多数決です。

    次に、比例代表制についてです。比例代表制にも選挙区のような区分けがあり、全国を11のブロックに分けています。投票は立候補者の名前か、政党の名前で行います。どの党がどれだけの議席を獲得するかは、候補者が獲得した票と政党が獲得した票を足した総得票数を、ドント方式と呼ばれる方法で決定されます。表にまとめてみましょう。

    2.参議院選挙制度のメリットとデメリット

    参議院選挙の比例代表制では、政党だけでなく、候補者に直接投票することが可能です。そのため、民意を反映してくれると期待できる候補者を、国民がしっかり選ぶことができます。加えて、政党自体は支持していなくても、候補者単体として支持するという意思を表明することもできます。

    その反面、議席を獲得できる見込みのない小政党が、芸能人や知識人を候補者に立て、総得票数を上げようとするという動きが見られます。これはこの制度のデメリットで、政治の知識がない人が当選したり、選挙の票が人気票になってしまうということが起こり得るのです。
    実際に、各政党が知名度の高い人物を候補者に乱立するという事態も起きています。

    また、立候補者個人の得票数が少なくても、個人と政党の票を合計した総得票数が多ければ、その候補者が当選するという状況も起こり得ます。これとは逆に、個人の得票数が多くても、政党として得票数が少ないため、議席を獲得できず落選してしまうということもあります。

    参議院とは、衆議院で議論している法案について更に審議を重ね、より国民にとってプラスになる法案へと導くために設置されているものです。
    そこに集う参議院議員は、衆議院議員よりも、より国民の生活に密着して物事を考えられる人を選ぶべきという側面をもっています。実際に、主婦の方が参議院議員として活躍しているということは、珍しくありません。その参議院の選挙制度において、知名度があるだけで議員に当選したり、逆に国民の支持を得ていても大政党からの立候補でないというだけで当選できなかったり、参議院選挙の制度には、まだまだ穴があるように感じます。

    このように、選挙の仕組みを理解していくと、わたしたち国民が選挙に対してもつ一票は、国政を動かす一票だということが実感できると思います。その重要な一票をもつ有権者として、現行の参議院選挙制度の穴を、あなたならどうやってカバーしますか?ぜひ、身近な人と考えてみてください。

    参議院議員制度
    https://say-kurabe.jp/5208
    (記事引用)

    「人が消える」恐怖、立ち上がる香港
    その「瓦解」が中国共産党体制の危機を決定的にする
    2016年06月29日(Wed)  城山英巳 (時事通信社外信部記者)
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     娘は今でも家のドアがノックされる音を聞くとこう言うのです。『ママ、警察が来たの?』」
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     2015年7月10日、著名人権派弁護士・李和平の事務所に警察がやってきた。その時、李の5歳になる娘も一緒だった。李は娘を妻の王峭嶺に預けるとそのまま警察に連行され、消息不明になった。ようやく警察から通知があったのは翌16年1月。「国家政権転覆」容疑で逮捕したという知らせだった。

     王は私のインタビューに対し、父親が連行される姿を見た娘が受けた心理的ショックはなかなか消えないと打ち明けた。

     拙著『中国 消し去られた記録〜北京特派員が見た大国の闇』(白水社)には、「人が突然、しかも次々消えてゆく…」の中国の現実を記した。

     中国だけでない。「一国二制度」の下で司法の独立や言論の自由が保障された香港でも、「人が消える」事件が香港社会を震撼させている。共産党指導者の内幕や一党独裁体制に批判的な本を取り扱った香港の「銅鑼湾書店」の関係者5人が相次ぎ、タイや広東省、そして香港からこつ然と姿を消したとして大騒ぎになったのは昨年末から今年初めだ。

     6月16日、拘束から8カ月ぶりに香港に戻った林栄基店長が記者会見を開いたが、そこで浮かび上がるのは「警察国家」の横暴な発想や手口だけではない。銅鑼湾書店事件は、中国・香港関係の転換点であり、香港の「瓦解」は共産党体制の危機を決定的にする要因になりかねない。

    真相暴露は「一国二制度のため」
     銅鑼湾事件をまず振り返ろう。書店親会社「マイティ・カレント・メディア」のオーナー・桂敏海や書店店長・林栄基ら4人が昨年10月、タイや広東省から失踪したのに続き、5人目の李波は12月末、香港で姿を消した。李は英国籍を持つ。それにもかかわらず中国当局が直接香港に来て、連行したのが事実であれば、習近平体制になってますます有名無実となった「一国二制度」が実際には崩壊している証拠と言えた。

    こうした中、国営新華社通信や中央テレビに桂敏海が登場したのは1月18日だった。そこで、桂は「2003年に浙江省寧波で飲酒運転の結果、女子大生を死なせた事故の罪を償うため帰国し、警察に出頭した」という、不自然な自白を行う。「強制的な拘束」という批判を避けるため公安当局がストーリーをつくり出したとの見方が強い。李波らは「自分の意思で本土に渡り、捜査に協力している」と一貫して述べているが、中国当局が連行を正当化するため語らせているものとみられた。

     林栄基は6月14日、8カ月ぶりに香港に戻ることを許された。この際、「(銅羅湾書店から)書籍を購入した中国本土の顧客データが入ったコンピューターのハードディスクを李波から受け取り、16日にハードディスクを持って(中国に)戻ってくる」よう中国当局から要求された。

     しかしその要求を無視して、中国本土に戻らなければならない16日に記者会見に臨んだ。香港に戻って2日間で、銅鑼湾書店関係者の失踪事件に抗議するデモが香港で起こったことを知り、「この事件は自分個人や書店の問題ではなく、香港人全体そして『一国二制度』に関わることだ」と、真相の公表を決意したのだという。

    「中央特捜チーム」の政治案件
     林栄基は1994年、銅鑼湾書店の創設者だった。書店が「マイティ・カレント・メディア」に買収されて以降も店長を務めた。

     香港メディアの報道によると、林は昨年10月24日、広東省東莞に恋人に会いにいくため、香港から深圳・羅湖の税関を通過しようとした際、警官に連行された。その後、11人が7人乗りの車に彼を押し込み、身分証などを没収した。何を聞いても、答えは返ってこなかった。

     翌日早朝7時すぎ、目隠しされ、鳥打ち帽をかぶせられて列車で13〜14時間走り、到着したのは寧波だった。下車後、45分程度車で走り、大きな建物の2階の一室に収容された。まず衣服を全部脱がされて検査を受けた。そしてこう告げられ、署名を迫られた。

     「家族とは連絡を取ってはいけない」「弁護士も雇ってはいけない」

     2人1組の看守が24時間態勢で監視した。歯ブラシにはひもがついており、歯を磨く際には看守がひもを持ち、磨き終えれば返さなければならなかった。自殺防止のための措置だった。

     林栄基は、自分を捜査したのは「中央専案組(中央特別捜査チーム)」だと明かした。「寧波市公安局」という地方当局でなく、共産党中央の直轄下で捜査される政治案件と言えた。取り調べ官が特に尋問したのは、習近平国家主席に関する本や、習指導部が2013年に言論統制徹底のため語ってはいけないと定めた7つの禁句「七不講」(憲政・民主主義、公民社会など)についての書籍だった。

    懺悔映像「監督、せりふあった」
     林栄基は1月28日には香港・鳳凰衛視(フェニックステレビ)に出演させられた。そこで中国共産党批判など中国本土で取り扱いが禁止される「禁書」を中国で販売した「違法経営」容疑に関して「誤りを深く認識している」と罪を認めさせられた。

     中国では近年、人権・言論弾圧など国際社会が関心を高める問題で、当局が体制に批判的な人物を逮捕した際、国営・政府系テレビにその人物を登場させ、「懺悔自白」の映像を放映するケースが急増している。国家権力が自分たちの描いたストーリーを宣伝するだけでなく、国家権力に逆らった人物の「汚名」を狙ったものだ。本来罪を認めるかどうか表明するはずの裁判所でなく、国営メディアで「罪」を下されることへの批判は大きく、「人民テレビ法院(裁判所)じゃないか」という揶揄の声が集中している。

     林栄基は記者会見で「当時は罪を認めるよう迫られ、認める以外に方法はなかった」と明かし、「(罪を認めたテレビ放送には)監督もおり、せりふもあった」と、強制的なやらせであることを暴露した。さらに林栄基は香港に戻って、李波とも会い、李が林に「自分の意思に反して連行された」と認めたとも明かした。

     香港メディアのインタビューに「(拘束中の)今年1、2月、自殺しようと思った」と漏らした林栄基は「今もその考えはあるか」と記者から聞かれ、こう答えた。「香港で将来的に(中国当局によって)『自殺したように装われる』ことがあるかどうかは分からない。しかし自分では自殺しない」

    香港行政長官の不快感
     林栄基の内幕暴露は「脅威をものともしない」(香港ニュースサイト・端伝媒)と評され、香港、中国大陸、台湾、国際社会に大きな反響を呼んだ。

     李波は即座に「私は銅鑼湾書店のコンピューターを使用したことはなく、いかなる顧客名簿を公安当局に渡すことも不可能だ」とコメントし、「自分の意思に反して連れて行かれたという類いの話を彼(林栄基)と話したことはない」と強く否定した。中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報も、「(林栄基証言の)実質的内容は多くない」と疑問を投げた。

     こうした中、中国共産党の言いなりと批判されている香港の梁振英行政長官が21日、林栄基が中国当局による連行の実態を暴露したことを受け、中国政府に懸念を表明したのは注目に値する。梁はさらに香港市民が中国本土で拘束された際の香港と中国政府の連絡メカニズムを通じて香港市民の合法的権益を保障するよう要請。「我々は事実を知らない。知っていることはすべてがメディア報道によるものだ」と不快感を示した。

    共産党と戦う「二つの対立軸」
     梁振英の発言は、中国共産党・政府に対する香港社会の空気を表している。2014年9月末から香港の民主化を求めた学生たちのデモ「雨傘革命」で強硬な姿勢を崩さなかった梁振英といえども、今の香港社会の空気では共産党をかばう発言は困難と言えるのだ。

     雨傘革命で学生たちは、香港行政長官の選挙制度改革をめぐり北京が突き付けた強硬な態度を突き崩すことはできず、強い挫折感を味わった。学生たちを痛烈に批判した急進派勢力は「学生たちが一貫させた非暴力かつ平和的なデモでは共産党体制を動かすことはできない」と主張、「暴力で戦うしかない」と過激な考えが台頭している。

     香港で強大な中国共産党と向き合う際、「非暴力で改革を促す」か「暴力で革命を目指すか」というのが一つの対立軸である。「暴力的に革命を目指す」というのは香港独立につながる発想だ。そしてもう一つの対立軸は「中国大陸の民主化を要求する」のか、「香港の民主・自由を自らの手で守り抜く」のか、という問題である。

     昨年10月以降の銅鑼湾書店事件で、崩壊しつつある「一国二制度」の黄昏は明確になった。冒頭の李和平弁護士らのように中国大陸では昨年7月9日以降、次々と人権派弁護士・活動家が秘密裏に連行され、一時的な尋問を含めればその数は319人に達した。

     雨傘革命は失敗に終わったと言えども、この香港の若者たちの抗議運動の盛り上がりが、習近平体制に入って中国での言論弾圧が強化する中で発生したことで、香港の若者たちの間で「今日の中国は明日の香港」「共産党にのみ込まれる」という懸念を高める結果となった。そして香港社会の一部がより過激な考え方を受け入れる土壌をつくった。こうした中で銅鑼湾書店事件という、「懸念」が「現実」となる問題を突き付けられ、「中国の民主化を考えるより、身近な民主化を考える必要がある」という思考が広まるわけだが、より急進的に、「中国とは縁を切る」つまり「香港独立」という一派が勢力を拡大させているのだ。

    中国の民主化要求への反発
     6月4日夜、香港島ビクトリア公園。1989年の天安門事件での犠牲者を追悼する毎年恒例のキャンドル集会が開かれた。今年で27回目。主催者の香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)によると、今年の参加者は12万5000人で、2009年以来で最低の参加者になった。

     「事件」が起こったのは開始時間の夜8時前。約10人が壇上に乱入し、「香港独立」と叫び、主催者側に取り押さえられた。キャンドル集会では前代未聞の光景だった。香港独立派は、支連会がスローガンとしている「民主中国の建設」という理念に反発しているのだ。

    これまで香港社会は大きく分けて「親中派」と「民主派」の世界だった。民主派は、一国二制度の下で香港の民主主義や自由は守られると信じてきており、主眼は中国の民主化要求だった。しかし香港独立を求める若者らからすれば、天安門事件は確実に風化しており、香港の民主主義が危機に瀕している。こうした中で、27年間やってきた同じやり方はもはや意味はなく、「こんなのん気なことでいいのか」という危機感も強いのだ。

    分裂した「天安門事件」集会
     香港ニュースサイト「端伝媒」は、独自取材に基づき、「今年の6月4日は初めて、4つの違った集会に分裂した」と報道している。

     キャンドル集会に毎年参加していた香港中文大学など11大学・専門学校の学生会は今年の6月4日、「六四の意義を見直し、香港の前途を考えよう」をテーマに討論会を開催した。その中で「支連会による集会は形骸化している。『民主中国の建設(を目指す)』という綱領に不満があり、一致して支連会の集会に出席しないこと決定した」と表明し、「中国共産党政権は絶対に信頼できない」と強調した。

     学生会の集会では、香港民族党の主席・陳浩天が出席し、その発言が喝采を浴びた。「香港人が理性的かつ非暴力であろうが、暴力的であろうが、中国共産党は解放軍を出動させ鎮圧できる」。今年3月に設立された香港民族党は、中国共産党による植民状態から抜け出し、独立かつ自由な「香港共和国」を創設するというのが目的で、暴力抗争も辞さないという過激路線を売りにしている。

    「香港独立派」「本土派」の台頭
     一方、香港大学の学生会は昨年の6月4日に続き、支連会の集会とは袂を分かった。「香港人の前途はどこに」をテーマに今年も独自の集会を開き、約1000人が出席した。香港民族党と同様に過激な独立派と知られる「本土民主前線」の梁天琦も参加した。「香港こそ本土」という「本土派」の代表格だ。香港大学哲学系の学生である25歳の梁は、16年1月の立法会の補選に出馬し、落選したが、「民主派」「親中派」に続き、第3位の票を獲得し、「本土派」の勢いを見せつけた。

     今年の春節に九竜地区の繁華街・旺角で起こった警察との衝突事件を起こしたのも本土民主前線だった。中国共産党体制と対抗し、香港独立のためには暴力手段も辞さない手法に対し、一部の若者の熱烈な支持を集めつつあるのも事実だ。

    確実に言えることは、「一国二制度」を骨抜きにする習近平指導部の強硬な香港政策が、若者たちの間に「中国離れ」どころか、過激な香港独立派まで台頭させたという現実があるということだ。中国大陸でも言論の自由や市民の権利を求めて立ち上がった人々を力でねじ伏せ、社会から「消す」強硬な手法は、逆に横暴な権力を恐れない大量の勇気ある市民を台頭させ、習体制に重くのしかかっている。

     北京では5月上旬、重点エリート大学・中国人民大学の修士課程を修了した29歳の青年・雷洋が、空港に親戚を迎えに行った際、なぜか「買春」容疑で拘束され、派出所に送られる途中、心臓病で突然死する事件が中国社会を震撼させている。謎だらけの死に対して知識人たちは警察ではない独立した調査を要求しているが、司法手続きがなく警察権力によっていとも簡単に自由を奪われ、命まで消えてしまう現実は、「自分も第二の雷洋になりかねない」という市民の不信感と疑念を強めさせた。

     香港でも同様に、林栄基のように恐怖に恐れずに声を上げる人たちへの共感や支持が市民の間に広がっている。習近平は、強権政治により、自分で自分の首を絞めている。胡錦濤・温家宝時代は黙認された香港の「禁書」まで、耳障りになるほど、習近平は自身の統治能力への自信をなくし、それを潰すことで安定を保とうとしている。

    英のEU離脱と中国問題
     習指導部は、英国の欧州連合(EU)離脱選択に何を見たか。「国民投票」があらゆる安定を破壊する西側民主主義の政治の愚かさを強調しているが、英社会の分断は、過激な「中国離脱派」が台頭する香港社会にも当てはまる現実として懸念を深めているだろう。その香港の現実は、当然のことながら香港だけの問題でない。香港の不安定化は、中国共産党体制の安定に直結する問題だ。

     習近平政治の本質は何か。毛沢東をまねた個人崇拝や、「中国の夢」や南シナ海・東シナ海への野心的な進出に代表される「強国路線」、国民の人気を得る側面もある反腐敗闘争…。習近平がポピュリズムやナショナリズムを前面に出した国家運営を進めざるを得ない背景には、深刻な格差や不公平システムがもたらした中国社会の分断が、共産党体制を直撃する不安を覆い隠せなくなっているという現実があるのだ。(敬称略)

    (記事引用

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