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『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。紀元前3千年頃のシュメール文明で生まれたシュメール神話を起源とし、バビロニア王ハンムラビがアッシリアを制圧した紀元前1750年頃に成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなったような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)。この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。(検索ウキペディア)

2016年08月

自動生成のニュースビデオは”悪魔のささやき”か
Analyze:記事のエッセンスを理解する⇨Summarize:ビデオプロデューサーのマインドで脚本化する⇨Visualize:それに合うビデオクリップ、写真、インフォグラフィックなどを選んで構成する⇨Voiceover:プロが吹き込んだナレーションを10分以内に届ける。コンピューター音声も利用可能
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記事島田範正2016年07月19日 12:23
迂闊でした。
重要なニュースをスルーしていました。米国の大手新聞チェーン、Tribune Publishing改めTroncのマイケル・フェロ(Michael Ferro)会長が、先月6日のCNBCテレビで述べた内容です。

出演の背景には、TribuneがUSATodayなどを擁する新聞チェーンGannettの敵対的買収をはね除けるため、いかにTribuneを強化するべきかということがあったのですが、その答えとして、社名をTRibune ONline Contentを略した「Tronc」と、オンライン強化の姿勢を明らかにし、自社で「ビデオを毎日2000本作る」という方針を示したというのがニュースになっていました。

「1日2000本」とは途方もない数字ですが、英語力と注意力に乏しい当方、その時は、「まあ、半分ハッタリだろうが、ロサンゼルスタイムスやシカゴトルビューンなどの有力紙や傘下に何十もあるローカル紙の記者全員にビデオカメラを持たせれば、そこそこの数になるんじゃないかな」と勝手に判断しました。そこが迂闊だったのです。

彼は、記者にビデオカメラを持たせて、ビデオを増産するとは一言も言っていませんでした。「AI(人工知能)で可能になる。ビデオが速く作れる」と言ったのでした。

それが夢物語ではなく、現に進行していることを先週のNYタイムズが解説してくれていて、ようやく合点がいきました。
文字で書かれた記事に連動するショートビデオが、時には完全自動に近いプロセスで生成されるというサービスがすでに誕生して、普及しだしているのです。

それを提供するのはWochitとWibbitzの2社です。ともにニューヨークとテルアビブにオフィスを構え、Wochitはロンドンにもあります。両社のサイトに行くと、有名なメディアが相当数、契約していることが分かります。

で、いかに自動的に記事連動のビデオが生成されるのかについても説明があります。<A VIDEO FOR EVERY STORY>と題したWibbitzのサイトには概略、こうあります。

スクリーンショット 2016-07-19 10.37.15

Analyze:記事のエッセンスを理解する⇨Summarize:ビデオプロデューサーのマインドで脚本化する⇨Visualize:それに合うビデオクリップ、写真、インフォグラフィックなどを選んで構成する⇨Voiceover:プロが吹き込んだナレーションを10分以内に届ける。コンピューター音声も利用可能

素材となるビデオや写真などは、AP、ロイター、ブルームバーグなどのニュースサイトやGetty、WENNなどのデータベースから集めるとあります。

こういう一連の作業を、両社のソフトウェアが、指定された記事について、人間に代わってやってのけるということです。これを採用しているメディアは、両社のサイトに列記されていますが、主なところでは、大手新聞チェーンHearst、USAToday、Time Inc、AOL、CBS Interactive、HuffingtonPost、MSNなどなど、思いの外、広がっているようです。

NYタイムズの記事は、時代がビデオに向かっている中、ビデオに付く広告は収益率が良いこともあるので今後増えるだろう、みたいなトーンで貫かれていますが、翌日、これに噛み付いたのがオンラインメディアVoxの<Why Tronc’s ridiculous plan to produce 2,000 videos a day is doomed>という記事でした。

「doomed」は「絶望的」という意味ですが、ここでは、1日に2000本のビデオを作るのが絶望的に無理、ということではなく、「そんなことをしたら、新聞の未来は絶望的」というトーンです。

どういうことか。Voxは、2011年にIPOを果たし、一時は10億ドル(1000億円)の評価を受けたDemand Mediaの例を挙げます。

同社はちょうど10年前に設立されました。当初から、グーグルのページランクを上げることを最優先に、受けそうなキーワードに合わせた記事をフリーランスのライターを安く雇って大量に生み出し続けました。1本あたりの原稿単価は7.5ドルから15ドルだったそう。当時はContent Farm(原稿農場)などと呼ばれたものです。

狙いは当たり、グーグルの検索結果の上位を占めるようになって、自社サイトeHowなどへのトラフィックが激増、広告単価も上がったのです。大手紙への記事配信さえ行われました。そして、ついにIPOまで。

そこまでは良かったのですが、IPOの数週間後にトラフィックが激減します。「グーグルがアルゴリズムを微調整し、スパムのようなサイトのグレードを下げたからだ」とVoxは書きます。それ以前のグーグルは、1時間もかけずに書き飛ばした安直な記事と、練られた深い記事の区別がつかなかったが、それが修正されたからだそうです。

株価も急落、「その粗製濫造のビジネスモデルが、オンラインコンテンツの未来を代表するものだとは、今や誰も思っちゃいない」とVoxは断言するのです。そして「人々もバカじゃなかった。よくない記事に気づいた」と。

それと同じ轍を、ビデオでTroncは踏むのか、と警告しているわけです。Troncのビデオ大量生成戦略は、DemandMediaのアップデート版に過ぎない、短期間、広告収入が増えるからといって”悪魔のささやき”に乗るんじゃない、とばかりに。

「短期間、キャッチーなタイトルとカバーイメージで、低品質ビデオでも高品質ビデオと同じくらいのクリックを生むだろう。しかしDemandMediaのコンテンツと同様、人々はいつまでも、バカ人間ではいられないはず」

そして、最後はこう結びます。「demandmediaはゼロからのスタートだったが、TroncはLAタイムズやシカゴトリビューンのような高品質ブランドを持っての再スタートだ。彼らの記事を低品質ビデオに詰め込むことは、単に失敗に向かうだけではない。このスパムのようなビジネスモデルは、高品質な新聞ブランドをも汚すことになるだろう」

なんとも歯切れがいいので、批判の引用が多くなりました。とはいえ、広告収入が激減している新聞社にとって、ニュースビデオの前に流れるビデオ広告は、必ず見られることもあって単価が高いのが特徴。そのために、より多くのニュースビデオを人手をかけずに、安く、早く、というのが魅力的なのは間違いないところでしょう。

それが、新聞社の”救いの神”になるのか、Voxが指摘するような”悪魔のささやき”なのかはわかりません。
(記事引用)
 
同じサイトに島田氏が書いた記事は、それを使って書いたものか?

「2か月で41本書いた米インターン記者に感動!」
島田範正 2016年07月26日 11:39
Cadence Bambeneckさん。有力オンラインメディアの一つ、Business Insiderに掲載された<This Snapchat multimillionaire packed up his family to travel the world — permanently>という見出しの記事を書きました。
今をときめくSnapchatの百万長者が幼児2人ともども終わりのない世界旅行に出たというのですから、なんでだ?と興味をかき立てられます。
あなたは他のユーザーがちょうど彼らのスマートフォンのカメラであなたをスキャンし、発見することができ、あなたのSnapchatのアイコンを移入小さな黒い点を知っていますか?
その背後にある技術を設計した男性の一人は、上に今オフになっている彼の妻とその2人の子供との終わることのない休暇。 
取得Snapchat スキャン、同社ギャレットジーは$ 54百万2014年、大学の友人の一握りと共同設立しました。この技術は、Snapcodeに開発されました。
(記事引用)

いまいち良くわからないが、この二つの記事が、内容でリンクしているなら、明日からのネット記事は、飛躍的に激化する。なにしろ文校正の厄介な部分を、理論的なAIプログラムで書き出す作業は人の激務を開放する。また、それが多くの人に親しまれて読まれるという結果が示している。あとは進化の程度問題だ。

リンク
 http://www.kddi-ri.jp/blog/srf/2016/08/12/wapo-6/



 

8月12日のミステリー
1946年10月2日に、いかにもそれっぽいが、根拠が伝聞1個という怪しい記事が、「Atlanta Constitution」に掲載された。
忘却からの帰還 2013/04/01 

1945年8月12日の"genzai bakudan"

1945年興南沖で原爆実験があった? 
 
1947年連合軍司令部の情報レポートには、驚くべき内容が含まれていた。

1945年8月12日興南沖で、閃光とキノコ雲を伴った爆発があり、1000ヤード程度の直径の火球が空に舞い上がった。閃光とキノコ雲は、まさに原爆実験の最も有力な兆候であり、他の兵器ではキノコ雲が生じえないので、このレポートには、かなりの論議を増幅させてきた。

8月12日は、広島と長崎に原爆攻撃を受けた直後なので、日本が興南の原爆実験のために降伏を遅らせていたという疑惑を生んだ。

また、日本は原爆開発に成功したら、人間魚雷、風船爆弾、潜水艦などに原爆を搭載し、神風式でアメリカを攻撃する計画を立てていた。最初の目標はハワイであり、最終的な目標は、米国本土であった。

多くの現代研究家たちが、Wakabayashiの主張に誤りを見出している。Walter E. Grunden は、テネシー州Oak Ridgeの米国のプラント(93平方マイル、ウラン235製造を専門とする要員82000人)とHamheungを比較しており、それによれば、わずか15平方マイルで、最大要員45000人で、その多くは「朝鮮人労働者、学徒動員、囚人、捕虜」であり、主として「合成燃料や爆薬や工業化学製品の製造」に従事していた。Grundenは、米国が用途を特定できなかったHamheungの建屋はわずか5つだったと主張している。
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【ワシントン5日時事】旧日本軍が第二次世界大戦の終戦直前、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で原爆実験を実施したとの情報を米軍がつかみ、戦後日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことが、米国立公文書館で時事通信が入手した米軍機密文書(約三百ページ)で分かった。一九四七年の米軍防ちょう機関の報告は「原爆に似た爆発があった」と伝えているが、真相は解明できなかったもようだ。

また、これらの文書から、米軍は興南にあった化学コンビナートで日本海軍が秘密裏に核開発を進めていたとみて、朝鮮戦争(1950―1953年)に乗じて疑惑施設を徹底的に爆撃していたことも明らかになった。

米軍犯罪調査部隊のデービッド・スネル氏は、旧日本軍が1945年8月12日未明、興南沖30数キロの海上で原爆実験を行い、巨大なきのこ雲が上がったとの情報を、ソウルで元日本軍情報将校から入手。退役後の1946年、米ジョージア州アトランタの新聞に公表したが、一笑に付されていた。

しかし、在朝鮮米軍司令部防ちょう部隊が1947年1月16日付で作成した報告は、調査結果として、「日本軍は朝鮮北部東海岸沖に浮かべた小さな船で爆破を伴う実験を行い、原爆に似た爆発が起きた。関与した科学者らの名も(スネル報告は)正確だ」と指摘、科学者は旧ソ連軍によってソ連に抑留されたと伝えた。興南は8月12日、進攻ソ連軍に占領された。

興南での日本軍の核開発説について、1945年のGHQ文書は(1)日本軍復員者によると、興南の化学工場で原子力関係の実験が行われていた(2)日本海軍は興南の化学工場の秘密部門で、「NZ計画」と呼ばれる水素化合物によるジェット燃料実験を実施していた(3)ソ連による興南占領後、秘密施設がソ連軍に接収され、日ソ両国科学者の共同研究が行われている―などの情報を挙げて、徹底調査を命じた。

興南には戦前、日本窒素肥料(チッソの前身)の大型化学工場があり、海軍と共同で※重水などを生産していた。

一方、朝鮮戦争中の米軍文書(1950年12月29日付)によれば、米軍は興南の化学工場施設に空爆を加え、施設の95パーセントを破壊したという。

Snellはこの話を、朝鮮興南にあった日本の原爆開発拠点の防諜部隊長と称する日本人将校から聞いた。この将校は、ソ連軍侵攻の数時間前に、機械と秘密文書と部分的に完成していた原爆を破壊したと述べたと、Snellは書いている。

「全くの嘘だ」という烙印

東京では米国陸軍情報将校が木曜日に、米日の科学者たちとともに、Snellの証言を嘲った。

「まったくの嘘だ」と日本の最も注目される核物理学者Dr. Yoshino Nishinaはコメントした。

「まずありえない」と東京の米国陸軍情報将校は素っ気なくコメントした。

日本の軍事専門家であるDr. Nishinaは「常に嘘をついており、根拠なくものを言っている。そのような実験は朝鮮では行われていない。ただし、興南には化学肥料工場があった」と付け加えた。

マンハッタン計画を率いたLeslie Groves少将は「話が本当なら、彼は非常に興味を惹かれたことだろう」との見方を示した。しかし、サンフランシスコではPatterson陸軍長官は日本の原爆の爆発報道は真実ではないことを保証した。彼は終戦三日前に日本が原爆実験を行ったという報道を否定した。

それは "Genzai Bakudan"と呼ばれた

(記事部分引用) 
 
※重水 核融合燃料としての利用の他、原子核反応での中性子の減速剤、化学や生物学では同位体効果の研究に使用されている。また、NMR溶媒として重水素原子で置換された溶媒(重水や重クロロホルムなど、重溶媒と呼ばれる)が用いられている。また、生物における水(H2O)の代謝研究やアミノ酸代謝研究の際のトレーサーとして用いられる。製薬業界では、既存の薬の軽水素原子を重水素原子に置換することで、新薬として特許出願する手法がある。重水素効果のために反応性が低下し、代謝分解されるまでの時間が長くなるため、従来品に比べ薬効が高くなることが実際に確認された例もある。しかし、進歩性、新規性に欠けるために特許化が困難な場合もある。
(検索ウィキぺデア)


アメリカ合衆国が援助した日本の核兵器開発 
英語で読むかい―勉強会報告
Eaphet Newsletter No.11 日文版 2012年8月10日発行
報告者―阿川 2012年4月9日付
National Security News Service(NSNS)の記事、United States Circumvented Laws to Help Japan Accumulate Tons of Plutoniumを金曜日の「英語で読むかい」で読んでみました。いろいろ考えさせられることがあったのですが、とりあえずいくつかのポイントに絞って記事内容、および勉強会での議論を紹介します。

 記事の中で幾度か「日本の五大会社」という言い方が出てくるが、記事はその具体的な名称を開示していない。自民党政府が肩入れして産官で作り出したエネルギー産業だろうと思うが、最近では雨後のタケノコのようにあちこちにあり、整理したうえで分析的に組み立て直さないと、この記事の各段階で言及されているのが具体的にどの企業なのか、どの特殊法人なのかわからない。
 
「2号計画」と、「F号計画」がごちゃまぜにされているのも気になる。ときどき(朝鮮戦争の開始年など)明らかなミスも見られる。
アメリカ合衆国は戦後の調査で「日本が原爆開発をした証拠はない」と公式に発表しているが、アメリカ合衆国が日本のF号計画やニ号計画を知らなかったとしたら、福島県石川町―ウラニウム鉱石を採掘していた場所で、後には酸化ウランの精製もここで行った―への(焼夷弾によらずに機銃掃射した)空襲など、なぞが残る。

日本軍の原爆開発史を素描すると、
一)1940年5月、陸軍航空技術研究所の安田武雄中将が鈴木辰三郎に原爆は製造可能かどうか調査せよとの密命を下し、鈴木は「可能であり原料となるウラン鉱石はアジア諸国に埋蔵されている」と報告。これを受けて安田は、
1941年4月、理研の仁科研究室に研究を委託。軍の委託研究を受託すれば、研究者は兵隊にとられることなく研究を続けられたので研究者側もこれを歓迎。

二)1943年、仁科は安田に「ウラン濃縮に成功すれば原爆が作れる」と報告。東条内閣は仁科研究室に無限の予算を約束。ここから“2号研究”が本格的に始動。

三)ほぼ同時期、1943年春に、海軍もまた独自に京都大学の荒勝文策に原爆開発を依頼した。仁科の弟子でもあった湯川秀樹は、当時、京大の荒勝研究室にいた。こちらの暗号名は“F号研究”(F=Fission核分裂)。F号には海軍から酸化ウラン130キロが供与されたが、これは上海で海軍が当時の金一億円で買い求めたもの(1944年冬)とされる。F号研究は、結局成功せず「机上の空論」で終わったと言われている。

四)一方、仁科研究室では、1944年初頭、ウラン235を分離するための前段階である六フッ化ウランの製造に成功したが、そこからウラン235の分離には至る道は厳しかったという。その間に戦局は、日本の不利が明らかになっていった。

五)太平洋の要衝、サイパンが陥落し、米軍が日本本土を爆撃射程に入れた(1944年11月空襲開始)。軍部は早期に原爆を製作してサイパンを吹き飛ばす必要があった。朝鮮、マレー半島などからおよそ300キロの酸化ウランを入手していたのに加えてに、同盟国ナチス・ドイツに一トンのウランを要求し、交渉結果、二トンの酸化ウランを送ってもらうことになった。第一便のUボートで560キロ。が、途中で米軍に拿捕され、日本に届く代わりにマンハッタン計画にという。

六)日本でも、福島県石川町でウランを20%含む鉱石が発見され、学徒動員された中学生たちが採掘した。1944年4月11日、情報がなぜか米国に漏れ、石川町が空襲を受けた。1945年3月、理研の仁科研究室も空襲で焼失。6月、陸軍も研究を中止。しかし、鈴木ら軍服組は疎開先で研究続行を主張。阪大理学部に鈴木は研究室を作った。後に尼崎に移動。さらに名張に。木越ら化学班は山形に(旧制山形高校)。

七)記事では「3か月かけて現在の北朝鮮のHungman村にニ号計画全体が移設された」と書かれているが、これはハンナム(興南)村のことに違いないのだが、Hungmanという綴りも“怪しい”。洒落か?
8月6日、米国が広島に原爆投下。その6日後の8月12日、北朝鮮ハンマン村の施設で(スネル・レポートhttp://www.reformation.org/atlanta-constitution.htmlに依拠して)原爆実験に成功した、と記事は続ける。

 米軍の進攻が本土まで迫ってくると、仁科はプロジェクトを(現在の北朝鮮の)ハンマンHungman村に三カ月かけて移動し、そこで広島と長崎のニュースを知ることになる。歴史家、ロバート・ウィルコックス【『日本の秘密の戦争』著者】や、アトランタ・ジャーナル・コンスティテューション【Atlanta Constitution】紙の記者、デヴィッド・スネル(David Snell)らは、仁科たちは実験に成功したと信じている【1946年、スネル・リポート、次頁写真】。
ウィルコックスは書いている。長崎に原爆が投下された3日後の1945年8月12日に日本はハンマンでの原爆実験に部分的に成功した、と。
しかし、その時点での成功は、単なる象徴的な意味しか持たなかった。日本はそれ以上の本格的な爆弾を製造する能力もなければ、ミサイル、長距離爆撃機などもなかったのだ。

 ハンナム(興南)村には日本窒素肥料の大型化学工場があり、海軍と共同で重水などを生産していたことが知られている。
 1999年、8月6日の西日本新聞に、当時機密解除されたばかりの米軍機密文書が掲載された。それによると、GHQは8月12日のハンナム沖30キロでの「きのこ雲」について調査しており、その調査結果は①ハンナムの化学工場で原子力関係の実験が行われていた、そして②しかしそれは「NZ計画」と呼ばれるジェット燃料実験だった、として③ソ連がハンナムを占領して以来、日ソ両科学者による共同実験が行われている、というものだ。(ソ連進攻前に軍が施設を爆破した、という説もあるようだが。)
つまり、GHQはこれを原爆実験と考えなかった。2006年8月6日放送、テレビ朝日『ザ・スクープ 終戦61年目の真実―昭和史の“タブー”に迫る 第一部:幻の原爆開発計画』も、日本が原爆実験に成功したことをガセネタと判断している。

 記事はこの後、アイゼンハワーの「原子力平和利用」戦略の下で、日本の核兵器開発と“自立のためのエネルギー確保”の野望がどのようにして一歩、一歩実現していったのかを素描していく。
 イギリスの日本へのマグノックス炉売却。【British Nuclear Fuels Limited(BNFL)のMagnox炉。日本初の商業炉として66年8月に運転を開始し、98年3月に運転を終了した日本原子力発電(株)の東海発電所】その後、GE(General Electric)社とWH【Westing Houseウェスティングハウス】社が、日本の原子力産業の残りの部分を急いで確保し、原子炉設計と部品などを法外な値段で日本に売りつけたこと。

高速増殖炉計画 
 重要なのは、その後だ。1956年に日本は「完全な核燃料サイクル」計画をぶち上げた。1956年6月に茨城県東海村に発足した「日本原子力研究所」(写真)が、この“完全な核燃料サイクル”計画立案に関与している。当時、増殖炉計画は『わが国の国情に最も適合』と考えられていた。

 記事はこう語る

 理論的には、通常型の原子炉で使った燃料からプルトニウムを分離することが可能で、それを新たな“増殖炉”の燃料とすることが可能と考えられた。これは、まだ誰も実現できていなかった。増殖炉計画はアメリカ合衆国からの輸入に頼っているウラニウムをフルに活用する道を開いてくれる。アメリカ合衆国への依存から抜け出せるだけでなく、爆弾の材料として最も強力だが入手困難なプルトニウムの膨大な蓄積をももたらしてくれる。

 1964年10月、中共が初の原爆実験に成功して世界をあっと言わせた3ヵ月後、佐藤栄作首相はワシントンに飛び、リンドン・ジョンソン大統領と秘密裏に会見した。
佐藤はジョンソンに対して、もしアメリカ合衆国が、日本が核攻撃に晒されたときに日本の安全を保証しないのであれば、日本は独自に核爆弾を開発すると最後通牒をつきつけた。
 ジョンソンは日本をアメリカ合衆国の「核の傘の下に入れる」ことを約束せざるを得なかった。この約束を得たために、佐藤は後に彼の“非核三原則”―所有せず、作らず、持ち込ませず―を打ち出すことが可能になった。佐藤がこの宣言によってノーベル平和賞を受けたのはなんとも皮肉な話だ。日本の国民も、世界の人々も、この三原則が徹底されたことは一度もなく、佐藤が核兵器開発計画の継続を認可していたことも、まったく知らされていない。

 このあたりはすでに「常識」なのかもしれないけれど、選挙民には彼らが聞きたいことを言いながら「彼らの本当の幸せを理解しているのは私なのだよ」と裏では逆のことをする…この話は次の「核密約」話とつながっている。
 在日米軍はほぼ常時核武装したまま横須賀や沖縄を通過していった。

 記事はこう語る

 佐藤・ジョンソン会談以前にも、日本はその領土内にアメリカ合衆国の核兵器が貯蔵されていることを公式には見ないふりをするという暗黙の同意があった。日本側ではこうしたことを文書に残さぬよう巧妙にことが進められたが、1981年に当時の日本大使だったエドウィン・ライシャワーが新聞のインタビューでこうした密約を暴露した。1960年に日本はアメリカ合衆国の戦艦が核兵器を搭載して日本の港および領海に入ることを口頭で許可した、というのだ。
1980年代にこの密約問題について問われた日本政府は、そのようなことはないときっぱりと否定した。条約の内容についてアメリカ合衆国と日本で理解が違うというようなことは“考えられない”と言った。その後鈴木善幸首相が外務省に事実関係の調査を命じたが、外務省はそのような密約が書かれた文書はないと答えることしかできなかった。
 
 機密指定が解除されたアメリカ合衆国の資料が、非核三原則が偽物であることを明らかにした。その資料は、アメリカ合衆国が定期的に核兵器を日本の港に持ち込んでいたのを日本政府が黙認していたことを暴露している。アメリカ合衆国の軍事計画立案者は日本の沈黙を、核兵器の日本の港への持ち込みに対する暗黙の許可だと受け取った。何十年も横浜を母港にしているアメリカ合衆国のキティホーク航空母艦は、核兵器を常備していた。

核拡散防止条約

 1970年代のはじめ、日本は核拡散防止条約を批准すべきかどうかという議論に(国民の知らないところで)揺れた。批准すれば、今までの「核兵器開発というオプション」を手放すことになる。批准しなければ核開発への野望をもっていると公言するに等しい。しかし、このジレンマに苦しんだのは日本だけではなかった。
 インド、パキスタン、イスラエルもまた同様のジレンマを抱えており、結局、この四カ国が批准を見合わせた。当時の防衛長官だった中曽根康弘は1969年に自身も筆をとった政策文書中で「当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器を製造できる経済的、技術的な可能性は常に保持するとともに、それについて他からの干渉は一切受けないように配慮する。」http://kakujoho.net/ndata/us_jp.htmlと書いた。

 将来の核兵器開発の権利を放棄しない、ということだ。しかし、中曽根は首相になるためには佐藤の非核三原則を受け入れ、核拡散防止条約を批准する以外に道はなかった。

 1975年、フォード大統領は中曽根に対して「核兵器製造ができる材料や技術を含む日本の核開発計画への不干渉」を約束し、中曽根はこのフォードの保証を受け、1976年に核不拡散条約を批准したのだ。ここでもまた、国民には彼らが聞きたいことを吹き込みながら、その裏でアメリカ合衆国との密約めいたことが堂々となされていたようだ。

記事をまた少々引用すると、

 アメリカ合衆国は、引き続き日本の原子炉に濃縮ウランを供給し、使用済燃料をヨーロッパで再処理することを許可した。そして再処理されたプルトニウムは再び日本へ運ばれ、将来増殖炉で使うために備蓄された。

邪魔者、ジミー・カーター

 1976年に日本が核不拡散条約に批准したにも関わらず、次の年にCIAの為に行われたある研究が、日本を
1980年までに核兵器を作る可能性がある3つの国のうちの一つと名指しした。
 
 発展途上国やテロリストグループでも、プルトニウムや濃縮ウランを核爆弾にする技術を持っている。しかし、プルトニウム精製やウラン濃縮は非常に難しくコストのかかる仕事だ。カーターは、プルトニウムとウランの拡散を制限することで核兵器の拡散をコントロールできると考え、一九七八年に、ウランとプルトニウムの輸送の全てに議会の承認を必要とするという原子力法を作った。
 この決定は、アメリカの核産業界の不評をも買った。カーターの政策はアメリカの使用済核燃料再処理計画に終止符を打ったからだ。

逆コース レーガンによるカーター政策の一掃

 しかし1980年、ロナルド・レーガンの大統領就任により流れが変わった。レーガンが最初に行ったのは、アメリカが民間のプロジェクトのプルトニウム使用を禁じたカーターの核ドクトリンをひっくり返すことだった。
 レーガン政権の初期、アメリカの核産業と核兵器産業に大量の資金が投入された。核弾頭設計と核増殖炉の難問解決にあたる核科学者たちには否応なしに多額の研究費が分配された。

クリンチ・リバー増殖炉プロジェクト、日本に移転

 テネシー州、クリンチリバー渓谷にあるエネルギー省のオークリッジ国立研究所の実験施設で、最初の高速増殖炉は組み立てられた。

増殖炉は、核科学者たちにとっての“聖杯”となった。燃料円環は、ほぼ無尽蔵のエネルギー供給への扉を開く。クリンチリバー計画は科学技術の最先端だった。レーガン政権下で米国エネルギー省はこの計画に湯水のように資金を投入した。
 1980年から87年までに160億ドルを費やした。しかし、ほぼ無制限に予算を使ったにも関わらず、増殖炉計画は成功しなかったのだ。
ドイツ、フランス、英国でもやはり増殖炉を商業レベルに乗せることはできなかった。80年代半ばの景気の減速で、軍需産業への予算が削減され、1987年、議会はクリンチリバーから資金を引き上げた。
 増殖炉をライフワークと考えている科学者とエネルギー省の官僚にとって、これは悲劇だった。計画に失敗し、国の援助を絶たれてもなお、彼らは原子力エネルギーサイクルの実現を信じていた。彼らはどうしたか。
 プロジェクトの日本への移転というのがその答えだった。アメリカの増殖炉計画を、その重要な部分を日本に委譲することで救済しようと考えたのだ。1987年、日本のバブル経済の資源は無限に見えた。もしどこかの国が増殖炉の実用化に成功するとしたら、それは日本だったのだ。

両サイドに供与―中国と日本との核取引

 1984年、ウェスティングハウス社は100億ドル以上の原子炉の取引を中国と結んだ。この取引はアメリカの核産業にとっては思ってもみなかった収穫だった。
唯一の問題は、核の秘密を誰彼構わず売ってしまうことについては最悪の記録を中国が持っていたことだった。中国は核技術を五つの“核の無法者”―パキスタン、イラン、南アフリカ、ブラジル、アルゼンチン―に売り渡したことが知られていた。
北京は南アフリカの核爆弾に使われるであろう濃縮ウランも売り渡していた。中国はアルゼンチンに、爆弾計画に使用する重水を売り、その一方ではアルゼンチンと敵対するブラジルに核原料を売り、イランとも核関連の合意交渉をしていた。中国の核拡散の前歴はこれ以上悪くなりようがないほどひどいものだった。

この契約において、中国は核不拡散の誓約にサインすることも、燃料再処理をして核兵器に使うプルトニウムを作ることを防ぐ権利をアメリカに持たせることも、ともに拒否した。
 にも関わらず、なぜこの契約は結ばれ、履行されたのだろうか。実際に中国に核を持たせないことは無理だ、ならば中国への核の供給者となることによって世界の核取引の中枢にとどまることが次善の策だと判断したのかもしれない。

 その後、日本へのクリンチリバープロジェクトの移転は、アメリカ合衆国内の最大の反対者であった国防省をなんとか説得して、1986年終わりには障害はすべて取り除かれた。
 移転にあたって日本の要求リストのトップにあったのは、サバンナリバーサイト(サウスキャロライナ州)にあったプルトニウム分離設備で、それは当時すでに数十にわたって、兵器に使えるプルトニウムを作り出していた。サバンナリバーでは、遠心分離機を製造、実験した。この遠心分離機は、後にアルゴンヌ国立研究所でさらにテストされた後、【茨城県東海村のリサイクル機器試験施設】RETFで使用するために、日本へ送られた。日本は、自分たちでハイグレードのプルトニウムが製造できる高性能プラントを必要としていたのだ。このプラントの建設中は、日本は精製をフランスとイギリスに頼らざるを得なかった。
 アメリカのサバンナリバーでの軍事プルトニウム製造の経験は、日本の計画にとって理想的だった。他のアメリカの武器研究所も日本の計画に貢献した。ハンフォードとアイダホのアルゴンヌ西研究所は何千時間もかけて、常陽増殖炉の為のプルトニウム燃料機器のテストをした。日本の科学者たちはこれに全面的に参加し、アメリカの核兵器製造産業全体を事実上自由に使えたと言ってよかった。

記事はこう語る。

 もし日本がいつか核兵器配備をしたならば、それは、この日米合意による武器使用可能な技術の全移転によって可能になったと言える。

 米エネルギー省と、日本の「動力炉・核燃料開発事業団」の間に結ばれた日米合意は、反核禁止リストの多くに抵触していた。
日本が核物質を米国の合意なしに他国に移送しないという約束もなく、また、米国の合意なく米国の原子炉燃料をプルトニウムへと再処理しないという保証もなかった。
要するに結果として、アメリカは向こう30年間、日本に送られたアメリカ製の核材料の全てのコントロールを放棄したのだ。
実際、東海再処理施設の事故の際、核兵器20個分にあたる70キログラムのプルトニウムの行方が分からなくなったが、アメリカ合衆国は何も言えなかった。

敦賀原子力発電所

 1995年の高速増殖炉「もんじゅ」と1997年4月の東海村再処理工場での二つの事故で、深刻な放射能漏れが起き、どちらの事故でも隠蔽工作が行われた。
最もひどかったのは高速増殖炉「もんじゅ」での火災と放射性ナトリウム漏れ事故だった。「もんじゅ」を運用していた国有企業の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)は、国民に対し事故に関して繰り返し嘘をついた。
 動燃は事故原因が写ったビデオ映像を隠そうとした。破裂した二次冷却系のパイプから二〜三トンと推定される放射性ナトリウムが漏出し、高速増殖炉技術の歴史上この種の漏洩事故としては最大のものとなった。動燃は、「もんじゅ」が日本のエネルギー計画の中で極めて重要なので、「もんじゅ」の運転継続を脅かすことはできないとして、情報隠ぺいを正当化した。国民の安全は増殖炉計画の二の次だった。
 12月11日早朝に福井県職員たちの勇気ある行動がなければ、動燃の隠蔽工作は成功していただろう。県職員たちは発電所に立ち入りビデオテープを差し押さえた。この行動の背景には、1980年代初頭に福井県の敦賀1号機で起きた事故があった。福井県職員たちはこの事故を調査することを許可されなかった。「もんじゅ」の事故が起きたとき、職員たちは二度と同じことをしてはならないと考えた。動燃自身がビデオテープ隠しに関与していたことが暴露され、動燃幹部の一人が自殺した。

 日本の核施設で深刻な問題が続発する中、第二次世界大戦以後見られなかった軍事的対応が日本人の心に戻ってきた。

 1999年の春、日本の領海を侵犯したとして北朝鮮のトロール船に対して海上保安庁が砲撃。“戦後”初めて軍事的攻撃を行った。この一件は日本の攻撃性の復活を象徴したと、記事は分析する。

 日本を除けば、フランス、ロシア、イギリスだけが、今もプルトニウムを重要と見なし、その商業再処理産業に何百億ドル(何兆円)も投資してきた。アメリカ合衆国は、サウス・カロライナ州バーンウエルの、サバンナ・リバー・サイトにあった唯一の再処理工場を、一度も運転することなく廃棄した。フランスのラ・アーグとイギリスのセラフィールドにある政府所有の巨大な工場だけが、海外顧客のために使用済み核燃料から何トンものプルトニウムを分離している。その最大の顧客は日本だった。
 フランスとイギリスの再処理業者が日本に売ったプルトニウムは、核兵器に使用するのに十分な純度を持ち、アメリカ合衆国で採掘されたウランから作られたものも含まれている。しかしレーガン政権の日米協定のおかげで、アメリカ合衆国はこの核物質の移動と使用に関して何の影響力も行使できない。福島原発事故の後でさえ、アメリカ起源の核物質がトン単位で日本に輸送されている。輸送船1隻には何百発もの爆弾が作れるプルトニウムが積載されているのだ。

記事はこう語る。

 日本人は世界で最も熱心な核兵器反対論者だが、日本の安全保障は核兵器と密接に結びついている。アメリカの核の傘は、今のところ中国や北朝鮮のような核武装した隣国に対する日本の最後の防衛線となっている。そして日本の指導者層の理由付けは、日本を守るためにアメリカが核戦争に踏み込む確証がないというものだ。中国や北朝鮮からの爆弾が国内で爆発する可能性があるので、多くの日本の指導者たちは、核の選択肢を好ましいというだけでなく不可欠だと考えるようになった。

プルトニウムの最大の顧客
 フランスとイギリスは、日本という最大の顧客をロシアに取られないように、あの手この手で日本の便宜を図ってきた。需要と供給のバランスは、世界で唯一の真剣なプルトニウムの買い手である日本にとって有利だ。
 
 英国国有企業の英国核燃料会社(BNFL)が経営するセラフィールド核再処理工場はサバンナ・リバー・サイトのイギリス版で、以前はプルトニウムの生産に特化していた。
 世界中の原発で放射線照射された原子炉燃料から、貴重なプルトニウムを分離するために、6500人の地元民がここで雇用されている。トン単位でプルトニウムを生産する工場は周囲に種々の放射性廃棄物を撒き散らしているおり、工場で働く人々は肺癌、血癌などの危険に常にさらされている。
1952年以来、アイルランド海の魚貝類や海草、そしてこの地域の鳩までが、セラフィールドからの放射性廃棄物にひどく汚染されてしまった。工場は、10年間で300億リットルの放射性廃棄物を海へ放出したという。ここから日本へのプルトニウム輸送は、BNFLの子会社で、その一部を日本の電力会社連合体が所有しているパシフィック・ニュークリア・トランスポート・リミテッドが行っている。

 福島の事故は、間一髪で危機を免れた日本で最初の核兵器級プルトニウム事故ではなかった。1995年3月20日、何百発の原子爆弾を作れるプルトニウム廃棄物を積載したパシフィック・ピンテイル号が、嵐の中をチリの領海に入ろうとしたとき、日本はチリの海岸を汚染する寸前だった。

 以下、記事内容を抜粋。

 核兵器保有を公言できる風潮
 2010年9月、フランスのアレバ社は、福島第一原子力発電所3号機に、最初のプルトニウム・ベースの混合酸化物(MOX)燃料を装填した。年月が経つにつれ、さらに多数の日本の指導者たちが、軍備推進、原子力推進を大胆に表明するようになった。
2011年3月の津波と核惨事に先立つ数週間に、中国漁船の船長が海上保安庁の艦船に体当たりして逮捕されたあと、核武装した日本の問題は公然と議論されるようになった。

 イギリスのインディペンデント紙との対談で、石原慎太郎東京都知事は日本が1年以内に核兵器を開発して世界に強いメッセージを送る可能性を肯定した。「日本の全ての敵国、すなわち直近の隣国である中国、北朝鮮、ロシアは核兵器を持っている。こんな状況に置かれた国が他にあるか?コストのことを話題にしたりする人がいるが、事実は、外交的交渉力とは核兵器を意味する。すべての安保理常任理事国が核兵器を保有している」と石原はインディペンデント紙に語った。「もし日本が核兵器を持てば中国は尖閣諸島に手を出そうとはしないだろう。」
 都知事が声明を発表する前の週に、北京は2011年の防衛予算を13パーセント増額することを公表した。日本との緊張をさらに高めたのは、2011年1月に中国は公式に日本を抜いて世界第二の経済大国になったことである。

 核武装した日本は、北方領土問題でも日本の立場を強くするだろうと都知事は語った。さらに都知事は、日本は武器の製造と輸出に関する全ての憲法上の制約を撤廃すべきだと助言した。「日本は高性能の武器を開発して国外に輸出すべきだ。アメリカが航空機産業を破壊する前には、日本は世界一の戦闘機を作った。日本はその地位を取り戻せるかもしれない。」日本の国粋主義者たちは、アメリカ占領時代にアメリカ合衆国によって書かれた日本の戦後憲法を廃棄すべきだと主張してきた。憲法は日本が戦争を始めることを禁じている。
 都知事がこれらの声明を発表した1ヶ月後、福島原子力発電所でプルトニウム・ベースのMOX燃料を装填した3号機を含む、三つの原子炉がメルトダウンした。初めて日本の一般市民が、強力な日本の電力会社と日本政府との関係について、また備蓄されたプルトニウムについて、真剣な問いを発し始めた。
 
 最初にも書いたように、この記事にはいくつか「信ぴょう性」を疑わせる部分もある。
が、多くは“すでに知られていること”であり、記事はそれらを繋いで、核兵器開発への野望を一度も捨てたことがない日本の“内部サークル”(権力者グループ)の姿を鮮明にしようとしている。同時に、アメリカ合衆国の“内部サークル”の違法行為を告発しようとしている。

 日本メディアは、福島事故の影響をあえて過小評価している。事故が起きて惨事になったけど、もう終わって、後は事故現場を片づければいいのだ…そうではないだろう。
今後、少なくとも数十年にわたって、あるいはもっと長く、被爆の影響で子供たちに障害が出ることは避けられない。“内部サークル”が産官一体となって蓄積しているプルトニウムなど核物質、廃棄物の山がそのまま残されている。高速増殖炉計画、プルサーマル計画そのものが見直されているという話もない。(了)

Eaphet Newsletter No.11 日文版 2012年8月10日発行 
(記事引用)

 

日本民主主義国家歴代元首
1.伊藤博文
2.黒田清隆
3.山縣有朋

学生グループ「SEALDs」 ケント・ギルバートが斬る
 慶應義塾の創立者で、日本人の思想の近代化に貢献した福澤諭吉が欧米諸国を視察したのは、幕末の1860年代前半、150年以上昔の話だ。帰国後出版した『西洋事情』に、英国議会を見学したときの話がある。主張の対立する2つの政党が政策をめぐって大論争をしていた。ところが、議会が終わると一緒のテーブルで酒を酌み交わし、食事を始めた。西洋では日常的な光景が、福澤の目には奇異に映った。議会の中ではお互いの主張を容赦なくぶつけ合うが、議論の後は仲間として付き合う。福澤は意見の異なる人間を尊重する精神を学んだという。
 昨年、安全保障関連法制の審議中、学生グループ「SEALDs」(シールズ)が「民主主義ってなんだ!」と叫んでいたが、民主主義とはまさにこれである。口調は熱く激しくとも、発言の内容には品位と礼節を保ち、論理的かつ冷静に議論することが民主主義の根幹である。
 議論の参加者全員が、問題の解決を一緒に目指す仲間なのだ。だから、「主張の対立」と「個人的感情」を混同させ、相手を口汚く罵(ののし)る行為は、民主主義の理念に反する。
 米大統領選の共和党候補指名争いで、不動産王のドナルド・トランプ氏は挑発や罵倒ばかりだが、マルコ・ルビオ上院議員も同じことをやった。結果、紳士的な党主流派に見放され、撤退に追い込まれた。日本には感情的対立から、相手の信用やメンツを潰そうと躍起になる人が多い。「右か左か」「バカか利口か」「大物かザコか」などのレッテル貼りから水掛け論になり、問題解決は先送りされる。東日本大震災後の冷静な振る舞いから、「世界一の民族」と称賛された日本人が、議論(?)だけは感情的で、欧米の小学生以下のレベルだ。
 私も呼びかけ人を務める「放送法遵守を求める視聴者の会」は先日、テレビキャスター7人に公開討論会を提案したが、彼らのメンツを潰したいわけではない。数日前も、安倍晋三首相の発言に不適切なニューステロップがあった。最近の放送には変なところが多いから、今後のあるべき姿を議論したいのだ。われわれは「放送法第4条」を絶対視しているわけではない。放送に政治的公平を求めた米国の「フェアネス・ドクトリン」は1987年に廃止された。電波停止の可能性が残された放送法や電波法の存在が問題だと考えるなら、法改正を主張すべきだ。意見の異なる人間を尊重する精神を学んだ、礼節あるジャーナリストと本格的な議論がしたい。(ケント・ギルバート 夕刊フジ 2016.3.19)
(記事引用)

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小泉純一郎の生い立ち
1942年(昭和17年)1月8日、神奈川県横須賀市に、父小泉純也と母芳江の長男として生まれる。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった。
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戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。井料克己によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだ貧まずしくて夕食の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまに川や海に行って魚やうなぎを釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という。

神奈川県立横須賀高等学校から慶應義塾大学経済学部を卒業。英国ロンドン大学群ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(U.C.L.)に留学の後、1969年(昭和44年)8月に父が急死したため帰国。
同年12月、亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。

福田赳夫の秘書時代
 
福田赳夫の秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した。横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った。
福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で靴揃そろえておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り~お車ぁ~”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行い捲土重来を期していた。

姉・信子(政策秘書)、ほかに2人
弟・正也(私設秘書)
妻は石原慎太郎の妻・典子の従兄弟の娘
元妻・佳代子(エスエス製薬元会長泰道照山の孫娘、泰道三八の姪)
長男・孝太郎(俳優、タレント)
1978年(昭和53年)7月生 -
二男・進次郎(政治家)
二男・進次郎
1981年(昭和56年)4月生 -

小泉家 (神奈川県横浜市金沢区大道、横須賀市)
祖父小泉又次郎は慶応元年(1865年)、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人・由兵衛の二男として生まれた。又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であった。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった。

入れ墨を施した江戸時代の人(1870年)
当時の横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという。

1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争から日露戦争にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。
この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない。

又次郎は若い頃、軍人になることを諦めとび職人になることを決意した証に、全身に入れ墨を彫っていた。明治41年(1908年)衆議院議員に当選、浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣を務めた。
曾祖父・由兵衛[40](神奈川県平民、とび職人、請負師)
曾祖母・徳(神奈川県平民、岡崎文五郎二女)

祖父・又次郎
祖父・又次郎(神奈川県平民、とび職人、請負師、小学校代用教員、新聞記者、政治家)
1865年(慶応元年)5月生 - 1951年(昭和26年)9月没
父はとび職人・請負師の小泉由兵衛。『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。
普選運動の闘士として庶民人気が高かった。
純一郎が厚生大臣に就任したとき、フォーカスのインタビューで祖父のことをこう語っている。「いまじゃゴルフ場にも入れてくれないのにな。ところが祖父は、全身刺青で大臣や副議長までやった。首から背中、腕にかけて龍が彫ってあって、それや見事なものだったよ。」 「僕が9才のときになくなった。よく覚えていますよ。マージャン、花札、おいちょかぶ、みんな教えてもらったんだもの」
祖母・石川ハツ(又次郎の妾)
父・純也(政治家)

父・純也と、純一郎
1904年(明治37年)1月生 - 1969年(昭和44年)8月没
純也は鹿児島県川辺郡東加世田村(のち加世田市、現南さつま市)の漁業鮫島家に生まれた。父親の彌三左衛門(やざえもん)は事業に失敗し、地元の鰹節(かつおぶし)工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった。母親が三男六女を育てたが、家が貧まずしく純也のきょうだいのうち3人が亡くなっている。
生家の鮫島家が事業に失敗したため上京し、苦学しながら政治の道を志した。芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった。
又次郎のところに出入するうち二人は恋におち、東京・青山の同潤会アパートで同棲をはじめた。又次郎は「帰って来い」と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている。純也と芳江の結婚について、又次郎の養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている
純也は昭和12年(1937年)衆議院議員に当選、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で防衛庁長官を務めた。在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導した。
(資料ウィキぺデア)

(記事引用)

元首相の「小泉純一郎」は、小池新知事の後見的位置にいた人物として紹介した。そのキャラクターは謂うに及ばず、世間に知れ渡っているが、党内での人気は余りなかった。今回の検索で、そのことを良く理解できた。また郵政民営化法案でも売国奴として批判されたが、これを読む限りでは、そんなことは風評に過ぎないことを知る。ということは世間の噂ほど信用ならないものはない。しかし、いったん付いてしまったタグは、本人の意思と関係なく、はがすことは殆ど無理である。
そのことで悩む著名人はおおいし、また一般人でも、それから逃れることが出来ず死の道を選ぶケースもある。

 

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