2016年10月

慶應大学の広告学研究会の集団強姦 、大学側の対応をOBが批判
慶大集団レイプ、大学側の対応をOBが批判
「極めて稚拙な危機管理」
2016年10月26日 17時12分 ZAKZAK(夕刊フジ) 
 facility_1_17741_1402543971慶応大の広告学研究会(広研)の男子学生が、当時18歳の女子学生を集団強姦したとされる問題では、大学側の対応にも批判が集まっている。内部調査で「事件性を確認するには至らなかった」と発表したが、神奈川県警は捜査に着手。慶大OBで組織のコンプライアンス(法令順守)に詳しい専門家は「犯罪に緩い大学との評価を下されかねず、極めて稚拙な危機管理」と断じている。

 一連の問題で大学の対応は“後手”に回ってきた。今月4日に慶大はホームページ(HP)上で、広研に未成年飲酒などが発覚したことで「解散を命じた」と告示したが、広研メンバーによる性的加害行為については触れなかった。

 集団強姦疑惑を報じた週刊文春と週刊新潮が発売される直前の12日には、「大学として可能な限りの調査を行ったが、報道されているような事件性を確認するには至らなかった」などと釈明する文書をHPに掲載。内部調査には限界があり、違法行為は「捜査権限のある警察などにおいて解明されるべきだ」とも記した。

 こうした大学側の対応について、慶大OBで危機管理コンサルタントの田中辰巳氏は「組織的な隠蔽を疑われかねない、極めてまずい危機管理体制だ」と指摘する。

 田中氏によれば、こうした問題が明るみに出た場合、組織がまず取るべき対応は「犯罪行為は許さない」という強い姿勢を内外に示すことだという。

 内部調査で問題の全容が把握できなかったとしても、公表する文書には「一部報道が事実であれば到底許すことはできない」「捜査機関に最大限協力していく」といった強いメッセージを掲載することが重要とする。

 「組織として、真実を究明してゆくとの立場を鮮明にしなければ、被害者はもちろん、大学に通う学生、その保護者らにも不安が広がっていく。大学への不信感が募れば『犯罪に緩い大学』とのイメージをもたれかねない」と田中氏。

 大学側が公表に難色を示している広研メンバーの処分についても「処分の公表は、再発防止という観点から非常に重要」と説明。「大学の信頼を回復するためにも、情報は基本的に開示していく姿勢を見せるべきだ」と語っている。

 慶応大は21日、加害者側が撮影したとされる動画や画像は入手できておらず、確認もしていないと強調したうえで、「引き続き、可能な限り捜査等に協力するとともに、その推移を見守りつつ、厳正に対処してまいります」とするコメントを出した。どこまで「厳正な対処」を打ち出せるのか。
(記事引用)

※コメント
ショッキングニュースであることに間違いないが、世間がさほど騒がない、当局はもちろん国の対応も無関心。「報道されているような事件性を確認するには至らなかった」が真実なら、報道機関が嘘をついていることになる。

きわめて「無風」、というこの社会風潮事態が異常!!!である。


「角栄ブーム」を問い直す――「天才」政治家の虚像と実像
9月16日(金)11時23分配信 Yahoo!ニュース編集部
中高年のアイドルかと思いきや、小学生にもウケているらしい。ベストセラーの仕掛人はそう教えてくれた。タナカカクエイ。早口では言いにくい乾いた響きが今、日本中で轟いている。昭和の香り漂う脂ぎった「ザ・オヤジ」に、なぜ人は希望を見いだすのか。ブームの末路に何が待っているのか。天才政治家の残したレガシーと向き合い続ける人々に訊ね歩いた。
(ノンフィクションライター・常井健一/Yahoo!ニュース編集部)
d00115_main
2016年上半期で最もヒットした小説は、こんな一文で始まる。
<俺はいつか必ず故郷から東京に出てこの身を立てるつもりでいた。>
新潟の寒村に生まれた貧しき少年は十六で上京し、やがて総理の座に上りつめるが、絶頂期に刑事被告人へと転落し、病魔に侵されながら眠るように死んでいく。主人公の田中角栄は、波乱万丈の生涯を「俺」という一人称で赤裸々に語りつくす──。
作者の石原慎太郎は、昭和を体現したリーダーに憑依しながら豪放磊落なオモテと多感多情なウラを創作した。そして、『天才』と名付けた。
「第一稿で石原さんがつけたタイトルは『田中角栄正伝』でした。政治家というよりも人間・角栄、しかもオリジナルの心象風景を描いたのに、それではドキュメンタリーっぽくなる。社内でも議論になりましたが、ある時、社長(見城徹)が『「天才」でいいよ』と閃きました。石原さんは『俺が天才になったみたいだな』と笑っていましたが、独特のチャーミングな響きがピッタリはまりました」
編集を担当した幻冬舎常務執行役員の森下康樹は、舞台裏をそう明かす。

『天才』の編集者、森下康樹は2002年に幻冬舎に中途入社した直後から石原を担当。
一貫して文芸畑を歩み、石原のエッセイ『老いてこそ人生』(文庫版)をはじめとする数多くのヒット作を手掛けてきた(撮影: 幸田大地)

今年1月末の発売時、『天才』の初版は4万部だった。5万部超で大ヒットになる時代に強気の決断ができたのはブームを意識したからではなく、森下自身が10年以上前に編集した『異形の将軍 田中角栄の生涯』(津本陽著)が10万部を超えたという成功体験があったからだ。ヒットメーカーの狙いは見事に的中し、6カ月で90万部に達した。

石原から「今、角栄について書いている」と電話があってから2カ月後には完成に近い原稿が届いたという。物語は政治闘争よりも成長過程や家族関係に比重を置いていた。

「私はもっと政局のドンパチも読みたいと思いましたが、石原さん曰く、『すでにニュースで読者に刷り込まれている話なので、もういい』と。たしかに、人間に焦点が当たって、どこにでもいそうなオジサン、実は自分と一緒だなと感情移入しやすくなる。それならと、絶頂からどん底に落ちる場面に心情描写を書き足すようお願いして、さらに陰影をつけました」

凡庸なオジサンと『天才』というタイトルとの共通項──。それを表現したのが、文化ばさみでヒゲを手入れする日常風景の表紙だった。
「総理に駆け上がる時期に、こんな無防備な姿を撮らせるなんて。角栄さんに『格好良く撮れよ』と言われて、カメラマンが喜ぶ声が写真から聞こえてきますよね。情が深くて、人たらし、浪花節の『天才』だと思いました」

読者は、下は小学生から上は90代まで。女性読者も予想より多いという。「力強く手を掲げて演説している、いかにも政治家然とした写真は表紙にあえて使いませんでした」と森下は明かす(撮影: 幸田大地)

角栄を称える『天才』に、元秘書が抱く違和感

没後四半世紀が経とうとする今、角栄を高度成長期の立役者として功績を称える書籍の出版が相次ぐ。マスコミ各社は「ナマの角栄」を見ていない若い世代をも巻き込むブームとして色めき立ち、新証言や新資料の発掘を競い合う。
中でも玄人筋の間で評判なのが、元秘書のオーラルヒストリーをまとめた『角栄のお庭番 朝賀昭』(中澤雄大著、13年刊)。朝賀(あさか)は、最盛期には140人以上の国会議員を抱えた自民党最大派閥の田中派で1000人を超える秘書団を束ねた人物だ。

前出の石原も『お庭番』にハマり、『天才』のあとがきにも参考文献として紹介したほどだった。一方、朝賀にとっての石原とは反田中の急先鋒。田中政権末期、月刊誌「文藝春秋」(74年9月号)に「君 国売り給うことなかれ――金権の虚妄を排す――」と題した論文まで発表した石原が角栄を称える小説を描いたことに対し、朝賀の心中では驚きと喜びが交錯したという。

政界きってのご意見番としても知られる朝賀。「おやじも僕も貧乏の出だから、世襲じゃない政治家にもっと頑張ってもらいたい」。角栄と同じく非世襲かつ30代で大臣になった民進党の細野豪志の後見人も務める(撮影: 幸田大地)
「おやじ(角栄)は田舎の呑百姓のせがれだから、湘南ボーイの裕次郎と違って、『俺』とは言わない。一人称は『ワシ』なんだ。若いころは『オラ』、人の上に立つようになってから『ワシ』。だからおやじをよく知る人が『天才』を読むとしっくりこないって言う。不愉快になったという元番記者もいたな。石原さんが『ワシ』で書けば実像にもっと近づいた気がするよ」
そう語る朝賀の事務所の応接間は、「角栄本」がぎっしりと詰まった本棚が並ぶ。「日本一の角栄図書館」と呼んでも過言ではない。
「昨年の23回忌を機に何冊出ているか確かめたんだ。すると、137冊。それが今年9月時点で170冊。もう追っかけきれないよ」。朝賀はそう言って照れ笑いした。

朝賀の本棚には玉石混交の角栄本が揃う。「最も多作といわれる2人の作家も僕の記憶ではおやじと会っていない。やっぱり警戒して自分の懐には入れなかったはずだ」(朝賀)(撮影: 幸田大地)
高校時代に角栄と出会ってから半世紀以上が流れた。角栄が66歳で脳梗塞に倒れる85年2月27日まで20年以上も仕えた。角栄の実像を公に語るようになったのは、前出の『お庭番』からのこと。以後、角栄を再評価する声が高まった。
「だけど虚像も実像も入り乱れて流れているんだ。だいたい、おやじと会ったことない著者が8割なんだから。おやじは何を書かれても『敵もあれが商売なんだから』と言い訳しなかった。でも、僕は長い間悶々としてきたんだ。僕みたいな『お庭番』がモノを言ってはいけないのは百も承知だが」
角栄は自身を後世に伝える書物を残さなかった。朝賀に言わせれば、それは愚痴をこぼさない角栄の性格ゆえである。一人称で書いた文献は、自民党幹事長時代の新聞連載をまとめた『私の履歴書』(66年)、そして『日本列島改造論』(72年)くらいなのだ。

言わば、田中政権の「マニフェスト」。総理大臣の座に上りつめる2週間ほど前に発売されると、たちまち100万部に迫るブームを巻き起こした
「『克雪(こくせつ)』がおやじの原点だよ。雪国に生まれた男たちは、冬は都会に出稼ぎに行かねばならないから、親子・夫婦が半年もの間、離れ離れにならなければならなかった。おやじは政治の力で豪雪地帯の貧困は解決できると信じていた。それを『改造論』にまとめたんだ」
都市に集中した工場の再配置、全国新幹線と高速道路の建設、情報通信網の充実……。地方に働く場を作ることで表日本と裏日本の格差解消を目指した。
<私は政治家として二十五年、均衡がとれた住みよい日本の実現をめざして微力をつくしてきた。私は残る自分の人生を、この仕事の総仕あげに捧げたい。>
54歳の角栄はこう結んでいる。
東京・目白の私邸には四六時中、全国各地の有力者が列をなして同書にあるような巨大開発の陳情に訪れた。それは、角栄が表舞台から去った後も続いた。人々は「日本の全ては目白で決まる」と恐れ、角栄は「闇将軍」と呼ばれた。

元秘書の朝賀は凡百の政治家との違いをこう説く。「十種競技のチャンピオンが陸上界の『キング・オブ・アスリート』なら、おやじは政界の『キング・オブ・ステーツマン』だった。演説、リーダーシップ、洞察力、先見性、実行力、政策、集金力、責任感、議員立法、あと、意外と大事なのは情け。どれか長けた政治家は今でもいるけど、全部兼ね備えた政治家はもう出てこないよ」(撮影: 幸田大地)
「おやじさん」「角さん」との出会い
今年3月、かつて角栄が事務所を構えた東京・平河町の砂防会館が閉館した。そこを舞台とした全盛期の姿を語れる現職議員も数えるほどになった。
「13年ごろからかしら、中小企業の若い社長さんたちから『田中角栄について教えてほしい』と講演を頼まれることが増えてきました」
元参院副議長の山東(さんとう)昭子は言う。

「昔から角栄という人物と会ったことがない人が悪口を言いふらすという傾向がありましたね。あの人に一度会ったら引き込まれてしまう。誰でも人間的な魅力に惚れちゃう」と元参院副議長の山東昭子。永田町に残る「教え子」は、山東以外に小沢一郎、二階俊博、中村喜四郎、石破茂だけとなった(撮影: 幸田大地)
参院史上最多の当選7回を誇る彼女の初当選は74年、32歳だった。「クイズの女王」として鳴らしていた女優の山東は、総理の角栄に自民党から参院選全国区に出馬するようスカウトされたという。若い女性タレントの擁立は、当時は奇抜なアイデアだった。
「初めて砂防の事務所に伺った際、おやじさんが開口一番、『おー、君は死んだ息子と一緒の年だな』と言われ、一瞬で引き込まれました。出馬の話になって、私は政治に詳しくないのでお断りしようとしたら『誰でも初めはアマチュアだ』と言って説得されました」
今や派閥の長を務める山東は、今年の参院選では歌手の今井絵理子を比例区に擁立し、上位当選に導いた。初陣の自分と同じ「32歳の女性タレント」を担ぐのに、あの日の角栄と似たような言葉で説得したという。
「おやじさんからは『選挙はタイミングだ』とも言われました。たしかに、3年後の参院選は、おやじさんはロッキード事件でしたから、あの時立候補しなければ、私は政治家になっていなかった」
40年前の76年7月、角栄は米ロッキード社から5億円を受け取ったとして逮捕された。かつて「今太閤」と崇めた国民は掌を返すように転落劇に喝采を送った。

衆議院予算委員会の証人喚問は、1976年2月16日に始まった。初日の証人、小佐野賢治が連発した「記憶にございません」は、一種の流行語となった(写真: 毎日新聞社/アフロ)
転落の兆候は、総理時代にあった74年の参院選にも表れていた。
「選挙の神様」と呼ばれた角栄は焦っていた。2年前の衆院選で共産党と社会党に大躍進を許し、劣勢の自民党は立党以来の与野党逆転という危機に晒されていた。
そこで、角栄は財界に要請して新人候補者に有名企業を割り当てた。有名人や大物二世を擁立し、会社の広告塔として使わせる代わりに組織的な選挙応援をさせる戦略を編み出した。当時、角栄がそのために財界からかき集めた資金は、300億円以上ともいわれる。周囲が金銭感覚を麻痺させ、札束が乱れ飛ぶ中にロッキードからの5億円も紛れ込んだ。
しかし、それでも自民党は議席を減らした。角栄は山東に日立グループやヤクルトなどの支援をつけて全国区で当選させた。しかし当選順位は5位(党内2位)と、「反田中」を掲げてボランティア選挙を展開した女性無所属候補の後塵を拝した。婦人運動家の市川房枝、なんと81歳である。

山東や前出の朝賀とは対極の立場で角栄を見続けた男が述懐する。


「全国区1位は自民党の候補だったけど、2位は市川さん、3位は青島幸男さん。角さんのやり方を『金権選挙』『企業ぐるみ選挙』と言って批判した2位、3位を合わせると400万票にもなった。自民党は財界を使って権力を握る、財界は企業献金を通して自民党を動かす。角さんの人柄というよりも、カネの力で政治を歪めるやり方に対する国民の反発が強かった。選挙後、市川さんと青島さんが経団連の土光(敏夫)会長に『やめなさい』と言いに行ったら『やめます』と応じたんだ。400万票も集めれば、田中政治も変わるんだという実感が私の原点になりました」
この発言の主は、元総理大臣の菅直人だ。市川の選挙事務所を仕切ったのは、20代の彼だった。

2011年3月の東日本大震災時の首相(在任期間2010年6月~2011年9月)。田中角栄について語るインタビューは初めてだという。衆院選に出た76年に田中政治の問題点を追及した「朝日ジャーナル」掲載の論文など自ら書いた文献の数々を掘り出し、筆者の取材に臨んだ(撮影: 岡本裕志)
その後、菅は「金権政治の打破」を掲げても3度の落選を重ねた。80年にようやく衆院議員に初当選すると、「反カク運動」と称して角栄の議員辞職を求めるお散歩デモを国会周辺で連日行い、目白の私邸前ではゲリラ的な署名運動を展開した。一方、2人のフリーライターに怪しげな金脈と女性関係を暴かれ、74年12月に総理を退いた角栄は、逮捕後も選挙に出続け、無所属の立場ながらトップで連戦連勝を果たした。

33歳で衆院に初当選した菅は、角栄の議員辞職を求める「反カク運動」を開始。「カクにくみせず、カクにたのまず、カクにもらわず」という〝非カク〟三原則を掲げた署名運動では、作家の立花隆が第一号としてサインした(撮影: 岡本裕志)

なぜ、傷だらけの角栄は新潟の有権者に選ばれ続けたのだろうか。
「衆院選では、地元に利益をもたらした政治家に対する恩義や支持が分厚いんですよ。角さんのような政治家を相手に理念的な主張を掲げたところで、善戦できたとしても結局は太刀打ちできない。結果として、田中政治を市民の力で倒すということはできなかった」
菅は総理を経験した今、こうも総括する。
「民主党政権は、政策的に間違っていなくても、政権運営は未熟だったと反省している。国会審議は与党が野党の言い分を7割も聞いて進めるんだという、角さん以来の自民党の懐の深さというか、硬軟織り交ぜて人心を掌握する術というのを愛弟子の竹下(登)さんと親しくしたころに垣間見たことがある。それが我々に足りなかった部分かもしれない」

1976年8月17日、保釈されて私邸に帰り、秘書らの出迎えを受ける。「拘置所から目白に戻られた時も、派閥の若手が検察批判で騒いでもおやじさんは愚痴一つ言わなかった。それを超越して『悪かったな。俺のせいで一万票減らしたな。次の選挙はしっかり応援するからな』と言われて、励ます側が逆に励まされてしまったんです」(山東)(写真: 毎日新聞社/アフロ)
昭和の大政治家・角栄が今に遺したもの
一方、ロッキード事件に東京地検の検事として携わった弁護士の堀田力(つとむ)は、角栄ブームに対して手厳しい。
「庶民の心をつかめる政治家がいないから、田中さんが素晴らしく見えるだけ。注意マーク付きで見る必要がありますよ」
角栄は総理時代の72年にハワイであった初の日米首脳会談の際、会談が行われるホテルへの宿泊を勧めた米側の意向に反し、後にロッキード事件で連座する政商の小佐野賢治が経営するホテルに泊まった。堀田は当時、ワシントンの日本大使館に出向していた。同盟国に外交的非礼を働いてまでも「金脈」を重んじる角栄の姿勢に疑問を抱き始めた。

1972年9月、リチャード・ニクソンとの日米首脳会談(写真: AP/アフロ)
数年後、2人は法廷で対峙することになった。公判検事となった堀田は、被告人の角栄に鬼の形相で睨みつけられたことが2度ある。その時の激しい風圧が今でも忘れられない。
「あれで怒鳴られたら、大臣だって吹っ飛んじゃう。やくざの親分も結構取り調べしてきましたが、田中さんの威嚇力にはかないません。しかし、今、田中さんが現れたら、胡散臭い政治家に見えるだけでしょう。派閥の力はカネの力という利益誘導の政治は時代に合わなくなった」

「ロッキード社から田中さんには『5億円』とは別にもっと大きなお金が流れていた。残念だけど、我々はその証拠を掘り出せなかった。軍事情報が匂う中で闇に消えてしまった」。今でも「田中有罪」を確信する堀田はそう悔やむ(撮影: 幸田大地)
前出の菅は総理時代に福島第一原発のメルトダウンを経験した。以来、原発政策の問題点を深掘りすると、基礎部分に現れたのは角栄が築いた堅牢なシステムだった。例えば、電源三法だ。
「法律ができた当初は経済効果もあったけど、カネで地域全体を買収するようなもの。原発がある地域の議員なら『事故が起きたら地元が危ない』と言わなければいけないのに、その逆で推進を叫ぶ。土建屋や地主、労働組合までも同調しちゃう。原発を作れば、再稼働すれば、カネが落ちる、票が集まるという構造を作り上げたのは角さん。道路も郵政も農業土木もみな同じ。小泉(純一郎)さんの構造改革は反田中の立場なりに田中政治の悪い部分に切り込んだよね。しかし、今またそれが復活しようとしている」

1981年、田中派幹部の後援会結成であいさつする。ロッキード事件で刑事被告人となり自民党を離党したが、派閥の領袖であり続けた。裁判は一審、二審と懲役4年の実刑判決が出たが、最高裁に上告中の1993年12月に死亡すると公訴棄却となり、決着はつかぬまま終結した(写真: 毎日新聞社/アフロ)
ここ数年の角栄ブームは、彼の言葉や人柄に焦点が絞られ、昭和への郷愁を誘ってきた。悪党として長年扱われてきた角栄は、ヒーローにされた。それが、ロッキード事件の発覚から40年を経た今年を機に真相を再検証する調査報道も目立ってきた。米国で秘密解除が相次ぐ未公開資料からは、功だけでなく罪の部分も浮かび上がってくる。
「僕はリアクションが怖いんだよ。持ち上げられた後には必ず叩き落とされる。ジェットコースターみたいにね」
朝賀は晩年の角栄が残した揮毫(きごう)を見つめながら、そう呟いた。額の中には「不動心」の三文字が墨痕鮮やかに描かれてあった。(文中敬称略)

国会議事堂に近い東京・麹町にある朝賀の個人事務所で。角栄は晩年、この言葉を好んだという(撮影: 幸田大地)
常井健一(とこい・けんいち)
1979年茨城県笠間市生まれ。旧ライブドア、朝日新聞出版を経て、オーストラリア国立大学客員研究員。2012年末からフリーに。著書に『小泉純一郎独白』『保守の肖像 自民党総裁六十年史』など。田中政権時代を知る自民党関係者の証言をまとめた「『選挙の神様』角栄が挑んだ史上最大の作戦」(月刊「文藝春秋」14年8月号)もある。
(記事引用)

科学史上最悪の捏造事件、真犯人は… 英博物館が特定
2016年10月19日 21時2分 朝日新聞デジタル
  サルからヒトへ進化した証拠の人類化石として約100年前に英国で発表され、約40年後に偽造の骨とわかった「ピルトダウン人事件」の真犯人を大英自然史博物館などが特定した。同博物館の学芸員による捏造(ねつぞう)とされてきたが、「発見者」のアマチュア考古学者が犯人だったという。

 ピルトダウン人とされた骨について国立科学博物館(東京)は19日、来年3月18日に始まる「大英自然史博物館展」で展示すると発表した。国内初展示となる。

 ピルトダウン人事件は、科学史上最悪の捏造と言われる。英ピルトダウン地方で化石を発掘したとして、アマチュア考古学者のチャールズ・ドーソン氏が1912年、大英博物館自然史部門(現大英自然史博物館)へ持ち込み、類人猿と人類の間にいたピルトダウン人の頭やあごとされた。

 だが、その後の分析で、頭はヒト、あごはオランウータンの骨と53年に判明。ドーソン氏はすでに死亡しており、犯人は諸説出た。探偵小説シャーロック・ホームズシリーズの作者で作家のコナン・ドイル氏も疑われた。96年、大英自然史博物館の学芸員が犯人と発表された。

 英国王立協会の論文誌に掲載された同博物館などの研究では、CT(コンピューター断層撮影装置)などで詳細に解析。約8年間にわたり発掘された骨の加工方法が同様で、すべてに関与できたのはドーソン氏だけだったという。

 篠田謙一・国立科学博物館人類研究部長は「偽物とわかった後も捨てずに、真犯人を探した負の標本。門外不出だった貴重なものだ」としている。(神田明美)
(記事引用)

ピルトダウン人 頭蓋骨模型
52866459

コンスティチューション(USS Constitution)
2016/10/14 ウィキぺデア資料
1280px-USS_Constitution_1997愛称: オールド・アイアンサイズ(Old Ironsides)は、アメリカ海軍の木造船殻、3本マスト、砲数44門のフリゲートである。名前はアメリカ合衆国憲法(United States Constitution)から採られており、世界の航行可能な就役艦船で最古、かつアメリカ海軍の現役艦である。コンスティチューションは、1794年の海軍法で建造を承認された6隻のフリゲートの1隻であり、1797年に進水した。船の設計はジョシュア・ハンフリーズが行い、海軍の主力艦とされたので、当時の標準的なフリゲートよりも大きく、武装も重装備である。

1917年、コンスティチューションは、レキシントン級巡洋戦艦のコンスティチューション (CC-5)に名前を譲るため、オールド・コンスティチューションと名前を変えられた。巡洋戦艦コンスティチューションは結局完成されなかったので、コンスティチューションは1925年に元の名前となった。1941年に船腹等級記号IX-21(記号IXは分類されないその他を意味する)とされ、1975年には記号無しとなった。

建造と初期の戦歴

コンスティチューションは、マサチューセッツ州ボストンのエドマンド・ハート造船所で、ジョージア州セントシモンズのギャスコイン・ブラフで切り出され製材された弾力性のある2,000本のライブ・オーク材(特にサザン・ライブ・オーク)を使って建造された。コンスティチューションの側板の厚みは7インチ (178 mm)あった。船の構造は当時としては特徴があり、船殻の対角線上に交差する筋違いがあり、船体強度をかなり上げている。側板を止める銅製の釘やボルト、および船腹を守る銅被覆はポール・リビアが鍛造した。
1797年にボストン港に進水させるまでに何度か失敗を重ねた。コンスティチューションは、1798年7月2日に初めて出航し、フランスとの擬似戦争で合衆国南東沿岸の警戒にあたった。この作戦行動中に、サントドミンゴのプエルト・プラタに対する水陸両用作戦に参加し、フランスの私掠船サンドウィッチを捕獲し、スペイン砦の大砲を使用不能にした。

1803年、コンスティチューションはエドワード・プレブル艦長指揮の地中海艦隊の旗艦とされ、北アフリカのバーバリに対する戦争に向かった。バーバリは合衆国からの貢ぎ物を要求する代わりに地中海の港へアメリカ商船の寄港を許すという態度に出た。プレブルはトリポリに対して攻撃的な姿勢で臨み、港を封鎖して要塞に艦砲射撃を加えた。最後にトリポリ、チュニスおよびアルジェが平和条約に応じた。
コンスティチューションは、終戦後も2年間、条約の条件を履行させるために北アフリカ海岸の警戒航海を続けた。指揮官は1803年から1805年の間にステファン・ディケイターと他の2人の艦長に順次交代された。

1807年にはボストンに戻り艤装改良工事で2年間を費やされ、1809年にジョン・ロジャース海軍准将の指揮で北大西洋艦隊の旗艦に再就役した。

米英戦争

1812年早く、イギリスとの関係が険悪なものとなり、海軍は戦争の準備を始めた。米英戦争の宣戦布告は6月20日になされた。1810年に指揮官に任命されたアイザック・ハルの指揮で、コンスティチューションは6月12日に命令無しで出港し、港湾封鎖に備えた。ハルの考えはロジャース艦隊の5隻と合流することだった。

コンスティチューションは7月17日にニュージャージー州エッグ・ハーバー沖で5隻の艦影を認めた。翌朝、見張りがそれらの船はイギリス海軍の艦隊であることを確認した。イギリス艦隊もコンスティチューションを視認し追掛け始めた。ハルは風が凪いでいることを感じ取り、熟練した乗組員はボートを下ろして艦を曳航させた。小錨を使って艦の向きを良くし、帆を濡らして重たくし少しの風でも使えるようにした。これでゆっくりとではあるが追いかけるイギリス艦隊との距離を離した。7月の過酷な暑さの中での2日2晩にわたる骨折りによって、コンスティチューションは遂に追跡者をまいた。
詳細は「USSコンスティチューション対HMSゲリエール」を参照

縺れ合った戦いでコンスティチューションはゲリエールの前檣を折った

1ヵ月後の8月19日、コンスティチューションはノバスコシア海岸沖で、イギリス艦隊の1隻やや小さなフリゲートHMSゲリエール(38門艦)と遭遇した。イギリスのフリゲートは射程距離に入ると砲撃を開始した。ハル艦長は搭載砲による攻撃を止めて、2つの艦がわずか25ヤード (23 m)まで近付いたときに砲撃を開始した。戦闘の間に両艦は3度衝突したが、海兵隊員らのマスケット銃による銃撃が交わされ、乗組員の移乗攻撃を妨げていた。3度目の最後の衝突のときに、ゲリエールの斜檣がコンスティチューションの艤装に絡まった。両艦が引き分かれると、ゲリエールの斜檣を引く力が艤装を通じて衝撃を与えた。ゲリエールはフォアマストを折られ、続いてメインマストも引きずり倒された。マストにひどく損傷を受けたゲリエールは、港への曳航も叶わなくなった。
コンスティチューションは舷側砲の強さと優れた帆走能力を持っていた。イギリス軍の水兵も驚いたことに、彼らの放った砲弾がコンスティチューションの強いライブ・オーク製の側板に跳ね返されて損傷を与えられなかった。コンスティチューションは「古い鉄の船腹」("Old Ironsides")と渾名された。

この年の12月、ウィリアム・ベインブリッジ指揮となったコンスティチューションは、イギリスの別のフリゲートHMSジャバ(38門艦)と遭遇した。3時間におよぶ戦闘により、ジャバは修繕も出来ないほど破壊され焼却処分にされた。コンスティチューションの勝利はアメリカの市民の士気に大きな昂揚感をもたらした。

その後1815年の終戦までに、修繕や港湾封鎖の影響で長い月日を港の中で過ごしたにも拘わらず、コンスティチューションはチャールズ・スチュワート艦長の指揮で他に8隻を捕獲した。その中には艦隊を組んでいたフリゲートHMSサイアニー(22門艦)とスループ艦レパント(20門艦)を同時に捕獲したことも含まれる。その後6年間の大改装を経て大西洋艦隊の旗艦に戻った。コンスティチューションは1828年にボストンに帰港した。

再改造後の1835年の就役
1830年に行われた検査で、コンスティチューションはそれ以上の就役に適さないとされたが、アメリカの世論がその解体に大きな不満を表した。特にオリバー・ウェンデル・ホームズの詩「オールド・アイアンサイズ」が出版された後はその声が大きくなった。アメリカ合衆国議会はコンスティチューションの再建予算案を可決し、1835年に再び就役した。コンスティチューションは地中海と南太平洋で旗艦として従軍し、1844年3月に始まる30ヶ月の世界周航も果たした。1842年には新型のペクサン砲を4門搭載している。

1850年代、コンスティチューションはアフリカ沿岸を奴隷貿易船を探して警戒航海し、南北戦争の間は海軍士官候補生の訓練艦となった。しかし、コンスティチューションは同型艦とともに戦闘艦としては急速に時代遅れとなった。1838年には既に蒸気船が大西洋航路に就航しており、南北戦争中のハンプトン・ローズ海戦では鋼板製あるいは鋼板被覆製の船に対して木造船の弱さを示すことになった。

しかし、前線での活動は制限されたものの、コンスティチューションは海軍と国のための活動を続け、1871年に再改造の期間を持った後、1878年のパリ万国博覧会に品物を運んだり、練習艦として活動した。1882年の退役後、コンスティチューションはニューハンプシャー州ポーツマスで接待船として使われた。1897年には生誕100周年を記念してボストンに帰港した。

1925年の修復

マサチューセッツ湾でミサイル駆逐艦ラメージとミサイルフリゲートハリバートンおよびブルーエンジェルスに護衛され、祝砲を放つコンスティチューション 1997年7月21日
1905年、コンスティチューションは大衆の支持で今一度解体を免れた。1917年、レキシントン級巡洋戦艦のコンスティチューション (CC-5)に名前を譲るため、オールド・コンスティチューションと名前を変えられた。巡洋戦艦コンスティチューション (CC-5)は、1922年のワシントン海軍軍縮条約に従い、1923年に建造中止となった(全体の14%しかできていなかった)。コンスティチューションは1925年に元の名前となり、学校の生徒や愛国者集団の寄付によって再修理を施された。1931年に再就役し、引き舟に引かれて就航した後は、アメリカ大西洋岸、メキシコ湾岸およびアメリカ太平洋岸の90の港湾都市を訪ねて回った。
3年間の訪問航海中、460万人以上の人がコンスティチューションの見学に訪れた。コンスティチューションはアメリカの象徴としての位置づけを獲得し、母港のボストンに帰港した。1940年コンスティチューションは永久就役ということになり、1954年の議会法でアメリカ合衆国海軍長官がその維持管理の責任を負うことになった。
1976年7月11日、アメリカ合衆国の独立200周年を祝うために、イギリスのエリザベス2世とエディンバラ公がボストンを訪れ、指揮官のタイロン・G・マーチンと共にコンスティチューションに乗船した。海軍長官のJ・ウィリアム・ミッデンドーフは、1970年代初期の改修の際に船穀から取り出した当初材を使って制作した私物箱を女王に進呈した。

1992年からの再修理と航海への復帰

1992年から1995年までの44ヶ月をかけて、コンスティチューションは分解修理と改装を施され、十分に海洋を帆走できる状態になった。これはコンスティチューションの保存状態が良かったからであった。この改装では、前の改装の際に時間と金を節約するために取り除かれていた最小の構造材料の多くが再び使われた。例えばホッギング(一つの波頭が船体の中央を押し上げて、船首および船尾が下がり、船体が曲がること)に抵抗するハンフリーの特徴ある斜補強材である。
1997年7月21日、コンスティチューションの生誕200周年を祝い、116年ぶりに航海に出た。コンスティチューションはボストンのいつもの桟橋から曳航されてマサチューセッツ州マーブルヘッドの夜間係留所に到着した。このマーブルヘッドへの航海は、チャールズタウンの桟橋を一昼夜離れた1934年以来のことであった。約450名の乗船者の中で要人には、海軍長官、アメリカ海軍作戦部長、アメリカ海兵隊副司令官(リチャード・I・ニール将軍)、エドワード・ケネディ上院議員および「アメリカの良心」と呼ばれたウォルター・クロンカイトがいた。海岸から5海里 (9 km)ほどの所で、引き綱が下ろされ、指揮官のマイク・ベックが6枚の帆(ジブ、トップセイルおよびドライバー)を張るように命じた。コンスティチューションは自力で40分間南南東に帆走した。風速約12ノット (22 km/h)の風を受けて、最高速度は6.5ノット (12km/h)になった(本稿最上段の写真を参照)。帆走中に、現代の海軍戦闘艦、ミサイル駆逐艦ラメージとミサイルフリゲートハリバートンが護衛し、オールド・アイアンサイズに栄誉の礼を送った。またブルーエンジェルスが上空を通過し116年振りの航海を祝った。翌日の夕方、チャールズタウンの永久桟橋に戻り、ボストン港のキャッスルアイランドにあるインデペンデンス砦に向かって21発の祝砲を放った。

インデペンデンス砦に向かって21発の祝砲を放ったコンスティチューション
現在のオールド・アイアンサイズの役割は、「国の船」であることである。コンスティチューションはアメリカ海軍の歴史で最も有名な艦と考えられている。
その使命は、毎年多くの観光客や見物客に海軍を宣伝することである。55名の水兵が儀式や教育的プログラムおよび特別のイベント(帆を張る訓練を含む)に参加し、一年中観光客を迎え、自由見学ができる。乗組員は現役の水兵であり、海軍の特別任務と考えられている。伝統的に艦長の任務は現役の海軍中佐に割り当てられる。
コンスティチューションは航海できる最古の現役艦ではあるが、現存する現役艦の中で就役が一番古いわけではない。イギリスの戦列艦ヴィクトリーはコンスティチューションよりも30年程就役が早い最古の現存艦船ということになっている。ただしヴィクトリーは形式上は現役艦ながら実態は記念艦として、永久に船渠に入ったままである。
コンスティチューションは、アメリカ海軍で敵を沈めた経験のある唯一の現役艦である(かつてはシンプソンも該当していたが、同艦は2015年9月29日に退役している)。
コンスティチューションは、チャールズタウン海軍基地の1号桟橋に係留されているが、この桟橋はボストンのフリーダムトレイルの終端でもある。コンスティチューションは、一年中公開されている。しかしアメリカ海軍の現役艦として、訪問は海軍の規則に従うことになっており、また時に航海に出る時もある。公式HPはschedule and provisionsである。私立のコンスティチューション博物館が近くにあり、2号桟橋の付け根にある復元された造船所の建物が使われている。
(記事引用)

都知事になった小池百合子氏は、古巣「WBS」で何を語ったのか?
まぐまぐニュース!2016年10月6日 19時3分
腐敗する都政に真っ向から斬り込むと宣言し、見事「東京都知事」の座を射止めた小池百合子氏。その原点は学生時代から決めていた「退路を断つ」という信念、そして、群れから最初に海へ飛び込む「ファーストペンギン」のような生き方にありました。「テレビ東京『カンブリア宮殿』(mine)では、その放送内容を読むだけで分かるようにテキスト化して配信。東京都を率いる新リーダーの素顔に迫ります。

【カンブリア宮殿】知られざる小池百合子~「東京大改革」新リーダーの次なる一手は?

注目の東京都知事に独占密着。その原点とは?
 
その「決断力」を評価する都民の声が圧倒的に多い東京都知事、小池百合子。

自宅は江古田駅に近い通称「エコだハウス」。環境大臣を務めた小池が6年前に建てた。省エネ、エコに配慮した暮らしを自ら実践するのが目的だという。

部屋の照明は全部LED。窓の外には「動く日よけ」が。冬は日光を取り込み、夏は熱を遮断するよう、角度が変えられるようになっている。こうした数々の工夫で、エアコンを使うことはほとんどないという。「自分で体感するのが、人に伝える際に説得力を増すと思いますので」と、小池は語る。

そんな小池の原点はテレビ東京にある。1988年4月にスタートした『ワールドビジネスサテライト』(WBS)。その初代キャスターを務めたのが、当時36歳の小池だった。

番組スタート当時の日経平均株価は、2万6000円台。まさにこの時、世はバブルの真っ只中。翌年には、3万9000円近くまで急上昇し、その後、弾けた。日本経済の絶頂と崩落を、小池は伝え続けた。

さらに1990年。イラクによるクウェート侵攻が始まると、小池はすぐさまイラクに飛んだ。実は小池はカイロ大学卒業。得意のアラビア語を武器に重要人物のインタビューを実現、世間を驚かせた。

小池を「キャスター」として見出した、元テレビ東京副社長で、WBSを立ち上げた当時の報道局長、池内正人が振り返る。

「あるパーティーで小池百合子を紹介された。で、彼女にその場で『やる気があるかい?』と言ったら、『ぜひやりたい』と。それで頼んだ」

それまでアラビア語の通訳やテレビ番組のアシスタントなどを務めていた小池。ニュースキャスターといえば男性が当たり前という時代に、果敢に決断した。

そうして飛び込んだキャスター人生だが、転機が訪れる。

キャスターから政界へ~小池百合子の「決断力」
92年5月、WBSは細川護煕氏をゲストに呼んだ。細川氏が「政治改革」を訴え、日本新党を立ち上げた時のことだ。この日は単にキャスターとして聞いていた小池だったが、それから1ヶ月後、WBSの放送を終えた深夜。小池は報道局長の池内とあるバーにいた。

「細川さんが日本新党を立ち上げて、彼女をもらいに来たんです。彼女は迷ったわけだよね。辞めるか辞めないか」(池内)

小池は細川氏から参院選出馬の要請を受け、揺れていた。

「『俺としては続けてほしいけど、どうする?』と言ったら、30分くらい彼女はすごく真剣に呻吟していた。最後に泣き出した。小池百合子が泣いた夜。そこで決断したんだよ」(池内)

その3日後、小池は「日本新党から参院比例区で出馬する意思を固めた」と発表した。

「彼女のいいところは、決断したらブレないこと。泣いたのが、それから30分たたないうちにケロッとして、店を出たら『やりますからよろしく』と」(池内)

番組に出演したことをきっかけに、参院選の候補者として小池に白羽の矢を立てた細川護煕元総理は、当時のいきさつをこう語る。

「ぜひ候補者になってください、新党を立ち上げて、今の政治をなんとかしたいと思っているので力を貸してほしい、と。なかなか度胸のある人ですよ。政治の世界に入るなんていうことは、自民党みたいな大政党に入るなら別として、どうなるかわからない話ですから」

参議院議員として政治家のスタートを切った小池は、細川連立政権が誕生すると、裏で細川氏を支えた。細川内閣の退陣後は、当時の永田町の実力者、小沢一郎氏のもとで新進党や自由党の結党に参加。仲良さげだった小沢氏とも、その後はたもとを分かち、最後は自民党へ。

「あちこちいくのは時の流れでよくあることだと思う。あってもおかしくない。政治的な勘はいいし、今、東京も豊洲の問題とかいろいろなことがありますが、なかなか“ジジ殺し”も上手。バランス感覚もいいし、落し処も心得ているから上手く落ち着かせるでしょう」(細川氏)

知られざるエピソード~小池百合子、80年代の大仕事
そんな小池は、知られざる大仕事をやってのけていた。

30年前の新聞に、「国名を変なフロに使わないで」という記事がある。トルコ人留学生が世間に訴えた、いわゆる「トルコ風呂」騒動だ。

80年代、日本の性風俗の代表格だった「トルコ風呂」。男性客が女性から性的なサービスを受ける店だが、トルコにはこういう風呂は存在しない。トルコ人青年のヌスレット・サンジャクリさんは、風俗店にトルコの名前を使わないでほしいと呼びかけた。そこに現れたのが小池だった。現在はトルコに戻り、日本語の教師などをしていたサンジャクリさんは語る。

「彼女は中近東の専門家です。中近東の国の国民の気持ちがよくわかる。キャンペーンをしましょうということで、この問題の解決のために小池さんが入りました」

小池は新聞社やテレビ局にこの問題を取り上げるよう掛け合った。さらに当時の厚生省に乗り込み、大臣に直談判。1983年、第二次中曽根内閣で厚生大臣に就任した、「平成の黄門様」こと、元衆議院副議長の渡部恒三氏が振り返る。

「厚生大臣に就任し、最初のお客さんだった。『日本中でトルコの名前が出ているが、これはやめてくれ』と。まさにその通りだから、『わかった。その通りだ。1か月以内に日本中から全部、妙な場所でのトルコという名前は無くします』と約束した」

渡部氏はすぐさま「トルコ」の名前を使わないよう業者を指導。小池の決断と行動で、日本中から「トルコ風呂」という呼び名が消えたのだ。

「僕の気持ちは温かくなった。喜びました。トルコで一番知られている政治家は小池さんですよ」(サンジャクリさん)

「なかなかその時からしっかりしていた。僕は彼女が大臣になると、その時、断言したよ。彼女の政治家としての資質を最初に認めた男かもしれないな」(渡部氏)

石原慎太郎氏との因縁も~退路を絶ってきた劇的半生

小池百合子は1952年、兵庫県芦屋市に生まれた。父・勇二郎は石油卸会社を経営。仕事がら国際情勢に敏感だった。勇二郎はエネルギーの安全保障を、幼い小池に説き続けたという。まだ石油ショックの起こる前のことである。

やがて勇二郎は政治活動に入れあげるようになり、ある男を支援した。それが石原慎太郎氏である。そしてその石原氏に担がれる形で、1969年、なんと勇二郎自身も衆院選に出馬してしまった。

だが、あえなく落選。そんな奔放な父を支えたのが、母・恵美子。小池はこの母から、大きな影響を受けたという。「結婚を人生の目的にしちゃダメ。いつでも自分の足で歩けるようにしておきなさい」という母の言葉を、小池は胸に刻んだ。

そんな両親の元で育った小池は大学生の時、大きな決断をする。1972年、エジプト・カイロ大学への入学だ。このとき小池は、関西学院大学を休学するのではなく、あえて中退して単身カイロに渡った。その理由を著書にこう記している。

「戻る場所があると、自分が甘えるのではないか。……だから、退路を絶ちたかった」(『自宅で親を看取る』幻冬舎)

退路を断つ。この覚悟は、小池の政治人生の勝負どころで何度も発揮されてきた。2005年の郵政選挙。自民党所属となっていた小池は、小泉総理の「刺客」として、東京の選挙区で立候補。地元兵庫の地盤を手放し、退路を絶って臨んだ結果、見事当選した。

今年の都知事選出馬でも、小池は「崖から飛び降りるつもりで、出馬を決意しました」と語っている。退路を断つ。これが小池の生きる道だ。

スタジオで小池の人生を振り返っているとき、村上龍が思い浮かべた言葉があった。「ファーストペンギン」。群から最初に海に飛び込むペンギンのことで、リスクを負って挑戦することのたとえだ。そんな印象を伝えると、小池は次のように語った。

「そうですね。きっとこうなるだろうなと将来の世界を予測して、まだ誰もやっていないことにファーストペンギンになって飛び降りる。マーケティングで使われる言葉ですが、このときは『ブルーオーシャン』(競争のない新しい市場)なんです。他に誰もいない。だだいたいみんな同じことをやって、価格競争をしてヘトヘトになるのが『レッドオーシャン』(競争の激しい既存市場)ですが、レッドオーシャンでもみくちゃになるより、私はいつもブルーオーシャンを目指して最初に飛び込んでしまう。そのうちブルーオーシャンも赤く染まるときがくるので、また別のブルーオーシャンに行く。いつまで続くかわかりませんけど」

豊洲市場はどうなる?~東京大改革の行方
オリンピックに続いて、パラリンピックでもリオデジャネイロに赴いた小池。熱戦が繰り広げられる会場を見て回った。多忙なスケジュールの中、4日間滞在。時の人、小池を追って、日本から多くの取材陣が殺到していた。「あとたった4年。いろいろな経験値を有効活用したいと思います」と、小池。食事の最中にもタブレット端末を取り出して気になる競技をチェックする。

そのころ地球の裏側では、豊洲市場問題が大変なことになっていた。建屋の地下に広がる空洞。盛り土をする計画がいつ、どういう経緯で変更されたのか。事態は日々動いていた。リオの小池は都庁などと頻繁に連絡を取っていた。

9月21日。帰国した小池を待ち受ける難問は他にもいっぱいある。

課題1、オリンピック予算の適正化。当初7300億円程度だった大会費用はいつの間にか2兆円、3兆円にも膨らんでいるとか。これを検証するのが小池の仕事になる。

課題2、待機児童の解消。空き家を保育所にするなどの対策を掲げた。

課題3。給与・報酬問題 。手始めに知事給与を半減するとぶち上げた。

だが、こうした改革を進めるには、大きな壁を越えなければならない。それが都議会だ。しかも敵は、野党よりも、小池も所属する自民党の都議会議員。

番組では都議会議員127人全員に、豊洲市場をどうすべきかについてや、小池が打ち出したオリンピック予算の透明化、知事給与の半減、待機児童対策などの改革案を支持するかどうかについて、FAXで回答を求めた。

豊洲市場については「安全性が確保されるまで延期」と答えたのが公明党や民進党など。共産党などは「移転を中止して別の施設に」と回答。中には「スーパーにしたらどうか」という意見もあった。

また、小池の「オリンピック予算の透明化」という方針や「知事給与半減」「待機児童解消プラン」については、回答した多くの議員が「支持する」と回答した。

一人一人が回答する中、最大会派自民党だけは、60人分がたったの1枚で送られてきた。そこには「ご質問頂いた各課題については、現時点で小池知事から議会に対し、事前の説明や報告はありません。従って、各設問にはお答え致しかねます」と記されていた。

議会運営は大丈夫なのか。スタジオで小池はこう答えている。

「議会も適切に対処されると思いますけど。だって私も都民の代表だし、都議会議員の皆さんも都民の代表。違う都民だとは思いませんから」

~村上龍の編集後記~
都知事は、スタジオのメイクルームで、昔なじみのヘアメイクさんとうれしそうに言葉を交わし、収録では、番組へのサービスもあったのか、何度か都政を企業体に例えた。「企業も同じだけど、成功体験に依存するとだめになるでしょう?」
だが、政治と企業活動には明確な違いがある。企業には利益が必須だが、政治の役割は適正で冷徹な資源配分である。
逆に共通するのは説明責任を含む公正なガバナンスだ。
リスクを自覚し、誰よりも早く崖からジャンプする「生来のファーストペンギン」の小池知事には、その充分な理解があると思いたい。
TX160929_2200_PR006
<出演者略歴>
小池百合子(こいけ・ゆりこ)1952年兵庫県生まれ。1976年、カイロ大学文学部社会学科卒業。1988年、テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代キャスターに。1992年、日本新党から参院選に立候補、初当選。1994年、新進党結党に参加。2002年、自民党入党。2003年、小泉内閣で初入閣、環境大臣就任。2007年、女性初の防衛大臣就任。2010年、自民党総務会長就任。2016年、東京都知事選に立候補、当選。

source:テレビ東京「カンブリア宮殿」
テレビ東京系列で毎週木曜 夜10時から放送。ニュースが伝えない日本経済を、村上龍・小池栄子が“平成カンブリア紀の経済人”を迎えてお伝えする、大人のためのトーク・ライブ・ショーです。まぐまぐの新サービス「mine」では、毎週の放送内容をコラム化した「読んで分かる『カンブリア宮殿』~ビジネスのヒントがここにある~」をお届けします。
(記事引用)

↑このページのトップヘ