2017年04月

上総介広常「誅殺」(ちゅうさつ、罪をとがめて殺すこと)の理由
面頬2-正面L加納久宜 嘉永元年3月19日~大正8年2月26日(1847-1919)第4代上総一宮藩藩主。
「父」、立花種道(次男)。上総一宮藩主 加納久恒の養子。
慶応3年養父「加納久恒」の死去にともない家督を相続。明治2年(1869)版籍奉還により一宮藩知事。

明治17年(1844)子爵となる。明治23年(1890)貴族院議員。
明治27年(1894)鹿児島県知事となり西南戦争の荒廃の復旧に努めた。

前項では「加納久宜」公の輝かしい履歴と爵位を記述紹介したが、では、それが「上総国」と、どう結ばれるのか、という最大の難問に言及していない。

まさにそれは難問で、 桓武天皇によって決められた親王任国の「上総介」とはいったい誰なのか、という歴史の証明は、源頼朝から下された誅殺によって、さらに歴史の下層へと追いやられてしまった。

唯一の手がかり「天長3年(826年)に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)、いずれも桓武天皇の皇子であった」という記述で追っていくしかなかった。

そこで親王任国という大国の、主要国であった「常陸国」についての資料では、どのくらい収集できるのか、すぐさま検索を開始した。

常陸国 歴代守
常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。
常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。
親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介である。

律令による官位相当と定員
 
養老律令の官位令が定める大国の官位相当は守が従五位上、介が正六位下、大掾が正七位下、少掾が従七位上、大目が従八位上、少目が従八位下である。
職員令が定める大国の定員は、守から少目まで各一人、計6人である。但し、宝亀6年(775年)には少掾二員・少目二員と増員している。
※掾(じょう)とは、日本の律令制四等官のうち三等官を指す。「掾」の文字は国司の三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。 概要. 特に大国と呼ばれる最上級の令制国には特に大掾・少掾が設置された。

国司には含まれない史生の大国における定員は養老令で3人だが、延喜式では5人である。他に国博士一人、国医師一人、学生50人、医生10人が定員として置かれた。

親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。

常陸守
文武4年(700年)10月 百済王遠寶
和銅元年(708年)3月 阿倍狛秋麻呂
和銅7年(714年)10月 石川難波麻呂
養老3年(719年)7月 藤原宇合
天平9年(737年)1月 坂本宇頭麻佐
天平18年(746年)4月 石上乙麻呂
天平19年(746年)9月 紀飯麻呂
天平勝宝4年(752年)6月 百済王敬福
天平宝字2年(758年)6月 佐伯毛人
天平宝字7年(763年)1月 藤原清河
天平宝字8年(764年)10月 石上宅嗣
宝亀八年(777年)10月 藤原小黒麻呂
延暦元年(782年)6月 紀船守
延暦21年(802年)1月 大原某を免
延暦24年(805年)8月 紀直人、卒
延暦24年(805年)9月 橘安麻呂
大同元年(806年)1月 下葛野王
大同元年(806年)2月 和入鹿麻呂
弘仁2年(811年)1月 菅野真道
弘仁5年(814年)7月 藤原福当麻呂
天長元年(824年)6月 佐伯清岑
天長3年(826年) 甘南備高直
 
常陸太守
親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。
天長3年(826年) 賀陽親王
天長7年(830年)1月 葛原親王
承和元年(834年)1月 葛井親王
承和5年(838年)1月 忠良親王
承和7年(840年)1月 葛井親王 再任
承和11年(844年)1月 葛原親王 再任
承和15年(848年)1月 時康親王
仁壽3年(853年) 仲野親王
斉衡4年(857年) 人康親王
貞観2年(860年)1月 賀陽親王
貞観6年(864年)1月 惟喬親王
貞観10年(868年)1月 惟彦親王
貞観14年(872年)2月 惟恒親王
貞観18年(876年)2月 惟彦親王
元慶4年(880年)1月 時康親王
元慶8年(884年)3月 貞固親王

常陸介
天長3年(826年)に常陸国が親王任国とされてからは、「常陸介」が実質的な実務上の最高位であり、官位は養老律令の官位令が定める大国の官位相当の介の正六位下ではなく、従五位以上であることに注意する必要がある。 なお、源氏物語に登場する架空の人物に常陸介 (源氏物語)がいる。
大伴弟麻呂 - 783年(延暦2年)任官。
藤原緒嗣 - 791年(延暦10年)から797年(延暦16年)7月までの間のいずれか。
藤原維幾 - 平将門の乱発生時の国司。
源義光 - 1045年(寛徳2年)から1127年(大治2年)11月25日(10月20日) までの間のいずれか。
藤原実宗- 1107年(嘉承2年)前後
平家盛 - 1147年任官
平頼盛 - 1149年(久安2年)任官、1158年(保元3年)中務権大輔兼任として再任。
平経盛 - 1156年任官
平教盛 - 1160年任官
島津忠景 - 1267年(文永4年)から1295年(永仁3年)までの間のいずれか。
佐竹貞義 - 1287年(弘安10年)から1352年10月18日(正平7年/文和元年9月10日)までの間のいずれか。
(検索資料ウィキぺデア)

以上は「常陸国」また守、介についての検索回答であるが、こと「上総国」に到っては、容易に明確な検索結果とはならなかった。
そのことについては、千葉県という地勢がおおいに関係していた。それは隣国「源政権鎌倉幕府」駿河国という歴史の痕跡が関係していた。

「源頼朝」挙兵
 
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。

『吾妻鏡』では、『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」とはある。尚、『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である 。

同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。

広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。
兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。

『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。

寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時・天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収された。

この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の同族である千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。

しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。

慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べた事を記している。

広常の館跡はいまだに発見されておらず不明である。

上総介「広常」

上総介広常 (かずさのすけひろつね) (?―1183)
平安末期の武将。平忠常(ただつね)の子孫、常澄(つねずみ)の子。
上総権介(ごんのすけ)に任じ、介八郎(すけのはちろう)と称す。
その所領は上総国(千葉県中部)から下総(しもうさ)国(千葉県北部)に及び、この地方最大の勢力を誇った。

保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱には源義朝(よしとも)に従う。
1180年(治承4)8月石橋山(いしばしやま)の敗戦後、安房(あわ)国(千葉県南部)に逃れた源頼朝(よりとも)に誘われたが、初め応ぜず、ようやく9月19日、兵2万騎を率いて隅田(すみだ)川辺に参会、服属した。

以後、常陸(ひたち)国(茨城県)佐竹氏征討などにも功績があったが、83年(寿永2)冬、謀反の疑いにより誅殺(ちゅうさつ)された。しかしまもなく無実が判明、弟たちは助命されたという。[杉橋隆夫]

常陸国司(ひたちこくし)は、常陸国の国司のことで、常陸守、常陸介、常陸大掾、常陸少掾、常陸大目、常陸少目の各1人で構成された。常陸国は、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、親王が国守を務める親王任国となり、この場合の常陸守を特に常陸太守と称した。親王任国となった当初から親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、国司の実務上の最高位は常陸介であった。

親王任国となって以降の常陸太守の位階は必然的に他の国守より高くなるため、一般的に従五位上程度ではなく官位相当は正四位下とされた。また、賀陽親王、葛原親王、時康親王など二品で常陸太守に任じられた例もある。 (参考 weblio)
 
親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。
平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。
なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。
承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。
叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。

時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

国司
上総守(天長3年(826年)以前)
708年 - 上毛野安麻呂
731年 - 紀多麻呂
733年 - 多治比広足
741年 - 紀広名
746年 - 百済王敬福
746年 - 藤原宿奈麻呂
749年 - 石川名人
754年 - 大伴稲君
759年 - 藤原魚名
761年 - 石上宅嗣
763年 - 阿倍子嶋
764年 - 布勢人主
764年 - 弓削御浄浄人
768年 - 石上家成
770年 - 榎井子祖
771年 - 桑原王
774年 - 大伴家持
777年 - 藤原黒麻呂
779年 - 紀真乙
780年 - 藤原刷雄
783年 - 布勢清直
789年 - 百済王玄鏡
799年 - 百済王教徳
809年 - 多治比全成

上総太守(任国親王)
仲野親王 - 826-?
阿保親王 - 827年 - 836年
忠良親王 - 836年 - 838年
仲野親王 - 838年 - 842年
阿保親王再任-842年
基貞親王 - 846年 - ?
人康親王 - 849年 - ?
忠良親王 - 853年 - ?
本康親王 -     - 860年
仲野親王 - 861年 - ?
本康親王再任-869年 - ?
惟彦親王 - 875年 - ?

上総介
田中多太麻呂
平高望
平良兼
菅原孝標
平常家
平常晴
平常澄
伊西常景
印東常茂
介八郎広常
境常秀
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
吉良満氏
島津忠宗
吉良貞義
島津貞久
島津師久
島津伊久
北条綱成
織田信長
松平忠輝
織田信勝(丹波柏原藩主)
(資料ウィキぺデア検索)

※筆者注「上総介広常」は、本当に実在したのか、またその名称は「役」を称したものかのか、それとも役と人が表裏一体化したものを、後世の歴史が混同して、呼称が人物名として残ったものなのか、いまだに疑心暗鬼を抱きながら書いている。また、指摘したように常陸国と対象すると、すべての項目が複雑で、その一つ一つの解説文までが、深層奥深くたどりついていない、という掻痒感が最後まで残った。

それを証明するかのように「広常の館跡はいまだに発見されておらず不明である。」という未確認報告がそれを物語っている。

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木嶋佳苗被告の死刑確定へ 男性3人殺害事件
NHK NEWSWEB 4月14日 15時05分
8年前、東京・千葉・埼玉で男性3人を殺害した罪などに問われ、無罪を主張していた木嶋佳苗被告に対して、最高裁判所は「犯人だということに疑いを差し挟む余地はない」として上告を退ける判決を言い渡し、死刑が確定することになりました。
木嶋佳苗被告(42)は平成21年に東京・千葉・埼玉でインターネットの結婚紹介サイトで知り合った当時53歳と80歳、それに41歳の男性3人をいずれも練炭自殺に見せかけて殺害した罪などに問われました。犯行を裏づける直接的な証拠がない中、被告側は「自殺や火災で死亡した可能性がある」として無罪を主張しました。
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1審のさいたま地方裁判所と2審の東京高等裁判所は、現場で見つかった練炭やコンロと同じ種類のものを被告が入手していたことなどから死刑を言い渡し、被告側が上告していました。

14日の判決で最高裁判所第2小法廷の小貫芳信裁判長は、3人が死亡する直前に被告と一緒にいたことや、練炭やコンロを被告が事前に入手していたことなどを挙げ「犯人だということに疑いを差し挟む余地はない」として無罪の主張を退けました。そのうえで「ぜいたくな暮らしのため真剣な交際を装って男性から金銭を受け取り、その返済やうその発覚を免れるなどの目的で3人を殺害したもので刑事責任は極めて重大だ」として上告を退け、死刑が確定することになりました。

なお、木嶋被告は養子縁組によって現在の名字は「土井」に変わっています。
「周辺での不審死」と「ぜいたくな生活」
この事件では、木嶋佳苗被告の周辺で不審な死が相次いだことや、被告の華やかな暮らしぶりが注目されました。

一連の事件は、平成21年に起きました。この年の8月、埼玉県富士見市の駐車場の車の中で、41歳の男性が死亡しているのが見つかりました。車内には練炭やコンロがあり、自殺のように見えましたが、捜査の過程で、直前に男性と会っていた木嶋被告の存在が浮かび上がりました。被告はこの男性とインターネットの結婚紹介サイトを通じて知り合っていましたが、被告に処方されていたものと同じ睡眠薬の成分が遺体から検出されたのです。また、車内にあったものと同じ種類の練炭やコンロを被告が購入していたこともわかりました。

さらに、被告と結婚紹介サイトを通じて知り合った53歳の男性と80歳の男性が同じように死亡していたことも明らかになりました。それぞれの現場からは練炭やコンロが見つかったほか、被告が男性らから多額の現金を受け取っていたこともわかり、3人を練炭自殺に見せかけて殺害したとして逮捕されました。

当時の被告のブログには、「外国製の高級車を短期間で買い替えた」とか、「1本1万円もするミネラルウオーターを買った」などと、ぜいたくな生活の様子がつづられ、事件との関連が注目を集めました。

一方で関与を裏付ける直接的な証拠はなく、被告は3人の殺害について一貫して無実を訴えました。平成24年からさいたま地方裁判所で始まった裁判員裁判では、3人が殺害されたのか、自殺や火事が原因で死亡したのかが激しく争われました。また、法廷では、被告が18歳のときに北海道から上京したあと、男性と「愛人契約」を結ぶなどして収入を得ていたことや、その金をバッグの購入やエステなどで毎月使い切っていたことなど、これまでの生活が赤裸々に語られました。

被告側は、金銭的な援助をしてくれる相手を求めていて、死亡した男性らとの結婚を真剣に考えていたと主張しました。1審は当時の裁判員裁判としては最長の100日間におよび、判決では、いずれの事件でも男性らが直前に被告と会っていたことや、現場で見つかった練炭やコンロと同じ種類のものを被告が購入していたこと、男性らに自殺の動機がなかったことなどから、「3人を殺害したのは被告以外にありえない」として死刑を言い渡しました。2審の東京高等裁判所で被告側は改めて無罪を主張しましたが、被告本人は事件に関して発言することはなく、1審に続いて練炭などの状況証拠をもとに死刑を言い渡され、上告していました。
(記事引用)




 

天狗に因む生物名
生物の和名として天狗が登場することがある。動物についていえば鼻、または類似器官が突き出た外見に因むものが多い。

歌川国芳筆
空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。
したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである。
事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった[3]。さらに驕慢な尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期成立の『今昔物語集』には、空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載された。これは1296年(永仁4年)に『天狗草紙(七天狗絵)』[4]として描写された。ここには当時の興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、仁和寺、醍醐寺といった7大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれている。これら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが大きな影響を与えていると思われる。
『平家物語』では、「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』(曼殊院蔵)を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介される。

天狗の絵(春日町兵主神社)
『吾妻鏡』天福2年(1234年)3月10日条の記述には、「2月頃、南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる[5])」と記述されている。『吾妻鏡』では、彗星に関する記述も多く記載されているが、この天狗の記述(13世紀中頃)に関しては、彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)。
天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴とも考えられる。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された。
天狗の種類[編集]
前述のように、天狗が成立した背景には複数の流れがあるため、その種類や姿もさまざまである。一般的な姿は修験者の様相で、その顔は赤く、鼻が高い。翼があり空中を飛翔するとされる。このうち、鼻の高いのを「鼻高天狗」、鼻先が尖ったのは「烏天狗」あるいは「木の葉天狗」という。
山伏天狗
種類としては、天狗として世にあだなし、業尽きて後、再び人身を得ようとする「波旬」、自尊心と驕慢を縁として集う「魔縁」と解釈される場合もある。
その伝承も各地に伝わっており、変わったものとして、紀州に伝わる、山伏に似た白衣を着、自由自在に空を飛ぶ「空神」、長野県上伊那郡では「ハテンゴ」といい、岩手県南部では「スネカ」、北部では「ナゴミ」「ナゴミタクリ」という、小正月に怠け者のすねにできるという火まだらをはぎとりに現われる天狗などが伝えられる。姿を見た者はいないが、五月十五日の月夜の晩に太平洋から飛んでくる「アンモ」もこの類で、囲炉裏にばかりあたっている怠け童子の脛には、茶色の火班がついているので、その皮を剥ぎにくるという。弱い子供を助けてくれ、病気で寝ている子はアンモを拝むと治るという。静岡県大井川では、『諸国里人談』に、一名を「境鳥」といい、顔は人に似て正面に目があり、翼を広げるとその幅約6尺、人間と同じような容姿、大きさで、嘴を持つ「木の葉天狗」が伝えられており、夜更けに川面を飛び交い魚を取っていたと記されている。また、鳥のくちばしと翼を持った鳥類系天狗の形状を色濃く残す「烏天狗」は有名である。有名な是害坊天狗などもこの種で、多くの絵巻にその姿が残されている。尼がなった「女天狗」や、狼の姿をした狗賓という天狗もいた。
神としての天狗

修験道は、奈良時代に役小角(役行者)が創始したとされる[6]が、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている[7]。
修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。その信仰の源は、すでに8世紀からみられた、仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる[2]。神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社が、それぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした[2]。そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった[2]。このように、修験道は、密教との関わりが深かったため、仏教の一派とされることもある。
修験道は、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにした。
明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた[8]。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものが破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる[9]。
『日本霊異記』があり、わが国最古の仏教説話集として存在している。 しかし、『日本霊異記』は、物の怪など生々しい描写が多い為に「役小角」が関西地方を歩いて、各山で修行をしたり、各寺社院で教えを説いたりする事から、現在では、神社や各寺社院で「朱印」取得をして、朱印より「道徳教義」を作成して、教義として活用をしている。
さらに、愛知県に鎮座している「片山神社」では『孔雀明王経』も教義として活用をしている。
修験道根本は森羅万象 森曼荼羅に身を構えている為特定の経典は定めていないが主な流れの経典は以下に記する。

ハリギリ
1-ハリギリ

 
Kalopanax septemlobus 3.JPG
7-8月、枝先に多数の散形花序を出す
分類
: 植物界 Plantae
: 被子植物門 Magnoliophyta
: 双子葉植物綱 Magnoliopsida
亜綱 : バラ亜綱 Rosidae
: セリ目 Apiales
: ウコギ科 Araliaceae
: ハリギリ属 Kalopanax
: ハリギリ K. septemlobus
学名
Kalopanax septemlobus (Thunb.) Koidz.

シノニム
和名
ハリギリ(針桐)
ハリギリ(針桐、学名:Kalopanax septemlobus)は、ウコギ科の落葉高木で広葉樹。幹は直立し、高さ10-20m、大きいものは30mになる。別名、センノキ(栓の木)、ミヤコダラ、テングウチワ、ヤマギリなどがある。

日本全土(特には北海道)・朝鮮半島・中国の山地に分布する。若木は枝や樹幹にとげがあるが、老木になるに従い鋭さを失い瘤になる。幹の樹皮に深く縦に入った筋(裂け目)がこの樹木を特徴づける。
葉柄は長さ10-30cm、葉身は掌状に5-9裂し、カエデのような姿で径10-25cmと大きく、天狗の団扇のような形をしている。そこから「テングウチワ」と呼ばれることもある。秋には黄褐色に黄葉する。
7-8月、黄緑色の小花が球状に集まったものが傘状につき、藍色の丸い果実を結ぶ。
肥えた土地に自生するので、開拓時代はこの木が農地開墾の適地の目印であった。その為、北海道には大きな木が多く、明治末には下駄材として本州に出荷された。現在でも国内産の栓の9割は北海道産である。
2008年5月下旬
東京大学小石川植物園 
老木の樹皮 
展開した葉 
展開したばかりの芽は同じウコギ科のタラノキやコシアブラ、ウドなどと同様に山菜として食用にされる。見た目は「たらの芽」としてよく知られる近縁のタラノキの芽に良く似るが、苦味やえぐみとして感じられるあくがやや強い。そのためタラの芽と区別して食用にしない地方もあり、たとえば長崎方言では「イヌダラ」と呼んでタラノキと区別される。もっとも、しっかり灰汁抜きをすればコシアブラ同様に非常に美味であり、利用価値が高い。山菜としての地方名にオオバラ(中部地方)などがある。
果実は塩分を含み、ヌルデなどと共に、海からの塩が貴重だったころの山里で、塩分摂取に利用されてきた可能性も指摘されている[要出典]。
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山菜として食用にされるハリギリの展開した芽 

枝は芽よりか細い印象があるため、林の中ではその大きな芽がかなり目立つ。 

完全な対ではないが、ほぼ等間隔に脇芽が出る。先端の芽を摘まない場合は2~3個が出るが、先端を摘むと2番目以降の芽の元の大半が芽吹く。トゲの間隔はタラノキよりも広く太く長い。 

木材利用
木材としては「栓(せん)」と呼ばれる。木肌が深く裂け、黒ずんだ褐色の色をしている木から取れる「オニセン(鬼栓)」と、木肌がなめらかな木から取れる「ヌカセン(糠栓)」に分かれる。鬼栓は加工には向かず、沈木に用いられる。一方、糠栓の材は軽く軟らかく加工がし易い為、建築、家具、楽器(エレキギター材や和太鼓材)、仏壇、下駄、賽銭箱に広く使われる。耐朽性はやや低い。環孔材で肌目は粗いが板目面の光沢と年輪が美しく海外でも人気がある。色は白く、ホワイトアッシュに似る。
ケヤキに似た木目を持つことから欅の代用品としても使用される。この場合は着色した上で新欅・欅調と表記されることもある。
シノニム
Kalopanax pictus (Thunb.) Nakai var. lutchuensis auct. non (Nakai) Nemoto
Kalopanax pictus (Thunb.) Nakai,

ケヤキ…木目が類似。

(資料参考ウイキペディア)
 

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