2017年05月

ワシントンの「狂人」をどう理解すべきなのか[特別寄稿]
ハンギョレ新聞     5/29(月) 17:18配信
ディーン・ベーカー米国経済政策研究センター共同所長
 米国の外にいる人にとって、最近ワシントンで起きていることを理解するのはとても難しいだろう。米国の大統領らがいつも立派な知性の持ち主だったわけではないが、大抵は少なくとも米国と世界に影響を与える主な事案について理解しているものと思われてきた。また、歴代の大統領は政治的偏向に関係なく、各分野の専門家らを周囲に置き、政策を作ったり公式的な発言をする場合も彼らに依存してきた。

 このような歴史は必ずしも栄光に満ちたものではなかった。ジョージ・ブッシュ大統領の専門家たちは、米国を必要もなくで終わりそうにもないイラク戦争に巻き込んだ。ビル・クリントンとブッシュ大統領の最高位経済補佐官らは住宅バブルの土台を提供し、そのバブルの崩壊は70年ぶりの最悪の経済危機を米国にもたらした。

 しかし、これらのひどい失敗を犯したとしても、大統領らは主要政策分野ではそれなりに目に見える努力をしてきた。(ところが)ドナルド・トランプはそうではない。彼は対外および国内政策のほとんどの分野について、本当に何も知らない。70年間この国で生きてきたにもかかわらず、基本的な政策事案について驚くほど無知だ。もっと深刻なのは、彼が(それを)気にも留めないということだ。

 彼の信じられない無知はほとんど毎日明らかになっている。トランプは選挙運動の間、中国を為替レート操作国だと激しく非難し続けた。ところが先月、習近平主席に会った際には、彼と良い関係を結んだと話した。為替レートに言及してその関係を壊したくないと言いながら、韓国が中国の一部だったという興味深い話もした。

EN-AB542_BUSKIN_P_20161117160637 国内問題に対する知識も、(国外に関するものと)あまり変わらない。米国の黒人の歴史を称える期間である2月には、偉大な奴隷解放家であり、民権活動家のフレデリック・ダグラスをまるで今でも生きている人物のように話した(彼は120年前に亡くなった)。また、300万近く得票数が少なかったにもかかわらず、大統領選挙で自分を勝たせてくれた選挙人団制度についても、まったく理解していないようだ。自分をインタビューする記者たちに、まるで新しい情報でも提供するかのように、50州の選挙人団投票地図を見せている。その記者たちにはすでにその地図についてよく知っている。

 共和党は、富裕層ができるだけ多く所有し、早く所有できるようにする手段となった。それに関したイデオロギーや哲学的約束はない。これは単に彼らの懐を満たそうとする問題だ。健康保険改革案の中心は今後10年間にわたり6千億ドル以上の税金を削減することだ。このような削減のほとんどは最上位1%を排他的な対象にするものだ。彼らの健康状態がよければ、健康保険料をより少なく支払うボーナスも付いてくる(この健康保険案で2400万人が保険を失うことになる)。トランプが概要を明らかにした税金改革案が実現すると、最富裕層は毎年数百万ドルを節約できるようになり、彼らの死亡後もその家族は数十億ドルの不動産税を納めなくて済む。

 金持ちをより裕福にするのは税金だけではない。トランプと共和党は、学資金の融資や年金口座からクレジットカード決済まで、金融業界がすべてに課す手数料を低く抑える金融規制の撤廃を目指し、戦っている。温室効果ガス削減努力を廃棄しようとすることに加え、他の環境規制も弱体化させている。その代表的な例が、鉱山から採掘した後、土地の復元を義務付けた規制を翻す行政命令の発動である。この措置は鉱夫の雇用を保護するための対策として宣伝されたが、その反対の効果を生み出すだろう。トランプは石炭会社が労働集約的な地下採掘作業をもっと少ない労働者で行うことを可能にした。

 共和党は明かに能力不足の大統領を追い出せる力を持っているが、彼が最富裕層のための成果を出す限り、いかなる措置も取ろうとしないだろう。彼らが関心を持っているのは再選だけだ。議会での経歴が終わる頃、彼らには高額のロビイストという第2の経歴が加わるだろう。共和党がトランプを見捨てる唯一の場合は、トランプが実際に大衆を当惑させて、かなりの上院・下院議員の再選の見通しが危うくなる時であろう。(しかし)まだそこまでは来ていない。これは、トランプがこれからもとんでもないことをやらかし、腐敗し続けることを意味する。

ディーン・ベーカー米国経済政策研究センター共同所長(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
(記事引用)







放送作家の「表と裏」
西原健太郎  2016年12月06日 13:22 blogos.com
BLOGOSでこのコラムをご覧の皆様。初めまして!わたくし、ラジオ業界で『物書き』の仕事を生業としております、西原健太郎と申します。 

この度は、古くからの友人である編集長の田野さんからの依頼で、このコラムを書かせていただくことになりました。『世間的には全く知られることのない存在』である自分ですが、この度『自分自身の名前で何かを表現する場所』をいただけたことに感謝しています。書くからには何かしら『読む人の心に残るもの』…を心がけ、執筆して参ります。宜しくお願い致します。 

さて、先ほど書きましたが、私、西原健太郎は、『世間的には全く知られることのない存在』だと自分自身でも認識しています。「職業は何か?」と聞かれれば、「放送作家」と答えるようにしているのですが、世の中に数多く存在する、’’煌びやか’’な放送作家の皆さんとは違い、どちらかというと数々の現場で、『裏方の仕事』として様々な文章を書いたり、演出をしたりするのが私の仕事です。 

現在の仕事は、主に『声優』と呼ばれる人達がパーソナリティを務める、ラジオ番組の構成を担当しています。プロとして放送作家活動を始めてから、今年で17年目になります。17年の間、様々な番組を担当させていただきました。 

それらの番組の中には、もしかしたら皆さんがよくご存知の番組もあるかもしれません。でも、それらの番組の放送作家が誰なのかは、ご存知ない方がほとんどだと思います。それもそのはず。番組の中で私は極力『表』に出ず、自分の存在を消し、『裏方に徹している』からです。だから番組はご存知でも、私の事をご存知の方は、ほとんどいらっしゃらないと思います。 

そして、私とは対極の存在。自ら進んで『表』に出て、自分を表現する放送作家も存在します。そこで、初回である今回は、『表に出る放送作家と裏方に徹する放送作家』について、自分の思うところを書いてみようかと思います。 

放送作家という職業は、仮に10人放送作家がいたら、全員違うスタイルで仕事をしています。放送作家という仕事に対する考え方も全員が違うでしょうし、そもそも放送作家という職業は『資格』というものが存在しないので、「自分は今日から放送作家だ!」と宣言してしまえば、誰にでもなれてしまいます。でも、全ての放送作家を仮に二つに分けるとすると『表に出る放送作家』と『裏方に徹する放送作家』に分けることができると思います。 

『表に出る放送作家』は、自分自身のネームバリューで勝負していこうとする作家です。番組中に自分の名前が登場したり、番組内で自分の存在を出していくことを良しとします。時には自分自身が作家としてマイクの前に立つこともあるでしょう。 

また、自分自身の名前でSNSをやったり、対外的に放送作家である自分をアピールしていくのも、『表に出る放送作家』の特徴です。でも、ここで勘違いして欲しくないのは、私は『表に出る放送作家』という存在を否定しているわけではないということです。 

先ほども書きましたが、放送作家が10人いれば、10人違う価値観があります。『表に出る放送作家』は、自らの名前を前面に出すことで、番組に対しての責任を負うことになりますし、SNSをやっていれば、番組への批評の受け皿となることもあるでしょう。 

そして、そのリスクと引き換えに、番組=放送作家というブランドを築くことができます。名前を内外に知らしめることで、新たな仕事の依頼が舞い込むこともあるかもしれません。 

対して『裏方に徹する放送作家』は、番組において、極力自分の存在を消します。ラジオ番組では、演出のスパイスとして『作家笑い』というものを番組内に入れることがあるのですが、『裏方に徹する放送作家』は、笑い声を入れることはあっても、積極的にパーソナリティに話しかけたりはしません。 

それは、『ラジオ番組はパーソナリティの声を聞きたい人が聞いている』と思っているからであり、その中で作家の存在は邪魔になると考えているからです。もちろん『裏方に徹する放送作家』にもデメリットはあります。存在を消しているので、仕事の成果を実感しにくかったり、仕事に対するモチベーションを保つのが難しかったりします。 

『表に出る放送作家』と『裏方に徹する放送作家』。どちらにも一長一短があるということです。このコラムを読まれている方は、どっちの放送作家が作る番組が好みですか? 

ところで、今回私はこのコラムを書くことで、ある意味矛盾を抱え込むことになります。裏方に徹するはずの自分が、自らの名前でコラムを執筆する…いわば表の世界に出ていくことになるわけです。ですが、本来裏方である私だからこそ、何か表現できることもあるのではないかと思い、今回コラムを書かせていただく決心をしました。 

今後は、ある種の矛盾を抱えながら、矛盾から生まれる世界を表現していければと考えています。今後とも何卒よろしくお願い致します。
(記事引用)

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(♪ ソウルソウル254)







北朝鮮の軍事力にジャーナリストが指摘「真に受ける必要はない」
2017年5月2日 19時5分 トピックニュース
写真:gettyimages
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1日放送の「橋下×羽鳥の番組」(テレビ朝日系)にジャーナリストの石丸次郎氏が出演し、北朝鮮の軍事力について見解を述べた。

番組では、訪朝歴のある識者たちが北朝鮮にまつわる情報について語った。その中で石丸氏は、「軍事強国」だとアピールする北朝鮮について「実際の朝鮮人民軍は全面戦争できる軍隊ではとてもない」と断言したのだ。

石丸氏は番組で、2011年夏に撮影された工兵部隊の兵士の写真を公開した。そこに写っている兵士は栄養失調でやせ細っている。石丸氏の協力者から入手した情報によると、軍隊では飢餓がまん延しているそうで「時期によるが(兵士の)2、3割は栄養失調状態」だというのだ。

続けて石丸氏は、人民軍の武器が、老朽・旧式化しているとも指摘。エネルギー事情についても「車を動かしたり戦闘機を動かす油が全く足りない」のだという。なんでも、元パラシュート部隊兵士の脱北者の話によると「落下傘訓練をする飛行機を飛ばせないから塔の上から飛ぶ訓練ばかりやっていた」とのことだ。

さらに、兵士不足も深刻だそうだ。現在の若年兵士は90年代の大飢饉時に生を受けた世代であり、大きく兵士の数が少ないそう。そこで兵役期間を男子11年、女子7年に延長したほか、徴兵検査の基準も身長142センチ以上から徴兵するなど対策を講じているとのことだ。

最後に、石丸氏は「(軍事強国というイメージを)真に受ける必要はない」と語っていた。

もてあそばれる「日本の歴史」は、今も近現代史も同じである

斎藤実の二・二六事件
その後内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、二・二六事件において斎藤は殺害された。
2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。

斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。
二・二六事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。
二・二六事件の前夜、斎藤は知日派のジョセフ・グルー駐日大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。
斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。

この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年11月)

政治家のころ

1936年2月20日、大蔵大臣高橋是清(左)と
斎藤は外国人との交友が広く、若い頃に4年間も駐米公使館付武官を勤めていたこともあって、特にアメリカ人との交際が深かった。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーとは親友の間柄である。斎藤の英語力は歴代総理の中でも相当のもので、要人との会話も公式会談をのぞいてほとんどを通訳なしでこなし、日記まで英文で書き綴るほどだった。また、ともに滞米経験があり親英米派だった高橋是清とは個人的に親しい友人でもあった。
青年期は痩身であり、堂々たる体格へのあこがれから米国駐在当時、下宿先に毎日ビールを配達させていた。その甲斐あって、斎藤は強靱な体力を得た。明治天皇が危篤のとき、当時の閣僚は1週間宮中に泊り込んで快復を祈ったが、他の閣僚が音をあげる中で、斎藤だけはケロリとしていた。「若い頃は、1週間一睡もしないで平気だった」と豪語したという。強靭な体力は彼の特筆すべき性質であり、朝鮮総督当時においても、日本から到着したその当日午後には執務を開始するほどであった。彼の勤勉さは、この体力に支えられたものだったのである。
若いときから酒豪であったが、日清戦争のとき、広島に設置された大本営に海軍参謀本部参謀として務めた斎藤は、いつものように徹夜で一升酒をあけ、翌日、素知らぬ振りで明治天皇の前に出仕した。明治天皇は休憩時間に斎藤を呼び、好きな蹴鞠の相手をするように言った。実は酔いのさめていない斎藤は、不覚にも腰を抜かしてしまい動けなくなった。明治天皇は斎藤の徹夜酒をすぐに悟ったが、特に何も注意せず、ニコニコしているだけであった。斎藤はしばらく禁酒するとともに、明治天皇の部下への大らかな態度に大いに学ぶところがあったという。

1914年(大正3年)、千葉県一宮町新地に別荘を所有している。九十九里浜の海岸沿いに500坪の土地を坪10銭で手に入れ、建築費も坪20円であったという。この別荘は1901年(明治34年)10月に竣工のもので、1914年(大正3年)に海軍大臣を辞してから購入し、1年の大半をここで過ごした。古洋服に草履をはき、手拭を腰にぶら下げて松の枝おろしや垣根直しなど、ここでの生活は庭いじりが主であった。地元の署長がある時、このときの彼の姿を見て、『爺やさん』と呼んだが、振り向いた顔を見て大慌てに慌てたとの逸話が残っている。なお、別荘を所有していた関係上、近くの玉前神社には彼が奉納した扁額が掲げられている。

斎藤は大変な筆まめで、贈物に対しては必ずといっていいほど礼状を出していた。揮毫をよく頼まれたが、元来の性格のよさから断れず週末は別荘に籠もって筆を振るう日々だったという。自分宛書簡や書類をきちんと保存しておく性格で、選別はすべて自分の手で行っていた。そのため個人の詳細をきちんと把握しており、間違えるということがほとんどなかった。斎藤が整理・保管した書翰類は、大半が国立国会図書館に寄贈されており、近代史の貴重な史料となっている。
朝鮮総督時代の評価
1926年にイギリスの植民地研究の専門家である、アレン・アイルランドは斎藤について次のように述べている。「1922年の朝鮮においては、反日の過激論者を除けば、斎藤総督に対する世間一般の評価は次のようであった。総督は、公明正大で寛容な施政により朝鮮を統治しようと真摯な思いで生き生きしていた。そして、彼は卓越した改革を成し遂げた。教育の問題においては、実に惜しみなく人々の教養に対する意欲に力を貸し、政治的野心については、無益に独立を望む気持ちを助長するものは如何なるものにも断固反対する一方、熱心に地方自治を促進し、日本人と朝鮮人の関係に友好と協力の精神をしみ込ませようとしていたのである」。
(資料ウイキペディア)
(記事引用)2017/5/3





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