古代中国「殷」
前漢の歴史家、司馬遷が著したとされる『史記』の「殷本紀」をもとにした王系表がある。それを王位の継承関係図として甲骨文にした。そこには多くの神々が祭られているが、その主要をしめるのは殷の先王である。

殷の時代、天上に住む姿のない神を帝と考えた。当時の人々は最高神は帝である、としたのである。また自然神は山であったり川であったり、そして動植物に神格をあたえ、それらを神として崇め畏怖する存在とした。 

このような自然神は風や雨、稔りなどに影響力を持つと考え、稔りを祈願する対象としている。また稔りを妨げ凶作の力にも影響を与えるものと考えた。その奥に潜む見えない何者かによって支配されるとし、それが天の気象であると考え自然神の力は雨を降らせる力を持つ、とした。したがって雨請いの儀式は自然神に対する畏敬の念を形にあらわしたものである。

『史記』を著した司馬遷(前145~前87)は130巻から成る書物『史記』を紀元前97年に完成した。古代中国を語るにはこの『史記』なくして一歩も進まない。

殷時代の神々を克明に記した甲骨文がある。この甲骨文は殷墟から発掘されているが、発見当時では周辺農家の畑に埋もれたりして考古学的資料ではなく「秘薬」として売買されていた。学術的価値より先に「竜骨」と呼ばれ世に出回っていた。その竜骨に刻まれていた文字が謎の文字として注目を集めたのである。 

この甲骨文字を現代の新聞を読むような訳にはいかない。メソポタミア楔文字がそうであるように、現代の知識で理解できる内容に変換する作業が必要である。 

冒頭に記述した最高神帝や、雨を降らせる力を持つ自然神がいる、と断定的に表記できるのは、それらの甲骨文を解読して判ったことを現代語に翻訳した結果である。
その甲骨文解読に生涯を捧げる者もいる。それほど歴史のある分野であり、甲骨文発掘は考古学的に20世紀の偉大な発見とされる理由である。 

さきの殷に関する記述は『古代中国』貝塚茂樹・伊藤道治、著によるが、両氏の解読変換作業がなければ甲骨文は永遠に甲骨であり単なるマラリアの秘薬でしかなかった。勿論、現地中国の甲骨文研究者は多数存在し、中でも懿栄と鉄雲の甲骨文字発見の経緯は今では伝説化されたと言っていい。

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甲骨文字は動植物の象形であり、動物の骨や甲羅に刻んだ甲骨文字を火で炙り気象などを占ったと解釈されている。それは現代漢字文字の原始の姿である。
今日、文字なくして総ての分野、あるいは日常の生活は成り立たない。この甲骨文字が現代漢字に変容する過程の証拠がみつかり、新聞に報道された。 
 




「最古の玉牒・中国西安で発見」とあり、玉牒に刻まれた篆書と隷書の見事な筆体で書かれたその石片の写真が添えられている。

記事によれば、皇帝が天地の恵みに報いるために行った大礼「封禅」の儀式で祭文を記したのが「玉牒」である。封は山東省の泰山で土壇を作り天を祭る儀式であり、「禅」は地を祭る儀式で、玉牒は封の儀式の祭文を書いたもの、と新聞に書いてある。
篆書の歴史は紀元前208年に李斯が小篆をつくり、そして程貌がそれを整理して隷書を編纂したという。
(朝日新聞記事抜粋)

コンピューター時代の現代でも、この篆書、隷書とも書道の極致として羨望の書となっている。また篆書を刻印に刻んだものを篆刻という。それは芸術の域に達した分野として、書と独立して現代社会に生き続けている。

祈ぎごと(ねぎごと・願掛け)

古来より行われてきた稲作は日本民族として欠かせない田園風景の一つである。その伝統的耕作は弥生時代に水稲耕作として渡来した技術と言われる。ゆえに日本の文化は稲の文化と称される。
 それは従来いわれていた定説であったが、近年の考古学的発掘調査によって従来言われるその定説は怪しくなってきた。 
それでも、それらの諸説に左右されることなく伝統的文化は淡々と持続している。

2015年の現在に至ってなお、「お田植祭」儀式が4月29日に全国各地で執り行なわれる。稲と民族の関わりを象徴する儀式であり、春風そよぐ田園で繰り広げられる儀式は、早乙女が稲を耕作する様を形式化したものである。

水稲を育てるのは水であり、天から降る雨が唯一の水源である。日本の一年通して降る雨は1600から1800ミリで世界平均800ミリの倍の量であり、その雨水に恵まれたのが日本の国土である。また、この豊富な雨は木を育て日本の国土面積三分の二を覆う森林を養う。まさに雨は天からの恵みの水なのだ。 

天からの授かりものの雨だが純粋無垢というわけではない。海の水が太陽熱で蒸留され雲を作り、それが凝結したのが雨だが、そう簡単な構造で雨は降らないのだ。雲の塊が雨となるには動機が必要である。

 海のしぶきから出来た塩の粒子、都会から排出される煤煙、硫酸、アンモニアの水溶液の粒子、植物胞子等々のゴミが空に届き、それらが核となり雲の中に雨滴を作って地上に降りそそぐのが雨である。酸性雨などはそのよい例だ。そして雨は植物の胞子をも洗い落とし植物の生育を助長させる力もある。その雨力に支えられて育った森林は古代より人間の拠り所でもあった。 

人の手が加えられた森は特定の木を育てるために作られており人間の都合のいい形に造作してある。しかし原始の森、勝手気ままに木々が育成した森は人の侵入を拒み、陽射しが地表に届かない黒く暗い鬱蒼とした森は不気味な静けさと神秘性を秘めている。その森に雨が降りそそぐと淡白色の水蒸気が再び発生し森は幻想的な静寂につつまれる。 

そこに吹く風は色がある。もちろん緑の風なのだがモノトーンではない。森に生える植物がつける葉の色すべての葉緑素の色である。その雑多な色素を数えた人は多分いないだろう。風はその一色一色に吹きわたり緑色に染まっていく。大風が吹くと、その全部が混じり合って黒緑の風をつくる。大地を覆い隠した森は風を吹かせる。 一年の周期が365日に細分化されていることを気象から学び、古代の人々はそれをもとに暦を作り上げた。

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エジプト・ナイル河では河に流れ込む雨水が季節の変化で水位が変わる。穀物を栽培する農業では極めて重要なデータであり指標となる暦は必然的に考えられた知恵である。約7000年前の話しだ。






古代中国においては太陰暦が考案され、紀元前300年の春秋・戦国時代に、より現実的な暦が必要とされ一年周期を細かく区切り24の節気とした。さらにその節気を初候・二候・三候と分け、二四節気七二候が考えられたのである。

古代中国「殷」の国土はかつて緑に覆われていた。 しかし現在中国の森林面積は10パーセントしかない。さらに現在の黄土高原には5パーセントの森林しか残っていない。黄土高原に降る年間降水量は400ミリである。