常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。

その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝える旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。

編纂者は不明で、現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。 

遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合が常陸国守であったことから、その編纂者に比定されることもある。 また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説がある(このことについては高橋虫麻呂を参照)。
 

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。

7世紀に成立した。成立時期については、『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されたことになるが、壬申の乱(672年)の功臣である大伴吹負が後世の常陸守に相当する「常道頭」(「常陸」ではない)に任じられたとする記事がある事から、「常陸」という呼称の成立を7世紀末期とする考えもある。

なお、『常陸国風土記』(逸文)の信太郡の条に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」とあり、令制国成立前は日高見国だったとされている。

律令制が敷かれた当初の常陸国は多珂国を編入したため、現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県浜通りの大熊までに至る広大な国であった。

『常陸国風土記』には、「久慈郡と多珂郡の境の助川を道前(道の口)と為し、陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後(道の尻)と為す。」という記述があり、「助川」が日立市に、「苦麻」が大熊に相当する。言い換えると、現在の福島第一原発付近が、常陸国と陸奥国の境であった。

後に陸奥国が設けられると、常陸国の北端は菊多郡まで(陸奥国との境:現在の湯本駅付近)になった。
更に718年(養老2年)に、菊多郡が新設の石城国に入れ替えられ、常陸国と石城国の境に当たる現在の平潟トンネルのすぐ近くに菊多関(後の勿来関)が建てられた。

これ以後は常陸国の範囲は変わらず、西南部を除いた茨城県に相当する範囲となった。新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)、那珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡から構成される。

平安時代の天長3年9月6日(826年10月10日)、常陸国と上総国、上野国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。

親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上であった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。

律令制による国郡支配が解体された平安時代末期以降、荘園の分立や郡の分割が進んだ。近世始めに実施された太閤検地の際に、細分化された郡や荘を再編成して古代の郡の復元が図られたが、その領域は古代のものとはかなりの違いがある。
明治政府による郡区町村編制法と郡制の施行による再編を経て、第二次大戦後の現代まで続いた茨城県の郡の区分と領域は、この太閤検地で再編されたものを基礎としている。


上総下総の分立
『帝王編年記』によると、安閑天皇元年(534年)に上総国を置いたというが、これは総国を上下に分けたという意味に解され、下海上・印波・千葉の国造の領域を併せて下総国が、阿波・長狭・須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社の国造の領域を併せて上総国が分立した。

上総・下総という地名は、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説があり、『帝王編年記』の記述に合致し、伝承を裏付けるものである。

律令時代

国造制から律令郡国制への移行は、早ければ大化元年(645年)、遅くとも大化5年(649年)以前と推測され、この間に令制国としての上総国と下総国が成立した。

和銅6年(713年)の好字二字令によって「上総国」「下総国」と表記が改められたと考えられる。
これ以前は「上捄国」「下捄国」と書かれていた(詳細下記。本項では便宜上これ以前についても総の字を使った)。
養老2年(718年)上総国から、阿波国造および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。
ここにおいて令制国としての「房総三国」が成立した。天平13年(742年)安房国を再度上総国に併合したが、天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。そのまま明治維新に至る。

文字表記

もともとは「捄」「上捄」「下捄」「阿波」等の表記であったものが、のち「総」「上総」「下総」「安房」に改められたものと考えられている。

『古語拾遺』(807)説に従えば、「麻=総」という図式が成立することになるが、「総」という字には麻に関係する意味は存在しない。

そのため、この説は伝承にすぎず信頼できないともいわれていた。
ところが、昭和42年(1967年)藤原宮から発掘された木簡に「己亥(699年)十月上捄国阿波評(安房郡、後の安房国)……」という文字が書かれたものが発見された。

発見当初はこれを「上狭国(=上総)」の別字体であると解釈されていた。続いて同じ藤原宮から「天観上〈捄〉国道前」という木簡も発見されたが、こちらの4文字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出された。
そのうちに「捄」と読む説も出たものの、「上捄」では意味が通じないとされ、一旦は保留とされていた。そして、その後の研究で「捄」という字の和訓は「総」と同じ“ふさ”であること、天観という上総出身の僧侶がこの時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は「総」ではなく、捄国・上捄・下捄など「捄」の字が用いられていた可能性が高くなった。
この「捄」とは房を成して稔る果実の事を指し(『大漢和辞典』説)、麻の実も収穫時には「捄」に該当することから、麻の稔る姿より「捄」の字が用いられ、令制国成立後同じ和訓を持つ佳字である「総」に書き改められたとすれば、麻と総を間接的には結び付けることが可能となり、『古語拾遺』の記述の信憑性が再評価されることとなった。

総国(ふさのくに、捄国)は、上古の坂東の国。大雑把にいって律令時代以降の「房総三国」に該当する。古くは「総」ではなく「捄」の字を書いたが、本項では便宜上「総」の字を使う。

律令制以前、ヤマト王権から総国(捄国)とされていた地域があった。『古語拾遺』によれば、神武天皇の時、天富命が天日鷲命の孫達を従えて、初め阿波(現在の四国の徳島県)の麻植(後の麻植郡)において、穀物や麻を栽培していたが、後により豊かな土地を求めて衆を分け一方は黒潮に乗って東に向い、常陸の地に上陸した。彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」と命名したという。


古語拾遺(こごしゅうい)は平安時代の神道資料である。官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した。全1巻。
807年(大同2年)2月13日に書かれたとされている。大同元年(806年)とする写本もある。だが、跋(あとがき)に「方今、聖運初めて啓け…宝暦惟新に」とある。このことから、平城天皇即位による改元の806年(延暦25年・大同元年)5月18日以降であることがわかり、「大同元年」説は誤りということが分かる。

『日本後紀』の大同元年8月10日の条に、『以前から続いていた「中臣・忌部相訴」に対する勅裁があった』とある。この条文から、「大同元年」論者は『古語拾遺』をこの勅裁に先立つ証拠書類だと考えた。しかし、本文にはこの8月10日の出来事を前提に書かれているので矛盾することとなる。

斎部広成の伝記は『日本後紀』の808年(大同3年)11月17日の条に「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみで、ほかのことはわからない。ちなみに、この昇階は平城天皇の大嘗祭の功によるものだろうという。ところが、本書の跋には「従五位下」とあり、807年(大同2年)当時は「正六位上」だったはずである。これは後世の改変だと考えられている。

常陸風土記・総国(引用ウィキぺデア