古代文字、「亀甲文字」(占術)の歴史は紀元前にある
人間は声で喋り字を書いて、なにを伝えたいのだろう。という疑問というより、根源的な問いだった。
犬畜生の動物だって鳴いて吼えて、仲間同士、また家族に危険を知らせ、そして身の安全を確保する。それが最低条件の保守存命機能だ。

数日前に、それを暗示させる記事があるのでダイジェストでコピーしてみよう。

「経営者が本を書くと、その会社は成長しない」ってのがあります。若いころは、まだ、ほかの会社の成長というのを見ていなかったり、ほかの経営者がどういったことをしてるというのを知らなかった。

コロンビア大学の教授が調べたところ、1日に平均的なアメリカ人が選択出来るのは70個ぐらいだそうです。情報を入手して選択をするってのは、結構エネルギーがいるんですよね。 http://www.ted.com/talks/sheena_iyengar_choosing_what_to_choose/transcript?language=ja
スティーブ・ジョブスがずっと同じ服を着てたとか、オバマ大統領がほぼ同じスーツばっかり着てるとかってのを聞いたことがある人もいると思いますが、アレも決断する回数を減らすためだそうですね。http://www.vanityfair.com/news/2012/09/barack-obama-michael-lewis

「本を書く」ってのは、「どこまで書くのか?」「どういう言葉で伝えるのか?」「誰に向けて書くのか?」とか、決めなきゃいけないことがすげー多かったりするのですよ。
例えば、おいらのこのページは、「ひろゆき日記」って名前ですけど、1年に数回しか書かないわけですよ。200ページの書籍だったら、これの50倍とか書くわけですよね。
ってことで、相当のエネルギーを使ってしまうのと、本を書くことで得られる社会的な評価とかで、自己承認欲求とか満たされちゃったりして、元々は、仕事をすることで得られていた欲求やらが充足しちゃったりするんですよね。
「経営者が本を書くと、その会社は成長しない」って結論を誰かが言っていて、それをおいらが思い出したという昨今だったりします。
貧乏な人と金持ちで生活のストレスが違うって話がありますが、300円のパンを買うか買わないか?とか貧乏だと迷うんですよね。金持ちだと欲しければ買うだけなので、迷ったりしない。そんなわけで、金持ちのほうがストレス無く生活出来たりするわけです。
(ひろゆきさん、の記事) (記事部分引用〆)

その「経営者が書く本」の結果はともかくとして、物事の選択には、相当の決断が必要で、そればかりに時間を奪われたくない、という話しだとおもう。
さらに「書く」ことの意味と、その評価と労力のバランスが均衡しているかという設問。

それと関連して、私自身が常日頃おもっている猜疑心、「歌」はなんのために歌うのだろう、絵は誰に向けて見せればいいのか、鉛筆で書いた拙い文字の羅列は、はじめの動機は誰に対して書こうとしているのか、それが好きな相手への恋文だったら、まったく理由はいらないだろうとおもう。
書いている文が、一人に対して向けているのか、10人なのか1000人なのか、あまり気にもとめない。

昨今、商業ベースが前面に出て出版本の「数」にすべてが傾注されている。もちろん、その内容の質も問われるが、概して既成的でない著しく非日常的な題材が発行数に直結する。そうなると、文字また文章は、誰のために、何をかくべきか、という識字リテラシーとは正反対の方向に向かっている。
そうしていると、その進化後のスタイルは、もはや字という媒体である必要はなく、脳内に直接送信投影するデジタル信号に変わる。観て読んで理解することなく、機械がそれを全部やってくれる。早い話がアナログ的半機械的なものが、ほとんど電気信号パルス制御によってゴー、ストップの頻繁な繰り返しで、ものは判断される。

私自身の経験的な音楽について云わせていただければ、西洋音楽に感化されていない昔の純日本的な伝統音楽は、今の時代に演奏して、どれほどの影響力と説得力があるのか、という疑問だ。
雅楽、歌舞伎、能、狂言、舞踊、歌舞、民謡、など、世襲と伝統の歴史の中で生き延びてきた、国宝的音楽も数え切れないほどあり、それらは文化財的価値として希少である。だからすたれることなく保存してほしい、という観測は否定されない。また、歌舞伎など海外でも評価され、その役者たちは、芸能世界の一断片を支えている。いってみればブランドとしての、「生業」としてメシが食える。

その一方、地方に残る伝統芸能(神楽、獅子舞など)は存亡の危機に瀕している。第一に、それらの音楽また舞踊は、現代生活において必然性がなく、それらは伝統的に決まった祭事にしか興行できないという制約もある。その音楽がなぜ、その日にしか演奏されないかという理由は、ただ一つ「神」の化身であり、その土地に住み棲んでいるすべての対象に対して敬う、という普遍的な筋がある。
ところが、そのことをよく喧伝しなかったのと、戦後の法律大改革で、そうした神かがり的な思想は、ことごとく排除されてしまった。

それから70年間も経過すると、郷土に残った鎮守様は、再開発という名目のもと、隅に追いやられてしまう。
今ではすっかり西洋化してしまった生活スタイルに、いまどき「アマテラスオオミカミ」があたしを救ってくれる、という奇特なタイプは数えるほどしかいない。そうした数名の奇特な人のために田舎の神社では音楽が演奏されている、とい断言しても差し支えない。

それも時間の問題で、少子高齢化の実態は田舎に顕著で、まず後継者問題より伝承者の高齢化と人員激減(物故)によって明日の展望がひらけない。

話題が外れてしまったが本筋に戻そう。
そのような、生活実態に合わない音楽(そう捉えたくないが)を演奏する必然性がどこにあるのか、という問いだ。それはアーティストが描く絵も同じだ。これも本と同じで、メディアの流れに乗った作家が超売れっ子スターになって、やがて世界規格まで発展して、一世を風靡し、相応の金銭を手にする。
物事はそうしてすべてが「金」の尺度で判断される時代と変貌した。
「いや世の中金がすべてじゃないよ」、といったところで、独居住まいの高齢者が、電気代未払いで送電を強制的に止められ部屋で死ぬ、ということが日常茶飯に起きている時代である。

そして文字は、だれのために、なんのために書くのか、という問いかけである。

文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい
投稿日: 2013年10月22日 11時53分 JST 
文章を書くという仕事は、ゼロを1にする作業だと思われがちだ。
小説や脚本、ゲームシナリオなどの創造的な文章ならばなおさらだ。しかし実際には、文章を書くというのは100を1にする作業だ。文章を書けるかどうかは、このことに気づけるかどうかだと思う。作家にせよ、ジャーナリストにせよ、それこそアルファブロガーに至るまで、きちんとした文章を書ける人はみんなこのことに気づいている。

『狼と香辛料』を書くにあたり、著者の支倉凍砂はかなりの量の文献を読み込んでいたらしい。ライトノベルは、青少年向けの「軽い小説」と見なされることが多い。しかし、そのライトノベルでさえ、メガヒットの裏側にはきちんとした情報収集があった。

また『希望の国のエクソダス』を書くにあたり、著者の村上龍は綿密な取材を行った。その様子は「取材ノート」としてまとめられて、出版されている。たった一本の小説を書くために、著者は目眩がするほど膨大なインプットを行っていた。

『まおゆう』を読めば、著者・橙乃ままれさんの広範な知識に驚かされる。中世~近代のヨーロッパ経済史、技術史、文化史、思想史、軍略......これらすべてに精通していなければ、この作品は書けなかった。一朝一夕で身につくものではない。知識は、息するように吸収し、血液のように絶えず自分の中を循環させておかなければいけない。

いわゆる「ビジネスパーソン」と呼ばれる人々は、知識を軽視しがちだ。問題を効率的に解決する方法や、アイディアの出し方......マニュアル化された「頭の使い方」をマスターすることに夢中で、知識の蓄積を後回しにしがちなようである。頭の使い方さえ身につけていれば、知識は必要になったときにキャッチアップすればいい、キャッチアップできると信じて疑わない。ビジネスの世界で求められる知識とは、つまり、その程度の浅いもので充分なのかもしれない。

ところが、文章を書くとなれば話は別だ。

人は頭で理解しただけでは行動を変えない。人が行動を変えるのは、心が動いたときだけだ。読んだ人を行動させることができなくて、なにが文章屋だ。誰かの人生を変えることができない文章に価値はない。

人を引きつける文章、誰かの心に響く文章。そういう文章を書くためには、たくさんの「ひきだし」から多彩な知識を取り出さなければいけない。そして、そういう知識は短期間では身につかないのだ。

すぐには役立たない知識を、毎日1ページずつ蓄積していったとする。1年で単行本一冊分になり、10年で辞書一冊分になる。
三島由紀夫の愛読書は国語辞典だったというが、彼は非凡な天才だ。さて、凡人たる私たちは辞書を頭から読んでいって、内容を丸暗記できるだろうか?

知識を身につけるとは、本来、そういうことだ。数十年後に百科事典一式に匹敵する情報を身につけるために、毎日少しずつ知識を蓄積していかなければいけないのだ。そうやって体に刻み込んだ知識は、一週間やそこらでキャッチアップできるような種類のものではなくなる。

自分のなかにある情報だけで文章を書こうとすれば、経験に基づいた私小説的なものしか書けない。そして、経験はすぐに枯渇する。インプットがない状態では、恒常的に文章を書き続けるのは不可能だ。ゼロを1にするスタイルでは、すぐに終わりがくる。本当に必要なのは、100を1にまとめる能力だ。

たとえば藤子・F・不二雄は、次のような言葉を残しているという:

よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、私の持っている漫画観は全く逆です。

人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか? 近所のスーパーで買ってきた肉、野菜、チーズ、牛乳・・・どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は「でも、折角あるんだし勿体無い・・・」とそれらの食材で賄おうします。思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。

しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。ここから可能性は無限に広がるのです。
私はそういう人が描いた漫画を支持したい。卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。(※ソース不明)

人の感情に触れることができなくて、なんのための文章だろう。すべての単語、すべての文に論理性と情緒性の二面がある。論理面だけで文章を評価するのは、燃費だけで自動車を評価するようなもの。ドライブの楽しさをわかってない無粋な評価法だ。

言葉の持つ情緒面に注目し、細心の注意を払って配列を決めていく。この言葉を、この順番で読めば、読者はきっとこんな感情を抱くはずだ......と、予想しながらキーボードを叩く。文章を書くのは、読者の脳をプログラミングする作業だ。他人の書いたコードを研究しないプログラマはいない。他人の書いた文章を学ばずして、文章を書くのは不可能だ。

文章屋が仕事をしてるのは、キーボードを叩いてる時だけではない。

まず情報を集める段階がある。つぎに、集めた情報を組み合わせたり取捨選択したり......知識と格闘する段階がある。
それから、情報をどのような順序で見せるか、文章の配列を決める段階があって、さらに文章の枝葉まである程度固めて......そこでようやく、キーボードに向かうことができる。文章屋がペンを握ったときには、もう作業の8割がたは終わっている。実際にキーボードを叩くのは、「文章を書く」という工程全体の5%ほどだ。

では、残りの15%は?:推敲と校正だ。

文章屋の仕事は、たぶん、そうでない人からすれば魔法のように見えるのだろう。キーボードをよどみなく叩いて、真っ白なページのうえに言葉を紡いでいく。「ゼロを1にする作業」だと思われて当然だ。しかし実際には、文章を書くのは「100を1にする作業」なのだ。

     ◆

だからと言って、キーボードを叩いてないときの文章屋が「なにもしてないように見えるけどインプットしてるの!がんばってるの!」と訴えるのは、ちょっと違うような気がする。

寿司屋は寿司を握ってる瞬間しか仕事してないように見えるけど、「仕入れや鮮度管理もがんばってるの!」とは訴えない。

寿司屋は、寿司の味でしか評価されない。

文章屋は、書きあげた文章でしか評価されない。

そういうもんだよ。

(※この記事は2013年5月5日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)