常陸の鉱山開発.1
日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。
日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。
久原の経営開始以後大きく発展し、1905年(明治38年)から閉山となった1981年(昭和56年)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなった。
日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成され、また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生しており、日立鉱山は日本の近代産業史に大きな足跡を残している。
日立鉱山の南隣には硫化鉄鉱を主に産出した諏訪鉱山があり、1917年(大正6年)に久原鉱業によって買収された後は日立鉱山の支山となり、1965年(昭和40年)の閉山まで稼動が続けられた。ここでは日立鉱山とともに諏訪鉱山についても説明を行う。
日立鉱山は宮城県南部から福島県東部、そして茨城県の太平洋側に沿って広がる阿武隈山地の南端部に位置している。日立鉱山がある付近の阿武隈山地は、高いところでも標高600メートル程度のなだらかな山地である。鉱山は宮田川の上流部に当たる赤沢谷に沿って開発が開始され、1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた。
宮田川は源流から太平洋に注ぐ河口まで約8キロという短い河川で、日本の多くの鉱山が交通の不便な山地深くに位置しているのに比べて、日立鉱山は恵まれた場所に存在していた。事実、日立鉱山の開発が本格化する以前の1897年(明治30年)には、日本鉄道によって常磐線が水戸駅から平駅まで延伸されており、また日立港も1967年(昭和42年)に重要港湾に指定されるなど鉱山に比較的近接した場所に整備され、交通の便の良さは日立鉱山の歴史に大きな影響を与えることになる。しかし鉱山の中心部は小河川である宮田川上流部の標高約300メートルの谷間にあり、精錬などの鉱山経営や鉱山で働く人々が使用する水の確保には苦労し、宮田川の支流などから貯水池に導水したり、鉱山内から湧出する水を浄化して用いるなどの対策を行った。
明治以前の歴史 佐竹氏と鉱山開発
常陸の戦国大名であった佐竹氏は、16世紀末には常陸の統一をほぼ成し遂げ、領内の鉱山開発を進めた。1592年(文禄元年)の文書には、現日立市内の大久保で金を採掘した記録が残っている。大久保の金山は佐竹領内でも主要金山であったと考えられており、日立鉱山の前身に当たる赤沢鉱山でも16世紀末から金の採掘を開始したとの説がある。
これは日立鉱山の赤沢鉱床に佐竹坑と呼ばれる坑道が残っていることや、大久保という地名は16世紀の末頃、かなりの広さを持った地域を指していたと推定されることなどから唱えられている説である。しかし資料の上からは16世紀末に日立鉱山の操業が開始されたことは確認されていない。
佐竹氏は領内の鉱山開発に積極的であったが、関ヶ原の戦いの結果、1602年(慶長7年)に秋田へ転封となった。その結果、常陸から鉱山の経営主体であった佐竹氏がいなくなったのみならず、鉱山開発と経営を担っていた技術者たちも移動してしまった。後述のように水戸藩が領内の鉱山経営に積極的に乗り出すのは1620年代の寛永年間以降であり、佐竹氏の転封から寛永年間までの間に鉱山は衰えていたと考えられる。
水戸徳川家時代の赤沢銅山
画像 赤沢銅山で産出された銅で鋳造されたとの説がある、1626年(寛永3年)水戸で鋳造が開始された二水永タイプの寛永通宝
1609年(慶長14年)からは水戸徳川家(水戸藩)の統治が始まった。現在の日立市内では水戸藩時代も金山の採掘は断続的に続けられたが、18世紀末にはほぼ休止状態となった。
1620年代の寛永年間に入り、水戸藩は領内の鉱山開発に積極性を見せるようになる。これは寛永年間には水戸藩の領国支配も安定し、1625年(寛永2年)には水戸城の修築と拡張を始めるなど、領国経営に本格的に乗り出せる状況が整ったことによる。そのような中、1625年(寛永2年)頃から赤沢銅山で銅の採掘が行われるようになった。
1626年(寛永3年)には水戸で寛永通宝の鋳造が開始されるが、赤沢銅山で採掘された銅が寛永通宝の鋳造に用いられたとの説もある。1639年(寛永16年)には赤沢銅山に銅山奉行が設置されるが、その後まもなく銅の採掘は中止に追い込まれる。
また寛永年間からの赤沢銅山の稼動によって、近隣の農村は鉱毒水による大きな被害を受けたものと考えられる。このことは江戸時代の赤沢銅山の稼動が困難となる要因となった。
1640年(寛永17年)、戦国時代に甲斐の黒川金山(甲州市塩山)の採掘に従事した金山衆の子孫である永田氏の当主である永田茂衛門が水戸藩に来て、治水や鉱山の開発に従事するようになった。永田茂衛門とその息子である永田勘衛門は17世紀後半、水戸藩内で鉱山開発を盛んに行うことになる。
17世紀後半に入ると水戸藩は財政的に苦しくなってきており、鉱山開発を行うことにより藩の財政を好転させるもくろみがあった。
1692年(元禄5年)に永田勘衛門が水戸藩内の鉱山の調査結果と開発策をまとめた「御領内御金山一巻」という文書によれば、永田茂衛門と永田勘衛門は3度に渡って赤沢銅山の開発に乗り出したことがわかる。
しかし赤沢銅山には銅の鉱脈が豊富に存在するものの、採掘によって発生した鉱毒によって再び周辺の水田に被害が発生したことに加えて、銅の価格の低下と精錬用の炭の価格が高騰して採算が取れないため、最終的に開発は断念された。
18世紀に入り、宝永年間に赤沢銅山の再開発を行い、赤沢銅山で産出された銅で貨幣の鋳造を行う計画が立てられた。この計画は江戸幕府の認可を受けることに成功し、江戸の商人から資金の提供を受けて事業が開始された。豪商であった紀伊国屋文左衛門もこの事業に参画したと考えられるが、やはり鉱害が発生して周辺の水田に害をもたらしたことと、利益を挙げることが出来なかったために短期間のうちに事業中止に追い込まれた。
また当時農村地帯であった赤沢銅山周辺に生活習慣の異なる鉱山労働者たちが集まったことによって、住民と鉱山労働者との間に摩擦も発生した。
その後18世紀後半に2回、赤沢銅山の採掘が計画されたが、いずれも鉱害問題から許可を受けられなかった。またやや確実性に欠ける資料であるが、1773年(安永2年)に幕府の許可を受けて赤沢銅山の採掘を再開したが、鉱石の質が悪くて採算が取れず、4年で中止となったとの記録も残っている。いずれにしても赤沢銅山が江戸時代には採算が取れなかったことと、鉱山操業時に発生した鉱毒被害のために開発が規制される傾向にあったことが、赤沢銅山が江戸時代に大きく発展することがなかった理由と考えられる。
幕末の1861年(文久元年)、多賀郡の大塚源吾衛門が水戸藩に赤沢銅山の開発許可を申請した。1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結され、銅は日本からの主要輸出品の一つとなっていた当時の状況から、水戸藩は大塚の申請を許可した。
この時も鉱害被害の発生を懸念した近隣住民から鉱山再開発に反対する声が上がったが、水戸藩は以前よりも技術が進歩していることを説明し、更に鉱害が発生した場合には大塚源吾衛門に補償させるとして住民を説得した。
大塚の赤沢銅山の経営は比較的順調で、「銅山会所」「大塚会所」などと呼ばれるようになった。
大塚の赤沢銅山の経営は比較的順調で、「銅山会所」「大塚会所」などと呼ばれるようになった。
これは赤沢銅山で産出される銅を水戸藩の専売品とするばかりではなく、銅の生産そのものを藩の統制下に置くために会所という組織を取らせることになったものと考えられる。
しかし1864年(元治元年)に発生した水戸藩内の内紛である天狗党の乱の際、天狗党の田中愿蔵が逃亡途中に赤沢銅山会所に食料の援助を要請したところ大塚源吾衛門が拒否したため、田中愿蔵は鉱山の生産設備を破壊した上に火を放ったため、赤沢銅山の経営は中断された。
日立鉱山の誕生
久原房之助の登場
久原房之助は1869年(明治2年)山口県萩市に久原庄三郎の三男として生まれた。久原庄三郎は藤田組の創始者である藤田伝三郎の実兄で、藤田伝三郎と久原庄三郎、そして二人の実兄である藤田鹿太郎の兄弟3人が出費して1881年(明治14年)に設立された藤田組は、軍用物資の調達や土木建築業から1884年(明治17年)には小坂鉱山の払い下げを受け、その後鉱山業を中心として多角的な事業展開を行う財閥へと成長した。
久原房之助は1891年(明治24年)に小坂鉱山に赴任し、精鉱課長や坑業課長など主に採鉱や精錬の現場で実績を積み、1900年(明治33年)に小坂鉱山の所長に就任した。当時、小坂鉱山は日本有数の銀の産出量を挙げていた鉱山であったが、銀の価格の低落と生産コストの増大で次第に経営が困難になっていき、その上、1897年(明治30年)の金本位制の復帰によって銀の価格は更に低落し、小坂鉱山は閉山の危機を迎えていた。
久原は当時、組成が複雑であるために精錬が困難で利用されずに放置されていた黒鉱に着目した。後に日立鉱山でも久原を助けることになる竹内維彦を招聘し、黒鉱の精錬法の研究を重ねた結果、1900年(明治33年)黒鉱から銅を精錬することに成功し、小坂鉱山は銀山から日本有数の銅山として蘇った。なお久原房之助のもと、小坂鉱山で働いた人物としては、竹内以外にも後に日立製作所を創立する小平浪平などがおり、多くの有能な人材が日立鉱山の創成期に活躍することになる。
小坂鉱山の再建に成功した久原房之助は、1904年(明治37年)に小坂鉱山から大阪の藤田組本社に戻り、翌1905年(明治38年)3月には父、庄三郎が隠居をしたため久原家の家督を引き継ぎ、藤田組の取締に就任する。しかし叔父である藤田伝三郎と藤田組の後継問題を巡り対立し、もともと独立して事業を興す機会を窺っていた久原は分与金の配分を受けて藤田組を退社することになり、1905年(明治38年)12月10日、正式に退社した。
藤田組で働いている最中から久原房之助は独自の事業展開をもくろみ、国内の鉱物資源について広く調査を行わせていた。そんな久原が目をつけたのが赤沢銅山であった。当時赤沢銅山を経営していた大橋真六と松村清吉、常二の親子は経営難と鉱害問題での周辺住民とのトラブルなどで経営の意欲を失いつつあった。
久原は赤沢銅山の売却希望を聞きつけると、ただちに竹内維彦らを調査のために派遣した。調査の結果、既知の鉱脈以外にも多くの鉱脈の露頭を発見し、推定埋蔵量約100万トンの有望な鉱山であることを予想した。
調査に当たった竹内らは久原房之助に購入を進言し、その結果藤田組を退社した翌日である1905年(明治38年)12月11日、久原は赤沢鉱山を購入した。12月26日には赤沢銅山の名は鉱山の所在地である日立村にちなんで日立鉱山と改められた。竹内維彦らがその将来性を評価して久原房之助に購入を勧めた結果、日立鉱山は久原房之助が所有することになったが、実際の日立鉱山は閉山までに約3000万トンの鉱石を採掘しており、竹内らの予想を遥かに上回る規模の鉱山であった。
創業時の苦心
日立鉱山創業当初、久原房之助が起居した久原本部。現在、日鉱記念館敷地内に移築保存されている。
藤田組から独立して日立鉱山を購入した久原房之助は、まず1906年(明治39年)1月1日に鉱山事務所の規則や勤務心得を作成するなど鉱山の組織を整備し、続いて2月には第一立坑の開鑿を開始し、鉱山附属の診療所を開設した。
続いて9月には里川の水利権を茨城電気会社より取得して、中里発電所の建設を開始するなど矢継ぎ早に鉱山の整備を進めた。
また赤沢鉱山時代に地域住民との間でトラブルになった鉱山近隣の森林伐採問題についても、鉱山事業拡張のための用地確保と建築資材を入手するために森林伐採を行うことを計画した。
久原は住民たちと交渉を積極的に進め、その結果森林の伐採を行う補償として毎年200円を支払うことと、15本の井戸を掘る代金として300円を支出することを条件に保安林の指定解除で合意し、保安林指定を申請した地元住民の名で指定解除の申請が茨城県知事に出され、1906年(明治39年)9月に県より保安林解除の告示がなされた。
このように日立鉱山の創業直後から精力的な鉱山開発が行われていったが、当初、生産は上がらず、その上5月には赤沢銅山以来の従業員が久原の鉱山経営に反発し、同盟罷業を行う事態が発生した。
また藤田組から離れるにあたって久原が受け取ることになった分与金は470万円余りであったが、これは10年分割で支払われることになっていた。久原は赤沢銅山の購入に総計42万円余りを費やしており、創業直後の日立鉱山の経営や積極的な鉱山開発を進めていくためにはどうしても資金の調達が必要になった。
しかし当時の財界は久原のことを重く見ていなかったため、資金調達にも悩まされることになった。小坂鉱山での実績があるといっても、久原はまだ独立して事業を開始したばかりの30代の青年であったわけで、これはやむを得ないところであった。そこで父、庄三郎以来の交流があり、久原房之助のことを高く評価していた長州閥の大物、井上馨の援助を仰ぐことになった。
しかし井上も当初ものになるかどうかわからなかった日立鉱山に対して無条件で援助をするはずがなく、鉱山開発の具体的プランと将来性を証明する具体的な資料を求めてきた。
久原の手によって開発が開始されたばかりの日立鉱山に、井上を納得させることが出来る開発の具体的プランや何といっても将来性を証明する具体的な資料があるわけはなく、久原は自ら採掘現場に出向き、坑夫らとともに採掘に従事して現場から井上が求める具体的な資料を入手しようとも試みたという。
そこで久原はやはり父の代から取引があった鴻池財閥の援助を求めることになった。鴻池は融資について承諾はしたが日立鉱山の経営の参画を強く求め、その結果1906年(明治39年)5月、毛利家の鉱山経営の実績があった神田礼治を日立鉱山の所長として送り込んできた。
しかし積極的に日立鉱山を開発しようとする久原と堅実な開発を志向する神田は激しく対立するようになり、断層によって鉱脈が途切れ、日立鉱山には見込みがないと判断した神田は鉱山開発中止を久原に進言するに至り、結局1907年(明治40年)3月、一年足らずで神田は所長を辞任することになる。また神田とともに日立鉱山にやってきた中堅の技術者たちも全員辞職した。
窮地に陥った久原を救ったのが小坂鉱山で久原のもとで働いた人々であった。第二代所長として久原は小坂時代からの右腕である竹内維彦を任命するなど、多くの人材を小坂鉱山から引き抜いた。
小坂鉱山では職員だけでも40名以上が日立鉱山に移り、「小坂勢」と呼ばれるようになった。社員のみならず多くの優秀な鉱夫も小坂鉱山から日立にやってきたと考えられている。
そして1908年(明治41年)2月、井上馨が日立鉱山の視察に訪れることになった。井上の視察の直前に当時日立鉱山で最も期待をかけていた鉱脈が断層にぶつかり、途切れてしまうというハプニングが起こったが、優秀な鉱夫を2時間交代で24時間体制で採掘に当たらせ、断層の先に鉱脈を再び捉えることに成功した。視察を行った井上は日立鉱山を評価し、井上からの援助は実現することになった。
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